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魯迅と日暮里(55)南波登発の「亞細亞」への視線(30)助川貞二郎と北方の民権運動家たち Democrats in the northern colony of Japan

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以下は「亞細亞勞働協會」メンバーの銘々伝の続きである。だが、決してザコキャラ退治のつもりはない。また、本シリーズでは、ほとんど知られることのない人物を取り上げているのだが、助川貞二郎については札幌市教育委員会の文野方佳氏による詳細な伝記が著されており(註1)、同時代資料も多い。そして、明治期の北海道の人物のレファレンス情報については、北海道立図書館北方資料部作成の『北海道人物文献目録(明治~戦前期)』(註2)のお世話になった。最初に掲げてお礼を申し上げます。

助川貞次郎『北海道立志編-第貮巻』国会図書館蔵より

助川貞次郎『北海道立志編 第貮巻』国会図書館蔵より


助川貞二郎は、1907年に札幌石材馬車鉄道株式会社専務取締役、札幌の交通網整備に大きな業績を残した実業家である。1860年7月3日(万延元年5月15日)に常陸国筑波郡吉沼村に生れ(註3)、『北海道人名辭書』によれば「祖先は佐竹藩士なり同藩秋田へ移封するや生地吉沼村は仙臺伊達家の領地となり代々其邑正となる父万右衛門は土浦藩士上野家に入婿し商業並に醬油釀造業を營み大に家産を興す」という。(註4)ただし、同書初版では「舊土浦藩士上野萬平の男にして出でゝ助川姓を冒す」とされていた。(註5)後に見るとおり、助川貞二郎は改姓、復姓を行なっており、その人物史をたどるさいには注意が必要である。
彼は「幼にして句讀を鄉塾に受け」(註6)「十八歳の時」(註7)「東都に出で益見淡州の間に學べり。時恰も物質文明の潮流海內に漂ひ利用厚生の語青年者の頭腦に浸潤する際君亦實業に志し飄然北海の新天地に航し明治十三【1880】年函館を經て札幌に入り、舊仙臺藩士澤口永將に頼れり。」(註8)漢学塾を「益見淡州の門」とするのは、『北海道立志編』が原出典であろうが(註9)、その人となりについては不明。「横浜から米国に渡ろうとして故郷を出た。しかし夢の実現はむずかしいと判断すると、北海道へその望みをつないだ。/しかし気丈夫な母はこれを許さず、やがてそれほど行きたいならば、これをもって行けと、帷子(かたびら)一枚を渡した。すなわち死を覚悟して行けというほどであ」った。(註10)「学問の方は佐竹の藩士のお家柄ゆえの強制で、当人は好きでなかつたらしい。その証拠に後年、道会の演説で組織をクミオリ西比利亞をニシベリヤとやつて、満座の失笑を買つたりした」とも評されるが(註11)、閣議後の記者会見で「元島民の皆さまでつくる、千島ハボ…えー、何だっけ…」とやらかして満場の失笑を買った、某上智大学新聞学科出身の某島尻安伊子・沖縄「北方領土」担当大臣(註12)の前では、見る影もない。

1880年10月、「旅費僅かに十八金を懷中して函館に渡」る。(註13)「どういう風の吹きまわしか、一九歳の彼は、北海道ゆきの汽船にヒョイと乗ってしまった。懐中には小銭しかなかったので船賃も払えない。その態度が気にくわないとさんざんなぐられたが、その度胸のよさと我慢づよさに、船員もあきれはて、結局函館まで乗り通し、とうとう札幌にたどりついた。明治一三(一八八〇)年、そのとき札幌は、家数が一、四〇〇ばかり、幌内鉄道工事の最中であったから景気のよいところへとびこんだといえよう。」(註14)『北海道民権史料集』によれば、業は「札幌で荒物商を営む」という。(註15)

諸書の伝える所によれば、助川貞二郎が醬油醸造に携わったとするものが多い。まず、『北海道立志編』によれば、渡道後は「舊仙臺藩士澤口永將に頼れり。澤口氏は開拓使用度課長を辭して篠路村官有醬油場の拂下を受け、同業に札幌新聞の計營に當りしを以て、君之を輔けて釀造業を監し終に繼承し自立して業を營めり。」(註16)そして、「家は士族とはいえ、正油屋であつたから、そんな経験を口実にしたにちがいない。」(註17)という。しかし、『草創時代に於ける札幌の工業』によれば、助川貞二郎が来札した1880年の時点では同醸造所は沢口永将のものではなかった。
同醸造所のはじまりは開拓使が「本道需要の貨物を製造して之を供給し又土產を消流し產業を盛んにせんと欲し明治四年【1871-72年】石狩國篠路村に味噌醬油釀造所を設け」たことにあり(註18)、『札幌區史』に「篠路醬油製造所は澤口永將の出願に依り、一切の製造場及釀造物等の代償を九千圓と定め、十一【1878】年度より四箇年賦上納の約を以て」払い下げたとされるが(註19)、『草創時代に於ける札幌の工業』によれば「十一【1878】年設備一切を五千七百七十三圓六十四錢五厘、四ケ年賦を以て宮城縣士族澤口永將に拂下げられた。併し澤口は經營に誠意なく開拓使に迷惑を及したので、十二【1879】年に至り樺戶月形村の集治監に讓渡した。集治監では囚人をして製造に當らしめ角一、角二、角三の商標を附して製品を賣つてゐた。此の製品の一手販賣人は樺戶集治監御用達を勤めてゐた南二條の山角であつたが、樺戶と篠路は相當遠隔で監督上差障があつた爲、後越後出身笠原文平(後に格一と改名)に拂下げた。」と記す。(註20)また深谷鉄三郎によっても「篠路の製造塲は製造の品物は勿論原料も澤山あつたのを其儘で澤口永將と云ふ者に拂ひ下けたが此人は餘り善くない人と見へて其醬油味噌は勿論原料迄賣り飛して非常に開拓使へ迷惑を掛けて逃亡をして仕舞つた」と語られる。(註21)

篠路村(篠路味噌醬油製造所)『温故寫真帖-第壹集-札幌』国会図書館蔵より

篠路村(篠路味噌醬油製造所)『温故寫真帖 第壹集 札幌』国会図書館蔵より

ただし、篠路村の醬油醸造所の経営不振は沢口が「餘り善くない人」で「誠意な」かったことが原因ではなく、「篠路製醤塲ノ札幌ニ比シテ利益金額ノ少キハ營繕ノ多端ト年賦上納ノ金額ヲ以テセシニ因ル」と開拓使自身も認めており(註22)、業績も悪くはなかったようである。そして、「十二【1879】年に至り樺戶月形村の集治監に讓渡した」という記述は明らかに誤りである。同集治監の設置は1881年で、1879年にさかのぼることはない。(註23)『拓地殖民要録』に、1882年のこととして「篠路村の味噌醬油製造場を官營に復す」とあるが、それは、同年「廢使置縣官營の諸工場は農商務省又は工部省の所管に歸す」(註24)という政治状況によるものであり、開拓使官有物払い下げ事件の収集結果の1つと考えられる。羽田信三氏は、端的に「官に取り上げられてしまったと考えるのが妥当」という。(註25)
しかし、同醸造所が樺戸集治監の所有に帰するにあたって、「楽産商会が営んでいた味噌醤油の醸造所を譲りうけ、明治十八【1885】年、篠路分監を設け」という記述もある。(註26)木村万平によって創業された江湖組の後進である楽産商会は「明治14【1881】年、樺戸集治監が設置されたことで、函館の楽産商会は支店を樺戸に設け、汽船第一樺戸、第二樺戸の2艘を使用し、もっぱら集治監御用達として、石狩・樺戸間の運輸を行います。しかし浅瀬、流木埋木など航行の障害物が多く座礁、転覆に悩まされていました。/明治20【1887】年、大倉組手代土田政治郎が楽産商会の汽船を譲り受け、殖民会社と協同して運送業を営むこととなります。」(註27)同商会は、旧臼杵藩主稲葉家の第百十九国立銀行と、同家及び旧島原藩主松平家による第百四十九国立銀行を背景資本とし(註28)、石油、被服用木綿、飯米等を樺戸集治監に納入する(註29)御用商人であったが、松方デフレ不況の中で破産に至る。1884年12月から翌年1月にかけて小美田利義により「拙者今迄樂產商會並に第百四拾九國立銀行取締役」として資金濫用したことに「今更悔悟致し両會社へ謝罪の上以來樂產商會及第百四拾九國立銀行の事に關係不致候條此旨廣告候也」と宣言している。(註30)

いっぽう、樺戸集治監の醬油醸造所について、石川正蔵は1883年「十月廾日曇五十度【10.0℃】」「篠路正由【正油、醬油】造所開業式ニ付自分ハ馬ニテ岡口氏鈴木氏山角氏朩馬車ニテ行直ニ典獄代理中島勝義殿岩井貫一殿加藤殿其外宿守一同村方重立候者立會式場相濟酒宴ニ成ル」と日記に記す。(註31)文中「岡口氏」とあるのは助川貞二郎のこと、この時期、彼は岡口姓を名乗っているのである。そして、助川貞二郎が列席していることから、この間の所有権、経営権移転の動きに彼が関与した可能性はあると見てよい。ひょっとすると、払下げではなく貸下げで、現在の独立行政法人や指定管理者制度のようなものとして運営された可能性もある。なお、同醸造所の杜氏や桶司が茨城県石岡から雇入れられていたこと(註32)、前述の通り、助川貞二郎の実家が茨城県の醸造業者であったらしいことは、後続の記事に関連する。ご記憶いただきたい。

笠原格一は「越後國三條町の產嘉永五年二月文平の長男に生る幼名を嘉助と稱し父の歿後襲名して文平と改め晩年嗣子忠三郎に讓名して更に格一を名乘る家累世吳服商を營み土地の資產家にして屢々商用の爲め京都に往來せり幕末國家騷然たる時越後國村松藩勤王の七志深く格一の人格に依頼し京都の同志に往復する密書を格一に托して交換せりと傳ふ偶々明治十七【1884】年本道の拓殖狀況を視察し同縣の先輩大橋一藏の主唱に係はる北越殖民會社に加盟して同社の會計經理の任に就けり尋で十九【1886】年札幌郡篠路村に移住し大に會社の開墾事業に努力せしが二十二【1889】年篠路村なる開拓使官有醬油釀造場を拂受けて其經營に當り事業の發展に伴ひ現在の札幌に移轉し一ケ年醬油三千石を產するに至れり其後森源三對馬嘉三郎渡邊孝平の三名共同して官營の札幌木挽所を拂受くるに及び格一孝平の代理となりて專ら事業の監督に任じ次で同所の持株全部を讓受けて其社長となる三十一【1898】年有志と北海道造林合資會社を設立して重役の一人たりしが後推されて社長に就任す三十四【1901】年更に大河原文藏より札幌郡江別村の酒造場を引受けて之を經營し大に本道事業界に雄飛し傍ら公共慈善に盡力せり三十二【1899】年初期札幌區會議員に當選し三十八【1905】年相續税審査委員を嘱托せられ多年公私の爲めに盡瘁し四十三【1910】年九月官より勅定藍綬褒章を賜ふ此年病を以て歿す年五十九」。(註33)
その子で累代の名を襲名した笠原文平は、「明治十【1877】年十月越後國南蒲原郡三條町に生る格一の長男なり明治十七【1884】年父格一に伴はれて渡道し後札幌に住す長じて札幌中學校を卒ひ一年志願兵として步兵第二十五聯隊に入營し步兵軍曹に任ぜらる明治三十七八【1904‐05】年戰役に際し從軍し出征中曹長に進む戰功により勲七等瑞寶章を賜はる四十三【1910】年先代格一の歿た【に】遇ひて其遺業を襲ぎ醬油及酒造業を經營す合名會社笠原商會及び合資會社札幌木挽所代表社員にして北海道造林合資會社監査役たり」(註34)という人物であり、払下げにかかる全体像が分かる。なお、羽田信三氏によれば、角一は🈩の商号であったと伝えられ、角二、角三もそれぞれ🈔、🈪だったと思われる。そのうちの角一・🈩を隠居後の号として改名したのが「格一」だと推定する。(註35)そうした思い入れがあったとすれば、『草創時代に於ける札幌の工業』の説くように樺戸集治監が「角一、角二、角三の商標を附して製品を賣つてゐた」というのも、事実としては疑いの視線を向けなければならないだろう。

石川正叟邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より

石川正叟邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より

一方、この間の助川貞二郎の動静を伝える資料は先に引用した石川正蔵の日記を含め、少なくない。
石川正蔵は『札幌新聞』を創刊した人物である。「文久九年五月江戶に生る。長左衞門の二男なり。初め江戶に在りて刀劍商を營み、後東京爲替店に入り、同店の開拓使御用達札幌支配人となりて、明治五年札幌に來る。幾何もなく東京爲替店の廢止せらるゝに及び、札幌に獨力爲替店を開き、專ら開拓使の御用達を營む。九年開拓使御用廢せられしも正叟以前爲替店を營みて一般の便利を計れり。尋で十三年三井銀行札幌出張所の開設と共に、全く爲替店を廢す。是れより先き明治九年獨力馬車會社を興し、馬匹三十頭を常置して乘車及び荷馬車二十臺を備ひ、札幌錢凾間の旅客又は貨物の運搬に便し、十三年札幌小樽間の鐵道開通と同時に之を廢す。此年更に札幌停車場前に運送店を設けて同驛の出入貨物取扱ひを請負ひしが、二十年本業を東清九郎なるものに讓渡す。又明治九年より旅人宿業をも營み、十六年生命保險會社代理店を新設し、又此年六月創成社を設けて其社長となり、毎週水曜日發行の札幌新聞なるものを發刊す。其他石狩に鮭漁業を經營し、或は魚菜會社、或は魚鳥會社、煙草會社、晩成社、白熖社等を組織して、實業家の爲めに資金融通の便を與へ、又官に請ふて土地の拂下げを受けて區の基本財產及び學田地を興し、或は定山溪温泉の通路を修繕し、或は撞球場を設け、政法會又は讀書會を設け、或は私立消防組織を興して其組頭となり、或は驛逓取扱人となり、札幌に於けるあらゆる事業計畫の開祖先達となり、且つ後進有爲の者に資本を投下して自ら指導し、其事業を果さしめたり。選ばれて區の伍長となり、区惣代人となり、學務委員となり、多年札幌區の發展に盡瘁す。當時正叟を呼んで無名の區長となす。正叟も又自ら無名の區長を以て任じたり。明治二十一年七月病歿す。年六十三、性極めて清廉にして宏量能く人を愛す。札幌區の發展の功勞者として永く傳ふ可き人なり。」(註36)「江戶の產、明治初年開拓使御用達となり、五【1871‐72】年札幌移住、獨力爲替商店を設け、其の後馬車會社を起し、旅館を開き、週刊新聞を發行、又は魚菜、燐寸工場等を營み無盡講を結び、消防組を設け、劇場を設置する等公私の事業氏の手に成るものが多い。二十一【1888】年死去、後繼者金治郎氏は尚札幌に在住してゐる。」(註37)

助川貞二郎が石川正蔵の日記『公私諸向日誌簿』に最初に登場するのが、1881年8月3日のことである。この時の姓名は「岡口貞二郎」で、「八月三日風旱七十四度【約23.3℃】」「岡口貞二郎屢々無尽ノ箋ヲ申談ル」(註38)とあるため、石川正蔵の組織する無尽に加入していたことが分かる。そして、1881年「十二月廾八日今朝ちら〱雹」「正油代ハ岡口相談取引ノ筈也」(註39)との記事から助川貞二郎の取扱商品に醬油があったことも判明する。1934年に靴屋の岩井の社長・岩井信六が1887年頃の札幌の状況を語る中で、「南一條を西へ」「二丁目」「丸ヨ【㋵】池內の處には醬油釀造の岡口貞次郎これは後に改姓して有名な助川貞二郎だつた」という。(註40)これらから、少なくとも醬油販売をしていたことは間違いないだろう。もしかすると醤油醸造を手掛けたとも思われるが、裏付けとなる同時代資料はない。そして、「十六【1883】年札幌區商業組合取締役に擧けられ十七【1884】年より廿一【1888】年迄札幌區總代を勤む」。(註41)

『札幌新聞』は札幌地域において最初期に発行された新聞の1つである。『札幌區史』には「明治十三【1880】年六月十六日、石川正藏等の首唱に係る札幌新聞第一号を發兌せり、札幌に於ける新聞事業の嚆矢たり、社員三十餘名の株式組織の創成社を設置し、石川正藏となり、澤口永將副社長編輯長兼印刷人にして、毎週水曜日毎に發行す。土佐半紙四ツ折、表紙共平均十四枚、『官令』『開拓使錄事』『雜報』『小樽相場』『廣告』『投書』等の欄あり、一部定價金二錢、廣告一行金二錢を標準とし、二十五號にして廢刊せり。」とある。(註42)同記事の基になったのは『札幌沿革史』。同書には「札幌新聞は明治十三【1880】年六月十六日、第一號發行、大通西四丁目創成社に於て毎週發行し、社主は石川正藏なり。社主自ら俠客を以て自ら任じ、人の急を救ひ、頗る人望ありしといふ、而るに、當時新聞を購讀する人多からず、營業利潤なきを以て、二十五號にて廢刊せしは惜むべし」とある。(註43)『札幌新聞』の奥付を見ると、

「 札幌區南後志通拾四番地
本局    創   成   社
  社  長  石 川 正 藏
  編 輯 長
  兼印刷長  澤 口 永 將」(註44)

とあり、『北海道立志編』、『札幌沿革史』、『札幌區史』の諸記録を裏付ける内容となっている。そして、助川貞二郎渡道の際に頼りにした沢口永将は、石川正蔵の片腕といえる人物だったことも確実である。助川貞二郎の人脈を考える上で重要な手掛かりになるだろう。なお、1点だけ補足しておけば、『札幌新聞』が25号で廃刊になったとするのは誤りで、北海道立図書館の書誌情報によれば札幌市文化資料室(現・札幌市文書館)に第31号・第36号・第40号が収蔵されており、1881年6月28日(第45号)まで刊行されたとある。(註45)その根拠となったのは、石川正蔵の日記に「六月廾八日昨夜雨今日大風六十度【約15.6℃】新聞廃業届ヲ督学課ヘ出ス」、「六月廾九日曇六十五度【約18.3℃】外三十七度【約2.8℃】也」「戸長役場ヘ新聞一条届ル」(註46)とある条文であろう。ついでに、当時の販売所一覧を翻字しておく。

「賣捌所
    札幌區東創成町五番地
         報  新  舍
    函館區地藏町六番地
         修  文  堂
    小樽郡土塲町二百五十三番地【第拾貮號に三百五十三番地】
         相 田 彥 四 郎
    同所港町六拾壹番地
       馬具職
         黒柳喜三郎出店
    渡島國福山唐津內町四拾二番地
         松 村 承 太 郎
    東京日本橋區小傳馬町三丁目七番地
         小 松 甚 八」(註47)

この中、唯一の東京での販売所となった小松甚八は、住所の異同があるが、1882年における旅人宿取締の「小傳馬町三丁目十七番地 取締 小松甚八」(註48)だろう。ただし、彼と石川正蔵や創成社との間にどういう関係があったのかは分からない。

本多新『山形県史-本編4-拓殖篇』より

本多新『山形県史 本編4 拓殖篇』より

1884年の『自由新聞』には、助川(岡口)貞二郎の名が載る。「○政談演説ハ一昨年迄ハ絕えて開く者あらざりしが客年より弗々と開くものありて昨今ハ巳【已】尓毎月二三回宛ハ必ら寿゛開設あり○彼の改進黨員たるものハ一人も之れ奈く皆奈自由黨賛成のもの尓して率先政談演説の壇上尓登り縣民の迷夢を攪破寿る尓勉むるの志士ハ岡口貞次郎石川正藏の二氏其の牛耳を執れり」「○新聞紙ハ曾つて札幌新聞と号し石川正藏氏其の社主と奈りて發兌されしが故ありて一旦休刊せしも此の頃ろまた同氏が奮發尓て再び一大新聞社を興し縣下の公利公益を圖からるヽの計畫中奈りとぞ○又た岡口貞次郎氏ハ同縣尓未だ縣會の開設あらざるを深く嘆ぜられ近々有志の輩と謀りて縣會設置の請願を奈さんとて昨今同願書の文案中奈り又同氏ハ豫て北海道尓其の人ありと知られたる室蘭郡の本多新氏と恊議し過日札幌室蘭間鐵道敷設の儀尓付一の建白を其の筋へ差出されたり○小樽札幌間の鐵道ハ凡そ九里余奈り○炭山小樽間ハ積雪の爲め此程滊車の徃復を停めたり云々」(註49)

本多新とその家族『北海道の研究-第5巻』より

本多新とその家族『北海道の研究 第5巻』より

「然れとも牙毒を秉て瑣判を談ずるに甘んぜず、君指を北海無限の富源たる水產に染めむと欲し後志國熊臼の漁場に投資せしが不幸にして利なく一敗血に塗みれて起つ能はざるに至り、再擧を畵せむ爲め舊里に歸れり。」(註50)やや分かりにくいので、現代語の資料でこの辺りの事情を見よう。すなわち、醬油業の「方はどうも思わしくない。そこで漁場で勝負しようと、張確浜でにしん場をやったが、」(註51)「一年だけ大漁で、そのあとは、正油の販路とともに伸びず、明治十九【1886】年の春になつて、鄉里に帰ることにした。十六【1883】年の清仏開戦による海産物の大下落、十七【1884】年の凶作など、この頃不景気の底をついていた。」(註52)「結局無一文になった貞二郎は、明治一九(一八八六)年、風とともに筑波山のふもとにひきあげた。」(註53)ただし、帰郷の時期については1888年とする説(註54)と1886年とする説(註55)があり、その時期が分かれる。
もちろんその両年とも帰郷した可能性があるが、助川貞二郎の帰郷を確実に証明する資料は『北海新聞』に記事が載る。「○當區総代人 中尓てハ有名なる(堅板弁(おしやべり)と其他なにか有名か)岡口貞次郎氏は去暮【1886年12月】實兄死亡の爲め鄉里茨城縣へ歸縣なし暫く東京(とうけい)に滯在なせしか去る【1887年2月】廿一日歸札さ連しと云へ者゛來る三月三日の撰擧會にハ例のラツパではない雄弁を振はるヽならんと今より待て井升(いま寿)よ」「○又仝氏ハ近〻東京(とうけい)土產と云ふ題にて演説會を開く由なるか如何なるお土產なるか早くキヽ鯛〱」(註56)また、助川貞二郎自らが同紙の記事に抗議文を送った中に「客年十二月中上京不在の所」と書いていることから、帰郷の時期は1886年末で間違いない。(註57)
そして前述の石川正蔵日記の1887年9月30日条に「岡口改助川氏ヘ行」(註58)とあることから、文野方佳氏が推定する(註59)通り、「郷里の醸造業を経営していた長兄が死亡したため、明治十七【1884】年家督を継ぐために里帰りして、そこで結婚をして明治二十四【1891】年に助川【貞利】さんが生まれる。その一年後に再び父貞二郎は単身で渡道した。」(註60)ただし、里帰りの時期が兄の死亡によるとすれば、それは同時代資料から1886年末のことであり、帰道の時期もその直後と判明する。

その他の兄弟については、1883年6月30日条に「六月三十日晴六十度【約15.6℃】」「岡口貞二郎実弟助川龜吉当冬当地ヘ移籍ニ付生国吉沼村戶長ヨリ送籍出来ル右届ヲスル」(註61)とあり、実家の姓が助川であったこと、岡口が養家の姓であったこと、兄を追って実弟が来札したことが判明する。ただし、空知集治監初代典獄・渡辺惟精の1887年の日記に、

「   十月二十二日     晴   土
十二時半電車帰ル。大越太迄来ル。東京より官電信一件来ル。出水八太郎より来書。大越小樽発電信幌内堀俊均来書。函館共同商会より炭庫一件来書、汽車中二テ岡口貞次郎より吉川貞夫へ添書請取、葛西謙蔵可辞職内達来ル。」(註62)

とあり、この時点ではまだ岡口姓を名乗ることもあったらしい。なお、この短い記録では、助川貞二郎と渡辺惟精や吉川貞夫との関係は必ずしも明らかではないが、彼が監獄に関わりを持とうとしていることは分かる。商品の納入が目的だったのだろうか、入獄する囚人が目的だったのであろうか。

河西英通氏は、第1次青年自由党のメンバーだった柳内義之進が、1889年に改進党系の『北海道毎日新聞』を退社した経緯として「おそらく、旧自由党系大井憲太郎派の助川貞二郎(茨城県出身、のち札幌人力車営業組合取締)と接触したことで反改進党になったものと思われる。」と推理している。(註63)しかし、『自由新聞』の記述があるにせよ、やや誇大広告気味に思われ、助川貞二郎が反改進党のスタンスをとったことが確実なこととして分かるのはもう少し遅い時期のことである。

助川貞二郎の2回目の帰郷のさい、「時恰も政論沸騰して民權自由の旗幟國内を蔽へり。君乃ち當年の志士大井馬城の麾下に投じ猛烈なる政治運動に從ひき、是れ君が政治的生涯の第一步なり。」(註64)そして「二十二【1889】年去沼【吉沼】村會議員に當選し二十五【1892】年辭任して再度札幌に來り」というが(註65)、別説もある。同時代資料によれば、助川貞二郎が再び東京に向かったのは1890年のことである。『北海道毎日新聞』に「或る人」による東京でのインタヴュー記事が載る。

「○助川貞二郎先生の御話傍聽筆記 助川貞二郎先生は當地に於て信用を有せらる〻か有せられぬかは今更ら申すにも及ふまじきが先生には此頃東京に參られて政黨の事に御骨を折られ給ふと見へたり本月【1890年3月】三日の事とか承はりぬ或る人が東京銀座四丁目の助川先生の旅宿に至りたるに先生は一人の客に向ひ得々北海道の政談を爲し居り給へり其の第一は炭礦鐡道會社の惡口の如く聞へたりしがコハ姑く取り除く事となし其の政黨に關るものを傍聽筆記すれば左の如しと態々寄送し來りたる人あるにつき茲に掲けて讀者の一粲に供し參らせん
(助)現時の北海道に於て自由黨に加盟したきもの多分あれとも是まで一度も名士の遊説せる事もなくタマ〱我々が札幌抔にて演説會を開いて見ても聽衆に滿足を與へること出來さるのみか北海道毎日新聞の如きは改進黨の尻持をなし我々をヒヤカスから困る、差當り大江卓氏を隊長とし北海道へ乘り込み函館小樽札幌江差等に遊説すれば北海道の人か皆な自由黨に加盟するは必然である、併し遊説するに就ても新聞抔に廣告すれば直に改進黨で用意するから何でも拔け懸けに不意を打たねは成らぬ、本年は初回の渡航を四月下旬とし年中二三回渡航すれば宜し
(客)遊説するにも第一旅費の出處に差支へるてあらう
(助)去年改進黨の肥塚が函館で演説した時などは聽衆七八百名に及んだと云ふから大江氏等なら千人より下る氣遣はあるまい、一地方二日とし四地方にて八日、假に一地方百圓の傍聽料を得るとすれば合計四百圓となる、此內二百五十圓を旅費に引去るし猶ほ百五十圓は餘る、又た初回の旅費は二百圓用意すれば充分にて傍聽料は一人十錢二日の間に千五百人も來れば四五百圓も餘るから至極好都合に運ふかも知れない
(客)自由黨はマダ五千人に足らぬがドウかして一万人に滿したいものじや
(助)北海道は人口三百万餘此內にて誘ひ込めは五千や六千は容易なるべし
若し助川先生の此御【草体】話の通り參るものなら北海道は瞬く間に自由黨加盟者のみと相成るへし吾人は謹みて先生の御手際を見るのみ」(註66)

まるで某菅官房長官のように人を小馬鹿にしたような文章だが、自由党系の助川貞二郎は「政敵」なのでしょうがない。また、「此頃東京に參られて」とあるため、助川貞二郎が東京に来たのは1890年3月からそう遠く溯らない時期であろう。『東京朝日新聞』に「北海道〔遊説出發一日前の〕政談演説會」を4月30日に開催する旨が広告されている。弁士は小久保喜七、小池平一郎、助川貞二郎、大塩広太の4名である。(註67)これは「◎自由黨員の北海道遊説 同黨員高橋庄之助、小久保嘉七、小池の三氏ハ北海道自由黨常議員助川貞三郎の招聘に應じ昨日出發の筈奈りし可゛都合ありて來る五月一日上野の一番列車にて荻の濱に至りそれより滊船に乘り込み函舘に直航し滯在日數ハ凡そ二十日間北海道廳管內を遊説寿るよし」(註68)という状況があり、壮行会兼集金目的だったのだろう。当日は富士見楼に「聽衆二百餘名」が集まり(註69)、内容は『東京朝日新聞』の社説によれば「傍聽せざれバ其詳なる所に於て甚だ迂闊なり然れども何れ北海道民に參政權を與ふべしといふなり」ということらしかった。(註70)「荻の濱」は現・石巻市の荻浜港である。(註71)上野発の日本鉄道線の終着駅は塩竃駅、ここから荻浜までは船便だろう。北海道遊説の「小池小久保高橋前川の四氏ハ本日(四日)當地に來着せしに付當地の有志者數十名ハ埠頭に出迎へたり又四氏ハ北海道自由新聞社に小休の上大運動會へ臨めり」という。(註72)また、「タマ〱我々が札幌抔にて演説會を開いて」という状況については、文野方佳氏が『北海新聞』『北海道毎日新聞』『新札幌市史』の諸資料から札幌の演説会を丁寧にまとめている。これに他の地域のものを追加する。まずは1890年までの演説会である。

1887年 2月  末  札幌・東座      東京土産(予告のみ)
1888年12月 9日  札幌・立花座     北海道未来の物語
1889年 2月10日  札幌・成田山仮安置所 強国頼むに足らす、官吏を精選すべし
    6月13日  札幌・立花座     北海道民の責任
    12月12日  札幌・立花座     当道に一大鉄道会社の設立を賀し併せて同社に希望あり
1890年 4月30日  飯田町・富士見楼   北海道民に参政権を与ふべし
    5月 4日  函館         有志大運動会
    5月6,7日  函館・渡島座     北海道の前途/商工論
    5月11,12日 函館・大和座     北海道に木商会社の設立を望む/冗員沙汰すべし
1891年 1月11日  札幌・成田山事務所  北海道経費削減に付所感を陳ふ他
    9月28日  札幌・立花座     内閣責任論(弁士中止)
    11月18日  札幌・立花座     乱題
    11月29日  札幌・立花座     北海道庁長官の上京に就て一言す
    12月12日  札幌・立花座     老狐退治政談演説会(註73)

演説の内容については『北海道毎日新聞』への寄稿者により「助川貞二郎氏の演説は只だ〱上手に腮(あご)を運轉するに止まりて論據漠然たりし」(註74)とあるほかは分からない。また、彼が「上京に就て一言」した、当時の北海道庁長官は、中江兆民と親交のあった渡辺千秋である。松永昌三氏によれば、「渡辺長官は兆民に敬意を表し、詩などの添削を乞い、親交があ」り、「兆民は渡辺が北海道長官に任命された直後の【1891年】六月一九日に、東海道線を渡辺と同道して上京しており、当然北海道のことで意見の交換があったと考えられる。」(註75)という。しかし、判断の根拠になった『郵便報知新聞』の記事は、

「   ●兆民居士と北海道廳長官
(大津【1891年6月】十九日午后二時二十五分發)渡邊北海道廳長官及ひ中江篤介氏は本日陸路上京せり」(註76)

というだけのものであり、これを素直に読めば「北海道のことで意見の交換があったと考え」るのが「当然」だとは全く思われない。『中江兆民全集』に収載された年譜に「同道」という語をもって書いた(註77)ことがミスリードの原因と考えられる。

そして、1891年12年27日、子息の助川貞利が生れる。出生地は筑波郡大穂村である。(註78)北海道庁長官・渡辺千秋を追って助川貞二郎が東京を訪れていた時代のことかもしれないが、父となる人物の前後の活動状況を見れば、出産のための母親単独での里帰りだったと思われる。また、助川貞利は「筑波山を毎日みて育ったとい」い(註79)、13歳の時、父親と生活を共にするため渡道する。(註80)助川貞二郎は本拠を故郷に置き、単身赴任のようにして札幌に住んでいたと考えられる。助川貞利が「生まれたときの名前は、蝦夷(えぞ)と役場に届けたのである。役場ではそんな異名をつけないで改名をしたらどうかとすすめるが、いったん決めたことは簡単にひっこめる父親ではなかった。かくして小学校に入学してから、蝦夷を貞利に改名したのである」。(註81)

北海道勞働組広告『北海道毎日新聞』1892年1月16日

北海道勞働組広告『北海道毎日新聞』1892年1月16日

年が明け、1892年1月16日、「北海道勞働組」の結成総会が豊平館で開催される。

「○ 北海道勞働組に於ては去る【1892年1月】十六日豐平館に於て総會を開きたり今其模樣を畧記せんに當日の來會者は七八十余名にて午后六時頃一同着席するや發起人より提出せる議案、即ち組長を置くの可否、各地に支部を置く事、組員には章標を交付する事、其他二件を議題として會議を開き北海道勞働組総會たるに甲論じ乙駁し本則規定の如く組長は置く事とし其他の條項は常議員に付して决行せしむる事とし直に役員の投票を爲したるに組長は笠原文司氏、幹事は伊藤辰造、柳內義之進、高瀬和三郎、助川貞二郎四氏【、】常議員横山晋之介、渡邊藤吉、根岸一郎、岩崎粂三郎【、】安齋源一郎、眞田太造、黒柳喜三郎、中畑熈、金子定義【、】武藤金吉、新鞆三郎、宮田市彌、澤井市藏、阿部幣治、小野田鎭三郎の諸氏當撰せり右了りて新年の宴を張り酒酣にして賛成會員莊子斌氏【、】通常會員助川貞二郎氏、武藤金吉氏、其他數氏の祝辭演説等あり親睦の情館內に充ち笑聲歡呼湧が如く軈て組長散開を告くるや大日本帝國万歳、天皇陛下万歳、北海道勞働組万歳と三呼し各退會せしは午后十時過る頃にてありしと」(註82)

同組発足の公示も『北海道毎日新聞』に掲載されている。氏名が分かち書きされているのでその区別が明瞭となろう。

「   廣   告
本月十六日豐平館に於て本組役員選擧候處左之通り撰任相成候條此段組員諸君に告ぐ
 明治廿五年一月十九日
     北海道勞働組本部
 (組 長)笠原 文司
 (幹 事)伊藤 辰造 柳內義之進
      高瀬和三郎 助川貞二郎
 (常議員)横山晋之介 渡邊 藤吉
      根岸 一郎 岩崎粂三郎
      安齋源一郎 眞田 太造
      黒柳喜三郎 中畑  熈
      金子 定義 武藤 金吉
      新 鞆三郎 宮田 市彌
      澤井 市藏 阿部 幣治
      小野田鎭三郎
本組書記の   根岸一郎をして兼
職務は當分常議員    任せしむ」(註83)

豊平舘『開道五十年記念-北海道拓殖寫真帖』国会図書館蔵より

豊平舘『開道五十年記念 北海道拓殖寫真帖』国会図書館蔵より

そして、この後に助川貞二郎は関東入りする。生れた子どもに対面するためであったろうが、「當年の志士大井馬城の麾下に投じ猛烈なる政治運動に從ひき」という意気満々で凱旋したのだろう。ただし、先の『北海道毎日新聞』のインタヴュー記事によれば、大井は大井でも「大井卓」の方を評価しているようなのだが、おそらくこちらの方が誤りだろう。
新聞『いはらき』には「○助川貞二郎氏が去る【1892年2月】十二日斎藤派と共に信太郡竜ケ崎大統寺に於ける政談演説会に「警官か抜剣国民派を助けしとの事各新聞紙に見へたれとも万々左様の事ハ」と演へ来るや警察官は弁士左様なことは無いのじや停止すると停止さる」とあり(註84)、関東にあって政治活動を行なっていたのは間違いない。
ただし、以下の別説は怪しい。すなわち『えぞ金豪傳』による「茨城でも血の気の始末に困つて、政治運動の片棒をかついでいるうち、明治二十二【1889】年二月憲法発布、二十三【1890】年十一月第一回帝国議会といつた時流になり、貞次郎も候補者として、立つには立つてみた。むろん落ちたが、ただでは落ちず、党人からかきあつめた選挙資金を半分位いのこし、これで再び北海道雄飛をねらい今度は砂川角田村へきて、農地を安く手に入れた。明治二十五【1892】年である。」という説である。(註85)同年分の公式の衆議院議員総選挙結果には助川貞二郎の名を見ることはできないからでもあり(註86)、1908年の衆議院選挙と混同しているのではないかと思われるからだ。

1892年3月1日「亞細亞勞働協會」に参加したのは、まさにこの時期のことである。『東京朝日新聞』の記事を再掲する。

「●亞細亞勞働協會  一昨一日午後より神田開化樓に於て開會したる同會ハ出席者百餘名にして中にも俠客勞働者多く、信榮(しなえい)事早川富太郎、須土橋(すとばし)事増田藤三郎、北海道労働組幹事助川貞次郎、深川埋立地の親方北川平吉、新世界泰平、三浦龜吉、植田勇知、安藤良介等の人々何れも來會し先づ議案の議事を開きしが異議無く原案に可決し終て役員選擧を行ひしに幹事にハ早川富五郎、増田藤三郎、外交員には新世界泰平、中村敬太郎、水尾雄吉、洞鈐吉、三浦龜吉、三戸政親、岡眞人、笹川大介、南波登發、増水吉三郎、會計員にハ石原衛治、津田官次郎、事務員にハ南波登發、河村増吉、鈴木立三郎、安藤良介等の諸氏當選し會頭ハ某華族に依頼すること【合字】とし終て宴會を開き同八時ごろ散會したりと」(註87)

助川貞二郎が「札幌人力車營業組合取締及相談役とな」った(註88)のは、あるいは三浦亀吉との出会いが影響を与えたものであろうか。
日本国の新植民地である北海道における人力車夫以外の労働者の様相は、いかなるものであったろう。「北海道勞働組」の組長である笠原文司は札幌区消防三番組組頭、阿部幣治は四番組組頭、伊藤辰造は後に公立消防2代目組頭である。(註89)金子定義もまた「氏は札幌に於ける消防の組合長にして稜々たる俠骨人の威服する處となる、曾て祝融氏の威を逞しふして札幌の天地煙炎に包まれんとしたる時に、一身を擢んでゝその猛炎に當り必死を期して部下を勵し好く餘炎を恣にするを得ざらしめ世人の嘆賞する處となりしと云ふ。」(註90)とあり、石川正蔵も含め、消防組の関係者が多い。他のメンバーのプロフィールも見ておこう。なお、文中の祝融は中国神話上の火神で、別名を炎帝、ここでは火事を意味している。

「圖像山海經-第四十三圖-祝融」『山海經釋義』en.wikipediaによる

「圖像山海經 第四十三圖 祝融」『山海經釋義』en.wikipediaによる

柳井義之進は、1866年1月22日陸前国玉造郡岩出山の生れ。1872年4月一家で渡道し、札幌農学校予科に進み、1882年、東京の明治学院に入学し、青年自由党(第1次)に入党。同年12月、内村鑑三とともに札幌基督教会を創立。1888年には招かれて『北海道毎日新聞』に入社、11月に同郷の鵙目房之、新鞆三郎と札幌法学協会を設立するが1年あまりで退社。北海道庁に勤務しつつ、1889年暮から1890年1月にかけて、「開業医の堤礼次、豪商で自由党員の北嶋粂三郎、北嶋の女婿の新鞆三郎らと札幌で北海倶楽部を結成する。」1891年2月、『北海時論』の主筆をつとめ、4月には『北門新報』に入社する。河西英通氏は柳内が初発の労働運動を北海道で体験したことは、」大井憲太郎を党首とする東洋自由党の労働部門である「日本労働協会の活動を準備したとも考えられる」という。(註91)同会の組織対象は「東京府下の勞働者即ち左官、大工、瓦職、煉瓦職、石工、木挽職、鍛冶職、活版職其他人足、土方等に至る迄凡そ勞働役に從ふものは其種類の何たるかを問はず届く限り之を吸収網羅」するとした。(註92)
新鞆三郎は、自由党員・北嶋粂三郎の娘・北嶋なかの夫(註93)で、『北海新聞』の編集人。(註94)
安斎源一郎は、『北のめざまし』編集人。(註95)
武藤金吉は、1890年、3回にわたり函館で政治演説を行なっている。(註96)
沢井市蔵は、石川正蔵日記に1881年「七月十六日七十五度【約23.9℃】」「南二条五十八番地沢井市造方寄留横濱元町五丁目上川助次郎当廾三年病気ニ付入院願加判依頼ニ付加印ヲ遣ス」(註97)とあるのがそれであろうが、その具体像は結ばない。
根岸一郎は、1898年1月に創刊された『北海日日新聞』の主幹である。(註98)

馬具帽子製造所-黒柳喜三郎邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より

馬具帽子製造所 黒柳喜三郎邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より

黒柳喜三郎は、創成社株主(註99)で馬具、帽子製造職(註100)、1878年2月、官立の馬具製造所の払下げを受けており(註101)、その小樽の「出店」は『札幌新聞』の売捌所の1つでもあった。(註102)1884年、1885年の北海道物産共進会で一等賞を受賞している。(註103)彼については、「札幌に於て北海鞄の製造者として有名なる人、温厚篤實にして當世文明的の商人なり、又公共心に厚く能く與望の傾向を知りて奔走を怠らずと實業社會の雄物とするも憚らざるなり。」(註104)との評がある。
そして「賛成會員」の荘子斌は、小樽のちに札幌の代言人である。

「仙臺の人安政五年十月二日【1858年11月7日】を以て同城市東二番町に生る父は草刈正右衛門と曰ひ世々藩士たり氏幼にして頴悟奇童を以て目せらる三歲父を喪ひ爾後母氏の鞠育する所となる七歲にして藩校養賢堂に入り專ら漢籍を修め十一歲にして同藩の碩儒岡鹿門先生の門に入り刻苦勉勵學業大に進む」「明治五【1872】年故あつて藩醫黒澤惟則の門に遊び醫學を修め略其大要に通す然れどとも固より其志にあらす氏以爲らく世醫を稱して仁術と奈す以て一人の病を治め一家の危厄を救ひ得べきも萬人を治むるの道にあらざるなり經世の業にあらざるなり吾何ぞ學ぶに足らんや人生れて苟も男兒たらんか宜しく國家を治むるの醫たらざるべからずと奮然起て仙臺師範學校に入る」。はて、どこかで聞いたことがあるような話である。34年後、仙台医学専門学校を退学した周樹人少年が後年、自伝的小説の中で吐いた啖呵に似てはいまいか。荘子斌は師範学校卒業後「宮城縣横川小學校訓導と奈り其校長に任ぜらる時に歲僅に十有九明治十【1877】年西陲變起るや」兄の組織した「義勇團体」の副長となる。さらに民撰議会設立建白書提出の報に接し、東京で「政治法律の二學を修めんと欲」し、東京で鹿門岡千仭の門に入り、次いで「茂松學校に入り法學を修め兼て政治學を講究す」。さらに「其蘊奧を究めんとする原書に藉るにあらざれば隔靴搔痒の嘆あるを免れず」、「校友石川縣の人齋藤實氏」と神戸から密航を図って失敗、横浜行きの汽船に乗るが船賃が足りず、「或る人の周旋に依り二人の身を岩龜樓の「仲ドン」に賣り其不足を拂ふを得たり」。ただし、足りなかったのはお金なのか、知恵と常識なのか計りかねるのだが。その後「横濱警察署の巡査となり戶部町警察分署に勤務す在職二ケ月辞して再ひ東京に出づ」。堀田正忠の「勸によりて同家の客となり研讃【鑽】甚た勉む居ること一年同縣の人莊子篤哉の養子と奈り其女を娶るを以て歸省す(其女ハ即今の令閨奈り)翌十六【1883】年復上京して佛國法律博士ボアソナード氏に就き大に法學を專功し其蘊奧に通」じ「明治十七【1884】年秋期代言試驗に及第し十八【1885】年一月免許代言人と奈る爾后仙臺代言人組合に加はり業を執る一年有余會々北海道江差警察署員葛西某なるものあり來り説て曰く今や北海道大に開たりと雖も末【未】た法律思想の發達を見す其何物たるを辨知するもの殆んと稀にして殊に彼所謂三百代言なる者各所に䟦扈し爲に良民を害すること甚し今君等彼土に渡り斯業に從事するの傍法學の振興を圖るあらは啻に君等の幸榮のみならす我北海道の爲め大に益する所あらんと茲に於て氏二三士に謀り其恊賛を得て法學及英語二學の一大學校を函館に設立せんと欲し十九【1886】年六月を以て函館に入る然れとも學校設立のこと【合字】故ありて果さず因て函館代言人組合に加入し后江差に赴き兩地に法律事務所を置き代言の業務を奈すと二年名望漸く高し」。

しかし好事魔多し、江差の代言人団体「同志會」の抵抗を招く。「其敵すべからざるを知るや最後の手段として博徒の巨魁安宅熊なるものゝ手を藉り危害を同氏に加へんとせり然れども安宅熊なるもの頗る俠氣に富むを以て其手段の拙劣奈るを賤み之に應せざりしかば策復遂に行はれず」。「廿一【1888】年小樽に移る業務日に盛なり廿四【1891】年七月自由黨總理板垣退助伯の來道するや氏は小樽の招待委員と奈り斡旋の勞を執れり同年十二月札幌に移り廿五【1892】年三月札幌代言人組合通常議會に於て會長の撰に當り本【1893】年三月同會に於て再ひ其撰に當り會長たる故の如し」。(註105)

岡千仭-1900年5月『鹿門岡千仭の生涯』より

岡千仭 1900年5月『鹿門岡千仭の生涯』より

荘子斌の師・鹿門岡千仭は、1833年12月12日(天保四年十一月二日)(註106)、岡蔵治、佐藤ミチの5男(註107)として生れる。幼名慶輔のち啓輔、棣、修、千仞、字は子文のち振衣、天爵、号を鹿門と称した。(註108)「世〻仙臺藩の大番士たり鹿門弱冠にして江戶昌平黌に學び擧げられて舍長と爲る同窓の同窓の重野成齋、松本奎堂、松林飯山、南摩羽峰と深く交遊す後京攝の間に遊び奎堂飯山と共に學塾を大阪に開き子弟に教授す雙松岡塾と稱す當時は尊攘の論大に起り志士清川八郎本間精一郎等雙松岡塾に出入す鹿門其間に在り偵知する所あれば則ち之を藩相に報ぜり戊辰の亂に奧羽諸藩連盟す鹿門深く之を憂ひ一藩の向ふ所を知らしめんと欲し奔走する所あり有司の怒りに逢ひ捕へられて獄に下さる維新の後太政官修史局東京府に歷任せしが後之を辭し爾來著述を事とし又四方を漫遊せり」(註109)東京に出るや、芝愛宕下の旧仙台藩邸長屋に私塾「綏猷堂」を開く。3,000人を超す多くの門人の中に、日南福本誠(1875年入学)(註110)、紅葉尾崎徳太郎(1881・6・4)、透谷北村門太郎(1882・1・10)、呉秀三(1883・2・16)、片山潜(1883・4・16)、研堂石井民二(民司、1885・6・29)らの名が見える。(註111)その後、1884年清国を訪れ、10月10日(23日)には李鴻章と会談している。

「總督の衙門に至る。垣牆は崢嶸として屹ゆること城壁の如し。門を入り舜江迎へ一室に延(ひ)く。一洋人踵(つ)ぎ至る。舜江曰く普(ぷろいせん)人にして、中堂公の聘し到る所なり。侍者導き入る。中堂揖(りょうてをくんであいさつ)して書齋へ延く。左右は萬卷なり。竹添井井の何狀爲(た)るかを問ふ。余筆して曰く、此の人に小人は一再(1、2かい)面(まみ)え、今何狀なるか知らず。余の故服を襲ぬるを觀、古貎古心爲らんと目し、語に諧謔を帶ぶ。余曰く、弊邦にて官途に列せば、歐服せざるを得ず。小人は處士なり、故に故服を襲ぬ。邦俗は固より斯くの如し。古の一字、小人は説くを悦ばざる所なりと。曰く足下は已に古の一字を悦ばず。然らば則ち時務を知る乎と。曰く小人敢て時務を知ると謂ふ乎。唯だ時中は聖人之道。孟子夫子(孔子のこと)を稱して聖之時なる者と爲す。小人私(ひそ)かに以爲(おもへ)らく時を知らずと。則ち與に學を談ず可からず。又與に時事を論ず可からず。中堂黙然たり。普人見(まみ)ゆるを促すこと再三。中堂曰く。他時北京より歸り、間日を卜して再び晤はんと。余曰く、小人歸途、將に齊魯之郊を出で、曲阜廟を拜せんとす。再び晤ふは復た期す可からずと。一揖して退く。」(註112)

李鴻章-Mrs.-Archibald-Little,-Li-Hung-Chang:-His-Life-and-Timesよりwikipediaによる

李鴻章 Mrs. Archibald Little, Li Hung Chang: His Life and Timesよりwikipediaによる

互いの東洋的常識と哲学をベースに、ボクシングならジャブの、レスリングならタックルの応酬の如き知の探り合いに終始する、火花の散るような会話である。「彼が尋常一樣の腐儒にあらずして東亞の大局を思ふ先覺の士たりしことを知るに足る。」(註113)薄培林氏によれば国内では積極的に興亞会の活動に参加したというが(註114)、宇野量介氏による大冊の伝記『鹿門岡千仭の生涯』を通覧してもそうした記述はなく確証を得ない。閻秋君氏によれば、この間、思想的には「日本型華夷思想」から「万国公法」へと旋回したという。(註115)

1929年7月22日、魯迅は岡千仭の著書『観光紀游』を入手する。(註116)当時、東京の陸軍大学校に入学していた李秉中が東京の「地攤」(露店)において「四角錢」(40銭)で購入、李秉中が「書頭卷尾」に「幾句」の「牢騷話」(愚痴、文句)を書いたものを魯迅に贈ったものである。金沢医学専門学校を卒業した湯本求真の著『皇漢醫學』が翻訳出版され、中医学(「皇漢醫學」、中国語では皇漢は中国の美称)が日本から逆輸入されていることにつき、本書の記事を引用して「岡氏距明治維新後不久,還有改革的英氣,所以他的日記裏常有好意的苦言。革命底批評家或云與其看世紀末的煩瑣隱晦沒奈何之言,不如上觀任何民族開國時文字,證以此事,是頗有一理的。」とその感想を述べている。(註117)

助川貞次郎『北海人物評論-苐壹編』国会図書館蔵より

助川貞次郎『北海人物評論 苐壹編』国会図書館蔵より

 


 

註1 文野方佳「研究余録 助川貞二郎小伝(上)」札幌市教育委員会文化資料室編集『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第27号 札幌市 1994年8月25日、文野方佳「研究余録 助川貞二郎小伝(中)」札幌市教育委員会文化資料室編集『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第28号 札幌市 1995年2月25日、文野方佳「研究余録 助川貞二郎小伝(下)」札幌市教育委員会文化資料室編集『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第29号 札幌市 1995年8月25日
註2 北海道立図書館北方資料部編『北海道人物文献目録(明治~戦前期)―平成21年10月現在―』北海道立図書館 2009
註3 古谷周久「助川貞二郎君(空知支部管內撰出)」『北海道會議員評傳』寧靜舘發行 小𪉩自治堂 富貴堂 三才閣 白鳥書店賣捌 1902、鈴木源十郎「助川貞二郎」『札幌之人』鈴木源十郎 1915
註4 金子信尚「助川貞二郎(すけがはていじろう)」『第二版 北海道人名辭書』北海民論社 1923
註5 金子郡平 高野隆之「助川貞次郎(すけがはていじろう)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註6 小澤久太郎編輯「助川貞二郎君」『在北海道茨城縣人寫眞帳』茨城縣人共和會 1913
註7 金子信尚「助川貞二郎(すけがはていじろう)」『第二版 北海道人名辭書』北海民論社 1923
註8 小澤久太郎編輯「助川貞二郎君」『在北海道茨城縣人寫眞帳』茨城縣人共和會 1913
註9 北海道圖書出版合資會社編輯局編纂(梶川梅太郎編輯)「助川貞二郎氏」『北海道立志編 第貮巻』北海道圖書出版合資會社 1903
註10 北海道総務部知事室道民課編「更生保護事業の先達・助川 貞利」『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和四十六年)』北海道 1972、なお、吉岡道夫「第4章 人物編 高瀬和三郎」札幌市教育委員会編『開拓使時代』さっぽろ文庫50 札幌市 1989に「郷里を飛び出したのが十四歳。横浜へ出て貿易商の小僧になる。そこで海外雄飛の機会を狙っていた」とある、「横浜へ出て貿易商の小僧になる」とするのは、「民権家経歴」永井英夫責任編集『北海道民権史料集』北海道大学図書刊行会 1986の記述が先行する、原出典は不明
註11 奧田二郎「商才の權化助川貞次郎」『えぞ金豪傳』共立書房 1954
註12 「「はぼ、えー、何だっけ」担当大臣「歯舞」を読めず(16/02/09)」ANNnewsCH、YouTubeによる
註13 金子郡平 高野隆之「助川貞次郎(すけがはていじろう)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註14 札幌市史編さん委員会編さん「助川 貞二郎 すけがわ ていじろう」『札幌百年の人びと』札幌市 1968
註15 「民権家経歴」永井英夫責任編集『北海道民権史料集』北海道大学図書刊行会 1986、原資料は不明
註16 北海道圖書出版合資會社編輯局編纂(梶川梅太郎編輯)「助川貞二郎氏」『北海道立志編 第貮巻』北海道圖書出版合資會社 1903
註17 奧田二郎「商才の權化助川貞次郎」『えぞ金豪傳』共立書房 1954
註18 「北海道工業沿革概略」『殖民公報』第貳號 北海道廳殖民部拓殖課 1901年6月16日
註19 「第三編 開拓使時代 第三章 黒田長官時代 第十七節 官舍及營業拂下」『札幌區史』札幌區役所 1911
註20 札幌商工會議所編(吉田寧編輯)「第一 官業時代の工業 十、醬油味噌釀造所」『草創時代に於ける札幌の工業』札幌商工會議所 1936
註21 「○札幌昔話(三十九)▲深谷鐵三郎氏の談(二十九)」『北海道毎日新聞』1898年9月13日2面
註22 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A07062398400、「製醤」『開拓使第四期報告書 自明治十一年七月 至鄉十二年六月』記01721100(所蔵館:国立公文書館)
註23 「太政官達第七十號」1881年8月10日、「○昨日太政官より第七拾號と第七拾壱號にて官省院使廳府縣へ左の通りお達しに成りまし多」『讀賣新聞』1881年8月11日1面、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A10110373300、内務省「明治十四年度樺戸集治監開廳决𥮅報告書」『明治十四年度𡻕出决算報告書 廾三』歳B00028100(所蔵館:国立公文書館)、細川龜市「四 明治前期の北海道集治監續考 一 樺戸集治監」『日本法制史要講』時潮社 1941
註24 北海道廳第五部殖民課 編「第十一章 工業 沿革」『明治三十九年八月 第貳拓地殖民要録』北海道恊會 1906
註25 羽田信三「第8章 川の道➂ 道路・橋・運河など 第4節 産業との関わり」『シノロ 140年の歩み』協賛会会長加藤隆司 2003
註26 寺本界雄『樺戸監獄史話 囚人、石狩川をのぼり沿岸を開く』月形村七十周年記念村史編纂委員会 1950、樺戸郡月形町役場 1972再版による
註27 「舟運・渡船 石狩川水運の歩み」『石狩川100話 石狩川治水100年の歴史をたどる』石狩川開発建設部 2010
註28 函館市史編さん室編さん「第4編 箱館から近代都市函館へ 第8章 金融界の近代化と整備・発展 第1節 金融機関の創設 6 地場銀行の設立」『函館市史 第2巻 通史編2』函館市発行 函館古書籍組合発売 1990
註29 アジア歴史資料センター(JACAR)Ref A15110534500、「樺戸集治監十四十五両年度経費中難舩及洪水ニ遭遇セシ物品代價官損【扌+貟】ニ處分セシム」『公文類聚第七編巻之第二十八財政門経費二』類00111100(所蔵館:国立公文書館)
註30 小美田利義「廣告」『讀賣新聞』1884年12月21日4面、その後24日4面、26日4面、1885年1月7日4面、11日4面、16日4面と複数号に掲載される
註31 石川正蔵『日本記元【紀元】弐千五百三【旁書・四】拾三年 明治拾六年七月ヨリ至十七年四月三十日迠 公私諸向日誌簿 西曆千八百八拾三年 清曆光緒九年 癸末【未】(ミズノトヒツジ)「キビ」』(公私諸向日誌簿(11))1883年10月20日条、1928年2月28日書写了 北海道大学附属図書館貴重資料室蔵、国立大学法人北海道大学北方関係資料総合目録北方資料データベースにより文字起し
註32 田崎勇「篠路味噌醤油醸造所」北海道史編集所編『『新北海道史』編集機関誌 新しい道史』第17巻第1号 北海道 1980年3月25日
註33 金子郡平 高野隆之「笠原格一(かさはらかくいち)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註34 金子郡平 高野隆之「笠原文平(かさはらぶんぺい)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註35 羽田信三「第8章 川の道➂ 道路・橋・運河など 第4節 産業との関わり」『シノロ 140年の歩み』協賛会会長加藤隆司 2003
註36 高橋理一郎編纂「開拓功勞者 故石川正叟」『北海開發事蹟』地方振興事績調査會 1921
註37 鈴木源十郎 杉山指粹共編「石川正叟氏」『現代札幌人物史』札幌現代社 1931
註38 石川正蔵『第九號 日本紀元弐千五百三【旁書・四】拾壱年 明治拾四年㐧八月ヨリ至十五年四月 公私諸向日誌簿 西曆千八百八拾壱年 清曆光緒七年 辛巳』(公私諸向日誌簿(9))1881年8月3日条、1929年1月書写 北海道大学附属図書館貴重資料室蔵、国立大学法人北海道大学北方関係資料総合目録北方資料データベースにより文字起し
註39 石川正蔵『第九號 日本紀元弐千五百三【旁書・四】拾壱年 明治拾四年㐧八月ヨリ至十五年四月 公私諸向日誌簿 西曆千八百八拾壱年 清曆光緒七年 辛巳』(公私諸向日誌簿(9))1881年12月28日条、1929年1月書写 北海道大学附属図書館貴重資料室蔵、国立大学法人北海道大学北方関係資料総合目録北方資料データベースにより文字起し
註40 岩井信六氏談「聽いて置き度い昔噺(Q) 大仕掛な工業局 氣まゝな膽振川」『北海タイムス』1934年11月14日6面
註41 鈴木源十郎「助川貞二郎」『札幌之人』鈴木源十郎 1915
註42 「第三編 開拓使時代 第八章 產業 第二節 民業狀態」『札幌區史』札幌區役所 1911
註43 札幌史學會「開拓使時代 新聞雜誌」『札幌沿革史』札幌史學會 1897
註44 『札幌新聞』第六號 1880年7月21日11丁オ、東京大学明治新聞雑誌文庫蔵
註45 北海道立図書館北方資料部編『北海道地方新聞所在目録 改訂版―平成19年3月現在―』北海道立図書館 2009改訂第2版に「創:1880〔明13〕.6.16-1881.6.28(45)」、所在は同目録による、また、東京大学明治新聞雑誌文庫データベース「明探」『札幌新聞』変遷注記にも「明14.6(第45号)まで以後終刊」とある
註46 石川正蔵『第拾號 日本紀元弐千五百三【旁書・四】拾弐年 明治十五年四【旁書・五】月ヨリ至十六年六月 公私諸向日誌簿 西曆千八百拾弐年 清曆光緒八年 壬午(ジンゴ)』(公私諸向日誌簿(10))1981年6月28、29日条、1929年2月書写 北海道大学附属図書館貴重資料室蔵、国立大学法人北海道大学北方関係資料総合目録北方資料データベースにより文字起し
註47 『札幌新聞』第六號 1880年7月21日11丁ウ、第拾貮號 十一丁オ記載の住所とは一部異なる、おそらくいずれかが誤刻、東京大学明治新聞雑誌文庫蔵
註48 田沼健宛 樺山資紀「東京府知事事務引繼書類 〔附記、四〕八品商其他組合頭取人名等」1888年7月11日、『東京市史稿』東京市地史各記二 市外史第六十六 第三節 本記 二 帝都 自明治十五年一月 至明治十五年十一月(『東京市史稿 市街篇 第六十六』)東京都 1974所収
註49 「○札幌通信」『自由新聞』1884年12月10日2面
註50 小澤久太郎編輯「助川貞二郎君」『在北海道茨城縣人寫眞帳』茨城縣人共和會 1913
註51 札幌市史編さん委員会編さん「助川貞二郎」『札幌百年の人びと』札幌市 1968
註52 奧田二郎「商才の權化助川貞次郎」『えぞ金豪傳』共立書房 1954
註53 札幌市史編さん委員会編さん「助川貞二郎」『札幌百年の人びと』札幌市 1968
註54 北海道圖書出版合資會社編輯局編纂(梶川梅太郎編輯)「助川貞二郎氏」『北海道立志編 第貮巻』北海道圖書出版合資會社 1903
註55 金子郡平 高野隆之「助川貞次郎(すけがはていじろう)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註56 「○當區総代人」他1編『北海新聞』1887年2月25日2面
註57 「○総代人」『北海新聞』1887年2月25日2‐3面
註57 石川正蔵『第拾四號 日本紀元貮千五百四拾六年 明治拾九年第拾壱月十九日ヨリ 公私諸向日誌簿 西曆千八百八拾六年 清曆光緒拾壱年』(公私諸向日誌簿(14))1887年9月30日条、1929年2月書写 北海道大学附属図書館貴重資料室蔵、国立大学法人北海道大学北方関係資料総合目録北方資料データベースにより文字起し
註59 文野方佳「研究余録 助川貞二郎小伝(下)」札幌市教育委員会文化資料室編集『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第29号 札幌市 1995年8月25日
註60 北海道総務部知事室道民課編「更生保護事業の先達・助川 貞利」『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和四十六年)』北海道 1972
註61 『第拾號 日本紀元弐千五百三【旁書・四】拾弐年 明治十五年四【旁書・五】月ヨリ至十六年六月 公私諸向日誌簿 西曆千八百拾弐年 清曆光緒八年 壬午(ジンゴ)』(公私諸向日誌簿(10))1883年6月30日条、1929年2月書写 北海道大学附属図書館貴重資料室蔵、国立大学法人北海道大学北方関係資料総合目録北方資料データベースにより文字起し
註62 渡辺惟精『第七日記 自明治二十年五月十五日 至明治二十一年十月三十一日』1887年10月21日条、長谷川嗣編『空知集治監初代典獄渡辺惟精の日記 空知・宮城・三池監獄裏面史』北海道出版企画センター 1983による
註63 河西英通「北海民権家の軌跡―柳井義之進論―」永井秀夫編『近代日本と北海道』河出書房新社 1998
註64 北海道圖書出版合資會社編輯局編纂(梶川梅太郎編輯)「助川貞二郎氏」『北海道立志編 第貮巻』北海道圖書出版合資會社 1903
註65 金子郡平 高野隆之「助川貞次郎(すけがはていじろう)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註66 「○助川貞二郎先生の御話傍聽筆記」『北海道毎日新聞』1890年3月12日2‐3面
註67 「北海道〔遊説出發一日前の〕政談演説會」広告『東京朝日新聞』1890年4月29日4面、30日4面
註68 「◎自由黨員の北海道遊説」『讀賣新聞』1890年4月26日2面
註69 「◎遊説委員の演説」『讀賣新聞』1890年5月1日1面
註70 「社説 ●自由黨、北海道に遊説す」『東京朝日新聞』1890年5月2日1面
註71 函館市史編さん室編さん「運の発達と北方の拠点港 第4節 汽船主導の海運界 1 日本郵船による海運網の拡充」『函館市史 第2巻 通史編2』函館市発行 函館古書籍組合発売 1990
註72 「●自由黨遊説員 五月四日函館發」『東京朝日新聞』1890年5月6日1面
註73 文野方佳「研究余録 助川貞二郎小伝(上)」札幌市教育委員会文化資料室編集『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第27号 札幌市 1994年8月25日、永井秀夫責任編集「第五編 言論・出版・集会・結社 第一章 函館演説会リスト」『北海道民権史料集』北海道図書刊行会 1986
註74 「○政談演説會の模樣と短評」『北海道毎日新聞』1891年12月1日3面
註75 松永昌三「第六章 明治憲法体制と兆民 第七節 北門新報」『中江兆民評伝』岩波書店 1993
註76 「●兆民居士と北海道廳長官」『郵便報知新聞』1891年6月20日2面
註77 「年譜 付、年譜資料」松永昌三 井田進也(同巻編集担当)『中江兆民全集 別巻』岩波書店 1986
註78 中川收「第5章 キリスト教をめぐる人々 助川貞利」札幌市教育委員会文化資料室編『札幌とキリスト教』さっぽろ文庫41 札幌市 札幌市教育委員会 1987、執筆者不記「助川貞利」日本近代キリスト教歴史大事典編集委員会編『日本近代キリスト教歴史大事典』教文館 1998、同辞典には「貞七郎・ヒデの長男」とあるが、貞二郎の誤りであろう
註79 北海道総務部知事室道民課編「更生保護事業の先達・助川 貞利」『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和四十六年)』北海道 1972
註80 北海道総務部知事室道民課編「更生保護事業の先達・助川 貞利」『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和四十六年)』北海道 1972、中川收「第5章 キリスト教をめぐる人々 助川貞利」札幌市教育委員会文化資料室編『札幌とキリスト教』さっぽろ文庫41 札幌市 札幌市教育委員会 1987
註81 北海道総務部知事室道民課編「更生保護事業の先達・助川 貞利」『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和四十六年)』北海道 1972
註82 「○北海道勞働組総會」『北海道毎日新聞』1892年1月19日2面
註83 北海道勞働組本部「廣告」『北海道毎日新聞』1892年1月19日3面
註84 「○撰挙余聞彙報 停止……解散」『いはらき』1892年2月16日、茨城県史編集会監修 茨城県立歴史館編『茨城県史料=近代政治社会編IV』茨城県 1990による
註85 奧田二郎「商才の權化助川貞次郎」『えぞ金豪傳』共立書房 1954
註86 『衆議院議員總選擧一覽』衆議院事務局 1912、『衆議院議員總選擧一覽 上卷』衆議院事務局 1915
註87 「●亞細亞勞働協會」『東京朝日新聞』1892年3月3日朝刊2面
註88 金子郡平 高野隆之「助川貞次郎(すけがはていじろう)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註89 札幌市消防沿革誌編纂委員会編纂「第二章 区立自衛消防組時代 十 悪夢の年・二五年―大火と消防組事件―」「第三章 公立札幌消防組時代 一 全国統一の公立消防―明治二七年二月勅令第一五号―」『札幌消防百年の歩み』札幌市消防局 1971
註90 吉田南總 (重貞)「◎金子定義氏」『北海人物評論 苐壹編』北海人物評論社 1901
註91 河西英通「北海民権家の軌跡―柳井義之進論―」永井秀夫編『近代日本と北海道』河出書房新社 1998
註92 「◎日本勞働協會設立の方畧」『北海道毎日新聞』1892年11月11日1面
註93 永井秀夫「総論 北海道の自由民権運動 三 運動の概観」永井英夫責任編集『北海道民権史料集』北海道大学図書刊行会 1986、なお永井秀夫は彼の姓名を新鞆・三郎と誤解しているが、上記記事の通り新・鞆三郎であり、永井秀夫「第三章 北海道の自由民権運動 第一節 北海道の自由民権運動」『日本の近代化と北海道』北海道大学出版会 2007で訂正されている
註94 永井秀夫「総論 北海道の自由民権運動 三 運動の概観」、永井秀夫「第一編 新聞論説 解題 三『北海新聞』」永井英夫責任編集『北海道民権史料集』北海道大学図書刊行会 1986
註95 田端宏「第二編 民権関係諸団体紙誌 解題」永井英夫責任編集『北海道民権史料集』北海道大学図書刊行会 1986
註96 永井秀夫責任編集「第五編 言論・出版・集会・結社 第一章 函館演説会リスト」『北海道民権史料集』北海道図書刊行会 1986
註97 石川正蔵『第八號 紀元二千五百三十一年 辛巳 十四年也従明治十三年六月 公私諸向日誌簿 至同十四年七月 』(公私諸向日誌簿(8))1881年7月16日条、1929年2月23日書写了 北海道大学附属図書館貴重資料室蔵、国立大学法人北海道大学北方関係資料総合目録北方資料データベースにより文字起し
註98 「◎北海日日新聞披露の宴」『北海道毎日新聞』1898年1月7日1面
註99 「創成社設立委任状」1880年5月15日「出版及新聞紙等ニ関スル書類」1880年 記録係 札幌道立文書館所蔵 文書番号3798、永井英夫責任編集『北海道民権史料集』北海道大学図書刊行会 1986による
註100 高碕龍太郎編輯 黒野錦谷畫 館道策彫𠜇『札幌繁榮圖録』高碕龍太郎 1887
註101 札幌市教育委員会編「第六編 道都への出発 第二章 商工業の進展 第一節 官営工場の払下げと民間企業の勃興」『新札幌市史 第二巻(通史二)』札幌市 1991
註102 『札幌新聞』第六號 1880年7月21日11丁ウ、東京大学明治新聞雑誌文庫蔵
註103 高碕龍太郎編輯 黒野錦谷畫 館道策彫𠜇『札幌繁榮圖録』高碕龍太郎 1887
註104 吉田南總 (重貞)「◎黒柳喜三郎氏 札幌區」『北海人物評論 苐壹編』北海人物評論社 1901
註105 岡崎官次郎編纂「莊子斌氏」『北海道人物誌 第一編』北海道人物誌編纂所 1893
註106 中村連之助「オカセンジン 岡千仭」下中彌三郎編『新版 大人名事典 第一巻』平凡社 1954、『縮刷版 大人名事典 第1・2巻 ア‐コン』平凡社 1957による、宇野量介「前編 一歳~三十八歳 第一章 少年時代」『鹿門岡千仭の生涯』岡広 1975、河野通之識『岡千仭履歷書』1914、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A12090184100、叙位裁可書・大正三年・叙位巻五、岡千仭特旨叙位ノ件、叙00420100(所蔵館:国立公文書館)には「天保四年十二月十二日」とある、月日を太陽暦換算したものか
註107 宇野量介「前編 一歳~三十八歳 第一章 少年時代」『鹿門岡千仭の生涯』岡広 1975、河野通之識『岡千仭履歷書』1914、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A12090184100、叙位裁可書・大正三年・叙位巻五、岡千仭特旨叙位ノ件、叙00420100(所蔵館:国立公文書館)によれば4男とある
註108 宇野量介「前編 一歳~三十八歳 第一章 少年時代」『鹿門岡千仭の生涯』岡広 1975
註109 「ヲカ ロクモン 岡鹿門」『大正六年七月版 大日本人名辭書第八版増補』經濟雜誌社 1917
註110 入学誓書不存、福本日南手記、大熊浅次郎「『文豪福本日南先生の十周年を追懷す』追記」『筑紫史談』第五號 筑紫史談會 1932年4月30日による、柳田泉「福本日南」『興亞』第三卷第十號 大日本興亞同盟發行、翼賛圖書刊行會發賣 1942年10月1日、榎本隆司編「年譜 福本日南」『明治文學全集 第九十卷 明治歷史文學集(二)』筑摩書房 1972
註111 「附錄 綏猷堂門人錄」森銑三 野間光辰 中村幸彥 朝倉治彥編『隨筆百花苑 第二卷』中央公論社 1980
註112 岡千仞撰著 姪 濯萬里校訂「燕京日記卷上」明治甲申十月十日条『觀光紀游』岡千仞出版 吉川半七大賣捌 1886、高柳信夫訳「II➃5 観光紀游(抄)」村田雄二郎責任編集『新編 原典中国近代思想史 第2巻 万国公法の時代 洋務・変法運動』岩波書店 2010
註113 葛生能久「列傳 岡鹿門(漢學者、支那問題)」『東亞先覺志士記傳 下卷』黒龍會出版部 1936
註114 薄培林「近代日中知識人の異なる琉球問題認識―王韜とその日本の友人を中心に―」『関西大学東西学術研究所紀要』第47輯 関西大学東西学術研究所 2014年4月1日、同論文で参照された易惠莉「日本汉学家冈千仞与王韬―兼论 1860—1870 年代中日知识界的交流」『近代中国』第十二辑 上海社会科学院出版社 2002年12月にも、興亜会の活動に参加した事実を記さない
註115 閻秋君「琉球の帰属問題をめぐる岡千仭の認識」『国際文化研究』第24号 東北大学国際文化学会 2018年3月31日
註116 魯迅「日记十八」1929年7月22日条に「二十二日晴大熱上午寄石民信 寄矛塵信 寄淑卿信 下午得侍桁信并稿 収李秉中自日本所寄贈觀光紀游一部三本 晚张友松党家斌来 得小峯信并版税二百」、鲁迅手稿全集编辑委员会编『鲁迅手稿全集 日记 第六册』文物出版社出版 新华书店发行 1980より読み起し、魯迅「致李秉中書信」1930年4月12日
註117 魯迅「『皇漢醫學』」1929年7月28日執筆、『語絲』第五卷第二十二期 語絲社發行 北新書局經售 1929年8月5日

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