今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

魯迅と日暮里(53)南波登発の「亞細亞」への視線(28)須戸橋藤三郎 見沼代用水と内水交通、あわせて上武のキリスト者たち(中の15) The Outlaws in Northeast Asia, Chapter 21

3件のコメント

別件の作業で長々と中断してしまった。以降発表する分はいわば「お蔵出し」であるが、残念なことに、熟成の時間を過ごしたというわけでもない。まずは田添幸枝の後半生の物語。お付合い願いたい。
このかん目にした資料の中、彼女が私塾を開設した場所に関する情報は次の通りである。

岡吉壽君(號不崩)(昭和四年一月一日東京ニテ撮影)『我邦最古且ツ創刻ノ園藝書『花壇綱目』国会図書館蔵より

岡吉壽君(號不崩)(昭和四年一月一日東京ニテ撮影)『我邦最古且ツ創刻ノ園藝書『花壇綱目』国会図書館蔵より


まず久堅町の住所について。真美会を創立した不崩岡吉寿の住所について「●不崩畵會 故【狩野】芳崖翁門下の畵家岡不崩氏の爲めに畵會を起し甲乙兩種に別ちて揮毫を會員に頒布する由事務所は小石川區久堅町八一岡吉壽方なり」(註1)とあるのが注目される。真美会は、田添幸枝同様、東京勧業博覧会をボイコットした鷹田其石と岡吉寿が創立した美術団体である。人脈上の結びつきと居住地は、関係がある可能性が高い。それをうかがわせる材料は、荷風永井壮吉の書簡である。彼の残存する最古の書簡は、1895年9月28日、岡吉寿にあてられたもので、その宛名書は「長崎市 私立活水女学校気付/岡吉壽先生」となっており、その内容は「一筆呈上仕候陳れば長崎ニ御安着の由学校への御手紙ニて承知致し安心仕候」とある。(註2)その年には田添幸枝は活水女学校の教師を務めていた。すなわち田添幸枝と岡不崩は一時期同僚であったことが判明する。永井荷風は、『断腸亭日乗』の中で岡不崩の伝記について次のように書く。長いが引用する。
「岡不崩名は吉寿、初は蒼石と号す。加州金沢の人なり。狩野芳崖に師事す。官立美術学校の始めて上野に開かれし時芳崖聘せられて教授となるや、不崩は師に従つて同校の生徒となり、傍高等師範附属中学校絵画の教師となれり。余の始めて先生の教を受けしは明治廿五六年のころ附属中学に入りし時なり。余は教場のみならず先生の寓居に至りて絵事を学びたり。先生は其頃駿河台東紅梅町辺の静なる下宿屋に住はれたり。幾くもなくして先生は妻を迎へ小石川久堅町極楽水のほとりに卜居せらる。先生が牽牛花の栽培に始めて興味を催されしは新居に移転せられし頃なり。後年先生の名は画界に於けるよりも朝顔栽培者の間に知らるゝに至れり。朝顔に関する和漢の書にして窺はざるものは殆無しと人に向つて自ら誇られしこともあり。井上唖々子曾て先生の畧伝をしるして雑誌花月に掲げしことあり。先生は明治二十八九年の頃附属中学校より転任して長崎市の或女学校の教師となり、数年の後東京へ帰り来り専制作に従事せられたり。蒼石の号を改めて不崩となされしは東帰の際なりしなるべし。亡師の恩を忘れず機会ある毎に芳崖の紀念画会を開き、亦其伝記を印刷して知友にわかたれし事あり。朝顔に関する著述あり〔書名失念す〕晩年本草の学を修め落合村の家に毎月本草会を催し斯道の大家と交遊す。万葉集草木考の著あり。享年七十二と云ふ。」(註3)
また、岡不崩は「女子が畵を學ぶ必要があるかないか、他の方面からモウ一度言ひますと女子が世の中へ出るのに畵を學んで置く必要があるだらうかないだらうかと言ふ問題」を提起、「男子が女史には畵を書く必要が無いから畵を書く所の權利を女子に與へなかつたのでは無からうか」と推断する。(註4)田添幸枝との接点はもはや明らかである。

また女塾について。田添幸枝は「塾で御座いますか【が】、是は松井【康義】子爵家の御別邸を拜借して是に宛てヽ居りますので隨分廣う御座いますし、閑靜で御座いますから至極勉強には宜からうかと存じます、目今の處では設備が不完全では御座いますが、六疊、八疊、十疊、十二疊と申すやうな部屋を十室備江まして是れに寄宿の學生を置きまして、洋畵、音樂【、】英語、手藝、割烹等のものを傍らに教授する目的で細目を作成して置きました。」と語っており、記者は談話に続け「言ひ終つて女史は塾舍の各室に記者を案內せられたり塾舍は瀟洒たる十幾間の部屋よりなり、庭園は千六百坪にして、櫻花、椿等今を盛りと咲き亂れ居たり。」(註5)と述べているのが示唆に富む。
ここで松井子爵とあるのは、旧川越藩主・松井松平家の14代当主松井康義。松井松平家の旧姓は松平、東条松平氏の成立に勲功があったとして徳川家康から賜姓されたものであり、松平康義の代になって、朝命により松井に改姓している。その妻・松井正子は旧平戸藩主の松浦詮の5女。「華族女學校を卒へ明治三十一年入嫁す、ピヤノ、バイオリン等に巧みにして又繪畫を好み英語を能くす」。(註6)「正子刀自は幼にして其家庭に學び多趣味にして西洋音樂は殊に其最も愛好せらるゝ所なり」(註7)また、ヴァイオリン、箏のほか、南画、和歌、書道、茶道にも通じていたという。(註8)彼女は、1898年より大日本婦人衛生会の特別会員(片山亀子紹介)(註9)、1917年に私立神田高等女学校校長(註10)、1915年10月から精神病者慈善救治会評議員補欠(長谷川仲子紹介)(註11)、1919年9月から精神病者慈善救治会会長(註12)等を務めている。1921年には帝国ホテルで精神病者救治会による「國際的大舞踏會」を開催している。(註13)田添幸枝とは、肥前出身という地縁関係のほか、芸術を通じた接点が認められる。そして、田添幸枝の記事や情報が『衛生年報』に多く載せられているのも、あるいは関係があるのかもしれない。

松井正子『図説-日本の精神保健運動の歩み』より-個人蔵

松井正子『図説 日本の精神保健運動の歩み』より 個人蔵

なお、松井正子は精神病者救治会会長を1923年2月に辞任。かつては「家庭圓滿にして和氣堂に滿つ」(註14)とされていたが、このたびの辞任理由は「家庭の事情」にあった。(註15)それは以下に掲げるような事情を指すと思われる。ただし、その後発生した関東大震災に際して「神田區駿河臺紅梅町お茶の水橋畔に松井前會長の好意に依り 敷地を借受け 東京府より下附されたるバラツク一棟六十坪を建設し五月落成、直に精神病者相談所を開設し精神病者の治療上、看護上或は法律上一切の相談を引受る事としたり(午前九時より午後四時まで)」という貢献を果たしている。(註16)
子爵の爵位を持つ松井康義、そしてその妻の松井正子が、なぜ社会主義者と目される田添幸枝の援助に踏み切ったのか。社会主義運動や日本共産党に関心を寄せた他の華族メンバーの例とあわせて考えていく必要があるだろう。また、大日本婦人衛生会を主唱したのは日本で初めて女医となったキリスト者・荻野吟子である。松井夫妻の娘・松井憲子がカトリック系の双葉女学校を卒業(註17)、修道女となった事実(註18)と併せて考えたい事項である。
もう1人の娘・松井倫子は1920年、亀井貫一郞と結婚。(註19)亀井貫一郞は、外交官として1917年11月5日満洲・鉄嶺(註20)、1918年3月間島・安東在勤を命じられた(註21)のを皮切りに、天津領事館(註22)、ニューヨーク領事館を歴任。(註23)在外時にはアーノルド・トインビー(Arnold Joseph Toynbee)やマクス・ヴェーバー(Karl Emil Maximilian Weber)に師事。(註24)2人は「ダンス事件」と呼ばれたスキャンダルを経て離婚するが(註25)、亀井貫一郞はその後、無産政党・社会民衆党から衆議院議員となり、近衛新体制の下では権力中枢に接近。1943年には財団法人聖戦技術協会を設立、731部隊の細菌兵器開発に協力するに至る。(註26)以下は戦後の米軍エージェントへの質問記録の一節。「一高を卒業、東京帝国大学法学部卒後、外交官試験にパスした天才。体格が良く、気品ある貴族的な容貌、親しみやすく、雄弁でウィットに富む性格を備える。数年に及ぶ米国での外交官としての経験から、英語は非常に堪能。第一印象としては親切な神士と見えるが、実は、余りにも滑らかな口先の裏は洞察できない。“羊の衣をまとった狼”のようであり、相談事をしても彼自身の利益に結びつけるのが早すぎる。」(註27)
1915年の父の死により若くして爵位を嗣ぎ、当主となった松井康昭は、1922年東京帝国大学経済学部商科卒、翌1923年東大文学部社会学研究所入所(註28)、1925年に日本社会学会入会。同期に東畑精一、大内兵衛らがいる。(註29)1929年頃から朝鮮「元山方面に居るらしく消息を絕」ち、親族会議の興した裁判により「放蕩のため」1930年から34年の一時期には準禁治産者(咸興地方法院宣告)となり(註30)、同時に華族待遇を廃されている。(註31)彼は1930年から31年まで朝鮮総督府感化院嘱託を務めたが(註32)、その後の1936年には浅草電気館を経営している。(註33)
その子息・松井康輝は1923年生れ、「私は学習院には進まず、ミッション系の暁星学園から上智大学へ進みました。暁星は外国人の子弟が多く、フランス語も必修でした。叔母がカソリックの尼僧だったことも影響があるのかもしれません。」(註34)1945年父の死により子爵襲爵することになるが、彼はこの年の敗戦を九九式双発軽爆撃機のパイロットとして山東省張店飛行場で迎えている。8月下旬から同機の主翼・胴体の日の丸を緑十字に塗り替え、終戦処理連絡飛行を開始、南京大校飛行場、青島海軍飛行場との間を飛ぶ。9月下旬に国民党軍が済南に進駐、機材は接収されて青天白日旗が塗装され、人員は中国空軍のパイロットに未修教育のため留用されることになる。連絡飛行のかたわら、10月には国共内戦に参加(註35)、日本に戻ったのは12月のことである。(註36)

セシリア松井憲子『名古屋新聞』による

セシリア松井憲子『名古屋新聞』による

さて、田添幸枝の在成都時代の資料は決して多くない。
凌兴珍氏の『清末新政与教育转型―以清季四川师范教育为中心的研究』によれば、「成都其他各学堂陆续聘请了日本教习。如光绪三十年创办的成都淑行女塾聘请池永太六夫人任教,后因故辞职;(中略)此后淑行女子学堂又聘请了大野嘉代(女,授音乐、体操,东京女子体操音乐学校毕业)、相田智保(女,授手工)为教习;宣统二年八月【1910年9‐10月】,又聘日本田添幸枝女士教授油画、泥塑。」とある。田添幸枝の着任についての出典は「《女士受聘》,《广益丛报》第8年第15期,纪闻第10‐11页;《女校添学泥塑》,《广益丛报》第8年第22期,原总第246期(宣统二年八月三十日),纪闻第9页。」とのこと。『廣益叢報』は日本国内では収蔵機関がなく未見だが、確実な資料に基づく事実である。そして、「自宣统二年八月受聘任省城淑行女子师范学堂教习的田添幸枝女士,1912年7月16日至1914年7月16日连续聘任该校图画教习,1914年7月15日约满回国,即未续聘(参见成都市档案馆藏:民国四川省立成都女子师范学校档案,案卷号63‐103)。」という。(註37)
外務省の作成した『支那傭聘本邦人名表(大正元年十二月末日現在)』によると、「田添 幸枝」、所在地は「成都」、俸給は「銀百七十元」、職名は「女子師範學堂教習」、契約期間は「自明治四十三【1910】年七月 至大正二【1913】年七月」、貫籍は「熊本縣」とある。(註38)中国側の傭聘記録と食い違っているのは、中国暦と日本暦(西暦)の換算ミスによるものであろうか。また翌年の『支那傭聘本邦人名表(大正二年十二月末日現在)』にも、「田添 幸枝」、所在地は「成都」、俸給は「銀百七十元」、職名は「女子師範學校教習」、契約期間は「自大正二【1913】年八月 至大正三【1914】年七月」、貫籍は「熊本縣」とある。(註39)
そうした中、田添幸枝自身の言葉としては、「先年私が四川省の成都で或る市長の奧さんを訪問致しました時に宿屋に着きますと直ぐに其地の地【治】縣から實に大きなおぼんに、色々澤山の物品(しなもの)を積み重ねて二人して持運ばれた贈り物が參りました。すると私の通譯が『豈敢々々(チエーカン〱〱)』と言つて上の一つか二つを取つて後で皆返してしまひましたので、何故かと聞ましたら、あれを皆貰つてしまひましたなら、先方は非常に困るのであります。何故ならあの品物は未(ま)だ購ひ求めてないののであります故に今返しました品物は再び元の家に取戾されて店頭に陳列されるのであります。又あれ丈の品物を皆こちらで頂いたならば、此方(こちら)からも同じくあれ以上のものを贈らねばならぬから、實に馬鹿々々しいのです」との体験談が僅かに残る。(註40)

また、堺利彦は『上海毎日新聞』の深町作次(並木如秋)からの情報を伝えている。それによれば田添幸枝は1915年冬に上海に来たらしい。「所が、前號に私が鐵二君の事を書いたにつき、上海の同志並木如秋君から計らずも女史の近况を知らせてくれた。即ち【『】新社會『人の面影』を讀み、直ちに田添幸枝女史(一昨年【1915年】冬以來當地に於て私塾を開き英語の教授を致し居られ候)を訪ひ種々物語り致し候、女史も隨分生活に疲れられたる樣子にて、其顏は悲痛の氣を帶び、實に傷ましく感じ申し候』とある。私は實に其の悲痛の色を眼の前に見る心地がする。」(註41)深町作次は1918年『上海經濟日報』(1933年『上海日日新聞』と改題)を創刊、社長となった。(註42)公安情報は、1916年5月17日に上海入りした深町作次につき、以下のような情報を伝える。

「深町ハ長崎出発ニ際シ同地在留同志呉塵(支那人)ヨリ上海民声社(支那人主義者ノ設置セルモノ)ニ在ル同志張剛ヘ紹介ヲ受ケタル関係上同社ノ章警秋ト交際ヲ開始シ中華報ニ入社セルモ亦章の紹介ニ依リ同報主筆ニシテ主義者タル呉稚暉ノ知遇ヲ得タル結果ナルモノヽ如シ而シテ右ノ塵トノ交際ハ今尚之ヲ持続シ同人帰国ノ際ハ其ノ訪問ヲ受クルコトアリ
深町ハ叙上ノ如ク渡航以来頻ニ中国人同志ト相往来シテ其ノ状況ヲ在京大杉栄ニ通信シタルコトアリ近来ハ又時々同堺利彦ノ経営セル雑誌「月刊新社会」へ之ヲ通信シツヽアリ是等通信ノ内容及其ノ他ニ於ケル各種ノ事情ヲ綜合スルニ深町ハ専ラ彼我主義者ノ関係ヲ密接ナラシメンコトニ努力セルノ迹アルノミナラス又一面上海ニ於ケル左記ノ人物カ各個分立ノ状態ニ在リテ何等ノ連絡関係ナキヲ遺憾トシテ常ニ是等ノ間ヲ奔走シテ其ノ合同ヲモ計劃シツヽアルモノヽ如シ」(註43)

そして、呉稚暉(敬恒)、章警秋、章木良、謝英伯、蔡世棻、韓恢、路襄、湘田、天倣らの名と簡潔な履歴を報告したのち、ただ1人の日本人として田添幸枝の名前を挙げる。

「以前東京ニ於テ同志ト共ニ活動シ明治四十一年三⎫
 月死亡シタル田添鉄二ノ妻ニシテ英語教授ヲ為シ⎬ 田添 幸枝
 ツヽアリ本人ハ長崎在住中村喜九郎ノ妹ナリ  ⎭   (無編入)」(註44)

さて、1914年から15年の間、田添幸枝はどこにいたのか。成都女子師範学校の档案が事実を伝えるとすれば、同校を退職していったん帰国したと見られるが、光永洋子氏によれば「ご遺族の方によると北京でくらしていた時期があり,そのあと上海北四川路積處里に住み,「正則英語学校」をひらいて,学校がすむと油絵の教授をしていたということです。」という。(註45)ただし、上海に「積處里」という町名は見当らず、『上海婦人』を見ればその住所は「北四川路横濱橋積慶里Y第六九三號」であり(註46)、『増訂 上海指南』に「積慶里(閘北)北四川路坐東朝西(横浜橋北堍)」とある。(註47)したがって、田添幸枝は、成都→長崎→北京→上海へと移動したらしい。

上海日本人小学校『東京朝日新聞』1938年11月3日より

上海日本人小学校『東京朝日新聞』1938年11月3日より

1919年10月12日、「○田添女史及乙訓小學校長夫人の發起にて今回大和婦人會誕生、日本小學校に於て發會式を擧ぐ」(註48)これについて「小学児童母姉会とも称すべき会にて、『上海婦人』を発行。」(註49)ともいうが出典は不明。さらに、中国側の資料『解放畫報』にも載る。

「 □日僑大和婦人會
僑居上海日本婦女,在幾年前,組織了一個大和婦人會,幹事長是前任東京女子大學教員田添幸牧【枝】. 會裏有社交,人事等部,毎月發行一種婦女雜誌,內容是講「日本婦女」,「中日婦女社交」「婦女互助」的許多問題.會裏又常常請名人演説,討論各種婦女問題.不多幾天,她們還在虹口日本人倶樂部開過演説大會.現在把她們底宣言,略略地寫在下面:
「我們日本底婦女,向來受着舊習慣底束縛,不肯十分從事社交,彼底結果,使我們智識卑劣,而國際底地位,也成了孤立的狀態. 我們看看中國底婦女們,却與前大不相同了,從事於文化運動,硏究歐美教育,委實可以使我們欣羨. 中國和我們日本,本來是同文同種的國家,國民應當有互助底精神,同趨光明之地. 本會爲了要我們覺悟,所以特地請許多名人來演説,討論這許多問題. 希望我們日本婦女們大家都來,並希望中國婦女也來參與.」(註50)

解放畫報-第十二期

解放畫報 第十二期

この年の『第八版 上海案內』には、田添幸枝の活動と大和婦人会の記事が掲載されている。

「       田添英學校     北四川路横濱橋
同校は田添女史の經營にして放科後兒童の英語教授を受くる者多し。」

「       其他の發行物
商業會議所にて毎週一回貿易調査の週報、基督教青年會にて毎週一回上海青年、大和婦人會にて上海婦人【、】本圀寺にて聖教、上海紡織にて白楊、安部洋行社員の「かたばみ」、雜穀同業組合の會報等の發行物あり。」(註51)

ただし、その「英學校」は田添幸枝自身の呼称によれば「正則英語學校」であり(註52)、ご遺族の伝える情報と等しい。そして『讀賣新聞』では、久々に田添幸枝の名前が国内向けに報道される。

「田添幸枝夫人が
  上海で活動
   日支婦人親善に盡す
     大和婦人會
支那在留日本婦人の地位思想の向上を圖り家庭問題の硏究を兼ねる一方社交機關ともする目的を以て大正七年上海に『大和婦人會』と云ふものが生れました。創立者は社會主義者幸徳秋水の同志として名のあつた田添鐵治氏の
未亡人幸枝 さんで、家庭に於ける自身の責任の輕くなつたのを幸ひ餘命を國家の爲めに盡さうと云ふ抱負の下に老體を提(ひつさ)げて活動して來られましたが今回更に、排日ボイコツトの問題を解决し樣と云ふ意氣込みで支那婦人との提携の爲め同會員一同と共に活動を開始しました。元來
上海邊りに 在住の日本婦人は規則だつた生活をする者が少く、活動寫眞などに耽溺する婦人の多い處から、不良少年少女を作る結果を見せて居ります。此方面の改善救濟を圖る事を先づ第一步として努めるさうです。」(註53)

この時代に「社會主義者幸徳秋水」の名前を出すのは甚だ危険な感じがするのだが、活動の目的が「支那婦人との提携」にあることが分かる。これは中国側の『解放畫報』の報じた内容とも一致する。ただ「活動寫眞」のことは何だかおかしい。もし、健全育成のために見まもりパトロール隊が巡回していたら、「不良少年少女」に交じって映画好きな不良中年・魯迅の姿も発見していたであろうからである。さらに『週刊婦女新聞』は、田添幸枝が東京に来るという観測記事を掲載する。

「  上海に活動する大和婦人會
支那在留日本婦人の地位思想の向上を圖り家庭問題を硏究し又社交機關ともする目的にて大正七年上海に生れたる大和婦人會は今回排日ボイコツトの問題を解決する一助として支那婦人と提携の爲め同會創立者田添幸枝氏主となりて活動を開始せるが是等運動の援助を得るため田添女史は近日出京すべしと」(註54)

『讀賣新聞』は、その具体的な行動方針を報じる。

「支那婦人を
  救  濟
   上海の大和婦人
   會が基金を募る
上海在留の我邦が相互の融合を計る目的で大和會を組織したのは大正七【1918】年であつたが近來急激な思想界の變化とゝもに支那婦人界は頓に歐米化し、結果同胞婦人との間に疎隔を生じ延いては排日となつて來たがこの情勢を緩和する方法として同會は貧しい支那婦人を救濟して日支婦人間に
感情の融和 を計る機關の設置を計畫してゐる。最初は一百名を收容する設備としこれに要する費用一萬圓を算するので先づ三千口一口金五十錢の特志會員を募集する事とし故國の婦人にも充分の援助を求めてゐる」(註55)

実際に田添幸枝が東京に赴いたのは、1921年の晩秋、紅葉シーズンのこと。上海には「舊臘三日【1921年12月3日】」に帰着している。(註56)その時の訪問記が掲載されている。田添幸枝の人脈と交友関係が判明する一文のため、全文を翻字する。

「  訪 問 記(文責記者)
     東京行き 田 添 幸 枝
●訪問のその一
 十五年前の東京を心に畫いて上京した私の頭は、實に古い如何にも今の世にゆうづふのきかぬ骨董物(もの)である。伊澤勝磨(かつまろ)【勝麿】樣の御邸(おやしき)を伺ふ積りで、先づ神田より水道橋を經て水道町を横へ出て、富坂【新坂の誤】を登り八號目の處の左側に彼の立派な表御門を這入つて廣やかなる緑りの芝生の中をくねり曲りし白河の流れの如き白砂の庭道を通つて、表玄關へ行く積りにてさがせど仲々に其樣な權式張つた庭園がないので二度目には門毎に立寄つて表札を細々と調べて見ました【。】如何にも右側に濱尾【新】男爵の表御門、其のすぢ向ひが徳川【慶喜】公爵、其上隣りが伊澤樣の表門である可き筈なれどもそれは目につかぬ、併し啞生の硏究せる聲、時ならぬ蟬の樣に聞へし折、不圖思出せし樂石社、其れは故伊澤修二樣の御硏究の結果、御設立になつた啞生修養所である事を、然し今は非常に御繁盛(はんせい)で全く彼の廣やかな緑りの芝生美しき花だん、水の流れの如き庭園道等のきらみやかな光景は、より以上の重要なる方面にせきをゆづられて、彼の表御門の石垣の上より高く聳えし白木作りの建築物は幾棟となく並べ立られて其れが啞生の寄宿舍及び校舍に當てられて、幾百名の啞生は貴賤男女の別無く又露支の外國人も同じく收容されつゝある。然し當主伊澤勝磨【勝麿】樣には其社長として內外人訪問に對し應接其他御事業上の御監督に仲々の御多忙で寸暇もあらせられず、斯る折柄にても心地良く御面會を得た私は此度の出京要件をかいつまんで申上げました。
「これは結構な御計畫であります、私はもう及ぶ限り御助力致します、何事でも私に及ぶ事は仰有つて下さい、併し之れは大事業ですから、お骨がおれますよ。明日は母も參ります、是非御盡力致し度いと申して居りますから、母にも御逢ひ下さい」
と洵に氣持良く何事も御引受け下さいました。
●訪問のその二
 岡部【幸】樣を訪問せんと存じ乍ら、傳道院(でんどういん)【傳通院(でんづういん)、ただしここでは傳明寺の誤り】前に通り掛つた際に、向ふから來かゝりし老紳士「ヤー、御久しぶり。」と顏見合せて無言、「忘れましたか、僕は不朋【不崩】です、岡です」。「あゝ左樣ですか、失禮致しました」。「イヤ貴方は支那に居らつしやると聞いて居ながら全く失禮致して居ります」一別以來十五年此の方の變りはてたるよも山の話仲々に盡きそふもなければ、「一二日中に御訪ひいたしますから」と失禮して藤坂を下らんとせし折ふしに、また行逢し老婦人「あゝ珍らしいではありませんか。貴方は何時歸りましたか。何故おしへないのですか。眞實(ほんとう)に貴方は友達の甲斐なしだ子、まあ山の樣に話が積つてるよ其筈だわ子、十五年も逢わないものだから。けれども貴方は少しも變らないの子。相變らずやぶれ衣服(きもの)で、てくつて居るの子、而も何時も同じ衣服で、この答は歌にて、(本誌和歌欄第六歌)
 「然し其の衣物もモーヤぶれてるよ。」
 この答同じく和歌(同上第七歌)。何時迄も積る話しの盡まじと、思ふ心をさげて行く我上海ならば確かに人山を作るならんに流石東京だけに人山は作らねど道行く人は之の繁き東京の街道にて汚れ洋旅【服】着たる老婆の立話を珍し氣に見返し行く。
●訪問のその三
 金富町の福岡秀猪樣の御邸に伺ひ御目通りを願ひしに何時もながら御心安き奧樣【福岡貞子】の御應接ぶり。
「あゝ、よくいらつしやいました。御久し振り、御變りもあ【り】ませぬか。御子息(おこさま)は(中學に在學中)仲々御勉強で御座います。しば〱御遊びにいらつしやる樣に申上げてありまするけれども」
 と御じよさい【5字黒丸圏点】なき御挨拶に恐縮し乍ら、此の度上京の目的をかい摑(つま)んで御話し申上げしに
「左樣(そう)です子、此の度は仲々御發展の御樣子誠に結構な事でございます、私は全くひつ込み主義で何のお役にも立ちません。けれども內にゐて出來る事ならば何なりと致しますよ。御紹介でも書きませう。
今日は日曜で主人もゆつくり御話を致し度いと申して居ます。私は毎日宮中には出て居ますけれど二三日前(ぜん)より風邪で困つて居ますので今朝は少しゆつくりしました。どうも失禮御またせ致しまして」と其れから恐れ多くも宮中の御事共、一般に御險約遊ばされて其の御質素なる御事、何くれとなく御細々と拜承申上げては流石に恐れ入るの外なく、上海人(びと)の贅澤振りを考へては思ひなかばに過ぐ。
「會長は何誰(どなた)を御願ひなさる積りですか。」
「近衛公爵【近衛文麿】を御すがり致し度いと存じます。」
「其れは誠に良い事です。故公爵【近衛篤麿】は支那を御心に掛られた御方で全く其爲に御命もはてられた樣なものですから子。公爵御母堂樣【近衛貞子】に御すがりなさつて御らんなさい、御母堂樣は實に御健氣(おんけなげ)な御方にて、私も今の公爵は學校で存じてゐます、能く御母堂は一ヶ月二三回は學校にも入らせられて、教育上に御心をそゝがれたものでした。私は實にあの御母堂あつて今の公爵のあらせられる事と信じてゐます。是非御母堂樣に御取計ひを願ひなさつてごらんなさい」。
 二時間ばかり御邪魔してゐた事に氣が付いて御いとま致せしに、御叮寧なる御紹介文をしたゝめられし御名刺二三枚を頂きしに、子爵共御二方御揃ひにて玄關迄御見送り遊ばされ、その御叮寧にして御謙遜な事は上海の或る方々に御目に掛け度き心地せり
●訪問の其の四
 市外中野町上の京の原田芳太郎樣の御邸を伺ひしに、全く閑靜な廣やかなる御庭園(おにわ)には杉若木其他樣樣の木々御植込みの中にも、今を誇りと照る日の如き紅葉の間をぬふて御玄關に御案內を請へば、御女中の取次ぎにて、御パーラーに通されぬ、久方振りに奧樣【原田知勢】のあたゝかき御眞情(おんまごヽろ)溢れし御顏を拜して初冬の寒さを忘れたり。
「お珍しう御座居ます。實は子、昨日から御馳走をして御待ちして居たのですよ。それに子、秋(あき)【明】ちやん(奧樣の御監督の許に中學に通へる私の次男)が獨りで歸つて來て母は明日卅分間ばかり御伺ひ致しますと申されますから、私はほんとふに怒つたのであ【す】よ。三十分間位ひなら來て頂きませんよ、御泊りがけに來て頂く積でゐたのに「叔母さま、其れでは明日きつと一寸でも伺ひますから」と心配してゐましたよ。
全く心からの御親切の御言葉に温まりつゝ午餐(ひるはん)の御馳走を親しく頂戴して、子供のまとまらぬ議論話など伺ひ實に上京以來初めて樂しき半日を過ごし且つ有力なる御紹介狀を頂いて歸りし。
●訪問のその五
 市外駒澤の御邸に西澤公雄博士を御伺ひ致せしに折柄の御來客でとても御目通りはおぼつかなしと、思ひしに、お女中の御取り次ぎ、御座敷へとの事。廣やかなる御庭園を御面前に純日本式古來の御座敷御床の間の隅には二流れの御琴が立掛られしを拜しても、上海の亂雜(こんざつ)振りをきわめし其れに比しては流石に奧床しく感ぜられし、間も無く御奧方樣【西澤ヨシ】には誠に恐れ多い程、御叮寧に御挨拶を賜りしにはげまされ遠慮無く此度出京の要件を御話し申せしに、「其れは大變結搆な事であります、我々支那で仕事を致す者は皆々同じ心で致すべきでありますから、私共は應分の援助を致しますよ」。
と抑【仰】せられ奧樣も同じ御心で何かと御心付けを賜りて、二枚の御名刺に細々と御紹介文を認められて賜りしに有難く頂戴して歸りける。」(註57)

伊澤修二君還曆肖像『樂石自傳-教界周遊前記』より-wikipediaによる

伊澤修二君還曆肖像『樂石自傳 教界周遊前記』より wikipediaによる

伊沢勝麿は、文中にもある通り伊沢修二の子息。伊沢修二は東京師範学校校長、音楽取調掛を経て吃音矯正事業に取り組んだ。その施設が楽石社である。伊沢修二の弟が伊沢多喜男、その子息が伊沢紀、筆名が飯沢匡である。「ヤン坊ニン坊トン坊」(1954‐57年)、「ブーフーウー」(1960‐67年)で名をはせたが、本質は戯曲家であり「鳥獣合戦」(1944年)は「武器としての笑い」(註58)を駆使した戦時下抵抗の作品となった。岡部幸は「中華女子寄宿舍學監」(註59)、1922年2月14日に提出された「留學生教育費國庫補助に關する請願」の請願者中に「中華女子寄宿舍々監岡部幸」の名が見える。(註60)そして岡不崩とばったり会っている。15年ぶりの再会というから、最後の面会は1906年ということになる。すなわち「力の體現」事件の年であり、旧知の仲だったことも判明する。福岡秀猪は法学者で、父は五箇条の誓文(御誓文)を起草した福岡孝弟、その妻・貞子は旧人吉藩主相良家の当主・頼紹の長女。大和婦人会の会長を推薦してもらう心づもりだった近衛文麿の父・近衛篤麿は、かつて東亜同文会会長で東亜同文書院を創立した人物である。原田芳太郎は三菱合資会社理事。1915年には同社上海支店長だった。また、西沢公雄は漢冶萍製鉄所大冶出張所長。いずれも上海人脈である。そして田添幸枝の2男・田添明は原田芳太郎、知勢家に扶育されている。なみなみならぬ関係である。
ここで、田添幸枝の和歌を書き抜いておく。ペンネームは「南秋」である。

 あら玉の年の始めに屠蘇汲みて君の御威光を祝ふ同胞  南秋
 あら玉の年の始めに鳴く鳥の聲も長閑に聞へけるかな  南秋
 世の爲に思ふ心のやるせなくまとふ衣は一つにて足る  南秋(六)
 大神代を思ふ心のやるせなくまとふ衣もやれはてにける 南秋(七)
 身に纏ふ絹や黄金を何にせんわれは祈らん御代の光りを 南秋
 何事も遠き母には分らじな汝が思ひを伯母さまに問へ  南秋(註61)

ここで問題です。田添幸枝が「大神代」「御代の光り」という言葉を使っています。ちょっと見には天皇礼賛の側にいるように見えますが、真意はいずこにあるでしょうか。

また、この東京行きを契機に大和婦人会東京支部が設置される。
「○東京支部の設置
本會は愈々母國と連絡の許に大活動をする事になり、舊(もと)當地日本人小學校長乙訓鯛助氏を擧げて支部長と無し左記同氏御住宅を假事務所として、開設する事になりました。
 東京府市外西巢鴨町宮仲二五一六番地」(註62)
乙訓鯛助は、明治5年5月25日生れ、1896年小学校教員免許取得、東多摩小学校を皮切りに、四谷第二小学校、京華小学校、1905年に追分小学校校長、1906年に真砂小学校校長等を歴任し、1917年、上海居留民団立日本尋常高等小学校に着任する。(註63)本郷区真砂小学校校長時代には、体育教育の参考書を多数執筆(註64)、「東京府教育會教員傳習所講師」(註65)を務めたほか、「兒童遊戯硏究會」(註66)、「國民體育攻究會」(註67)、「體操遊戯硏究會」(註68)、「兒童體育硏究會」(註69)に所属し、スポーツ教育の分野で活動、東京「市及び府教育会の評議員(中略)として活躍した大校長」の1人である。(註70)1919年10月、「惱【腦】神経衰弱症」を理由に上海日本小学校を依願退職、その際の処方は次の通り。
「臭剝 四、〇 ブロムナトリゥーム 二、〇 苦丁 五、〇
 單舍八、〇 水 二〇〇、〇 右一日三囘食後三十分」(註71)「臭剝」の現名称は臭化カリウム、「ブロムナトリゥーム」は臭化ナトリウム、「苦丁」は苦味チンキ、「單舍」は単シロップである。臭素化合物は抗てんかん剤として、1912年にフェノバルビタールが合成されるまで広く用いられたくすりである。
さらに、横浜、蘇州にも支部が設置された。支部長はそれぞれ伊藤とく子、赤穴静子であり、田添幸枝の個人的なつながりによるものと思われる。そのほか「大和婦人會劇硏究部」も設置されている。(註72)

「大和婦人會」の活動が最も活発なものになったのは、上海の大火への対処である。この火事について『上海市虹口区志』大事记の民国10年(1921年)条に「11月12日 邢家木桥(今邢家桥路)大火毁房约100幢,草棚600余间、死13人。」と伝える。(註73)火事の発生から間髪入れず、救援活動が開始される。

溧陽路(旧称・狄思威路-Dixwell-Road)Antigng撮影-zh.wikipediaによる

溧陽路(旧称・狄思威路 Dixwell Road)Antigng撮影 zh.wikipediaによる

「上海貧民窟の
  千戶燒く
 大和婦人會が焚出す
   死亡三名不明五十名
〔上海特電〕上海市に連續してゐる支那貧民窟の一千餘軒【1921年11月】十二日夜八時燒失し三名死亡し行方不明五十名を出した大和婦人會は米一千磅(ポンド)【約453.6kg】の焚き出をなし現塲で婦人自ら避難民に配りつゝあり他の婦人會も金品を集めて贈るべく目下協議中である」(註74)

この当時のことを『上海居留民團三十五周年記念誌』は「大正十年」(1921年)の日誌に次のように記録している。

「 十一月十八日
○狄思威路西方貧民窟の火災に燒き出されたる支那貧民に對し大和婦人會は焚き出しをなして救濟し神の如く喝仰されたり。」
「 十二月八日
○大和婦人會は支那貧民窟の罹災の際は焚出を爲し彼等に喝仰されたるが、今度は雨露を凌げとて天下任俠に愬へ、藁葺家三棟の建築に着手したり。この事廣く傳へられ後に至りて續々寄贈者ありたり。」(註75)

「○罹災民の救濟事業繼續
昨年拾一月拾二日狄思威路火災に際し之か罹災民に對し本會は逸早く『焚きだし米』『不用品の寄捨』等種々手段を盡し、之が救濟を爲し大ひに內外の感賞を受け之等の物品は仝地所轄警察署を通じて日々各寄贈物件を適宜配分しつゝあるも猶陸續として同文書院住宅及び內外綿會社々宅等各方面有志より寄捨品ありて、爲之、本會係員は受領配達に日夜忙殺され居れり、又之等災民中、孤兒に對しては本會は特に食餌被服を施與しつゝあり」(註76)

さらに罹災者のうち、親を失った子どもたちを協会内に避難させ、救護活動が開始される。

「  雪の日やあれも【7字白丸圏点】
   人の子樽拾ひ【6字白丸圏点】
狄思威路の火災に際し同所の罹災民救助のため大方の仁慈により本會に寄贈せられたる金品は以來手を盡して之れが配分方法を講じそれ〲救助の目的を達して居ります。
本會は更に之等悲痛なる窮民に對し『孤兒救濟』の方法に出で舊臘十才より十三才迄の男兒八名同女子二名計十名を本會內に收容し衣食を給與し逐次教養の上各獨立生計の途を授ける積りで先づ試驗的に實行いたして居ります。
大方仁慈の諸士どうぞ之の孤兒救濟の爲めに更に御援助の上本會の目的を完うしますよう更に御願いたします。
大正十一年一月
      大和婦人會」(註77)

『上海婦人』5巻8号書影『共同研究-上海の日本人社会とメディア』による-原刷色は赤緑2色

『上海婦人』5巻8号書影『共同研究 上海の日本人社会とメディア』による 原刷色は赤緑2色

『上海婦人』6卷4月文藝號の口絵には「大和婦人會養成中の孤兒」の写真があり、田添幸枝がともに写る。(註78)大和婦人会機関誌『上海婦人』の1922年の分は、慶應大学メディアセンターに所蔵されている。欠号が多く、一部に缺頁もあるが、他に所蔵を見ない貴重な資料である。ここには田添幸枝による巻頭論文が毎号掲げられ、大和婦人会の活動と歴史についての情報を伺い知ることができる。さしあたりこの資料からマニフェストにあたる文献を抜粋する。

「○大和婦人會規則
第一條 本會は大和婦人會と稱し本部を上海に置き支部を各地に設くるものとす。
第二條 本會は同胞婦人の地位並思想の向上を計り、在支同胞婦人の社交的機能を増進せしめ、各國婦人間に融和の途を開き殊に日支親善の實を擧ぐるを以て目的とす
第三條 本會の事業左の如し。
 宣傳部 機關雜誌の發行及講演會の開催
 硏究部 家庭、住宅、服裝、衣食、衛生の諸問題に關する調査及改良實行
 教育部 英語及支那語の教授、講習會の開設、學術、技藝學校の設置
 社交部 音樂、舞踏の練習
 人事部 就職の紹介、人事相談、救濟保護事業
第四條 本會會員は左の四種とす
正會員は同胞婦人にして會費年額六圓を納むるもの。
賛薦【助】(さんじよ)員は本會の趣旨に賛同援助せられし特志者にして本會の推選によるものとす。
特別會員は本會會員の紹介による各位並に同胞以外の婦人にして會費年額六圓を納むるもの。
名譽會員は一時金百圓以上を醵出せる者及本會の爲特に功勞あるもの
第五條 本會役員左の如し
 會 長 一名    副會長 一名
 理 事 三名    幹 事 五名
 相談役若于【干】名 顧問 若于【干】名
第六條 本會會長及副會長は地位名望ある人を推戴し理事以下は會長之を囑託す。
第七條 本會入退會又は住所異動の場合には其都度本會又は支部會へ報告するものとする。
第八條 本會支部並に事業場必要なる場合には別に會則又は細則を作ることを得。」(註79)

更に続けて役員を紹介する。その多くは、田添幸枝の東京行きの際に許諾をえたものであろう。

「又相談役及顧問として、左記各位を推薦するの光榮を得ました。
 □相談役
        子爵 福 岡 秀 猪
      樂石社長 伊 澤 勝 磨
  大倉商業學校學監 岡 五 郎
 □顧 問
     赤十字社長 平 山 成 信
    福岡子爵夫人 福 岡 貞 子
   伊澤修二未亡人 伊 澤 千 世
  女子專門學校顧問 西 澤 之 助
       實業家 原田 芳太郎
大冶鐵山總理工學博士 西 澤 公 雄
      文學博士 遠 藤 隆 吉
 大阪商船長崎支店長 伊 藤 太 之
 東京女子商業學校長 嘉 悦 孝
 東京女子技藝學校長 足立 唯一郞
      海軍中尉 石 橋 滋
           西 澤 好 子
           原 田 智 勢
           遠 藤 夏 子
 中華女子寄宿舍學監 岡 部 幸
  郵船會社東京本店 中 瀬 清 一
      三菱總理 江 口 宜 條」(註80)

同年4月の『上海婦人』に掲載された宣言文。

「宣言 April 1922
 日進月步我々婦人は愈々堅大なる基礎石の上に直立して刻苦高遠の理想下に一大勇猛の根據を確立しようとしてゐる。上は貴婦人より下は賤業婦の極に至る迄、日本婦人は飽く迄日本婦人であるに相違ない。此の意味に於て旣覺醒せる慧眼の所有者たる者即刻あらゆる階級の婦人とも交際し、彼等に自然の感化靈感を通ぜしむる事に努力しなくてはならない。今迄の日本婦人は餘りに遍【偏】狹であり狹天下であつた【。】然れ共今後と過去は同一視すべきものではない。須らく今後の生命に婦人の精美を發揚する事を我親愛なる大和婦人の責任でなくて何であろふ。本會の主旨たる
 (一)國際眼に觀たる同胞婦人の地位並思想の向上進步を計り之れが改良又は家庭經濟等の硏究を遂げ其の實行を計る事。
 (二)在支同胞婦人の社交的機能を増進せしめ各國婦人間に融合の途を開く事。
 (三)同胞婦人に對する相談相手となり其の救援保護を爲す事。
はけだし世俗の淺薄なる思想の根底に基けるものではない事を鮮明にしてゐるものである。然るに嘆ずべきは現代日本婦人にして、細小なる事情、義理或は意氣地のため一團に投じて婦人のための義憤を吐く事を躊躇してゐる者の甚だ多き事である【。】
 而して口に婦人參政權をとなへ乍好機を目前にして沈黙し黙殺しつゝある婦女の尠からざるは更に大息せざるを得ない。苟くも婦人てふ名ある日本人たるもの茲に集りて大なる婦人中央集權の旗揚をなさん事を切望して己【已】まない。
                 上海北四川路Y六九三號
                    大  和  婦  人  會」(註81)

そして、同年8月時点での役員名簿を写しておく。殆んどの人物の伝を知ることができないが、後々のために翻刻する。

「殘暑御見舞申候
  大正拾壹年八月
    上 海  大和婦人會
    會  長 田 添 幸 枝
    外交顧問 茅 原 華 州
    同    辻  鐵 舟
    顧  問 宮 田 信 一
    幹 事  土井 たね子
    同    立川 ちか子
    同    田口 つる子
    同    白木 ふさの
    同    太田 ゑい子
    同    加藤 のぶ子
     ――――――
     上海婦人編輯局
         平 尾 久 二
         大 塚 秀 子
         橋 口 潮 野
     ――――――
     東 京 支 部 長
         乙 訓 鯛 助
     ――――――
     横 濱 支 部 長
         伊藤 とく子
     ――――――
     蘇 州 支 部 長
         赤 穴 靜 子

     大和婦人會劇硏究部
         愛 地 信 男
         古市 美津雄
         伊藤 駿一郎
         靈 葵 滋 郎
  コドモクラブ員一同」(註82)

1つだけ注意を喚起しておきたいのは、社交部の事業に示された「音樂、舞踏の練習」である。『上海婦人』に河上鈴子が新年広告を出している。(註83)『國際畫報』に、上海時代の彼女の紹介が載る。「支那が今の樣に戰禍につゝまれない前 否その第一發の發せらるゝ直ぐ前迄大連天津上海等のステージで外人の人氣を集めてゐたバレーの名手があつた。名は河上鈴子と云つて彼女が所有する豐滿な肉體と得意のバレーとは內外人賞讃の的となつて彼女の現はるゝ演技場は近日空席を見る事がなく異國に咲く大和撫子の上に成稿と歡喜の光は投げられ、彼女の藝はその一日一日に世界的價値を認められて行つたと云ふ事である。」「河上鈴子さんは、七才の時オーストリヤのケルビー夫人についてバレーを習ひ、後世界的舞踊家アンナ、パヴロヷ女史の師コルチエスキー夫人に就いて七年間の苦心を重ねてステージに登る事を許されたそうである」(註84)ダンスについては『上海婦人』でも特集記事を組み、「少年少女の時より汎く學校及び家庭に容れるならば體の發育を助ける計りではなく自然と品性を淘汰し深く自己を省み交際圓滿の美性を琢磨し得られるのであります。」と結論している。(註85)上海は、マーゴ・フォンテーンがそのバレエ人生を開始し、ロシア革命により故国を逃げた白系ロシア人による上海バレエ・リュスが結成された場所でもあり、ライセアム・シアター(蘭心大戯院)マジェスティック・シアター(美琪大戯院)パラマウント・ホール(百樂門)といったホールが林立することになる。(註86)

河上鈴子-得意のトウダンス『國際畫報』No.12より

河上鈴子 得意のトウダンス『國際畫報』No.12より

「  大和婦人會雜報
□本會建物の內部を擴張改善しましたので、今回次の樣な新しい試みを始める事になりましたから皆樣どなた樣に限らずどし〱御申込被下ませ。
□支那料理法教授――これは現に毎土曜日の午後一時からやつて居りますが、コツクは當地でも一流の先施公司の料理人の事ですから非常に面白く立派なものが出來上ります。現に方々の奧さまが御來會になつていられますが、其の簡單な明瞭な實地試驗と原料の低廉な事はとても驚くばかりでございます。ご希望の方は是非御光來下さい。
□ピアノの教授――本月から東京より新たにピアノの教師を御足勞願つて本會內で充分な便宜を計ひつゝ皆樣に御教授する事になりましたから、どうか御希望の奧樣方は是非御來會下さいます樣に。
□ダンス教授――これもピアノと同時に開始する積りでございますから御披露致して置きます。
□旣に皆樣御承知の通り本會では毎度『小供會』を開催して慰安少なき上海の御小供衆のため特に今迄盡力して來た次第でございますが本月から更に一步を進めて毎日曜の午後には『小供の集り』とて本會內で欣しい集り合ひを致すつもりでございますから奧樣方も御子供樣御同伴で是非一度御來場下さいます樣御願い致します。私達は眞に小供の俗惡な古い思想を打破して完全なる小人の國を立派に皆樣の御協力に依つて確立したいものでございます故、どなたも振つて御光來下さいませ。」(註87)

田添幸枝の交友圏には、華族、宮女、官僚、実業家から「賤業婦」、「支那貧民」までも含む広範な人々が含まれていた。その幾人かはパトロンになり、雑誌『上海婦人』を発行、大和婦人会を主宰する。そして上海大火の罹災者や孤児の救済につとめた。さらにその活動は文化活動やお楽しみ会を通してコドモの育成にも及んでいる。子どもの世代に平和で友好的な日中関係が築かれることを展望していたのだろう。かつて、高岡良助氏の提唱によって創立された、厚木を拠点とする「国際交流は子どもの時から・アジアの会」という会があった。日本、韓国、中国、台湾、ロシア、サハリン、ブリヤート、モンゴル、イスラエル、パレスチナ、アフガニスタンの子どもたちが集まり、ホームステイをし、一緒に食事をし、楽しく遊ぶ関係を築くことで戦争をしない仲になっていこうというものだった。1997年、1999年の水害の際には北朝鮮に食糧・物資も届けている。(註88)高岡さんがモンゴルに赴き、会は解散したが、現在でも個人間の交流は続き、高岡さんのDNAは受け継がれている。

さて、その後の大和婦人会、『上海婦人』そして田添幸枝のことは部分的にしか分からない。1927年の『第十一版 上海案内』に「◎大和婦人會雜誌 毎月一回刊行」とあるが(註89)、前版の記事を引き写しただけかもしれず(註90)、必ずしもこの年の発行状況を示すものとは限らない。岡本宏は、田添夫妻の子どもたちについて次のように書く。

「長男一は、小学校一年であり、東京の小学校を転々とし、四年の春に長崎にうつり、二、三小学校をかえたのち、五年生の三学期のおりに母幸枝が移住した上海にゆき、一家おなじ屋根の下に住んだ。長男一は、上海日本人小学校を卒業したのち英人の中等学校で勉学した。幸枝が鉄二没後十三年目の大正九年(一九二〇年)六月六日付で、鉄二の父太郎彦に書きおくった手紙のなかに、「……天の父様の御助力によりまして子供も無事に成長致たし教育も人なみに授ける積りに候、長男は亡父の例に依り外国の学を納めさせ申度……」
その後、幸枝は、二男明をつれて日本に帰り、明と生活をともにしたが、太平洋戦争たけなわの昭和一九年(一九四四年)一月に老衰で七六歳の波瀾の生涯をおえた。」(註91)

先ほど見た通り、田添明は原田芳太郎宅から中学校に通学していたことが記録されており、母の思いをうたった短歌が残されている。原田芳太郎は岡山県人で、1892年、東京高等商業学校を卒業して三菱合資会社大阪支店に就職(註92)、上海支店長を経て1918年に創立した三菱商事取締役となる。(註93)また、同定は困難であるが、1919年に救世軍に毎月1円を納める「後援會乙種會員」として名が見えることも注目される。(註94)同年11月6日には、久留米俘虜収容所のドイツ人「エフ、ゼンメルハック」の解放と自社雇用を陸軍に願い出ている。(註95)彼は熊本収容所から久留米収容所に移送された「Semmelhack(ゼンメルハック), Franz」「第3海兵大隊第4中隊・予備上等歩兵」で、宣誓解放され(註96)、久留米時代に喜劇『同僚クランプトン』(G.ハウプトマン作 バリアー演出 1918年7月29日公演)、バーレスク『ペンション・シェラー』(K.ラウフス作 ビーバー演出 1919年9月18日公演)に出演した人物で(註97)、住所はHamburg, Hammer Landstr. 41である。(註98)1925年にはder Vereinigte Farben- und Chemikalienwerke GmbH in Mukden(Mandschurei)の代表となっている。Mukdenは、満洲語・ᠮᡠᡴ᠋ᡩᡝᠨ(mukden hoton)、漢名・盛京のち奉天、現・瀋陽市である。生没年は1895年8月15日‐1937年であり、大連で死去している。(註99)
光永洋子氏によれば「明さんが長崎市に新しい戸籍をつくられたのは昭和11年11月である。幸枝さん母子は日中開戦の前年に中国から帰られたのであろうか。明さん夫妻には昭和12年生まれの敦子さんを頭に4人の子供がいて,敦子さんが物心ついたころには,幸枝さんは寝たきりの生活であったそうである。」そして、「トシ子さん【田添明の妻】の母方の伯母にあたる方が同居して居られて,幸枝さんの世話も子供たちの面倒もみてこられたそうである。」という。しかし「幸枝さんは中国から帰るとずっと特高に見張られていたようで,明さんは両親の話はあまりされなかったようである。」という。(註100)

ここまで田添幸枝をつき動かしてきたものはいったい何だったか。それは「公式」の左翼運動史ならそう決めつけたであろう社会主義といったものではない。彼女自身は大和婦人会創立5周年にあたり、「本會設立以來茲に五星霜諸賢士の御恩惠により細き命ちをつないで來ました。其の間の辛酸御話致すだに感慨胸にせまるものがあります。然し其れも廣く世間を知り已【己】れを知るの端緒であると思へば天の教誨感謝の外はありませぬ」と語る。(註101)
まずは、明治初期以来キリスト者によって実践されてきた手芸教育の継承が考えられる。活水学院に続き、1889年に、海岸女学校(のち東京英和女学校、青山女学院、青山学院大学)でも手芸教育が開始されている。

「明治以来のプロテスタント・キリスト教の伝道会社は日本のような家族制度の中にあって女性が人格的独立を得る前提として、経済的・職業的に男子に従属せずに女性独自の職業・技芸を身につけるための職業教育が行われることの必要性を感じていた。このような方針のもとに、弘前女学校・米沢女学校・清流女学校などでは、編物・裁縫・刺繍が正科として教授されており、多くの婦人宣教師も、しばしば伝道の傍ら、女子に手芸を教えていたようである。メソジスト監督教会の関係でも、早くはミス・スペンサーが東京で貧しい家庭の婦人に西洋の手芸を教え、明治十九年にはこれを少し組織立てて、インダストリー・ホームというのを開いたりしたが、予算も設備も整わず、なかなか思うようにならなかった。明治二十一年八月東京に開かれたメソジスト監督教会婦人宣教師年会は、この日本女性への職業教育・手芸教育の必要を本国へ訴え、このための専任婦人宣教師二名の派遣を要請した。幸いにもこれに対応する応答として、有能にして熱心な婦人宣教師ミス・ブラックストック(Miss Blackstock)が翌年(明治二十二年)はじめ、派遣されて来日し、築地明石町の海岸女学校で図画と手芸を教えた。そして翌年(明治二十三年)四月、海岸女学校の生徒で身体が弱いために将来のことを考えて手芸を取得することを校長(アンナ・P・アトキンソン)からすすめられた二人の女生徒のために自分の部屋を開放して手芸の教授にあたったが、手芸を専門に習いたいという生徒の数はふえ、同年九月には津田仙夫妻の尽力によって麻布にかなり大きな家を借りて、ここに女子に必要な裁縫、編物、刺繍、工芸等の職業教育を授ける「女子手芸学校」を創立するに至ったのである。」(註102)

1900年に設立認可された私立女子美術学校の創始者・横井玉子もまたキリスト者であり、1888年から東京婦人矯風会の役員となって活動、1894年には女子授産場を開設、翌年には女子慈愛館を創設している。(註103)女子授産場の運営について「無月謝無束脩にて實業を教ゆ」と題された広告には「當場は滿十二年より卅までの婦人にして、生活に窮する者を救助せんため、無月謝にて、和洋裁縫、和洋刺繡、編物、和洋圖畵等を教授し、生徒の制作品より生ずる、所得の修益の半を、生徒に分與すべし。寄宿生は月俸二圓を要す、」とあった。(註104)ちなみに横井玉子は、熊本の儒学者にして幕末のイデオローグ・横井小楠の子の妻である。

小川一眞製-故横井玉子女子『家庭料理法』国会図書館蔵による

小川一眞製 故横井玉子女子『家庭料理法』国会図書館蔵による

次に、田添幸枝をおし動かしたものは、彼女が若い時代に学んだ美術を後生に教授したいという美術教育の願い、そして新しい時代に開かれるべき女性教育への熱意だったであろう。それは、岡不崩の思いと共通するものであった。田添幸枝が日本を出発するにあたって書き残した記事は、女子教育にたいする彼女なりの決意表明であり、置き土産でもある。

「  活きた人格の感化
      米國文學士 田添幸枝
女子教育といふ事は規則づくでは出來ません、規則と云ふものは女子の徳性を感化する上に於ては、何等の効力なく、冷酷なる牢獄の裡には決して溫かなる人情の發露することはありません。要は只だ精神の靈化といふ點にあるのでございます。
尤もこれに重きを置くものには基督教なり佛教なり國粹保存なりがあつて風紀の紊亂せる社會に清新健全なる氣風を鼓吹しやうと努めて居ります、併し宗教主義、國粹保存主義の教育が果して今日の世に適當か何うか甚だ疑問に思ふのであります、旣に流れ去つた過去の歷史を以て、新時代の女子を導く事が出來るものでせうか、
人は片時も時勢と離るゝことは出來ません、同じ時代に住み、同じ人生に活き、互に相携へ、互に交通してこそ人は向上するのです、之を導く者は實に活ける人格でなければなりません。一人(いちにん)の活ける人格の感化は、無數の聖賢の遺訓傳説に比して、數十倍の價値があります。故に教師は先づ自身が時代人格の活ける模型(モデル)であらねばなりません、そして女子の心中に潜伏せる道念を知らず識らずの間に引き出す強い力を有し、日常の行爲の間に生徒各自に心靈上の感化を與へ得る程の人物でなくてはなりません。道徳の體現即ち實踐躬行は、實に教師が生徒を導いて行く唯一の方法であります。
尚學校は活ける一個の小社會でありますから、教育者が右の如き人物であると共に生徒自身をも一個の貴(たふと)い人格を有する責任者として生活せしめなければなりません。即ち生徒各自をして、學校てふ小社會の光榮ある一分子たることを意識せしめるのであります。斯くてこそ學校は單に智識と技藝とを教ゆる所ではなくして、更に高尚なる人生々活の實際に觸れたものとなるのです。その結果、生徒の依頼心を改めて、自治自營の精神となし、陰鬱の性を矯めて、共同助成の心、博愛慈悲の精神とすることが出來ます。
要するに教師は、先づ生徒の心中に潜める靈性に火を點じなければなりません、學校はまた生徒をして責任ある人格として生活する機會を與へなければなりません、教師の側に於いて斯ういふ見識を持して生徒に臨んだなら、生徒は必ず一個の人格を備へた人として人らしく生活するに至るでありませう。
今や女子に對して極端な文學的の教育法が施されて殆んどが病的と見ゆるまでに發達して居りますP【誤植、句読点カ】されば目今の急務は、冷靜なる科學的智識を與ふると同時に、精神の靈化といふことに一層重きを措いて、貴(たふと)き人格を意識せしめ、發達せしめ、併せて生活の保障を授くるにあります、之れが時勢の要求であらうと思ひます。」(註105)

宗教主義的教育を批判しながら、田添幸枝の女子教育論は、何というキリスト者としての自己告白であろう。とりわけ何回も連呼されるフレーズ「活ける」は、彼女の出身校である活水女学校を想起させる。「活水」の語源は、ヨハネによる福音書4:10の「イエス答へて言ひ給ふ『なんぢ若し神の賜物を知り、また「我に飮ませよ」といふ者の誰なるを知りたらんには、之に求めしならん、然らば汝に活ける水を與へしものを』」(註106)によっている。(註107)すなわち、田添幸枝は自らの中国行を教育におけるキリスト教的な献身の実践と考えていたのではなかったか。彼女の生きたメソジスト的生活、そして彼女の学んだウェスレアン大学の建学精神にこめられた基本思想は、神学的には次のごとく解説される。

「基本的なキリスト教の正統信仰と同じく,ウェスレアニズムは,人間の堕罪と,人類の普遍的腐敗性を認め,すべてのキリスト者とともに,現世においても永遠においても,人類の唯一の希望は,キリストの贖罪の死と彼のからだの復活という相補的事実(the conplementary fact)にあることを信じております。キリストを通して,罪びとは神に赦され,やわらがせられ,彼の足は天国への道を行くのです。」
「しかし,他の教派と多少とも区別されるウェスレアニズムにある特殊な諸教理は次の如くです。
贖罪は万人のためのもので,選ばれた少数者のためのものではありません。万人は,自由に,キリストを受け入れることも拒むこともできます。それらの決断は,聖霊の不可抗の働きによってなされるものではありません。贖罪の恵みは万人に及んでいます。もし罪びとがそれに応答しようと決心するなら,だれにでも,悔い改めて神に帰るに十分な程度の恵みが与えられています。
そのうえ,新生には御霊のあかしがあり,それによって,キリスト者は,自らが救われている,との内的確信をもつことができます。
さらに神は,聖き心と聖き生活を期待され,要求され,そのために備えをなさっている,とのことは贖罪の中心とも言えるものです。」(註108)

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Rear view of College Row, Wesleyan University、Smartalic34撮影 wikipediaによる

人間は平等であり、等しく愛の対象であるということ、これは田添幸枝にとって全く疑いのない事実であっただろう。ここで、先に紹介した『上海婦人』とは別の号に、「南秋」のペンネームで載せた田添幸枝の和歌2首を掲げておこう。

 言へば云へ歌はゞ歌へ諸人よ 我はまもらん神の正道
 何事も神の御旨と思ほへば うさもつらさもなきものぞかし(註109)

ここで解答です。田添幸枝が「大神代」「御代の光り」という言葉を使っていたのは、にせ神・天皇の暗喩としてではなく、本当の神を思い、神の時代の意味で書いていると見るべきです。ただ、それは危険思想でした。

1910年という時期は大逆事件の起きた年であり、日本中が息苦しくなっていた。柄谷行人は、「不期然地触及了日本现代文学的纪源。事件的中心人物幸徳秋水,曾是中江兆民的弟子兼秘书。随便一提,幸徳也一直用文言写作。他的社会主义,乃是承接明治10年代受到挫折的自由民権运动而发展起来的。因此,追究大逆事件必将与日本现代文学的起源相关联。」という。(註110)「まさに」大逆事件は、自由民権運動の季節が「完全に」終わり、日本が「いわば」帝国主義と戦争の道「において」「しっかりと」進んでいく「断じて容認できない」結節点となった。(註111)そして、田添幸枝にあっては、「北米」または「米國」と対置されることによって独立したイメージを結ぶ「東洋」すなわちアジアへの関心が沸き起こっていた。(註112)この時点において、日本を出る時は今、と定めるのに十分な根拠があったであろう。また、田添幸枝の「逃避」については、1986年の厳冬、北アルプス剱岳で夫の原子物理学者・水戸巌と2人の双子の息子を失った水戸喜世子氏が、絶望に心を病み、世界を周遊したことを想起する。2008年1月から2011年12月まで中国江蘇省の建東職業技術大学で外籍日本語教授として勤務する中、「中国の貧しい山の中で子どもと交わったこと」によって立ち直ったという。(註113)ご本人からも中国で救われたとのお話をお伺いした。
田添幸枝の旅行記によれば、長崎と上海の間は3日間。東京から長崎までは、新橋駅‐神戸駅間が最短12時間50分、神戸から長崎をどのようなルートで行ったかは不明だが、1日以上かかる。したがって長崎から上海と東京の旅程はほぼ等しい。1923年になると、日華連絡船が就航、長崎-上海間27時間に短縮する。(註114)心理的な距離はさらに近かったのではないか。

さて、「我硏究の主題とする此國女子何如に教養せられつ〻あるか又何如に生活しつ〻あるかに付いて大(おほい)なる興味を以て注意しつあれば後日(こーじつ)は明細に報(ほー)する時ある可し(完)」(註115)、「我が硏究の主題とする清國婦女子が如何に教養されつゝあるか又如何に彼等が生活しつゝあるかを興味を以て注意しつゝあれば他日また報知すること【2字合字】もあるならん」(註116)とした後日の「報知」は、いまだ発見できない。しかし、その報告は長崎県の家族に伝えられていた。岡本宏は、田添幸枝の義妹の「田添テル女史の語るところによれば、幸枝は、ゆくゆくは「シナの女」は日本の女性を追いこすことになるとのべていたという。」と書く。(註117)これが田添幸枝の生涯かけて得た結論であったのだろう。

彼女の眠る長崎の墓所の情景は、光永洋子氏によれば次のようなものである。

「長崎駅前よりバスで20分ほど,福田の岬の眺めのいい場所に,幸枝さんのお墓はあった。明夫人のトシ子さんの実家の大森家の墓とならんで,田添家の墓はたてられていて,お墓の主は幸枝さん(本名カウ)と明さん夫妻であった。「カウ女 釈尼香寿信女 昭和十九年一月二十六日(八十一才)」と墓石には刻まれていた。敗戦をまたずに亡くなられたのである。」(註118)

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skyline of pudong, shanghai、Pyzhou撮影 wikipediaによる

※『上海婦人』の閲覧にあたって、慶應大学メディアセンターのご許可を頂戴しました。貴重な資料の閲覧を許されたことに心よりの謝辞を申し述べます。また、岡不崩の図像について落合道人サイト管理者様からご教示をいただきました。感謝申し上げます。

 


 

註1 「●不崩畵會」『東京朝日新聞』1908年7月3日7面
註2 永井壮吉(荷風)「岡吉壽宛書簡」1895年9月28日 日本大学学術情報センター蔵、秋庭太郎『荷風外傳』春秋堂 1979所収写真図版より読み起し、永井壯吉『荷風全集 第二十七巻 書簡』岩波書店 1995を参照した
註3 荷風「西暦千九百四十年 昭和十五年歳次庚辰 斷膓亭日記 第二十四巻」1940、永井壯吉『荷風全集 第二十四巻 断腸亭日乗 四』岩波書店 1994による
註4 「名家訪問 岡不崩先生談話」『國民教育』第拾㕘號 東洋社 1903年11月15日
註5 興風會々頭米國文學士 田添幸枝「新らしき婦人を作れ」『衛生年報』第六年 第九十三號 衞生新報社 1909年5月1日
註6 杉謙二編纂「松井子爵家 Viscount Matsui family.」『華族畫報』華族畫報社 1913
註7 「新に會長に就任せられたる子爵母堂松井正子刀自」『心疾者の救護 精神病者救治會々報』第三十二號 精神病者救治會 1919年12月20日
註8 鶴橋泰二編輯「和樂の部 關係者並愛好家」『現代音樂大觀 増補版』東京日日通信社編輯 日本名鑑協會發行 1929
註9 「⦿入會者」『婦人衛生雜誌』第百八號 大日本私立婦人衛生會 1898年11月20日
註10 「●子爵母堂の校長=新築される神田高女=」『讀賣新聞』1917年2月5日4面
註11 『大正四年六月起 庻務日誌 精神病者慈善救治會』1515年10月5日条
註12 「本會記事(自大正八年五月一日 至大正八年十月三十一日) 役員會」「松井會長就任」『心疾者の救護 精神病者救治會々報』第三十二號 精神病者救治會 1919年12月20日、岡田靖雄「精神病者慈善救治会のこと―呉秀三先生伝記補遺(その一)―」『日本医史学雑誌』第32巻第4号 日本医史学会 1986年10月30日
註13 「帝國ホテル 大舞踏の花形 春の一夜を ◇徹底的の歡樂」『讀賣新聞』1921年3月29日夕刊2面
註14 「新に會長に就任せられたる子爵母堂松井正子刀自」『心疾者の救護 精神病者救治會ゝ報』第三十二號 精神病者救治會 1919年12月20日
註15 「本會記事 自大正十一年十一月一日 至大正十二年四月三十日 松井會長辭任」『心疾者の救護 精神病者救治會々報』第三十七號 精神病者救治會 1923年6月16日
註16 「○創立以來の事業概况」『救治會々報』第五十二號 救治會 1932年7月10日
註17 猪野三郎編輯『第三版 大衆人事錄』帝國秘密探偵社 帝國人事通信社 1930
註18 「黒衣の處女 セシリア・マツヰ 秋あさき聖堂に心澄む朝夕 子爵令孃憲子さん 奉持會修道院に正式入會」『名古屋新聞』1934年9月15日朝刊7面、「個人消息 ◇松井憲子姉」『福音新報』1936年7月16日14面
註19 森林太郎『委蛇錄 大正九年庚申日記』1920年7月26日条、森林太郎『鷗外全集 第三十五卷』岩波書店 1975による
註20 「○職務進退」『外務省月報』大正6年11月分3面、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B13091357000、外務省月報 第五巻(外・報5)(外務省外交史料館)
註21 「叙任及辭令」『官報』1918年3月20日同月415頁
註22 「○發著」『外務省月報』大正7年10月分42面、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B13091362200、外務省月報 第五巻(外・報5)(外務省外交史料館)
註23 「○發著」『外務省月報』大正8年12月分52面、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B13091369200、外務省月報 第六巻(外・報6)(外務省外交史料館)
註24 「五十年「ゴム風船」を追って」日本近代史料研究会編『亀井貫一郎氏談話速記録』日本近代史料叢書 B-3 日本近代史料研究会 1970所収
註25 照山赤次「龜井代議士前夫人 松井たか子さん」『名流婦人情史』日月社 1929、「夫人の艶聞が祟つて 龜井書記官が休職に 然し夫人とは相變らず同棲【12字△圏点】」『讀賣新聞』1923年6月15日9面、「紫鉛筆」『讀賣新聞』1924年7月6日3面、「紫鉛筆」『讀賣新聞』1924年7月11日3面に関連情報が載る
註26 「五十年「ゴム風船」を追って」日本近代史料研究会編『亀井貫一郎氏談話速記録』日本近代史料叢書 B-3 日本近代史料研究会 1970所収
註27 1950年4月6日付「文書番号57327 Secret 亀井貫一郎に関する尋問記録」National Archives and Records Administration蔵、青木冨喜子『731』新潮社 2005による
註28 猪野三郎編輯『第三版 大衆人事錄』帝國秘密探偵社 帝國人事通信社 1930
註29 「―會員動靜― △新入會者」『社會學雜誌』第十七號 日本社会學會發行 下出書店發賣 1925年9月1日
註30 「松井子禮遇停止」『東京朝日新聞』1930年6月12日朝刊7面、「⦿準禁治産者宣告取消」『官報』1934年4月5日 同月135頁
註31 「松井子禮遇停止」『東京朝日新聞』1930年6月12日朝刊7面、「⦿華族ノ禮遇ヲ享クルコトヲ得サル者」『官報』1930年6月13日 同月356頁、「⦿華族ノ禮遇子爵松井康昭」『官報』1937年7月20日 同月542頁
註32 한국사데이터베이스(韓国史データベース)직원록자료(職員録資料)による
註33 「預金者をふみ躙る呆れた無軌道貸付 一人で背任横領百六十萬圓 “產貯”關係被告の豫審終結」『大阪朝日新聞』1936年6月16日朝刊11面
註34 松井康輝「サムライの末裔たち…」『小江戸ものがたり』第3号 川越むかし工房 2002年10月10日、2009年3月第2版による
註35 松井康輝「特集 知られざる学鷲特攻 学徒兵空戦記 青天白日旗の下で戦ったわが最後の戦闘」『丸』第35巻第10号 潮書房 1972年10月1日
註36 松井康輝「サムライの末裔たち…」『小江戸ものがたり』第3号 川越むかし工房 2002年10月10日、2009年3月第2版による
註37 凌兴珍「第三章 四川省留日师范与日本教习教材引进 一 日本教习引进」『清末新政与教育转型―以清季四川师范教育为中心的研究』人民出版社 2008
註38 外務省政務局『支那傭聘本邦人名表(大正元年十二月末日現在)』大正二年六月印刷、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B02130228000、支那傭聘本邦人名表 大正元年12月現在(政-17)(外務省外交史料館)
註39 外務省政務局『支那傭聘本邦人名表(大正二年十二月末日現在)』大正三年七月印刷、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B02130228200、支那傭聘本邦人名表 大正2年12月現在(政-18)(外務省外交史料館)
註40 田添幸枝「『あら玉やいづこも同じ笑ひ顏』」『上海婦人』第四卷第一號 上海婦人社 1922年1月5日
註41 堺利彥「人の面影 田添幸枝女史」『新社會』第三卷第八號 由分社 1917年4月1日、表紙には1月1日とあるがおそらく誤植
註42 佐藤是康編輯「在外邦人新聞雜誌」『大正拾壹年版 新聞總覽』日本電報通信社 1922、「關東州・支那及米國」『昭和八年版 新聞總覽』日本電報通信社 1933、蛯原八郎「第九章 東亞大陸 三、支那」『海外邦字新聞雜誌史 附錄 海外邦人外字新聞雜誌史』學而書房 1936によれば改題は1924年とする
註43 内務省警保局作成「第四 各地ニ於ケル要視察人最近ノ言動 (ハ)外国在留者」『特別要視察人状勢一斑 第七』大正六年五月一日現在、松尾尊兊解説『社会主義沿革 1』続・現代史資料 1 みすず書房 1984による
註44 内務省警保局作成「第四 各地ニ於ケル要視察人最近ノ言動 (ハ)外国在留者」『特別要視察人状勢一斑 第七』大正六年五月一日現在、松尾尊兊解説『社会主義沿革 1』続・現代史資料 1 みすず書房 1984による
註45 光永洋子「平民新聞の女 田添ユキヱ(田添鉄二の妻)履歴書」『女性史研究』第16集(特集 女たちの近代) 家族史研究会 1983年6月1日
註46 「生徒募集 1922 正則英語學校」広告『上海婦人』第四卷第一號 上海婦人社 1922年1月5日
註47 林震編纂「卷八 城廂租界地名表」『増訂 上海指南』商務印書館 1930
註48 上海居留民團『上海居留民團三十五周年記念誌』上海居留民團 1942、同記事は、乐敏「近代上海日本居留民社会中的妇女团体」『日本研究集林』2010年下半年刊(总第35期) 复旦大学日本研究中心 2010年12月に「1918年10月12日,田添幸枝发起成立了“大和妇人会”,并在日本小学校举行了成立仪式。」と正確に翻訳されている
註49 小島勝「第二次世界大戦前の上海における日本人社会の教育関係年表」小島勝 陳謙臣 馬洪林 陳祖恩 忻平 柴田幹夫 陸艶「共同研究 第二次世界大戦前の上海における日本人社会の宗教と教育(一)」『佛教文化研究所紀要』第35集 龍谷大学仏教文化研究所 1996年11月30日
註50 「□日僑大和婦人會」『解放畫報』第十二期 新民圖書館總發行 分售處本外埠各大書房 中華民國十年【1921年】六月三十日
註51 嶋津長次郎編輯「邦人案內」『第八版 上海案內』金風社發行 日本堂 申江堂 至誠堂賣捌 1919
註52 「生徒募集 1922 正則英語學校」広告『上海婦人』第四卷第一號 上海婦人社 1922年1月5日以下各号
註53 「田添幸枝夫人が 上海で活動 日支婦人親善に盡す 大和婦人會」『讀賣新聞』1921年9月19日朝刊4面
註54 「內外雜報 上海に活動する大和婦人會」『週刊婦女新聞』1921年9月25日29面
註55 「支那婦人を救濟 上海の大和婦人會が基金を募る」『讀賣新聞』1921年10月20日朝刊4面
註56 「大和婦人會記事 ○田添常務幹事の歸任」『上海婦人』第四卷第一號 上海婦人社 1922年1月5日
註57 「訪問記(文責記者)」『上海婦人』第四卷第一號 上海婦人社 1922年1月5日
註58 飯沢匡『武器としての笑い』岩波新書青版991 岩波書店 1977
註59 「大和婦人會記事 ○本會の擴張と規則の改正」『上海婦人』第四卷第一號 上海婦人社 1922年1月5日
註60 「第二 在留外國人 甲 支那人 二 留學生教育費國庫補助に關する請願」『特秘 外事警察報』第十二號 内務省警保局 1922年4月(推定)、国立公文書館蔵(請求番号 平9警察00003100)、国立公文書館デジタルアーカイブによる
註61 「大和歌壇」『上海婦人』第四卷第一號 上海婦人社 1922年1月5日
註62 「大和婦人會記事 ○東京支部の設置」『上海婦人』第四卷第一號 上海婦人社 1922年1月5日
註63 乙訓鯛助『履歴書』1919年10月9日、「1. 上海/分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B12081930500、在外本邦学校関係雑件/恩給及退隠料関係之部 第二巻(B-3-10-2-10_13_002)(外務省外交史料館)
註64 小野泉太郎 高見澤宗藏 石橋藏五郎共編『文部省調査凖據小學校體操教本』博報堂 1907、山田辰治 乙訓鯛助共編『小學校適用兵式教練』博報堂 1907、山田辰治 乙訓鯛助共編『尋常高等小學校體操遊戯細目及教程』晩成處 1909等
註65 小野泉太郎 高見澤宗藏 乙訓鯛助 石橋藏五郎共編『文部省調査凖據小學校體操教本』博報堂 1907、「●府教育會の夏期講習會」『東京朝日新聞』1907年6月20日3面
註66 兒童遊戯硏究會編『實驗幼年遊戯 前編』博報堂 1901、兒童遊戯硏究會編『實驗幼年遊戯 後編』博報堂 1902、兒童遊戯硏究會編『女子適用連手運動法』博報堂 1902、兒童遊戯硏究會 乙訓鯛助君 石橋藏五郎君 大野朝比奈君 青木久五郎君共編『新按實驗遊戯 上卷』博報堂 1902、兒童遊戯硏究會 乙訓鯛助君 石橋藏五郎君 大野朝比奈君共編『新按實驗遊戯 下卷』博報堂 1904、兒童遊戯硏究會編『日露戰争ヲ應用シタル兒童遊戯』博報堂 1903、東京兒童遊戯硏究會編『國定小學讀本唱歌適用遊戯法 上編(尋常科用)』博報堂 1906、東京兒童遊戯硏究會編『國定小學讀本唱歌適用遊戯法 下編(高等科用)』博報堂 1906
註67 國民體育攻究會 石橋藏五郎 小野泉太郎 乙訓鯛助 可兒徳 津崎亥九生共著『誰でも出來る簡易體操』晩成處 1908、國民體育攻究會 石橋藏五郎 小野泉太郎 乙訓鯛助 可兒徳 津崎亥九生共著『小學校運動會要訣』晩成處 1908、國民體育攻究會 石橋藏五郎 小野泉太郎 乙訓鯛助 可兒徳 津崎亥九生共著『體育家必携』晩成處 1908
註68 「●冬季體操遊戯講習」『東京朝日新聞』1908年12月17日3面
註69 「小消息 ▲遊戯講習會」『讀賣新聞』1910年12月16日3面、「小消息 ▲體操遊戯講習會」『讀賣新聞』1913年7月9日3面
註70 「第三章 大正期と教育制度の拡充 第一節 大正期の教育政策と区教育界」『文京区教育史 学制百十年の歩み』東京都文京区教育委員会 1983
註71 上海老靶小路一三一號佐々木醫院 醫士 山口甚一「診斷書」1919年9月19日、「1. 上海/分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B12081930500、在外本邦学校関係雑件/恩給及退隠料関係之部 第二巻(B-3-10-2-10_13_002)(外務省外交史料館)
註72 「殘暑御見舞申候」『上海婦人』第五卷第八號 1922年8月15日
註73 王明辉 姚宗強主编 上海市虹口区地方志编纂委员会编「大事记」『上海市虹口区志』上海市区志系列叢刊 上海社会科学院出版社 1999、上海市地方志办公室主办 上海通网站 上海市地情资料库 上海市的百科全书サイトweb版による
註74「上海貧民窟の千戶燒く 大和婦人會が焚出す 死亡三名不明五十名」『讀賣新聞』1921年11月14日朝刊5面
註75 上海居留民團『上海居留民團三十五周年記念誌』上海居留民團 1942
註76 「大和婦人會記事 ○罹災民の救濟事業繼續」『上海婦人』第四卷第一號 上海婦人社 1922年1月5日
註77 「大和婦人會記事 雪日やあれも【7字白丸圏点】/人の子樽拾ひ【6字白丸圏点】」『上海婦人』第四卷第一號 上海婦人社 1922年1月5日
註78 「大和婦人會養成中の孤兒 後列左より二人目田添會長」口絵『上海婦人』6卷4月文藝號 上海婦人社 1922年4月10日
註79 「大和婦人會記事 ○本會の擴張と規則の改正」『上海婦人』第四卷第一號 上海婦人社 1922年1月5日
註80 「大和婦人會記事 ○本會の擴張と規則の改正」『上海婦人』第四卷第一號 上海婦人社 1922年1月5日
註81 「宣言 April 1922」『上海婦人』6卷4月文藝號 上海婦人社 1922年4月10日
註82 「殘暑御見舞申候」『上海婦人』第五卷第八號 1922年8月15日
註83 「謹賀新年」広告『上海婦人』第四卷第一號 上海婦人社 1922年1月5日
註84 「異國に咲く大和奈でしこ上海で人氣を集むる河上鈴子嬢」『國際畵報 The International Pictorial』Vol. III, No.12 大正通信社1924年12月1日
註85 文責記者(平尾久二カ)「ダンスの噂とり〲」『上海婦人』第四卷第一號 上海婦人社 1922年1月5日
註86 関口紘一「ワールドレポート World Report~世界のダンス最前線~ 上海のバレエを訪ねて」『Dance Cube webマガジン』チャコット株式会社 2007年5月10日、「蘭心大戲院」「美琪大戲院」「百樂門舞廳」維基百科
註87 「大和婦人會雜報」『上海婦人』6卷4月文藝號 上海婦人社 1922年4月10日
註88 「私たちはこれまで何をしてきたか?」「活動・実績内容(1991-2004)」特定非営利活動法人 国際交流は子どもの時から・アジアの会旧サイト
註89 杉江房造編輯『第十一版 上海案内』日本堂書店 1927
註90 島津長次郎編輯『第十版 上海案內』金風社發行 日本堂 至誠堂 東亞公司 森屋書店 大阪屋書店 內山書店 博文堂 英文堂 海文堂 柳屋書店賣捌 1924
註91 岡本宏「V 田添鉄二の歴史的地位 1 田添鉄二の死」『田添鉄二―明治社会主義の知性―』岩波新書青版778 岩波書店 1971
註92 「本科卒業生及其ノ就職ノ場所」『東京高等商業學校一覽 從大正二年至大正三年 附商業教員養成所一覽』東京高等商業學校 1913
註93 實業之世界社編纂局編纂(野依秀市)『財界三十年譜 中卷』大正7年4月6日条 實業之世界社 1926
註94 山室軍平「第二 救世軍の財政 (二八)後援會乙種會員の中」『救世軍二十五年戰記(去四半世紀間日本救世軍の運動)』救世軍本營 1920
註95 三菱行事株式會社常務取締役原田芳太郎 陸軍大臣田中義一宛「俘虜解放願」(陸軍省受領 歐受第1654)1919年11月6日、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C03025274300、大正10年「歐受大日記12月(共5)其2」(防衛省防衛研究所)、Sakura-Verband『Berichtext』Hamburg, Januar 1921によれば同年の時点でMitsubishi Shoji Kaishaに在籍、Historisch-biographisches Projekt zu den deutschen Verteidigern von Tsingtau 1914 und ihrer Gefangenschaft in Japan 1914-1920サイトによる
註96 小阪清行「ドイツ人俘虜人名・位階・官職・前職等一覧」
註97 津村正樹「久留米俘虜収容所における演劇活動(1)」『言語文化論究』第12号 九州大学大学院言語文化研究院 2000年8月31日
註98 Sakura-Verband『Sammelstelle Kurumer Resarvisten Adressen』1921、Historisch-biographisches Projekt zu den deutschen Verteidigern von Tsingtau 1914 und ihrer Gefangenschaft in Japan 1914-1920サイトによる
註99 「Kurzbiographien »S«」、Historisch-biographisches Projekt zu den deutschen Verteidigern von Tsingtau 1914 und ihrer Gefangenschaft in Japan 1914-1920サイトによる
註100 光永洋子「田添幸枝の墓に詣って」『史学史の窓』No. 2(特集・プロト封建制) 史学史の窓編集部 1988. XII
註101 大和婦人會 田添幸枝「大和婦人會記事 五周年に臨みて」『上海婦人』第五卷紀念號 上海婦人社 1922年11月10日
註102 青山学院編「第三章 青山の地に 第三節 東京英和女学校―青山女学院」『青山学院九十年史』青山学院 1965
註103 佐藤善一「女子高等美術教育の先駆者 横井玉子研究(一)」『女子美術大学紀要』第29号 女子美術大学 1999年3月30日
註104 「無月謝無束脩にて實業を教ゆ」女子授產塲広告『婦人矯風會雜誌』第參號 婦人矯風雜誌事務所發行 女學雜誌書店 警醒社 東京堂賣捌 1894年1月2日、佐藤善一「女子高等美術教育の先駆者 横井玉子研究(一)」『女子美術大学紀要』第29号 女子美術大学 1999年3月30日、引用は原書による
註105 米國文學士田添幸枝「活きた人格の感化」『女學世界』第拾卷第九號 博文館 1910年6月26日
註106 「ヨハネ傳・福音書」『改譯 新約聖書』大英國北英國聖書會社 1919年 3版による
註107 「第一章 創設時代 第二節 校舎、教育方針、校名」活水学院百年史編集委員会編『活水学院百年史』活水学院 1980
註108 リチャード・S・テイラー「編集長の序言―『ウェスレアン神学事典』のため」福音文書刊行会訳『ウェスレアン神学事典』福音文書刊行会発行 いのちのことば社 伝道文書販売センター発売 1993
註109 『上海婦人』第四卷第一號 上海婦人社 1922年1月5日
註110 柄谷行人「中文版再版作者序(2013)」柄谷行人着赵京华译『日本现代文学的起源柄谷行人文集』中央编译出版社2013
註111 安倍語法については、サンキュータツオ(聞き手・秋山惣一郎)「「一般に」「まさに」安倍首相の話体、学者芸人が分析~ストレスのたまる話体」『朝日新聞』2015年7月25日web版が示唆的である
註112 「北米婦人」『社會新聞』1908年10月10日5面、「●支那旅行(七【八の誤】)」『嶋原時報』1911年2月14日1面、「特別通信 支那旅行(八)田添幸枝」『都新聞』1911年2月25日1面
註113 「60年代・70年代を検証する(第22回) 水戸喜世子氏(元救援連絡センター事務局長)に聞く(聞き手・小嵐九八郎)デモが高揚した時代は救援運動の時代だった 反原発を牽引した夫・水戸巖の遺志は蘇る」(2012年10月22日インタビュー)『図書新聞』2013年4月13日6面
註114 『上海航路案内』日本郵船株式會社 1930、松浦章「1930年代日本郵船会社の「上海航路案内」」『東アジア文化交渉研究 Journal of East Asian cultural interaction studies』第9号 関西大学大学院東アジア文化研究科 2016年3月31日による
註115 「●支那旅行(七【八の誤】)」『嶋原時報』1911年2月14日1面
註116 「特別通信 支那旅行(八)田添幸枝」『都新聞』1911年2月25日1面
註117 岡本宏「V 田添鉄二の歴史的地位 1 田添鉄二の死」『田添鉄二―明治社会主義の知性―』岩波新書青版778 岩波書店 1971
註118 光永洋子「田添幸枝の墓に詣って」『史学史の窓』No. 2(特集・プロト封建制) 史学史の窓編集部 1988. XII

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魯迅と日暮里(53)南波登発の「亞細亞」への視線(28)須戸橋藤三郎 見沼代用水と内水交通、あわせて上武のキリスト者たち(中の15) The Outlaws in Northeast Asia, Chapter 21」への3件のフィードバック

  1. 私は田添鉄二顕彰会の小田憲郎と申します。目的は歴史の闇に埋もれ、ごく一部の専門的な人の間でしか知られていない明治時代の優れた社会主義者・田添鉄二に光をあて、再評価し、日本の社会主義運動史上に正当な地位を確立したいということです。没後105周年の2013年3月、今も残る田添鉄二の生家(熊本市南区美登里町)敷地の一角に「田添鉄二顕彰碑」を建立し、今年10月には「没後110周年記念講演会」を予定しているところです。田添鉄二の社会主義論の全集もしくは選集の出版準備を進めつつ、同時に私たちは、田添の妻・幸枝についても大いに興味をもち、調査を進めてきました。しかし、「日刊平民新聞」における『力の体現』をめぐる幸枝の投稿、岡本宏氏、光永洋子氏らの記述のほかにはほとんど材料がなく思案投げ首の状態のところ、顕彰会の世話人である猪飼隆明大阪大学名誉教授に当サイトの事を教えてもらい「魯迅と日暮里(48)」から読ませてもらいました。何といっても感動しましたのは平民社2階の応接間に据えられて以降行方が分からなくなり、せめて写真なりともと思い続けてきた『力の体現』の写真を見たときでした。また中国に渡った後の事も知りたいとも思いながら手を付けることが出来ないまま時を過ごしてきましたが、今回の「大和婦人会」のこと、初めて知ることばかりで大変勉強になりました。そして何より yokout 様の幸枝に対する視線の温かさに胸が熱くなりました。幸枝の和歌のことば「大神代」「御代の光り」の解釈は、わたくしもそうだと思います。幸枝は、幕末から今日まで広く女性画家を紹介した『女性画家の全貌。』(美術年鑑社)でも無視されております。社会主義者・田添鉄二同様、画家・田添幸枝も歴史上正当に評価されていない点では共通していると思いますので、引き続き調査、研究を進めていきたいと思います。

    • 小田憲郞様、拙い文をお読みいただきありがとうございます。過分のご評価をいただいたことには恥じ入るばかりです。雑駁な調査ですが、お役に立てれば何よりです。また、猪飼隆明先生が当記事に御注目下さっていたことにもびっくりしております。このシリーズでは、目下のところ、南波登発という正体不明の人物の追跡調査に始まり、多くの無名な人物を紹介しています。近代初期に活動したこれらの人物の多くが注目し、指向した“アジア”がいかなる意味を持っていたのかを知りたいと思ったからです。田添鉄二と同じキリスト教社会主義者の片山潜がアジアの民族解放事業に冷淡だった事実と対比する時、田添幸枝の中国での活動はきわめて印象的です。御説の田添幸枝が画家として正当に評価されていないのかどうかについてですが、残念ながら私は判断基準を持っておりません。田添幸枝の活動について、『廣益叢報』、『上海婦人』はじめ公刊された資料は多いはずですが、その多くは簡単には見ることができません。滞米時代の資料も未発掘です。海老名弾正そのほかキリスト教関係の諸記録、活水学園はじめ地元に残された記録も含め、目下未紹介の資料から、全く新しい田添幸枝像が浮かび上がる可能性があると信じていますが、それは次の方のお仕事と期待しております。今後とも宜しくお願い申し上げます。

      • yokout 様  早速の返信、ありがとうございました。まずは、田添鉄二の『選集』出版が先かと思いますが、幸枝についても調査を進めて行きたいと思います。

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