今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

富士見と富士見坂(4)の1 日暮里花見寺と文化11年のダイヤモンド富士(1)

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岩手県遠野に伝わる話である。

「土淵町柏崎1地割水内(柏崎の西側)に阿修羅堂と呼ばれる社がある。建立時期は不明。悪神を追い払い、善神を呼び寄せるという信仰から生まれたもので地域開発にあわせて建立されたとの説あり。また、ご神体の阿修羅観世音菩薩は、木食上人の弟子の「はくどう」(漢字不明)が綾織町山口にご神体を建立後、立ち寄って製作したものとされている。」(註1)

この話は、柳田国男の収拾した遠野の昔話、伝説集である『遠野物語拾遺』の中にも収められている。

『遠野物語拾遺』柳田国男『遠野物語増補版』郷土研究社 1935よりのコピー

『遠野物語拾遺』柳田国男『遠野物語増補版』郷土研究社 1935より

「五二 又同村【土淵村】柏崎の阿修羅社の三面の仏像は、御丈五尺もある大きな像であるが、此像をやつぱり近所の子供等が持ち出して、阪下の沼に浮べて船にして遊んで居たのを、近くの先九郎どんの祖父が見て叱ると、却つて阿修羅様に祟られて、巫女を頼んで詫びをして許してもらつた。」(註2)
そして今でも遠野に語り継がれ、管理者である阿部重斉氏による地元での伝承が記録されているので引用する。

「正式には阿修羅観音菩薩というのだが、土地の人は「オアシュラサマ」とのみ呼ぶ。昔このオアシュラサマを子供たちが引っ張り出しては堂のすぐ下にある池(今は涸れてしまっている)に持って行き、水をかけたりして遊んでいた。ある時、その場に通りかかった信者がその光景を見て子供たちを叱りつけた。そこにオアシュラサマが現れ「私は好きで子供たちと遊んでいるのだから止めるな」とい【う】ことで、逆に信者の方が叱られてしまった。」(註3)
ただし、『注釈遠野物語拾遺(上)』によると、
「1 阿修羅様 社殿、仏像ともに柏崎水内の丘上に現存する。
 2 先九郎どん 阿修羅社のある水内に先九郎どん(阿部勇進)という屋号の家がある。その家にまつわる話であろう。」

「五二話の阿修羅王は、奥羽の原始信仰である胡四王の転で、アシワラの仏格化にほかならない。また、阿修羅堂は方言ではアシラゴォと呼ばれ、近くを流れる足洗川(アシラガァ)も亦これと関係があると思われる(『遠野のくさぐさ』一‐六二)

三面六臂の阿修羅像は、田中円吉(『物語』二六話の彫刻師)の作になる。語り部の佐々木イセ(昭和五年生まれ)は、子供のころ実際にその像で遊んだのを見たことがあるという。なるほど像の片腕が欠けている。また、堂下にあった沼は全く干上がってしまった。が、一〇メートル四方ぐらいの沼跡を、杉林の中に見ることができる。」という像の作者に関する有力な証言が載せられており(註4)、「木食上人の弟子の「はくどう」(漢字不明)」の作という伝承は、事実とは違うのかもしれない。伝承の変形と見るべきであろう。

木食白道(もくじき びゃくどう)は、1755(宝暦5)年、甲斐国山梨郡上萩原村大字下ノ切字上原(わはら)に生まれる。7歳の春、病父小野与左衛門とともに六十六部として西国三十三箇所、四国八十八箇所の巡礼の旅に出る。途中「いよの国とかやニて父相果、みなし子と相成候処、海道ゟ四五里も引込候所之者、神のまへの何かしとかや、ひろい上ケ養ひ置候よし」(註5)なお、「ゟ」は「より」の合字体で「より」と読む。

やがて「実の母有之事をしたひ何卒一度対面いたし度、恋しく存候ニ付、養父之もとを致出本、六十六部と成国々相廻り候」(註6)とのことで、母との再会を果すため、巡礼を再開する。佐渡、越後、信濃を経て、いったん甲斐に戻るが、廻国を続け、1773(安永2)年六月ごろ、伊豆国で木喰行道に出会い、その弟子となったらしい。

木食上人とは、五穀と塩を断ち、火食および肉食を避け、木の実や草のみを食べる木食行を行ない、木食戒を受けて各地を遍歴した修行僧をいう。彼らの目的は、最終的に生きながら地中に埋められ、即身仏となる「入定」であったといわれる。(註7)歴史上宗派を超えて多くの木食上人が存在するが、柳宗悦に見出された木喰行道は、今日では最も有名である。木食白道は、木喰行道より木食戒の法流を受け、師にしたがって納経の旅に出る。

残された記録によると、両人は上野(榛名山、妙義山)、常陸(筑波山)、陸奥、出羽(高岳山、鳥海山、出羽三山)を経て、松前に渡っている。松前の和人地で2年間を過しているが、「一年を通して着物は一枚のみで、寝る時には布団は着ずにそのままで横になったという」から(註8)、酷寒の北海道の冬をどのようにして生きのびてきたのだろう。

いずれにせよ、この厳しい自然の中で木食白道は造仏を開始、師木喰行道もまた仏像を作りはじめる。このとき木喰行道は61歳で、全国に残る1,000体以上と言われる「微笑仏(みしょうぶつ)」は、彼の死までに制作されたものである。いっぽうの木食白道の作仏も160体以上が残されている。

1780(安永9)年、師弟は松前から海を渡り、陸奥、下野を経て信濃で師と別れ、木食白道は諸国廻国ののち故郷に帰る。遠野での作仏が真実とすれば、松前からの帰路の話であるらしい。故郷では、母、妹と再会するが「五穀は一切食べず、蕎麦、もろこし等も一盃、茶も呑まず湯も一盃という木食戒を実践する白道の様子は、家族をはじめ周囲の者たちを驚ろかせた」という。(註9)

木食白道は「在所ニしばらく居、間もなく三ツ川山江入り、とちの木を切、自分斗ニ而返しこなし等致、たけ七尺余ゟ六尺斗り之地蔵之立仏躰六躰きざみ」生家や親戚に与え、「少仏弐尺三尺五寸三寸等之仏ハ極りも無クきざみ、所望之輩江何程も呉遣し」と活発な作仏活動を開始する。また、病人には「いたみ煩候もの筆を以まじない之願」をする。「勿論礼物銭等之品一切取不申きびしくいたし、参銭参米等も取あつめ置、乞食六部に呉遣候」とくれてしまう。噂が広まり、「甲府・西郡ハ不申ニ及、郡内・信州・駿州勿論国中ハ男女子供迄参詣不致者ハ無之趣」という熱狂ぶりを見せるまでになる。盆後には「一夜之賽銭廿四五貫・三十貫」にもなり、「夜ごもりの信者が千人八百人杯と申、法幢院本堂えんがわ迄おし合、千野橋通り・赤尾橋通り・所々通り筋、茶見せ水菓子売休所餅そばそうめん等之出見せ」などが立ち並び、「繁昌之あまり八月ゟ法幢院於寺中かぶき芝居」まで開催された。(註10)

抜群のプロモーションの実力を見せた木食白道であったが、「白道がこの地に入り半年間、静かな村が信仰と呪を通して人々の心を救い、このことによってにわかに繁栄した法幢院に対して、本寺や曹洞宗の僧録司であの【る】大泉寺・広巌院から何かと言掛りをつけられ、咎められて十一月はじめには法幢院を追われて」しまう。(註11)これは「本末体制という規則を無視して、独自に活動した」ことにたいするペナルティであったという。(註12)

恵比寿大黒天版画 46×32cm 個人蔵 『特別展 多摩の微笑仏―木食白道―』図録よりのコピー

恵比寿大黒天版画 46×32cm 個人蔵 『特別展 多摩の微笑仏―木食白道―』図録より

1794(寛政6)年、木食白道は日暮里の青雲寺の住職谿洲宜磻の弟子となって住僧となる。(註13)当時念仏講中の人々に配った護符には、
「武州豊嶋郡日暮里青雲寺谿洲和尚
菩薩戒弟子 木食上人白道」
とある。(註14)

また木食白道は、青雲寺の本堂聖観音菩薩像と鎮守金毘羅本社拝殿建立のため、江戸市中から多摩地方まで勧進のため廻り、金銭や建築用材の寄進を募っており、寄進者には建立成就の暁には家運長久、子孫繁栄、五穀成就を祈念したお札を差し出すと述べている。青雲寺は、日暮里の花見寺と呼ばれる3つの寺院のひとつである。『聖観音本堂鎮守金毘羅本社拝殿建立』と題された勧進帳に書かれた趣旨によると、

「甲寛政六歳【1794年】
聖観世音菩薩本堂
鎮守金毘羅本社拝殿建立
  月  日

本尊聖観世音菩薩は、西国巡礼の札所弐拾八番丹後国成相てらの尊像を写す。しかるに宝暦の頃さる御家に伝へて有し、壱寸八歩作仏霊験あらたか成ゆへ俗家の不浄をおそれ、此寺に奉納ありしを躰中にこめて参詣の諸ひと、結縁有にとふと間【問カ】ず云ふものなし、幾年を経て本道大殿におよぶ。

さてまた鎮守金毘羅大権現は、そのかみ太田氏道灌入道勧請のよし、社地ありと云えども、御神躰御座なく、よりて先年京都安井御門室へ手寄崇徳金毘羅大権現の尊像を勧請して、仮に社を建安置しまつる。

今般右本堂再建并金毘羅の本社拝殿建立のため、万人講相企、十方諸信心力を以成就仕度心願に御座候間、何卒御信仰のかた〱は、金銀米銭材木敷石瓦其外御神具の類にても、多少にかぎらず御寄進御助力の程こひねがふことに候。堂社造営成就致し候はば、毎年正、五、九月并三月六月十月三季御祭礼怠まんなく、講中の家運長久子孫繁栄五穀成就の祈念丹誠して御礼等差出し候間、御参詣の節御ことはり可成候。仮令一紙半勢んの施たり共信仰の御面〱は、御姓名此さつに御しるし被下さるやう相ねがひ候以上。

   寛政六年寅【1794年】正月日
        江戸日暮里青雲寺中
         願主 木食白導」(註15)

また、自筆の『木食白導一代記』によれば、「其後江都に来て、音羽のあたりに庵居し、護国寺の境内西国拾三番の観世音を建立する折節、日暮里青雲寺の二世谿洲和尚の招に応し、爰に来て、寛政六のとし寅【1794年】の春よりおもひ立ちて、観音堂并金毘羅の本社・拝殿を勧進するに、年月を経すして建立成就す」と回顧している。(註16)

「道灌舩繋松」「清雲寺安置大黒天恵比須木像」近藤義休『新編江戸名所図誌』『江戸地誌叢書巻五』より、原図は彩色のコピー

「道灌舩繋松」「清雲寺安置大黒天恵比須木像」近藤義休『新編江戸名所図誌』『江戸地誌叢書巻五』より、原図は彩色

『江戸名所図会』の「日暮里惣図」には「ほてい」「ゑひす」「大黒」と書かれた諸堂が見え(註17)、他に弁天堂もあった。(註18)木食白道作の恵比寿大黒天像や七福神版画は各地に残されており(註19)、弥永浩二氏は青雲寺の恵比寿や七福神めぐりにも白道が大きく関わっていた可能性があるという推測がたつかもしれ」ないという(註20)が、現存する青雲寺の恵比寿像も修性院に移った布袋像も明らかに木食白道の作ではない。

七福神は、当時の流行神であるが、木食白道は『七福神の由来』という由来書を板行しており、その中で次のように述べている。

「過にし天明三ツ卯【1783年】の秋実のらず、世上飢饉して民の煩ひおゝかたならず、夫食をねがひ人気おだやかならねば我恐れ多くも天下泰平国家安全を天にいのり、次には在国の民わづらひ少なからしめんことを仏神に誓ひ、寒風雪吹の高根に座禅して四十八日の大願をすすみつれば、翌辰歳旦なりほの〲と夜もあけんとする折ふし、座禅に眼をふさげば、夢となく現ともなく、甲州の通宝水波のごとくなりて、船二隻をならべ、我其船に竿さして見おろせば、甲斐の国なり、ふと眼をひらけば、はや東雲して光耀を催す居直りて合掌する時に日輪上らせ玉ふ。

続いて国宝円角の黄が年飛散る中に、雲は船形を成して七福の御神あり〱とあらわれ、暫時して一同ならせ玉ふ。誠に身の毛いらだちてもったいなく、有難しといふもおろかなり。あまりの嬉しさに雨露をしのぐ笠に用意の板をはづしおがみし有る図をそのまゝ我つたなき小刀にほりて板に摺り在国に配りしかば、天の恵玉ふをかんどくして信を増し、歌をとどめてよろこびの声を発し、今ぞ豊饒のおもひ志す事を近国にうらやみ、我草庵に来りて乞う人少からず、いなむにはあらねど寿をねがふて、仏果をはげみ福を祈りて飢をたすけ心すなほなる事をすゝむる傀儡にまかせ、一紙をあたふものなり。

       甲斐の木喰 白導」(註21)

ここで「寒風雪吹の高根」と書くのは、富士山の風穴のことである。先述の自叙伝に「去る卯の年【1783(天明3)年】諸国飢饉して人気おたやかならず。我国家安全を天に祈り、在国の民わづらひ少なからしめん事を仏神に誓ひ、冨士山御鉢量の内、横穴に寒前より大晦日迄四十八日籠り、翌元旦日の出に七福神を拝む。有難さにそのまゝ図して、その訳を書そへ諸人に施す。」とあり(註22)、天明の飢饉の救済を目的として行に入り、翌年元旦に七福神が顕現したことが分かる。

七福神版画 32.6×47cm 個人蔵 『特別展 多摩の微笑仏―木食白道―』図録より

七福神版画 32.6×47cm 個人蔵 『特別展 多摩の微笑仏―木食白道―』図録より

以上、長い間ほとんど誰にも知られていなかった木食白道の日暮里での活動が、日本中に残された足跡とふんだんに存在した文字記録によって明らかになり、ほぼ一生涯にわたる伝記をも再構成することが可能になった。

江戸期の青雲寺は、境内に荒川区立西日暮里公園を含む広大な寺域を擁し、寺域内には諏訪台最高地点である「見晴し」を有していた。青雲寺内に勧請された現世利益をもたらす神仏の数は、「聖観世音、富士権現社、護国稲荷社、其角亭、布袋堂、穴弁才天」(註23)、のちには「観音堂秋葉熊野稲荷浅間弁天大黒恵比寿布袋堂等」(註24)と、近隣他寺を圧倒しており、流行神仏のデパートメントストアといっても過言ではない状況にあった。「其角亭」は、おそらく蕉門の俳諧師、宝晋斎宝井其角を祀ったものであり、柳沢信鴻の『宴遊日記』には「宝晋堂」と見える。(註25)また、境内には道灌船繋の松、曲亭馬琴の筆塚やその他の石碑類、亀川泰照氏が「日暮里惣図」中から発見した「力石」もあり(註26)、物見遊山のアミューズメントパークでもあった。『新編江戸名所図誌』によれば「弁天社 江の島を模し岩窟をなし寺中に鎮座 観音堂 山上にあり二ツ観音の鋳型を奉造なり 秋葉社 布袋堂 弁天本社 恵比寿 大黒 日暮宮 愛敬虎観音」などが祀られ、「是らの社ミな山上に安置なり明和(1764‐1772年)の比より境内を切開庭を作り坂道を経て山上へ登る参詣の老若群集をなす」とあり(註27)、諸堂は丘陵上に配置、段丘崖を作庭し、散策路としていたのだが、庭園の築成は、妙隆寺(1748)、修性院(1756)の近隣2寺より遅く明和(1764‐1772)の頃であったという。

青雲寺が木食白道をプロモータとして招聘したのには、その前年の1793(寛政5)年、寺内の「八ヵ所の家作の建続願を出したが却下され、家作残らず取り払いを命ぜられた」という事情があった。(註28)このため、財政的にも逼迫した青雲寺は、資金の確保と観光資源の創出を目的にしていたと考えられる。

青雲寺

青雲寺

さて、この新堀村の青雲寺を好んで訪れた人物があり、その訪問の記録を詳細に日記にとどめている。大和郡山2代藩主を致仕(引退)、隠居した柳沢信鴻(俳号・米翁)である。彼は隠居後の生活の場を駒込の下屋敷に定め、愛妻お隆や側近とともに生活した。祖父柳沢吉保の造営した広大な庭園(六義園)を場に、お隆とともにガーデニングや山菜摘み、栗拾い、茸狩り等を楽しみ、寺社参詣、近郊散策、俳諧、和歌、読書、写本、音曲、芝居見物や、家中での芝居実演など、多彩な趣味の日々を送る。俳諧仲間の中には、銀鵞(姫路藩酒井雅楽頭忠以)、菊貫(松代藩真田伊豆守幸弘)など大名の友人もいた。柳沢信鴻が1773年1月23日(安永2年1月1日元旦)から1785年2月8日(天明4年12月29日大晦日)まで、克明に書き残した『宴遊日記』により、当時の新堀村の姿を見てみることにしよう。(註29)

 

※なお、和暦の西暦(グレゴリオ暦)への換算には、株式会社まえちゃんねっと「和暦、グレゴリオ暦、ユリウス暦、ユリウス日などの相互変換を行うWEBツール 【換暦】」を使用しました。記して感謝を申し上げます。

※2014年5月25日、笹尾哲雄『近世に於ける妙心寺教団と大悲寺』文芸社 2002により、道号谿洲の戒名「宜磻」を追加しました。

 


 

註1 「阿修羅堂」「「遠野」なんだり・かんだり」サイトによる
註2 『遠野物語拾遺』、柳田国男『遠野物語増補版』郷土研究社 1935
註3 木下達文『木食白道―甲斐の造仏聖』山梨ふるさと文庫 1990
註4 石井正己監修 遠野物語研究所編著『注釈遠野物語拾遺(上)』遠野物語研究所 2011
註5 『萩原木食繁昌』1781、塩山市史編さん委員会『塩山市史 史料編 第2巻 近世』塩山市 1995による
註6 『萩原木食繁昌』1781、塩山市史編さん委員会『塩山市史 史料編 第2巻 近世』塩山市 1995による
註7 木下達文『木食白道―甲斐の造仏聖』山梨ふるさと文庫 1990、清雲俊元「木食白道考」『木食白道 知られざるもう一人の木食』山梨ふるさと文庫 2008
註8 木下達文『木食白道―甲斐の造仏聖』山梨ふるさと文庫 1990
註9 清雲俊元「木食白道考」『木食白道 知られざるもう一人の木食』山梨ふるさと文庫 2008
註10 『萩原木食繁昌』1781、塩山市史編さん委員会『塩山市史 史料編 第2巻 近世』塩山市 1995による
註11 清雲俊元「古日記にみる木食白道」『甲斐路』第26号 山梨郷土研究会 1975
註12 木下達文『木食白道―甲斐の造仏聖』山梨ふるさと文庫 1990
註13 菱山栄三郎「多摩に埋もれる微笑仏~木食白道~」福生市郷土資料室『多摩の微笑仏―木食白道―』福生市教育委員会 2001
註14 木下達文『木食白道―甲斐の造仏聖』山梨ふるさと文庫 1990、清雲俊元「木食白道考」『木食白道 知られざるもう一人の木食』山梨ふるさと文庫 2008
註15 木食白道『聖観音本堂鎮守金毘羅本社拝殿建立』1794、曽根原駿吉『木喰白道』木耳社 1975による
註16 木食白道『木食白導一代記』1796、西川広平 近藤暁子「資料紹介『木食白導一代記』」『山梨県立博物館研究紀要』第3集 山梨県立博物館 2009による
註17 斎藤月岑『江戸名所図会 巻之五 玉衡之部』
註18 梅亭文貫「札所廻」1771、『東京市史稿 遊園篇 第弐』東京市役所 1929等
註19 「現存作品および関連資料」『木食白道 知られざるもう一人の木食』山梨ふるさと文庫 2008
註20 弥永浩二「日暮里の勧進聖 企画展こぼれ話」『荒川ふるさと文化館だより』第10号 2003年3月31日
註21 木食白道『七福神の由来』、曽根原駿吉『木喰白道』木耳社 1975による
註22 木食白道『木食白導一代記』1796、西川広平 近藤暁子「資料紹介『木食白導一代記』」『山梨県立博物館研究紀要』第3集 山梨県立博物館 2009による
註23 梅亭文貫「札所廻」1771、『東京市史稿 遊園篇 第弐』東京市役所 1929、ただし同書では「日暮主 月運寺」と誤読している、正しくは「日暮青雲寺」
註24 『新編武蔵風土記稿 巻之十八』(1828成稿)内務省地理局 1884
註25 柳沢信鴻『宴遊日記』安永3年11月7日、安永6年3月9日の各条、西山松之助 服部幸雄責任編集 芸能史研究会編『日本庶民文化史料集成 第十三巻 芸能記録(二)』三一書房 1977所収
註26 亀川泰照「今日のこの人➃ 「日暮里惣図」の中で何か持ち上げている人」『荒川ふるさと文化館だより』第27号 2012年3月30日
註27 近藤義休『新編江戸名所図誌 前編 巻之五』文化年間(1804~17)頃成立、長沢規矩也 財部建志 前島康彦責任編集『江戸地誌叢書 巻五 新編江戸名所図誌』有峰書店 1974 による
註28 『年貢地古跡寺帳』、『荒川区史』東京都荒川区 1989による
註29 以下、日記からの引用は、西山松之助 服部幸雄責任編集 芸能史研究会編『日本庶民文化史料集成 第十三巻 芸能記録(二)』三一書房 1977による

※本文に青雲寺の寺域に現荒川区立第一日暮里小学校を含むと記載しましたが、第一日暮里小学校は修性院の寺域であったことが判明しましたので、削除訂正しました。

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