今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

3.11から5年、「日暮里富士見坂」のビル津波と正岡子規の「明治三陸地震津波」

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「日暮里富士見坂」の上に立つと足がすくむことがある。ビルの群が富士山を遮って坂に押し寄せて来る。ビル津波だ!
3.11東日本大震災から5年。宮城県南部の海岸の町に実家を持つ私には、あの時の恐ろしさ、辛さがよみがえる。津波は、私の大事な大切な子供の頃の原風景をべロリと持ち去って返してくれない。津波はふつーに暮らしていたふつーの多くの人達の命と生活を、根こそぎカッさらっていった。そして原発、人間自らが作った目に見えない毒がダメ押しで迫って来た。この恐怖は今もこれからも、はてしなく現在進行形だ。
それでもあの時、私達はしっかりと感じ、分かったのではなかったか。ささやかな幸せがいかに貴重で大切か、人は尊重し合い助け合って生きよう、真に大事なものを見極めよう。お金儲けや成長戦略なんて、吹けば飛ぶようなちっぽけな価値に過ぎないと。
しかし、「日暮里富士見坂」のビル津波は、3.11で感じた筈のこんな思いを全く無視し、なぎ倒し、富士山を遮り、迫って来る。
富士山を眺めて「きれいだね」と語り合う、感動を分かち合う、ほっとなごむ、元気が出る・・・やっぱりこういう場所があってこそ人が生きる本当の町だ。ビル津波は3.11に何も学んではいない、しかも人間が作っている津波だ、これはダメだ。
昨年2015年3月に仙台の出版社「荒蝦夷」が刊行した『震災学 vol6』に書いた「正岡子規の明治三陸地震津波」に少し手を加えて「日暮里富士見坂」バージョンにして、以下に掲載させて頂く。明治の大地震津波の時の正岡子規の俳句と、中村不折の奮闘取材画に、3.11で傷ついた心が救われた経験を書いた。二人のプロフィール紹介が少し長いのはご勘弁頂く。今、明治の大地震津波を思い起こす事も重要だ。
子規が「日暮里富士見坂」あたりを散歩していたころ、ビル津波は当然迫っていなかった。

―正岡子規の明治三陸地震津波―

3.11東日本大震災。私は東京の勤務先ビルの7階にいた。揺れの激しさはただ事ではない。震源地は東北とカンが働き、身を潜めたデスクの下から顔だけ出してパソコンを叩いた。はたして。即、宮城県亘理町の両親に携帯で電話、もう繋がらない。亘理の隣、山元町の叔母にも通じない。やがてパソコン画面は、子供の頃から見慣れた海岸を舐めるように襲う津波を映し出した。それから十日以上を肉親の安否確認に右往左往し、報道で伝えられる凄まじい惨状になすすべもない。ただオロオロの日を長く暮した。
そして、時は明治29年(1896年)6月15日、夜七時半過ぎ。旧暦で端午の節句の祝日だった。宮城県北部から岩手、青森の三陸沿岸を大津波が襲う。明治期最悪の津波災害「明治三陸地震津波」である。死者行方不明者約二万二千人。新聞「日本」は、正岡子規を編集キャップにして、被災現地取材を企画。(注1)画家中村不折と俳人でもある五百木瓢亭の二人を仙台からの北上隊に、八戸出身の記者浅水南八を八戸からの南下隊に派遣する。これは、その時の正岡子規と中村不折の話である。二人は「日暮里富士見坂」の東側、根岸の里に住んでいた。
ところで、「明治三陸地震津波」から遡ること2年前の明治27年夏の終わり。旅好きの正岡子規は、画家の中村不折を王子権現の祭見物に誘う。当時、王子の町は、汽車で上野駅から一つ目。名所飛鳥山や滝野川渓谷もある。「王子紀行」なる短い文章を新聞「日本」に書いている。新聞「日本」とは、子規を生涯に渡って後見した青森県人の陸羯南が神田で主宰する新聞で、子規は25歳で入社以降、ここが自身の表現の舞台となる。「王子紀行」で、子規は不折に「君の画と自分の俳句の腕比べの旅にしよう」と提案する。いったい俳句と画と何をもって比べるのだろうか。結局、不折は傑作揃いの10枚以上を描いたが、自分は止むを得ずの数句のみで「俳句が画に負けた」としている。しかし、ドナルド・キーンによれば、「王子紀行」の中の一句こそ、正岡子規の俳句の本質と言われる「写生句」の最初の試みであると分析・評価している。(注2)後に子規が獲得する俳句哲学「写生句」、“単に美と感ぜしめたる客観の事物ばかりを現はすに至たるなり”“客観の事物許りを現す”(「我が俳句」)である。「王子紀行」は、実は子規の「写生句」誕生と、不折との関係を示唆する重要な小旅行だった。
「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」。誰もが知る子規の代表「写生句」は、不折の薦めで立ち寄った奈良で得た一句だ。中村不折という人は、子規より一歳年上。長野出身の洋画家だが、夏目漱石「吾輩は猫である」や、島崎藤村「若菜集」の挿絵や表紙で有名な挿絵画家でもある。さらに膨大な書道資料を収集して、昭和11年には子規の終の棲家「子規庵」の向かいに「書道博物館」も建立する。自身の書も現代書の発芽を彷彿とさせる独特の書体で、書道家としても傑出し、森鴎外の墓石も不折の書になる。新聞「日本」のいわば姉妹紙「小日本」の編集責任も担っていた子規は、まずは「小日本」に挿絵を入れることを発案して不折を採用する。“記事に従属しない「画」による報道”を求めたものだった。二人は一目会った時から主義主張がピッタリ合ったという。以後互いに肝胆相照らし、尊敬し合い、付き合いを深めていく。それまで子規は、芭蕉以降の俳句について「月並みで低俗な風流趣味」と喝破、「俳句は文学の一部なり」と革新運動を起こし、新しい俳句を模索していた。そして到達するのが、不折の画からインスパイアされた「写生句」である。
「王子紀行」から二年、「明治三陸地震津波」発生。子規自身こそが被災地取材に赴きたかったらしい。しかしこの時、以後亡くなるまで続く約5年の病床生活が始まっていた。左腰は膿で腫れ、高熱と強い痛みも本格化、結核性脊髄カリエスの診断が下され、歩くことさえままならない。さぞや無念だったろう。「三年前には東北旅行した俺なのに!」と。(注3)五百木と浅水は災害の取材記事を、不折は現場スケッチ画を、新聞「日本」の子規に送り続ける。記事は電信を利用出来た時代だが、画はまだ木版刷りの過程を経ざるを得ず、大きな苦労を伴う送信だった。
新聞「日本」は、津波発生から約1週間後の明治29年6月24日に、まずは浅水南八による「戦場ならぬ修羅場に赴く」の記事と、中村不折の取材画「志ヅ川町分署雑踏」他2枚の掲載を開始。(注4)6月29日版には正岡子規自身による俳句14句を含む記事「海嘯」を掲載する。(注5)以下が全文である。

「海嘯」全文図

「海嘯」全文図

子規は、不折の取材画と記者からの情報に、存分に想像の翼を広げ、被災地を正確、適格に俳句に写生する。その想像力に支えられた感受性と理解力に驚嘆する。
私が「海嘯」に出会ったのは、震災2年後の2013年4月に仙台文学館で開催された特別展「正岡子規 みちのくの旅~はて知らずの記」だった。松山市の子規記念博物館から提供されていた句稿は、朱墨になる。その頃の私の精神状態といえば、それはまるで細胞一つ一つが異なる大きさで歪んで複雑に絡み合い、凸凹状に膨らんでいくようで、これが何なのか整理も理解も出来ずにもて余し切っていた。
菖蒲葺いて津波来べしと思ひきや / 若葉して海神怒る何事ぞ
大自然の脅威への素直な驚きと畏敬、予知できない無力な人間という実存。これを率直に、直球で詠む子規。「良民何の罪かある。馮夷すべからく罰すべし」の文章も挟む。そうだ、私はずーっと悶々としていたのだ。「どうして?なぜ?理不尽ではないか!」と。胸の歪な細胞の一つが整理された。
ごぼごぼと海鳴る音や五月闇 / 短夜やほろほろ燃ゆる馬の骨 /
  あら海をおさえて立ちぬ雲の峰 / 晝顔にからむ藻屑や波の音
ここにひろがる光景は、季節こそ違え、東日本大震災と全く同じであることが私達には分かる。
子規の感受性は、被災地に生き残った人々の苦悩を共有し、深く悲しむ。草稿の朱墨は鎮魂の表現ではなかったか。
時鳥救へ救へと声急なり / 皐月寒し生り残りたるも涙にて / 生き残る骨身に夏の粥寒し / 五月雨は人の涙と思ふべし / 此頃は蛍を見てもあはれなり
そうだ、私はひたすら悲しいのだ、無念なのだ、泣きたいのだ。溢れる涙は、持て余す凸凹を滑らかな球体にしていった。
不折が送った取材画は約40枚。そこには、当時の画報に見るようなおどろおどろしさが全くない。海岸の屍や火葬風景の画にさえ。不折研究家の林誠氏によれば、「人の動きは勿論の事、見やすいように適度に周囲を省略して印象的な部分を引き立たせている」点が注目すべきという。また、室内描写が多いのも特徴で、救急病院内は勿論、詰所の警官の様子、支援品整理、半壊の家中での暮らし等は、不折の報道記者としての視点の鋭さもさることながら、災害記録として今も貴重である。(注6)
この子規の「海嘯」と不折の取材画は、今こそ被災地でも見られるべきではないだろうかと切に思う。
現代の災害記録は多種膨大にある。しかし、災害を観る確かな眼とそれに支えられたすぐれた表現に出会い、“感動”の触媒が作用して初めて、人は癒される思いも、乗り越える力も、鎮魂も、教訓も、心の底に真に獲得出来るのではないのか。
さて、「王子紀行」で子規が不折にもちかけた「俳句と画との競争」。何が争点かと疑問だった。しかし2年後の子規の「海嘯」14句と、不折の取材画40枚。ここには競い合えるものが確かに存在する。双方に「写生」の本質が鮮明にある。争点は、ひとえに“「美」と感ぜしめたる客観の事物ばかりを現はす”ことが出来ているかどうかだ。美=真実と解釈していいだろう。優劣つけがたく引き分けだ。
今も残る正岡子規の終の棲家「子規庵」と、中村不折の「書道博物館」が向かい合って建つのは「日暮里富士見坂」から少し上野寄りの東「根岸の里」。子規は「日暮里富士見坂」尾根道の道灌山付近の眺めをこよなく愛した。西に富士山、東に筑波山が見渡せた。富士見坂の上にも佇んだこともあったろうか。
柿くふや道灌山の婆が茶屋 / 富士は曇り筑波は秋の彼岸哉 /
不盡赤し筑波を見れは初日の出 / 秋晴てふじのうしろに入日哉 / 
寒けれど不二見て居るや阪の上
今、「日暮里富士見坂」の上でつい思う。もし、正岡子規が押し寄せるこのビル津波を見たら、そして原発、その事故と被害を知ったら、いったいどんな句を吐き出していたろうかと。(MS)


*本稿は林誠氏による研究報告「明治三陸地震津波の新聞報道と絵画ー洋画家・中村不折による『日本』の挿絵から」(『長野県立歴史館研究紀要 第20号』2014年3月)を参考にさせて頂いた。
注1)中央紙や東北地元紙も記者を派遣して取材合戦が繰り広げられたものの、被災地現場に
記者と画師が直接赴き、現場取材の体制をとったのは新聞『日本』含め、数社だったという。
注2)「初秋の石壇高し杉木立」のこと。ドナルド・キーン『日本文学の歴史』第16巻、177頁(中央公論社、1996年)より。
注3)明治26年7月19日から8月20日、子規は松尾芭蕉の『奥の細道』をたどる東北旅行を決行。その旅行記「はて知らずの記」を、新聞「日本」に逐次掲載する。東北の俳諧師の紹介状も入手し、丁寧に事前調査した地図も携帯、万端の準備で出かける。東北俳諧の実態調査の目的もあったと思われる。
注4)陸羯南が起こした新聞「日本」は、政府への反骨記事で発行停止処分を何度も受けていた。くしくも明治三陸地震津波発生のまさに当日(明治29年(1896年6月15日)も、内務大臣から発行停止を命じられる。理由は「治安を妨害するものと認められ」というもの。発行停止解除は一週間後。他紙に一週間の差をつけられたものの、解除の日を待つことなく現地取材班を出発させ、解除当日の24日には現地の取材記事を掲載した。
注5)「海嘯」という言葉は、海鳴りとか、満潮時の高潮が河上に逆流する現象の意味があるが、当時は殆どの新聞が津波の意味で「海嘯」と表記し、使用していた。
注6)台東区書道博物館企画展「中村不折ー僕が歩いた道ー前編 正岡子規と出会って」平成26年/2014年10月11日~12月21日)において、展示コーナー「新聞記者・中村不折ー明治三陸地震津波を中心にー」を設けた。本展示において初めて、明治三陸地震津波時の新聞『日本』の正岡子規・中村不折らの業績がすべて、オリジナルの資料によって公開された。

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