今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

魯迅と日暮里(56)南波登発の「亞細亞」への視線(31)北辺のルンペンプロレタリアートと博徒の群れ Lumpenproletariat in the northern frontier of Japan

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さて、当時の北海道における「勞働」の実態を見るため、以下において消防組の構成員の実態を見てみよう。札幌消防組は「北海道勞働組」の結成された1892年、大規模な暴力事件を起こしている。

花月樓-笠原文治邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より

花月樓 笠原文治邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より


まず、三番組組頭(頭取)の笠原文司。
彼は、「天保十三【1842‐43】年仙臺支藩亘理藩士彌一郎の長男に生る明治戊申の役幕臣榎本武揚の幕下に參して箱館に據り官軍に抗戰し亂平定後箱館に移住す明治四【1871‐72】年彌一郎舊藩の團体に加りて有珠郡紋鼈村に移住し開墾に從ひしかば十七【1884】年文司父を尋ねて紋鼈に到り翌【1885】年父と相携ひて札幌に來住す當時貸座敷業高瀬和三郎に寄りて今の高砂樓の地に花月樓と稱する女郎屋を開きしが期年【1886年】にして同業者に重んぜられ二十【1887】年貸座敷取締及消防第三番組頭取と爲る二十四【1891】年高瀬和三郎と謀りて薄野見番を新設す札幌に於ける見番の嚆矢なり偶々翌二十五【1892】年十二月十六日惣代人岩井信六宅に於て消防組の惡弊矯正の協議あり翌十七日此事北門新報に掲載せらるゝや文司等消防組の一派は此記事を見て信六等の協議を憤ること甚しく此日夜に乘じ多數の消防手を率ゐ土足の儘信六の家に亂入す急報に接し札幌警察署及道廳警察部より多數の警吏出張し同夜十一時漸く解散したり然るに其翌十八日文司等警鐘を亂打して配下の消防手を召集し總勢數百名を二隊に分ち一隊は北門新報を襲擊し一隊は信六の家を包圍す爰に於て事頗る騷然たりしが再び警吏出張して之れを鎭撫せり直ちに札幌地方裁判所檢事臨檢し消防手數十名を檢擧して引上く翌十九日文司等東京庵に宴會中各組頭と共に其筋に檢擧せられ取調べの結果翌二十六【1893】年文司は兇徒聚集罪に問はれて輕懲役六ケ年に處せられぬ文司もとより之れに服せず函館控訴院に上訴し審議の結果二十八【1895】年無罪の判決を受く爾來引續き花月樓を經營せしが三十【1897】年以來娼妓自由廢業の打擊を蒙り三十六【1903】年の頃妓樓を他に讓りて東京に引上げたり爾後文司の消息を知るものなし札幌の名物漢として今尚ほ人の記憶に存せり」。(註1)
また、「仙台藩、亘理藩士の子で官軍と戦ったが、十七【1884】年来札し貸座敷「花月楼」を開業二〇【1887】年に貸座敷取締、消防組三番組組頭にえらばれた。二四【1891】年には札幌最初の薄野見番をひらいた。事件の首謀者と目された彼は翌【1892】年凶徒聚集罪で軽懲役六年の判決を受けたが、函館控訴院に上訴し証拠不十分で二八【1895】年無罪となった。その後間もなく札幌を去って東京に移住したが消息不明となった。」との伝が残る。(註2)けっこうヤバそうな人物ではある。

北海樓-高瀬和三郎邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より

北海樓 高瀬和三郎邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より

実は、「北海道勞働組」の幹事となった高瀬和三郎も薄野の北海楼の主人である。
彼は「文政十二年二月【1829年】出羽國大館に生る。平吉の長男なり。父は秋田藩の目明(めあかし)を勤む。」(註3)「幼時寺子屋に學ぶ性頑暴にして家督を襲ぐるを欲せず嘉永三【1850‐51】年年齢二十一にして蝦夷函館に渡り雜役人夫と爲り尋で商業を營み勤儉力行する事二十有年遂に數百金を貯ふ明治四【1871‐72】年開拓使の札幌に移さるゝに際し此年札幌に轉住し翌年今の薄野に北海樓と稱する女郎屋を開き營業の繁昌に伴ひ薄野見番を設け札幌花柳界の老鎭と爲る」(註4)「また、この年四月には、市中副戸長に任命され、翌六【1873】年二月には市会所で出納方も勤めている。」(註5)当時のことを高瀬和三郎は次のように回想する。興味深いので文字起ししておく。

「夫から六【1873】年の年ですが、六【1873】年の丁度今頃でした【。】段々札幌か不景氣で分らんと云つて逃仕度をするものか有つて、丁度半分程も逃け出しました、少し話が前後する樣ですが、今の親分〱と云ふのは其開拓役所の時分の身元引受人で、夫れが無ければ百圓の營膳【繕】費か貸して貰へなかつたので、其引受人か今云ふ親分と云つたので、詰り連借人です、所で其營繕費は、黒田さんか二度目來たとき丁度其不景氣の六【1873】年に御土產として下されになりました、納めたものは皆な返して下すつたので、是れが黒田さんの開拓使へ來た一番のお出來でした、夫れから前の不景氣が漸く恢復したのです、其不景氣の時は非常なもので、今の井桁の所などは私の割渡地の二戶分で大野の池田宗兵衛に唯吳れた所でして、家屋迄付て居て二十圓か廿五圓出せは立派な所があつて、塲所によつては唯吳れても貰ひ手のない位でした、先つ札幌は其んな處でした、夫れで黒田さんの時代から段々今の札幌の形になつたのです、
夫れから庄內の松本十郎が判官で來たのです、其節私は免せられました、其れが貸座敷料理店を營業するものは町副(まちそへ)に用ゆるは如何に付 職を免ずると云ふことを廻文にして一般町內へ廻して、私と山口繁治郎と二人が免せられて、即ち其廻文に基いて辭令を貰つた、夫れで繁次郎は大變怒つて、又々雇から始めて松村(まつもと)の行つた時分には又元の町副(ちやうふく)となつて、一時は飛ふ鳥を落す勢だつた。」(註6)

さらに、「明治十七【1884】年豐平村字平岸に一萬金を投じて畑三十町步を墾成し一大苹果【林檎】園を造り」(註7)「このころ、リンゴは美しく、美味で、貯蔵性も高く、明治十三【1880】年の農業仮博覧会で余市産リンゴが高価に売れたことから農家の注目を集めており、和三郎はこの将来性を見通し果樹園の経営に力を入れ、明治中葉の著名果樹園といわれた。」(註8)「二十四【1891】年泉麟太郎等と共に眞成社を組織し、麟太郎を社長とし、夕張郡角田村に未開地百十二萬坪の貸下を受く。二十六【1893】年和三郎水田の試作を企畫せしも、社員の多數は其成功を疑ひて之に應ぜず。是に於て和三郎は、右の内三十五萬坪を分与せらるゝに於ては、私費を以て水田を造成し、成功の後水田十町歩を同社に提供すべきことを申出て、アノロ川より水を引しが、此工事困難にして同年僅に水田三段歩【反歩】を試作せしに、其の成績良好にして、玄米二石以上の収穫あり。二十七【1894】年は五町歩を作りて一段歩【反歩】に付一石二斗を收穫せり。是に於て、曩に異議を唱へし社員も、水田起業を社長に迫るに至り、」(註9)「二十八【1895】年夕張郡角田村に二百三十町步の土地を購ひ水田期成組合を起して延長二里に亙る灌漑溝を通じ以て數百町步の水田を造成して百町步を自己の所有と爲す三十一【1898】年村民和三郎を水田の開祖となし金杯を贈りて感謝の意を表す翌年貸座敷業を其帳場に讓り爾後專ら農業に從事せり和三郎人と爲り不遜にして一見俠客の風あり能く窮民を救けて出資を惜まず廿七八【1894‐95】年愛馬二頭に金若干を添うて之れを献納す多年公私の爲めに盡力せる處尠からず甞て札幌區惣代人に選ばれて三年間其職に在り卅二【1899】年篤農家として舊藩主より紋付羽織を贈らる晩年世事を疎んじて餘生を送りしが四十二【1909】年病んで歿す年八十二」(註10)。その後の助川貞二郎との接点も多いように見える。

岩㟢粂三郎邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より

岩㟢粂三郎邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より

岩崎粂三郎も「天保十二【1841‐42】年出生/氏は頗る義俠に富むを以て名あり、日清戰役に軍夫を役して百人長となり從軍し、遼東の野に奉公の義務を盡し豪膽を以て知られたり、日本体育會に入りて終身社員となれり、氏は福井縣丹生の人、年六拾一なりと云ふ。」(註11)というが、売春業にして劇場主。

岩崎粂三郎『北海道人名辭書』国会図書館蔵より

岩崎粂三郎『北海道人名辭書』国会図書館蔵より

「札幌の顏役たり天保十二年十一月【1841‐42年】福井縣丹生郡眞栗村の農新右衞門の長男に生る明治維新前より父新右衞門に從ひ屢々函館に渡來し後山越郡八雲村陣屋の御用達を勤めたり明治四【1871‐72】年開拓使の札幌に移さるゝに及び粂三郎性元俠氣あり好んで他人の世話をなす爲めに漸次衆望を得貸座敷、見番、娼妓各取締及び消防組頭等に擧げられ又劇場大黒座の持主となりて更に興行界に重きを置かれ初めて札幌に東京及び大阪相撲を興業せり後石狩錢函及び十勝國大津等に貸座敷又は料理店を開き明治二十五【1892】年率先して札幌中島公園地內に大規模の養蠶を營みて失敗し後更に小樽區に旅人宿業を營みしが尋で二十九【1896】年札幌に丸新旅館を開き專ら其の經營に當り傍ら札幌の顏役として公私の事に關係せり甞て西本願寺札幌別院の建立に當り單身本山に上り遂に本山より金一千五百圓の出資を得て札幌に歸り自ら敷地を寄附し漸く本道を建築せり又明治二十七八【1894‐95】年戰役の際は本願寺法主に隨いて從軍する等信仰の厚きこと常人の比にあらず明治四十三【1910】年八月病を得て歿す行年七十本願寺粂三郎が多年の功勞を慰むる爲め法名知證院を贈れり盖し院號は粂三郎を以て嚆矢となす」(註12)

伊藤辰造『北海道人名辭書』国会図書館蔵より

伊藤辰造『北海道人名辭書』国会図書館蔵より

伊藤辰造は、「札幌區會議員にして義俠心に富むを以て名あり、全區消防組の頭取にして寛厚好く部下を統率し、衆人多く氏の高風を欽慕すと。」(註13)と評されるが、劇場主。

「嘉永三年九月【1850年】神奈川縣橘樹郡生田村に生る稻毛鄉の名主富士衞門の二男なり十七歲の時渡英の目的を以て横濱に出で外人の商舘に雇はる慶應三【1867‐68】年十八外國船に搭乘し上海香港シンガポールの間を航す途中病の爲め渡英の目的を果さず明治三【1870‐71】年空しく横濱に歸航す翌四【1871‐72】年開拓使外事課雇となりて札幌に來るや遽かに西洋洗濯の必要起りしより辰造を用度課雇となし專ら西洋洗濯の任に當らしむ本道に於ける斯業の鼻祖たり以來十年間其業に努め十六【1883】年營業全部を堤敬治郎に讓り十七【1884】年洋服裁縫店を開く是先十二【1879】年洋食店をも開始せしが後二十【1887】年他人の負債辯償の爲め家產を傾く二十一【1888】年札幌南二條西二丁目に劇場橘座を新設して之が經營に當り更に小樽に住吉座を建設し 札幌の劇界に勢力を張りしが不幸にして橘座は二十五【1892】年再度祝融【火事】に見舞はれ二十七【1894】年住吉座も亦燒失して多大の損害を負ふ辰造遂に劇界を斷念し爾來金貸を業とし傍ら農業に從ひ區の公共に盡力して今に至る先きに札幌總代人區會議員たること前後二十八年明治十二【1879】年より同二十五【1892】年の間消防組第一番組頭を勤め二十七【1894】年消防組の新組織なるや擧げられて組頭となり卅九【1906】年職を辭す其他札幌招魄祭典區總委員長と爲る就中消防組に盡力する所多く道廳長官より木杯一組札幌祭典區より銀杯一個消防共睦會より金杯一組消防組第七部より銀杯一個區役所より退職慰勞金二百十金を贈らる以て其功勞の一斑を知る可し」(註14)彼はまた創成社株主でもあった。(註15)

先に経歴を見た黒柳喜三郎と伊藤辰造については、深谷鉄三郎による以下の回想が残る。

「西洋仕立職の嶋田兼吉の來た時分に靴製造職で岩井信六、馬具職で黒柳喜三郎、西洋洗濯人で伊藤辰造なども皆開拓使て雇ひ上けになつて參つたものです
靴製造の岩井は農學校內に居て重に官吏の靴の修繕を致して居りました最も人民のも持つて行けば直して吳れました後に南一條西二丁目へ靴屋を開店致し一切の官の御用を勤め其他人民にも商いまして盛んなことでした
洗濯人の伊藤辰造は最初は今の偕樂園の內で專ら官吏などのものを洗濯を致して居りましたか後黒柳の居る所で兼てお話した町長屋へ移轉を致し矢張官の手を離れて商賣を致して居りました
馬具職の黒柳喜三郎は最初勸業の內で新調製造共に遣つて居たか後南一條通りへ店を出した此人は余り仕事は上手でなかつたか交際上手でしたから官の仕事は勿論屯田などの御用をも聞て盛んなものでした」(註16)

伊藤辰造邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より

伊藤辰造邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より

1892年5月4日、狸小路4丁目から出火した火災は市街の5分の1を焼失する大火となり、この時、北海道毎日新聞社の本社屋も焼失した。これに端を発し、北海道靴業界の雄でキリスト者の岩井信六が札幌区総代人会で消防組の悪弊を是正すべしとの論陣を張る。彼は1885年、札幌神社の祭礼費集金を拒否したため、札幌区の組頭を更迭されており、1887年、北海道禁酒会発足の中心となった人物でもある。ストイックな岩井信六によるこの発言が『北門新報』に載ったことが暴力事件の発端となった。

「大火の歲【1892年】十二月十八日札幌消防組全部北門新報社及總代人岩井信六宅に闖入して暴行を爲し、道廳長官は屯田兵の出兵を要求し、全市亦警戒を爲したる事あり。其表面の原因は札幌區總代人會に於て總代人岩井信六當時の消防夫が毎年出初式い於て、重立たる富豪の宅前に梯子乘を演じ、纏頭を要するの弊を匡正するの論議を爲したるを北門新報其記事を掲載したるを以て、組頭笠原文司部下を煽動して此の暴行を爲し、毆打創傷器物破毀等を爲したる者なるが、其裏面の眞相は當時北門新報と毎日新聞と互に反目しつゝあり、北門新報が毎日新聞主腦者と笠原文司の女子との艶事を摘發したるを含み、梯子乘事件に託して、消防夫を煽動して此擧に出たる者と傳へられる、」(註17)

「十八日早朝、各組の消防夫が続々と一番組番屋に集まった。ここで、組頭・小頭それに一等消防夫の主だつ者をも一室に集めてその決意を確め、さらに暴行の時期を柏谷万吉が連絡し、それによって安田一忠・渡辺松太郎の二人が警鐘を打ち鳴らすことを決めた。
(中略)集合した消防夫らは、近くにある札幌区役所倉庫から薪炭を持ち出してたき火をしながら、出された酒を飲んでいる。大門小頭は、かねて計画どおり連判状を作り、一同に今までの状況と襲撃の計画を説明して署名押印を求めたところ、各自進んでこれに応じ全員が参加することを誓い、その機はいよいよ熟するに至った。
このころ警察署に出頭していた組頭四名が、警部森田竹次郎とともに番屋に戻って来たが、消防夫らは雑然【騒然カ】として今にも重大事を起しかねない様子であったので、森田警部がこれを鎮めるため、組頭・小頭を番屋の一室に集めて説諭しようとした。このとき笠原組頭が、「今がいい機会だ、この混雑に紛れて押しかけれ」と一等消防夫森合孫吉に耳打ちしたので、警部らが部屋に入るのを見定めてから、約百名が北門新報社に向かった。消防夫はかねて打ち合わせのとおり、社屋外を包囲して社員の逃走と警察への連絡を防ぎ、五、六名が事務室に入って社長に面会を求めた。社長は不在で、これに応じた社員嬉野通詔は突然なぐり飛ばされ机に頭を打ちつけて昏倒した。内部からの合図で社屋外の消防夫も一時になだれ込み、社員・従業員の全部を一室に閉じ込めてから、社内の机・いす・つい立て・戸障子・機械・器具・帳簿・印刷物などありとあらゆる物を投げ、倒し、こわす等の乱暴狼藉の限りをつくしたのである。」(註18)

岩井信六邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より

岩井信六邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より

この時、助川貞二郎も容疑者として拘留されるが、間もなく釈放されている。(註19)『北門新報』は金子元三郎の発起で、道庁の保護を受けていた『北海道毎日新聞』に対抗し、小樽に本社を置き、友人・金玉均のアドヴァイスにより(註20)中江兆民を主筆に発刊された新聞である。そして、初期の社員には「北海道勞働組」の柳内義之進もいた。そして、この年の8月、『北門新報』主筆の中江兆民は同社を退社して札幌で紙問屋を開き、年末に本土に帰っており、事件の被害には遭わなかったが、『北門新報』が薩閥支配下の道庁に対抗する言論を展開していたこと、制止に入った警察が機能しなかったこと、キリスト者が標的になったことといい、こうした状況を見ると、事件の黒幕的存在として、北海道庁及び警察の関与も考えられるのだが、はっきりしたことは分からない。

「而して當時の札幌警察署長角田某又消防夫の暴行を寛過したるを以て非職を命ぜられ、暴行者は皆兇徒嘯集罪を以て國法に處せられ消防組の善後は阿部久四郎を擧げて組頭となし以て漸く秩序ある現今の札幌消防組の基礎を立てり。」(註21)そして、この時に助川貞二郎も一番組組頭となっている。(註22)
なぜ警察と消防夫の関係が問われたかというと、当時の消防組織は警察行政の下に置かれていたからである。そして札幌の消防組織の起源は、ほかならぬ開拓使トップによって組織的に行なわれた火付け・放火にあった。

「御用火事とは、五年四月【1872年】岩村【通俊大】判官先頭に立ち、八尺の白木綿に『御用火事』と大書したる旗を押立て、人夫を指揮して片端より凡て此等の草小屋に放火して、悉く之を燒盡したる者なり。(中略)判官の御用火事は、野火の憂を減じたると共に、實に札幌消防組の淵源を爲せり、當時未だ消防夫の組織あらざりしに、中川源左衞門判官の命を受くるや、其部下中、東京より伴ひ來りたる百七十餘人の大工、木挽、鳶等より、東京に於て其經歷ある者を選拔し、長谷川孝太郎を鳶頭、福森直吉を梯子乘とし、纏、手掛、鳶口、提灯夫の用意を整へ、始めて中川組なる者を組織せり。是れ實に札幌消防組の祖先なり。」(註23)

もう1つ「勞働」の実例を見よう。後年助川貞二郎が買収・統合に成功した札幌魚卸売市場出入りのメンバーである。公式の歴史には次の通り記述されている。

札幌中央卸売市場-Google-Earthによる

札幌中央卸売市場 Google-Earthによる

「大正の初期の水産業商たちの気風はどうであつたろう。天びん棒が荷車にかわつたのは大正五【1916】年から七【1918】年にかけてといわれるが、荷車にかわつても明治の五十集屋【いさばや、仲買人】的気質はぬけていなかつた。金をもうけるという気はなかつた、とそのころの人はいつている。
賭博はこのころでもさかんにおこなわれていた。賭博の方法はジャンケンであつた。負けて金のなくなつた人は家を賭けたりした。市場に仕入れにいつて、今日は入荷がないとなると家にかえらずに何組かに別れて御開帳となつた。魚を買つても、今日のものはあまりもうからないというときには、荷をそつくり他人にゆずつてしまつて賭博をしたという。当時、北海道には札幌の一丁、函館のマルモ【㋲】という二大親分がいた。明治の末年ころ、無職のやくざ渡世はまかりならん、かならず職業につくことというきついお布令がでて、一丁派の身内たちのなかからも、かなりの水産物商がうまれたということであるが、後に劇場主となつた須貝富蔵が、やはり一丁派にいて魚屋になり、天びんをかついだのもころころである。
大正にはいつても、小売商の風俗はあまりかわつていない。入れ墨を彫つている者もおおく、街の中を盤台を担いで歩く姿はずいぶん粋なものであつた。もつとも荷車がで、リャカーがあらわれるようになると、とうぜんのようにかわつてゆくのであるが、遊び着といえば、袖のない筒つぽの着物に、肩に手拭いをかけるのが粋なものとして流行つた。」(註24)

以上に掲げた諸記録を見ると、近代初期の北海道には、め組の親分・辰五郎や、お馴染・一心太助のような人々が跋扈していたことになる。『暴れん坊将軍』の主要メンバーである辰五郎に投影されているモデルは、「を組」の頭で俠客の新門辰五郎だろう。そして、その直接の系譜下にあるのが、「日本勞働組」(1890年)の支援者の家根屋弥吉、新場小安である。「亞細亞勞働協會」(1892年)に参集した信栄富五郎こと早川富太郎、須戸橋こと増田藤三郎もまたその流れにあることは間違いない。

1893年6月22日の『北海道毎日新聞』によれば「内地府県から渡来した移住者は、土地を得るに由なく、おもに当区および小樽の地に身を寄せて、日雇となりあるいは土工夫となりて生活」(註25)していたという。そして「漁業の盛なるや彼の無頼の徒固より生命の尊きを思ふ者にあらずして之に伍することを好み工事の有るや、腕力を以て生活の資を得んと欲するもの相率ひて以て之に加はることを願ふ、茲に於て彼等業があれば即ち漁夫たり【17字傍点】、土方たり【4字傍点】、日傭取たり【5字傍点】、抗夫たり而して業なければ即ち博徒たるなり【20字傍点】、本道に博徒の多き所以また怪しむに足らず」(註26)、『北海道警察史』によれば、「明治三十年代の北海道は、博徒の全盛時代だと言っても過言ではなかった。」「札幌には一丁一家、函館には㋲一家が根城をもち、またこれらの分派が全道各地に勢力を張って横行し、縄張りあるいは賭博にからむ争いから、血なまぐさい事件の絶え間がなかったのである。」(註27)そして、「㋲派が主として沿岸地方を縄張地とし漁夫を相手に勢力を拡大したのに対し、一丁派は札幌を中心とする内陸部、特に炭山地帯を縄張地とし土工・抗夫を相手に賭博を敢行した」(註28)という状況だった。

㋲一家の森田常吉は、嘉永5年1月15日(1852年2月4日)、千葉県東葛飾郡船橋五日市の仕事師・森田銀蔵と函館区新川町の博徒・植田十兵衛の娘・植田き里の2男として生れ(註29)、「幼にして鄉里を出て大志を抱いて函館に居を構え爾来豪俠を以って多くの子分を養ひ」、「丸モ【㋲】の大親分として一道一府六縣及び樺太に至るまでその俠名を馳せた」。(註30)
より確実な情報である1910年の「予審決定終結理由書」によれば、「被告森田常吉は、千葉県下船橋に生まれ、幼少より賭博に耽けりて生業に就かず、性機智に富み胆力あり、十九歳の時道路開鑿工事の土工となりて木谷某に雇はれ渡道するや、被告が精力絶倫、機略縦横、勇敢克く事を処し、衆を服するの器ありしより、忽ち擢(ひきあ)げられて工夫の千人の長となるや、勢力頓に加はり多数の土工は唯々其の命を奉ずるに至れり。而して被告は、一面工夫社会唯一の娯楽機関となれる賭博に長ぜしのみならず、事に該(あた)りて勇猛にして常に他を屈服せずんば措ず、屢々死生の巷に入りたるため身に数創を蒙むるに至り、声望一時に揚り遠近風を慕ふて之に随従するの無頼漢相踵で加はりしより明治十四、五年頃に至り土工の業を捨てて丸茂一家と称する博徒団体を組織し、被告自ら其の頭領となり、其の配下を御するや、恩威並に行ない操縦頗ぶる巧妙を極めしより、之に仕ふる乾児の輩尽く被告のためには一死尚辞せざるに至れり、為に於てか眇たる一土工は一変して博徒の大親分となり」、「本道、樺太、東京、青森、宮城、山形、秋田、岩手の一府二庁六県下に跨り、数千の乾児を配置し之を自己の縄張地として管理せしめ、而して事偶々他の博徒との交渉に渉るや直ちに優越せる勢力を示して之に当り、威喝し脅迫し仍て之を屈従せしめ又は之を粉砕せずんば措かず、如此にして自家の勢力を増進し、一面その名誉、地位、利益を保全する唯一の方針となしたり。」(註31)

そして、「明治二十【1887】年頃から函館を根城として全国に二万余の乾分を有し」たという。(註32)さらに森田常吉は「沖仲仕の元締めをやっていたが、常時数十名の乾分をかかえて、羽振りをきかしていた。主として函館港で船の荷あげの采配を振るっていたが、時として土木工事への人夫供給にも手をかした。明治四十三年一月から三月にかけて当局の博徒一斉取締があり、森田一家は函館、小樽、その他でほとんど全員検挙された。一家は事実上、解散となったが㋩古川が真砂町で露店商の元締となったり、長万部、国縫、今金あたりにも、明治四十三年の検挙で散らされた㋲の代貸し連が住みついた。彼らは沖仲仕をしたり土木工事に手をかしたり、時にはあちらこちらの河川改修や、災害復旧に出張って生計をたてていた。大正に入ると、さすがバクチ打ちを表看板にすることは、はばかられるようになり、次第に土木請負業に変身していった。」(註33)

森田常吉『実録北海博徒伝』より

森田常吉『実録北海博徒伝』より

北海道へのヤクザの渡来は、「明治三【1870‐71】年、黒田清隆(一八四〇~一九〇〇)北海道開拓次官として北海道に渡るについて浅草の親分新門辰五郎に相談した。新門は子分本間鉄五郎に二十名の子分をつけてくれた。新門の紹介で鉄砲洲の角島伝蔵こと木村伝蔵親分にも頼む。角島は子分阿部権四郎に二十名の子分を付けてくれた。この本間鉄五郎と阿部権四郎は北海道で大親分となり、長老として争いこの仲人として重責を果した。」という伝が残る。(註34)伝説かもしれないが、ありそうな話ではある。

ただし『北海道人名辭書』に見える「本間鐵五郎」すなわち「鐵五郎は札幌の旗亭西宮の主人にして俠骨を以て顯はる江戶表日本橋濱町の產弘化元年四月【1844年】竹次郎の長男に生る人と爲り俠客肌にして少壯時代旣に江戶に於て其先妻と共に西門の鐵お妻の鐵と呼ばれて其名を知らしめき明治二十一【1888】年始めて函館に渡り翌年【1889年】札幌に來り小佐川トミと夫婦になり南四條西四丁目に料理店西の宮本店を開く其西の宮を稱せしは曾て江戶に住して西門の鐵と呼ばれしに因めるなり廿七【1894】年寺尾秀次郎と共に新見番を引受け遊園地に西の宮支店を設く三十一【1898】年狸小路に劇場共樂舘を建て其燒失するに及んで三十四【1901】年札幌座を建設して其等の經營に當れり近來本店を妻女トミに札幌座を養子山崎喜代太郎に任かせ自ら支店の經營に任じ支店庭園の手入を爲して樂めり蓋し其支店庭園の美は恐らく本道旗亭中第一なるべし三十九【1906】年劇場大黒座主若狹謙吉と發起して中島公園地に大迫將軍の銅像を建立せり依頼あれば金品を喜捨し貧困者を憐み今に俠骨稜々と鳴り逸話に富み年旣に古稀を越えて钁鑠たり」(註35)とある人物がそれであるとすれば、渡道の時期が違うため、やはり伝説は伝説にすぎないと見える。

しかし、「明治二年八月【1869年】、蝦夷地を北海道と改称し、先づ島【義勇】判官を派し、同地の開発経営に当らしめた。この時島判官は大工棟梁伊勢屋弥兵衛、稲田銀蔵二人を伴ひ赴任した。尚小樽の東郊張碓附近に居住せる元凾館大野の俠客福原亀吉をも招き工事を請負はしめ、着々経営を進めたと云ふ。」(註36)という情報が残る。これについては、1910年の中川源左衛門の談話でも語られている。

中川源左衛門(2代)は、天保9年(1838‐39年)阿波国三好郡白地村(徳島県池田町)田村栄之助の長男・田村市兵衛として生れる。江戸に出て深川木場材木商の買出方となり、また諸国をわたり歩く。(註37)その後、幕府小普請方請負人の中川伊兵衛(幼名・徳次郎、のちに初代源左衛門)の世話になる。
中川伊兵衛は、江戸生れで幼名徳次郎、屋号を伊勢屋といい(註38)、江戸浅草橋場町住・家持(註39)、河野常吉によれば、「幕府小普請方定小屋書役中川伊兵衞の養子となり、天保十四【1843-44】年家督を継ぎ、嘉永元【1848-49】年小普請方石工鍛冶御用達を勤む」という。(註40)何だか矛盾するようなので整理しておこう。「定小屋」は『職掌錄』に「定小屋辰之口にあり」とされ(註41)、小普請方書役は、禄高15苞(俵)、2人扶持であり(註42)、小普請方物書役と呼ばれる官職に準じたものであろう。一方の「小普請方請負人」についてであるが、鈴木解雄氏は、18世紀以降の幕府小普請方について「幕府に直属し、同時に町方職人を支配する半官半民的職人上層部を育成すると云う江戸幕府の政策は、実力的に強大になつた町大工棟梁を、小普請方と云う新らしく伸長した作事組織に直属させることで満足されたと見て差支えない」という。(註43)さらに請負人については、その身分所属を町方とするか、御作事奉行支配や小普請方支配とするかを裁定した複数通の文書が残り(註44)、中川伊兵衛もまた小普請方請負人で、町方人別を離れて小普請方支配に入って御家人になり、形式的な肩書「書役」を与えられたと見られる。経済的な富裕度を別に、コウゾウ・ヤマムラ(Kozo Yamamura、漢字名・山村耕造)が「marginal samurai(限界的な武士)」と名づけた最下層の武士身分に所属すると考えてよいだろう。(註45)そして、その「家督」が世襲されたのであろう。

五稜郭タワーから望む五稜郭-京浜にけ氏撮影-wikipediaによる

五稜郭タワーから望む五稜郭 京浜にけ氏撮影 wikipediaによる

中川伊兵衛は、小普請方鍛冶方石方請負人、いってみればゼネコンである。
「安政中【1855-60年】深川越中島築立工事を請負ひ故ありて謹慎を命ぜられ向島小梅村に閉居し四男傳藏十八歳にして家督し」「安政五【1858-59】年傳藏五稜郭建築工事を命ぜられしが年尚ほ若きを以て伊兵衞代りて箱館に赴」く。(註46)五稜郭内亀田御役所工事は入札によるコンペが行われ、「箱館奉行側は、万延元(1860)年までには設計書・仕様書等を作成し、それに要する費用を金1万2449両余(大工・木挽・諸職人足、材木・石類・畳・建具・諸色運送足代、損料共一式入用金)とはじきだした。」これに対し、「中川傳蔵代伊兵衛に相談したところ、彼は、「奥州若松、羽州能代、越後新潟辺ニ而、夫々其所之材木山伐出、荒増木取下拵之上、時宜ニ寄小屋組地置等迄いたし候上、箱館表江積廻し候得者、船積石数も相減候ニ付、運賃多分之減方相成、職人人足賃等も下直ニ付、右場所之内ニ而下拵致候義ニ候得者、前書御入用高之内、壱割余引方いたし、金壱万千弐百両を以一式請負可仕旨」と答えたため、箱館奉行は、渡りに船とばかりに、この伊兵衛の提言を受け入れ、同年12月、中川傳蔵に一手請負わせたいとの伺書を老中に提出したが、翌文久元(1861)年2月、老中は箱館奉行に対し、「都而伺之通可被取計」と指令した。」(注意:返り点省略)(註47)函館開港による建築ラッシュの中、現地産木材の高騰を回避するため、本土の木材生産現地で部材加工、すなわちプレカット・ノックダウン方式ないしプレファブリット方式を提案したことになる。当時における建設産業は現代のそれに近いことが分かる。

「箱館在留中同名の者あるを以て名を源左衛門と改む。文久元【1861-62】年羽州能代に於て用材を伐り下拵をなし之を箱館に廻漕し廳舎を郭内に建て元治元【1864-65】年落成す是より先傳藏は文久二年八月【1862年】二十四歳を以て江戸に死去し源左衞門箱館に於て專ら諸工事に從業す。明治元年十二月【1869年】東京に歸り剃髪す箱館の請負事業は肝煎山本猪之助大岡助右衛門をして擔當せしむ。」伝蔵の夭折後、初代源左衛門は田村市兵衛を養子に迎え明治2年4月12日に没する。
(註48)
「二年冬【1869-70年】開拓使は札幌本府の經營に着手し判官島義勇事を監し請負人伊勢屋彌兵衞・稲田銀藏・福原亀吉に命じ工事を請負はしむ。三年【1870年】島判官去り、判官岩村通俊之に代るに及び市兵衞を招きて諸工事を請負はしめ他の請負人職工等を統一せしめんとす。是に於て市兵衞は同年十二月【1871年】海路函館に至り養父の名を襲ぎて源左衞門と改め雇大工棟梁を命ぜらる。四年正月【1871年】札幌經營に付工事の手配を為すべきを命ぜられ、且つ先觸・名字帶刀を許さる。大岡助右衞門を割頭水原寅藏を山頭古川源次郎を土方頭古川寅吉を鍛冶頭と為す又山本倉吉を刑法係となして部下犯罪の事を掌らしめ其他技師・製圖師・職工等の各係に分つ。自ら古川源次郎を率ゐ東京及び奥羽に出張して職工土方等を募集す。割頭大岡助右衞門をして、函館及び青森秋田より募集せる大工・山子等二百七十一人を率ゐて先づ札幌に赴かしめ次に源左衞門は東京より募集せる大工木挽鳶等二百四十八人及び巖手縣黒澤尻より募集せる土方三百六十四人を率ゐ海路小樽に航し札幌に至る次に越後國間瀬に於て募集せる大工五十一人來着す三月四目迠に札幌に着するもの總数九百六十四人なり」。(註49)

「札幌本陣、開拓使仮本庁以下の官衙や官舎、周辺村落の入植農家支給住宅のほか、市中街路や銭函、篠路などへの街道開削など、この期の札幌開府にかかわるすべての建築、土木工事をその支配下に遂行した。また組内に刑法係をおいて職方人夫らの取締りにあたったり、明治五【1872】年の御用火事に際して消防組を組織するなど、札幌草創期社会の統治行政を代行した。開拓使後半期の請負工事では損失を重ね、特に手宮鉄道工事で再起不能の痛手をうけ、請負業を廃した。岩見沢、由仁に移ったがそこでも事業に失敗、明治三十一【1898】年以降札幌に住んだ。大正二【1913】年五月没。享年七十六歳であった。」(註50)

大岡助右衛門邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より

大岡助右衛門邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より

中川源左衛門によれば、中川組が来札する前、「私の来る前に伊勢弥五兵エ、松田銀蔵、関口藤四郎、福原亀吉等あり、島判官の下に働きたり。弥五兵エ、銀蔵は二年十一月二十一日函館を発し札幌に来れり。亀吉は島判官の来る前より銭函に居りたり。福原は私の配下にならず、別に人夫を募集せり。」という。(註51)そして1889年の資料『開拓使当時以来ノ土木請負業者取調書』によっても「明治四年札幌開始ノ請負人 中川源㔫衛門、大岡助右衛門、福原亀吉」とあり(註52)、確実な事実と考えられる。

さらに、「明治十二【1879】年、幌内炭山の採掘した石炭輸送を目的とした北海道最初の鉄道、手宮-札幌間の「幌内鉄道」建設に当り、福原と同様、函館の俠客末原某が、この工事に献身的努力をしたことが伝えられている。/末原は函館にかなりの勢力をもつ親分だったが、彼の男気が開拓使長官黒田清隆の耳に入り、某日黒田は末原を開拓使官邸に呼び寄せた。黒田は幌内鉄道の計画について打ちあけ、鉄道がいかに北海道の開拓に寄与し、ひいては日本の国防に重大な意義をもつかをじゅんじゅんと説き、「鉄道建設工事にたずさわることは、一見つまらぬ土方作業のようにも思われるが、実は国家社会に対する一大貢献であり、決して土掘り仕事として軽べつ【2字傍点】すべきものではない」と末原に協力を懇願した。/はじめ「お上の威光をかさに着て、人を土掘り人足扱いにしやがって」と、むかっ腹をたてていた末原も、次第に黒田の話にひき入れられ、やがてこれを了解した。そして「取るに足りない一介の町奴風情に、開拓使長官ともあろうお方が、よくもまあ何のへだてもなく、心のうちを打ちあけて相談してくださった」といたく感激し、快諾した。/末原はさっそく函館にとって返し、配下を集める一方、檄をとばして俠客仲間の応援加勢を求め、新たに人夫を募集して大挙工事現場に乗り込んだ。」とする記録もある。(註53)北海道の植民地官僚と博徒俠客の結びつきは事実だったのだろう。

「其【明治四年】以前に於ましては木材の事は受負人に委してあつた者です此れを三棟梁と申しまして第一が福原龜吉次か中川源右衛門次が大岡助右衛門でした此三人が凡て山林の監視から支配を致す事を命せられたので其れ故一般人民から伐木を開拓使へ願ひ出てますと直に其書類は此三棟梁の方へ廻るので三棟梁は其許否を决定して初めて人民に許否さられるのである故に丸札の黒印したものにあらざれば山出しする事が出來ぬ是れを命せられたのか明治三年のことでした是れから明治三年へ掛けて伐木は非常に盛んなものでして豊平から月寒(つきさつぷ)へ掛け三の村邊の木を伐りましたか三年には百万石餘を伐つたと云ふ事です」(註54)

いずれにせよ、明治初年の植民者は、開拓使の親分に埴生の宿たる草小屋を焼かれ、今回の大火では住居を失っている。近代的プロレタリアートではないが、無産者の群れが当時の北海道に存在したことは間違いない。それがカール・マルクス(Karl Heinrich Marx)やフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels)が嫌悪したルンペンプロレタリアートであったとしても、それは決して彼らの罪ではない。そして特徴的なのは、彼ら労働者の仕事請負や労働編成が親分‐子分という擬制的家族関係の紐帯で結ばれていたことである。これは、お友だち(兄弟分)である森友学園や加計学園の名で行なわれている(いた)公共事業と全くかわりがないことに「一点の曇りもない」。

「Unter dem Vorwande, eine Wohltätigkeitsgesellschaft zu stiften, war das Pariser Lumpenproletariat in geheime Sektionen organisiert worden, jede Sektion von einem bonapartistischen Agenten geleitet, an der Spitze ein bonapartistischer General. Neben zerrütteten Roués mit zweideutigen Subsistenzmitteln und von zweideutiger Herkunft, neben verkommenen und abenteuernden Ablegern der Bourgeoisie Vagabunden, entlassene Soldaten, entlassene Zuchthaussträflinge, entlaufene Galeerensklaven, Gauner, Gaukler, Lazzaroni, Taschendiebe, Taschenspieler, Spieler, Maquereaus , Bordellhalter, Lastträger, Literaten, Orgeldreher, Lumpensammler, Scherenschleifer, Kesselflicker, Bettler, kurz, die ganze unbestimmte, aufgelöste, hin- und hergeworfene Masse, die die Franzosen la bohème nennen; mit diesem ihm verwandten Elemente bildete Bonaparte den Stock der Gesellschaft vom 10.」(註55)

(日本語訳)
「慈善協会を設立するという口実で、パリのルンペンプロレタリアートが秘密部門に組織され、各部門はボナパルトのスパイに指揮され、全体の頂点にはボナパルト派の将軍[ピア]がいた。いかがわしい生計手段をもつ、いかがわしい素性の落ちぶれた貴族の放蕩児と並んで、身を持ち崩した冒険家的なブルジョアジーの息子と並んで、浮浪者、除隊した兵士、出獄した懲役囚、脱走したガレー船奴隷、詐欺師、ペテン師、ラッツァローニ、すり、手品師、賭博師、女衒、売春宿経営者、荷物運搬人、日雇い労働者、手回しオルガン弾き、くず屋、刃物研ぎ師、鋳掛け屋、乞食、要するに、はっきりしない、混乱した、ほうり出された大衆、つまりフランス人がボエーム[ボヘミアン]と呼ぶ大衆がいた。自分とは親類のこういう構成分子でもって、ボナパルトは十二月一〇日会の元手を作った。」(註56)

Karl-Marx(1875)-John-Jabez-Edwin-Mayal撮影-wikipediaによる

Karl Marx(1875) John Jabez Edwin Mayal撮影 wikipediaによる

よくもまあ、これだけ差別意識むきだしの用語を並べたてたものだ。ただし、いささかヒステリックなカール・マルクスのおかげでこうした都市住民がヨーロッパにいたことが分かるのだが。しかし、彼のお鉢をかつぐ「正統」な「共産主義」者または「マルクス主義」者が、聖マルクスの託宣によりこれらの人々を自分たちから最も遠いものとして取り扱うことになってしまったことは間違いない。なお、伝統的に「女衒」と翻訳されるフランス語由来のドイツ語(ジャルゴン)「Maquereaus」(再版以降は「Zuhälter」)は、意味学的には「ポン引き」がより正しい訳語である。閑話休題。

「北海道勞働組」を結成した1892年の助川貞二郎の演説会を、一覧で見ていただこう。その前に、助川貞二郎が1892年10月に茨城県北条町にいたことが分かっている。それを証明する自由党の『黨報』を見ておこう。

「   ⦿茨城縣北條町の演説會
茨城縣北條町の有志諸氏は、去月【1892年9月】卅日水戸大會の翌日(即十月一日)仝町寶安寺に於て政談大演説會を開らきたり。辨士濱名信平、山田東次、工藤行幹、江口三省、中野寅次郎、溝口市次郎、江原素六の諸氏は、順次登壇して熱心に痛快に其の所見を演説せしかば、一千五百餘名の聽衆は皆な非常に感動したり。演説會を終り、引き續き仝寺に懇親會を開く、會するもの三百餘名、助川貞次郎氏開會の主旨を述べ、江原素六氏一行に代りて其の謝辭を述べ、酒間腦胸を開らきて快談時を移し、謳歌、長吟、月を蹈んで歸りしは將に午後十時ならんとするの時なりし」(註57)

「    ○茨城縣下に於て
北相馬、筑波兩郡の自由黨員は、去る【1892年10月】十一日東京より辨士を招待して北相馬郡山王村金仙寺に政談演説會を開けり。聽衆二千餘名非常の盛會にて正午開会會し、先づ岡田末之助氏開會の辭を述へ、次に助川貞次郎(內閣責任)中野寅次郎(政府と農民の關係)石塚重平(政黨の變遷)工藤行幹(民力休養)山田東次(吾黨と實業の關係)溝口市次郎(憲法政治と地方自治)山田泰造(國民協會に就て)の諸氏順次登壇喝采洶湧の間に各自の持論を演説し。畢て同寺に懇親會を開き、雨中來會する者三百五十名に及び、賓主歡を罄して散會せり。同地は從來政談演説等の催なかりし處なりとの事なるが、發起人諸氏の盡力に依りて今回の如き盛會を見るに至りしは、我黨の爲めに頗る祝すべき所なり。」(註58)

1892年 2月12日  龍ケ崎・大統寺    政談演説会
    10月 1日  北条町・宝安寺    懇親会開会の主旨
    10月11日  山王村・金仙寺    内閣責任
    11月12日  小樽・住吉座     総選挙の結果(奸商高利貸撲滅政談大演説会)
    11月13日  札幌・豊陽館     奸商高利貸の弊害
    11月14日  札幌・豊陽館     奸商高利貸と認める者19人を指名・討論演説
1893年 2月27,28日 札幌・大黒座     政府と帝国議会の現状/当区消防夫と総代人と北門新報社に一言す(註59)

高利貸撲滅政談大演説會広告『北海道間日新聞』1892年11月12日

高利貸撲滅政談大演説會広告『北海道間日新聞』1892年11月12日

この表のうち、奸商高利貸撲滅政談演説会は小樽、札幌で開催され、多数の聴衆を集めている。

「⦿奸 商
  高利貸撲滅政談大演説會
⦿來十二日午
 后六時ヨリ小樽山ノ上町住吉座
⦿來十三
  十四兩日午
  后六時ヨリ札幌狸小路豊陽舘
 出席 助川貞二郎君
 辨士 武藤 金吉君
近年我が北海道特に札幌小樽間は惡む可き奸商の跋扈と酷薄慘忍なる高利貸の蹂躙する所となれり可憐なる細民今や悲憤に沈淪して飢に泣く此際一刀兩斷の下に彼を天誅するは之れ吾人の責任ならん故に茲に公會を開き輿論に訴ふ來聽あれ來聽あれ」(註60)
「○住吉座の政談演説  一昨々十二日午後七時より小樽山の上町住吉座に於て奸商高利貸撲滅演説會を開けり傍聽僅に百名たらず軈て辨士武藤金吉氏演壇に現はれ汝奸商高利貸首を洗つて斷頭台に來れと云へる演題に就きて演了し次に辨士助川貞二郎總選擧の結果と云ふ題にて內閣に就き云々するや臨監警部より停止を命せられ夫より武藤氏再び登壇し小樽港制論を辨じ散會したりと」(註61)

「○高利貸奸商退治の政治演説會  は一昨十三日夜狸小路豊陽舘に於て開會したるが聽衆は無慮三百余名あり辨士助川貞二郎、武藤金吉の兩氏交る交る奸商、高利貸の弊害を痛論駁擊し大に聽衆の喝采を博せり而して中頃に於て札樽間の奸商高利貸其他公益を害する奸物の無記名投票紙に運動要旨を記せる印刷物を添へて聽衆に交附したり其要旨は一札幌大火後地賃を騰貴したる者地主に對し出火以前の引下をなさしむる事、高利商に對し(雪中)來四月まで貸借金を制限利子になさしむる事、高利商に對し貸借上より起る訴訟の惡弊を矯正する事、一御用工事と工事請負に對し不義不得を責むる事、一奸商高利貸の爲め苦めらるヽ良民には無報酬にて救援をなす事【、】一諸職工、及ひ日雇人、薄資實業者を壓制虐待する者に對し彈劾運動をなす事、北海道藝娼妓賦金廢止を期する事等にして投票の結果は之を公にし且退治する迄は飽まで盡力する方針なりといふ」(註62)

北海道で開催された助川貞二郎の政談演説会のほとんどが、雪に閉ざされる冬の季節に行なわれている。このことは、農業が一段落し、経済活動が低調になるこの時期に、演説会がお楽しみ会の性格を帯びて、一種の娯楽として提供されていた可能性を示唆する。これは、19世紀のアメリカ合衆国における講演会の状況(註63)とも共通するように思える。

1894年1月9日   札幌・東京庵     茨城縣人大懇親會
    5月26日  札幌・金沢座     金玉均殺害事件/第六議会党派/内閣諸大臣の責任/北海道問題
    6月 3日  札幌・金沢座     不明(註64)

1894年1月9日、助川貞二郎を中心に札幌、小樽在住の茨城県人会が開催されている。『新北門』紙に載った記事と広告を掲げる

「●茨城縣人大懇親會【8字傍点】 札幌在住茨城縣人諸氏は同縣人と厚誼を厚ふせん爲明 九日を以て 札幌東京庵に於て大懇親會を催ふさんとて加藤重任、田中重兵衛、添田弼、中村甚五兵衛、小泉正保、宮田銀次郎、助川貞二郎の諸氏は奔走斡旋し居(おれ)りといふ。」(註65)

「在札幌小樽茨城縣人大懇親會
在札幌小樽茨城縣人の厚誼を厚ふせん爲の來る九日午後一時を期し札幌東京庵に於て大懇親會を開會仕候間万障繰合せ御出席あらん事を希望す
御出席の御方は八日迄に最寄り發起人乃□へ御申込み被下度且つ□□乃□は金壹圓當日御拂度の事
   發起人(いろは順)
加藤 重任 田中 重□衛
添田  弼 中村甚五兵衛
小泉 正保 助川 貞二郎」(□は判読不明文字)(註66)

「謹賀新年
    北民倶樂部 助川貞二郎」(註67)

助川貞次郎『札幌之人』国会図書館蔵より

助川貞次郎『札幌之人』国会図書館蔵より

その後、助川貞二郎は東京に赴く。帰札は5月20日であり、その旨が「北民倶樂部」名で『北海道毎日新聞』に広告として掲載されている。

「   歸  札  廣  告
部長助川貞二郎義上京中ノ所昨二十日歸札候ニ付此段辱知諸君ニ報告ス
 明治二十七年
 五月二十一日  北 民 倶 樂 部」(註68)

したがって、5月26日と6月3日の両日は、第6回帝国議会の開会を見届けての報告演説会が開催されたことになる。「北民倶樂部」は、『北海道會議員評傳』によれば「勞働者保護の目的を以て曾て北民倶樂部を組織せしが時未だ協はずして解散しぬ」という組織であり(註69)、「北海道勞働組」の結成と軌を一にしたものと考えられる。

そして、どの時点の帰郷のことかは不明だが、郷里において「熱心北海道開拓の急務を説き團體移住の勸説に努めしが鄉黨の顧る所とならず。單身鄉を辭して」の帰札となり(註70)、今度は農地開拓に精力を注ぐ。郷党あげての集団移住は、農商務省によっても「移住者ハ成るへく一村落をもな寿へき程の人を團結して渡航寿るを必用と寿其故ハ未た人煙稀少隨て運輸甚不便理奈るの地奈れハ需用品の購入れ農產物の賣捌き倶尓其物品の多額にあらされハ商人も入込ま寿且前尓も陳る如く密林巨木を伐除きて開墾寿る尓も多人數能恊力を要し又彼地にてハ牛馬を野飼に寿るの慣習奈れハ之れか植物を荒ら寿を防き猛獸能妨害を除く等有形の事物にして人衆の團結を要寿る斯の如きのみ奈ら寿猶且無形の事物尓就ても人煙稠けれハ異鄉の憂さをも忘れ同縣人多けれハ徳義上よりも亷耻上よりも倶に事業を助くるも能多けれは奈り」(註71)と奨励された事項であった。
いずれにせよ、郷里の集団移住がかなわなかった助川貞二郎は、北海道の人脈による開墾事業に着手する。最も力になった人物は高瀬和三郎と推定されている。

「明治三十一【1898】年中地を夕張郡角田村に相し、同志二三と水利灌漑の途を講じ夕張川沿岸三里に亘りて水田を開發せり投ずる所の資金實に十五萬圓米質優秀產額亦豐富にして全道唯一の模範田と稱せらる。」(註72)助川貞二郎は「明治三十一【1898】年中地を夕張郡角田村に相し、同志二三と水利灌漑の途を講じ夕張川沿岸三里に亘りて水田を開發せり投ずる所の資金實に十五萬圓米質優良亦産額亦豐富にして全道唯一の模範田と稱せらる。」(註73)

1903年の記事では「主力を開墾の上に注き上川郡東川村、雨龍郡新十津川村、夕張郡角田村、空知郡奈井江村同新篠津村、等地味肥沃にして農場に適するの場所を撰み成墾二百四十步の多きを致せり」とある。(註74)その10年後には「此他夕張空知樺戶勇拂の各郡に有する開墾地一千五百餘町步其產額決して鮮少なりとせず。」ともいう。(註75)それらの地の歴史書には助川貞二郎のことはほとんど登場しないが、『栗山町史』に小林米三郎が「開村当初からこの地に開耕を企てた元札幌の助川貞次郎の所有していたもの22町余段」を1929年に買収したことが記載される。(註76)1913年、「茨城縣人共和會」発行の『在北海道茨城縣人寫眞帳』によれば「其他木材の輸出に銀行會社の投資に各種事業の新企畵に直接間接に君の努力に俟つ者多く、最近札幌市街軌道株式會社を起し前途の發展を期待せらる。」とある。(註77)

しかし、経済活動だけに邁進したのではなく、助川貞二郎の政治行動はやむことはない。札幌では「自由黨の系統を離れたることなく今現に道會議員の任を帶び尚ほ札幌區會議員を兼」(註78)ねる活動を行ない、1894年には、加波山事件の入獄者「河野廣躰、玉水嘉一、五十川元吉、天野市太郎、草野佐久馬、小林篤太郎」の出獄を出迎え(註79)、翌1895年には、群馬事件の「宮部襄、深井卓爾、岩井丑五郎」の出獄を迎えている。(註80)

 


 

註1 金子郡平 高野隆之「笠原文司(かさはらぶんじ)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註2 札幌消防沿革誌編纂委員会編纂「十 悪夢の年・二五年―大火と消防組事件―」『札幌消防百年の歩み』札幌消防局長 髙松髙雄 1971
註3 河野常吉「たかせ‐わさぶらう 高瀬和三郎」『北海道史附録人名字彙原稿 甲四 自たノ部 至とノ部』北海道史編纂掛旧蔵 北海道庁寄託 国立大学法人北海道大学附属図書館蔵、活字本『北海道史人名字彙 下』北海道出版企画センター 1979、引用は原稿原文による
註4 金子郡平 高野隆之「高瀬和三郎(たかせわさぶろう)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註5 中西哲男「第4章 人物編 高瀬和三郎」札幌市教育委員会編『開拓使時代』さっぽろ文庫50 札幌市 1989
註6 「●札幌昔話(續)▲高瀬和三郎談の續き」『北海道毎日新聞』1898年7月5日2面
註7 金子郡平 高野隆之「高瀬和三郎(たかせわさぶろう)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註8 中西哲男「第4章 人物編 高瀬和三郎」札幌市教育委員会編『開拓使時代』さっぽろ文庫50 札幌市 1989
註9 河野常吉「たかせ‐わさぶらう 高瀬和三郎」『北海道史附録人名字彙原稿 甲四 自たノ部 至とノ部』北海道史編纂掛旧蔵 北海道庁寄託 国立大学法人北海道大学附属図書館蔵、活字本『北海道史人名字彙 下』北海道出版企画センター 1979、引用は原稿原文による
註10 金子郡平 高野隆之「高瀬和三郎(たかせわさぶろう)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註11 吉田南總(重貞)「◎岩崎粂三郎氏 札幌區」『北海人物評論 苐壹編』北海人物評論社 1901
註12 金子郡平 高野隆之「岩崎粂三郎(いはさきくめさぶろう)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註13 吉田南總(重貞)「◎伊藤辰造氏」『北海人物評論 苐壹編』北海人物評論社 1901
註14 金子郡平 高野隆之「伊藤辰造(いとうたつぞう)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註15 「創成社設立委任状」1880年5月15日「出版及新聞紙等ニ関スル書類」1880年 記録係 札幌道立文書館所蔵 文書番号3798、永井英夫責任編集『北海道民権史料集』北海道大学図書刊行会 1986による
註16 「○札幌昔話(五十六)深谷鐵三郎氏の談(四十六)」『北海道毎日新聞』1898年10月23日2面
註17 「第五編 廳治時代 第二章 過渡時代 第三節 大火、衰微、消防夫暴擧」『札幌區史』札幌區役所1911
註18 北海道警察史編集委員会編「第三章 北海道庁時代(明治期) 第四節 騒擾事件と博徒抗争事件 第二 札幌消防組の北門新報社襲撃事件」『北海道警察史(一)明治・大正編』北海道警察本部 1968
註19 文野方佳「研究余録 助川貞二郎小伝(上)」札幌市教育委員会文化資料室編集『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第27号 札幌市 1994年8月25日
註20 「金子元三郎口述」『小樽市史 第二巻』小樽市 1963所収
註21 「第五編 廳治時代 第二章 過渡時代 第三節 大火、衰微、消防夫暴擧」『札幌區史』札幌區役所1911
註22 札幌消防沿革誌編纂委員会編纂「第二章 区立自衛消防組時代 十 悪夢の年・二五年―大火と消防組事件―」『札幌消防百年の歩み』札幌消防局長 髙松髙雄 1971
註23 「第三編 開拓使時代 第三章 黒田長官時代 第七節 御用火事」『札幌區史』札幌區役所 1911
註24 富永武男編「第十六章 大正期の水産物商」『札幌水産物商九十五年』札幌水産物商九十五年刊行会 1960
註25 『北海道毎日新聞』1893年6月22日、札幌市消防沿革誌編纂委員会編纂『札幌消防百年の歩み』札幌市消防局 1971による、原紙は散佚しているため、日付誤りと思われる
註26 「社説 博徒の横行」『北海タイムス』1902年2月20日1面
註27 北海道警察史編集委員会編「第三章 北海道庁時代(明治期) 第四節 騒擾事件と博徒抗争事件 第三 博徒の親分暗殺事件」『北海道警察史(一)明治・大正編』北海道警察本部 1968
註28 北海道警察史編集委員会編「第三章 北海道庁時代(明治期) 第三節 拓殖の進展と警察活動 第二 博徒の横行とその取締り」『北海道警察史(一)明治・大正編』北海道警察本部 1968
註29 大西雄三「㋲森田一家の創設」『実録北海博徒伝 ㋲森田常吉聞書』みやま書房 1980、また、藤田五郎「時代編 明治 やくざの“メッカ”北海道」藤田五郎編『公安百年史 暴力追放の足跡』公安問題研究協会 1978によれば植田きれは義母、森田常吉は「植田」の別姓でしばしば名乗り、2男常蔵には植田常蔵を名乗らせたという(森田美千代談)
註30 「俠名全國に響く丸茂の親分 昨日午後遂に永眠」『函館新聞』1935年3月16日夕刊2面
註31 函館警察署「予審決定終結理由書」(1910年3月13日博徒結合罪事件)、北海道警察史編集委員会編「第三章 北海道庁時代(明治期) 第三節 拓殖の進展と警察活動 第二 博徒の横行とその取締り」『北海道警察史(一)明治・大正編』北海道警察本部 1968
註32 「丸茂の親分逝く 任俠を謳われた生涯」『讀賣新聞』1935年3月17日、大西雄三「森田常吉の死」『実録北海博徒伝 ㋲森田常吉聞書』みやま書房 1980による
註33 山崎英雄「三、大正時代 (八)函館土木建築組合の誕生 初代組合長は竹内新太郎」『道南の槌音 函館建設業界史』社団法人函館建設業協会 1982、函館市史編さん室編「第四編 箱館から近代都市函館へ 第五章 近代港湾の生成と陸上交通の整備 第二節 港湾運送業の確立 二 ステベの興隆」『函館市史 通説編第2巻』函館市発行 函館古書籍組合発売 1990
註34 藤田五郎「全国一家の系譜 北海道札幌市の大葬儀」『公安大要覧』笠原出版社 1983、藤田五郎「時代編 明治 やくざの“メッカ”北海道」藤田五郎編『公安百年史 暴力追放の足跡』公安問題研究協会 1978にリライトされた物語が載る
註35 金子郡平 高野隆之「本間鐵五郎(ほんまてつごらう)」『第二版 北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註36 「第一四 北海道請負業発達の端緒」『日本鉄道請負史 明治篇』社団法人鉄道建設協会 1967による、山崎英雄「二、明治時代 (三)明治初年の請負業 生みの親は鉄道工事」『道南の槌音 函館建設業界史』社団法人函館建設業協会 1982、函館市史編さん室編「第四編 箱館から近代都市函館へ 第五章 近代港湾の生成と陸上交通の整備 第五節 函樽鉄道 三 着工から開通まで」『函館市史 通説編第2巻』函館市発行 函館古書籍組合発売 1990にも引用がある
註37 河野常吉「なかがは‐げんざゑもん 中川源左衞門」『北海道史附録人名字彙原稿 甲五 自な部 至ま部』北海道史編纂掛旧蔵 北海道庁寄託 国立大学法人北海道大学附属図書館蔵、活字本『北海道史人名字彙 下』北海道出版企画センター 1979、引用は原稿原文による、越野武「第4章 人物編 中川源左衛門」札幌市教育委員会編『開拓使時代』さっぽろ文庫50 札幌市 1989
註38 河野常吉「なかがは‐いへゑ 中川伊兵衞(源左衞門)」『北海道史附録人名字彙原稿 甲五 自な部 至ま部』北海道史編纂掛旧蔵 北海道庁寄託 国立大学法人北海道大学附属図書館蔵、活字本『北海道史人名字彙 下』北海道出版企画センター 1979、引用は原稿原文による
註39 函館市史編さん室編「第四編 箱館から近代都市函館へ 序章 世界の中の箱館開港 第二節 箱館奉行の再置と箱館 二 五稜郭と弁天台場の築造」『函館市史 通説編第2巻』函館市発行 函館古書籍組合発売 1990
註40 河野常吉「なかがは‐いへゑ 中川伊兵衞(源左衞門)」『北海道史附録人名字彙原稿 甲五 自な部 至ま部』北海道史編纂掛旧蔵 北海道庁寄託 国立大学法人北海道大学附属図書館蔵、活字本『北海道史人名字彙 下』北海道出版企画センター 1979、引用は原稿原文による
註41 『職掌錄』、近藤瓶城編輯『改定史籍集覧 第二十七冊 雜部一』近藤出版部 1902、1907再版による、古事類苑編纂事務所編修「古事類苑 官位部六十 小普請奉行」『古事類苑 官位部十九』神宮司廳 1905
註42 鈴木解雄「江戸幕府小普請方について」『日本建築学会論文報告集』第60号 日本建築学会 1958年10月
註43 鈴木解雄「江戸幕府小普請方について」『日本建築学会論文報告集』第60号 日本建築学会 1958年10月
註44 「深川大和町家持惣七名分ノ儀ニ付小普請奉行ゟ掛合」嘉永2年閏4月14日(1849年6月4日)裁定『市中取締類集 身分扱方之部 二』旧幕引継書、東京都編「東京市史稿 産業篇第五十七 各記第三 東京市産業史第五十七 第一章 前期 第六節 覇都時代(五十六)自弘化二年九月 至嘉永二年」『東京市史稿 産業篇 第五十七』東京都 2016に「御用請負人小普請方支配編入是非問合」として所収、「嘉永三戌年二月 神田関口町家持俵四郎儀町方人別相離御作事奉行支配申付町方差支有無掛合調」嘉永3年4月4日(1850年5月15日)裁定『市中取締類集 身分取扱祭礼之部 三』旧幕引継書、東京都編「東京市史稿 産業篇第五十八 各記第三 東京市産業史第五十八 第一章 前期 第六節 覇都時代(五十七)自嘉永三年正月 至嘉永七年六月」『東京市史稿 産業篇 第五十八』東京都 2017に「本途請負人棟梁並松本俵四郎身分取扱方」として所収
註45 Kozo Yamamura, 6 The Houseman and the Daimyo Reteiner, “A Study of Samurai Income and Entrepreneurship; Quantitative Analyses of Economic and Social Aspects of the Samurai in Tokugawa and Meiji Japan,” Harvard East Asian Series 76, Harvard University Press, 1974、新保博 神木哲男監訳「第六章 御家人と大名の家臣」『日本経済史の新しい方法 徳川・明治初期の数量分析』ミネルヴァ書房 1976
註46 河野常吉「なかがは‐いへゑ 中川伊兵衞(源左衞門)」『北海道史附録人名字彙原稿 甲五 自な部 至ま部』北海道史編纂掛旧蔵 北海道庁寄託 国立大学法人北海道大学附属図書館蔵、活字本『北海道史人名字彙 下』北海道出版企画センター 1979、引用は原稿原文による
註47 函館市史編さん室編「第四編 箱館から近代都市函館へ 序章 世界の中の箱館開港 第二節 箱館奉行の再置と箱館 二 五稜郭と弁天台場の築造」『函館市史 通説編第2巻』函館市発行 函館古書籍組合発売 1990
註48 河野常吉「なかがは‐いへゑ 中川伊兵衞(源左衞門)」『北海道史附録人名字彙原稿 甲五 自な部 至ま部』北海道史編纂掛旧蔵 北海道庁寄託 国立大学法人北海道大学附属図書館蔵、活字本『北海道史人名字彙 下』北海道出版企画センター 1979、引用は原稿原文による
註49 河野常吉「なかがは‐げんざゑもん 中川源左衞門」『北海道史附録人名字彙原稿 甲五 自な部 至ま部』北海道史編纂掛旧蔵 北海道庁寄託 国立大学法人北海道大学附属図書館蔵、活字本『北海道史人名字彙 下』北海道出版企画センター 1979、引用は原稿原文による
註50 越野武「第4章 人物編 中川源左衛門」札幌市教育委員会編『開拓使時代』さっぽろ文庫50 札幌市 1989
註51 「中川源左衛門談 明治四十三年十月 七十三才」、河野常吉『札幌昔日譚』北海道郷土資料㐧二 北海道郷土資料研究会復刻 1959所収
註52 大岡助右衛門 代理 宮田市弥、篠原嘉㔫衛門、小宮与吉、藤井良蔵、佐藤甚之介『開拓使当時以来ノ土木請負業者取調書』1889年3月、浅羽靖旧蔵、北海学園大学中央図書館北駕文庫蔵、遠藤明久「23. 『開拓使当時以来ノ土木請負業者取調書』について」『第29回研究発表会論文集』日本建築学会北海道支部 1967年8月26日による
註53 山崎英雄「二、明治時代 三 明治初年の請負業 生みの親は鉄道工事」『道南の槌音 函館建設業界史』社団法人函館建設業協会 1982、函館市史編さん室編「第四編 箱館から近代都市函館へ 第五章 近代港湾の生成と陸上交通の整備 第五節 函樽鉄道 三 着工から開通まで」『函館市史 通説編第2巻』函館市発行 函館古書籍組合発売 1990に部分引用
註54 「○札幌昔話(三十三)△深谷鐵三郎氏の談(二十三)」『北海道毎日新聞』1898年8月31日1面
註55 Der achtzehnte Brumaire des Louis Bonaparte, MEW Bd. 8, S. 111–207., Stimmen der proletarischen Revolution – Mlwerke, Bibliothek der revolutionären Bewegungen unserer Zeit, Reden – Schriften – Briefe – Wissenschaftliche Studien, gegründet im vorigen Jahrhundert als: »Klassiker des Marxismus-Leninismus« サイトによる、内は初出以降の異同文字
註56 カール・マルクス著 植村邦彦訳『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日[底本:初版本]』太田出版 1996
註57 「黨報 ⦿茨城縣北條町の演説會」『黨報』第貳拾貳號 自由黨黨報局 1892年10月10日31面
註58 「黨報 ⦿演説及び懇親會 ○茨城縣下に於て」『黨報』第貳拾參號 自由黨黨報局 1892年10月25日20面
註59 「○撰挙余聞彙報 停止……解散」『いはらき』1892年2月16日、「黨報 ⦿茨城縣北條町の演説會」『黨報』第貳拾貳號 自由黨黨報局 1892年10月10日31面、「黨報 ⦿演説及び懇親會 ○茨城縣下に於て」『黨報』第貳拾參號 自由黨黨報局 1892年10月25日20面、文野方佳「研究余録 助川貞二郎小伝(上)」札幌市教育委員会文化資料室編集『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第27号 札幌市 1994年8月25日
註60 広告『北海道毎日新聞』1892年11月12日4面、1892年11月13日4面にもほぼ同一の広告が載る
註61 「○住吉座の政談演説」『北海道毎日新聞』1892年11月15日2面註124 「○住吉座の政談演説」『北海道毎日新聞』1892年11月15日2面
註62 「○高利貸奸商退治の政治演説會」『北海道毎日新聞』1892年11月15日2面
註63 亀井俊介「さすらいの教師たち ★にぎやかな講演運動」『サーカスが来た!★アメリカ大衆文化覚書★』東京大学出版会 1976
註64 「●茨城縣人大懇親會【8字傍点】」『新北門』1894年1月8日6面、「在札幌小樽茨城縣人大懇親會」広告『新北門』1894年1月8日6面、いずれも東京大学明治新聞雑誌文庫蔵、文野方佳「研究余録 助川貞二郎小伝(上)」札幌市教育委員会文化資料室編集『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第27号 札幌市 1994年8月25日
註65 「●茨城縣人大懇親會【8字傍点】」『新北門』1894年1月8日6面、東京大学明治新聞雑誌文庫蔵
註66 「在札幌小樽茨城縣人大懇親會」広告『新北門』1894年1月8日6面、東京大学明治新聞雑誌文庫蔵
註67 年賀広告『新北門』1894年1月8日3面、東京大学明治新聞雑誌文庫蔵
註68 北民倶樂部広告『北海道毎日新聞』1894年5月21日4面
註69 古谷周久「助川貞二郎君(空知支部管內撰出)」『北海道會議員評傳』寧靜舘發行 小𪉩自治堂 富貴堂 三才閣 白鳥書店賣捌 1902
註70 北海道圖書出版合資會社編輯局編纂(梶川梅太郎編輯)「助川貞二郎氏」『北海道立志編 第貮巻』北海道圖書出版合資會社 1903
註71 「北海道ヘ移住シテ就產セント企ツルモノハ左ノ事情ヲ斟酌折衷スヘキハ肝要ナリトス」農商務省令 號外 1883年4月25日『官令新誌』第五號 報告社發兌 1883年5月31日
註72 小澤久太郎編輯「助川貞二郎君」『在北海道茨城縣人寫眞帳』茨城縣人共和會 1913
註73 梶川梅太郎(扉には北海道圖書出版合資會社編輯局編纂)「助川貞二郎氏」『北海道立志編 第貮巻』北海道圖書出版合資會社 1903
註74 北海道圖書出版合資會社編輯局編纂(梶川梅太郎編輯)「助川貞二郎氏」『北海道立志編 第貮巻』北海道圖書出版合資會社 1903
註75 小澤久太郎編輯「助川貞二郎君」『在北海道茨城縣人寫眞帳』茨城縣人共和會 1913
註76 栗山町史編さん委員会編纂「開発編 第4章 栗山町の開発 2. 農場の発達 (3)農場の推移」『栗山町史』北海道栗山町役場 1971
註77 小澤久太郎編輯「助川貞二郎君」『在北海道茨城縣人寫眞帳』茨城縣人共和會 1913
註78 北海道圖書出版合資會社編輯局編纂(梶川梅太郎編輯)「助川貞二郎氏」『北海道立志編 第貮巻』北海道圖書出版合資會社 1903
註79 『自由黨黨報』第七拾參號 自由黨々報局 1894年11月30日
註80 『自由黨黨報』第八拾九號 自由黨々報局 1895年7月25日

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