今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

魯迅と日暮里(54)南波登発の「亞細亞」への視線(29)須戸橋藤三郎 見沼代用水と内水交通、あわせて上武のキリスト者たち(下) The Outlaws in Northeast Asia, Chapter 22

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1952年4月、教員資格を持つ1人の男が本庄駅に降り立った。

「「暴力の町」として、一時有名になったことのある、高崎線本庄駅に私は降りた。やせて背が高く、鳥打帽をかぶっていた。私は駅前から、すぐタクシーに乗った。町を通りぬけて、まがりくねった、がたぴしした道を北の方へ六キロばかり行くと、桑畑やねぎ畑や、ほうれん草畑にかこまれた静かな部落が見えた。桑畑の向うには堤防がひくく東西につづいていた。桑畑も部落も、春の光をあびて、うすむらさきにやわらかくけぶっていた。
そこは島村といった。この村は、群馬県の南のはしで、埼玉県との県境にある、戸数四百余、人口二千四百ばかりの小さな村である。」(註1)

座談会-これからの社会科-(右より梅根悟-海後宗臣-斎藤喜博-岡津守彦)『教育』3巻10号より

座談会 これからの社会科(右より梅根悟 海後宗臣 斎藤喜博 岡津守彦)『教育』3巻10号より

レッドパージで教職を追われ、県教組の専従職員になっていた斎藤喜博による、レイモンド・チャンドラー(Raymond Thornton Chandler)ばりの、やけに文学的な記述の冒頭である。それもそのはず、斎藤喜博はアララギ派の歌人である。そして、その教育方針と方法は、やがて「島小」(島村小学校)の名を全国にとどろかせることになる。これについては後にふれる。

先に関根寅松と本庄美以教会について説明したおり、島村教会の栗原甚太郎の証言を見た。ここで再度取り上げる。

「明治十九【1886】年三月、熊谷町二在住ノ基督教美以教会(メソヂストエピスコパル)伝道士(マヽ―原注)小森谷常吉君来ル、本庄町二テハ関根寅松君二、島村二テハ田島弥九郎君ニ申込、何レモ基督教宣伝ノ目的ヲ以テ集会ヲ設ケ度旨意ヲ以テス、幸ニ両君ガ其地最初ノ賛成協力者トナリ、島村ニ於テハ田島弥九郎君ガ之ヲ先田島善平君ニ申込マル、善平君ハ先年以太利ニ居ラレ、其国教ナリシヲ見聞セル事アリシニ因リ直ニ是ヲ受入ラル、元善平君居宅ハ島村(ニ脱―原注)於テモ宏大ノ方ナリシニ因リ、吾家ニ開会スベキ事ヲ承諾セラレタリ」(註2)

「田島弥九郎君」については、公式の『島村教会百年史』にも記載がある。その原資料となったのは、『島村基督教會記録』第壹號。1886年3月23日、「基督教美以教会伝導(マヽ―原注)士小森谷常吉氏ハ當村田島弥九郎氏ニ伝導ス、氏モ幸ニシテ爾来伝導ノ目的ヲ希約ス」、そして27日に「田島弥九郎氏ハ伝導士ノ勤メヲ発起センカ為メ、殊ニ宗教上ノ理由モアレハ、一応田島善平氏ノ意思ヲ乞ワンカ為メ談話ニ及ハンニ」との動きに進展、結果として宗家の田島善平がキリスト教を受容したことにより、基督教美以教会島村講義所が設立されている。(註3)

明治20年(1887年)4月12日献堂式を挙げた島村教会(基督教美以教会島村講義所)『島村教会百年史』より

明治20年(1887年)4月12日献堂式を挙げた島村教会(基督教美以教会島村講義所)『島村教会百年史』より

上州島村は、石川三四郎の生れた江戸期以来の山王堂河岸よりは新しく、1878年から1880年の間に公式に河岸となった場所である。(註4)ただし、本庄の荷の積出しをめぐる山王堂河岸と一本木河岸の紛争の際、本庄宿荷主桔梗屋権右衛門らから上州島村船持惣代の仁三郎、久米之助宛に「議定一札之事」を、牧西村世話人の立会保証のうえ手交している。「この史料は、當時利根川水運において重要な地位を占め、有力なる船持船頭の多かつた上州島村の船持船頭」「に對して、再び紛爭もなく、契約通りの運輸事業に從事することを要請した」ものであり、その作成時期は文化5年8月【1808年】頃とみられる。(註5)したがって公許の河岸ではないものの、船持船頭の存在が認められる。

菊池誠一氏は、島村河岸は「船溜まりあるいは水主休息の河岸である。当村は流路の変遷もあるが利根川、烏川に挟まれた名の通りの島であった。したがって早くから男の稼ぎは近隣の河岸場を拠点にした船稼ぎであった。安永3年(1774)「乍恐書付を以て申上候」に艜船15艘、作場渡船8艘の23艘を書き上げている。」という。(註6)また、森岡清美氏によれば「一八六四年(元治元)幕府が蚕種輸出の禁を解くや、各地の蚕種業者は輸出の巨利を求めて横浜に殺到した。島村では何軒かの舟問屋に親船四〇艘子船七〇艘が群れており、利根川に舟を浮かべれば一夜にして蚕種を江戸へ直送することができたので、他の産地のように馬の背に載せて何日も旅路を過ごす間に空しく商機を逸する憾みもなく、輸出解禁後は急速に発展する有利な立地条件を備えていた。」という。(註7)したがって、島村が河岸になったのは幕末期以前にさかのぼる。

島村はまた、国定忠治(長岡忠次郎)に謀殺された島村伊三郎(町田伊三郎)の生れた場所でもあり、平塚河岸や木崎宿とともにその拠点であった。島村伊三郎は、1790(寛政2)年に島村字立作で町田家5代目として生れ、その父親は船持であったという。(註8)
明治期の1880年の嶋村(島村)における運船数は308。(註9)島村の地名の由来は利根川が作った中洲の島とされ、10年周期で川筋は変化し、「そのたびごとに村内を分流が貫流」、そのため村の反別の60%以上が川欠地として無年貢地となっていた。(註10)「地積の過半は、利根川の河川敷となっている。由来、河川の氾濫地帯は洪水のため耕地に砂が入って穀物の栽培には向かないが、桑の栽培に適して栄養の豊かな桑葉を産出するのみならず、蛆害・病害が少ないため蚕種の製造には好適である。」ため、幕末以来優良な蚕種製造地として知られ、1872年、大蔵省によって「とくに優良な春蚕種紙製作地として言及したのが、「奥州米沢柳川、信州上田、上州島村」[大蔵省達第六二号]」であった。(註11)その原文は、「良絲ハ惡蠶ヨリ得ル能ハサルハ人ノ共ニ通知スル所ナリ今良蠶卵ヲ殘ラズ輸出スル時ハ如何ニシテ良蠶ヲ得ルノ道アルヘキヤ是レ獨リ吾儕ノ苦慮ノミナラス横濱ニ在留スル歐米諸國ノ商賈ノ等シク顧慮スル所ニシテ【合字】日本政府ノ早ク此蠶卵ノ輸出ヲ制止スルヿヲ希望セリ而シテ【合字】吾儕ノ所見ハ現ニ此事ヲ行テ其効ヲ致サンニハ實ニ奧州米澤柳川信州上田上州島邨等ノ春蠶卵ハ全ク其輸出ヲ禁止スルヨリ他事ナカルヘシ」である。(註12)米作中心の税制で無年貢地となった耕作地条件を逆手にとって、盛んな農業的商品生産が開始されることになったのである。

『学校づくりの記』挿図-島村周辺地図及び山岳眺望図

『学校づくりの記』挿図 島村周辺地図及び山岳眺望図

島村におけるキリスト教布教のキーマンとなった田島弥九郎は、「田島善平の家人」といわれるが(註13)、森岡清美氏によれば「善平の乾分田島弥九郎」(註14)あるいは「ムラの用心棒として知られた田島弥九郎(田島善平家人)」(註15)と解説される。これをもっと直截に表現しているのが、美以教會の機関誌『護教』に掲載された1891年12月1日の「群馬埼玉両縣下基督信徒親睦會」の記事である。演説会に傍聴参加した仏教僧侶がキリスト教排斥の立場から論戦を挑もうとしている状況下でのできごとである。

「○同夜六時三十分細井【滿作】氏司會演説會を開く中澤【一治】氏「律法と惠み」大貫【文七】氏「基督を誰となすや」眞鍋政造氏「常尓恐るヽ者は幸いなり」この夜も僧侶輩(ら)來り質問と稱して妨害を試む司會者ハ明日を約して許さず僧侶等惡口をなす島村の會友にて有名の俠客田島彌九郎氏會堂の眞中に出で島村の彌九郎こヽにありと一喝せしに彼等は一言もなく明日を約して去れり時にとりて一興なりし十時四十分閉會す」(註16)

これによって、田島弥九郎は「有名の俠客」であることが明らかとなる。島村の田島弥九郎、本庄の関根寅松と、メソジスト教会が最初の教線を延ばしたのがともに俠客であったのは、何故だったのだろうか。なぜか浄土真宗における「悪人正機」という概念を思い出す。

明治二十年代キリスト教講義所-田島善平翁献納『島村教会百年史』より

明治二十年代キリスト教講義所 田島善平翁献納『島村教会百年史』より

田島弥九郎については、まとまった伝記的記述が少なくとも2つ残されている。1つは、1926年に受洗した栗原保定によるものである。『島村教会百年史』に収載された遺稿であるが、公共図書館にも、大学図書館にも収蔵が少ないため、長文を引用させていただく。

「剣客 田島弥九郎について
             (遺稿) 栗 原 保 定
 前がき
 我が郷土島村に姓、松波、名を弥九郎と申す人有り。幼少の頃より義侠的精神の持主にして此の人明治初年より村内治安の維持、蚕業の発達、宗教の伝道等氏の盡したる偉業多かりしも、人は変り世は移りて氏の残したる偉業も今や湮滅えんとする有様にて、余之れを憂ひ遺憾に思い氏の小伝を誌して其の湮滅を防ぎ、後世に伝えんとす。然し氏には史実及び履歴に記録も乏しく、余が祖父及母より聞き覚えたる事の思ひ出と憶測とにより、郷土に残れる僅かの記録を基として記述せしものなるを以て、記述中に尚誤記逸脱多しと思はれるれども後世の人尚深く之を考査し補正改訂の上判読し得ば余の欣幸とする所也。

一、剣客の一人也
 明治以前の事ならん田島武平の本家田島伊右衛門後代伊三郎方に剣道場有り。弥九郎幼少の頃より此の門弟となり剣の道を学ぶ。長じて此の師範役を勤めたりと聞く。
 此の時一浪人来りて試合申込み弥九郎氏最後に御相手仕りしも木剣にては勝負付かず、真剣を以て渡り合いついに之を負伏せたりと云ふ。
 之は余が幼少時に祖父より聞きたる談なり。
一、用 心 棒
 元治元年、横浜開港貿易開始せらるゝや海外の商社は多数店を開き取引行はる。蚕卵紙其の首位を占む。慶応二年には全国の数量実に一五〇万枚にして同三年には九六万枚を越えたる由、群馬県亦横浜に於ける首位に在り島村又県内の第一位なり。
 開港以来蚕卵種一枚の取引価額は五、六拾銭位なりしも慶応年間に入り急騰し、一枚実に金四円より五円まで取引せられ膨大なる金貨は島村にも流入する処となる。是を見聞したる盗賊共は屢々島村に来襲。強盗行はれたれば田島善平氏、松波弥九郎氏に依頼此の防衛役を願う。氏は心良く善平氏の申出でを引受け、而して日毎夜毎宗家田島善平宅始め本家伊右衛門、分家田島武平、田島弥平等一門一族の盗難防衛の大任を果したり。村の人是より弥九郎を用心棒と称す。
一、秩父暴徒の来襲
 明治新政府の政策に不平の徒より成る一団秩父に発生。是を秩父暴徒(世直しと称す)は次第に其の勢を増し、川越、松山を経て妻沼より利根川北岸に至り、当時蚕種景気の最も宜しき島村新地をば目指し来襲し、田島弥平及び田島武平の両家を襲わんとするの報に接し、弥平氏いたく驚き早速に此の防衛方を松波弥九郎氏に依頼したれば弥九郎氏心得たりと一刀を携えて暴徒の利根渡河に先立ちて単身河を泳ぎ渡りて暴徒の舟に切り込み、若者数人と果し合い、二、三者を殺傷したれば暴徒は豊受村國領郷方面に退散したりと云う。是を聞きたる善平氏は安心且つ感謝し弥九郎氏に田島の姓を贈り禮となす。
 弥九郎氏は是より松波姓を改め田島姓を名乗るに至りたり。
 此の勇者に依って島村の危機を救いし事。
 往時宝性寺の住職明京が青竹鉢巻にて曽兵【僧兵】と戦いたる武勇伝と此の度の弥九郎氏の武勇こそ、島村に於ける二大武勇伝と称して可なるべし。」(註17)

ただし、「私の父、保定は晩年田島弥九郎(鉄心と号した)さんに物凄く拘った1人でした。」という栗原寿郎氏は、「弥九郎さんは慶応4年の世直し勢の武士組一揆勢(今で云うテロリスト)を利根川岸で撃破して村民を守った」という別説を語る。さらに、「明治4年と6年の2回宮中御養蚕に関わり、明治10年7月に島村郵便局が新地に開設されると初代局長に就任してその手腕を振い、更に偶然なのか、必然なのか人知では計り知れない、主の御旨に依って熊谷の小森谷常吉伝道士に出会いイエスキリストは救い主であると信じて告白して、明治20年4月12日田島信(14代善平)は自邸内にキリスト教の講義所(教会堂)を建てて献堂式を執行して同日島村での第3回目の洗礼式もとり行われて、栗原茂平、栗原甚太郎、田島太一郎(儀七の長男)等と共に弥九郎さんも受洗したと記されています。」という事実を付け加えている。(註18)

明治四年奉仕者『日本蠶絲業史』より

明治四年奉仕者『日本蠶絲業史』より

第2の伝記の語り手は、第2回の宮中養蚕に参加した田島たみ(民、民子)の娘の和田邦子。田島弥平の孫であると同時に、高良とみの母である。

「明治と慶応の境目なり。西上州辺より暴徒起りて日々その勢いを加え、もし反対する者あれば危害を加うるがゆえにあえて反抗するものなく、高崎、前橋を風靡して勢い燎原の火のごとし。新地にも数々種々の流言と共に注進来る。正に数日中に新地に於いて利根川を渡りて江戸に出て関東を一円として江戸をさわがすという。村人数々相談するも方針定まらず。その中に田島善平家は畳をめくり主要品を集めて近郊の寺院に難をのがる。その他近隣に皆親戚縁故に去る。もし反対するものあれば村は全滅となるがゆえに大いに戒めよとの説なり。しかるに弥平は言う、これ暴徒なり、加担するの大義名分を見出す能わざるがゆえに千万人といえども恐るるに足らずと。家族は大いに緊張して数日前より砲弾を造り米麦を集めて対抗の準備をなす。集るものまず養嗣子有矩を大将株として弥九郎、鉄五郎(建具屋)、大工、箱屋、平生の出入人数人、有矩は鎖帷子に身を固め、弥九郎三尺の長脇差を帯して悠然戦士の出場のごとく、勝手許にはたすき十字にあやつりて兵糧握り飯に夜を徹するありさま、明日は早朝、暴徒利根川を渡るとの事にて、弥平主人は手飼の白馬に跨って岡部の代官所に注進に行く。数時間ののち、万勢子門前に出て主人の帰来いかんを検分せしに、時は午後四時頃、本家はこれより滝瀬村へ引き上ぐるとの事にて貴家も早く来れとの勧めに、今主人の留守中何事もなすあたわず、よし帰来して一家を滅すとも暴動に組するあたわずと断言せりと言う。夕暮時主人帰来、代官所への報告を聞く。翌日早朝、河もやを隔てて対岸一帯人頭にて満ち、その数幾万ありしを知らず。この時一艘の小舟に棹差して船頭と乗者一人斥候を○として来る。弥九郎氏これを迎えて突然走り行き、船より降りざる内浅瀬に降り立ちて肩先きを切り付け、朝もやの内に第一の血祭りを挙げたるに対岸の暴徒その悲鳴に驚き、いそぎ船頭と舟を返して傷者を運び去り、一時間の後には人(中断)。」(註19)

いつまでも聞いていたいような、実に見事な語り物である。最後中断したのは、高齢によって致し方なかったのだろう。中断以降の内容は「郷土余録」から補っておく。

「やがて一艘の小舟に二、三人を乗せて来る、哨兵なるべし。舟、岸に着かんとするに先立ち、弥九郎大音を挙げて「国家に反するは悪逆なればこの所、通すべからず、よろしく退去すべし」という言下に、銃声一発、まず敵の胆を奪う。棒民舟を争って遁走、血を見てしわかに恐れをなし、四散して遂に事なきを得たり。
 弥九郎、姓は松波なれども維新の際官軍に従い、また新田義純公に属せん事を欲し、自ら田島と称す。性豁達にして剛毅、古武士の風あり。後に三等郵便局長を拝命して時間を厳守し、村内の通信に任ず。家を四層楼となし、屋上国旗を掲揚して自らの存否を示す。毎年一月一日には中古のフロックコートにシルクハットを頂き、高足駄を穿きて年賀に来る。曰く「新年おめでとう、ただ今参内致しました」と。島村川原の大花火、東京大相撲など常に勧進元をなす。」(註20)

また、田島弥平の曾孫にあたる高良留美子は、次のように書く。時代は幕末から始まる。

「そのころ島村の名主で蚕種業者でもあった田島善兵衛の家に、弥九郎という剣の立つ若い用心棒がいた。金回りのいい蚕種業者の家にはよく強盗が入り、家人が切り殺された例もあったため、これを撃退するのが弥九郎の役目だったが、横浜へ蚕種を運び、代金を無事に持って帰るのも彼の重要な仕事だった。小判をぎっしり詰めた箱を馬車の背中に結びつけて中仙道を帰ってくるのだが、その姿が目立つため、弥九郎は道中のあちこちで待ち伏せする強盗に襲われては、これを逆に切り倒した。夜は宿の部屋で千両箱を腰かけ代わりにして見張り番をつづけ、二日三晩不眠不休で刀傷の手当てもしないまま帰ってくるのだった。島村へたどりつくとさすがの弥九郎も疲れ切って、二日間ぐらいは眠ってばかりいたという。彼が馬を曳いて中仙道を通ると、本庄あたりの人たちは「ああ、また弥九郎さんが小判を積んで帰る」と見送ったといわれる。強盗を避けるため金を皆で分けて隠しもち、身なりも変えて一般の旅人にまじって道中を歩いてくることもあった。
蚕種とその代金を運ぶのには、船による方法もあった。一八八三(明治一六)年に高崎線が開通するまで島村と東京間の交通は船によることが多く、とくに荷物の輸送には船便が便利だった。運賃も安かった。島村でも会社をつくってからは船を荷で送ったが、その前は中仙道をよく使っていたようだ。明治以後は、会社や個人が費用を納めて請願する“請願巡査”を頼んで蚕種代金を運ぶこともあった。弥九郎は江戸から流れてきた浪人者で、いつしか善兵衛の片腕となった青年だった。姓を松浪といったが、新田の縁につながることを望んで田島と称した。普段は前島の諏訪神社で若者たちに剣術を教えていたが、子どもたちも真似をして棒切れを振りまわし、朝の境内はいつも賑わっていた。善兵衛も子どもたちのヒーローだった。」(註21)

蚕種を収めた箱-駐日フランス全権公使の署名入り-レオン・ド・ロニー訳『養蚕新説』1868年より-『絹と光』による

蚕種を収めた箱 駐日フランス全権公使の署名入り レオン・ド・ロニー訳『養蚕新説』1868年より『絹と光』による

ここからは、田島弥九郎の生涯を確実な資料で再構成してみよう。主な情報源は、メソジスト教会関係の記録と、養蚕関係の記録、そして恕軒信夫粲(あきら)文則の献辞である。

上州島村から多くの人材が派遣された宮中での養蚕については、豊富な記録が残る。1871(明治4)年、「皇太后・皇后親シク養蚕ヲ御試ミ遊バサレント」して、「吹上御苑内ニ養蚕所ヲ設ケ」ることになった時、田島武平を推挙したのは渋沢栄一である。(註22)渋沢栄一は、島村の隣村・血洗村に生れ、「【田島】武平の妻は渋沢栄一の母の妹の娘なり。」(註23)
1929年には、「上州島村なる田島武平ぬし一日わが許を訪はれ、携来れる繭の白きと青白なるとの二種を示されて、こは明治の御代のはじめつかた、吹上の御苑内に御養蚕所を設けられける折、わが祖父なる武平はかしこき御あたりの仰せごとうけたまはり、蚕飼のわざにたけたる四人の女子たちを随へて、其処に参りつかうまつりけることのさぶらひけるが、後の思出ぐさにとて申し受けて、家の宝とて秘めおきつる出殻繭なり」と渋沢栄一に語り、当時の繭がらを見せたという。(註24)
「明治の御代のはじめつかた」、養蚕奉仕者として選ばれたのは、田島太平妻多加、田島伊三郎娘まつ、栗原茂平娘婦左と深谷の飯島元十郎妻そのの4名であった。そして、この時送迎人を勤めたのが田島弥九郎である。(註25)翌明治5年には、田島弥平が用命を受け、島村の栗原茂平、田島ひさ、栗田よし、栗原いち、関口ゑい、田島たみ、田島りよう、田島ひさ、栗原ひさ、栗原あき、伊与久村の宮崎たい、宮崎ゆう、境町の永井あいが選抜された。(註26)さらに明治6年には、田島弥平、田島マセ、田島弥九郎、田島のぶ、田島かよ、松波さわ、栗田とうが選抜されている。(註27)前々年に「送迎人」であった田島弥九郎は、今回は正式メンバーである。そして写真の姿を見ると、前回はまだ髷を結っていたが、今回は断髪の姿である。高良留美子によれば、「弥九郎は村で二番目にちょん髷を切った男」という。(註28)ただし帯刀しているのはかわらない。

したがって、栗原保定の記述にもかかわらず、秩父事件のずっと以前から田島弥九郎を名乗っているようである。また、秩父事件の「暴徒」が北方から襲撃しているのも変で、第2の伝記が語るように慶応4年の世直し一揆と混同されたものであろう。

田島善兵衛がヒーローであったのは、慶応4年の一揆で「名主の田島善兵衛は、後述する弥九郎らとともに自警団を組織して防衛し、一揆の利根川越えを防いだ。善兵衛は、江戸の斉藤弥九郎道場で鍛えた免許皆伝の腕前をもっていたのだ。」という事情によっていた。(註29)同様の記述は、『群馬県の百年』にも見え、丑木幸男氏の記述によれば「伊勢崎や太田周辺の東上州では、三月二日ごろから毎晩佐位郡豊城町(現・伊勢崎市)の権現山で、数人の農民が竹ぼらを吹きならして周辺の農民の参加を求め、六日には五、六百人が集合して富豪の家を攻撃し、施米百俵を提供させた。一揆勢はしだいに増加して佐位郡境町や新田郡平塚河岸を攻撃し、数千人が島村(現・佐波郡境町)にむかったが、島村では名主の田島善兵衛が自警団を組織して防御し、世直し勢の侵入をふせいだ。その状況は「田島善兵衛敢然奮起し、田島弥九郎その他数人を率い暴徒を利根河原に向かえ撃ち、その巨魁を斬る、暴徒震駭して退く」(伊勢原市「森村家文書」)と記録されている。」という。(註30)また、高橋敏氏によれば、「佐位・佐波の一揆勢数千人は横浜貿易の稼ぎ頭というべき蚕種村・島の「種売田島一統を打毀し呉れん」と押しかけた。/これを探知した島村では村役人を勤める田島善平が中心となって善後策を相談し、まず武州岡部藩へ出兵を依頼したが、一揆勢を恐れたためか断られた。そこで、村は自力で守る以外に方途なしとして、女・子どもを避難させて、食糧の米は穴を掘って隠すなどの策を講ずるほか、鉄砲にかけては腕利きの猟師をかり集め、同時に屈強の若者二〇人ばかりを筒袖段袋・九尺柄の鎗で武装させ待機させた。善平はかつて江戸の剣客斎藤弥九郎道場で剣技を磨いたといわれ、また、このとき武装した田島弥九郎という若者は、相当手慣れた使い手であった。田島と並ぶ同じく島村の栗原一統も、歴代間庭念流の門人を輩出している。」という。(註31)
篤信斎斎藤弥九郎善道は、越中国射水郡仏生寺村の組合頭・斎藤新助信道の長男として生れ、農民の身分であったが、神道無念流岡田道場撃剣館の師範代となり、のち、同門であった坦庵江川太郎左衛門英龍の資金援助を得て独立し、九段に練兵館を創設する。師の岡田吉利もまた、武蔵国埼玉郡砂山村の農民であった。鏡新明智流士学館、北辰一刀流玄武館と並んで、後に幕末江戸三大道場と呼ばれるようになる。明治政府では大阪の造幣寮に職を得た。また、上州では、「中世に系譜を置く剣術流派が多いことでも知られて」おり、間庭念流や法神流といった農民剣術の伝統があった。(註32)

そして田島善平が中心となって開催したメソジストの演説会では、「かつて千両箱を運んだ弥九郎は、栗原茂平とともに伝道師の仕事を助けた。「入信を決意された方はどうぞ前へ」と伝道師が説教のあとで呼びかけると、弥九郎は聴衆のうしろで日本刀を抜いてちらつかせ、無言で入信を迫ったという話が語り伝えられている。」(註33)森岡清美氏によっても、「教勢の急激な伸張の背後には、善平の乾分田島弥九郎の脅迫的ともいえる強引な伝道が奏功した場合もあり」と記されたことがある。(註34)
高良留美子氏は、「だが、彼は教会生活を全うすることなく、八年後に退会した。」「弥九郎は信仰生活にはなじまない、陽気なお祭り男だったのだろう。」ということを書く。(註35)しかし、『島村教会百年史』によれば、田島弥九郎が受洗した8年後の1895年「一一月二三日、田島弥九郎が永眠した。行年六〇才であった。二五日午前一一時より会堂に於て、牧師内海正紀によって葬式が執行された。」(註36)とあるため、人生の最後までを敬虔なキリスト者として過し、召天したのである。その誤解の元になったのは、「明治二十年四月十二日、コルレルによって受洗した田島弥九郎は、善平の良き部下であった。かれは善平宅に出入していたが、入信以来熱心に小森谷伝道士を助けた。かれは時には刀をもって他人に入信を迫ったことさえあると語り伝えられている。しかしかれは、教会生活を全うすることなく、二十七年退会している。」という、工藤英一元明治学院大学キリスト教研究所長の記述であろう。(註37)田島善平(註38)あるいは同年に除名された田島弥九郎の妻とみられる田島テツ(註39)と混同されている可能性もある。

田島弥九郎の興行の件について、和田邦子は、別の文章に次のように書いている。

「弥九郎の婦松波ふじのごときはわずかの養蚕にて年々金二百円以上を収めたりという。またある時は東京大相撲を招き、大淀、境川等の横綱連来村し、ある時は大花火を挙行して近隣見物の人を集め、またある時は芝居を催して大いに賑いたり。これら興行事は多く弥九郎氏が勧進元なりし。」(註40)のちに見るように「松波ふじ」が「阿銕」(テツ)と改名させられているのである。

この事実がどの時期のものであるかは不明だが、雷電為右衛門が日記に記した江戸後期の相撲、花火興行を思い起こさせる。少なくとも、江戸後期の興行形態が、幕末から明治初期にまで、変わらず連続していることが分かる。あるいは、こうした祝祭空間では賭場もまた開帳されているのだろう。それを直接に言及した記録はないが、「三尺の長脇差」を帯刀していたとする和田邦子の談話や(註41)、帯刀した写真記録(註42)から、田島弥九郎が博徒ないし「テキヤ」系のヤクザであったことが、推定されるべきである。

信夫恕軒『新聞人-信夫韓一郎』より-wikipediaによる

信夫恕軒『新聞人 信夫韓一郎』より wikipediaによる

次に、恕軒信夫粲(あきら)文則の献辞を掲げる。

「  贈田嶋彌九郎引
田嶋彌九郎竒士也。數竒而意氣益豪。義苟在焉。不避水火。故人皆稱其鐡石心膓。字曰銕心。兒輩亦稍知其稱。一日群集做惡戯。父老叱之。不已。視彌九郎來。相顧曰。銕心來。銕心來。驚散而去。彌九郎聞焉而喜曰。善哉字於我。乃名其妻。曰阿銕。自號曰銕心。又以命其室。凡自衣服刀劍。至飲食雜器。皆以銕心字為記。毎遇文人墨客。輙必以銕心字請題詠。於是乎銕心之名。噪于遠近。壬申春。余應田嶋子寧招。來寓遠山近水村舎。彌九郎袖銕心序記一巻來。未及叙寒暄。大呼曰。請為吾作銕心之文。時余代子寧。筆養蠶新論。結想紛紜。胸中多事。未遑起其稿。彌九郎屢排戸而來。大聲叱呼曰。銕心文如何。余謝多忙不能。彌九郎愈不可。掉頭曰。無已。則厪記銕心之氐字而足矣。以邦俗訓銕字為氐都也。余不堪其噪。急題數語而與之。彌九郎欣然曰。快矣一揖而去。嗚呼呼是可不謂竒士乎哉。」(註43)

読み下さなくてもほぼ意味は通じるだろう。「鉄心キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!」(銕心來)と子供たちのはやす声や、それに大喜びする田島弥九郎の姿が見えるようである。ついでながら「遠山近水村舎」は田島弥平の居宅を山陽頼襄が命名したもの、『養蠶新論』(註44)は、田島弥平がその先進的養蚕技術を公開するために出版した蚕業書で、本文によれば恕軒信夫粲はそのゴーストライタなのである。まだこの時期には、書物は熟達の古典中国語で書かれなければならない、とする社会的コードがあった。そしてそれを当然とする素養が、田島家をはじめとする島村の人々にはあったのである。

曜齋國輝(2代歌川国輝)「新𠜇蚕養之圖」『群馬県史』より

曜齋國輝(2代歌川国輝)「新𠜇蚕養之圖」『群馬県史』より

冒頭でも書いた宮中養蚕の際に、田島民が書き記した日記の中にも、田島弥九郎の姿が見え隠れする。同日記は、明治初期に農民女性の手によって書かれた貴重な記録でもある。()内の文言は、改めて清書した2冊目のノートから追加した文面であり、『宮中養蚕日記』の編者により挿入されたものである。

「一【明治5年4月】八日【1872年5月14日】晴天終日大西風國元江書面を送るニ付【田島】茂平殿参與【三河屋与右衛門】迄行折よく【田島】武平殿【】清助殿【田島】弥九郎殿国本より来り村方の様子く王しく【詳しく】き呉【聞く】(皆無事にて安心致す)今日女中方十三人蚕室江御出有内壱人御女郎方と云事也蚕のふんを御持成る外国人弐人通辨壱人外ニ弐人付楚へ蚕室江来り蚕を始て見しとて呉王敷【詳しく】噺をき〻帰
イ印弐十五掃朝多希【たけ、鷹休み、二眠のこと】ニ桒【U+6852、桑、以下同】付
イ三十六日掃夜桒留
上州三十六日掃夜同
桒五度」(註45)

蚕の上蔟(じょうぞく、ひきった(お蚕の体が透き通り、糸を吐くばかりの状態になった)塾蚕を「まぶし」(蔟)に移し、蚕が繭を作る場所を与える作業)も終わり、定宿の参河屋でほっと一息つくのも束の間、親戚回りやお買いもの、はては吉原見物にまで繰出す。はてには築地の信夫恕軒宅はじめ、東京中を東へ西へタフに歩き回る。案内する弟次郎や田島弥九郎は、さぞや疲れ切ってしまったことであろう。

「【明治5年5月】廿日【1872年6月25日】陰吹上より茂平殿参られいま多゛【未だ】お召出シ御沙汰古連なきよ志【これなき由】ニ而夫ゟ弟次郎殿案内致し一同さる若町壱丁目今いづみと云茶屋より見物致し四时頃うき切ニ成夫ゟ吉原江行吉本と云茶屋江寄酒をのむ其内雨ふ里多゛し傘を可里【借り】番當之案内ニ而女郎屋を見物致し大門迄送られ三や浦【山谷裏】より舩ニの里【乗り】十二时頃参河屋江帰【田島】太平殿待兼ニ而大きニ心者い【心配】の所なり
廿一日【26日】終日雨國元より【田島】弥九郎殿一同之むかへニ来る八时頃弥九郎殿を連下谷燈明寺江行伯父之廟参度源助横丁熊之市と云あんまの宅ニ伯母同居致スとき是江尋所築地行留主ニ而夫ゟ又香徳寺前信夫【恕軒】先生江立寄色〻ち楚ふ【馳走】ニなり古〻ゟ人力ニのり小柳丁江帰る㚑【靈の異体字】岸島之伯母留主むかへニ参り志とき〻夫ゟ又人力ニ而㚑岸島江尾張江来り泊
廿二日【27日】朝雨十时頃弥九郎殿参河屋来り伯父同〻致し新橋出雲丁武藏屋金平殿方江立寄是者尾張屋お者まどの【おはま殿】の宅也御家ニ而伯父ニ別弥九郎殿両人ニ而又築地関口江寄伯母ニ逢てしる古【汁粉】をち楚ふニなり別をつ希【告げ】㚑岸島帰いとま古い【いとま乞い】を致し寿きや丁【数寄屋町】買物致し又六問屋ニ而く尓【田島邦子】の下駄を買塩丁さ王多゛や【澤田屋】と云ふと物屋ニ而ちやうし縮【銚子縮】を見てね多゛ん【値段】をき〻此間参る約束致し夫ゟ立花丁奥州屋江縮之様子をき〻暮方参河屋江帰所明日宮内省江御召出し相成共とて茂平殿来る
廿三日【28日】晴天早朝仕たく致シ其内茂平むかニ来られ(弥九郎を連れ一同御所へ上る 弥九郎は坂下に残し置き それより)一同吹上御𧌩【U+27329、蠶】飛つ【室】江十二时頃上る其内御掛り岡本様御出ニ而御省江お召出しの所御普請ニ而御取込故御茶屋ニ而三ツ組御盃一ト組多者古入【煙草入】一ト組きせる壱本多もとをとし【袂落し】一ト組右御放屁【御褒美!】として頂戴致し御手文古【文庫】を御貸渡シ相成直丁ニ持せ参河屋迄御送下さる
廿四日【29日】陰十二字頃(婦人一同)御省御手當之金子戴き茂平殿持参致シ是請取夫ゟ弥九郎殿連て奥州屋江行手代願塩丁澤田屋ニ而ちやし縮を買夫ゟ両国江行青柳ニ而夕飯を食し其内日暮よせをき〻夜十时頃参河屋帰る
廿四日【30日】朝雨十一时頃(大勢にて)小柳丁参河屋與右衛門方出立致し人力ニ而板橋江来瓦屋ニ而晝飯を食シ夫(また人力にて)大宮宿栗定夜入来り泊る」(註46)

なお、「室」を「飛つ」すなわち「ひつ」と訛っているのは、関東特有の現象として、「ひ」、「し」の区別が付いていないのである。実は、私も、布団を「ひく」のか「しく」のか、線路を「ひく」のか「しく」のか全くよく分かっていない。

明治五年奉仕者『日本蠶絲業史』より

明治五年奉仕者『日本蠶絲業史』より

57日間の養蚕作業が終わり、一同は帰宅の途につく。帰りの経路は、大金を運搬して田島弥九郎が通ったと同じ中山道である。しかし、往路は船旅である。高良留美子氏によって「叙事詩的な緊張感と美しさがある」と評された(註47)、東京までの旅の叙述。

「  日記
明治五年壬申三月十四日【1872年4月21日】半陰順氣
宮内省ニ而御養蚕被遊候ニ付婦人十弐人御召出シ相成し者之名前
田島お飛さどの
同お里やうどの
関口おいゐどの
田島おひさどの
新野栗原おいちどの
前島栗田およ志どの
(栗原ひさ殿 同あき殿)
境町永井おあいどの
伊与久村宮崎おゆうどの
〃〃お多いどの
田じま民
右之者早朝尓志度く【仕度】致シ送り人田島太平殿ニ而村方庄吉殿之舩のりよふやく十二字頃出立父母里ん家【隣家】之者渡し場迄送り此所ニ而別をつ希【告げ】出帆致ス小舩ニ而中瀬之下迄来り此所ニ大舩有是江うつり一字頃飯野と云所江来舩より上り少シ休て又暮方舟中より川ま多【川俣】を見る夫ゟ半道【道は距離の単位、1里の半分、約1.96km】斗ニ而日暮舟を休て皆ねむる四字頃此所を出㠶【U+3836、帆】致ス明方より小雨来る夜四字頃此所を出㠶ス
十五日【22日】小雨十字頃より晴る七字頃舩を南のふち江付上りて此迄を見尓つ〻み高くして田者多【田畑】飛具き【低き】所也民家ニ而あ(梅若の祭りにて)もちをつくをミ致ス舟江帰朝飯を食し二三斗下る此所ニ佐野川云て利根川江おちる河有る十字頃栗橋江来又上りて天王宮江参景致ス夫ゟ半道斗下ニ而利根川二タ筋ニ別連【わかれ】其左之川を下り境川岸と云所江来る此所ニ而又川二タ筋ニ成る左を常陸川と云右を江戸川と云を下り半道斗ニ而関宿江来る此所ニ而栗橋之下ニ而別連志川此所江をちる夫ゟ関宿之町より中島村吉葉(という知人)の宅を舟中ゟ見る夫ゟ不ふ志鼻【ほふし鼻、宝珠花】江来る少シ休む二字頃野田江来る此时南風出舩下らづ此所ニ而支者らく【暫く】休三丁斗北ニ大師様八十八ケ所有是江参景致シ夫ゟ茂木佐平治と云(有名の)醤油屋見て舩江帰る其内少し風や王らぎ【和らぎ】舟を出し流山江来る此时日暮皆ねむる頃誠に暖氣也明方より南風大出
十六日【23日】小雨ニ而雨風つをくして下らづぜ飛なく【是非なく】舩人庄吉殿を願東京迄遣し養蚕之様子をき可寿【聞かす】其内よふやく少シを多゛や可【穏やか】となり舟を出支三里斗下り松戸迄来る时又風つをくして雨来又舟を休め上りて皆湯入夫ゟ又舟を出シ古ふの多゛い【鴻之台】の下迄来る此时楚ら者希゛しく【空激しく】雷雨之氣色有舩人雨の様以【用意】を致ス其内日暮皆此所ニ而ねむる夜小雨来る後風も正【止】夜二字頃舟を出シ半道斗下る此时庄吉殿東京ゟ帰り様子をきくニ早十四日より蚕掃立しとき〻一同心者ゐ【心配】致ス
十七日【24日】陰八字頃中川江来る此所ニ而又川二タ筋ニ成る夫ゟ川口を見て十字頃箱崎上州屋四郎平殿方着致ス也髪結湯入亭主之案内ニ而㚑岸島尾張屋藤次郎殿方行き藤次郎殿留主ニ而伯父様と色〻買物を願伯父様上州屋迄御送り被下さる(船人庄吉醤油を買いて国元へ送る)夫ゟ中飯食し一同神田小柳丁参河屋與右衛門殿方江着【致 着の2字抹消】致ス父昨日國元より来り今日者御省江出留主ニ而し者゛らく【暫く】休居内父帰り来色〻舟中之噺を致ス信夫先生未【来カ】此家御出ニ而御目ニか〻る上州渋川出口文平と云人来り支者らく【暫く】父と噺を致シ夕方帰る夫ゟ父案内ニ而娘五人私共六人を連上野ゆき見る尓末葉櫻見物之人大勢出尓きや可【賑やか】ニ夫ゟ淺草かんを無【観音】へ参景致し雨ニ合並木丁ゟ人力ニのり参河屋江帰る終日陰ニ而夜半ゟ大雨」(註48)

川越夜舟広告『埼玉県の歴史散歩』より

川越夜舟広告『埼玉県の歴史散歩』より

同じ1872年、島村の田島弥平が出資して、田島武平、栗原才紋らが鬼怒川筋の諸村を廻村、翌年から延島新田の開発に着手。このとき、田島弥九郎も島村と新田を往復、諸事業に参加している。(註49)

関根寅松の本庄に比して、田島弥九郎の島村は、仏僧や仏教信者からの果敢な攻撃を受けなかった。その理由について森岡清美氏は、「大体、真義真言宗は浄土真宗のようにキリスト教を強く排撃することはなかったのである。」という。(註50)さらに島村には自由党の組織が作られ、「蚕種業の指導者がこぞって入党」、田島弥九郎も1882年4月11日に自由党島邨部結成メンバーに名を列ね(註51)、9月1日に「自由党入費」を支払い(註52)、名簿にその名が載る。(註53)たぶん、近世末期以来の島村の村内意志決定システムや治安システムと本庄のそれに違いがあったことと、村内の社会的経済的リーダ層が信者になった島村と「皆下等の地位に居る者地方屈指の惡漢の化して善良の信徒となれる者數名の官吏教員等なり」(註54)という本庄の信者構成の違いにも起因するものと思われる。

島村における郵便局開局の件は、田島善平の伝に「仝年【1875年】翁ハ故田島弥九郎氏ト謀リ協力シテ嶋村郵便局ヲ設置ス然ト雖モ其ノ当時ニ於テハ一小村ニ郵便局ノ設置ハ異例ノ数ニシテ且ツ通信法ノ幼稚ナル時代トシテ到底収支相償フモノニアラズ為メニ翁ハ数年間私費ヲ投ジテ之ヲ継続ニ助力シ遂ニ今日ノ盛大ナル局ヲ見ルニ至レリ」と載る。(註55)しかし、島村郵便局は、栗原寿郎氏のいうように1877年7月16日の開設である。(註56)
郵便局は、1875年1月に従来の郵便役所および郵便取扱所が呼称変更されて成立する。郵政改革によって廃止のターゲットになった特定郵便局は、130年以上にわたって日本の郵便制度を支えてきた。田原啓祐氏が逓信省の内部文書を紹介しているが、「三等局制度については、長所として、➀1888年に定められた請負経費の制度(1903年より渡切経費制度が新たに設けられる)により、あらかじめ一定額を見積もって局経営に必要な一切の経費を三等局長へ支給し、職員の給料や局内物品や設備などの一切の費用について責任を負わせることにより経理業務の簡便化を図ること、➁地方名望家を国家事業に参加させることにより、その財力・才幹によって経済的な郵便局経営を可能ならしめること、➂地方名望家の局長起用により郵便が地元と円滑かつ密接に結びつき、さらなる郵便事業の普及に多大なる効果があること、等があげられる。一方で、➃三等局へ支給される経費が必ずしも潤沢でない場合、従業員に対する給与をはじめとする待遇が悪化し、人材の採用が困難となること、➄創業時と異なり、取扱業務等の増加などにより局の規模が拡大し、局舎や局内設備充実のため、三等局長に相当額の負担を強いられること、➅郵便創業時より局長に対する手当が僅少であること、➆切手および印紙類の不正売捌きおよび土地の経済状況の差による収入の不均衡等が問題点として指摘されてきた」という。(註57)倉賀野銀行専務取締役の大島善次郎の例とともに考えていきたい。
さらに田島弥九郎(鉄心)は1874年1月から79年の間に『横濱毎日新聞』に投書している。(註58)

明治六年奉仕者『日本蠶絲業史』より

明治六年奉仕者『日本蠶絲業史』より

話は振出しに戻る。日本中にその名をとどろかせた「島小方式」についてである。
戦後に「定本」(註59)とされた斎藤喜博著作集所収の著書『教室愛』(1942年)からは2つの章が削除されている。他人の足元をすくうような行為でどうかとは思うが、削除部分にある印象的な箇所をピックアップする。

「私のいふ嚴格教育とは「苦しんで苦しんで遂に出來る仕事を子供に與へ、その仕事を徹底的に努力させる」といふ事である。」「片山【九郎三郎】氏の教育はまさに嚴格教育である。しかもそれは血のにじむほど眞劍な切實な嚴格教育である。(中略)我々も教育者として日本の傳統を傳へ日本の傳統を益々發達せしむべき責任の地位にあるものとして、この點の精神と覺悟に於て遺憾の點はないであらうか。」「その子供の教育のために、その子供に出來る事をさせてゐるのであるから、一步も引いてはいけない。なまけをゆるしてはいけない。我儘をゆるしてはいけない。その子供のために又國家の教育のために堪へしのばなければならない。一時のよい先生になつて、子供のためにも國家のためにもならないことをしてしまつてはならない。泣き出す子供たちを見てがまんするのが嚴格教育である。泣き出す子供を激勵してやり通させるのが嚴格教育である。出來上つた時、その子供は本當に喜ぶ。自信を得る。子供はその先生にきつと感謝する。」「私の教室は色々の道具が一ぱいあるので掃除などもなか〱大へんである。それに動かした道具は必ず元の位置へおくやうに私に口やかましく言はれるので、はじめは弱はり込んでゐるやうであるが、しばらくたつうちに子供も色々工夫して、手取早く、しかも動かしたものを一つの間違いもなく必ず元の所へもどすやうになるのである。かくして、複雜な仕事を何でもない事のやうに簡單に仕上げられる意力的な計畫的な能率的な子供に訓練されて行くのであつて、これは單なるお掃除だけでなく、他の日常生活學習生活の場面に於ても皆さういふ風に訓練されて行くのである。」(註60)

「石炭は燃える力はあるが誰かが火をつけなければ決して燃えないものである。」「私は考へて見る。南京へ南京へとひたむきに進み行く皇軍勇士の心情を、狀景を。皇軍の勇士は南京へせまるときはたゞ南京の陷ちることをねがひとし熱情として進んで行く。そしてその目的が貫徹すれば次は新しい徐州である。全軍は又新しい目的物徐州へ向つてひたむきに努力し進軍する。そしてそれが終れば同樣にして漢口へ漢口へと新しい力をわき立たせて進軍するのであるが、この事はたゞに戰爭の場合だけでなく我々が日常生きる上に於ても同樣な事が言へるのではないかと思ふ。「南京へ南京へ」「徐州へ徐州へ」「漢口へ漢口へ」――かういふ生きた叫び生きた題目を、卽ち生活の山とか目標とかいふものをいつも生活の中に持ち、その大題目に向つて一生懸命に勵むといふ事は個人に於ても極めて大切な事であつて、それがない個人とか國家とかには活氣がなく喜びがなく進步がないのではないかと私は思ふ。」(註61)

1953年3月には東京大・宮原誠一研究室と提携、「全村総合教育」運動を計画する。これに参加した東京大院生だった藤田秀雄の回想を以下に示す。藤田秀雄は1931年生れ、日本橋大伝馬町で育ち、その後「戦争があまり激しくなったので、危ないということで中学1年の中頃、市川の南、行徳というところに疎開というほどではありませんが、少しはいいかも知れないというので移」る。(註62)ここで東京大空襲を見ることになる。当時、藤田秀雄は東京都立三中の2年生である。

「   三月 十日       土曜日 晴
 昨夜十一時近く警報が発令されてその時は少数機であつたが突然ものすごい砲聲が起り空襲になつた。勿論空襲になつた時敵機は旣に上空にさしかゝつて居たのである。そこで退避壕に飛込んだが其の後も三機位づつ主に房總より續々侵入して来た。空は曇つてゐて風が烈しい(凡そ十米) そして敵はこの烈風こそ好都合とばかりにどん〱と主に焼夷弾を投下した。その内に西の空には見る〱焰が擧り黒煙が空を覆つた。敵は小数機づつ相次いで來敵する為四時頃迄續き。解除されて外に出ると火災によつてか旋風が加つて風は益〻烈しく(凡そ二十米)火焰も西空を覆はんばかりに立ち上つて来た。(以下略)」(註63)
「東大に合格したとき、東大は悪い人間ばかり育成したから入りたくないと思っていた。親たちも、合格をよろこぶようなことはなかった。/ それでも、他によい大学もなかったので入学した。」(註64)
「浅野順一の美竹教会にかようこともしていた。同時にセツルメントにかよったり、奥多摩の山村工作隊の活動に一日だけ参加することもした」。「美竹教会には堀孝彦(倫理学)や深瀬忠一(憲法学)も通っていた。そして平和的生存権について考えた。これが、学生自治会、社会教育のアクション・リサーチ、平和運動、平和教育の原点だ」。(註65)
「四年生になり、学生自治会の中央常任委員になった。その時、破壊活動防止法(破防法)反対のストライキを実行した。吉川勇一が中心だった。/ このため、常任委員の四人が処分されたが、自分は免れた。それは、教育学部では、このストライキに参加せず、教官と学習会を行っためではないだろうか。」「このようにして学習会を行い、ストには参加しなかったので、自分は処分を免れたのだろう。」「ストをやれば自治会の代表者などは退学処分となることは、みな知っていた。/ それでもストに踏み切り、友人たちは処分され、さらに就職できなかった。そのため、常任委員として全学的に責任がありながら、自分だけ普通に卒業して就職することなどはできないと思った。/ また、当時は六全協(一九五五年七月の日本共産党第六回全国協議会)に向かう段階で、政治的状況は混乱しており、組織から独立して、独りで試してみようと思った。」(註66)
「そこで二十八年【昭和28年、1953年】のはじめ頃このことを宮原先生に相談し、どこかの適当な村を見つけてもらうよう相談した。 、【マヽ】これとは別に先生はもともと 研究室の協力村のようなものをもち、ここを研究の場として研究活動を進めたいと考えて居られた。この二つが結び合つて、どこかに協力村を見つけ、私をこの現地駐在員という形で、その村へ送るということになつた。早速そうゆう村を見つけることになつた。まず館林附近のある村に、そのころ私達のゼミに出席していた派遣の先生を通じて、この申入れをした。しかしそこでは村当局の承諾が得られなくて他の所を見つけることになり、島小の斉藤先生を通じて島村へこの考えを持ち出した。斉藤先生が当時の田島嘉之村長、教育委員に交渉した所、案外たやすく、受け入れられることになつた。村□【判読不明、議カ】会でも、もはや二十八年度【昭和28年度、1953年度】の予算が成立したあとだつたが、そのための村側の費用である十三万円を追加予算として、計上することが決定した。こうして島村で私達の仕事がはじまることになつたのである。このように島村が研究室の申し入れをたやすくうけ入れたのは斉藤先生の働きかけにも負【刀+貝】う所は大きかつた。しかし他方、村の役耺についている人達の权威主義がこの計画をたやすく受け入れるのに大きな力になつたことはいなめないであろう。」(註67)
「島村行きについて、教育学部の友人が心配してくれた。その第一は「失敗して追いかえされるのがオチだから、やめておけ」ということであった。私はそういう結果になってもよいと思った。幸い、中学は4年修了で旧制高校に入り、高校も1年で大学に入学したので、2年か3年がむだになってもよいと思った。とにかく大蔵省、通産省、外務省、日銀、大手出版社などに就職した教育学部の友人とまったく異なる道を選んで、どこまでできるか、自分を試してみたかった。」「私は「東大」という権威を背負って村に行くことはいやであった。しかし、まったく私一人の力で実践を成功させる自信がなかったので、この宮原先生の計画に従うことにした。そのため、島村に住みこんで、まっさきに私が努力したことは「東大」という肩書きを村の人たちが意識しないようになるための行動であった。そのためには、私が指導員ではなく、村の人たちから、ひたすら学ぶという学習者になることであった。/ 毎日、一軒ずつ農家に行き、朝から野菜づくりの手伝いをさせてもらう。夜は、その家の人から農業経営や農業技術について話を聞き、あるいは、その家の子どもの勉強をみてやる。」(註68)「こうした考え方は、中国のインテリゲンチャーが農村に入る場合のスローガンとしている「三同」(共に働き、共に喰い共に住む)の思想、劉少奇が「大衆組織の根本問題」で書いている「大衆の要求にしたがえ」とか「大衆に服務せよ」という考えに学んだからであります。」(註69)

こうした行動に進んだ藤田秀雄の内面には、「敗戦を迎えた時、あとは余命だと思った。」「大学卒業時、就職をまったく考えず、群馬県島村に行って、四年半住みこみ、農家の手伝いをしながら、サークル活動をしていたのは、この余命の意識があったからである」(註70)との思いがあったという。さらに、藤田秀雄の島村行は「昭和二八【1953】年春、吉田政府による再軍備強行、憲法改定が政治の争点になっていた時に、やはり大学教師と大学生によって地方で行なわれた」「全国的におこなわれた帰郷運動」の一環として行なわれていた。(註71)

「僕の島村との付き合いとか切り結び方…誰かに会いに行くでしょ。決してこっち呼ぶってことしない…仕事やってんだから…畑の脇に呼んで話をする、これもいけない…自転車をそこにおいて、一緒に畑の中に入って手伝いながら、しゃべるってのが一番いい…下駄だとそのまますぐぬいで、で、泥の足のまま下駄履いて又自転車で…あとで下駄と足洗えばいい」。(註72)

しかし、これに対する斎藤喜博の対応は次のようなものだった。

「『藤田さんね、そんなね、そんなことやってたって駄目だ』って言うんですよ。『農民ってのはね、馬鹿なんだから、引っ張っていかないと駄目だ』ってこと、非常にはっきり言いましたね。『中へ入って、一緒になって考えていくなんて、そういうのじゃ駄目だよ、君』」(註73)

田島弥平肖像画 油彩 トリノ画学校にて imapによる

田島弥平肖像画 油彩 トリノ画学校にて imapによる

やけに高飛車な斎藤喜博は、そして謙虚に見える藤田秀雄にしても、まさかその「ありふれた野菜づくりの農村」(註74)が富岡製糸場と絹産業遺産群というような形で世界の宝となり、広く名を知らしめることになるとは思わなかったであろう。その「静かな部落」が、旧幕時代から養蚕という近代産業によって蓄積された豊富な資金力を背景に、農閑期を中心として、村の教育文化活動に力を入れ、信夫恕軒ら文化人のサロンが作られていた都市的空間であったことも知らなかったに違いない。あるいは知っていながら、知らないふりをしたのだろうか。
やや古典的な分析ではあるが、工藤英一は、「河川の氾濫によって村の古い共同体的社会関係は縦横に切りさいなまれた。多くの社会学者によって指摘されているように、日本の農村における共同体的社会関係は、水田耕作における「水と草」をめぐって温存、強化される。しかるに桑畑以外に利用の道のない島村においては、そのような社会関係は次第に稀薄となり、したがって村内の主要な社会関係も、本家・分家関係を主軸とする血縁的社会関係から近隣同志の相互扶助に基く地縁的社会関係へとその重心が移りつつあった。」「島村の社会には、かなりの初期資本主義的要素が醸成され、企業家的・個人主義的意識が出現しつつあった。それゆえに、古い共同体的社会関係は、漸次崩壊して、個人主義的な社会関係がこれにかわりつつあったということができよう。」と述べ、「島村は蚕種製造地帯として、社会的、経済的にきわめて特殊な性格をそなえた土地であって、必ずしも、群馬県下における典型的な地域とみなすことができない。」とする。(註75)季節的雇用労働に基く資本家的生産の成立、資本家的エトスの発生、キリスト教への入信、自由党に参加したこと、合議による村内の意思決定方式の定着、それらの順序は必ずしも定かではない。申し訳ないが、「河川の氾濫」が決定的な原因であったとは思えないのだが、それはさておき、島村は「ありふれた」「静かな部落」ではなかったのだ。
森岡清美氏によれば、「一八八一年(明治一四)一月学術演説会のために来島した『朝野新聞』編集長・末広重恭(一八四九‐九六)はその紀行文のなかで島村に言及して、「村內又ハ村外ニ於テ所有スル田地ハ皆ナ他人ニ宛テヽ之ヲ耕作セシメ中等以上ノ農夫ニシテ自ラ耒耜ヲ操リ又ハ自ラ出テヽ耕作ヲ監督スル者アル無シ故ニ一タビ蠶事ヲ終レバ絹衣ヲ纏ヒ丹釀ニ飽キ悠々トシテ爲ス所ナシト云フ」[朝野新聞1881.1.23]と伝え、『群馬県佐波郡誌』編者は「利根川を挾んて高樓相連り白堊流水に映し」[1923: 88]と島村農家の豊かな生活を描写しているが、富裕の源である蚕種販売のために横浜始め各地の商人と取引するには、少なくとも読み書き算盤の確実な基礎学力が必要であった。」(註76)また、「このように蚕種業家は自ら閑暇にも恵まれ、経済的時間的余裕を利用して漢学や文芸にも心を寄せるものが少なくなかった。やや時代はさかのぼるが、例えばこの村の金井竹庵の長子莎村(一七九三‐一八二四)は昌平黌に学んで収載の誉高く、古賀精里の助教授として重きをなした。次子鳥洲(一七九六‐一八五七)、三子毛山(一八〇六‐一八七九)、鳥洲の子之恭(一八三四‐一九〇七)は書画をよくし、幕末の文人志士と親交があった。初代田島弥平は楳陵、二代弥平は南余と号して詩文をよくした。頼山陽は楳陵のために「遠山近水村舎」なる扁額を贈り、信夫恕軒は南余の食客となって『養蚕新論』の草稿を添削したといわれる。また、壬申戸籍に寄留の漢学者が見えるが、田島武平の借家に住まったところから察するに、けだし彼の家庭教師のごときものであったろう。その他有力な蚕種業家で文学に長じたものが少なくなかったようである。島村小学校はこのような文化的環境のなかで、当地方としては早期に属する明治六年八月に開校した。」(註77)上信武の養蚕地帯にあって、これとよく似た社会が形成されていたことは本庄のケースで既に見た。島村の人々は、明治になってからも総合商社と渡り合いつつ、1889年からは蚕種直輸出を行ない、田島弥平を含む多くの村人がヨーロッパに渡航して現地の文化に触れ、それを持ち帰る役割を果たしているのだが、それは別のお話。(註78)

研香(金井毛山)「遠山近水邨舎圖」『養蠶新論』より

研香(金井毛山)「遠山近水邨舎圖」『養蠶新論』より

斎藤喜博は、「できる」子を積極的に育成するために、あえて高いハードルを設ける教育方式をとった。「できない」子はどうなったか。「知能優秀者のみが決して人間價値の大なるものではない」、「どんなに知能の劣つてゐる子供でも學問の出來ない子供でも一生懸命努力し人間的に美しくある限りそれは劣生ではない。」(註79)しかし、あるいは、つまり、「できない子」は、………ここでは見捨てられたのであろう。別な言い方をすれば、できない子の存在は教師や教育に起因するのではなく、本人の知的能力に由来するのだ、と。そして、そうした教育方法が「成功」した背景には島村が本来持っていた高い文化水準があったと坂元秋子氏は推定する。(註80)「農民ってのはね、馬鹿なんだから、引っ張っていかないと駄目だ」と言っていた斎藤喜博が、高い文化水準を保持していた島村の子どもたちに「引っ張」られ、「全村総合教育」にあっては、「馬鹿な」「農民っての」に「引っ張」られていたのだ、それも無自覚なまま。華麗に見える手品にはタネがあったのである。むちゃくちゃを言っているようだが、「島小方式」や「全村総合教育」はそれだけのものだったのだと、そう思えてならない。教師というものが大っきらいだったこともある。同期の教育学部生が、就職の妨げになるからと自治会再建運動を忌避していたこともある。卒業したての小僧っ子や娘っ子がお互いを先生と呼び合っていたのも果してどうかと思ったし。尊敬する先生をほとんど持っていなかったこともある。そして、もし私がこの小学校にいたとしたら、反抗するか、あるいは自分を押し潰して教師に迎合したに違いない。想像するだけでもイヤでイヤでしょうがない、まるで今のこの国のように。
横須賀薫氏は次のようにいう。「教育界では斎藤喜博はワンマンだとか、教授学研究の会は非民主的だということになっていたのである。しかし、斎藤喜博からみれば歌会としてはあたりまえのことだったということになる。そしていやならやめればよいではないか、誰も頼んでいないのだ、ということになる。歌会と同じなのである。 / 私には島小や境小、それどころか退職後に各地で入って指導した学校自体がひとつの歌会だったのではないかと思えてならない。この場合、授業や表現活動が“短歌”である。そして、その価値基準はあくまで斎藤喜博そのものだった。」(註81)彼は、恐らく春蚕の掃き立てを待つ農閑期の島村に漂泊し、住みついた俳諧の宗匠あるいは和歌の師匠のような存在だったのだろう。ちなみに、斎藤喜博を招き、藤田秀雄を受け入れた「この時の村長は,もと斎藤さんと同じケノクニ・アララギ会員であった田島嘉之さん」である。(註82)

ここで島村小唄の一節を紹介する。斎藤喜博が島村に出現する直前の1951年3月、島村婦人会の依頼で関口青志(勝)氏が作詞したもの。

「長い歴史に咲く五彩(いついろ)の
 華は文化の島村の
 薫りゆたかに(シャシャンがシャンシャン)
 薫りゆたかに彩どって彩どって」(註83)

関口青志(勝)氏は島村の人。(註84)「日本蒲公英あるやと利根川の土手歩む畑仕事を今日は休みて」(註85)「酸素ボンべを畑隅に置き菜をとりぬ息を整へ息整へて」(註86)「三月ぶりに利根の堤を吾が行くに遠き山脈霞帯びをり」「ボンべの酸素を吸ひつつ利根の土手に立ち河原を見てをり病忘れて」(註87)など、生活の中から生まれ、あたかも命を削るようにして作られた印象的な作品がある。典雅な『群馬県佐波郡誌』の文章を借りれば「一葦流水のまゝに河を下れは瞬間て烏川の落合に達する、流域は廣く水勢漸く緩く右岸は此れ埼玉縣の地、舟は暫く兩縣の間を駛る、旣にして名和の境を過くれは河川屈して埼玉の地籍に入り仁手の一角を貫いて東に出つ、四望灑如、左岸は豊受て前面に見ゆるのか島村てある、豊受村亦屈指の蠶種の生產地て長沼、國領、上下蓮沼等其の名は著しい、島村は五小字から成り、利根川を挾んて高樓相連り白堊流水に映して居る、文豪頼山陽か遠山近水村舍の名は偶然てない、是に於て舟を捨て堤上に立ては茫々たる桑園は青海原の如く他の一物の目を遮るものかない、」(註88)その島村の町と利根川をこよなく愛したにちがいない、アララギ派の歌人である。

艜船『船鑑』国会図書館蔵より合成復元

艜船『船鑑』国会図書館蔵より合成復元

 


 

註1 斎藤喜博「渡し舟のある村 1 蚕種の村へ」『学校づくりの記』国土社 1958
註2 栗原甚太郎小羊『島村郷土誌余録』1946、群馬県史編さん委員会編『群馬県史 資料編22 近代現代6』群馬県 1983による
註3 『島村基督教会記録』第壹號【号+乕】 刊記不明、福田博美「第一章 明治前期の境町 第三編 教育文化 (二)キリスト教の動き」『境町史 歴史編 下』境町 1997による、書名は『島村教会百年史』日本基督教団島村教会 1987所収写真図版による
註4 丹治健蔵「第二編 幕末・明治前期の交通運輸 第五章 明治前期の内陸水運と道路輸送―上利根川水系の河岸場を中心として―」山本博文編『近代交通成立史の研究』法政大学出版局 1994
註5 島崎隆夫「利根川筋河岸場紛爭―本庄宿外港としての一本木河岸および山王堂河岸―」『三田学会雑誌』第47巻第3号 慶應義塾経済学会 1954年3月
註6 菊池誠一「島村河岸 しまむらがし」利根川文化研究会編『利根川荒川事典』国書刊行会 2004
註7 森岡清美「第二部 明治期地域社会のキリスト教 第二章 島村キリスト教会の形成と展開」『明治キリスト教会形成の社会史』東京大学出版会 2005、原出典は不明
註8 高橋敏「第一章 国定忠治と幕末社会」『国定忠治』岩波新書新赤版685 岩波書店 2000
註9 「河岸塲」『群馬縣統計表』群馬縣藏版 1881、丹治健蔵「第二編 幕末・明治前期の交通運輸 第五章 明治前期の内陸水運と道路輸送―上利根川水系の河岸場を中心として―」山本博文編『近代交通成立史の研究』法政大学出版局 1994
註10 高橋敏「第一章 国定忠治と幕末社会」『国定忠治』岩波新書新赤版685 岩波書店 2000
註11 森岡清美「第二部 明治期地域社会のキリスト教 第二章 島村キリスト教会の形成と展開」『明治キリスト教会形成の社会史』東京大学出版会 2005
註12 「大藏省達第六十二號 蠶紙生絲ノ説ヲ頒布ス (別册)蠶紙生絲ノ説」明治4年5月3日(1871年6月20日)、內閣官報局『明治五年 法令全書』長尾景弼發行 博聞社販賣 1889
註13 福田博美「第一章 明治前期の境町 第三編 教育文化 (二)キリスト教の動き」『境町史 歴史編 下』境町 1997
註14 森岡清美「3 島村美以教会」『日本の近代社会とキリスト教 日本人の行動と思想 8』理論社 1970
註15 森岡清美「第二部 明治期地域社会のキリスト教 第二章 島村キリスト教会の形成と展開」『明治キリスト教会形成の社会史』東京大学出版会 2005
註16 本莊美以教會報告員「⦿群馬埼玉両縣下基督信徒親睦會畧况」『護教』第24號 護教社 1891年12月19日
註17 栗原保定「剣客 田島弥九郎について」『島村教会百年史』日本基督教団島村教会 1987
註18 栗原寿郎「島村でのキリスト教による最初の葬式」『日本キリスト教団 島村教会蚕の群れこのむれ』第12 号 宗教法人日本基督教団島村教会2006年10月29日
註19 (話し手)和田邦子(聞き手)田島寧儀妻 好子 栃木県人親戚の娘 志づ子「島村の昔」1933、『高良とみの生と著作 第8巻 母と娘の手紙 年譜 著作目録』ドメス出版 2002による、初出は和田義睦 和田邦子著 高良富子編『ちちははの記』高良富子私家版 1955というが未見
註20 和田邦子「郷土余録 ご親蚕奉仕の記」、『高良とみの生と著作 第8巻 母と娘の手紙 年譜 著作目録』ドメス出版 2002による、初出は和田義睦 和田邦子著 高良富子編『ちちははの記』高良富子私家版 1955とあるが、公立図書館、大学図書館にも収蔵なく未見
註21 高良留美子「田島民が生きた時代と環境 二 幕末から明治へ 4 維新の動乱を越えて」田島民著 高良留美子編『宮中養蚕日記』ドメス出版 2009
註22 渋沢青渊記念財団竜門社編纂「第二部 亡命及ビ仕官時代 第四章 第四章 民部大蔵両省仕官時代(明治四年二月・1871)」『渋沢栄一伝記資料 第三巻』渋沢伝記資料刊行会 1955
註23 和田邦子「郷土余録 ご親蚕奉仕の記」『高良とみの生と著作 第8巻 母と娘の手紙 年譜 著作目録』ドメス出版 2002による
註24 渋沢栄一「出がら繭の記」私家版 1929 群馬県立図書館蔵、渋沢青渊記念財団竜門社編纂「第二部 亡命及ビ仕官時代 第四章 第四章 民部大蔵両省仕官時代(明治四年二月・1871)」『渋沢栄一伝記資料 第三巻』渋沢伝記資料刊行会 1955を参照して翻字した
註25 本田岩次郎編纂「宮中御養蠶史(別稿) 總論 明治四年(辛未)の宮中御養蠶」『日本蠶絲業史 第一卷』大日本蠶絲會 1935
註26 本田岩次郎編纂「宮中御養蠶史(別稿) 總論 明治五年(壬申)の宮中御養蠶」『日本蠶絲業史 第一卷』大日本蠶絲會 1935
註27 本田岩次郎編纂「宮中御養蠶史(別稿) 總論 明治六年(癸酉)の宮中御養蠶」『日本蠶絲業史 第一卷』大日本蠶絲會 1935
註28 高良留美子「田島民が生きた時代と環境 四 蚕の村、その後 2 キリスト教と仏教」田島民著 高良留美子編『宮中養蚕日記』ドメス出版 2009
註29 高良留美子「田島民が生きた時代と環境 二 幕末から明治へ 4 維新の動乱を越えて」田島民著 高良留美子編『宮中養蚕日記』ドメス出版 2009
註30 丑木幸男「一 近代社会への胎動 2 ご一新」丑木幸男 宮崎俊弥『群馬県の百年』県民百年史10 山川出版社 1989、引用部の出典の詳細は不明
註31 高橋敏「近世 世直し一揆と農民剣術」西垣晴次責任編集『図説群馬県の歴史』図説日本の歴史10 河出書房新社 1989
註32 高橋敏「近世 関東通り者と八州廻り」、「近世 世直し一揆と農民剣術」西垣晴次責任編集『図説群馬県の歴史』図説日本の歴史10 河出書房新社 1989
註33 高良留美子「田島民が生きた時代と環境 四 蚕の村、その後 2 キリスト教と仏教」田島民著 高良留美子編『宮中養蚕日記』ドメス出版 2009
註34 森岡清美「3 島村美以教会」『日本の近代社会とキリスト教 日本人の行動と思想 8』理論社 1970
註35 高良留美子「田島民が生きた時代と環境 四 蚕の村、その後 2 キリスト教と仏教」田島民著 高良留美子編『宮中養蚕日記』ドメス出版 2009
註36 「第一章 明治時代の島村教会 二、島村教会の創立期」『島村教会百年史』日本基督教団島村教会 1987
註37 工藤英一「第3章 農村伝道の展開 3 群馬県島村教会の成立と発展」『日本社会とプロテスタント伝道』日本基督教団出版部 1959
註38 森岡清美「第二部 明治期地域社会のキリスト教 第二章 島村キリスト教会の形成と展開」『明治キリスト教会形成の社会史』東京大学出版会 2005
註39 「明治、大正、昭和初期の受洗者名簿」『島村教会百年史』日本基督教団島村教会 1987
註40 和田邦子「祖父田島弥平と明治の島村」、『高良とみの生と著作 第8巻 母と娘の手紙 年譜 著作目録』ドメス出版 2002による、初出は和田義睦 和田邦子著 高良富子編『ちちははの記』高良富子私家版 1955というが未見
註41 (話し手)和田邦子(聞き手)田島寧儀妻 好子 栃木県人親戚の娘 志づ子「島村の昔」1933、『高良とみの生と著作 第8巻 母と娘の手紙 年譜 著作目録』ドメス出版 2002による、初出は和田義睦 和田邦子著 高良富子編『ちちははの記』高良富子私家版 1955というが未見
註42 本田岩次郎編纂「宮中御養蠶史(別稿)」『日本蠶絲業史 第一卷』大日本蠶絲會 1935
註43 因幡 信夫粲文則(信夫恕軒)著「贈田嶋彌九郎引」『恕軒文鈔 巻下』信夫粲出板 松崎伴造發賣 1877
註44 上毛田㠀邦寧(田島彌平)『養蠶新論』遠山近水村舎蔵梓 1889
註45 田島民女『日記』1872、田島民著 高良留美子編『宮中養蚕日記』ドメス出版 2009写真影印図版より読み起し
註46 田島民女『日記』1872、田島民著 高良留美子編『宮中養蚕日記』ドメス出版 2009写真影印図版より読み起し
註47 高良留美子「田島民が生きた時代と環境 一 荒れる利根川 1 田島民の活発さ」田島民著 高良留美子編『宮中養蚕日記』ドメス出版 2009
註48 田島民女『日記』1872、田島民著 高良留美子編『宮中養蚕日記』ドメス出版 2009写真影印図版より読み起し
註49 鈴木芳行「明治初期地方蚕業開発と養蚕教師―群馬県佐波郡島村田島弥平の事蹟を中心に―」『地方史研究』第212号 地方史研究協議会 1988年4月1日、原資料は田島九如家文書「開墾日用簿 田島弥四郎」ほか、とある
註50 森岡清美「第二部 明治期地域社会のキリスト教 第二章 島村キリスト教会の形成と展開」『明治キリスト教会形成の社会史』東京大学出版会 2005
註51 「自由党団結ノ記 上毛島邨部」田島弥平氏蔵、群馬県史編さん委員会編『群馬県史 資料編21 近代現代5』群馬県 1987所収
註52 田島弥平「明治十五年八月三十一日自由党新聞株金召集議事」田島健一家文書、境町史編さん委員会会長湯浅正彦編『境町史 第3巻 歴史編下』境町 1997所収
註53 「自由党島邨部団結人名」田島弥平氏蔵、群馬県史編さん委員会編『群馬県史 資料編21 近代現代5』群馬県 1987所収、境町史編さん委員会会長湯浅正彦編『境町史 第3巻 歴史編下』境町 1997所収
註54 「信者埋葬地の爭ひ」『基督教新聞』1888年9月26日6面
註55 栗原實平「田島善平翁」1918、『島村教会百年史』日本基督教団島村教会 1987所収
註56 佐波郡役所編纂「前編 第八章 交通通信 第六節 通信」『大正十二年三月 群馬縣佐波郡誌』安間喜太郎 1923
註57 田原啓祐「戦前期三等郵便局の経営実態―滋賀県山上郵便局の事例より―」郵政歴史文化研究会編『郵政資料館 研究紀要』平成21年度 創刊号 日本郵政株式会社郵政資料館 2010年3月9日、原資料は逓信省郵務局『三等局制度の改善に就て』1937、郵政資料館及び徳島県立文書館高見家文書蔵、未見
註58 石堂彰彦「1870 年代における大新聞投書者の属性分析─職業・世代の変遷を中心として」『成蹊大学文学部紀要』第50号 成蹊大学文学部学会 2015年3月18日、石堂彰彦「1870 年代の新聞投書者の動向に関する一考察」『成蹊大学文学部紀要』第49号 成蹊大学文学部学会 2014年3月18日
註59 斎藤喜博「限定版あとがき」『斎藤喜博著作集 第1巻 教室愛 教室記』麥書房 1962
註60 齋藤喜博「第一章 嚴格教育」『教室愛 私の組の教育はどうして來たか』三崎書房 1942
註61 齋藤喜博「第四章 火をつける」『教室愛 私の組の教育はどうして來たか』三崎書房 1942
註62 藤田秀雄「〔講演〕空襲体験から現在の問題を考える」2005年12月10日ティアラこうとうでの講演、『Seikeiken Research Paper Series No. 11 東京大空襲・戦災資料センター シンポジウム 都市空襲を考える 第4回』財団法人 政治経済研究所 東京大空襲・戦災資料センター 2006年7月による
註63 藤田秀雄『一九四五年の日記』、藤田秀雄著 山田正行編『戦中戦後少年の日記 一九四四~四五年』同時代社 2014写真図版より読みおこし、判読にあたり同書本文を参照した、なお当初の『日記』表題は和暦表記ではなかったかと思われる
註64 山田正行「ライフスタイルとヒストリカル・モメントに関する予備的研究(2)―藤田秀雄の戦中日記を中心に―」『社会教育学研究』第14号 大阪教育大学社会教育学研究室 2008年4月
註65 山田正行「III 激動の時代のアイデンティティ形成」『東大教育学の思想と実践―藤田秀雄に即して』2017年4月20日 地の塩になれればとサイト、なお、山村工作隊に参加した著名人としては、(学者)網野善彦、田中克彦、戸川芳郎、江口圭一、(作家)高史明、小松左京、山崎正和、谷川雁、(映画監督)土本典昭、勅使河原宏、(画家)山下菊二、桂川寛、島田澄也などがいる、また、藤田秀雄「もうひとりの少年H・その2」『社教無名』No. 35 立正大学社会教育ゼミナール 2000年を引く山田正行「ライフスタイルとヒストリカル・モメントに関する予備的研究(5)―藤田秀雄の戦中日記を中心に―」『社会教育学研究』第21号 大阪教育大学社会教育学研究室 2011年4月では「竹早教会」とする、原書未見
註66 山田正行「VI 藤田先生の生き方と自己教育としての社会教育―『戦中戦後 少年の日記 一九四四~四五年』を踏まえて―」『東大教育学の思想と実践―藤田秀雄に即して』2017年4月22日 地の塩になれればとサイト
註67 藤田秀雄『島村総合教育の発足と㐧一年目の藤田の活動』東京大学教育学部社会教育研究室 1956年5月、山田正行「ライフスタイルとヒストリカル・モメントに関する予備的研究(5)―藤田秀雄の戦中日記を中心に―」『社会教育学研究』第21号 大阪教育大学社会教育学研究室 2011年4月所収写真図版より読みおこし
註68 山田正行「ライフスタイルとヒストリカル・モメントに関する予備的研究(2)―藤田秀雄の戦中日記を中心に―」『社会教育学研究』第14号 大阪教育大学社会教育学研究室 2008年4月
註69 藤田秀雄「学生は農民と何によって結びつけるか」『月刊社会教育』No. 52(特集・集団を生かす指導性) 国土社 1962年3月1日
註70 藤田秀雄「敗戦前後 少年の生活と思い」藤田秀雄著 山田正行編『戦中戦後少年の日記 一九四四~四五年』同時代社 2014所収
註71 藤田秀雄「学生は農民と何によって結びつけるか」『月刊社会教育』No. 52(特集・集団を生かす指導性) 国土社 1962年3月1日
註72 坂元秋子「回想された斎藤喜博―戦前玉村小と戦後島小を中心に―」『教育科学研究』第26号 首都大学東京都市教養学部人文・社会系 東京都立大学人文学部教育学研究室 2012年3月10日
註73 坂元秋子「回想された斎藤喜博―戦前玉村小と戦後島小を中心に―」『教育科学研究』第26号 首都大学東京都市教養学部人文・社会系 東京都立大学人文学部教育学研究室 2012年3月10日
註74 藤田秀雄「<社会教育実践十年のあゆみ・1>島村のサークル活動(一)」『月刊社会教育』No. 74 国土社 1964年1月1日
註75 工藤英一「第3章 農村伝道の展開 3 群馬県島村教会の成立と発展」『日本社会とプロテスタント伝道 明治期プロテスタント史の社会経済史的研究』日本基督教団出版部 1959
註76 森岡清美「第二章 島村キリスト教会の形成と展開」『明治キリスト教会形成の社会史』東京大学出版会 2005、引用箇所はそれぞれ末廣重恭「論説 製產ノ進步ハ干涉ヲ要セズ」『朝野新聞』1881年1月23日3面、佐波郡役所編纂「前編 第十一章 產業 第五節 蠶種業」『大正十二年三月 群馬縣佐波郡誌』安間喜太郎 1924の原文にあたり原字に翻字した
註77 森岡清美「II キリスト教会の形成と展開 3 島村美以教会」『日本の近代社会とキリスト教』日本人の行動と思想 8 評論社 1970
註78 湯浅正彦編『境町史資料集 第四集(歴史編)島村蚕種業者の洋行日記』境町 1988
註79 齋藤喜博「第二章 劣生がゐない」『教室愛 私の組の教育はどうして來たか』三崎書房 1942
註80 坂元秋子「回想された斎藤喜博―戦前玉村小と戦後島小を中心に―」『教育科学研究』第26号 首都大学東京都市教養学部人文・社会系 東京都立大学人文学部教育学研究室 2012年3月10日
註81 横須賀薫「第一章 その人と仕事 三 短歌と教育」『斎藤喜博 人と仕事 Kihaku Saitoh The man and his works』国土社 1997
註82 金子緯一郎「昭和27年度」『島小十一年史』麥書房 1966
註83 関口青志(勝)「島村小唄」6番 1952、湯浅正彦編『境町史資料集 第四集(歴史編)島村蚕種業者の洋行日記』境町 1988による、金山武「島村小唄 唄と踊り 2014.5.22 島村区民センター」(動画)YouTube 2014年6月29日アップロードにより、合いの手を追加した
註84 一九九五年版年刊歌集編纂委員会編「出詠者住所録」『年刊歌集 一九九五年版』日本歌人クラブ 1995
註85 「八月集 其二(一) 石井登喜夫選」『アララギ』第87巻第8号 アララギ発行所 1994年8月1日、長岡真珠子「八月号作品評 其二(一)」『アララギ』第87巻第10号 アララギ発行所 1994年10月1日
註86 「六月集II(一) 添田博彬選」『新アララギ』第9巻第6号 新アララギ発行所 2006年6月1日
註87 「五月集II(一) 實藤恒子選」『新アララギ』第9巻第5号 新アララギ発行所 2006年5月1日
註88 佐波郡役所編纂「前編 第十一章 產業 第五節 蠶種業」『大正十二年三月 群馬縣佐波郡誌』安間喜太郎 1924

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