今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

魯迅と日暮里(32)南波登発の「亞細亞」への視線(7)南方熊楠と孫文ならびに「青年自由黨」の先駆者たち Sun Yat-sen in Wakayama

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小笠原誉至夫及び南方熊楠は、孫文と交友を結んだ人物として知られる。

大学予備門を落第した小笠原誉至夫、既成の学問、教育に学ぶべきものがないと見た南方熊楠は、2人とも「立身出世」コースを逸脱。南方熊楠はアメリカからヨーロッパへと渡航、14年間の留学生活を送る。アメリカでは自由民権運動の亡命者たちと相知り、オークランド在住の山口熊野、石阪公歴ら亡命民権活動家によって出版された日本語新聞『新日本』の読者となり(註1)、さらには通信員になることを承諾したほか(註2)、手書きの回覧新聞『大日本』発行に参加している。(註3)また、同郷の志賀信三郎が秘密出版した『速記法要訣』(実は条約改正反対意見書)を弟の南方常楠より送られて入手、多くの書き込みを残している。(註4)
6年のアメリカ留学を終えて、フロリダ、キューバ経由で到着したロンドンには8年間滞在している。ここで南方熊楠は孫逸仙に出会う。アジアの2ヶ国の巨人はロンドンの地で衝突、互いの心の深部で結ばれた交流を開始するのである。

郭沫若「歳陰紀年法」『甲骨文研究』より

郭沫若「歳陰紀年法」『甲骨文研究』より

「明治二十九年予大英博物館に在て讀書の暇に屢ば孫文氏とバビロニアの古物展覧室に往き閑談した。そこで或時逸仙予に語つたは、古支那人が曆を記すに、太歳甲にあるを閼逢、乙にあるを旃蒙、丙にあるを柔地等、又太歳子にあるを困敦、丑にあるを赤奮若、寅にあるを攝提格抔と書た。是等の號何れも支那語でなく全く外國語を音譯したのもとみえると。因て予手の及ぶ丈け支那學者共に問合せたが明答し得る人は無つた。今日は最早定説もある事と察するから、大抵右の諸號は何國に起つたといふ事を、例の西説受け賣りで宜しく御教示を望む。(南方熊楠)」(註5)

柳田国男によって組織された雑誌『民俗學』の「紙上問答」の1問である。ただし、「紙上問答」も停止、結局この質問にたいする回答はなく、雑誌も廃刊となった。(註6)こののち柳田国男の自邸で個人組織の木曜会が発足、機関誌『民間傳承』を創刊し、組織名も「民間傳承の會」、「日本民俗學會」と変遷、現在に至っている。
南方熊楠と孫逸仙の識り始めたのは、矢吹義夫に宛てた書簡、いわゆる『履歴書』によれば次のような経緯によるものであった。

南方熊楠「逸仙は終始背広服上圖の樣な平凡な帽をかぶり」乾元社版全集による

南方熊楠「逸仙は終始背広服上圖の樣な平凡な帽をかぶり」乾元社版全集による

「ダグラス男【大英博物館東洋圖書頭サー・ロバート・ダグラス】の官房で始めて孫逸仙と知人となれり。逸仙方へ毎度遊びに之て逸仙亦小生の家に遊びに來れり。逸仙龍動(ロンドン)を去る前、鎌田榮吉氏下宿へつれゆき、岡本柳之助え添書を書きもらへり。是れ逸仙日本に來りし端緒なり(其前にも一度來りしが、横濱位のみ數日留りし斗りなり)。マルカーンとかいふ愛蘭土(アイルランド)の陰謀士ありて、小生と此人と二人逸仙出立にヴヰクトリア停車場迄送り行たり。逸仙は終始背広服上圖の樣な平凡な帽をかぶり、小生が常にフロックコート、シルクハットなりしと反映せり。明治三十四年二月頃、逸仙横濱の溫(ワン)某【平凡社版全集編者注・温炳臣】をつれ和歌山に小生を尋ね來りし事あり。前日神戸かどこかで王道を説し時、支那帝國の徳望が今も印度邊に仰がれおる由を演(のべ)たるが、これは小生が曾て孫に話せしことを敷衍せるにて、つまり前述山内一豐が堀尾忠氏の言を採りしと同じやり方なり。」(註7)

この時に2人が交わした会話は、南方熊楠によれば次のとおりである。時に1897年3月16日のできごとである。

「◇【1897年】三月十六日[火]晴
長岡氏よりスクラプ・ブク着す。氏に頼み購ふ所也。
ダグ氏オフィスにて孫文氏と面会す。」(註8)
「孫逸仙と初めてダグラス氏の室であひしとき、一生の所期はと問はる、小生答ふ、願くば吾々東洋人は一度西洋人を擧て悉く國境外へ放逐したき事也と。逸仙失色せり。」(註9)

そのとき、孫文のほかにロバート・ダグラス(Sir Robert Kennaway Douglas)も同席していた。

「英國人を東洋より追出すべしといふことはダグラス男が孫氏を小生に紹介せし當座に小生が申し出しことにて、ダグラスも孫も大に驚かれたるなり。」(註10)

そして、2人は次のような約束を交わす。

「黄興兵を起し大亂に及び候由電報にて見る、小生も孫文と兼約有り。もしいよ〱確定に及び候はゞ一度被【平凡社全集は「かの」、彼カ】軍を見舞はんと存居候、椿蓁一郎といふ人當縣知事たりしとき、文自ら和歌山に小生を訪ひ和歌浦で會談せし事ありしも、汽車中より人につけられ終に熟談を得ざりし。」(註11)
「小生孫逸仙と約束あり、彼人の事成らば廣州の羅浮山を天下の植物園とする事にかゝる事に候。何とか早く彼人位置少々でも堅まり次第、瑣末なる紛擾を放棄して彼國へ渡り度存居候。」(註12)

南方熊楠「多屋たか宛葉書」平凡社版全集による-(1)

南方熊楠「多屋たか宛葉書」平凡社版全集による(1)

孫文のことは、既にその前年からロバート・ダグラスより聞き及んでいた。

「◇【1896年】十一月十日[火]陰
博物館にてダグラス氏に遇ふ。昨日支那人スンワンにあひし由、是は前日支那公使館に捕縛されしものなり。加藤公使へ一書出す。[追記]〈スンワンは孫逸仙也。〉
◇十一月十一日[水]
博物館にてダグラス氏を訪。支那人スンワン来在、予はあはず。
◇十一月十二日[木]
三時二十分より、ダグラス氏と同車、公使館に行。同氏が加藤公使と話す凡そ一時ばかり、去り、分れ、予は加藤八十太郎氏方に行き、飲、かえり、今夜寒く予嘔吐す。
◇十二月二十二日[火]陰
午下、博物館へ行く。途上細井氏を訪ふ。木村氏も居れり。
博物館にてダグラス氏を訪、盆(オシキ)一枚贈る。
支那人孫、今は自分の幽囚録作り居るとの事。」(註13)

「Li Shi-chin speaks of its use in amorous arts, whereas I learn from my friends, Dr. Sun Yat-sen 孫逸仙―the “Chinese kidnapped in London”―that, in Kwangtung it is abundantly produced, but now simply forms an objevt or juvenile amusement.」(註14)

孫逸仙の誘拐(kidnapping)事件に南方熊楠は関与し、また、解決の手掛かりを与えるキーパースンになっているのである。(註15)
初面会後の南方熊楠と孫文は、しばしば懇談を繰り返すようになる。他の友人に比べても、ただならぬ親密さである。

南方熊楠「多屋たか宛葉書」平凡社版全集による(2)

南方熊楠「多屋たか宛葉書」平凡社版全集による(2)

「◇【1897年】三月十七日[水]
博物館にて孫文氏と館正面の椅子に腰掛談(はな)す」
「◇三月十九日[金]晴
朝細井氏来る。共にバスにのり、其店に一寸立寄、予は博物館に行く。午後六時過、館を立出、孫文氏とマリア(ハイドパーク辺の料理店。予曾て今西、杉田等をつれ行し所)に行き食す。それよりハイドパークにて話し、別れ帰る。
◇三月二十日[土]微雨
午後ロンドン大学に之、ヂッキンスにあふ。
博物館前イースター島像傍のベンチに腰掛、孫文氏と話す。夜、館仕舞ひ、バグダニ氏と共に其宅に到る。」
「◇三月二十六日[金]陰
(中略)夜孫文氏とオクスフォード街ビアナ食肆に食す。孫氏、予を招く也。それより共に税所氏を訪ひ、共に博物館(アッシリア、バビロニア、埃及及ペリュ等部)を見る。それより孫氏に分れ、税所氏とショーラー方に食ひ、分(わかれ)帰る。
◇三月二十七日[土]
博物館員美少年ハーヴヰー館員、訣別に来る。此児予二年以上知る。
夜博物館仕舞、孫文氏とトテンハムコート街ショラー方に飯す(下等食店)。それより同氏居に行、十時に至り分れ帰る。
◇三月二十八日[日]雨
午後孫文氏来る。共に税所氏をまつ、久く不至。夜共に出、マリア方に飯ひ、スローン・ストリートにて孫氏と分れかえる。」
「◇三月三十日[火]
午後孫文氏と共にダグラス氏を訪ふ。」
「四月五日[月]
朝津田三郎氏状至る。
博物館六時に仕舞、孫氏とレストラント(ショーラル方)に食し、孫支払ふ。それより孫宅に至り九時迄話し、バスにのりノチングヒルに至り(十時)、十時過帰宅。」
「◇四月八日[木]陰
此日、孫氏に博物館に一寸話す。」
「◇四月十日[土]晴
博物館に行、孫氏と話す。」
「◇四月十三日[火]晴
夜十時過Mulkern氏を訪(孫の友也)、それより地下汽車にて孫氏を訪、三人にてバスにのりフヰンチャルチ街停留場に入、共にチルベリー・ドックに津田氏を訪。水兵案内半にして津田氏到り巨細示され、後宴席に入り酒及ソーダ水を予(あたえ)られ、二人は日清戦争の写真帖を見、予は津田氏と話す。其内、津田氏(水雷長)の副斎藤氏来る。共に色々話し、四時三分の汽車にて分れ、ビショプス街にて孫及他の一人と分れ、予は歩してトテンハムコート・ロードに至り晩食(ショーラル方)、それより田島氏を訪、福島という人もあり、共に話し、十時半に至り福島は帰る。予は田島と十二時迄話しかえる。」
「◇四月十五日[木]晴
一昨日つれ行しは此人也。
  R. J. Mulkern
  66 Clarendon Road, Holland Park, W.」
「◇四月十九日[月]
午下博物館に之(ゆく)途上、田島氏をサウスケンシングトン博物館前に見る。因て馬車より下り、ナチュラルヒストリー館内の園に入り話す。氏、宿屋を立退くことに付色々相談あり。それより分れ、予はマリア方に食し、館に之く。夜、孫氏とカフェ・ヴヰエナ(ニウオリスホルト街)に之、飯(めしく)ひ、其宅に行、十時迄談し帰る。
◇四月二十日[火]晴
午下博物館へ之途上セントジェームス公園の側にて田島氏歩して行を見、馬車より下り、つれてマリアに至り食し、ハイドパークよりケンシングトン・パークに至り暫時坐して話し、氏は紀侯世子方へ行、余は博物館に之。余又博物館に之途上細井氏を店に訪ふに、法律沙汰の事あり。余、為にヂキンス氏を大学に訪、不在。博物館にリード氏を訪、それより一寸門に出るに、河内丸受取に来し水夫二人、伴侶三人館内にて見失ひ、インヂアン・ドクに帰る途を不知、途方にくれおる。余、孫逸仙と話しありしが、此事を見出し、孫に分れ水夫をして坐して俟(また)しめ居る内、他の三人出来る。一礼して分れ、細井方に向、不在。
夜帰途加藤氏を訪、飯ふれまはる。一時半に至り、分れかえる。氏話しに、カイアンの祖母(加藤章造氏の姑)死にし由、二週前とのこと。
館にて孫氏より津田少佐におくる自伝一冊受く。」
五月八日[土]半晴
午下斎藤氏を訪、不在。それより田之助氏を訪、十志渡し、明日の宴会の酒精、灯及び鍋等買ふことを依託し飯ひ、博物館に之、ダグラス氏に面す。動物園の札七枚貰ふ。(此内三枚は一年に二十枚を限るものにて殊の外貴重のものとのこと。)それよりリード氏に面し、孫逸仙及老人(西班牙人)に明礬茶等を見せることをたのむ。やがて見せる。館は五時半にしまい加藤氏を訪、不在。湯に入り、飯(めしく)ひ(マリア方)世子ホテルに行、灯火なし。因てかえる。」
「◇五月二十四日[月]晴
細井氏店を訪、不在。吉岡氏へ状一出し、それより博物館に之、ダグラス氏に面し、津田氏より氏の二女におくる二品を渡す。夕孫逸仙氏と飯ひ、ホテル世子室へ行、まてども誰も到らず。共に鎌田氏を訪、不在。荒川領事に詣る。灯已に闇し。歩してノチングヒルよりマルブルアーチに至り分れ帰る。」
「◇六月十六日[水]晴
午後鎌田氏を訪。二時過て博物館に往、一寸ダグラス氏に面す。それより氏の召使アルドリヂに古文の写し第二帙(二十枚づゝ七志半づゝ)四部買しめ、孫逸仙と鎌田氏を訪。それより予の家に来り、田島氏も来る。孫氏と食肆に行、それよりハイドパークに歩し、十二時前別れ帰る。
ダグラス氏状一来りあり。」
「◇六月十八日[金]陰
孫氏をまつ。来らず。因て博物館に之く。
◇六月十九日[土]
午下孫逸仙氏来る。共にキウに行、途上田島氏及同宿の西班牙産ラモンにあふ。それよりキウに行、諸室を見る。汽車にて西ケンシングトンに到り、田島氏を訪、話して九時に至る。出でて暴雨を冒しハイストリートに至り(バス賃上げアヂソン・ロードよりハイストリート迄六片)食し、孫氏はバスにて帰る。
予帰ればヂッキンス氏より来状来りあり。世子キウ気象台を見るに付、台長よりの案内状也。
◇六月二十日[日]
午下孫氏来る。共にナチュラルヒストリー館を見る。マリアー方にて飯の後分る。」
「◇六月二十五日[金]
インペリアル・インスチチュトのアベル氏(東洋語学黌長)より聖諭広訓何処にて得べきやをとはる。
博物館に之。孫氏訪はる。明後日相会を約し分る。」
「◇六月二十七日[日]晴、朝雨(あめふ)る
午後四時孫逸仙氏訪はる。七時共過共に出、田島氏を訪、菊地謙譲、尾崎行雄二氏へ案内のこと承諾さる。十時過、孫と共に出、マリアー方にて食。(時に十一時なり。コールドビーフを食、予酒二盃、孫氏はレモンのみ。)共に出、ハイドパークを過れば十二時也。マーブルアーチにて分れかえる。
孫氏及び田島氏、昨日の海軍式を見たり。雨にて孫氏は何にも見ざりし由。
◇六月二十九日[月]晴
今日、女王ケンシングトン・ハイストリートに来る。近街賑はふ。
朝鎌田氏方へ行、状渡し来る。孫氏の事をたのむなり、博物館にて五時過孫氏にあふ。氏の訳する所、赤(紅)十字会救傷第一法三冊受く。田島、鎌田及予に贈らるゝ所なり。(女王に呈し、又サリスベリー侯におくれり。釘装に各五磅づゝを要せし由。)
アベル氏より礼状来る。
◇六月二十九日[火]
朝田之助氏訪、フクジンヅケほしとのこと。
今日デーリー・グラフヰーに去る土曜日午後富士艦の機関工鈴木鉄之助氏死亡、昨日ライドにて葬る。市の長、之に随ひ墓に之(ゆき)し由をのす。
午下鎌田氏を訪ふ。孫文を岡本柳之助氏に紹介の状受取り、博物館に之、四時過孫文来り渡す。
夕田島氏を訪。菊地謙譲氏への紹介状、已に孫氏へ送りし由。二人近街を歩しかえる。氏の言に、去る土曜日艦にて望月氏打れし由。」
◇六月三十日[水]
細井氏へ状一出す。船へ人おくること断る也。
カブにて孫氏を訪(十一時前)。先日共に艦見に行し人もあり。佐藤寅(虎)次郎氏宛の状を孫氏に渡し、十一時宅の前にて分れ帰る。二人はセントパンクロス停車場に之。館に之、ダグラス氏に面し、孫よりの辞を述ぶ。夕ハイドパークにて無神論の演舌きく。演者ロニー中々達舌なり。終に喧嘩おこり、予高帽を巡査に打る。かえれば十一時頃。」
「◇七月三日[土]
  海外逢知音
  南方學長屬書
    香山孫文拜言
これは六月二十七日孫氏親筆也。
夕ハイドパークにて無神論演舌きく。耶蘇に化せしジウ来り長々しく論ず。」
「◇七月二十日[火]
朝津田三郎氏より来状。富士はポートランドにて竣工の筈、然し何時出立するやは一向分らぬ旨申越る。
バサー氏使してイースト・アシア初号贈らる。氏の日本の髪ゆひどこの事あり。又第一に孫文氏の支那行法改革論あり。」(註16)

孫文手蹟『南方熊楠-ロンドン日記』の1頁

孫文手蹟『南方熊楠 ロンドン日記』の1頁

孫文が南方熊楠に送った敬称「學長」に注目したい。大博物学者となる南方熊楠に対して、孫文は医師としての、自然科学者としての敬愛を表明しているのである。後藤正人氏のいうように、たんなる政治的な結びつきだけでない関係を、われわれはここに見ることができるのだろう。(註17)

1901年2月13日、中山樵(きこり)の日本名で滞在していた孫文は、横浜の温炳臣を伴い、和歌山を訪れている。

「◇【1901年】二月十三日 晴
中山樵状一受。
夜十時過(人定後)中山より状受、富士屋旅館へ来留の旨也。
◇二月十四日 快
朝九時頃中山人車に乗り独り来る。新坐敷へ通し会話、西洋料理食ふ。通事温炳臣よびにやり二時頃来る。蝦及すし食ふ。小笠原誉至夫よびにやる(汽車中に二人にあひし也)同人来る。五時頃小笠原、孫、温、予四人車にて芦辺屋に之。予は不飲、三人飲、富士屋に之ば七時過也。飯後小笠原去、予は十時過帰来る。
 [追記]
 〈昭和四年八月廿九日早朝注す。中山樵孫逸仙也。〉
◇二月十五日 快 寒
十二時前中山氏を訪、温と共に帰来しとき也。共坐会話中、二人二時二十四分に出立んことをいふ所、忽ち常楠、楠次郎及常太郎呼にやり、裏橋角林方に会し、写真とり、兄弟甥一同おくりゆく。□□【後藤正人氏は明渡と推定】氏及山田常太郎又有合す。定時に出立す。予は兄弟と分れ林方に至り傘とりに帰宅。夜八時過小笠原氏を訪。妻と話し次に夫の寝室に之、十時過帰る。
  横浜百廿一番 温炳臣 Wan Bing Shan」(註18)

孫文和歌山来訪記念写真-平凡社版全集による

孫文和歌山来訪記念写真 平凡社版全集による

小笠原誉至夫は、南方熊楠によれば、温炳臣とは以前よりの知合いであったらしい。

「此人右の溫と知人にて孫と溫が和歌山へ下る汽車中に邂逅し、問て小生方へ來ることゝ知り直ちに椿蓁一郎氏(當時知事)を訪ひ、密かに告べきことありとて小生方へ孫が大事をたくみに來りし樣報告し、扨孫と小生の談話中、温を自分方へまねき色々と談話し、其委細を探りしやうに候。而して小生方へは刑事が乘込み色々と探索に及候も何事も無くすみ申候。小生因て小笠原と溫を招き、孫と共に和歌浦第一の芦邊屋へゆき、何とか申し西鄉從道などを手鞠につきし尤物の酌でのみ、勘定は小笠原が拂ふからと歸りしことあり。」(註19)

温炳臣はカトリック信者(註20)、小笠原誉至夫もクリスチャン、どこかで接点があったのだろうか。加えて、孫文もまたキリスト教徒である。また、文中からは、南方熊楠が小笠原誉至夫を密告者であると猜疑心を抱いていたことが分かる。ただし、小笠原謙三氏、武内善信氏の調査の通り(註21)、孫文の行程は密偵者によりその一部始終が当局に通報されていた。

「明治卅四年二月十四日接受  主管 政務局 石井 小池 阿部【回議印】
秘甲第五六號【号+乕】
清國亡命者孫逸仙ハ同國人温炳臣ヲ隨ヘ昨十二日午後六時四十分横濱發汽車ニテ大坂ヘ向ケ出發セリ(大阪府電報濟)右ハ本月五日秘甲第四四號【号+乕】報告ニ係ル暹羅國行ノ發程ナルカ将タ又単ニ関西地方ノ旅行ナルカ未詳目下内偵中
右及報告候也
  明治三十四年二月十三日
      神奈川縣知事周布公平
 外務大臣 加藤高明殿    内外兩相 局長 総監
               大坂兵庫長崎廣島山口福岡
【欄外】 大臣 高明【印】 總務長官 内田康哉【印】 機密受第273號【号+乕】」
「明治卅四年二月十五日接受  主管 政務局 石井 小池 阿部【回議印】
特甲第五五號
左之通相聞候條及内報候也
  明治三十四年二月十三日 大阪府知事菊池侃二
   外務大臣 加藤高明殿
      警視総監、神奈川、愛知、京都、兵庫、廣島、山口、福岡
      佐賀、長崎、和歌山、縣知事、通知済
一清國亡命者
  孫逸仙ハ温炳臣ヲ隨ヘ今十三日午前十時二十分梅田着列車ニテ横濱ヨリ来阪(神奈川縣知事ヨリ電報ニ接ス)中ノ島一丁目森吉樓ニ立寄リ昼餐ヲ喫シ午后二時三十分難波発列車ニテ和歌山ヘ向ケ出発セリ(和歌山縣知事ニ電報済)一行ハ和歌山市在住ノ知人ヘ面談ノ為メ立越ス㫖語レルモ其姓名ハ秘シ居レリ尚ホ仝地ヘ着ノ上ハ本町三丁目旅舎藤源方ヘ投宿ノ筈ナリト云フ
【欄外】 總務長官 内田康哉【印】 機密受第381號【号+乕】」
「明治卅四年二月十八日接受  主管 政務局 石井 小池 阿部【回議印】
秘甲第五九號【号+乕】
清國亡命者孫逸仙ハ仝十六日午前十時十五分着汽車ニテ帰濱セリ(大阪府電報ニ接ス)
右及報告候也
  明治三十四年二月十六日
      神奈川縣知事周布公平
 外務大臣 加藤高明殿    
       内外兩相 局長 総監 大坂
       兵庫 廣島 山口 福岡 長崎
       各府縣知事
【欄外】 總務長官 内田康哉【印】 機密受第493號【号+乕】」
「「明治卅四年二月十八日接受  主管 政務局 石井 小池 阿部【回議印】
特甲㐧六一号
左書之通相聞候條及内報仕也
  明治三十四年二月十六日 大阪府知事菊池侃二
    外務大臣加藤高明殿
     警視総監、神奈川、愛知、京都、兵庫、廣島、山口
     福岡、佐賀、長崎、和歌山縣知事通知済
一、清國亡命者
   既報孫逸仙、温炳臣ノ二名ハ昨十五日和歌山ヨリ帰京ノ途次来着(和歌山縣ヨリ電報ニ接ス)難波駅ニ下車スルヤ直ニ人力車ニ投シテ梅田ニ抵リ午后六時五十三分発列車ニテ横濱ヘ向ケ出発セリ(神奈川縣ヘ打電ス)
【欄外】 總務長官 内田康哉【印】 機密受第693號【号+乕】」(註22)

孫文写真及び裏書『ラ・スーノ』7号より『竹馬の友へ』による

孫文写真及び裏書『ラ・スーノ』7号より『竹馬の友へ』による

これに限らず、孫文の一挙手一投足は探偵を通じて政府機関に筒抜けだったのである。小笠原誉至夫はその後も孫文との交友はあったらしく、孫文の贈呈した自らの写真の裏書には「壬丑年三月二十五日」と書く。西暦であれば、1901年3月25日、清暦であれば同年5月13日のことであるが、5月には壇香山(ホノルルHonolulu)にいたはずであるので(註23)、西暦の3月25日と解される。和歌山から横浜に帰ったあとのことであり、写真は横浜で同席した際に手交されたものという。(註24)また面会は複数回にわたり(註25)、文通も交わしていたとのことである。(註26)写真は横浜鈴木写真館撮影で、小笠原謙三の推測では、温炳臣の家で写真を手渡されたのではないかとのことである。(註27)
のちに南方熊楠は、『牟婁新報』紙のインタヴューに答えて孫文の印象を次のように語っている。

「明治三十四年二月、逸仙【2字黒丸圏点】今一人の革命黨員を隨へ、中山樵【3字△圏点】と假名して、龍動(ろんどん)一別以來の舊誼を述ん爲め、横濱より和歌山え予を來訪され、大に蘆邊屋【3字白丸圏点】で飲み、翌正午出立の際、三木橋西詰淺井寫眞舗【5字△圏点】で取つた者ぢや、逸仙【2字黒丸圏点】龍動出發の際、見送り人は予と愛爾蘭(アイユランド)人「マルコーン」二人で「マルコーン」は現に革命軍に加はり居る【、】常楠【2字黒丸圏点】方に二三日滯留と有るが、實は富士源【3字白丸圏点】へ一夜留つた切りぢや、最も彼寫眞でも明了なる通り、予其時三十五歳、孫【1字黒丸圏点】は三十四歳で、予は中々美男子だつた、嘘と思はヾ、例のお幾榮枝【4字△圏点】等に聞て見るがよい、又熊楠【2字黒丸圏点】が言(いふ)たとして、孫【1字黒丸圏点】は大法螺吹きで、口斗りの物と思ひ居たが、今度の革命軍で男を擧げたと有るが、是(あ)れも誤聞で、熊楠【2字黒丸圏点】が頃日或人に語りしは、伍子胥楚の難を遁れ、君父の讐を返さんとて、吳君に謁見せしも説行はれず、時可ならざるを見て、野に耕す事七年、一朝闔廬の即位に遇て、忽ち龍驤したとある、其通り、大事を成んとする者は、他人は素より、同志からも、丸で見落とさるヽ程人の目を暗まさねば成らぬ、逸仙【2字黒丸圏点】如きも又大石内藏之助【6字黒丸圏点】抔も、到底物に成らぬと世論定まる迄、落着き居た所がエライ、だから予抔も、一層酒を飲み、ぶら〲する積りぢやと云ふたのぢや云々」(註28)

辛亥革命後の1913年に、孫逸仙は和歌山での再会を申し出るが、南方熊楠は体調不良から、和歌山まで乗船しての旅行ができないと断っている。

「小生また眼悪く困りおれり。旧友孫文、小生と和歌山にて会見したき由、伊東知也氏に語られたりとのこと、『大阪毎日』等に出で、和歌山より人々よび出しに来たり候も、眼悪きゆえ一人にて海上旅することならず、何にもできず梟のごとく黙坐しおる。」(註29)
「一昨日、孫逸仙より伊東知也氏を通じて、小生和歌山まで上らば、孫も和歌山へ下り会見したしと申し出でられたる旨承りたるも、海上の旅あぶなく、家弟に命じ断わらせ申し候次第、」(註30)

ロンドンで紹介状を依頼した鎌田栄吉に関しては、次のような感想をもらす。日記には書かなかった種明かしである。

「扨前日鎌田榮吉氏支那に渡り、上海で孫文を訪ひ、歸途大毎紙の記者に會談せし筆記を見るに「孫文とは倫敦(ロンドン)で舊識なりし故訪ひし云云」とあり、當時孫落魄して倫敦で親友とては愛爾蘭の恢復黨員マルカーンと小生のみなりし。(倫敦出立にも二人のみ見送れり)。徳川頼倫侯鎌田と大英博物館へ來りしとき、小生孫と二人長椅子に腰掛けまち居り孫を侯に紹介せり。其とき誰かゞかゝる亡命徒をかゝる華族に引合す南方は危險極まる人物と評せり。其後孫日本へ遁るるに付故岡本柳之助氏へ引合さんとするも、小生はもと岡本の邸に近く表札を掲げたるも氏を知らず、鎌田方へつれゆき紹介狀を頼みしに日本文にて「此狀持參の支那人孫逸仙東京へ之くから引合す」と極て短文にかきたる實に無作法な書方也。(日本の新紙等に今に支那人に限り氏の字を尊稱せず、支那人は甚しく不快に思ふなり)。鎌田と孫との會見は此の二回に留まる、(恐くは又多分は此紹介狀など孫氏は一向用ひざりしことならん)。然るに孫が兎に角中華の大統領などと名を揚るやうになると、舊識など唱へ、わざ〱訪問するに及ぶのみならず、心ひそかに之を榮光と心得る樣子也。此通りにて吾邦の人は何にまれ誠實を缺くやうに被思申候。」(註31)
「御尋問之孫逸仙氏のことは古きこと故小生記臆たしかならず。氏が支那公使館に囚れしとき色々骨折り救出せし人はカントリー(James Cauntie)でたしか孫氏の舊師たりし醫師か傳道師と記臆致候。ロンドンにありしとき尤も親交ありしは、小生とマルカーンといふアイリシユ人なりし、マルカーンとはどう書きしか只今覺え不申候。」(註32)

Seán-Hogan's-(NO.-2)-Flying-Column,-3rd-Tipperary-Brigade,-IRA-during-the-Irish-War-of-Independence-wikipediaによる

Seán Hogan’s (NO. 2) Flying Column, 3rd Tipperary Brigade, IRA during the Irish War of Independence wikipediaによる

「愛爾蘭の恢復黨員マルカーン」、「マルカーンといふアイリシユ人」は、Rowland Joseph Mulkernが正式名。ローランド・マルカーンは、ロンドン近郊サリー・カウンティのオックリー(Okley, Surrey)で、Edmund Mulkernを父に、東インド会社(EIC)大尉の職を購入して少佐に昇進したMartin Mulkernを祖父に、また、東インド会社少将のSir William Tooneの娘を祖母に生れる。(註33)ロンドンでの住民登録は1896年で途絶。(註34)
ローランド・マルカーンは、ショーン・エイモン・マック・レイモン(Seán Éamonn Mac Réamainn、英John Edward Redmond)のアイルランド議会党(Páirtí Parlaiminteach na hÉireann、英Irish Parliamentary Party)またはシンフェイン党(Sinn Féin)の党員であるらしい。(註35)
マルカーンは、南方熊楠の日記には、他に次のように載る。

「◇【1899年】八月三十一日[木]
午後飯田氏を訪、末吉氏と話す。夕栗原氏と共に其宅に之、飯ふ。途上ナイツブリジにてマルカーン氏及一支那人に遇ふ。」
「◇九月三日[日]晴
午後四時過マルカーン氏を訪、ホイスキーのみ話して夜に入、氏ノチングヒルゲート迄送らる。他の事不知。途上チャーチ・ストリートとエルム・パークの間と思しき処にてつまづき、ひたひの右側を打、血出、耳に流れ入る。高帽を落しそのまゝ帰る。途上巡査に気付らる。」
「◇九月十一日[月]陰
朝十一時頃高橋来り、五時前迄話し、共に出、関羽方に飯。それより予南ケンシントン・ステーションに大便、それより歩して富田方え(始て)到り、暫時まつ内富田氏帰り、六時迄話し、出、ハイドパーク池辺を歩し(高橋と)ナイツブリジにて飯ひ出、歩して芝(柴)田を訪、やっと別(わか)り其家辺をあるく内芝田かえり来り、其番号、マーケットプレース町十二なること分り、其宅に之。不興の体故直に去り、バスに乗(んとする処で、オクスフヲードサーカス、マルカーン氏にあふ。土曜に出立とのこと、支那人一人洋婦二人同伴し居る)クインス・ロードに到り、例の酒屋に入る処、したてや(仕立屋)レオンにあふ。扨高橋の給仕で飲居る内、彼のチェルセヤ来知己の別嬪行すぎ乍ら予を見て挨拶する。それより長々と歩してノチングヒルより帰り、高橋予方にとまる。二人共カラケツと成る。」(註36)

「土曜に出立」が、孫文を追っての清国行だと思われ、1899年9月16日に相当する。ただし、Harold Z. Schiffrin氏によれば、「Using the Hong Kong newspapers and Foreign Office and Colonial Office files, I have been able to identify him as Rowland J. Mulkern. In his letter to the London Standard in January 1898, protesting Sun’s banishment from Hong Kong, Mulkern identifies himself as the secretary of the Friends of China Society. See FO 17/1718 [46], p.163, clipping from London Evening News of January 11, 1898.」と1898年には香港に登場している。(註37)上記のロンドンの住民登録記録と合わせ考えれば、恐らくイギリスと香港を頻繁に往復していたのであろう。
そして、この頃、ローランド・マルカーンは事実上興中会のメンバーとなっている。(註38)なお、Institute for Advanced Technology in the Humanities, University of VirginiaによるSocial Networks and Archival Context(SNAC)の「Rowland J. Mulkern」の項には別名(alias)を「Hing Chung Hui」とするが(註39)、所属する「Hsing Chung Hui(興中会)」を誤認したものか、あるいはニックネームと考えられ、中国名は「摩根(Mo-ken)」である。

山田良政君碑-孫文筆-谷中初音町全生庵内

山田良政君碑 孫文筆 谷中初音町全生庵内

1900年7月17日、ローランド・マルカーンは、シンガポール警察により釈放された宮崎滔天、清藤幸七郎らとともに、日本船佐渡丸でシンガポールを出発、恵州蜂起(惠州起義)に日本人の山田良政らと参加。獄中に捕えられた宮崎滔天は、尋問で「彼更に問ふて曰く、汝モンゴルンと云ふ英國人を知るやと、こは同盟中の一人なり、余曰く之を知る、彼れまた如何にして之を知るやと問ふ、余その孫君の紹介によりて相識るに至りしことを述ぶ」(註40)というやり取りをしている。陸羯南の実家と真向いにあった津軽藩士の家に生れ、水産伝習所を卒業、孫文と交友を結んだ山田良政はこの戦いで戦死するが、ローランド・マルカーンは生きのびる。それは、1904年に「66, Clarendon-road, Holland-park」の「Rowland Mulkern」が『The Times』に孫文の訪米のことを伝えたことが、シンガポールの『The Straits Times』の記事に載っていることで確認できる。(註41)馮自由によれば、「其後,摩以革命黨經濟漸困,供給不周,頗有去志。香港保皇黨員聞之,陰助以旅費,摩遂與康徒發生關係。然未幾康徒供給亦斷。摩於是悵然歸國。乙卯(即1905年,民前7年)春初,中山自美渡英,亦嘗寓於其家,其後遂無所聞。」とのことである。(註42)boxman氏によれば、1918年にロンドンで死亡した「Rowland Mulkern」の記録が残る。生年にやや矛盾があるが、転記ミスではないかとのことである。(註43)

南方熊楠は、ハイドパーク(Hyde Park)に無神論の「演舌」をしばしば聞きに行っている。そのスピーカーの1人はピョートル・クロポトキン(Пётр Алексеевич Кропоткин)であったかもしれない。(註44)また、条約改正反対意見書の秘密出版に関与した志賀信三郎は、南方熊楠の日記の中にしばしば登場する。その1回は、日暮里村修性院で開催された和歌山倶楽部第三会の記事においてである。南方熊楠はしばしば道灌山と日暮里諏訪台を訪れている。南方熊楠にとっての日暮里訪問の心理的な位置は、われわれが追求してきた魯迅と日暮里の課題を解き明かすのに巨大な示唆を与える。このことは項をあらためて論じる。
志賀信三郎は、『自由黨史』では「貫籍不明」とあるが(註45)、『和歌山中学校明治十六年三月定期試験並出席一覧表』にその名が見え、名の上に「専門校」と記載されているという。(註46)報告者の武内善信氏は、「専門校」を南方常楠の在学校と同じ「東京専門学校」と推定している。秘密出版事件関係者として文部大臣に上申された文書中に「東京専門学校生徒」志賀信三郎の名が見える。

「  和歌山県和歌山区湊下町三番地平民
   東京専門学校生徒
仝【発売人】       志賀 信三郎
                十九年」(註47)

ただし1885年の南方熊楠の日記に「常楠明治義塾法学校々外生月謝として、七十五銭取かえ持て行く」とあり(註48)、1883年の直後ということであれば、南方常楠が校外生として在籍した「明治義塾法学校」の可能性が否定できない。この学校については次章で触れる。

南方熊楠渡米送別会記念写真『南方熊楠日記-1』より-志賀信三郎もいるとのこと-どの人物かは不明

南方熊楠渡米送別会記念写真『南方熊楠日記 1』より 志賀信三郎もいるとのこと どの人物かは不明

また、志賀信三郎は、南波登発とともに植木枝盛を訪問したことが植木枝盛の日記に載る。

「【1889年2月】十二日 朝弱山【和歌山】ニ着ス稲垣等未ダ出獄セズ監獄ニ抵リ典獄濱田時郎ニ会ス。紀陽新報社ニ抵リ津田立一ニ会ス。紀陽新報社貟津村ニ会ス紀陵松岡勘助来ル井上武麿来ル中西唯一郎来ル和田昇三来ル南波登発志賀信三郎来ル。夜松岡来リ予ヲ誘ヒ某楼ニ至ル」(註49)

1889年2月、南波登発の和歌山時代の記録である。さらに、翌1890年7月18日、今度は「芝口一丁聚星館金子方」にいた植木枝盛の元にやってくる。この直後、植木枝盛は「新桜田本鄉町十九番地堀内氏家」を借家することになる。南波登発とは、虎の門付近のご近所さんになったわけである。青年自由党の事務所もまたこの直近である。

「【1890年7月】十八日 吉本竹次郎、伊藤武彦 原力松 佐藤左熊、高橋開作、山本幸夫 渋谷寧 武内綱、前橋栄光、臼井㐂代松、直原守次阝【郎】 南波登発相続テ来ル
山本園衛ト桜田本郷町十九番地堀内氏ニ至り同家ヲ借受クルヿヲ約束ス」(註50)

翌1891年1月7日、植木枝盛は、芝山内弥生館で開催された弥生クラブに乱入してきた反対派壮士の一団に襲撃され頭部に裂創を負う。このあと来た見舞状の中に南波登発からのものがあった。

「【1891年2月】四日 創傷治癒ニ付是迠慰問ヲ受ケタル人々ニ対シ礼状ヲ発ス
  夜山本幸彦来ル、溝渕幸馬来ル、伊東洋二郎来ル
去月七日以来予ノ負傷ニ付電信若クハ書札ニテ見舞状ヲ送リ来リシ人々如左
高知 海南社     東京 佐々城とよ寿
(中略)
横濱 佐々木笑受郎  房州 加藤淳造
   南波登発       依田佐平次
(以下略)」(註51)

なお、引用は国立国会図書館憲政資料室蔵田中貢太郎作成本によったが、岩波書店『植木枝盛集』で活字化された『植木枝盛日記』の底本となった国立国会図書館憲政資料室蔵林茂採訪写本では、「佐々城とよ寿」を「佐々木とよ寿」、「南波登発」を「南波登溌」とする。「佐々城とよ寿」は、1853年仙台藩の星雄記・定夫妻の家に生れ幼名は艶、相馬黒光の叔母である。1871年男装して仙台の町から東京に徒歩で赴き、横浜でヘボン(James Curtis Hepburn)の塾生を引き継いだメアリー・キダー(Mary Eddy Kidder)の英語塾(のちアイザック・フェリス・セミナリーIsaac Ferris Seminary、現・フェリス女学校)に学び、1885年、ディヴィド・タムソン(David D. Thompson)によって受洗。のちに女子学院初代院長となる矢嶋楫子らとともに東京婦人矯風会を創設する。夫は、仙台藩医・佐々城正庵の四男として生れ、箱館戦争に医師として参加、箱館病院で活動した佐々城本支。1872年、アメリカ・オランダ改革派教会(Reformed Protestant Dutch Church)派遣宣教師ジェームス・バラ(James Hamilton Ballagh)により受洗、横浜公会のメンバーとなった人物である。(註52)『植木枝盛日記』の人物名の点では、岩波書店本よりも田中貢太郎作成本の方が正確度が高いように見える。

南波登発がなぜ負傷した植木枝盛を直に訪問しなかったかというと、事件直後の1月15日に退去命令を受け、横浜に「退去」を余儀なくされていたからである。「横濱 佐々木笑受郎」は、福島県士族出身のクリスチャンでジャーナリスト。日清戦争後、沖縄に渡り『国民新聞』、『大阪毎日新聞』、『鹿児島新聞』の通信員(註53)あるいは『東京時事』、『大阪毎日』、『鹿児島新聞』の通信員(註54)を経て『沖縄新聞』の主筆兼編集長となっている。なお、岩波書店『植木枝盛集』に翻刻収載された国立国会図書館憲政資料室蔵林茂採訪写本では、おそらく原文の体裁を崩して列挙する形式となっているが、上の形式においては、佐々木笑受郎と南波登発が横浜から見舞状を送ったという意味で書かれているものと理解できる。

植木枝盛 コトバンクによる

植木枝盛 コトバンクによる

ここで再び青年自由党の話題に戻る。
「青年自由黨」という同名の政党は、南波登発による結党に先んじ、1882年以前にも存在していた。ここでは混乱を避けるため、この最初の青年自由党を第1次青年自由党と仮に呼ぶこととし、1889年、南波登発、三田村玄龍、後藤周佐らによって創設されたものを第2次青年自由党、1891年、中村信次郎、浅井誉至夫、南波登発によるものを第3次青年自由党と呼ぶことにする。
マスコミでの報道は、1882年5月2日、『時事新報』に以下の記事が載った。

「◎青年自由黨 此程より噂の阿りし青年自由黨は左の如起規定を立たりと云ふ
    盟錄
第一章 吾黨ハ天賦ノ自由權利ヲ振張保全シ最大幸福ヲ増進スルヲ務ムベシ
第二章 吾黨ハ互ニ學術ヲ硏究シ以テ他日ノ大成ヲ期圖スベシ
第三章 吾黨ニ志操ヲ確固ニシ所爲品行ヲ正シクシ世人ノ信用ヲ失ハサランコトヲ要ス
幹事は本鄉元富士町大學醫學部内片桐道宇駿河臺南甲賀町長倉純一郎の兩氏なりと云ふ」(註55)

1882年6月27日に発刊された『青年自由黨新誌』第1号によれば、資金を自由党から調達した青年組織であるらしい。名簿に載るだけでも163名の党員を擁したが、既に分派が結成され、分裂していた。(註56)その前年11月には、同党の設立趣意が、幼少年向けの投稿雑誌『穎才新誌』において呼びかけられている。(註57)E.H.キンモンス(Earl H. Kinmonth)氏によれば、「青年自由党への参加を勧誘する作文は、それが、「互に気脈を通して学業の余政治を研究し前途有用の才を養成し他日議員の光栄を受くべき学識を備ふるにあり」という研究団体であると述べている。この作文は、人々の代表になるということについては全く触れていないが、それは他の作文でも同様である。何かをすることではなく、何かになることに関心があったからである。」という。(註58)酷評である。

しかし、福井純子、河西英通、横山真一の各氏の研究によれば、青年自由党は、そのように単純に性格付けられるグループではない。(註59)まず第1に、青年自由党の綱領(盟約)が純学術的団体の装いを取っているのは、集会条例において、学生の政治結社への参加が厳重に禁止されていたための歴史的所産である。(註60)
福井純子氏は、第1論文で、『穎才新誌』の分析から「青年」の政治動向を析出、『西海新聞』の記事から長崎における青年自由党の動向を示した。(註61)続く第2論文では『穎才新誌』、『青年自由党新誌』を用いて、青年自由党の歴史を鳥瞰する。(註62)河西英通氏は、青年自由党のメンバーの分析から新潟県出身者の比率が高かったこと、また、青年自由党の主唱者とされる片桐道宇と新潟県内メンバーの分析による党員たちのプロファイリングを通じて、新潟県における青年自由党を支えた勢力基盤が「➀その中心的勢力は中蒲原郡村松町の漢詩を能くする民権青年たちであり、➁東京自由党や北辰自由党などと密接な関係を保ち、➂高田事件で捕縛された赤井景韶・江村正綱らの頸城青年、少女民権家として名高い西巻開耶や内山真吉らの柏崎青年、あるいはのちに平民主義へとつらなる柿崎町の小松邦治郎らを組み込んで」いたことを明らかにした。(註63)
第2に、青年自由党は東京を発信源にして、新潟や長崎の青年たちに確実に主張が届き、組織化が進展していることである。その間にオーガナイザが介在したとしても、需要側の欲求なしには進行しえない現象である。さらに河西英通氏は、柳井義之進の分析を通じて、第1次青年自由党のメンバーが北海道における社会運動に参加したことを解明している。柳井義之進は、キリスト者として1882年、内村鑑三らと札幌基督教会を創立、大井憲太郎の東洋自由党に参加したほか、『北海道毎日新聞』、『北門新報』(中江兆民主筆)、『萬朝報』での記者経験を経て、1901年秋には『日出國新聞』の編集主任となる。また、そのかたわら労働運動に参加、1898年『萬朝報』退社後に大井憲太郎と大日本労働協会を設立、日本初の週刊労働雑誌『大阪週報』を創刊している。『月刊労働情報』の先駆といえる。1901年9月には東京へ進出、大日本労働団体連合本部を設立、主要メンバーの中には、横山源之助や片山潜もいた。(註64)
他にも『自由黨黨報』を見ると、1897年7月18日に開会した「關東自由黨青年大會」への祝詞中、「新瀉縣北蒲原郡有志一同【11字傍点】」が「關東八州の青年自由黨之自由なる哉」と謳うほか、「南多摩郡青年自由黨總代市川四郎助【16字傍点】」などから「慷槪勇壯なる祝詞を寄せられ」ており、「下野麻沼青年自由黨福田幸作」、「山梨縣北巨摩郡青年自由黨」などから「沈痛悲壯なる祝電を寄せられ」ている。(註65)長崎や新潟以外にも青年自由黨のメンバーが活動していたことを示すものである。同誌には新潟県頸城の「青年自由黨大會」の記事も見えるので掲出する。

赤井景韶『赤井景韶傳-隨題随記隨刊-乙-2』より-国会図書館蔵

赤井景韶『赤井景韶傳 隨題随記隨刊 乙 2』より 国会図書館蔵

「   ⦿頸城青年自由黨春期大會
北越なる頸城青年自由黨は去る十五日【1898年5月15日】正午より高田町稱念寺に於て春期大會を開きたるが八十餘名の來會者ありて幹事岩澤義直氏の指名にて星名太郎氏座長の席に就き左の决議及び協議案を定む
   ○决 議 案
第一 本會は這回自由黨本部臨時大會に於て認定せし方針を是認し其方針に基づき吾黨代議士の盡粹を望む
第二 本會は縣下東洋の政機に對して愼重を要するに付き委員を擧げ調査せしむること【合字】
第三 本會は青年同志倶樂部と稱する團躰を以て吾人の意志と反對する者と認め之れが反抗運動をなすべし
   ○協 議 案
第一 本會は縣下青年同志の叫【糾】合を謀るの必要を認む其組織方法は委員に依托す
第二 本會は北信八州青年會の最も必要なるを見富む其組織方法は委員に附托す
右協議終るや座長を指名して五名の委員を撰み拍手の中に其の會を閉ぢ一同打ち連れて金谷山なる故赤井景昭【韶】の墓を吊ひ再び大嘯亭に於て懇親會を開き歡を極め全く散會となりしは夜の十時なりしが當日議長より委員に指名せられしは伊部泰助、大山鼎一、黒田武次、山口義平、小松啓吾の五氏にして此の委員は各地遊説通信等の凖備を爲す爲めに同二十二日集會を爲す筈なり」(註66)

また、『青年自由黨新誌』も「三四號まで出したが、其筋の干渉もあり會費の延滯者も多かつたので終に廢刊した」という重要な証言もあったものの(註67)、近年まで第1号の存在しか知られていなかった。2014年になって、横山真一氏により1882年10月発行の第2号が現存することが報告されているが、その詳細な内容は知られていない。(註68)

これらの成果に対し、木村直恵氏は「一部の地方史研究者や、県史などの編纂者たちは、綿密な調査によって青年結社や青年雑誌に関する貴重な史料を数多く発掘してはいるものの、そうした研究がそもそもの前提としてもっている地域的な限定性が、史料をより広い観点から捉え直し、個別の情報をより一般的な図式へと練り上げていくことを阻んでしまっているようである。」と評価する。(註69)自由民権運動の研究史において、このような評価をよく見るのだが、まるで具体的な歴史事実の解明よりも「より一般的な図式」の方が重要であるかのようである。戦前における「皇国史観」は、「より一般的な図式」から先験的に歴史を叙述することに比重が置かれていた。これに対し、地方史や経済史を中心にした「綿密な」実証研究によって戦後的歴史観への重要な転換が引き起こされた。このことは、歴史科学の研究史の反省をふまえた現時点での了解事項である。社会科学的実証研究の方法論において、帰納的科学から演繹的科学への退行を意味するものでなければよいのだが、どうか。
このシリーズでは、木村直恵氏が顔のない「青年」という概念、エートスを抽出したのと逆に、一人ひとりの顔を明らかにしていく作業に努めている。その作業によって、決してひとくくりに論じることのできない自由民権運動の持っていた多様性、多面性の「図式」が浮かび上がればと思うからである。

南方熊楠「戯曲-身ハ川竹心蓮葉傾城涙誰袖-道行き-三味線-熊谷重平-節-南方熊右衛門-語-高野法螺之丞」『南方熊楠-珍事評論』より

南方熊楠「戯曲 身ハ川竹心蓮葉傾城涙誰袖 道行き 三味線 熊谷重平 節 南方熊右衛門 語 高野法螺之丞」『南方熊楠 珍事評論』より

1882年に存在していた第1次青年自由党の名簿には、南波登発、三田村玄龍ら、われわれが追跡している第2次青年自由党の結党メンバーの姓名は見えない。(註70)1891年11月に結党された中村信次郎らの第3次青年自由党を見ても、また、その直接の系譜上にあるものとは考えにくい。第1次青年自由党の機関誌の中に「今度發行尓なりし自由新聞及ビ佛學塾より出版の政理叢談ハ吾黨志士たる者必す讀むべきの良新聞なり」(註71)とあることから、中江兆民と仏学塾に関係を持っていたことは考えられるものの、それが重要な意味を持つとは思えない。ただし、1882年の青年自由党の幹部と中村信次郎には、共通の要素があったかに見える。これは次章で述べる。

もし新旧青年自由党に直接の系譜的関係がなかったにせよ、われわれはそこに、世代を超え、青年による自由と民主主義への渇望と闘争が繰り返し、繰り返し、行われたことを見てとることができる。自由民権運動は決して「終焉」したのでなく、メンバーを変えつつ引き継がれ、また個人の領域においても形態と対象を変えつつ、執拗に「運動」され続けたのである。

 


 

註1 南方熊楠『日記』1888年1月4日、16日、21日、25日、2月3日、25日各条、後藤正人「南方熊楠と自由民権」安藤精一編『紀州史研究 3』国書刊行会 1988年4月20日、「第七章 自由民権と南方熊楠―デモクラシーの国際交流史」『権利の法社会史―近代国家と民衆運動―』法律文化社 1993として再収
註2 新日本新聞社「南方熊楠宛書簡」1887年11月21日、新日本新聞社「南方熊楠宛書簡」1887年12月26日、それぞれ武内善信「在米民権新聞『新日本』と南方熊楠」大阪歴史学会編『ヒストリア』第136号 大阪歴史学会 1992年9月10日、武内善信「新日本新聞社からの手紙―熊楠と自由民権―」『文学』季刊第8巻第1号 岩波書店 1997年1月10日所収
註3 新井勝紘「アメリカで発行された新聞『大日本』考」『田中正造とその時代』第3号 青山館1982年10月、武内善信「南方熊楠におけるアメリカ時代―『大日本』の再検討を通して―」南方熊楠資料研究会編集『熊楠研究』第3号 南方熊楠邸保存顕彰会 2001年3月20日
註4 武内善信「条約改正反対意見秘密出版書について―南方熊楠所蔵本を中心に―」南方熊楠資料研究会編集『熊楠研究』第2号 南方熊楠邸保存顕彰会 2000年2月20日
註5 「紙上問答 問(一八)」『民俗學』第貳卷第貳号 民俗學會發行 岡書院取扱 1930年2月10日、『南方熊楠全集 第四巻 雑誌論考II』平凡社 1972所収、引用は初出による
註6 郭沫若『甲骨文字研究』は、太歳の名称の語源説として、バーナド・コーグレアン(Klas Bernhard Johannes Karlgren、日本ではベルンハルド・カールグレンの表記が多い、漢名・高本漢)の漢語上古音の音韻推定を基礎に、「巴比侖」、「亜加徳語」、「穌美語」の各語の比定例を上げている、郭沫若著作编辑委员会编『郭沫若全集 考古编 第一卷 甲骨文字研究、殷契余论、安阳新出土的牛胛骨片及其刻辞』科学出版社 2002、元版は『甲骨文字研究』上海大東書局 1931による、《中国现代学术经典》编辑委员会 主编・刘梦溪 何崝编校『中国现代学术经典 郭沫若卷』河北教育出版社 1996及び史有为『异文化的使者 外来词』文化语言学丛书 吉林教育出版社1991を参照した
註7 南方熊楠『矢吹義夫宛書簡(履歴書)』1925年1月31日、澁澤敬三編『南方熊楠全集 第八卷 書簡 I』乾元社 1951による、『南方熊楠全集 第七巻 書簡I』平凡社 1981とは字句の異同があるが乾元社版によった
註8 南方熊楠「日記」1897年3月16日条、長谷川興蔵校訂『南方熊楠日記 1』八坂書房 1987による
註9 南方熊楠「柳田国男宛書簡」1911年10月17日、澁澤敬三編『南方熊楠全集 第九卷 書簡 II』乾元社 1952による、『南方熊楠全集 第八巻 書簡II』平凡社 1982と字句の異同があるが乾元社版によった
註10 南方熊楠「上松蓊宛書簡」1925年9月21日、澁澤敬三編『南方熊楠全集 第八卷 書簡 I』乾元社 1951による、『南方熊楠全集 別巻第一 書簡補遺・論考補遺』平凡社 1974と字句の異同があるが乾元社版によった
註11 南方熊楠「柳田国男宛書簡」1911年10月14日、澁澤敬三編『南方熊楠全集 第十卷 書簡 III』乾元社 1951による、『南方熊楠全集 第八巻 書簡II』平凡社 1982と字句の異同があるが乾元社版によった
註12 南方熊楠「柳田国男宛書簡」1911年11月12日、澁澤敬三編『南方熊楠全集 第十卷 書簡 III』乾元社 1951による、『南方熊楠全集 第八巻 書簡II』平凡社 1982と字句の異同があるが乾元社版によった
註13 南方熊楠「一八九六年日記抄」、長谷川興蔵校訂『南方熊楠日記 1』八坂書房 1987による
註14 Kumagusu Minakata; Collated and edited by Shinobu Iwamura「The Origin of the Swallow-Stone Myth」、『南方熊楠全集 別巻第一 書簡補遺・論考補遺』平凡社 1974による
註15 後藤正人「南方熊楠と自由民権」安藤精一編『紀州史研究 3』国書刊行会 1988年4月20日、「第七章 自由民権と南方熊楠―デモクラシーの国際交流史」『権利の法社会史―近代国家と民衆運動―』法律文化社 1993として再収
註16 南方熊楠「日記」、長谷川興蔵校訂『南方熊楠日記 1』八坂書房 1987による
註17 後藤正人「第三部 大正デモクラシーの先覚者として 第四章 熊楠と孫文、そして大逆事件―一九〇一~一一年」『南方熊楠の思想と運動』世界思想ゼミナール 世界思想社 2002
註18 南方熊楠「日記」、長谷川興蔵校訂『南方熊楠日記 2』八坂書房 1987による
註19 南方熊楠「上松蓊宛書簡」1919年9月16日、澁澤敬三編『南方熊楠全集 第八卷 書簡 I』乾元社 1951による、『南方熊楠全集 別巻第一 書簡補遺・論考補遺』平凡社 1974と字句の異同があるが乾元社版によった
註20 小笠原謙三『孫文を支えた横浜華僑 温炳臣・温恵臣兄弟』八坂書房 2009
註21 小笠原謙三「あとがき」、武内善信「解説 小笠原誉至夫と南方熊楠」南方熊楠著 長谷川興蔵 小笠原謙三編『竹馬の友へ 小笠原誉至夫宛書簡 自由民権・御進講 孫文関係新資料』八坂書房 1993
註22 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03050065300、「各国内政関係雑纂/支那ノ部/革命党関係(亡命者ヲ含ム) 第二巻(1-6-1-4_2_1_002)」(外務省外交史料館)
註23 陳錫祺主編『孫中山年譜長編 上册』中華書局 1991
註24 写真キャプション及び武内善信「解説 小笠原誉至夫と南方熊楠」南方熊楠著 長谷川興蔵 小笠原謙三編『竹馬の友へ 小笠原誉至夫宛書簡 自由民権・御進講 孫文関係新資料』八坂書房 1993、小笠原謙三『孫文を支えた横浜華僑 温炳臣・温恵臣兄弟』八坂書房 2009、出典はおそらく『LA SUNO』7号 国際連盟和歌山支部 1938年8月26日であるが未見
註25 武内善信「解説 小笠原誉至夫と南方熊楠」南方熊楠著 長谷川興蔵 小笠原謙三編『竹馬の友へ 小笠原誉至夫宛書簡 自由民権・御進講 孫文関係新資料』八坂書房 1993、出典はおそらく『LA SUNO』7号 国際連盟和歌山支部 1938年8月26日であるが未見
註26 小笠原謙三「小笠原誉至夫略年譜」南方熊楠著 長谷川興蔵 小笠原謙三編『竹馬の友へ 小笠原誉至夫宛書簡 自由民権・御進講 孫文関係新資料』八坂書房 1993
註27 小笠原謙三『孫文を支えた横浜華僑 温炳臣・温恵臣兄弟』八坂書房 2009
註28 「●南方氏と孫逸仙」『牟婁新報』1911年11月9日3面、松居竜五「II 南方熊楠をめぐる人名目録 2 アメリカ・ロンドン時代 孫文」松居竜五 月川和雄 中瀬喜陽 桐本東太編『南方熊楠を知る事典』講談社学術新書1142 講談社 1993
註29 南方熊楠「柳田国男宛書簡」1913年2月20日、『南方熊楠全集 第八巻 書簡II』平凡社 1982による
註30 南方熊楠「高木敏雄宛書簡」1913年2月20日、『南方熊楠全集 第八巻 書簡II』平凡社 1982による
註31 南方熊楠「上松蓊宛書簡」1919年9月16日、澁澤敬三編『南方熊楠全集 第八卷 書簡 I』乾元社 1951による、『南方熊楠全集 別巻第一 書簡補遺・論考補遺』平凡社 1974と字句の異同があるが乾元社版によった
註32 南方熊楠「上松蓊宛書簡」1925年9月21日、澁澤敬三編『南方熊楠全集 第八卷 書簡 I』乾元社 1951による、『南方熊楠全集 別巻第一 書簡補遺・論考補遺』平凡社 1974と字句の異同があるが乾元社版によった
註33 Dublinforum.netのスレッド「Rowland J Mulkern」に投稿されたboxman氏調査 23-09-2015, 01:33 AM23-09-2015, 01:40 AM23-09-2015, 01:43 AMによる
註34 Dublinforum.netのスレッド「Rowland J Mulkern」に投稿されたcogito氏調査 23-09-2015, 01:45 AMによる
註35 Dublinforum.netのスレッド「Rowland J Mulkern」に投稿されたcogito氏調査 22-09-2015, 02:41 AMによる
註36 南方熊楠「日記」、長谷川興蔵校訂『南方熊楠日記 1』八坂書房 1987による
註37 Harold Z. Schiffrin「V. Kidnapped in London」『Sun Yat-sen and the Origins of the Chinese Revolution』Univercity of California Press, Berkeley and Los Angeles, 1968
註38 Harold Z. Schiffrin「VII. Li Hung-chang, Sir Henry Blake, and Ho Kai」『Sun Yat-sen and the Origins of the Chinese Revolution』Univercity of California Press, Berkeley and Los Angeles, 1968
註39 「Rowland J. Mulkern」Social Networks and Archival Context(SNAC)サイト
註40 白波庵滔天「新嘉坡の入獄」『三十三年之夢』國光書房 1902
註41 「The United States and Chinese Travellers」The Straits Times, 7 June 1904, Page 5、National Library Board Singapore(シンガポール国立図書館委員会)NewspaperSGサイトによる、Dublinforum.netのスレッド「Rowland J Mulkern」に投稿されたboxman氏調査 23-09-2015, 10:08 AM
註42 馮自由『中華民國開國前革命史(一)』、張家鳳「第六章 歐洲各國人士在中國革命所扮演角色」『中山先生與國際人士(下)』中山學術基金會叢書 秀威出版資訊科技股份有限公司 2010による
註43 Dublinforum.netのスレッド「Rowland J Mulkern」に投稿されたboxman氏調査 24-09-2015, 04:16 AMによる
註44 後藤正人「南方熊楠と自由民権」安藤精一編『紀州史研究 3』国書刊行会 1988年4月20日、「第七章 自由民権と南方熊楠―デモクラシーの国際交流史」『権利の法社会史―近代国家と民衆運動―』法律文化社 1993として再収、ただし後藤正人「南方熊楠と孫文との友愛」『和歌山大学教育学部紀要―人文科学―』第52集 和歌山大学教育学部 2002年2月28日では「無神論者を始め、アナーキズムや社会主義などの演説を好んで聞いた」とされ、クロポトキンは友人とのみ記述される
註45 宇田友猪 和田三郎編纂「第九編 包圍攻擊の大勢 第四章 三大事件の建白」『自由黨史 下卷』五車樓 1910、武内善信「条約改正反対意見秘密出版書について―南方熊楠所蔵本を中心に―」南方熊楠資料研究会編集『熊楠研究』第2号 南方熊楠邸保存顕彰会 2000年2月20日には「貫族不明」とある
註46 武内善信「条約改正反対意見秘密出版書について―南方熊楠所蔵本を中心に―」南方熊楠資料研究会編集『熊楠研究』第2号 南方熊楠邸保存顕彰会 2000年2月20日
註47 「東京専門学校生徒奥沢三郎外十二人出版条例違反ノ廉ヲ以テ警視総監ヨリ文部大臣ヘ上申」、東京都公文書館蔵「早稲田大学関係書類」中、河野昭昌「「私立学校特別監督条規」関係資料―「明治十九年私立法律学校往復及雑書」『早稲田大學史紀要』第10巻 早稲田大学大学史編集所 1977年3月31日による
註48 南方熊楠「日記」1885年1月10日条、長谷川興蔵校訂『南方熊楠日記 1』八坂書房 1987による
註49 植木枝盛『流水日記 弍 下』1889年2月12日条、国立国会図書館憲政資料室蔵田中貢太郎作成本による、国立国会図書館憲政資料室蔵林茂採訪写本とは一部文面が異なる
註50 植木枝盛『大王日記』1890年7月18日条、国立国会図書館憲政資料室蔵田中貢太郎作成本による、国立国会図書館憲政資料室蔵林茂採訪写本とは一部文面が異なる
註51 植木枝盛『大王日記』1890年7月18日条、国立国会図書館憲政資料室蔵田中貢太郎作成本による、国立国会図書館憲政資料室蔵林茂採訪写本とは一部文面が異なる
註52 宇津恭子「佐々城豊寿再考―生い立ちと婦人自標倶楽部の活動―」『清泉女学院短期大学研究紀要』第3号 清泉女学院短期大学 1985年3月8日
註53 伊波普猷「田島先生の舊稿琉球語硏究資料を出版するにあたつて」田島利三郎著 伊波普猷編『琉球文學硏究』青山書店 1924、伊波普猷「中学時代の思出―この一篇を恩師下国先生に捧く―」『琉球古今記』刀江書院 1926
註54 松永歩「沖縄公同会運動と早熟な「自立」構想―「特別制度」の「自治」を手がかりに―」『政策科学』立命館大学政策科学会 16巻2号 2009年2月28日
註55 「◎青年自由黨」『時事新報』1882年5月2日2面、無署名(宮武外骨)「青年自由黨新誌」『公私月報』第二號 宮武外骨個人雑誌 1930年9月執筆
註56 『青年自由黨新誌』第壹号 大日本青年自由黨 1882年6月27日(禁發賣) 国立大学法人東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター蔵
註57 長倉純一郎「青年自由党設立ノ旨意」『穎才新誌』第233号 1881年11月12日 国立大学法人東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター蔵、E.H.キンモンス著 広田照幸 加藤潤 吉田文 伊藤彰浩 高橋一郎訳『立身出世の社会史 サムライからサラリーマンへ』玉川大学出版部 1995によれば刊行年を1882年とするが誤り
註58 Earl H. Kinmonth『The Self-Made Man in Meiji Japanese Thought: From Samurai to Salary Man』University of California Press 1981、University of Wisconsin博士論文 1974、E.H.キンモンス著 広田照幸 加藤潤 吉田文 伊藤彰浩 高橋一郎訳「第3章 政治青年」『立身出世の社会史 サムライからサラリーマンへ』玉川大学出版部 1995
註59 福井純子「「青年」の登場―民権運動の新世代として―」『近代熊本』第23号 熊本近代史研究会 1992年3月20日、福井純子「青年自由党の時代―メディアと市場(マーケット)―」『近代熊本』第25号 熊本近代史研究会 1994年5月15日、河西英通「青年自由党と新潟県」『新潟県立文書館研究紀要』第3号 1996年3月31日、横山真一「第三章 青年民権運動と激化」高島千代 田﨑【崎の異体字、U+FA11】公司編『自由民権〈激化〉の時代 運動・地域・語り』日本経済評論社 2014
註60 『集會條例』第七條 1880年4月5日公布
註61 福井純子「「青年」の登場―民権運動の新世代として―」『近代熊本』第23号 熊本近代史研究会 1992年3月20日
註62 福井純子「青年自由党の時代―メディアと市場(マーケット)―」『近代熊本』第25号 熊本近代史研究会 1994年5月15日
註63 河西英通「青年自由党と新潟県」『新潟県立文書館研究紀要』第3号 1996年3月31日
註64 河西英通「北海民権家の軌跡―柳井義之進論―」永井秀夫編『近代日本と北海道』河出書房新社 1998
註65 「⦿祝詞」「⦿祝電」『自由黨黨報』第百參拾七號 自由黨々報局 1897年7月26日
註66 「⦿頸城青年自由黨春期大會」『自由黨黨報』第百五拾七號 自由黨々報局 1898年5月29日
註67 無署名(宮武外骨)「青年自由黨新誌」『公私月報』第二號 宮武外骨個人雑誌 1930年9月執筆
註68 横山真一「第三章 青年民権運動と激化」高島千代 田﨑【崎の異体字、U+FA11】公司編『自由民権〈激化〉の時代 運動・地域・語り』日本経済評論社 2014、これによって少なくとも第1号3冊、第2号1冊の現存が確認された、3号、4号は発見されていない
註69 木村直恵「III 「青年」の誕生」『〈青年〉の誕生 明治日本に於ける政治的実践の転換』新曜社 1998、元になったのは、東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化研究室に提出した修士論文「自由民権運動の終焉と『壮士』、『青年』、『少年』―明治二〇年代初頭における政治的主体の構築とその帰結に関する文化史的考察」1995とあるが未見
註70 『青年自由党新誌』第1号 青年自由党本部 1882年6月27日(禁發賣)国立大学法人東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター蔵
註71 「雜報」『青年自由党新誌』第1号 青年自由党本部 1882年6月27日(禁發賣)国立大学法人東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター蔵

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