今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

魯迅と日暮里(57)南波登発の「亞細亞」への視線(32)群馬のアウトローと伊藤痴遊の政治講談 The Outlows in Gumma and standup-comedy by Ito Chiyu

コメントする

助川貞二郎が出獄を出迎えた宮部襄(みやべ のぼる)(註1)とは、次のような人物である。

助川貞二郎『小樽新聞』1929年10月4日

助川貞二郎『小樽新聞』1929年10月4日


『日野澤村誌 第一輯』によれば、宮部襄は「高崎の人で昔は松平右京太夫の家来、夙く官途につき、明治七八【1874‐75】年頃は熊本県警察部長であつた。時に神風連の變亂起るをしりながら鎭撫することなく平然として東京へ歸つてしまつた。鎭台司令官種田少將、安岡県令が無慘の死を遂げたのも此の時であつた。/其後宮部は前橋師範学長になつた。其頃例の大前田英五郎が信州の大親分等を對手に、追分ケ原に於て大喧嘩が始まろうとした時、長野、群馬兩県の警察部の依頼を受けて此の事件の調停に奔走して無事に和解の手打をさせた。それから後校長の職を去り、国会開設の運動に參加したのである。自由黨の幹事となつてからは彼の盛名は関八州に鳴つた。」(註2)さらに升味準之輔の大著『日本政党史論』によれば、「高崎藩家老職の家柄で、廃藩置県のさいは高崎藩大監察となり、その後各地の県官を歴任し、一八七七年群馬県にもどり警察署長・師範学校長をした。校長のとき警察に頼まれて、上州博徒の大親分大前田英五郎と信州の大親分の暄嘩の仲裁をしたが、その和解の賭博を全国の大親分たちを集めてはなばなしく開帳し、そのテラ銭箱をどうとかしたというので、まわりがうるさく校長をやめた。」という。(註3)
しかし、よく調べると、いずれもの原本となったのは初代痴遊・伊藤仁太郎の『國會開設政黨秘話』と思われる。(註4)

ここで、ちょっとだけ寄り道して、初代伊藤痴遊の講談作品が歴史資料としての使用に耐えるかどうか検討したい。以下引用するのは、『國會開設政黨秘話』の一節である。

宮部㐮『群馬県史-通史編9』より

宮部㐮『群馬県史 通史編9』より

「宮部は、上州高崎の人、昔は松平右京太夫の家來で、夙(はや)く官途に就き、明治七八【1874‐75】年頃は、熊本縣の警察部長であつた。
時に神風連の變亂が起りかけて、風雲甚だ急になつた。古莊嘉門と深く交つて居たので、一夜(あるよ)ひそかに古莊が、此秘密を知らせてくれた。
職務の上からいへば、すぐ鎭撫にかゝるか、然らざれば逮捕に向ふ可きであるのに、宮部は、何を思ふてか、平然(すま)して東京へ歸つてしまつた。その後で、神風連の士族は、鎭臺へ斬込んで、大激戰をはじめたが、結果は、士族の負けとなつた。多く討死した。
けれども、種田少將や安岡縣令は、此時に無殘の死を遂げた。参謀の兒玉源太郎が、空濠の中にかくれて、一夜をすごしたのは、此時の事である。
その後ち、宮部は、前橋の師範學校長になつたが、折柄起つた博徒の大喧嘩、それは例の大前田英五郎が、信州の大親分等を對手に、追分ヶ原に於て、雌雄を決する、といふ事件で、若し之れが始まれば、戰爭にひとしい喧嘩になるから、長野群馬兩縣の警察部は、非常な騷ぎであつた。
博徒の喧嘩に出兵するやうな馬鹿な事もされず、之れを抑へ得ぬ、とすれば、警察部の威信にも關するから、種種(いろいろ)と苦心の末、宮部が、大前田の一族に、信用の厚い事を探知して、此調停を依頼する事になつた。
宮部は、之を引受けたが、その代り、如何なる臨機の處置を取つても、決して苦情をいはぬ、といふ言責を得て、その調停に奔走した。
座談に妙を得て、人を説くに最も巧みな彼は、終に双方を説得して、和解の手打を爲(さ)せる事にした。
同時に、追分ヶ原で、和解の賭博を公開した。全國の大親分は、多く集つて來て、盛んな賭博がはじまつた。彼はその現場に立會つて、テラ箱の傍に見張つて居た。
事件は、斯うして無事にすんだが、頻りに非難するものがあつて、彼は、最初の約束に違ふ、といふて、その非難を斥けたが、終には之れが原因となつて、校長の職を去り、それから國會開設運動に參加したのである。」(註5)

初代伊藤痴遊の講談においては、同じ題材が繰り返し用いられている。ここでは、比較のために別の講談『自由黨秘錄』の当該箇所を引用しておこう。原資料の性質の問題も含め、事実がどこにあったかを検証する必要があるため、長文だが翻字しておく。

初代伊藤痴遊『伊藤痴遊全集-第一卷』より

初代伊藤痴遊『伊藤痴遊全集 第一卷』より

「【宮部襄が】その後、高崎へ、歸つて居ると、前橋の師範學校長に、推薦するものがあつて、自分も進んで、其任に就いた。
前に述べた通り、自分の監視して居る、熊本の市街に、恐ろしい騷ぎの起る事を、知り乍ら、不意に、任地を立退いて、途中から、辭表を送り附けた、といふ程に、物騷な警部が、學校の監督を、爲(す)るのだから、頗る危險千萬だ。只だ觀れば、物やさしい、一個の紳士で、辭禮も、極めて正しい人であるから、此位ゐな學校長はないと、誰(た)れも思つて居たらうが、その實、危險思想の持主で、政府の大官を、河童の屁ほどにも、思つて居ないのみならず、薩長藩閥には、極度に、反感を持つて居る、校長さんで、之れに指導される生徒は、どういふ事になるか、考へて見れば、甚だ面白い事である。
宮部は、常に好んで、俠客と交際したので、博徒の親分は、多く其の邸宅(やしき)へ、出入りして居た。學校長の邸宅へ、博徒の親分が、足しげく出入するなぞは、とても、昨今の人に、解し得ぬ事であらう。
『校長、縣令さんから、御使(おつかひ)が來ました』
と、いつて、差出した書面、それを被(ひら)いて見ると、
『至急相談したい事があるから、すぐ來てもらひ度い』
と、書いてあつた。
すぐに支度して、縣廳へ出かけた。縣令の外に、警部長も居て、何となく不安の容子をして居る。
『やア、宮部君』
斯ういつて、縣令は、宮部に、椅子を與へた。宮部は、ちよつと會釋をして、警部長の方へも、輕く頭を下げた。
『意外の事が起つたのぢや。今ま長野縣から交涉があつて、いろ〱相談の末、是れは、君の力でなければ、とても駄目だらう、といふので、實は、迎ひを出した譯ぢやがね』
『ハヽア、どういふ事ですか』
『大前田の一家と稱する、博徒の連中が、信州の博徒と、何事か爭ひを起して、追分ケ原で、大きい喧嘩をする、とかいつて、長野縣廳の方でも、種々(いろいろ)、手は盡して見たが、どうも治まりさうもないので、せめて、大前田一家のものを、くりださせぬやうに、心配してくれ、といふ事であつたから、警部長にも相談して見たが、これは、君の外に彼等を抑へつけるものはなからう、といふ説があつて、とに角、君に相談して見やう、となつたのであるが、どうぢや、君の力で、どうにかならぬものか』
『要が、博徒の爭ひを、それほど御心配するには、及びますまい』
『ナカ〱さうでない。彼等の行(や)る事は、理屈一片では、駄目なのぢやから、正面から抑へにかゝれば、猶ほ不可(いかん)といふ議論があつて、其處で、君を煩はす事になつたのぢやよ』
『御引受けいたしてもよいが、とに角、一と通りの事情を、しらべて見ませう』
『その點は、警部長が、よく知つて居られるから、訊いて貰ひ度い』
『それは、駄目です』
『えツ・・・・駄目とは』
『警察のものが、知てつ【つて】居る事は、聞かずとも宜しいでせう』
縣令は、此の一言に、少し驚いたが、それよりは、警部長の眼が、けはし【3字傍点】く光つた。
『博徒の内幕は、役所のテーブルに、寄りかゝつて居たのでは、本當に解るものでない。彼等の懷裡(ふところ)へ、飛込んで見なければ、眞の急所を摑むことは出來ぬ。探偵の報告のみで、筋を辿つて行つたら、とんでもない、間違ひを惹き起すものです。殊に、大きい喧嘩の調停は、なか〱むづかしいものですから、我輩が、自ら彼等の渦中へ飛込んで喧嘩の眞相を、究めてからでないと、ちよツ【3字傍点】と、手の出しやうもないのですからな』
『君は、警察側の報告は信用せぬ、といはれるのですか』
『まア、然(さ)うです』
『少しも、聞かぬうちから・・・・』
『聞かずとも、判つて居ます』
『どう判つて居るのですか』
『どうも、本當の事は、判つて居るまいと・・・・』
『こりやア、怪しからぬ』
と、ヂリヽと、椅子を寄せる。宮部は輕く抑へるやうにして、
『まア、お待ちなさい』
『何ですか』
『君は、彼等と逢つて見たのですか』
『イヤ・・・・』
『逢つて見ないのでせう』
『・・・・・・・・』
『それだから駄目だ、といふのです。巡査や探偵に、何が判るものですか』
『・・・・・・・・』
『況(ま)して、君は、自身に調べてないのでせう。そんな事で、彼等の内幕や心中は、決して判るものではない。暫く忍んで、我輩のする所を、見て居て下さい』
警部長は、猶ほ何か云はう、とするのを、縣令は、しづかに制して、
『まア待ちたまへ。宮部君のいふ所にも一理あるから、兎に角、任して見るがよいではないか』
『あなたが、さう仰(おつ)しやるなら、それでも宜しいです』
縣令の一言で、警部長が、折れて出たから、縣令は、宮部に向つて、
『それでは、萬事頼みます』
『明日までに、御報告いたしませう』
『しツかり、頼む』
『引受けました』
何か、心に期する所のあるらしい、宮部は、縣廳を出て、自分の邸宅へも歸らず、どこかへ出かけた。

翌日になると、宮部は、縣廳へ、やつて來て、前日の通り、縣令と警部長の前で、自分の聞いて來た事を、一と通り報告したが、警部長の手許へ、集まつて來た報告とは、全然、違つて居たので、之れには、流石の警部長も驚いた。縣令は、すつかり滿足して、
『それで事情は、よく判つたが、併し、之れを、どういふ風に取扱ふか、その見込みを聞いて見たい』
『要するに、繩張りの爭ひで、事は、頗る面倒ですが、何とか折合はつけて、和解はさせますけれど、我輩に、一切を御任せ下さるか』
『宜しい、一任しやう』
『明治の今日になつて、博徒が、繩張りの爭ひをする、といふのは、奇怪千萬の事ではあるが、今は、之れを論ずるの場合でない。要するに、大きい喧嘩を、させないやうにするのが、第一であらう、と存じますから、臨機應變の處置を取つて、然る可く、治めてしまひますが、法律を、眞ツ向にふりかざし【5字傍点】ての取扱ひではないから、その點は豫め御呑込み置き下さい』
『可(よ)し、承知いたした』
是れで、相談は決まつた。
翌日から、宮部は、懸命に奔走した。先づ大前田一家(け)のものは、宮部に萬事をまかせる、となつたので、それから、信州へ乘込んで、相手方を諭す事になつた。彼等の間に、行はれて居る、義理人情を主として、話を進めるのであるから、よく理解して、宮部の取扱ひに一任する、となつた。
其處(そこ)で、手打ちの式もすむでから、喧嘩の場所に選まれた、追分ケ原に於て、上州と信州の博徒を集めて、三日間といふもの、野田博奕(のでんばくち)をやらせ、宮部は、テラ【2字傍点】箱のそばに控へて、その博奕も、無事にすませた。
長野の縣令も、群馬の縣令も、此時ばかりは知らぬ顔をして居た。宮部の才氣と膽力、それから、彼等が、宮部を信ずる事の深いのに誰れも驚いた。
その遣方が、あまりにも飛放れて居たので、いつか問題になつた。喧嘩は、無事に治めても、學校の校長が、テラ箱の番をして、博奕の取締りは、常軌を、逸して居る、といふ議論が起つた。宮部は之れを聞くと、すぐ辭表を出して、高崎へ歸つてしまつた。」(註6)

大前田栄五郎『上州遊俠大前田栄五郎の生涯』より

大前田栄五郎『上州遊俠大前田栄五郎の生涯』より

まず、大前田栄五郎(英五郎、おおまえた えいごろう、濁らない)は1874年2月26日に死亡しており(註7)、「四天王とか十人衆、伍長とかいう子分の中でも名の売れた者が、それぞれ大前田一家を名乗って、上州一円でも最も広い区域に権力をもっていた。」という。(註8)一方、宮部襄の群馬師範学校長だった期間は1880年4月から1881年9月である。(註9)両者に重なり合う時期はない。したがって、『自由黨秘錄』において「大前田の一家と稱する、博徒の連中」とする記述の方が信頼性はある。しかし、そこにも大きな問題がある。それは、当時の警察制度に関するものである。

まず、当時における県令と警部長の関係を整理しておこう。職制上、警部長という職が設置されたのは、1881年11月28日、以下の太政官達によるものである。なお、達は「たっし」と読み、旧幕時代以来の法令用語であり、防衛省では現役の文書形式用語である。(註10)

「○第九十八號(十一月二十八日 輪廓附)            府縣〔東京府ヲ除ク〕
府縣官中警部長ヲ置キ官等俸給等左ノ通相定候條此旨相達候事
 警部長  奏任    八等相當
  但月俸八拾圓七拾圓六拾圓ニ區別ス
○第九十九號(十一月二十八日 輪廓附)            府縣〔東京府ヲ除ク〕
府縣官職制中左ノ通増補候條此旨相達候事
  大少書記官ノ下第二項ノ次ヘ
 警部長   一人
  第一 警部長ハ事ヲ府知事縣令ニ承ケ其府縣警察上一切ノ事務ヲ調理ス
  第二 警部長ハ國事警察ニ付テハ直ニ内務卿ノ命令ヲ奉シ又ハ直ニ其事情ヲ具狀スルコトアルヘシ」(註11)

これは同年1月14日警視庁再設置(註12)、3月11日憲兵隊設置(註13)に続く警察制度改革の一環として達せられたものである。
『群馬県警察史』によれば、「警部長を設置した理由としては、明治十四【1881】年憲兵制度が設けられたことや治罪法の施行によって警察官が検事代理を勤めることになり、判事との均衡上警察の長を奏任官とする必要を生じたためといわれるが、実際には警部長設置によって、それまで県令の指揮命令によって行われていた国事に関する罪の内乱罪・外患罪については、警部長が県令を飛び越して直接内務卿の指揮を受けることになったことでも明らかなように、明治十【1877】年の西南戦争以後、急速に全国に広がった自由民権運動と、その底流にある不平士族の反政府運動に対応するため、地方の政治警察の強化が最大の眼目であったと思われる。」という。(註14)したがって、1881年11月まで、警部長という制度上の職制は明らかに存在しなかったのである。

また、劉国翰氏は、秩父事件当時の埼玉県の例を取り上げて、以下のように解析している。

「明治14【1881】年から18【1885】年までの埼玉県を例として、地方政治の仕組みを示す。当時、地方政治の中心は、県令にほかならなかった。明治4【1871】年発布された『県治条例』によって、県令の職責は「県内ノ人民ヲ教督保護シ条例布告ヲ遵奉施行シ税収ヲ納メ賦役ヲ督シ賞刑ヲ判シ」ことに限られていた。明治5【1872】年、江藤新平が司法卿に就任してから、司法制度の近代化が発足した。それのため、地方裁判所は県庁から独立し、警察は行政警察と司法警察に分けられ、行政警察のみが県令の支配に従うことになった。
県令は、県庁の書記官を任命する権限を持っていなかった。たとえば、明治17 【1884】年11 月1 日警察から秩父蜂起の情報を受け、内務卿山県有朋に憲兵派遣を要請したのは、埼玉県の書記官笹田黙介である。吉田清英県令は出張中で、『県治条例』によって、書記官笹田黙介が県令を代行していた。県令は「判任以下ノ官員ハ能否勤惰ヲ検査シ薦選免黜ヲ専行スヘシ」とあるが、奏任官として県の書記官は太政官によって任命されていた。
県令は、警部長を任命する権限を持っていなかった。明治前期の警察制度は大きな変化を遂げた。明治4【1871】年から6【1873】年まで、いわゆる「司法警察」の時代では、全国の警察はすべて司法省に統括されていたので、地方では、県令と警察はまったく別の部門に属していた。明治7【1874】年1月、司法省の警保寮が内務省に移管されて、県庁では庶務(第一課)、勧業(第二課)、租税(第三課)、警保(第四課)、学務(第五課)、出納(第六課)が設けられた。県庁のひとつの課として、地方の警察は完全に県令の支配に置かれていた。
しかし、明治 14 【1881】年11月26日、大政官達第98号は、「警部長ハ国事警察ニ付テハ直ニ内務卿ノ命令ヲ奉シヌハ直ニ其事情ヲ具状スルコトアルヘシ」と し、府県に警部長の制度を設けられた。すなわち、従来の警察事務はすべて県令の指揮によっていたが、明治14【1881】年から、国事警察について警部長は直接内務卿の指導を受けることになった。それだけではなく、警部長は奏任官8等で、その任免は中央人事に属し、県令は警部長を任命することができなかった。埼玉県の初代警部長は笹田黙介であった。笹田黙介は山口県士族出身で、明治15【1882】年埼玉県の警部長に就任するとき、わずか36歳だった。笹田黙介が書記官に転任したあと、鹿児島県士族出身の江夏喜蔵が埼玉県の警部長になった。二人とも秩父事件鎮圧活動の実際の指導者だった。
県令は、地方政治に起こった衝突を解決する権限をほとんど持っていなかった。県令はいろいろな制限に束縛されており、警察と地方裁判所に対する権力は少なかった。秩父事件の口火となった負債農民と高利貸業者との衝突は、法律の問題を抱えていた。つまり、明治12【1879】年9月発布された『利息制限法』(二割以上の利息を取ることは禁止する)を民間高利貸に適用するかどうかという問題が、衝突の焦点になった。しかし、県令は、この法律の問題について解決の手がかりがなかった。当時の県会にも法律を改める権限がなかった。」(註15)

これらすべてを考え合わせると、初代伊藤痴遊の講談及びそれを祖述した諸文献はにわかにその信憑性を失墜する。特に『日本政党史論』では、「痴遊のハナシは資料としては頼りないようであるが」と言いつつも事実関係の根拠文献に用いている。(註16)日本政治学会理事長を務めた升味準之輔の大著も、この点では鵜呑みにできない。典拠にする資料が、小島直記により「記述の上にデタラメが少なくない」と断定される政治講談であることは考慮されなければならない。(註17)また、升味準之輔らが宮部襄を家老の子とするのは間違いであることも萩原進氏により示されている。(註18)これ以上の調査は止めるが、事実関係を再編成するためには、確実な歴史資料による必要があることだけを言っておく。

ただし、1879年4月に宮部襄の組織した民権派結社「有信社」の影響下には、上州博徒新井一家の大親分である山田丈之助などの多くの博徒が集まり、1884年の群馬事件を準備することになったといわれる。これについて、かつて後藤靖は次のように書いた。なお、渡世名の上之助、丈之助、城之助はすべて通字であり、本名は平十郎という。

「とりわけ、この組織運動のなかで特徴的なことは、碓井・甘楽・信州南佐久・小県という地帯に配下二千五百余をもつ「博徒」山田丈之助を党の同調者にひき入れたことである。それは後述の秩父自由党と田代栄助・飯田正理社と遠山八郎といった、党と「博徒」との関連の仕方とともに、革命的民主主義派の組織路線を特徴づける。」(註19)

この一文が発表されたのは1959年である。日本共産党6全協の直後、1951年綱領下の中核自衛隊、山村工作隊、独立遊撃隊、民族独立行動隊に代表される軍事方針が未だ醒めやらぬ時期の文章としてお読みいただきたい。

六全協と同時に開催された日本共産党33周年記念式典『毎日ムック シリーズ20世紀の記憶 冷戦・第三次世界大戦』より wikipediaによる

六全協と同時に開催された日本共産党33周年記念式典『毎日ムック シリーズ20世紀の記憶 冷戦・第三次世界大戦』より wikipediaによる

いま1つ、群馬県自由民権運動の重要な特徴は以下の点にある。「群馬県でいち早く関心を寄せたのは少壮士族による知識階級の人達であった。すなわち、県庁の役人(宮部襄、深井卓爾)、巡査(斎藤壬生雄、長坂八郎、豊島貞造、宮部義虎)、教員(木呂子退蔵、久野初太郎)らであり、いずれも社会の指導者でもあった。」(註20)注目すべきは、警察官である巡査の中から自由民権運動の闘士へと転向した人物が多くいることである。前橋藩の斎藤壬生雄は、「西南戦争後、一等巡査となり、その後沼田署一等巡査長代理に昇進する。そして宮部らとの親交がもたれてゆくのである。」さらに館林藩の木呂子退蔵は、「十一【1878】年の北陸道巡幸の際、御用掛の命をうけるが、同じくその任にあった県警警部の宮部襲(旧高崎藩士・のち有信社社長)との接触がなされ、又その頃館林警察署長として来任した長坂八郎(旧高崎藩士・のち有信社副社長)とも知り合い、ここに東毛における、有信社結成に至る人的結合はなされたものとおもわれる。」(註21)また逆に、熊本出身の壮士・福原義三太のように「警視廳が有志者に對する抑壓や、壯士に對する檢束にも接觸し、反對に之を監視して見やう」と巡査になった者さえあった。(註22)この時点では、取締側の警察権力の要員と自由民権運動の活動家の間にさえ、まだ明瞭な境界が存在せず、人的流動の可能性があったことが分かる。

福原義三太のほかにも、警察官から民権活動家に転向した人物は多くいる。大久保利通斬殺事件に関与した浅井寿篤(警視隊四等巡査)、松田秀彦(警視隊巡査)(註23)、喜多方事件、福島事件、加波山事件の門奈茂次郎(栃木県一等巡査、巡査部長、喜多方事件、加波山事件)(加波山事件)(註24)、三浦文次(警視庁巡査、喜多方事件、福島事件、加波山事件)(註25)、横山信六(栃木県巡査、加波山事件)(註26)、高田事件の赤井景韶(警視隊巡査)(註27)、壮士芝居の角藤定憲(京都府巡査)、川上音二郎(福岡県、京都府巡査)、笠井栄次郎(不明地巡査)、佐藤歳三(鳥取県巡査)(註28)、静間小次郎(京都府巡査)(註29)そして山梨県自由党員で甲斐新聞主筆、社長さらに甲府市長になった斎木逸造(北海道巡査)(註30)らである。松島栄一によれば「巡査志望者には官費が支給されて、勉学の機会があたえられ、その後数年の間、義務として巡査となる、というようであった」(註31)というが、その真偽のほどは未確認である。

実は、秩父事件の報告書中に「元﨑玉縣巡査南波登發」の名が記録されている。このことについては本編を書いている途中で気が付いたのだが、すでに発表した記事を修正することはしなかった。大幅な書き換えが必要になると思ったからでもあるし、第一、改竄はまずかろう。

「○大官【宮】警察署長警部齋藤勤𠮷ヨリ開申スル㪽ノ暴徒人名秩父郡風布村宮逸之助以下十四名男衾郡秋山村金子久三郎以下二名秩父郡風布村中川庄藏以下十一名同郡本野上村新井秀藏以下八名同郡野上下郷高橋兵藏以下四名同郡中野上村金澤岩太郎以下四名同郡風布村中川八藏同郡本野上村𠮷田十次郎同郡寺尾村清水冨士松同郡上日野澤村黒澤政次郎以下十七名同郡大宮郷關根久兵衛同郷巨魁田代榮助同郡石間村新井繁次郎以下十二名外ニ同村巨魁加藤弥平同郡上日野澤村森川治藏以下三名同郡太田村指揮長冨田和十郎同冨田政太郎巨魁冨田貞七郎同郡皆野村𠮷橋勇次郎以下五名下𠮷田村田野孫七以下十一名外ニ巨魁落合乕一同郡上𠮷田村新井安藏以下四名同郡大野原村新井林藏以下二名同郡黒谷村宮谷倉𠮷同郡藤谷淵村栁芳平以下十六名外ニ人殺【杂+殳】ノ廉アル者柳新十郎堀口榮次郎榛澤郡岡村大野大吉秩父郡上𠮷田村關根新平以下四名外ニ財産放火シタル者姓不知伊作末吉夘太郎ノ三名同郡日尾村坂本庄藏同郡寺尾村笠原宗三郎同郡横淵村指揮長淺見浦吉柴岡熊𠮷塩谷房吉ノ三名外ニ金圓強奪ヲ爲シタル者姓不知榮助字ベク山峯鷲次郎小石川啓助ノ四名同郡大官【宮】郷金圓強奪ヲ爲シタル者平井濵助同郡三澤村同犯姓不知林藏同郡般若村同犯三枝藤𠮷同郡久那村同犯落合久介新井甚三郎同郡蘆ヶ久保村同犯淺見軍藏淺見八五郎同郡飯田村犬木壽作以下二名外ニ金圓強奪ヲ爲シタル者猪野幸𠮷猪野喜藤二同郡寺尾村職業角力玉櫻姓不知縫二郎元﨑玉縣巡査南波登發入間郡大袋村水谷峯吉旛羅郡永井田村姓不知宇一秩父郡上田野村藤代三之助同郡久那村笠原新𠮷同郡石間村高岸善吉男衾郡西ノ入村巨魁新井周三郎同郡三品村門松周右衛門同郡秋山村柿澤庄左衛門同郡石間村柳原正男以下三名秩父郡日野澤村小前貞作同郡飯田村齋藤房吉以下六名同郡本野上村坂上伴作同郡河原澤村清水丑太郎以上百七十七名内巨魁五名指揮長五名人殺【杂+殳】二名強盗十三名放火三名」(註32)

1つだけ注釈をつけておくと、名前のあとに「以下○名」とあるのは、以降の公文書と同様、表示された人名を含めた人数で、試算すると暴徒人名の合計は177名で誤りはない。秩父郡風布村、本野上村、石間村が複数登場するほかは逮捕地ごとに整理されている。本文書によれば、南波登発が逮捕されたのは秩父郡寺尾村であり、同地では他に「職業角力玉櫻」と「姓不知縫二郎」の2名が暴徒として逮捕されたことが分かる。寺尾村は秩父事件の中心地であった大宮郷からは荒川をはさんだ西の対岸である。そして南波登発が埼玉県の元巡査として紹介されている。しかし「暴徒被告人」の名簿の中にその名を見ることはできないため、一旦は逮捕されたものの解放されたことが伺える。それにしても、彼は秩父事件のさなか、何を目的に現地にいたのだろうか。
同じ寺尾村で逮捕された「職業角力玉櫻」であるが、「玉櫻」の四股名は歴代襲名されているものの、明治初期大阪相撲の玉櫻酉之助の関係者もしくは本人と思われる。玉櫻酉之助は、「天保八年正月十日九州栁川生/明治廿八年一月三十日卒行年五十八」(註33)、「明治2年3月大阪幕下二段目、4年6月上取、8年6月限り廃業。世話人。」(註34)という経歴で、『大日本 大阪相撲』明治二年巳八月の番付には前頭二段目西方の五枚目に「玉櫻酉藏」と見え(註35)、最高位は16枚目であったらしい。(註36)その墓は四天王寺にあり、「妻玉櫻菊路建之」と刻される。(註37)
1880年6月13日の『朝日新聞』に「天滿青物市塲の紛議」が「中々穩に濟可き様子の無く」、玉櫻が仲裁に入ったとする記事を掲げている。事件は、青物問屋取締の「今宮六兵衞」と「仲買一統」が周辺他市場の廃止統合を企図したとして「川崎村國分寺村南長抦村北長抦【村】北野村本莊村南濱村等の荷主」と衝突、「各々喋々疑團を挿み政府へ迫らんとするの勢奈れば力石(りきし)【力士】押尾川の代理玉櫻外に玉の尾。陣幕。黒岩等が仲裁に入り右七ケ村の荷主及び外十九ケ村の荷主へ趣き双方穩に濟む可きやう昨今尽力して居るとぞ」(註38)という。事件の背景には、1869年12月23日「大阪商法會議所の設立と同時に府下各商に對する仲間規則の創定ありしを以つて、問屋、仲買各別に「青物市場規則」を作製し、商法會議所の奧書を經て府知事の聽可を得、不信行爲の取締に務む」るも、「然るに爾後市場の弊害毫も改まる事なく、規約の勵行愈々困難とな」り「連て諸規約は全く遵守されず、業態漸く衰頽に傾き、市場税賦課方法に就き問屋、仲買間に葛藤を生ずるに至れり」(註39)という状況があった。生産者、流通業者、仲買等の業務を生業として力士集団が関っていたと見られるほか、大阪相撲の興業の実権を握っていた俠客との関係も考えられるだろう。のちの大阪相撲協会総裁・小林佐兵衛は俠客すなわちヤクザとして仲裁者機能を果していたが、力士にあっても同様の権能が行使されたのである。

天滿青物市場『大阪府寫眞帖』国会図書館蔵より

天滿青物市場『大阪府寫眞帖』国会図書館蔵より

玉櫻が代理人となった押尾川は、1878年9月及び1890年9月、難波新地興行の興行元をつとめた「三阪山事押尾川卷右衛門」であろう。同名跡は世襲名であり、『大日本 大阪相撲』によれば「押尾川𣲖は寶曆年間押尾川卷右衛門 安永三年より置𪉩川の押尾川卷右衛門 天明年間より押尾川卷右衛門 文化三年より押尾川卷右衛門 天保八年より武藏押尾川卷右衛門川野嘉永六年より三阪山の押尾川卷右衛門 明治二年より御阪山の押尾川卷右衛門 明治廿九年より小林の押尾川佐兵衛 明治三十三年より
   頭 取 三阪山事 押尾川卷右衛門」(註40)という経過を辿ったため、事件当時は「御阪山の押尾川卷右衛門」ということになろう。そして同名跡は大阪の俠客・小林佐兵衛に譲られている。そうしたことから考えても、ヤクザとの関連の深い年寄株であり、親方名ということになるだろう。
なぜ「職業角力玉櫻」を同人に推定可能かというと、彼の所有する「大坂東区北浜町五丁目三十七番地相耀館(玉桜酉之助方)」が、1884年「十月廿五日秋期会議ヲ大坂ニ開」く際の来阪自由党員の止宿所と定められていたからである。(註41)「大坂相耀館ハ寧静館【銀座3丁目19番地にあった自由党本部】ト気脈ヲ相通セシ」(註42)という位置づけを付与された施設であり、6月時点では「相耀館(場所未定追テ報道ス可シ)」とその場所も決まっていなかったにも関わらず、「自今関西派出員ハ相耀館(其止宿所)ヲ大坂ニ設ケ之ヲ根拠トシテ四方ニ巡回シ将ニ其任ヲ尽サントス」という機能を担うものとして設立されている。(註43)したがって、自由党の関西センターを玉櫻が提供したということになり、自由民権運動の活動家人脈の中に大きな位置を占めていたことが分かる。ここで、大阪相撲が壮士・氏家直国(新世界泰平)を受容した事実(註44)も想起する必要があるだろう。

南波登発については埼玉県の警察史にその名を見ることはできない。ただし、この調査で試みたのは、歴史上の事件にわずかに顔をのぞかせる人物を、残された文字資料をもって語らせ、どれだけ復元することができるのかという調査実験である。われわれは歩を止めず、南波登発の残りの人生を見ていくことにしよう。

明治維新の際に、既に軍事的実力を失っていた武士階級にかわり、博徒はその軍事力を買われて参戦、自由民権運動でも、「集金」活動や「院外活動」に実力を発揮している。(註45)長谷川昇氏によれば、「戊辰戦争にさいして藩権力は、おのれの脆弱な軍事力を補充し、犠牲を肩代りさせるためにもっとも戦闘的な博徒集団を選別して利用した。明治政権は激化しつつある農民騒擾や民権運動に戦闘的な博徒集団が混入して反体制運動に強力な武力を提供することを恐れて、「賭博犯処分規則」という非常措置をもってこれを予防拘禁し、解体しようとしたものである。」という。(註46)良知力による「市民革命」の担い手としてのルンペンプロレタリアートの発見は、エンクロージャによる土地収奪が惹き起こす農民層分解により労働者階級が成立し、労働運動が発展するという「公式」マルクス主義の見解に異議をさしはさむことになった。(註47)日本における近代初期の経済的・社会的・政治的様相も、また見直される必要がある。

渡辺京二は次のように語る。

「まあ私の概念の立てかたがアカデミズムと異質であるのは認めますけれど、私には豪傑民権・下流民権・それにハイカラ民権を加えると、大体実態がつかめるのじゃないかと思えて仕方がないのです。」
「秩父困民党は完全な下流民権で、士族民権とはほとんど接点がないんですけれど、その中に博徒がいて、しかも最も戦闘的な分子だった事実は看過できません。名古屋【事件】の例を併せ考えますと、博徒民権といったカテゴリーを立ててもよろしいかと思われるほどです。」(註48)

ところが、「アカデミズム」でも博徒と自由民権運動の関係は注視されており、最近では周縁社会論と結合して解説されている。たとえば松沢裕作氏は、自由民権運動激化事件を巡る議論を次の通り展開する。

「激化の主体は「壮士」、騒擾参加者は「暴徒」と呼ばれる。こうした呼称は同時代の史料文言であり、歴史学上の分析概念では必ずしもない。「壮士」については、木村直恵が、明治二〇年(一八七七)に『国民之友』が対象化した「表象上の存在」であると論じたところであり、「暴徒」については、自由民権一〇〇年記念活動以来、「暴徒」という明治政府によって与えられたラベリングを否定する顕彰活動が行なわれてきたという経緯がある。
しかし、問題はむしろそういった諸運動が「壮士」「暴徒」として括られたという事実であり、そのようにして運動主体を統合の外に括り出し、抑圧されつつあったという事実である。」(註49)

そう言った上で、松沢裕作氏は「博徒」を含むメンバーを「「山師的」人々」として「ラベリング」し、かつ「媒介」として、「運動主体」の「外に括り出し、抑圧」する。

「民権運動の組織は、単なる運動体ではなく、それ自体が来たるべき社会の原型であり、それへの参加は新しい社会への参加の道を開くものであると理解されたのである。こうした経路を通じて、新しい社会秩序をみずからの手で作り出すという愛国社路線を堅持する急進派と、既存の秩序による保護を失い、困難を極める現状の中で異なる社会を希求する農民の解放幻想は共振する。その際、それらを媒介する位置にあったのは、柴田【浅五郎、秋田立志会の指導者】のような「山師的」人々や、愛国交親社に参加したような博徒、あるいは愛国交親社員として加茂事件に参加した「何れも農専業の生産的農民と異なる何らかの共通性を有する型」の人々、つまり都市下層と周縁社会に属する人々であった。」(註50)

柘植秀臣は、妻の先祖で玉川の親分という渡世名を持つ中金三郎が秩父事件の周辺にその名を見せることにつき、「私の推察では、金三郎は大宮郷という保守的な商家の町で、体制側にも反体制(暴徒)側にもおもてだって加わる事ができず、その真の心を閉ざしたまま秩父事件後は大宮郷でひとりわびしく過して六一歳の生涯を終えたのではあるまいか。」と感慨する。(註51)こうした人々が実証的手続きを経ず、今なお「「山師的」人々」と理解され続けてよいのであろうか。真の「「山師的」人々」は、政府部内や大組織の中にこそいたのではなかったか。昔も、そして、今も。

革命における統一戦線組織が「来たるべき社会の原型であり、それへの参加は新しい社会への参加の道を開くものである」のは、過去の諸「革命」における歴史的事実である。2016年参議院選挙での野党共闘の前提に、誠意と信頼ではなく「国民連合政府」なるものを持ち出した一部政治組織の行動(註52)もそうした歴史認識に基いている。ただしそれは、かつての「革新統一戦線」と同様、「困難を極める現状の中で異なる社会を希求する」「幻想」に過ぎないだろう。カタチのいかんにかかわらず、民主主義を守ること、そしてその深化こそが現時点における最重要課題なのだから。いずれにせよ、自由民権運動への博徒の参加は、机上の理論として把握するより以前に、当時、博徒が保有していた武力と組織、さらに広域的経済活動とコミュニケーション網が運動に現実的な力をもたらすものとして、運動全体を連結する重要な結節環となっていたことに注目すべきであり、この点に疑いの余地はない。

助川貞二郎『北海道議会史-第1巻』より

助川貞二郎『北海道議会史 第1巻』より

元の話題に戻る。助川貞二郎は「1904年に共同で馬車鉄道会社を起こすと、後身の札幌電気軌道株式会社の専務取締役として手腕を発揮し、草創期の市電発展に貢献した。」(註53)車会党が打撃対象とした馬車鉄道会社を札幌で創業、自ら取締に就任した札幌人力車営業組合の営業と矛盾する事態となっている。

助川貞二郎は1905年暮れに「官吏侮辱罪にて拘引」(註54)、翌年のはじめ「輕罪公判に附され區會議員失格となる」。(註55)1907年には空知支庁から道会議員に出馬して議席を維持、1908年の衆議院総選挙に茨城県郡部から出馬。それまで政友会所属であったが「脱黨して新に進步派より打つて出でたり」。(註56)4月には同党の野口源一郎の地盤を譲られ(註57)、公認候補となっている。(註58)「助川【2字黒丸圏点】君は舊自由黨の壯士上りで北海道(ほくかいだう)で多少の資產を作り上げた人だ同地では政友會支部の幹事もして居るので最初政友派の公認候補者を望んだのだが容れられなかつたのと生れ故鄉の筑波郡(ごほり)では信用がないので進步派の野口前代議士の地盤を譲り受ける相談が纏まつたのとで急に進步黨に籍を置いて公認候補者となつたので以て其人となりは分るが金はウント使ふといふので擔ぎ手も多い相だ」(註59)との下馬評だったが、蓋を開けてみれば、次点落選の結果に終わった。(註60)選挙戦中の5月6日には、龍ケ崎町において演説会を行ない、応援演説には、明治法律学校の卒業生・安藤正楽、その同郷の遊木保太郎とともに京都の巌谷孫蔵に法学を学んだ合田福太郎、そして明治義塾出身で自由党の幹部・大石正巳が応援演説に駆けつけている。(註61)磯部保次とともに「金はいくらでも費ふと揚言して居」たのだが(註62)、トップ当選の磯部保次とは明暗を分ける結果となった。

助川貞二郎邸『開道五十年記念-北海道拓殖寫真帖』国会図書館蔵より

助川貞二郎邸『開道五十年記念 北海道拓殖寫真帖』国会図書館蔵より

地方自治法公布以前には、地方議員と国会議員の兼職は否定されていなかった。そして、北海道は律令制下の五畿七道に倣って命名されたものである。北海道は、沖縄県、小笠原島とともに政治的権利は大幅に制限されており、全道住民の国政参加権が認められたのは、20世紀の開始を待たなければならなかった。助川貞二郎が国会議員選挙に立候補するにあたり、茨城県選挙区を選択したのも、彼が未だ片足を故郷に残しており、北海道人としての自覚が明瞭でなかったことを物語る。
そして北海道の地方制度に関していえば、一旦は大区小区制、府県制が敷かれたものの、北海道は府県制の外部にある土地として「道」のままに止めおかれている。1891年に植民議会設置の建議が提出され、翌年には北海道総督府設置の議がおこるなど、植民地としての性格を持ち続けた。(註63)そして、「近代日本の国家体制は、明治22【1889】年の帝国憲法発布、その前後における市制・町村制・府県制・郡制で制度はいちおう完成する。だが、北海道には国政への参加権も、地方自治・市町村制を認められてはいなかった。第一帝国議会以来、参政権・地方自治の要求運動はたえまなくつづけられたが、ようやくそれらがみのったのは明治30年代であった。30【1897】年5月公布の北海道区制・一・二級町村制(その後改正を加えられ、区制は32【1899】年、一級町村制は33【1900】年、二級町村制は35【1902】年施行)、北海道会法は同34【1901】年、帝国議会への参政権は35【1902】年から実施されたのである。」(註64)

そうした中、第一帝国議会衆議院予算委員会において北海道関係費24万円が削減されるとの報道に道議会開設運動が開始される。このとき、助川貞二郎は1891年1月11日、「札幌区成田山事務所での政談演説会に弁士として登場,「演題は北海道経費節減に付所感を陳ふ,屯田銀行設立に就て,請願委員上京に付当区有志諸君に議る所ありの三題」を演説している。」(註65)
翌々日の13日には、豊平館で開催された新年会兼協議会において、「自由党員の堤礼吉、助川貞二郎とほか二名の反対意見は、「時機既に後れたり且つ我々は北海道庁の冗費多く経費節減を望んで平生種々の調査を為せり今度帝国議会にて節減せしは事業費に非ざる故開拓事業を減少委【萎】靡する事更になし陳情委員を出すは道庁官吏の尻推ならんとの疑も受くるは必然にて到底目的を達する能はず本年は之を見合すべし」というものであった。」(註66)さらに1893年11月20日に開催された第5議会請願協議会2回目の会議において、「壮士の親玉助川貞二郎は松田の演説に横鎗を入れ」「松田の郎党等はワイ々々騒ぎ出し村田不二三,村上祐 ,東武,木村秀実等口を極めて議場を罵り議事の不当を鳴叫せんとし(中略)松田の一派二十余名は席に堪え兼ねてや何づれも満面に朱を濺しつつ憤怒の声を洩して退場」する。(註67)

助川貞二郎は、北海道議会議員を1901年8月10日の第1回から4期途中の1911年12月10日に辞任するまで続けた。(註68)

北海道議会第1回議員-1902年『北海道議会史-第1巻』より

北海道議会第1回議員 1902年『北海道議会史 第1巻』より

 


 

註1 名の読みについては、萩原進「宮部襄傳の修正 高崎藩家老の子ではない」『上毛裏かえ史』ぐんま歴史新書 群馬情報社 1956初版、吾妻書館 1972再版2版復刻による
註2 新井武信 中畦正一 四方田稔「第二章 調査と硏究 村の自由民權運動の展開」『日野澤村誌 第一輯』埼玉県秩父郡日野沢村教育委員会 1955
註3 升味準之輔「第三章 自由民権運動 第三節 全国運動」『日本政党史論 第1巻』東京大学出版会 1965
註4 升味準之輔「第三章 自由民権運動 第三節 全国運動」の注『日本政党史論 第1巻』東京大学出版会 1965
註5 伊藤痴遊「星と自由黨」『伊藤痴遊全集 第十五卷 國會開設政黨秘話』平凡社 1930
註6 伊藤痴遊「國事探偵篇 照山俊三」『伊藤痴遊全集 續 第十一卷 自由黨秘錄』平凡社 1930
註7 萩原進「第二部 やくざ列伝 第一章 江戸時代のやくざ 第一項 大前田栄五郎」『群馬県遊民史―県民性と青少年犯罪の史的背景―』上毛新聞社1967再版、初版は1965、浅田晃彦『上州遊俠 大前田栄五郎の生涯』新人物往来社 1983
註8 萩原進「第一部 総説篇 第九章 明治期の博徒 第二項 おもな一家」『群馬県遊民史―県民性と青少年犯罪の史的背景―』上毛新聞社1967再版、初版は1965
註9 群馬県教育史研究編さん委員会事務局編「第三編 近代教育の展開 7 師範教育の発展と附属小学校」『群馬県教育史 第一巻(明治編上巻)』群馬県教育委員会 1972
註10 防衛庁訓令第38号「防衛省における文書の形式に関する訓令」1963年8月14日、2015年10月1日第48回改正
註11 「太政官 達」『法令全書 明治十四年』内閣官報局 1887
註12 太政官達第一號(一月十四日 輪廓附)『法令全書 明治十四年』内閣官報局 1887
註13 太政官達第十一號(三月十一日 輪廓附)『法令全書 明治十四年』内閣官報局 1887
註14 群馬県警察史編さん委員会編「第三章 警察制度の整備 第二節 警察機構の整備」『群馬県警察史 上巻』群馬県警察本部 1978
註15 劉国翰「秩父事件の経済·社会·政治的要因:早期資本主義発展段階における民主化運動の視点から」東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻2008 年度博士学位請求論文、国立国会図書館蔵
註16 升味準之輔「第三章 自由民権運動 第三節 全国運動」『日本政党史論 第1巻』東京大学出版会 1965
註17 小島直記「三 青春」『小泉三申』中公新書453 中央公論社 1976
註18 萩原進「宮部襄傳の修正 高崎藩家老の子ではない」『上毛裏かえ史』ぐんま歴史新書 群馬情報社 1956初版、吾妻書館 1972再版2版復刻による
註19 後藤靖「第三章 明治十七年の激化諸事件について」堀江英一 遠山茂樹編『自由民権運動期の研究 第二巻 民権運動の激化と解体(I)』有斐閣 1959
註20 群馬県教育史研究編さん委員会事務局編「第三編 近代教育の展開 6 その他の教育行政」『群馬県教育史 第一巻(明治編上巻)』群馬県教育委員会 1972
註21 稲田雅洋「民権運動と士族―上毛自由党論―」『一橋論叢』第71巻第6号 日本評論社 1974年6月1日
註22 福原義三太「一五、巡り〱て巡査となり鳬。」『半生の風雲』民友社 1915
註23 遠矢浩規『利通暗殺 紀尾井町事件の基礎的研究』行人社 1986
註24 警視庁第二局 警察副使 井上穆作成「被告人尋問調書」1884年10月15日、稲葉誠太郎編『加波山事件関係資料集』三一書房 1970による
註25 喜多方警察署 警部補代理巡査 大竹幾馬作成「被告人三浦文次警察尋問調書」1882年11月22日、稲葉誠太郎編『加波山事件関係資料集』三一書房 1970による、原出典は『福島県史第11巻 資料編第6 近代資料1』福島県 1964
註26 野島幾太郎「其九 横山信六氏」『加波山事件』宮川書店 1900
註27 「檐の春雨 第五」半狂堂主人(宮武)外骨編輯『赤井景韶傳 隨題隨記隨刊 乙二』半狂堂主人(宮武)外骨 1931、原出典は『自由燈』1885年4月16日(推定)
註28 松島栄一「五 明治演劇史の人々―川上音二郎を中心に―」大久保利謙編『日本人物史大系 第六巻 近代II』朝倉書店 1960、ただし最新の周到な研究書である井上理恵「第一章 川上音二郎の登場」『川上音二郎と貞奴 明治の演劇はじまる』社会評論社 2015によれば「根拠となる資料は今のところ不明」という、松永伍一によれば「佐々木慈寛は教楽社の経営者長野嘉平談として、【川上】音二郎が博多で巡査を拝命し、月給五円で、呉服町のぜんざいをおごってくれた、と述べている。井上精三も【川上】音二郎は博多に引き揚げてきて、石堂橋近くの交番にいた、という古老の話を借りている。」という(松永伍一「オッペケペー」『川上音二郎 近代劇・破天荒な夜明け』朝日選書348 朝日新聞社 1988)、ともに出典は未確認
註29 「名家眞相錄 靜間小次郎」『演藝畫報』1908年12月
註30 眞壁延三郎編輯「齋木逸造」『山梨人事興信錄』甲府興信所 1918、有泉貞夫「第三章 初期議会期」『明治政治史の基礎過程 地方政治状況史論』吉川弘文館 1980
註31 松島栄一「五 明治演劇史の人々―川上音二郎を中心に―」大久保利謙編『日本人物史大系 第六巻 近代II』朝倉書店 1960
註32 『秩父暴動始末 自明治十七年九月廿三日 至同年十一月十二日 一』1884年11月9日条 埼玉県立文書館蔵、井上幸治 色川大吉 山田昭次編『秩父事件史料集成 第四巻 官庁文書(一)』二玄社 1986による
註33 「力士玉櫻酉之助碑」碑文
、しあんくれーる「四天王寺」champclairのブログ 2015年10月12日写真図版による
註34 坪田敦緒「相撲記念館・史跡案内 四天王寺(大阪市天王寺区)」相撲評論家之頁サイト 2005年12月18日訪問分
註35 佐々木由治郎編輯『大日本 大阪相撲』相撲版元佐々木由治郎 1910
註36 しあんくれーる「四天王寺」champclairのブログ 2015年10月12日
註37 「力士玉櫻酉之助碑」碑文、しあんくれーる「四天王寺」champclairのブログ 2015年10月12日写真図版による
註38 「○前號の紙上に天滿青物市塲の紛議は旣に平穩に治りたる由を記載せしが」『朝日新聞』(大阪)1880年6月13日2面
註39 「第二編 各市塲 (一)天滿青物市塲 第一章 沿革 二、明治初年より現在に至る」『大阪市食料品卸賣市場調査 第五輯 大阪市蔬菜果物市場調査』大阪市商工時報號外 大阪市役所商工課 1924
註40 佐々木由治郎編輯『大日本 大阪相撲』相撲版元佐々木由治郎 1910
註41 『自由党本部報道書』1884年9月18日付、江村栄一「自由党史研究のために―「自由党本部報道書」の紹介をかねて―」神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 各論編1 政治・行政』神奈川県 1982による
註42 『自由党本部報道書』1884年9月18日付附報、江村栄一「自由党史研究のために―「自由党本部報道書」の紹介をかねて―」神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 各論編1 政治・行政』神奈川県 1982による
註43 『自由党本部報道書』1884年6月付及び1884年6月10日付別紙、江村栄一「自由党史研究のために―「自由党本部報道書」の紹介をかねて―」神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 各論編1 政治・行政』神奈川県 1982による
註44 朝日新聞社社史編修室編修(松浦直治執筆)「第十四 新しい同人達」『上野理一傳』朝日新聞社(大阪) 1959、武者成一『史談 土俵のうちそと』雲母書房 2002
註45 長谷川昇『博徒と自由民権 名古屋事件始末記』中公新書487 中央公論社 1977、高橋敏『清水次郎長と幕末維新 『東海遊俠伝』の世界』 岩波書店 2003、高橋敏『博徒の幕末維新』ちくま新書454 筑摩書房 2004、高橋敏『清水次郎長 幕末維新と博徒の世界』岩波新書新赤版1229 岩波書店 2010
註46 長谷川昇「IV 自由民権運動」『博徒と自由民権 名古屋事件始末記』中公新書487 中央公論社 1977
註47 良知力『向う岸からの世界史 一つの四八年革命史論』未來社 1978、良知力『青きドナウの乱痴気 ウィーン1848年』平凡社 1985
註48 渡辺京二「自由民権運動の考察」『道標』第33号 2011年6月、講演は1981年 葦書房にて、渡辺京二「第五章 豪傑民権と博徒民権」『幻影の明治 名もなき人びとの肖像』平凡社2014による
註49 松沢裕作「地方自治制と民権運動・民衆運動 三 「暴徒」と「壮士」 1 暴力の再浮上」『岩波講座 日本歴史』第15巻 岩波書店 2014
註50 松沢裕作「地方自治制と民権運動・民衆運動 三 「暴徒」と「壮士」 3 激化事件と負債農民騒擾(2)騒擾と解放幻想」『岩波講座 日本歴史』第15巻 岩波書店 2014
註51 柘植秀臣「秩父事件余録」『歴史評論』379号 校倉書房 1981年11月1日
註52 日本共産党中央委員会幹部会委員長 志位和夫「「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」の実現をよびかけます」2015年9月19日『しんぶん赤旗』web版による
註53 「歴史の散歩道 第54回 第二章 人物編 市電の生みの親 助川貞二郎」広報さっぽろ中央区版 1999年2月
註54 「內國電報(廿七日發) ●官吏侮辱(札幌)」『東京朝日新聞』1905年12月29日4面
註55 「內國電報(廿一日發) ●區會議員官吏侮辱(札幌)」『東京朝日新聞』1906年1月22日2面
註56 「內國電報(三十日發) ●茨城縣の混戰【6字黒丸圏点】」『東京朝日新聞』1908年5月1日2面
註57 水戸より 特派員「●茨城縣の逐鹿界(上)」1908年5月1日『東京朝日新聞』1908年5月3日3面
註58 「●選擧界 ●進步黨の公認候補者」『東京朝日新聞』1908年4月30日3面
註59 水戸より 特派員「●茨城縣の逐鹿界(下)」1908年5月2日『東京朝日新聞』1908年5月5日3面
註60 『衆議院議員總選擧一覽』衆議院事務局 1912
註61 「●進步黨の遊説日割」『讀賣新聞』1908年5月6日2面
註62 「●選擧界 ●進步黨の公認候補者」『東京朝日新聞』1908年4月30日3面
註63 「第五編 廳治時代 第二章 過渡時代 第一節 植民議會總督府及北海道協會」『札幌區史』札幌區役所1911、船津功「第二章 札幌の北海道議会開設運動 第一節 運動経過」『北海道議会開設運動の研究』札幌学院大学選書 北海道大学図書刊行会 1992
註64 榎本守恵「研究ノート『殖民公報』と北海道開拓」『地域と経済』No. 6 札幌大学経済学部附属地域経済研究所 2009年3月31日
註65 『北海道毎日新聞』1891年1月11日、船津功「札幌における北海道議会開設運動の組織と担い手について」『札幌学院大学人文学部紀要』第40号 札幌学院大学人文学会 1986年12月による
註66 「札幌有志人民の協議会」『函館新聞』1891年1月22日、船津功「第二章 札幌の北海道議会開設運動 第一節 運動経過」『北海道議会開設運動の研究』札幌学院大学選書 北海道大学図書刊行会 1992による
註67 「時事 札幌に於ける第3請願事件」『北海民燈』第10号、船津功「第二章 札幌の北海道議会開設運動 第二節 組織、主体勢力、活動資金」『北海道議会開設運動の研究』札幌学院大学選書 北海道大学図書刊行会 1992による
註68 「歴代議員名簿」北海道議会公式サイト

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中