今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

魯迅と日暮里(31)南波登発の「亞細亞」への視線(6)壮士・浅井誉至夫とキリスト者たち America, America

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「淺井譽至夫」が小笠原誉至夫と改名したのち、1902年に自ら発刊した新聞『評論之評論』に掲載した宣言の中で、その壮士時代を語っている。文頭呼びかけているのは、大阪府知事の高崎親章。西南戦争直前、警視庁大警視川路利良の命を受けて西郷隆盛の身辺を探偵していたところを捕縛され、終戦後になって政府軍に救出され、1892年11月に内務省警保局長に就任、その後は各府県の知事を歴任、1902年に大阪府知事に就任した人物であり、自由民権運動に一貫して牙をむき続けたのである。なお、小笠原誉至夫が「親章高崎君」と呼びかけているのは、「親章」を実名でなく、号と誤認したからである。けっして「新銀行東京」のような倒置表現ではない。

小笠原誉至夫(昭和4年頃)『竹馬の友へ』より

小笠原誉至夫(昭和4年頃)『竹馬の友へ』より

「曾て貴下の眼に映じたる大罪人小笠原譽至夫、謹て一書を裁して大坂府民の父なる親章高崎君に呈するに當り、先づ襟を正し机を拂ひ恭しく貴下の健康を祝す。僕は十八九の頃より社會黨の信仰個條の幾部を崇信し自ら稱して東洋の社會黨員と爲し類を呼ひ友を集め危言激語、以て言論界に横行せり、僕の二十一二歳の頃流浪大阪に來れり、當時貴下は警部長として職に大阪に在りき、僕の大阪に在るや或は劔を懐にして人を刺さんとし、或は盗賊博徒に親みて幾多の秘密を畵策し、危激なる言論を弄ひ、暴戾なる動作を擅にし、只菅貴下等の配慮を煩はしたりき」(註1)

また、小笠原誉至夫が子孫のために書き残した自伝『樂々記』の中でも書くとおり、「大学に入学するのも只徴兵令の為であった。学問は矢張り嫌いで嫌いで溜らない。一日も早く政治運動をして見度い」という東京留学時代を送り(註2)、1884年に大学予備門(のちの第一高等学校)に入学、同期には南方熊楠のほか、漱石夏目金之助、子規正岡常規、美妙斎山田武太郎、芳賀矢一、秋山真之、水野錬太郎らがいた。(註3)
有地芳太郎(小笠原誉至夫)は、翌1885年の進級試験に落第して大学予備門を中退。(註4)

「夫れからは唯自由放縦な一青年と成った。開放された一青年が何条謹直なる生活が送られよう? 酒を呑み遊廓に通い思う存分に品行を崩して、而して極端なる新思想を唱道した。其当時自由党壮士だとか青年政治家と自称せる者は随分沢山であった。彼等は殆ど現今の政治家の玉子であった。所謂当年の政治家が薩長藩閥を殪して憲法政治を実行せんことを希望せるが如く、青年政治家の目的も先輩の志を助けて己れも亦先輩の後継者たらんことを切望したのであった。然れ共予は全然其理想を異にして居った。薩長藩閥を殪すこと位が目的で無かった。先輩を助けて他日其後継者たらんことを期したことなぞは決して無かった。予は唯極めて新しい理想を抱いて、日本の社会を根本から顚覆改革せんことを期して居た。適切に言えば予は政治家で無い理想家である。現今とても更に変化はない。」(註5)

「予の活動は明治十八【1885】年から同二十【1887】年頃の事であって、即ち十八歳から廿三歳迄の期間であった。此弱年の一書生が到底多数を統率するの力量が無かったことと、今一つは当時尚理想の為に奮闘するの同志を得ること能わざりしが為に、予の運動は遂に極めて微温的に終った。青天に霹靂を見るが如き痛快事は屢々計画して、曽て実行の機会を得なかった。其代りに二十年後には予は遂に十人の父と成ることが出来た。之実に予想外の珍事だ。」(註6)

南方熊楠は、岩田準一あてに彼の人となりを次のように告げる。

「小笠原譽至夫(ヨシヲ)氏(現存小生最舊友の一人、曾て國會へ馬糞を抛(なげ)たり、鳥尾得菴をなぐりに徃たり、相場師に成たり、色々とかはりて今も和歌山に健在)」
「此小笠原は才物にて、小生大傳馬町の保證人方へ學資一ヶ月分を受けに行き歸りに、跡よりいつに似ず丁寧に話しかけ付け來る、氣味が惡いので、本町の藥肆共の前を一目散に走り出すと、忽ち大聲して、スリダースリダー、藥店の小僧等立出で、其頃店々に使ひし勇み肌の熊公金さんなど、フテイ奴だ此野郎と、小生の胸倉をとりすえた。小生は麁服、彼は吉原通ひの美裝故、スリと見らるゝも異論なし。後に聞くに、逃る奴をスリダと呼で留める咄は何かの落語本に出おる由、是に於て小笠原はその落語を兼て聞居て當場に應用したのか、又自分の才幹で足下に案出したのかといふ疑問が起る、小生は兩可説を唱へたし、小笠原ほどの才物にはそれ位いの考へはいつでも湧出すべし。それと同時に毎度寄席抔へ行た人故そんな咄は腦裏に染込で居たなるべし、當人に聞て見ねば何れが眞の事由か分らぬ。此と等しく、やれ古事記の此文は埃及(エジプト)を摸倣だとか、伊呂波文庫のその咄しは南アフリカから渡つてきたとか、日本よりは何一つ外國へ渡さず始終遠近の外國から傳授のみし居たやうに説くのはどうで有うか、然る時は日本人は(隨分古い遺物製品をもち藏しながら)昨日生れた犬の子の如く、何一つ自分の持ち物なしに數千年をへた事となる、世に此理有んや。」(註7)

同郷の友人の仕送りを狙う、熾烈な攻防戦である。
しかしそれよりも、一国民俗学の確立を目指す柳田国男との往復書簡中で、博覧強記を生かし、日本の民俗事象に類似した外国の事例をこれでもか、これでもかと並べ、柳田国男の嫌う性的情報を長々と書くなど、おそらくは柳田国男を当惑させたであろう自分自身を棚に上げている恰好だから、小笠原誉至夫はとばっちりを食ったようなものである。
また、小笠原誉至夫が「なぐりに往った」「鳥尾得菴」は、鳥尾小弥太の号。幕末期、英龍江川太郎左衛門に砲術を学び、長州の奇兵隊に参加、明治になって1888年11月に現役軍人として保守党中正派を組織する。保守党中正派は欧化主義に反対しつつ、他の民権主義団体とともに条約改正反対運動に参加、激しい政府批判を展開する。(註8)同組織には若き日の宗徧流家元・山田宗有すなわち壮士山田寅次郎や『明治政史』を著した指原安三が参加していた。また、鳥尾小弥太は1898年に大日本茶道学会を起し、初代会長となっている。

鳥尾小弥太『明治人物評論』より wikipediaによる

鳥尾小弥太『明治人物評論』より wikipediaによる

さらに文中からは、寄席に好んで通った周作人の姿が彷彿すると同時に、吉原に通いつめた清国人留学生・陳衡恪が思い起こされる。また、ともに大学予備門をドロップアウトした子規正岡常規も寄席に通い詰めていた。小笠原誉至夫と南方熊楠の共通の友人・小沢正太郎を主人公にして、南方熊楠の書いた浄瑠璃「恋娘砕(こひむすめくだ)け島台(しまだい)」では、小笠原誉至夫は、主人公の吉原通いをそそのかした人物として造形されている。

「〽アノ清元(キヨモト)ハアリヤたしか、其(ソノ)小唄(コウタ)夢(ユメ)の吉原(ヨシハラ)、去(イヌ)ル明治(メイヂ)十五年(ジフゴネン)、爺(ヂヾ)さまの御恩(ゴオン)により、花(ハナ)の東都(トウト)や芝浜(シバハマ)に、治(オサ)まる御世(ミヨ)を三田町(ミタテウ)や、由来(ユライ)久しき慶応義塾、幼年黌(ヨウネンコウ)に入(イ)り相(アイ)の、鐘(カネ)鳴(ナ)るさえに気(キ)が付かず、夜(ヨハ)に寝(イネ)、夙(ツト)に起(オ)き、半歳(ハントシ)余(アマ)り勤(ツト)めしに、或(ア)る日(ヒ)朋輩(ホウバイ)有地芳太郎(アリチヨシタラウ)のすゝめたハ、今(イマ)の世(ヨ)ハ変則(ヘンソク)で飜訳(ホンヤク)ばかりよう出来ても、それがほんとうの飜訳の本読(ホンヨ)みといふもの、何(ナン)でも、これからハ正則(セイソク)で専門(センモン)の学を修め、現世(イマノヨ)に活(ハタ)らかさしやならぬ時節(ジセツ)、何(ナン)と一所(イツシヨ)に塾を立退(タチノ)き、神田辺(ヘン)へいて正則を習ひ、大学(ダイガク)へはいらふじやないか、といふに此方(コナタ)も其気になり、スグ爺様(ヂヾサマ)に乞(コヒ)申して、神田へ移り、成立(セイリツ)学舎に通ふたが、又芳太郎が勧めにより、十六の時から吉原通ひ、是より漸(ヤウヤ)く勉強(ベンキヨウ)ハせず、金が入る、爺(ヂヾ)様が聞込(キヽコン)で、其(ソノ)模様(モヤウ)でハ学業成就覚束無(オボツカナ)しとちつとのこと、国元へ呼戻(ビモド)さるべき難儀の場処(バシヨ)、若(ワカ)い時(トキ)に道楽(ドウラク)しただけ、世事(セジ)に通じた源六殿が、春駒(ハルコマ)の若(ワカ)いものが、一人(ヒトリ)居(ヰ)てハ気(キ)もつまる、吉原行(ユキ)もする道理(ドウリ)」(註9)

南方熊楠「しまだいやわれてこまりのしまつどり」『南方熊楠 珍事評論』より

南方熊楠「しまだいやわれてこまりのしまつどり」『南方熊楠 珍事評論』より

それにしても小笠原誉至夫の決意はただものではない。1887年、死籍を継いで浅井姓を称し、名も誉至夫と改名した年に政府転覆を計る。

「熟考の結果決心した。天下を破壊するのは差当り予の目的である。初めより天下を敵として居る筈だ。今にして天下を敵とすることを恐るゝは何事ぞ。吁我心は弛緩した。畢竟我には一人の親友、一人の味方が無いからだ。自分の理想は余りに急進で余りに突飛であるが為か、夫れとも自分には徳が無いからか、何故にや一人の同志が得られない、天上天下唯我独尊に似て実際は天上天下唯我独行だから心細さの限りであった。時としては意志の弛緩したのも偶然でない。然れ共今夜こそは決心した。追々と周囲に不義理を累ねるに従って窮鼠反て猫を嚙むという筆法の勇気が出て来る。心底の大勇猛心を生して愈々理想実行の臍を固めた。何事からでも何物からでも、社会の就づれの方面に於いても破壊的の運動に点火して、人心をして其傾向に順わしめんと決心した。」(註10)

しかし、政府転覆事件は不発。1889年2月11日には、「藤田伝三郎宅及土木会社へ徒党を組、乱入」する。(註11)藤田伝三郎は、鳥尾小弥太と同じ長州奇兵隊出身の豪商で、日暮里養福寺を中興した木食義高上人ゆかりの高野山光台院の宝塔を購入、自宅内に移設した人物である。

1890年、南方熊楠が「曾て末松謙澄子か誰かを覘ひ、衆議員にて活版職工か何かを嗾かし馬糞を投付しめ、そのまゝ吉原へ遊びに行きしことあり」と回想する通り(註12)、国会に馬糞を撒いて国会騒乱罪に問われ、翌年には石川島監獄に入獄、冬に出獄。(註13)

「廿四歳の冬に出獄して監獄の門から直ちに浅草の三一教会に赴き、牧師角中主一郎君と共に教壇に祈った。角中君は予の悔改を感謝し、且つ将来の恵みを祈った。当時の牧師角中主一郎君こそ即ち現今大阪実業界の重鎮宮崎敬介君である。」「予は数日を経て暁星園という孤児院に赴きて孤児の為に働くことになった。園主は本郷定次郎といって温厚篤信の人であった(二三年後病死した)。予は固より旧知でもなかった。只突然押掛けて行って、其処に入込んだのであった。けれ共努めて当時の社会から韜晦し去ることが目的であった予は、忠実に孤児の教養を補佐して本郷夫妻の満足を買った。其後那須野原に在る青木子爵の原野を借りて孤児院の開墾地として居たのを引受けて、予は十数名の孤児と共に暫く此処に開墾事業を行って居た。」
「何分にも孤児院では栄養不良を免かれない。身体の健康自ら勝れず、止を得ず郷里に帰りて暫く静養した。然れ共郷里に蟄居することは監獄に居るよりも尚更辛いのであるから、直に東京に出掛けた。
その後同志旧知の勧誘もあったので各種の運動に参加したことはしたが、無論真剣に活動はしなかった。只真個死生を共にし得べき同志を獲て、今度こそは一世一代の運動を試みんと、夫れを考えるのみであった。何事も手に附かず只無為にして日を送って居た。」(註14)

小笠原誉至夫の青年自由党への参加は、上記のような中での出来事である。

文中、登場するキリスト者について紹介する。まず、本郷定次郎。「本鄉定次郎はこの地【越前敦賀】の一舊家なる酒造業能登屋の愛兒として高く産聲を揚げき。實に慶應二年十一月二日也。」4歳の時に母を、14歳の時に父を、6年後には家を継いだ兄を失って京都の奉公先を辞して帰郷。1887年春、「年少客気飄然として帝都に入」り、三井銀行を経て逓信省の官吏となる。札幌農学校を卒業した友人の勧めで数寄屋橋教会を訪れ、1888年10月、洗礼を受けて入信。孤児院建設資金を稼ぐため、神田区内に「筆墨紙等の日用品を販賣」する「榮屋」を始めるが失敗。(註15)
逓信省勤務の傍ら「京橋銀坐一丁目に一小屋を借り毎夜講習會を開き」、やがて「數名の孤兒貧童を救ふて教養すること【2字合字】となし、こゝに始めて『貧兒救育曉星園』の門標を掲げぬ、時に明治廿四年二月、あゝ是れ今日の『育兒曉星園』の卵子也。」やがて銀座の家を追い立てられ、「麴町區一番町」に移転、子どもたちの授産事業として靴磨きの仕事をさせ、乏しい給料とあわせて孤児院を運営していたが、ある日、「お父(とつ)さんは官員さんでえらいけれど、わたいたちは靴磨でつまらない、わたいたちも官員さんになりたいな」という子どもの声を聞いて、逓信省を辞職、共に靴磨きを始めることになった。1891年3月18日のことである。孤児院の運営と生活は困難をきわめたが、支援者の出現に加え、妻秋元ひで子との出会いにより、転機を迎える。(註16)1876年生れの秋元ひで子の祖父は、儒医として信州上田藩松平家の侍医ともなり、また俳号・菊翁を持つ俳人でもあった。父・収蔵は医業を捨てて佐幕派で活動したため、蚕糸業や運輸会社「中牛馬會社」を創業するなど民間で事業に従事する。秋元ひで子15歳の時、一家をあげて東京に移住、数寄屋橋教会で横井小楠の妻・横井津世子の教えを受けてキリスト教に入信している。なお横井津世子の妹は、日本基督教婦人矯風会初代会頭で女子学院初代院長の矢島楫子である。2人が結婚したのは1891年6月23日、数寄屋橋教会で挙式した。

本郷定次郎夫妻「続 灯をかかげた人びと」より

本郷定次郎夫妻「続 灯をかかげた人びと」より

同年10月28日、濃尾大地震が起こると現地に急行、罹災者の救援につとめるほか、「孤兒院事務所」を現地に開設する。中西良雄氏によって「大垣救援者ユニオン」と命名された(註17)「キリスト者による濃尾震災救援活動の主要な拠点の一つ,大垣の基督教徒救済事務所に結集して,孤児救済をはじめとする現地救援活動を中心的に担った青年グループの一員であった」。(註18)「被害損命者の兒を引取ること【合字】數名」(註19)、また「緣者永眠の爲め老媼四名を救ひ之を携へ歸京」したという。(註20)積極的な活動の拡大に資金が追い付かない状況の中、家督を従兄弟に譲る代わりに運転資金を得ることに成功、麻布龍土町(現・港区六本木七丁目)に移転する。浅井誉至夫との出会いはこの頃である。

「曾て本鄉君の旅行中、壯士首魁らしき者、一人の壯士を伴ひ來り、君の在院なるやを問へり、夫人は君の不在を告げ、土曜日に歸るべきを語りしに、其首魁らしき者、己は前後七回投獄せられし淺井誉至夫といふ者にして、是非主人に會見したければ、其旨申されよ、是非再來すべしとて行けり、次の日曜日、君が將に外出せんとせる所に右淺井氏來訪せり、君は七回迄の入獄と聞き、始より大に其人を憐み、是非悔改せしめんと、極て親切に氏に對せり、氏は過去の生涯の罪惡の生涯なりしこと【合字】より、曾て最後の入獄中、過失の爲めに入獄せる一基督信者の熱心に聖書を硏究するを見、詳しく基督教々理を聞き、且つ羅馬書を在獄中、廿七回復讀せること【合字】、第一議會に馬糞を投ぜるは氏の所爲にして、其頃は如斯事を以て實に大誇慢をなせること、及其他諸種の犯罪の事、又在獄中は充分に决心せるも、而も娑婆の風に吹かれて再び折れんとして、先日は友人の許に至り借金して、飲酒をなさんとするを折よくも、此孤兒院の前を通りて、再び心付きたること【合字】、等を語り、其後必ず悔改めんと淚を流していへり、君は其人となりを見、氏を用ゐて午前に孤兒の教育に當らせんといへりしに氏驚けり、曰く「我如き大罪人を用ゐんといひ玉ふか」、君靜かに曰く、
「然り、君は如何に大罪、大惡をなすとても、此家は神の家にして、神守り玉へば、决して惡を働くこと【合字】能ふまじ、若し君にして來らば、我受入れ、共に朝に絶江ず、神の聖前に祈らん【」】
淺井氏大に喜び之より毎朝五時に必ず來り、鈴を鳴したりき。」(註21)

また、酒井温理によって、浅井誉至夫についての別のエピソードも語られる。

「予をして此人が如何に心を勵まされしかを、記さしめよ、一日本鄉君の留守に一少年を伴ひ來れるありき、彼曰く、此兒、母あれども兒の亂暴なるが故に病床に入り、今や殆んど瀕死の有樣なり、故に願はくはこれを矯正せられよと、夫人即ち君の歸宅を待て後に答ふべきを告げたり、君歸る、君即ち前記の淺井氏をして行て斷しむ、少年の衣服餘りに貧なるが如しに見へざりしとの事を聞きたりしが故なり、淺井氏は其宅に就けりしに、一婦人病床にありて此を迎ゆ、氏は此狀を見て到底斷るの勇氣を失ひたりき、即ち其兒に向ひよし刀を以て、或は縄を以て、自ら親を殺さずとも、親の苦勞を増して死に至らしむれば、これ親を殺したると同じきものなるを説き示し、更に今日迄の非を親に詫び、曉星園に行き、良兒となり來りて、孝行すべし、と云はしめしに、兒亦低頭母に謝せりき、病褥にありし老母は、實に非常の感に打たれし如くに、手を兒の頭に載せて無言なりし數刻、此悲劇、此小説的事實は、實に此無淚漢を泣かしめたりし也、彼は又此時より、其性一變せり、小兒は牛島要一といふ、而して母は其次日喜悦を以て永眠につけり。」(註22)

在米中の南方熊楠の日記にも、浅井誉至夫(有地芳太郎)がキリスト教に熱心になっていることを書きとどめている。

「◇【1892年】八月十九日[金]晴
市に出、買い物を調ふ。
羽山蕃次郎状一本到付、川田鷹氏に宛たるものなるが、殊の外延着(五月十五日出、今日着)、中に川瀬氏送別会の事を記せり。(追記)〈四月十五日川瀬出立。同十五日記事を見るべし〉又云、有地芳太郎は近頃耶蘇教熱心に至り云々。
江は支那服、予は日本服にて写真とる。」(註23)

武内善信氏によれば、「彼が最初キリスト教の何派に属したのかわからないが、少なくとも明治三一年一一月頃までにはユニテリアン協会に入会したようである。『六合雑誌』二二四号で、佐藤実然は地方におけるユニテリアン協会の主な会員として彼の名を挙げている。」という。(註24)

実際には、小笠原誉至夫は聖公会(Anglicanism, Anglican Church)系の三一教会で入信、また、彼が信仰告白をした本郷定次郎は長老派(Presbyterian Church)系の日本基督一致教会の数寄屋橋教会(現・巣鴨教会)の信者であった。暁星園が支援を受けた京都丸太町基督教講義所は同胞教会(Church of United Brethren in Christ)系、桑港美以教会はメソジスト(Methodist)系と多くの教派が関与している。なお、「美以」はME(Methodist Episcopal Church)の清末の漢訳であり、日本に直輸入された用語である。

日本基督教団巣鴨教会

日本基督教団巣鴨教会

一方、本郷定次郎は青木周蔵に招かれ、那須野原の所有地の開墾地借用約定證書を結び、1892年4月4日、第1陣として年長者12人とともに向かう。「本院の萬事は又夫人及淺井誉至夫氏に托し」、「後種々都合ありて東京の本院はスウイフト氏に托し、同六月十五日を以て全員悉く那須野原に引き拂らふに至れり。」(註25)ここで「種々都合」とあるのが小笠原誉至夫の退任を指していよう。困難な開拓生活の中、東京赤坂病院の医師の支援金で病児の医療費としたほか、三島通庸の子に生れキリスト教徒となった三島弥太郎の援助によって西那須野の三島開拓地に移り、京都丸太町基督教講義所や「米國人ドクトル、ホイトニー」、その他からの支援金を運転資金、園舎建設費、桑畑1町歩、桑樹の購入費、「理髮舘、機業工塲」等の建設資金とした。(註26)東京赤坂病院の医師と「米國人ドクトル、ホイトニー」は同一人物で、勝海舟と親交の篤かった眼科医・ウィリス・ホイットニー(Willis Norton Whitney)と思われる。
1895年、本郷定次郎は病身をおして渡米、福祉施設の見学のほか、在オークランド、サンフランシスコ、ハワイの日本人や学生に支援を呼びかけ多額のカンパの集金にも成功する。「桑港美以教會より   二町步」を購入、その圃場を「エス、エフ、エムイー、エム(San Fran Cisco Methodist Mission.)」と命名するが(註27)、桑港美以教会(現・Pine United Methodist Church) は、1877年10月6日にワシントン街916番の中国人メソジスト伝道所地下15号室で発足した、最古の在米日本人組織である福音会(Fukuin Kai; Japanese Gospel Society)を基盤として建設された教会である。1903年には同教会において、共産主義に「転向」する前のキリスト教社会主義者・片山潜が演説している。(註28)

「千九百三年(明治三十六年)ノ夏頃社会主義者片山潜ナルモノ「シカゴ」ニ開カレタル萬国社会主義者大会ニ列席ノ為メ渡米シ、途次桑港ニ上陸滞在スルモノ凡ソ二週間、日本人美以教会ニ演説会ヲ開キ、盛ニ社会主義ヲ鼓吹シタル結果、四五人ノ同志ヲ得テ、終ニ社会党桑港支部ヲ作リテ去レリ、片山潜ハ嘗テ十数年間米国東部ニ在住シタルコトアリ、米国ニ於ケル社会党ノ光景ヲ目撃シテ帰朝シ、日本ニ於テ社会主義ノ思想ヲ鼓吹シ、傍ラ米国加州ハ日本人ヲ優待スル楽天地ナルヲ説キ、「渡米ノ栞」ナト云フ冊子ヲ出版シ青年ノ之ニヨリテ渡米セル者モ亦多シト云ヘリ、同人カ当地ニ於テ演説会ヲ催フスヤ傍聴ニ集マリタル者二三十名、而シテ社会党ニ加盟シタル者僅カニ年少事理ヲ弁セサル二三ノ輩ニ止マレリト云フ」。(註29)

桑港日本人美以教会 サンフランシスコ大地震後のもの『米山梅吉記念館館報』より

桑港日本人美以教会 サンフランシスコ大地震後のもの『米山梅吉記念館館報』より

1898年には、ドイツ人の父とロシア人の母のもと、ニジニ・ノヴゴロド(Нижний Новгород)に生れたラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber、生誕名Рафаэль фон Кёбер)によるピアノ演奏の慈善音楽会を上野音楽学校の奏楽堂で開催、700円の収益を、二葉保育園と育児暁星園とで分配(註30)、「【明治】三十一【1898】年に至り、斷然意を決して東京に支部を設け、年長孤児を指揮して薪炭商を營む」「また横濱市に分院を設けて事業の確立を圖る」等、ようやく運営が軌道に乗るかに見えた直後の1899年、本郷定次郎の右肺は結核症により壊死、左の1/2が機能するにすぎなかったが「毎(つね)に『肺は腐れても此の身は死なじ』と叫びつゝありし身も、竟に東洋内科醫院に於て沒しぬ、時に明治三十二【1899】年五月十八日、享年僅かに三十四、斯くてひで子は淚にかきくれながらも毅然心を决し、遺されたる三人の實子と數十名の孤兒とを教養し、飽くまで亡夫の志を繼がむと誓ひたりしが、不幸また肺患の犯す所となり、居ること僅に一年、翌明治三十三【1900】年八月十九日、二十六歳を一期となし、亡夫の跡を追ふて黄泉に旅立ちぬ」。(註31)

那須野の暁星園で作業する園児たち「続 灯をかかげた人びと」より

那須野の暁星園で作業する園児たち「続 灯をかかげた人びと」より

山野光雄によれば、「東洋内科醫院」は清国留学生会館のあった神田区駿河台鈴木町の2番地にあり、院長は高田畊安(註32)、南湖院の創設者である。高田畊安は京都に生れ、同志社在学中に信仰を得て、1877年にドウェイト・ラーネッド(Dwight Whitney Learned)から受洗する。(註33)ドウェイト・ラーネッドは会衆派(Congregational Church)の対外伝道組織アメリカン・ボード(American Board of Commissioners for Foreign Missions)の宣教師で、同志社大学第2代学長である。
南湖の左富士は東海道の名所であったが、2006年に南湖院の隣接地の住宅開発による電線引き込み柱で富士見景が損なわれる事態が起きる。この時、市民団体の「まち景まち観フォーラム・茅ヶ崎」が茅ヶ崎市と協働してこの事態を食いとめている。

「当該開発を懸念し茅ヶ崎市都市整備課が景観影響調査を実施し(まち景も参加)、事業者に書面で協力を求めるなど対応策を講じていたのですが、開発事業の確認済証が受理されてしまいました。まち景は市と連携を取りながら事業者・電力会社に働きかけました。その結果、低い電柱に替えることで眺望を大きく損なうのを免れることができました。」(註34)

なぜ、日暮里富士見坂ではこうした幸せな結果を迎えられなかったのか。日暮里富士見坂を守る会と荒川区が緊密な連携を保ちながらも、眺望の「受益」区と阻害要因の立地区が異なることに加え、東京都が調整役を放棄したことが最も大きな要因だった。「富士見坂」からの富士見景の保全は、東京都(註35)や国の方針(註36)でもあったはずなのに。

さて、残された家族及び園児は、秋元ひで子の母・秋元国子によって東京に移動する。「夫婦共に歿し育兒事業危地に瀕するや國子を毫も動ずる色なく百名の園兒と三名の愛孫とを携へ上京して神田錦町へ來り爾來神田美土代町に同園商業部を設け薪炭を商ひ傍ら百名の孤兒を養育して悉く適職に就かしめたりといふ」(註37)

宮崎敬介君『實業之日本』より

宮崎敬介君『實業之日本』より

また今1人のキリスト者、角中主一郎は、1866年12月23日(慶応2年11月17日)、角中豊平の4男として東京(註38)または大坂(註39)に生れ、熊本県の宮崎勇太郎の養子となり(註40)、「小學校を出ると、村夫子になるつもりで師範學校に入つたが、師範卒業後は目的を變て立教大學の神學部に入學した。」(註41)東京に出て神学を学んだのは24歳の時のことという。(註42)
1876年頃「一致教會宣教師タムソン氏の管下にある淺草廣小路の講義所を三間町に移さんとするに際し、」W・B・クーパー師(William B. Cooper)が譲渡を受けて開設した浅草講義所を、名出保太郎神学生が専任伝道師として継承して深川三一教会の管轄から離脱、さらに名出保太郎が築地三一教会に転出した後を受け、1891年4月、「神學生角中主一郎名出氏に代て擔任傳道師たり、」(註43)「この人は後日宮崎敬介と改名」(註44)、「假司牧者として」「若干の俸給を負擔するに至れり」。(註45)「同年五月淺草區黒船町廿八番地に五十五坪の借地を得て之を會堂の敷地に卜し、赤色煉瓦の廿六坪一合八勺の大さなる力身なしたるが如き堅牢にして小規模の家屋は行人絡繹たる處に建てられたり、次て全く信徒の寄進より成れる八坪二合五勺の木造附属家屋も亦築造に着手せられ、同年九月悉く成る。」「明治廿四【1891】年九月廿七日朝聖成の式は擧行せられぬ、司式者監督ウイルリヤムス師、列席教職長老チ、エス、チング長老ビ、デ、ペーヂ、長老田井正一外一人、説教者チ、エス、チング、奉堂式執行請求書は信徒總代長田重雄、永田素行の二氏より提出せられ、假司牧者宮崎敬介氏に由て朗讀せられぬ、於是監督ウイルリヤムス聖別書を朗讀し、之を聖別して聖約翰會堂と命名す」。(註46)なお、一致教会の「タムソン」はDavid D. Thompson、アメリカ長老派派遣の宣教師で、日本基督一致教会(The United Church of Christ in Japan)の日本基督公会(The Church of Christ in Japan)を設立している。

赤色煉瓦の黒船町教会(電車通りから見た正面入口)[明治24]『浅草に召されて』による

赤色煉瓦の黒船町教会(電車通りから見た正面入口)[明治24]『浅草に召されて』による

キリスト教入信は1891年頃であるとする本人の証言もあるが(註47)、1891年に浅草聖ヨハネ教会が創立されたときには既に司牧者であり、しかも学生であったことが分かる。また、その前年の1890年6月、角中主一郎は『基督教新聞』に「在京神學生諸君に一言す」という投書を行なっている。「人類社會の有力者を詮議せは吾人は慥に三個の種類を發見し得へし何そや曰く理情勢【3字傍点】之れなり」で始まる生硬な一文であるが、主張する内容は「神學生親睦會」に関わる件である。

「本期の親睦會は正教神學校其世話掛りにして四月十九日を會日と定めたり而して各神學校より世話掛りの許へ夫れ〱通知すへき事あるにも係らず之れを怠て通知せさりしが爲め世話掛は大に迷惑して遂に開會するを得さるに至り斷然親睦會全廢を申し出てたり」
「若し此判斷にして誤謬ならは實に望外の喜ひなり然れとも或一部の人々の如き正教神學校を初めて親睦會に連合せし以來出席するを肯せさるものありと云へは不幸にも吾人の判斷は斯る忌はしき事實を確めんとするものある奈何せん夫れ教派的阻隔か聖國の進步を障くることあるは周く知る處ならん」(註48)

明治初年、各派の布教がしのぎを削る中で、教派を超えた神学生の交流があったことも驚きだが、ロシア正教が他の教派からパージを受けていたことにも胸潰れる思いがする。聖職者になるべき学生にして、何という偏狭な了見とねじ曲がった精神なのだろう。主は許さないと思うのだが。角中主一郎が神学校に通っていたことから、彼の進学コースは、1874年に創立された立教学校(改名後は立教大学校、St. Paul’s College)から聖三一神学校ということになる。そしてこの立教大学校には、のちに周作人が通うことになる。なお、1895年に発刊した立教學校文學會の機関誌は『八紘』という。「發刊の趣旨」には「六合を兼ね八紘を掩ふは【11字白丸圏点】、我國是の存する所【8字白丸圏点】。吾人は奉じて以て周旋せずんばあらずと云爾【20字白丸圏点】。」で結ばれる。(註49)「大東亜戦争」でも始まりそうな勢いだが、そうではない。すでに触れた通り「八紘」とは宇宙あるいは世界の意味である。また、キリスト教雑誌の題名にもなった「六合」は四方に上下を加えた3次元世界のことである。偏狭な一国主義の打破及び世界との一体感が、「八紘」と「六合」の言葉にはこめられているのである。

築地川を隔てて見た立教のキャンパス-中央遠方が三一神学校『Bricks-and-Ivy立教学院百二十五年史図録』より

築地川を隔てて見た立教のキャンパス-中央遠方が三一神学校『Bricks-and-Ivy立教学院百二十五年史図録』より

1892年に「司牧者宮崎敬介氏は米国留学のため当教会を辞任」。(註50)この時同行したのは、平安女学院の院長となる早川喜四郎、大塚惟明で、3人は同窓であったという。(註51)渡米後の1893年5月7日、在米キリスト者の「福音會」に加入、日曜集会員に選任され、6月10日例会で「神を信ずるより人心に及ぼすの感化」を演説している。(註52)7月10日の例会では「ルーソーを論ず」の演題で演説。(註53)11月3日の天長節祝会では「自由精神的尊王愛国を演べ」(註54)、さらに12月2日の演題は「日本の議会に社会問題の少なきを怪しみ」と社会的関心に心が向かっているのが分かる。12月23日に夜学校閉講式を挙行し演説するが、「○宮崎敬介氏  は常に靈界上或は委員として本会の為めに尽力されしが今回感ずる所ありて断然帰朝されたり」。(註55)
これについて、のちに宮崎敬介は「其後米國に在りて大に懷疑に陥り、今日に於ても滿足の信仰なし」と、滞米中に棄教したらしいことを述べている。(註56)また上村希三雄は、出典不明ながら「宮崎敬介(27.7帰国?)」は「スタンフォード大学女子寄宿舎の料理人として派遣され、一週間で逃げ帰って来た「九州の健児宮崎君」だったにちがいない」というエピソードを紹介する。(註57)しかし1895年になっても「國際談判と傳道會社」を論じるなど、棄教への道のりは単純ではなかったようだ。(註58)
最終的に進む道を決めたのが、1899年頃のことである。

「㊑株式會社東京株式取引所廣告
   日本橋區兜町三番地 甲 宮崎敬介
右仲買人に加入す
 明治三十二年八月十五日」(註59)

「立教大學で宗教を學び、牧師から轉業して實業界に入」った(註60)宮崎敬介は日本資本主義のストライクゾーンど真ん中に直球を投げ込む。「氏は米國から歸つて來ると、實業界にとび込んだ。然し實業界の人となつたのはよいが、それは俗の俗なる株式仲買人であつた。そして双子織に【の】着物に角帶を締め、あの肩磨轂擊の取引所の人ごみの中に交つて、右手を上げ、左手を下げ、拍手して賣つた買つたの商賣を初めるのだつた。」(註61)「當時は兜町に在りて一小仲買店を經營してゐたに過ぎ」なかったが、豊川鉄道株買占事件など、数々の仕手戦を繰り広げ(註62)、のちに「大阪に移轉し株式仲買店を開始し加富士商店と稱」し、米穀市場でも活躍(註63)、「明治三十六年には最早大阪株式取引所の理事となり、續いて三十九年には神戸取引所の理事長となり、」(註64)関西実業界の大立者となっていく。さらに、大阪電燈社長として解散整理に立ち会うなど(註65)、大阪商業会議所、大阪株式取引所、堂島米穀取引所等を舞台に活動を展開した。

いっぽう、小笠原誉至夫も「相場師に成たり、色々とかはりて」(註66)和歌山に戻り、1897年3月に『和歌山実業新聞』を発刊するほか、1899年には和歌山実業会館を建て、啓蒙活動や労働運動をはじめ各種活動の拠点にした。(註67)
さらに、1899年8月の『六合雜誌』所収の「日本のゆにてりあん主羲」によれば「和歌山の小笠原譽至夫氏も先年已に入會して居ります」とユニテリアン協会に加入したことが示されている。(註68)1898年11月には『日本平民新聞』を創刊、1902年には大阪に舞い戻り、冒頭に引用した『評論之評論』を拠点に過激な言論活動を繰り広げる。かつて人生の悩みをともにし、神に祈った角中主一郎と浅井誉至夫は、身をブルジョアジーの群れの中に転じつつ、大阪におけるシーンを創り出すことになる。

南方熊楠自身も、渡米の際、杉村広太郎に宛てた書簡の中で、ナイアガラ瀑布見聞の報告の前文として次のように書き送る。杉村広太郎は、和歌山県出身で英吉利法律学校(現・中央大学)、ユニテリアン派の東京自由神学校を卒業。本願寺文学寮で英語教師をしながら、1898年には安部磯雄、片山潜、幸徳秋水らを中心として結成された社会主義研究会に加入。楚人冠を号し、朝日新聞社に入社、神社合祀反対キャンペーンを『東京朝日新聞』上に展開することになる人物である。

「たとひ言語自由に、風俗已に我に移れるにもせよ夷戎の所爲一槪に我心を樂しむるに足るもの尠く假に蘇武張騫の難苦はあらざるも小川町を片足は靴、片足は下駄であるき、九段阪上から一散にかけ下る等の珍事は自在に行ふを得ず、顧て日本現狀を見れは世の溷濁も亦甚し、置酒長宴して淫褻を厭はさるは是れ煬帝の政を爲すなり。庫究して位階を賣るは爲作一に桓靈に同じ、蟬翼を重しとなし、鐘を輕しとし、讒人高張賢士跡を潜む。堂上の人万歳と呼で堂下又呼び一國も亦万歳と呼ふ。暴政何そ一に宋の康王の時に等きや、故に予は後日本の民たるの意無し、然れども美にして且つ情厚き君の如き親友の存する有るを以てすれば豈に一念の故土に眷々たる者無らんや。八月十日小生汽車中にありしとき、舊交の事など思ひ出「旅のころもはすゞかけなれや、いつも露けき道ばかり」とやらかしやした。」(註69)

杉村廣太郎「著者肖像」『七花八裂』より 国立国会図書館蔵

杉村廣太郎「著者肖像」『七花八裂』より 国立国会図書館蔵

言っておくが、これは決して「アベ政治」のことを言っているのではない。もしそう思うとすれば、一種のデジャヴである。ただ、カール・マルクス(Karl Marx)がヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)の箴言を引用して指摘した通り、「Hegel bemerkt irgendwo, daß alle großen weltgeschichtlichen Thatsachen und Personen sich so zu sagen zweimal ereignen. Er hat vergessen hinzuzufügen: das eine Mal als große Tragödie, das andre Mal als lumpige Farce.」(註70)、すなわち「1度目は壮大な悲劇として、2度目は無頼漢(ルンペン、襤褸)による喜劇として」であることを付け加えておこう。
また、蘇武及び張騫は、朝鮮通信使副使の金世濂(김세렴)の詩の中にも登場していた。(註71)そして、煬帝以下の皇帝は悪政をなして天下を揺るがした人物である。後漢の桓・霊帝の時代は、王朝の深刻な動揺が起きている。万巻に通じた南方熊楠は知っていたと推定するが、「桓、靈閒,倭國大亂,更相攻伐,歷年無主。」という事態の起きた時期であり(註72)、南方熊楠の脳裏にもこうした状況が想定されていたのだろう。ただし、桓帝の166(延熹9)年には、大秦国(Imperium Romanum、ローマ帝国)国王の安敦(Caesar Marcus Aurelius Antoninus Augustus、マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使節が訪問、巨大な東西交流が開かれた時代としても記憶されるべきである。

「大秦國一名犁鞬,以在海西,亦云海西國。地方數千里,有四百餘城。小國役屬者數十。以石為城郭。列置郵亭,皆堊塈之。有松柏諸木百草。人俗力田作,多種樹蠶桑。皆髡頭而衣文繡,乘輜軿白蓋小車,出入擊鼓,建旌旗幡幟。所居城邑,周圜百餘里。城中有五宮,相去各十里。宮室皆以水精為柱,食器亦然。其王日游一宮,聽事五日而後遍。常使一人持囊隨王車,人有言事者,即以書投囊中,王至宮發省,理其枉直。各有官曹文書。置三十六將,皆會議國事。其王無有常人,皆簡立賢者。國中災異及風雨不時,輒廢而更立,受放者甘黜不怨。其人民皆長大平正,有類中國,故謂之大秦。土多金銀奇寶,有夜光璧、明月珠、駭雞犀、珊瑚、虎魄、琉璃、琅玕、朱丹、青碧。刺金縷繡,織成金縷罽、雜色綾。作黃金塗、火浣布。又有細布,或言水羊毳,野蠶繭所作也。合會諸香,煎其汁以為蘇合。凡外國諸珍異皆出焉。以金銀為錢,銀錢十當金錢一。與安息、天竺交巿於海中,利有十倍。其人質直,巿無二價。穀食常賤,國用富饒。鄰國使到其界首者,乘驛詣王都,至則給以金錢。其王常欲通使於漢,而安息欲以漢繒綵與之交市,故遮閡不得自達。至桓帝延熹九年,大秦王安敦遣使自日南徼外獻象牙、犀角、玳瑁,始乃一通焉。其所表貢,並無珍異,疑傳者過焉。或云其國西有弱水、流沙,近西王母所居處,幾於日所入也。漢書云「從條支西行二百餘日,近日所入」,則與今書異矣。前世漢使皆自烏弋以還,莫有至條支者也。又云「從安息陸道繞海北行出海西至大秦,人庶連屬,十里一亭,三十里一置,終無盜賊寇警。而道多猛虎、師子,遮害行旅,不百餘人,齎兵器,輒為所食」。又言「有飛橋數百里可度海北」。諸國所生奇異玉石諸物,譎怪多不經,故不記云。」(註73)

文中には、ローマ帝国の最新知見とともに、神話世界における「西王母」、「流沙」や「弱水」などが登場、現実世界の拡大により、古典的、神話的地理観との間に混淆と変形がもたらされていることが分かる。幕末の「開国」以来、急激な国際化が進展していく中で、琉球王国(るーちゅーくく)、アイヌ(Aynu)や大清国、朝鮮(조선)、オランダ以外の外国と接触していなかった日本の人々が次々に飲み込まれた状況も、また察してあまりある。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス胸像 Glyptothek(München)蔵 wikipediaによる

マルクス・アウレリウス・アントニヌス胸像 Glyptothek(München)蔵 wikipediaによる

 

※2016年4月7日、「小笠原誉至夫」の表記の一部誤りを訂正しました。

 


 

註1 小笠原譽至夫「與高崎知事書」『評論之評論』第二號 評論之評論社 1902年3月4日1面
註2 「第弐章 少年時代 二」『楽々記―青年時代まで―』1919年1月4日、南方熊楠著 長谷川興蔵 小笠原謙三編『竹馬の友へ 小笠原誉至夫宛書簡 自由民権・御進講 孫文関係新資料』八坂書房 1993による
註3 竹内善信「解説 小笠原誉至夫と南方熊楠」、南方熊楠著 長谷川興蔵 小笠原謙三編『竹馬の友へ 小笠原誉至夫宛書簡 自由民権・御進講 孫文関係新資料』八坂書房 1993所収
註4 小笠原謙三「小笠原誉至夫略年譜」南方熊楠著 長谷川興蔵 小笠原謙三編『竹馬の友へ 小笠原誉至夫宛書簡 自由民権・御進講 孫文関係新資料』八坂書房 1993所収
註5 小笠原誉至夫「第弐章 少年時代 二」『楽々記―青年時代まで―』1919年1月4日、南方熊楠著 長谷川興蔵 小笠原謙三編『竹馬の友へ 小笠原誉至夫宛書簡 自由民権・御進講 孫文関係新資料』八坂書房 1993による
註6 小笠原誉至夫「第四章 青年時代 二」『楽々記―青年時代まで―』1919年1月9日、南方熊楠著 長谷川興蔵 小笠原謙三編『竹馬の友へ 小笠原誉至夫宛書簡 自由民権・御進講 孫文関係新資料』八坂書房 1993による
註7 南方熊楠「岩田準一宛書簡」1931年8月20日、澁澤敬三編『南方熊楠全集 第八卷 書簡 I』乾元社 1951による、『南方熊楠全集 別巻第一 書簡補遺・論考補遺』平凡社 1974と字句の異同があるが乾元社版によった
註8 真辺将之「議会開設前夜における保守党中正派の活動と思想」『史観』第一四二冊 早稲田大学史学会 2000年3月25日、真辺将之「議会開設後における保守党中正派の言論活動」『史観』第一四四冊 早稲田大学史学会 2001年3月25日
註9 南方熊楠「○恋娘砕(こひむすめくだ)け島台(しまだい)」『珍事評論 第二号』南方熊楠個人新聞 1889年9月17日、南方熊楠著 長谷川興蔵 武内善信校訂『南方熊楠 珍事評論』平凡社 1995による
註10 小笠原誉至夫「第四章 青年時代 二」『楽々記―青年時代まで―』1919年1月9日、南方熊楠著 長谷川興蔵 小笠原謙三編『竹馬の友へ 小笠原誉至夫宛書簡 自由民権・御進講 孫文関係新資料』八坂書房 1993による
註11 南方熊楠「日記」1889年3月12日条、『南方熊楠日記 1』八坂書房 1987による、情報源は「新聞」とあるが未詳
註12 南方熊楠「上松蓊宛書簡」1919年9月16日、澁澤敬三編『南方熊楠全集 第八卷 書簡 I』乾元社 1951による、『南方熊楠全集 別巻第一 書簡補遺・論考補遺』平凡社 1974と字句の異同があるが乾元社版によった
註13 小笠原謙三「小笠原誉至夫略年譜」南方熊楠著 長谷川興蔵 小笠原謙三編『竹馬の友へ 小笠原誉至夫宛書簡 自由民権・御進講 孫文関係新資料』八坂書房 1993所収
註14 小笠原誉至夫「第五章 青年時代 三」『楽々記―青年時代まで―』1919年1月9日、南方熊楠著 長谷川興蔵 小笠原謙三編『竹馬の友へ 小笠原誉至夫宛書簡 自由民権・御進講 孫文関係新資料』八坂書房 1993による
註15 佐藤一誠「第一章 曉星園の設立者」『育兒曉星園』警醒社 1898、酒井温理編「第一章 曉星園設立以前の本鄉定次郎君」『那須野孤兒院 育兒曉星園』曉星園 1898にほぼ同文が載る
註16 佐藤一誠「第二章 曉星園の第一期」『育兒曉星園』警醒社 1898、酒井温理編「第二章 曉星園の第一時期」『那須野孤兒院 育兒曉星園』曉星園 1898にほぼ同文が載る
註17 中西良雄「石井十次と震災孤児院」同志社大学人文科学研究所編『石井十次の研究』同朋舎 1999、中西良雄「震地伝道隊と濃尾震災救援活動」愛知県立大学文学部紀要委員会編『愛知県立大学文学部論集 社会福祉学科編』第56号 愛知県公立大学法人愛知県立大学文学部 2008年3月31日
註18 中西良雄「聖ヒルダ・ミッションの慈善事業(2)―濃尾震災救援と孤児院事業―」『人間発達学研究』第3号 愛知県立大学 2012年3月
註19 『護教』第百七號5面 護教社 1893年7月22 日、中西良雄「聖ヒルダ・ミッションの慈善事業(2)―濃尾震災救援と孤児院事業―」『人間発達学研究』第3号 愛知県立大学 2012年3月
註20 藤井米八郎「○震災地特別通信 第四報」『女學雜誌』女學雜誌社 1891年12月12 日、中西良雄「聖ヒルダ・ミッションの慈善事業(2)―濃尾震災救援と孤児院事業―」『人間発達学研究』第3号 愛知県立大学 2012年3月
註21 酒井温理編「第三章 曉星園の第二期」『那須野孤兒院 育兒曉星園』曉星園 1898、元になったのは櫻哉生(佐藤一誠)執筆の『福島民報』連載記事というが未見、佐藤一誠「第三章 曉星園の第二期」『育兒曉星園』警醒社 1898にほぼ同文が載る
註22 酒井温理編「第三章 曉星園の第二期」『那須野孤兒院 育兒曉星園』曉星園 1898、元になったのは櫻哉生(佐藤一誠)執筆の『福島民報』連載記事というが未見
註23 南方熊楠「日記」1892年8月19日条、長谷川興蔵校訂『南方熊楠日記 1』八坂書房 1987による、武内善信「ユニテリアン社会主義者小笠原誉至夫と南方熊楠」『キリスト教社会問題研究』第37号 同志社大学人文科学研究所 1989年3月10日では日付を8月25日条としている
註24 武内善信「ユニテリアン社会主義者小笠原誉至夫と南方熊楠」『キリスト教社会問題研究』第37号 同志社大学人文科学研究所 1989年3月10日、原出典は、佐治實然「日本のゆにてりあん主羲」『六合雜誌』第貳百貳拾四號 日本ゆにてりあん弘道會 1899年8月15日
註25 酒井温理編「第三章 曉星園の第二期」『那須野孤兒院 育兒曉星園』曉星園 1898、元になったのは櫻哉生執筆の『福島民報』連載記事というが未見
註26 佐藤一誠「第四章 曉星園の第三期」『育兒曉星園』警醒社 1898、酒井温理編「第四章 曉星園の第三期」『那須野孤兒院 育兒曉星園』曉星園 1898
註27 酒井温理編「第四章 曉星園の第三期」『那須野孤兒院 育兒曉星園』曉星園 1898、佐藤一誠「第五章 曉星園の第四期」『育兒曉星園』警醒社 1898
註28 片山潜が「社会主義におけるマルクス主義的転向」をしたとするのは、森戸辰男である、森戸辰男『日本におけるキリスト教と社会主義運動』潮書房 1950、井上史「片山潜の棄教と自伝 四つの自伝におけるキリスト教記述の変遷について」『キリスト教社会問題研究』第53号 同志社大学キリスト教社会問題研究所 2004年12月10日
註29 外務大臣伯爵小村寿太郎 内務大臣男爵平田東助殿「桑港日本人間社会主義ノ萌芽」『㊙在米国邦人社会主義者ノ状況 機密送第三一号』明治四十二年四月廿七日、『文書センターだより』第4号 宮崎県総務課宮崎県文書センター 2007年10月による
註30 「100年の歩み」社会福祉法人二葉保育園サイト
註31 佐藤一誠「一 忘れられたる曉星園(上)」『忘れられたる曉星園』無名社 1902、『編集復刻版 子どもの人権問題資料集成 戦前編 第2巻』不二出版 2009による、生江孝之『日本基督教社會事業史』教文館出版部 1931の引用では佐藤誠の言とするが、佐藤誠は佐藤一誠の誤記、また「黄泉に旅立ちぬ」を「上天しぬ」とするなど一部文言を変更している
註32 山野光雄「連載・続 灯をかかげた人びと(第14回)=暁星園の創立者=本郷定次郎」『健康保険』第31巻第4号 健康保険組合連合会 1977年3月15日、久保三友『東京市及接續郡部地籍地圖 上卷』東京市區調査會 1926では3番地になっているが、南湖院編「歷史」『昭和十年十一月 南湖院一覽』南湖院 1935では2番地、また山野光雄は「高田耕安」とするが高田畊安の誤り
註33 片子沢千代松「高田畊安」日本近代キリスト教歴史大事典編集委員会編『日本近代キリスト教歴史大事典』教文館 1998
註34 「創立15周年記念 活動報告(1)これまでの取り組み」まち景まち観フォーラム・茅ヶ崎サイト
註35 『東京都景観審議会【答申】~東京における今後の景観施策のあり方について~』2006年1月31日、『東京都景観計画2011年4月改定版』2011年4月1日
註36 環境省「サステイナブル都市再開発ガイドライン~都市再開発におけるミニアセス~」2008年3月、このガイドラインが存在するにもかかわらず、新宿区は住友不動産による大規模開発を容認、また住友不動産は国際記念物遺跡会議(International Council on Monuments and Sites、略称 ICOMOS、イコモス)のパリ総会決議に基づく勧告を黙殺した
註37 經濟雜誌社編「秋元國子」『大日本人名辭書 訂正増補第六版』經濟雜誌社 1909
註38 五十嵐榮吉「宮崎敬介君」『大正人名辭典 第三版』東洋新報社 1917
註39 芳水生「重役印象記(三) 大坂電燈社長 宮崎敬介氏」『實業之日本』第二十四卷第二十一號 實業之日本社 1921年11月1日
註40 五十嵐榮吉「宮崎敬介君」『大正人名辭典 第三版』東洋新報社 1917、芳水生「重役印象記(三) 大坂電燈社長 宮崎敬介氏」『實業之日本』第二十四卷第二十一號 實業之日本社 1921年11月1日
註41 芳水生「重役印象記(三) 大坂電燈社長 宮崎敬介氏」『實業之日本』第二十四卷第二十一號 實業之日本社 1921年11月1日
註42 宮崎敬介銅像銘略歴、出張マジシャン牧田天光サイト写真図版による
註43 「○淺草聖約翰教會來歷(一)(布教時代)」『基督教週報』第四卷第七號 基督教週報社 1901年10月18日
註44 石川和平 石川カネ 河野喜久代 河野裕道司祭(司会) 清田克己 志賀和子 大藤好翰 大藤正子 中村俊介 原戸光子 星野ヨセ 松田高子 編集部=伊藤裕元「〈座談会〉一〇〇年をめぐる―明治9年頃から昭和33年まで―(1)草創時代~太平洋戦争戦前」1975年5月18日、日本聖公会浅草聖ヨハネ教会百年誌編修・出版委員会編『浅草に召されて 浅草聖ヨハネ教会百年史』日本聖公会浅草聖ヨハネ教会 1986所収における大藤好翰発言、ただし同書では角中主一郎を「角中圭一郎」とする
註45 「⦿淺草聖約翰教會來歷(二)(組織時代)」『基督教週報』第四卷第十號 基督教週報社 1901年11月8日
註46 「⦿淺草聖約翰教會來歷(二)(組織時代)」『基督教週報』第四卷第十號 基督教週報社 1901年11月8日による、「北東京地方教會史 聖約翰教會」『基督教週報』第十九卷第廿五號 基督教週報社 1909年8月20日、および安積千勝編『教会沿革史』浅草聖ヨハネ教会 1932、日本聖公会浅草聖ヨハネ教会百年誌編修・出版委員会編『浅草に召されて 浅草聖ヨハネ教会百年史』日本聖公会浅草聖ヨハネ教会 1986所引にも同様の文が載る
註47 「私の信ずる宗旨と信仰の動機」『日本一』第七卷第四號 大日本文華會社出版部 1921年4月1日
註48 角中主一郎「寄書 在京神學生諸君に一言す」『基督教新聞』1890年6月6日8面
註49 「發刊の趣旨」『八紘』第壹號 立教學校文學會 1895年3月15日
註50 日本聖公会浅草聖ヨハネ教会百年誌編修・出版委員会編「〔I〕浅草聖ヨハネ教会百年史 明治9年(一八七六年)~昭和51年(一九七六年) (2)教会の基礎確立時代 清田長老・大藤長老の「黒船町」教会〔明治25年~大正5年〕」『浅草に召されて 浅草聖ヨハネ教会百年史』日本聖公会浅草聖ヨハネ教会 1986
註51 加納重朗「早川喜四郎」日本近代キリスト教歴史大事典編集委員会編『日本近代キリスト教歴史大事典』教文館 1998
註52 『福音会月報』第廿一号 千八百九十三年六月二十四日発兌、『福音會沿革史料 自一八九三年(明治二十六年)五月 至一八九五年(明治二十八年)八月』カリフォルニア大学ロサンゼルス校Japanese American Research Project(JARP)コレクション、阪田安雄 山本剛郎 飯田耕二郎 新井勝紘 吉田亮編『福音会沿革史料』現代史料出版 1997による
註53 『福音会月報』第二十二号 千八百九十三年八月五日発兌、『福音會沿革史料 自一八九三年(明治二十六年)五月 至一八九五年(明治二十八年)八月』カリフォルニア大学ロサンゼルス校Japanese American Research Project(JARP)コレクション、阪田安雄 山本剛郎 飯田耕二郎 新井勝紘 吉田亮編『福音会沿革史料』現代史料出版 1997による
註54 『福音会月報』第二十三号 千八百九十三年十月五日発兌、『福音會沿革史料 自一八九三年(明治二十六年)五月 至一八九五年(明治二十八年)八月』カリフォルニア大学ロサンゼルス校Japanese American Research Project(JARP)コレクション、阪田安雄 山本剛郎 飯田耕二郎 新井勝紘 吉田亮編『福音会沿革史料』現代史料出版 1997による
註55 『福音会々報』第廿四号 千八百九十四年一月廿日発兌、『福音會沿革史料 自一八九三年(明治二十六年)五月 至一八九五年(明治二十八年)八月』カリフォルニア大学ロサンゼルス校Japanese American Research Project(JARP)コレクション、阪田安雄 山本剛郎 飯田耕二郎 新井勝紘 吉田亮編『福音会沿革史料』現代史料出版 1997による
註56 「私の信ずる宗旨と信仰の動機」『日本一』第七卷第四號 大日本文華會社出版部 1921年4月1日
註57 上村希三雄『宮崎兄弟伝 アジア篇 上』葦書房 1987、原出典は不明
註58 宮崎敬介「論説 國際談判と傳道會社」『教界評論』第四十七號 有信社 1895年12月10日
註59 株式會社東京株式取引所廣告『讀賣新聞』1899年8月17日朝刊6面
註60 「社長と專務 堂島米穀取引所理事長 宮崎敬介氏」『實業之日本』第二十八卷第五號 實業之日本社 1925年3月1日
註61 芳水生「重役印象記(三) 大坂電燈社長 宮崎敬介氏」『實業之日本』第二十四卷第二十一號 實業之日本社 1921年11月1日
註62 根本十郎「豐川鐡道株買占事件」『兜町』廣陽社 1929
註63 五十嵐榮吉「宮崎敬介君」『大正人名辭典 第三版』東洋新報社 1917
註64 芳水生「重役印象記(三) 大坂電燈社長 宮崎敬介氏」『實業之日本』第二十四卷第二十一號 實業之日本社 1921年11月1日
註65 法貴宗太郎(川本拾桃)『大電解散記念大集』大阪讀賣新聞社出版部發行 中外日々新聞社代理部發賣 1923
註66 南方熊楠「岩田準一宛書簡」1931年8月20日、澁澤敬三編『南方熊楠全集 第八卷 書簡 I』乾元社 1951による、『南方熊楠全集 別巻第一 書簡補遺・論考補遺』平凡社 1974と字句の異同があるが乾元社版によった
註67 武内善信「ユニテリアン社会主義者小笠原誉至夫と南方熊楠」『キリスト教社会問題研究』第37号 同志社大学人文科学研究所 1989年3月10日
註68 佐治實然「日本のゆにてりあん主羲」『六合雜誌』第貳百貳拾四號 日本ゆにてりあん弘道會 1899年8月15日
註69 南方熊楠「杉村広太郎宛書簡」1887年9月9日、澁澤敬三編『南方熊楠全集 第八卷 書簡 I』乾元社 1951による、『南方熊楠全集 第七巻 書簡 I』平凡社 1971と字句の異同があるが乾元社版によった
註70 Karl Marx『Der 18te Brumaire des Louis Napoleon』Die Revolution (New York) 1852、Marx-Engels-Gesamtausgabe Abteilung I. Band 11による
註71 金世濂「富士山 其八」『金東溟槎上録』、鄭夢周等撰『海行摠載』所収、釈尾春芿編輯『朝鮮群書大系續々 第五輯海行摠載 三』朝鮮古書刊行會 1914
註72 范曄『後漢書 卷八十五 東夷列傳 第七十五』430年頃成立、諸子百家中國哲學書電子化計劃による
註73 范曄『後漢書 卷八十八 西域列傳 第七十八』430年頃成立、諸子百家中國哲學書電子化計劃による

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