今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

魯迅と日暮里(58)南波登発の「亞細亞」への視線(33)筑波山麓の梁山泊 The Liangshan Marsh at the foot of Mt Tsukuba in Ibaraki

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ここで、再び「亞細亞勞働協會」の他のメンバーについてのレヴューをしておこう。

助川貞二郎『在北海道茨城縣人寫眞帳』国会図書館蔵による

助川貞二郎『在北海道茨城縣人寫眞帳』国会図書館蔵による

まず、北川平吉の1901年の住所は「本所區清水町六番地」とある。その年の新年2日、船橋から北川平吉邸に年賀に来た「人足業加藤福次郎(二十五)」が屠蘇酒に酔って「本所長岡町十八番地齋藤伊之助」宅で寝ていたところ、目が覚めて家を飛出し、通行の人と喧嘩したという記事が『東京朝日新聞』に載る。(註1)『東京土木建築業組合沿革誌』によれば、1884年、「帝都に始めて「土工組合」の設立を見るに至つた」際の「土工組合區域内に於ける各方面の代表的人物にして同時に組合の幹部たり又その設立の功勞者」として「本所方面 今村事 北川平吉」の名が載る。また、1903年に拡大改組された「東京十五區六郡土木建築實業組合」の「傍系組合組合幹部」の「五之部(區域本所區、南葛飾郡ノ一部)」に「幹事 北川平吉(本所)」の名が見える。(註2)1914年、「東京土木建築実業組合は榎本政吉,遠藤政吉,河合徳三郎,北川平吉,小久保謙三郎,中島金太郎,藤沢政太,山本石松らによる改革が試みられた。そして,➀あらかじめ業界から責任感強く信用ある者を物色厳選し,➁当初から公認組合として創立すべく認可指令に接するまで運動を続けること,などを決め,公認組合設立に着手した。」(註3)こうして1916年に再改組された「東京土木建築業組合」の評議員に就任(註4)、土木業界における大立者の1人となった。

明治期の土木行政は旧幕時代のそれを引継ぐものとして出発し、鉄道建設、新道開鑿、築港、またそれらに付随する隧道、橋梁工事等の新事業に着手した。「明治3年に設立された工部省は,11年,起業公債を募集し,集めた資金1000万円を起業基金として各種事業に支出することを決めた。その結果,19年4月までに工部省が支出した起業基金は,経常費支出と合わせて約1240万円にものぼった。そのうち,鉄道建設と測量に440万円,港湾建設・新道開削・用水路開発に約170万円と,約50パーセントがいわゆる土木事業に投資された。」(註5)しかし、「明治時代は20年代初め頃まで交通運輸の基軸として舟運が重要であった。このため、国直轄による河川工事にあっては、主に低水工事が行なわれた。」(註6)いっぽう地方行政を見ると、埼玉県の土木行政は、専ら利根川とその支流の河川改修・治水管理に力を注いでいた。明治政府になっての治水管理は旧幕時代の技術者(普請方)によって支えられていたが、1896年に河川法が制定されるまで、中央政府の直営事業として営まれることはなく、「明治四十三年の大水害」を引き起こすに至る。治水工事も地元民の蓄積した技術に頼っていたという。(註7)茨城県でも事は同様であり、治水問題が1908年の衆議院選挙をめぐる政治状況に大きな影響を及ぼした。すなわち利根付小貝川の改修問題を争点に政友会と非政友会の対立局面が現出し、県西の本拠地から県南に転じた政友会の小久保喜七が小貝川改修のイニシアティヴを掌握して当選、同じく地元である筑波郡から転じたものの、政友会公認をえられず非政友候補として「輸入」された助川貞二郎が落選することになる。(註8)

次に、津田官次郎は、後の章で述べる通り、「東洋社會黨」の創設メンバーである。中村敬太郎は、先に触れた「平民同盟會」の主要メンバーで、新発田事件の主犯者。加波山事件の際に制定された爆発物取締規則によって逮捕されている。

また、鈴木立三郎については、「日本勞働組」でも登場したが、三島通庸関係文書の中に、彼の記録が残されている。三島通庸関係文書内の1887年9月5日付請願書「内務大臣山県伯爵閣下ニ上ル之書」は「集会条例ヲ放解」し、「自由言論自由出板」を求めたものであるが、その差出人は次の通りである。

「茨城縣筑陽組
  総代
    湯山治亮
    川島烈之助
    鈴木立三郎
    山本佐輔」(註9)

この文書につき、色川大吉 我部政男監修 大日方純夫 安在邦夫編『明治建白書集成 第八巻』は「茨城縣筑陽組」を「茨城県船場組」と翻字しているが(註10)、原文の「筑陽組」を誤読したものである。そうであればこそ「筑陽館主意書」が付属文書として収集されている意味が判然となる。その「筑陽館主意書」を以下に掲げる。

「       筑陽館主意書
大𠀋夫ノ丗ニ在ルヤ磊【脚は渋の旁の脚】々落々生テハ当ニ揆乱反正ノ大業ヲ當丗ニ挙ケ死テハ当ニ芳声偉沢ヲ千載ニ垂ル耳亦何ヲカセンヤ天下何レノ时カ偉男子ナカランヤ難ヲ見テ進ミ義ヲ見テ勇ミ勢ノ外ニ立チ未タ機ノ至ラサルニ機ヲ成シ我カ為サントスル所ハ必ス為シ我カ行ハントスル所ハ必ス行ヘ毫モ他人ヲシテ其时ヲ牽成セシメズ豈ニ偉男子ト謂スシテ将タ何ト云ハン冨貴勢利ノ問ニ凝滞シテ死生毀誉ノ中傷泥スルモノト安ンゾ天下ノ大勢ヲ論スルニ絶ヘンヤ 今ヤ我邦ノ形勢ヲ視ルニ日ニ浮虚ニ流レ月ヲ軽躁ニ陥リ豊【禮、礼】義廉耻ハ将ニ地ヲ拂ハントシ忠孝ノ大義ハ宛モ雲散霧消シタルモノノ【消字・ト】如シ是レ学風織組順序ヲ過ツノ致ス所ト虽モ人心ノ萎靡振ハザルト外飾ニ汲〻タル罪多キニ居ル 茲ニ於テ同志一黨ノ士ト謀リ文ヲ講シテハ天賦ノ智識ヲ磨シ武ヲ演シテハ真ノ膽氣ヲ煉リ質朴喬氕ノ志風ヲ振作セントシ一派ヲ創立シ名ケテ筑陽館ト称シ廣ク天下ノ俊才ヲ養ハント欲ス明健憂國慨丗ノ士ヨ来テ爰ニ事ニ従ヘ琢磨以テ護國ノ膽ヲ□□シテ【合字】東洋ノ衰勢ヲ挽囘スルノ力ヲ養成セヨ其学事ノ順序ト組織ノ法方ニ至テハ載セテ別冊ニアリ
(別冊)
         館  則
第一条 本館ノ目的ハ同志相会シ文武ヲ講究シ以テ青年ヲ振作スルニアリ
第二条 本館ヲ名ケテ筑陽館ト称シ筑波山下北条ニ置ク  第三条 本館ハ左ノ役員ヲ置ク 館長壱名 幹事四名 書記二名  第四条 館長ハ館則ノ実行ヲ司リ総テ館則ヲ監督スルモノトス  第五条 幹事ハ館長ヲ補佐シ庶務ヲ整理スルモノトス但館長ノ欠席スルヿアルトキ【合字】ハ幹事之レニ代ルベシ  第六条 書記ハ館内一切ノ記録ニ當ルモノトス  第七条 館長幹事ハ館員互撰シ書記ハ館長ノ特撰ヲ以テ館員中ヨリ挙ク  第八条 総テ役員ハ一ケ年毎ニ改撰スル者トス  第九条 館長幹事ハ無給タルヿ但シ書記ハ応分ノ給料ヲ与フ  第十条 館員タラント欲スルモノハ館員二名ノ紹介ヲ要シ入館金ヲ納ムヘシ  第十一条 館員ノ外名誉館員及ヒ凖館員ヲ置ク  第十二条 本館ノ主㫖ヲ賛称賛成シ五円以上ヲ義捐スル者ヲ以テ名誉館員トシ毎月三十戋ノミヲ出スモノヲ以テ凖館員トス但シ凖館員ハ館務ニ干与スルヿヲ許サス  第十三条 第一条ノ目的ヲ達センカ為メ政事法律英学經済漢学及ヒ武術ノ教科ヲ講究スル者トス  第十四条 毎月二回定期演説会ヲ開ク  第十五条 館内时毎ニ適切ナル書籍及ヒ新聞雑誌朩ヲ備置テ凡テ館員ノ縦览ニ供ス」(註11)

庄司吉之助によって示された1889年から1890年の「茨城縣政况」によれば、別に筑陽会という組織もあり、次のような組織実態であった。

「一、大同派
筑陽会ヲ新治郡大穂村字若森ニ設ク右会重立タル者ハ神立龍太郎、廣瀬暢三、木下精一、坂入市郎、坂入金作、清水健二郎、小島藤𠮷【吉の異体字、U+20BB7】、市村藤三郎、江戸守三郎、矢口忠平、青木重平、飯嶋音松、根本伊平、高野芳之助、江戸周、中山泰次、大里正平、井上嘉一、遠藤助太郎、藤島謙𠮷【吉】、路川弥四郎、大久保佳二郎、大久保縫太、関本善十郎、田村義嗣【、】沢辺民次、高田弥太郎、鈴木新之助、宮本文𠮷【吉】、渡辺禎四郎、酒井徹、河田雄一、鈴木清之助、酒井豊𠮷【吉】、沼津孝之助、茂在源兵エ衛ノ諸氏ニシテ会員凡ソ三百五十名」とある。(註12)

桐原邦夫氏によれば、筑陽会の会員は「筑波郡の北部を中心として、新治郡の一部を含んでいた。会員のうちおもなるメンバーとしては三六人の氏名がわかるが、そのうち出身地の明瞭な者は大穂村では大久保佳二郎、大久保縫太、関本善十郎、田村義嗣、沢辺民次、高田弥太郎の六人である。大穂町地域の出身と目される者もふたり含まれている。彼らはいずれも豪農層の出身であり、行政機構の末端を担った階層であった。大穂村以外のおもなるメンバーには明治二二【1889】年東京で開かれた大同倶楽部の臨時大会に出席した新治郡栄村の酒井徹をはじめ、栗原村でふたり、九重村にひとりがいる(以上は現桜村)。また現筑波町地域では、北条町に神立竜太郎ほかふたり、菅間村に坂入金作ほか三人、小田、作岡の両村ではそれぞれひとり、田水山村では四人が確認できる。」とのことである。ただし、『筑波町史』によれば、北条町出身のメンバーは市村藤三郎、茂在源兵衛の2名であり、神立竜太郎は泉村の出身であるという。(註13)

会の場所及びメンバーが異なることから、筑陽館(筑陽組)と筑陽会をストレートに同一組織または後継組織として考えることはためらわれる。しかし、南波登発が初めてわれわれの前にその姿を見せたのが北条町であったこと、南波登発と北条町の筑陽館(筑陽組)メンバーの鈴木立三郎につながりがあったことは、決して偶然ではないだろう。さらに助川貞二郎の子息が北条町の南西に接続する大穂村で生れていることにも注目しよう。これらのことは、南波登発の生涯の真相を探るための、1つの大きな手がかりを与えている。そして、ここにおいてはじめて、南波登発が自由民権運動において活発な動きのないとされた北条町に登場した背景が分かるように思う。南波登発の「寄留」(註14)、「寄宿」(註15)した先は、この「筑陽館」であった可能性が高い。なお旧・大穂村は、世界有数の粒子加速器Super KEKBを有する国立大学法人 総合研究大学院大学 高エネルギー加速器科学研究科 大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構の所在地である。

利光鶴松『新東亞建設を誘導する人々』国会図書館蔵より

利光鶴松『新東亞建設を誘導する人々』国会図書館蔵より

小田急電鉄を創業した利光鶴松もまた自由党系の壮士であり、鈴木立三郎とも親交があった。

「予ガ学生時代 即チ明治十七【1884】年ヨリ明治十九【1886】年ニ至ル迄 前後三年間流寓シタル 神奈川県五日市地方ハ 実ニ自由党ノ巣窟ナリ 地方ノ有力家ノ皆悉ク自由党員ナリ 就中 町長 馬場勘左衛門 豪族 内山安兵衛、深澤權八ノ三氏ハ 深ク天下ノ浪士ヲ愛シ 之ヲ厚遇セシニ依リ 四方ノ有志 伝聞シテ来遊スル者甚ダ多シ 以上三氏ノ外 大上田彦左衛門、佐藤藏吉、大福清兵衛、田島新太郎、瀬戸岡爲一郎氏等ハ皆土地ノ有力家ニシテ 熱心ナル自由党員ナリ 伊東道友、窪田久米、長坂喜作、小笠原省三、市原直次、加藤宗七、北村文徳、高坂松壽、佐藤惣松、長谷小一郎、安藤幸太郎、奈良雲峰、山野熊太郎、鈴木立三郎氏等ハ来遊ノ有志ニシテ 久シク足ヲ留メタル人々ナリ 其他一時ノ客トナリシ有志ニ至リテハ 枚挙ニ遑アラザルナリ 石坂昌孝、村野常右衛門、森久保作蔵氏等ハ 県下自由党ノ首領株トシテ常ニ其気脉ヲ通ジ居タルナリ 予ハ偶然ノ因縁ニ由リテ 此地ニ流寓シ 滞留三年 常ニ以上ノ有志ト交ハリ政治的感化ヲ受ケタリ 是レ 予ガ後年 自由党員トナリシ主ナル動機ナリ」(註16)

利光鶴松の娘・利光静江は、1896年の二百十日の日に深川で生れた。小学校は地元の深川小学校であったが、通学は自家用の人力車に乗って通ったという。東京女子高等師範学校付属高等女学校から1911年には、東京聖心女子学院語学校へ進学。外国人修道女の生活に心を打たれて受洗。洗礼名はモニカである。1918年に大蔵官僚の伊東亮一と結婚、以後、伊東静子として知られるようになる。1929年、小田急電鉄の開発した南林間都市に「大和学園女学校」を創設する。現在の聖セシリア女子高等学校である。(註17)なお、利光鶴松もキリスト教に入信、1928年には自宅近い喜多見の土地を提供、カトリック喜多見教会が建てられた。(註18)霊名はヨゼフ。(註19)戦後には成城教会、調布教会を分離するなどしたが、東日本大震災の影響を受け、2013年閉鎖された。(註20)

最後に、家根屋弥吉(安藤弥五郎)については、新場の小安とあわせて以前に触れたことがある。ここでは『關東俠客列傳』による伝を紹介する。

「     安藤彌五郎
安藤彌五郎は東京淺草に住す弘化四年【1847年】を以て同所に生る幼より活潑にして腕力能く人を壓するの威力ありて常に義を重し人と約せしこと【2字合字】あれば如何なる難事の事あるも必ず果すと云ふ又慈善心深くして人の艱難を聞く時は遠近を問はず出でゝ其事に與かり飽まで盡力し救ふを以て人僉【み】な敬重するに臻【いた】れりと然りと雖も天性賭博を嗜み營業を顧みさる爲め父母大に是れを憂ひ數々訓戒を成すも聞き入れず卒に地方に出てゝ遊ぶに至れり彌五郎賭博に遊ふと雖も决して人を苦しめず又良民を欺き詐欺賭博を爲すの輩ある時は腕力を以戒め弱きを援ひ強を挫き悪奸を懲らす故に到る處親分と稱せられて人に用ひらる又町內に紛事等ある時は彌五郎出てれば事鎭まるを常とすと云ふ府下に災害或は赤貧の者ある時は多額の金圓を出して惠むこと【2字合字】は人の能く識る所なり彌五郎此頃感する所ありて斷然賭博を止め淺草に寄席を設け營業を勵み金圓を亂費せず有事の時金を出して捐つると云ふ編者聞く彌五郎の家は屋根職にして其業に達し又義俠心あるを以て人僉【み】な屋根屋の彌吉と稱して汎く世に名を識られし人なりと云ふ」(註21)

ここに見られるような社会的セーフティ・ネットへの期待は、博徒一般に寄せられていた。その一端は、大阪における小林佐兵衛や香山親彦の事例で既に確認した。また、「札幌勞働組」のメンバー紹介の際にひんぱんに「俠骨」(金子定義)、「俠客」(高瀬和三郎)、「義俠」(岩崎粂三郎、伊藤辰造)、「俠氣」(岩崎粂三郎)とやたらに「俠」の字が現れたことも偶然ではあるまい。石川正蔵もまた「俠客」とされていた。同時に「女郎屋」(笠原文司、高瀬和三郎、岩崎粂三郎)、「顏役」(岩崎粂三郎)、劇場主(岩崎粂三郎、伊藤辰造)という職業もひどく気になる。これに関連していえば、清水次郎長による救恤事業もまたこの流れの中で理解できる。賭博の起源が仏心・神意の確認にあること、「寺銭」の語に示される通り、仏神への勧進の要素を有していたことを考え合わせれば、一種の公共性を帯びていたことが容易に納得できる。横浜の居留地を本拠とした埋地の仙太(渡辺仙太郎)と居留地外を本拠とした綱島小太郎の対立抗争に巻き込まれた痴遊伊藤仁太郎が、各地の俠客を説得しえた根拠も、まさにこの1点にあったのである。(註22)ただし、正義の源泉となり、社会的「公正」を担保するものは暴力にほかならなかった。とはいえ、それは現政権の政治手法と全く変わるところがない。ただし現政権は、「被災者よりカジノでさっさと国会閉幕」(註23)、「カジノより被災者を助けて!!」というしごく真っ当なメッセージを掲げた野党議員を「議場の秩序を乱し、議院の品位を傷つける行為として認めざるを得ない」として懲罰に付すのだという。(註24)

助川貞利『メリヤス日本』104-屠れ米英!-我等の敵だ-進め一億-火の玉だ!-号より

助川貞利『メリヤス日本』104 屠れ米英! 我等の敵だ 進め一億 火の玉だ! 号より

助川貞利は、「一三歳の時、札幌で事業を始めた父親と生活を共にするため渡道、西創成小学校から札幌中学校へ進んだ。虚弱体質で得意な学科は数学と物理であった。同四十三【1910】年政治・経済の方面へ進ませたかった父の反対を押しきって早稲田大学予科に入学。政治・経済の方面へ進ませたかった父の反対を押しきって早稲田大学予科に入学。バプテスト教会のH・ベニンホフ宣教師が責任者であった「友愛学舎」に寄宿、ここの生活を通してキリスト教への信仰を確かなものにした。そしてこの年の十二月、メソヂスト系の本郷中央教会で杉原成義牧師から洗礼を受けたが、杉原牧師は札幌美以教会在任の時、母ヒデを信仰に導き、洗礼を授けた人であった。」(註25)学業としては「早稻田大學電氣科に學び、大正五【1916】年卒業、歐米の電氣事業視察を思ひ立ち、急速準備に着手、旅行免狀を下附され、いざ出發間際に二竪子【病気】の妨げを蒙り、殘念ながら中止、病癒ゆるを待ち東北帝大理學部物理教室の助手となり、二年間硏究を重ねて勤務に力を致す。」(註26)東北帝国大学では本多光太郎教室に所属する。

「本多博士のもとには、大正五【1916】年九月より同七【1918】年十月までの二年間つとめることになるが、当時について次のように助川【貞利】さんは話している。
「本多博士のもとでどういう研究をされましたか」
「ニッケル鋼研究のための液体空気、電気炉、オシログラフ、実験用の治具制作【、】実験工場の管理などにあたり、本多博士の研究に協力しました」
「鉄と液体空気の関係はどういうことになっているのでしょうか」
「液体空気は、空気を八百万分の一程度に圧縮して液体にするのですが、温度の変化による鉄の分子の状況を研究するために必要でした」
「電気炉というのは――」
「電気炉は温度が三千度以上に達するので、これで炭素やニッケルを鉄の硬度、弾力、その他必要な特性に応じて投入し、不純なものと交えることなしに溶解して鉄を造る実験をするものです」
「そのほかに印象に残る研究にはどういうものがありましたか」
「X線、レントゲンの研究をしました。鋳物の中には特殊な巣状のものができるのですが、それをX線で外部から発見できる方法はないかと。また、医師との共同開発で、人間の心臓電流に関することや、蚕室用の恒温恒湿の調整器、電気の盗用防止のための電流制限器の製作などをやりましたね――」」(註27)

1917年12月4日、助川貞利は千葉シナと結婚。(註28)当時、他にも「シナという名の女」(註29)が存在した。民衆レベルにおける伝統的中華世界への憧憬に基くものと思われ、かつ「シナ」の語が「中国」に代置された差別語ではなかったことも分かる。

北海道聯回長老師J・ソーパー『恩師ソーパル博士』より

北海道聯回長老師 J・ソーパー『恩師ソーパル博士』より

助川貞利に洗礼を授けた杉原成義は、「明治三年二月八【日、1870年3月9日】」「山形縣上ノ山町」「に生る。父は杉原千尋、母はれい、兄は杉原小八郎、弟は黒田成敏といふ。吉岡たみ、清見なほ、宍戶瑞枝【、】柳原りつの四妹あり。小學校卒業後山形尋常師範學校に入り、夫れより米澤中學校に轉じたり。此頃基督教に接し、明治十八【1885】年五月十日、米澤教會に於て、古坂啓之助氏より洗禮を受けたり。爲めに父母、親戚、友人の迫害甚しかりしも屈せず、中學校卒業後、傳道者たるの志望を以て東京に出で、青山神學校に入りたり。而して明治廿五【1892】年八月卒業直に名古屋市に赴任し、南園町メソヂスト第二教會を創設し之れが牧師となり在職五年【、】廿九【1896】年五月陸中盛岡市美以教會の招聘に應じ、敷地の購入其他非常の貢献をなし同三十一【1898】年山形市美以教會に轉じたり。其後明治三十五【1902】年六月渡米し、オレゴン州ポートランド市日本人教會牧師となり、在職二年にして三十七【1904】年九月北米ニユー、ゼルシー、ドルユー神學校に入り神學を修めたり。而して三十八【1905】年九月歸朝し、北海道札幌メソヂスト教會に招聘せられ、居ること七年、明治四十五【1912】年五月東京本郷中央會堂牧師となれり。大正五【1916】年四月名古屋メソヂスト中央教會堂に轉じ、以て今日に至る。而して初め氏の奉教を遺憾とし、如何にもして氏の志を飜さしめんとせし父母、親戚も遂には斯教の價値を承認し、一家一族悉く教へに歸し、四人の妹は皆信徒に嫁するに至りたり。明治廿七【1894】年十月廿一日、津田瑞氏の長女里子を娶り、一雄、ヨシ、アイの一男二女を有す。」(註30)という人物である。札幌では7年間の伝道だったが、東京でも縁ある北海道人を信仰に導いたことになる。

1918年、助川貞利は帰札して父の起した鉄道会社の支援をすることとなった。ここで彼を待っていたのは苦難の連続だった。

藪堯祐『北海道十字之光』国会図書館蔵より

藪堯祐『北海道十字之光』国会図書館蔵より

助川貞二郎が藪惣七、福井正之と合資して札幌石材馬車鉄道合資会社が創立されたのが1904年。1909年「札幌市と豊平町石切山穴の沢の間(当時札幌駅前から出て北五条西十一丁目から南進したが、後西七丁目を南一条に出て西十一丁目に変更した)に軌巾二フイート六インチの軌道を敷設し、石材の運搬と定山渓方面に至る旅客輸送の便を図つたが、四十五【1912】年には市内運輸を計画して札幌市街軌道株式会社と改称、札幌停車場―中島遊園地間、南一条西十五丁目師範学校前―東二丁目浦河通間、札幌停車場前―苗穂停車場前間(北五条西三丁目通を北三条通に出る)等、市内枢要の地域に路線を敷設営業するに至つた」。(註31)「馬鉄が走って、おおいに便利になった。札幌駅前からおそまつな客車に得意然とおさまれば、馬は馬ふん臭をまき散らして快適に疾走した。郊外の不良路面にさしかかると、時々ゴトンと「脱線する事があり、客人は下りて、車をレールに上げて、また馬に引かせるのどかなもの」であった(石山高等学校『十年の歩み』)。石山でおりた旅客は、馬鉄駅前の西村屋という飲食店で腹ごしらえしたうえ、わらじのひもを引き締めて、スタスタと歩きだした。ある人は道産馬(どさんこ)の背にまたがり、金のある人は客馬車を仕立てて、定山渓をめざして出発したのである。」また、石狩街道は「住民が努力して路面を固くしようとしたが、依然としてでこぼこであった。馬鉄がつくと運搬はおおいに便利となり、逆に道路はかえりみられなくなった。ところどころに深い水たまりができ、ときにはフナがプカプカ泡をふいていた。また幾日も深みにはまり込んだ空馬車が捨ててあった。馬鉄はそれをよそに鈴の音もさわやかに走った。といってもただレールをひた走りに走る馬は、いっぱんにやせて生気なく、畑にプラオをひく農耕馬のつやつやした毛なみとは比べものにならなかった。」(註32)

1918年、「開道五十周年記念博覧会が札幌で開催されるのを機会に、会社では電車に改めて年の体裁を整える計画をたて、」「四月早々工事を開始、昼夜兼行ついに八月十二日午後九時に至つて、電車の開通を見るに至つたのである。」(註33)この時、助川貞利は「東北帝大を退き歸札、直に會社の人となり、總務部長の椅子を與へらる。電氣事業の設計或はその監督に氏は造詣努力の總てを傾けて、眞に父君片腕の働きをなす。」(註34)
しかし「技術面でも経営面でも、だれも経験がなかったから、幹部の苦心は容易なものでなかった。ただ助川貞二郎の強い性格が一同を引きずった。貞利も、札幌より北にあるカナダのケベックにも電車が走っている以上、札幌でもやれないことはないとかたく信じていた。」(註35)「馬車鉄道を電化するに当つて、当時会社の技師長助川貞利の立てた計画は、電車は外国から購入し、軌間は将来市の発展を考えて四フイート六インチとすること等で、電車はすでにイギリスのデツカー会社に対し購入の手続中であつたが、当時は第一次世界戦争中のため海上輸送に危険があり、かつ七【1918】年八月の博覧会開催までに実現しなければならない事情もあって、急に計画を変更」(註36)を余儀なくされる。「工事が始まると、「人力車の車夫連中の妨害が始まった。酒を飲んで路上に大の字になって寝たり、石を線路の上に置き並べるぐらいはしょっちゅうだった(助川貞利談による)。それより困ったのは、イギリスに注文してあったレールが、第一次世界大戦のぼっ発で船便の都合がつかず、期日にまに合わなくなったことである。やむをえずアメリカのある農場から古ものを見つけてきて、曲がったのはたたき直したりなどして、どうにかすえ付けた。電車入手も困難であった。おりから全国鉄道軌道教会の総会があったので、助川は一席涙ながらに窮状を訴えたところ、そのかいあって名古屋に古ものを見つけることができた。」(註37)だが、「名古屋電気鉄道株式会社から車輛を購入したため、車輛と同様に軌間も三フイート六インチとしなければならなかつたのである。」(註38)
「しかし、初めての冬は電車にとって御難であった。線路に雪が積もれば、馬そりを動員して除雪しなければならない。がんらい馬車屋である助川は馬を動員することは敏速であった。それでも電車が通れない場合は、四〇台の馬そりが電車券で客をはこんだ。技師貞利は苦心のすえ、ブルーム式除雪車を発明した。つまり竹を割ったササラを取り付けたものでそれを回して雪をはねとばすのである。これは今も同じ式のものを使っている。」(註39)

iyoupapa氏撮影-稼働中の札幌市交通局のササラ電車-雪1形(2011年)-wikipediaによる

iyoupapa氏撮影 稼働中の札幌市交通局のササラ電車 雪1形(2011年) wikipediaによる

無事博覧会に間に合った市街鉄道であるが、乗客拡大のため、「春は花見の客を誘ふ、圓山の設備、秋は中島遊園地の觀月、夏は豐平河畔の納凉、冬は賞雪と來る處だが、北海道の雪は名物に似て、其の實は名物にあらず、千門萬戶、雪に閉されて、觀るだに嫌氣がさす、雪軍の包圍攻擊を娯むものは、恐らく杣夫のみだらう、雪は厄介物に似たれども、利用其の宜しきを失はなければ、優に金儲けの材料となるを得べし、其の如何に利用して乘客を吸収するかに就ては、恐らく助川專務は、多年の宿題として、硏究中なりと推察する」。(註40)この様相は同時期のアメリカにおける鉄道事業の展開に似ている。終着駅にアミューズメントパークを設置し、乗客を運ぼうというのである。そして、冬のお楽しみとしては、かつては政談演説会が1つの娯楽として人々を動員していたのだが、政治の季節は過ぎている。そして庶民のエンタテインメントの王様であった賭博も、1907年の刑法の全面改訂に伴い、犯罪構成要件から「現ニ」の文言が削除され、現行性が必要とされなくなった。(註41)

札幌大化院(1933年改築)『北海道社會事業團體誌』国会図書館蔵より

札幌大化院(1933年改築)『北海道社會事業團體誌』国会図書館蔵より

1912年、助川貞二郎は「免囚保護事業たる札幌大化院長及公益質舗を開設」する。(註42)「助川【貞利】さんのお話によると、事業の出発は父ではなく、母によるものであるという。」「当時助川家に出入していた人の中に、仁平弁護士がいた。」(註43)

仁平弁護士は仁平豊次。1850年8月20日(嘉永3年7月13日)(註44)、78ヶ村の大庄屋で酒造業を営む仁平杢左衛門の長男として越後国中頸城郡水源村横山に生れる。「氏年甫めて十一去て下野に徃き瑞泉院に於て漢籍を修め居ること四年にして鄉に歸り」(註45)「元治元【1864‐65】年豐次年漸く十五父を繼ぎて庄屋と爲り以來其職にあること九星霜廃藩置縣の際に至りて止む」(註46)「明治五【1872】年辭して東京に出つ蓋其地良師奈く學事を成さんと欲するも意に滿さるものあるを以て奈り尋で同人社に入り英書及ひ和漢學を修むること一年更に名村泰藏氏に就きて法律を學ふ八年三月驛逓寮十五等出仕を拜命」「十四【1881】年一月職を辭して東京法律學校に入り法學を硏究し傍ら礒部四郎氏に就き其薫陶を受く十五【1882】年尾張名古屋に於て秋期代言試驗に及第し十六【1883】年代言免許を得名古屋代言人組合に入り業を茶屋街に開く」「二十二【1889】年十一月基督新教に入り洗禮を受け二十三【1890】年二月其會に入る」「氏身上に關し思考俄に定めかたきものありて廿一日間の絕食を奈し神に禱る所あり其十七日目に至り怱焉として胸中に渡道の志を起せり十月意を决して横濱に到る時に旅費乏しかりしを以て代言人齋藤孝治を其蘆【廬】に訪ひ旅費の借用を乞ひ且其意中を語る幸ひ奈るかな好機會の以て投すべきものあり是他にあらず予か知己水嶼隣多近頃業を他に轉せんとするの志あり而して同地に於て之に代るべき適當の人物奈きに苦む行け子彼土にありて斯業に從事したらんには獨り子か幸福のみ奈らず亦彼土の幸福と謂ふべしと因て其添書を得て遂に北海道に来る時に同年十月下旬なり乃名古屋代言人組合を脱し札幌代言人組合に入り廿四【1891】年四月其副會長となり廿五【1892】年一月に至り之を辭す(會長水嶼隣多氏かエトロプ漁業に從事するや氏は代りて會長の事務を行ふ)/初め氏の札幌に來るや新教同派の懇親會を開き其後組合を組織し撰はれて其組長となり大に斯教上に尽力せり廿五年七月札幌に美以教會を起すの論起るや氏其間に斡旋し教師を聘し會堂を起て專念之か擴張を圖る今の美以教會なるもの即ち是なり」(註47)

仁平豊次『北海道人名辭書』国会図書館蔵より

仁平豊次『北海道人名辭書』国会図書館蔵より

そして、助川貞利の「母上【助川ヒデ】は、札幌メソジスト教会創立者のひとり仁平豊次氏(弁護士)の熱心な奨めと、杉原牧師との指導によって入信し、家庭生活の中にも着実に信仰を生かしていた。」(註48)助川貞利によれば、「三十数年も昔【1920年代】の話であるが、札幌の電気軌道会社の技師をして居た私は、当時、免囚保護の仕事に熱心であった母から、毎年雪虫【トドノネオオワタムシ、Prociphilus oriens】が何処からともなく飛んで来る収穫時期になると、農場から送られた米俵を、高高と石蔵に積みあげて、ね【傍点】、これだけあれば、あの人達がどんなに喰べても心配ないのよ、なんといつても、腹一ぱい喰べて貰うことこそ、過をした人達の心を落付けるのに一番大切なことだと、繰返していつた母の愛情こめた体験、含みのある言葉を今でも私は忘れないでいる。」という。(註49)それは仁平豊次による「由來基督教を信し慈愛心深く出獄人保護の目的を以て二十九【1896】年四月以來被免囚徒百三十餘名を開墾に從事せしめ彼等をして衣食に不自由なからしめたり」(註50)という先行経験に倣ったものと考えられる。

助川貞二郎は、札幌「市内の一家屋を手に入れて、札幌記念保護会として、数人の釈放者を収容して、自治の道を開かせた。」(註51)すなわち「大正元【1912】年九月十五日札幌の實業家助川貞二郎氏が恩赦の慈旨を記念し札幌市北一條西二丁目一番地に保護場を設け、札幌記念保護會と稱し釋放者の保護の爲、軍手、紙袋貼等の事業を開始」、「大正四【1915】年一月十五日名稱を札幌大化院と改稱」、「然るに收容者の増加に伴ひ院舍狹隘を告ぐるに至り、南一條西四十七丁目一番地に借地し、新築して大正十【1921】年十月移轉した。大正十四【1925】年十月三日財團法人組織となし、」(註52)土地は「藪惣七という札幌随一の富豪の好意で土地の提供」を受けたものであり(註53)、藪惣七は札幌石材馬車鉄道合資会社の協同創立者の1人であった。「以来没するまで、私財をつぎこんでこれを続けた。貞二郎の死後は長男貞利に引きつがれて、まさに半世紀を越えるのである。」(註54)

藪堯祐『札幌之人』国会図書館蔵より

藪堯祐『札幌之人』国会図書館蔵より

藪惣七は、「弘化四年正月一日【1847年2月15日】」(註55)、「福井縣坂井郡四鄉村字冲野々村の庄屋穴田四郎右衞門の五男に生れ幼少出でゝ親戚藪權右衞門の養嗣子と爲りて其姓を冒す」「明治七【1874】年三月千金の資を携へて創始當時の札幌に移住し」(註56)、「米穀荒物雜貨店を營み、」(註57)「傍ら道廳陸軍の土木建築を請負ひ十年を出でずして富數万を得たり」「明治十八【1885】年前業を廢して農業に轉じ兼ねて金貸を業とし爾後宮崎福井石川の各縣より多數の移民を招致して盛に各所の荒蕪を拓き遂に一千町步の耕地を有して富巨万を積み札幌富豪の首位を占むるに至れり三十五【1902】年資本金四萬圓の札幌石材合資會社を創立して其社長となり四十二【1909】年同社の組織を改め資本金三十万圓に増資して札幌市街軌道株式會社と改稱」(註58)、「明治十八【1885】年札幌區總代に選まれ卅二【1899】年迄勤續し三十八【1905】年札幌區會議員に當選一期間其の職にあ」った(註59)「外は殆んど公職に就かず成る可く之を避くるを例とす近年感ずる所ありて佛に歸依し」(註60)「四十四【1911】年四月本願寺前法主大谷光瑞師の得度を受け堯祐と改名し僧侶となり私財を投じ札幌大通四十六丁目に一寺を建立す堯祐寺と稱す大正三【1914】年十月其の住職となり」(註61)、1919年末には「區內の細民一百名に對し一名に糯米(もちまい)二升宛施米」(註62)、堯祐寺を核に「住民本位主義を採」る住宅地を整備(註63)、「市內一般の標凖價格より一割以上の安價にて住宅居住者及び區域內居住者に供給する」「藪特設商店互助組合」を組織する。(註64)

1915年春、「札幌大化院にては免囚保護及失業者救濟の目的を以て諸種の事業を經營しつゝありしが今回同院經費補充の爲來る十四、五、六の三日間花の日を催す事に決定し旣に造花一萬五千餘個の製作方を札幌女子職業學校生徒に依頼したりと。」(註65)「圓山停車場其他數箇所に於て一万五千の造花を一厘三錢にて有志の各婦人令孃を以て大方同情者に鬻ぐ由なり」。(註66)そして当日、「圓山▽停車場▽南一條馬鐵中央點附近▽大黒座附近▽師範學校附近▽其他」の「花賣場所にて區內各校生徒其他有志婦人等此擧に同情し各自花賣をなす由花一輪代金三錢なりと」。(註67)次いで、「大正五【1916】年の春、今は北海道神宮となった札幌神社境内で、多くの主婦の協力者が「愛の慈善花」と、赤地に白く染めぬいた前掛を締め、たすきを掛けて「召しませ花を、慈善花寄るべない人にくみかわす酒と酒の間を歩いて、一個二銭の造花を売ったものであった」(註68)というチャリティ活動が展開された。助川貞二郎の馬力もさることながら、妻・ヒデと女性クリスチャンの動員があったと思われる。

地崎宇三郎『北海道十字之光』国会図書館蔵より

地崎宇三郎『北海道十字之光』国会図書館蔵より

ヴォランティアの初代会長は大化院の理事で「立志伝中の人で優れた土建業者」の地崎宇三郎である。
地崎宇三郎は、「明治二年十月十七日【1869年11月20日】を以て富山縣西礪波郡石動町に生れ」(註69)、「乃父を嘉吉と稱し、雜貨荒物の販賣を業とせり。少壯旣に大志を抱き事を東都に爲さんとして上京し、各所を浪々す。偶々北海の新天地志を伸すに足るの地たるを耳にし、決然渡航を企て明治二十四【1891】年北海道炭鑛株式會社設營工事の一工夫となりて渡道」(註70)、「幾くも無く札幌へ來り土木請負業者の下請負を營み三十七【1904】年獨立」(註71)、「小澤岩內間輕便鐵道工事、鵡川土功組合の灌漑用水工事、士別、深川、芽室の各土功組合灌漑工事渚滑線、羽幌線其の他の大工事無數に請負何れも完成す。」(註72)という人物である。「又公共慈善の志に敦く、近年貧困家庭の子弟を收容して勉學の途を開き、人材養成の事に力を傾く」。(註73)「地崎宇三郎は本道土木建築請負業界の權威と言はれる、官廳の指定請負人たる名譽を擔ふて居る、彼は世襲財產無用論者だ、自分の儲けたる財產を子孫に殘さず、自分一代で公共事業や、慈善事業のために使ひ果たすと云ふ決心を極めて居る」という信条の下に行動していた。彼はまた、札幌神社に大鳥居を献納、西本願寺別院の道路を整備するなど(註74)、キリスト者ではなかったようであるが、『北海開發事蹟』は、その人となりを「土木界の巨頭 公共仁慈の篤志家」と総括する。(註75)
札幌大化院をめぐって、キリスト者の助川一家と仏教、神社神道信者の協力が実践されたのである。

「地崎宇三郎さんは「ああ忙しい、忙しい」と言いながらも、よく訪れてくれました。ある日の夕食後ひょっこりと現われて「みんな元気かね」と、にこにこしながら入って来ました。
「今夜は昔話でもやろうか。寮生は何人だね。それから……と、カツ丼をその数だけとってくれ。ああ助川【貞利】さんと俺の分は忘れないで、さあ注文、注文」
と、自分できめて二階の集会室にばたばたとあがってしまう。
当時は寮の定員は四十五名で満室だったが、地崎の親父さんが来たとなると、忽ち二階の集会室に集まってしまう。小柄で張ち切れるような丸々と血色のよい体軀から躍動する一言一句は、寮生に針のように突きささった。
「いいかね、泥棒ほどそろばん【4字傍点】のあわぬものはない。わかったなあ」
と、別れの言葉を残して帰ってしまう。実にたのもしい人だった。」(註76)

地崎宇三郎『札幌之人』国会図書館蔵による

地崎宇三郎『札幌之人』国会図書館蔵による

助川貞利は、父・貞二郎の活動について、「父の生涯は、事業に活きることで、蓄財ではなかつたやうに思はれます、七十歲に達する死の床に於ても猶新事業への擴大を忘れなかつた程で、其結果は歿後數十萬の負債を遺したのであります。然し在世中の華やかであつた事業振りに、誰れも之の內情に想倒するものはなく、隨つて私は期せずして世間的な複雜極まる跡始末に少なからぬ惱みを體驗したのであります。/私は之の時、その煩しさを忘れんとして、憩を、大正元【1912】年父が或る感激を以つて創立し、今は自らの經營する保護會に求めたのであります。」と述懐する。(註77)彼はまた「棟梁の美を盡せる本邸を賣り拂ひ、南三條の舊邸を借家とし、氏は家族を鎌倉の草房に閑居させ、自己單身事務所の樓上に簡素節約の生活を營む。此の斷行により同家の家系上、收支の數字に莫大の開きを示すこと説明の要莫し。」(註78)
さらに1935年には「思想犯人の轉向施設」「財團法人昭徳會へ耕地、放牧地など五十町步の農園をポンと寄付」、その時の談として「こんなことを大仰に傳へられて恐縮です、あの農園で轉向した人々と一緒に働いたらと思つて寄付を申し出たのです、先代からやつてゐた大化院をうけついだ關係上全國保護事業大會に出席して思想轉向者の更生問題の重要性を感じたのと、今年がちやうど亡父七回忌に當るのとこの二つの動機から轉向者のための農園を開いたらと思つたゞけです、寄付した農園を轉向者が自主經營して生活體驗を親しく味ひまた將來指導的農民たるの基礎を養つて社會への復歸を圖ればいゝと思ひます、私の考へではその自主經營の方法として農園を放牧を主體とする農場とし指導者としては北海道廳長官から推薦された篤農家の一家族を迎へ犢の繁殖、牛乳の販賣【、】薪炭穀類の生產を計るいはゆる多角的農場經營に從事して自給自足の生活を營むのが理想的でせう」と語る。(註79)何だかレフ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой)の小説のようだ。といっても、読んだ小説は短篇1つしかないのだが。

1922年、北海道に市制が導入され、札幌市が成立。初代市長に高岡直吉が着任すると市民交通確保を重要目標とし、助川貞二郎の札幌電気軌道会社買収に意欲を燃やす。「年々好調におもむく電車事業を適正に買収することは困難であった。行政官として多年の経験をもつ高岡市長と、助川貞二郎の屈しまいとする強引さとが火花を散らしたといっていいだろう。/こうして昭和二(一九二七)年十二月一日をもって、電車事業は結局三〇〇万円で、市に買収された。/貞二郎も精力をつかい果たしたのであろう。翌々年九月、七〇歳で死んだ。高岡市長の方は、重荷をおろしたのか買収調印してからわずか半月、昭和二(一九二七)年一二月一五日、病気を理由にして期間満了をまたずに退職した」。(註80)それに先立つ1925年、貞二郎の銅像が円山の電車終点にたてられた。買収問題がまだ決着せず、もめにもめている中、「其功勞を記念するため建てられたのが圓山後樂園の壽像だ、勿論電鐵に關係ある人々が發起し、他有志の據金に依つたのである、大正十四【1925】年九月五日、之が除幕式が盛大に行はれた、參列するもの、朝野の貴顯紳士五百名、壽像の題字「功勞」の二字は、逓信大臣賞三位勲一等犬養毅君の筆に成り、撰文は衆議院議員で立憲政友會の總務小久保喜七君だ、撰文左の如し。
 助川君貞二郎壽像成矣君常陸人天資剛毅有材幹學己【已】通委身于商業不幸頓□【足+音、踣の誤植】航于北海營商與漁亦不如意乃欲投身于政海歸鄉爲衆議院議員候補不當選於是再提家赴札幌從事墾開然非其志也君常欲圖運輸交通之便與同志謀辛苦經營創立鐵道會社布鐵路于北海是爲濫觴矣爾來爲札幌電氣軌道株式會社專務取締役實二十餘年又設自動車株式會社及人力車組合爲之社長以餘力勤道會議員市會議員名譽參事會員商業會議所議員等公職其他善行懿績不遑枚擧云惟北海之爲地冬則積雪丈餘朔風裂膚當是時布鐵路便運輸非堅忍不拔以任其業者安能見今日之隆君之力不亦偉乎今茲乙丑【1925年】君年六十六有志胥謀建銅像以圖不朽予乃銓次其所知以示後人如此
             衆議院議員 正五位勲三等 小久保喜七撰」(註81)

Tennen-Gas氏撮影-ササラ電車-札幌市交通局-雪11(2009年)wikipediaによる

Tennen-Gas氏撮影 ササラ電車 札幌市交通局 雪11(2009年)wikipediaによる

こうして、自由民権運動の時代をともにした小久保喜七の碑文が彼の銅像を飾ることになったのである。撰文した小久保喜七は茨城の自由党の同志でもあり、後には衆議院選でライヴァルともなった。その人物が彼の人生をこの280字に集約している。しかし「その銅像も昭和一七(一九四二)年に戦時資材として供出された。」(註82)

助川貞二郎の辿った道は、あまりにも曲折がありすぎ、今日の目から見ると、「右」に「左」に、ぶれまくっているようにも見える。しかし、政治の季節が過ぎた後に自由民権活動家の辿った軌跡はきわめて多様であり、政治的オピニオンを主張する大新聞、雑誌、書籍や小新聞等の出版業や、政治演説を1つの起源とする(註83)川上音二郎らの壮士芝居、白浪庵滔天(滔天宮崎寅蔵)の浪曲、初代伊藤痴遊(伊藤仁太郎)の講談、6代朝寝坊むらく(永瀬徳久)の落語等の芸能活動、海外殖民や渡米斡旋といった「分かりやすい」事例だけでなく、食べていく、もしくは生活していくためのさまざまな事業が営まれた。その最も「分かりにくい」典型例は、兆民中江篤介によって起業された養豚業、材木商、鉄道建設、遊廓設置等の事業であり、ほかならぬ北海道が目指されていた。これらを単なる転身としてでなく、日本国の新植民地を舞台に、自由民権運動のメンバーであった博徒・俠客の生業に関わりつつ開始された経済活動と見ることができ、それらを「企業化された自由民権運動」と一括して呼ぶことができるならば、同じ文脈の中に助川貞二郎の行動も位置付けることができるに違いない。ちなみに養豚業については、中江兆民が豚博士・森田龍之助から勧められた事業である。
筑波山のふもとに生れ、壮士としてその人生をスタートし、企業家になりつつ各級議会選挙を含む政治活動に没頭、M&Aのタフな価格交渉にも一歩も引かぬ交渉を展開しつつ、出獄者を対象にした社会的セーフティ・ネットの札幌大化院の設立まで、助川貞二郎の一貫した姿勢をそこに見ることができるだろう。つまりは「ぶれてない」(註84)のである。

ソニーを創業した井深大は、その晩年の1965年、長年つれそった妻と離婚、彼が少年時代から慕っていた初恋の女性と再婚する。その人は「家庭づくりにおいても持ち前の陽気さを発揮して、私のコントロールも実に巧みで、上手である。幼い時から一人っ子で育ったせいか、家庭のぬくもり、家庭の温かさに心魅かれていた私は、外でそれこそ心身ともにぐったりするまで働いてきて、機嫌斜めで家に戻っても、彼女にはスーッと受け入れられてしまう。真綿に水が浸み入るごとく、すべて吸収されてしまうのである。」「彼女はテレビを観たり、雑誌などを読んでいるのが常だが、彼女の存在は大きい。そこにいるだけで心が満たされ、安らぐのである。」(註85)その女性の名は黒沢淑子(註86)、助川貞二郎の孫娘である。文野方佳氏は「電話口ながら祖父の貞二郎さんに可愛がられた思い出をうかが」ったという。(註87)また、北海道生れの両親の間に誕生した井深大が、早稲田大学第一高等学院に通学していた時の下宿先は「現・豊島区東長崎の助川さんという家で」「妻の伯父さんに当たる人だ。」(註88)その後、助川貞利のあとを追うように友愛学舎に入寮し、早稲田大学理工学部電気工学科を卒業、それ以降の人生は語るまでもないだろう。
また、「棟梁の美を盡せる」助川貞二郎の邸宅は、鶴岡新太郎と鶴岡トシによって1942年に開かれた北海道女子栄養学校(現・北海道文教大学)の校舎として使用された。

鶴岡新太郎は「廳立札幌高等女學校【現・北海道札幌北高等学校】教授」「北海道廳囑託」(註89)の「食糧改良講師として北海道全道を旅行」(註90)、札幌高等女学校では家事科割烹教員で(註91)、千葉県の地主の家の出身。「母シゲさんはかつて公卿(くげ)の九条家の第二の乳人(めのと)として仕え、家風を整えたことがあった。」「生きた家畜を殺さぬこととか、酒やタバコを飲まぬことなど、厳格に守られていた。当然、鶴岡新太郎氏も幼少のときから、この家風になじんで育ってきたわけである。」「日本大学在学中、料理研究に興味を待ち、海外渡航を企てたが果たさず、やむなく英・米・露・独の駐日大使館や駐日大使ら外交官の私宅に住みこみ、各国の料理を片端しから修得した。海外渡航困難と見るや、一転して北海道移住を志し、農業や食品関係のことを勉強するため、大正七【1918】年渡道した。そして生活の糧を得るため、外国料理の技術を生かして庁立札幌高等女学校の家事科教員となり、月給七円を給された。」(註92)「大正8【1919】年以来,札幌高等女学校だけでなく,小樽・江別・岩見沢・旭川等の各女学校教員を兼務,本道女子中等教育に貢献する一方,北海道大学農学部に聴講生として修学,特に,半沢洵博士の下で応用菌学を究める等,篤学の士でもあった。/さらに,その間,道庁の委嘱により,農事指導員,食糧改良普及講師などとして,全道各地の食事情の調査に当たり,あまりの貧困さに驚き,特に,僻地の食生活の改善のためには,栄養,調理の指導者が必要であることを痛感し,その対策などを道庁に報告」した。(註93)半沢洵は鶴岡新太郎の著書『和洋新家庭料理』に序を寄せている。(註94)

廳立札幌高等女學校『開道五十年記念-北海道拓殖寫真帖』国会図書館蔵より

廳立札幌高等女學校『開道五十年記念 北海道拓殖寫真帖』国会図書館蔵より

また、鶴岡トシは旧姓・高橋。「高橋家は、長岡藩士の家柄で本家の高橋平十郎氏は、武士の子弟として、漢学の素養を生かし、明治七年新設の新潟県立師範学校に入学し、翌年第一期生として卒業し、のち西蒲原郡役所に勤め、郡長代理をするほどの名望家であった。」「弟高橋三益氏も国漢学にすぐれ、教員の検定試験に合格して、身を教職に奉じ、のちリムさんと結婚し、明治二十五【1892】年七月に長女トシさんをもうけた。」「トシさんは、幼少のころから賢く、数え年四歳で、父三益氏の奉職する巻町小学校の一年に入学した。」1908年7月、県立新潟女学校を卒業、「直ちに南蒲原郡田上村保明小学校の代用教員として奉職」、「翌四十二【1909】年九月、裁縫の専科正教員の資格を得、学校では上学年の裁縫と下学年の学級を担当した。そして足かけ七年在職して、西蒲原郡矢作小学校訓導に転じた。」矢作小学校の創立者・大橋一蔵は1886年に北海植民社を創立、その勧めがあり、1918年高橋トシは小学校教員をやめて渡道する。(註95)
なお、web情報に、彼女を1912年帝国女子専門学校卒業と書く資料もある。(註96)同校の修業年限から考えれば、1909年開学時の入学ということになるが、当時の同校の状況は「新聞広告による帝国女子専門学校の学生募集は、【1909年】九月の初めに付属日本高等女学校の募集とあわせて行われ、二五日の開校後も新聞紙上を通じてさらに募ったが、ほとんど入学者は得られなかった模様で、旧来の日本女学校専攻科に在籍したわずかな生徒をこれに編入して辛うじて授業を実施するという有様であった。」(註97)という。『相模女子大学六十年史』によれば「明治四十四【1911】年から、大正二【1913】年にいたる三年間は、帝国女子専門学校、日本高等女学校にとって、まことに歴史的な苦難の年であった。/大正の初年ごろは帝専、日本高女ともに、最も甚しい悲境時代で、ある学年の如きは、一人も生徒がいないというクラスもあり、帝専と日本高女の存在は、如何にも影がうすく、まさに廃校の一歩手まえというありさまであった。」(註98)といい、「大正十二【1923】年三月、帝国女子専門学校は、新学則のもとに左の如く第一回卒業生二十八名を世に送った。」(註99)とする。もっとも『相模女子大学八十年史』では「少数はあったこの間の卒業生に関する記録も欠いている。」(註100)とするのだが。もし上記卒業の事実が証明されれば、帝国女子専門学校と相模女子大学の歴史に貴重な事実を書き加えることができるのだが、当該事実は確認できず、公式記録もない。

「先生【鶴岡トシ】の御信仰については、先生は女学校時代お友だちのすすめによって教会にいきました。」「先生のお話しによりますと、先生のご両親と弟様をもカトリックの信仰にお導きになったそうです。」(註101)と証言される。高橋トシの両親は東京に轉居、「あるとき、母のリムさんと、千葉県出身の鶴岡新太郎氏の母鶴岡シゲさんが、東京の大森にあった聖公会の教会で礼拝の祈りに知り合った。」「教会での母どうしの話がすすんで、やがて新太郎氏とトシさんは見合い、大正九【1920】年には東京で挙式し、札幌に新居を構えたのである。」(註102)
しかし、札幌での2人は、キリスト教系の新宗教教団・セブンスデー・アドベンチスト教会の信者となった。1923年、「ジェークス【S. G. Jacques】が休暇で帰米した後任に、宣教師A・N・ネルソン【Andrew Nathaniel Nelson】が札幌にきて、伝道を指導した。同年六日の安息日に、鶴岡新太郎、同俊子、橋本嘉一郎夫妻、横山周三、高橋鶴吉らが三宅【昌平】牧師から受浸した。かく有力者たちの入信によって、教勢はとみに盛況になった。」さらに、鶴岡夫婦は札幌教会執事、鶴岡新太郎は安息日学校長に就任する。(註103)そして、鶴岡トシは1928年3月、千葉県の天沼学院聖書科聖書科で3ヶ月のコースを修了している。(註104)同学院は1919年、豊多摩郡杉並村字天沼の伝道本部敷地内に開設され、関東大震災後の1926年に男子部が千葉県君津郡に移転されたものであり、当時の正式名称は日本三育学院、女子部は荻窪に日本三育女学院として残ることになった。(註105)

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Crazy Camel Train, Cereal Premium of Kellogg’s Corn Flakes®, photos: The Astronit Collection 画像を合成編集

同教団はアメリカでサニタリウム(サナトリウム)を運営、「サニタリー(清潔)」概念を基に神学的な自然治療の医学を構築し、多くの自然医学者を養成、一方で菜食主義に基く食事と栄養の普及活動をしていた。その理論に基き創製された代表的食品が、同教信徒ジョン・ハーヴェイ・ケロッグ(John Harvey Kellogg)によるケロッグ・コーンフレーク(Kellogg’s Corn Flakes®)である。同商品が爆発的に売れたのは、自然医学に基く清潔で栄養豊富な食品だったからである、決してあの箱の中に入っていたおまけ(Cereal Premium)のためではない、はずである、たぶん。

1930年7月2日、鶴岡トシは、浅井しげ、赤木祥子、田上あかし等と『婦人之友』の読者会である札幌友の会を結成、○井【合字】今井記念館に60人が集まり発会式が行われ、友愛セール、裁縫講習会などが行われた。(註106)しかし、日米戦争の勃発によるアメリカ人宣教師の追放、1939年宗教団体法公布、1941年全面改定された治安維持法は教団の息の根を止める。

札幌の友発会式『北の女性史』より

札幌の友発会式『北の女性史』より

1943年6月25日、朝鮮総督府は第七日安息日耶蘇再臨教朝鮮合会の幹部を逮捕、これに続き、日本政府は9月20日、北海道から福岡にかけて39人の幹部を一斉検挙する。(註107)セブンスデー・アドベンチスト教会の記録によれば、検挙網は台湾、パラオにも及んだ。(註108)
1943年9月分の『特高月報』は「本事件の檢擧は國體の本義竝に神祇觀を紊り、我國民の傳統的國體觀念を惑亂すべき不逞の教説を流布し決戰下最も憎むべき反戰思想を宣傳せる外來の宗教思想運動に対し一大鐵槌を加へたるものにして、曩に斷行したる舊ホーリネス系三教會の檢擧と共に戰爭遂行の障碍を芟除して決戰下の治安を確保し得たる點に於て、又目下一大轉換期に直面せる我國基督教界の進路を示唆せる點に於て重大なる意義を有するものと思料される。」と高らかに宣言する。(註109)何だか、勇ましい副詞句に修飾された(そのご批判はまったく当たりません、だんじて許すことができません、だんこたる決意をもって、しっかりと進めて参りたい)現総理大臣の答弁のように聞こえるのは空耳だろう、きっとそうだろう。

1942年2月に提出された北海道女子栄養学校の設立申請書では「今ヤ帝国ノ使命タル東亜民族ヲ指導シ大東亜共栄国ヲ確立、世界平和ニ寄与セントスルノ秋、食糧栄養ニ関スル知識技能ヲ収得シテ益々国民体位ノ向上進展ヲ図リ以テ国力充実ノ根基ニ培フハ真ニ喫緊ノ事」という趣旨を述べる。(註110)つまりは「転向」したのである。しかし、それにもかかわらず「わたくしは郷里を離れて、この異郷の北海道にあって、寂しくてたまらなかったことが何度もあった。そのときにじっとこらえることができたのは、クリスチャンとして毎日聖書を読み、聖書のことばを信じて祈りを求めつづけたこと」があったといい(註111)、キリスト者としての自覚が失われることはなかった。

そして、その後も建物は学校法人本部等に使用され続けたが移転、今日なお「KAKUイマジネーション」として保存活用されている。(註112)

旧助川貞二郎邸(KAKU-IMAGINATION)Goole-Earthによる

旧助川貞二郎邸(KAKU IMAGINATION)Goole Earthによる

※助川貞二郎にかんする調査にあたり、国立国会図書館憲政資料室、国立大学法人東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫、国立大学法人東京大学法学部研究室図書室には、貴重な資料の閲覧を許されました。心よりの謝辞を申し述べます。

 


 

註1 「●酒の咎」『東京朝日新聞』1901年1月5日5面
註2 「第一章 明治初期時代の業界」『東京土木建築業組合沿革誌』東京土木建築業組合 1937
註3 佐藤工業110年史編纂委員会編「沿革編 川を治め山を開く 5章 混乱に棹さす(太平洋戦争勃発から敗戦まで) 2 業界の推移 公認組合の設立」『110年のあゆみ』佐藤工業株式会社 1972
註4 「第二章 公認組合の設立」『東京土木建築業組合沿革誌』東京土木建築業組合 1937
註5 佐藤工業110年史編纂委員会編「沿革編 川を治め山を開く 5章 混乱に棹さす(太平洋戦争勃発から敗戦まで) 2 業界の推移 土木工事の隆盛」『110年のあゆみ』佐藤工業株式会社 1972
註6 松浦茂樹 藤井三樹夫「明治初頭の河川行政」『土木史研究』第13号 1993年6月
註7 樋口雄彦「近世・近代移行期の治水行政と土木官僚 静岡藩水利路程掛とその周辺」『国立歴史民俗博物館研究報告』第203集([共同研究]災害の記録と記憶をめぐる資料論的研究) 国立歴史民俗博物館 2006年12月
註8 佐藤明俊「第一章 利根川治水をめぐる茨城県の政治状況」櫻井良樹編『地域政治と近代日本―関東各府県における歴史的展開―』首都研史叢書➀ 日本経済評論社 1998
註9 「内務大臣山県伯爵閣下ニ上ル之書」1887年9月5日付 三島通庸関係文書543‐6イ 国立国会図書館憲政資料室蔵、色川大吉 我部政男監修 大日方純夫 安在邦夫編『明治建白書集成 第八巻』筑摩書房 1999に翻刻あり、誤読について本文参照
註10 色川大吉 我部政男監修 大日方純夫 安在邦夫編『明治建白書集成 第八巻』筑摩書房 1999
註11 「筑陽館主意書」三島通庸関係文書543‐6ロ 国立国会図書館憲政資料室蔵
註12 「茨城縣政况」『報茅【㐧】壹號【号+乕】 自明治廿二年五月至明治廿三年四月 大同倶樂部事務報告 各地方團体通信所報告 各地方政党及ビ衆議院議員候補者、各地機関新聞雜【新の偏+隹】誌、地價修正被選挙権異動表』河野広中関係文書 資料番号267 国立国会図書館憲政資料室蔵、庄司吉之助「第五章 大同団結運動と政党成立」堀江英一 遠山茂樹編『自由民権期の研究 第三巻 民権運動の激化と解体(II)』有斐閣 1959に翻刻あり
註13 筑波町史編纂専門委員会編「第四編 近・現代 第1章 明治前期の筑波」『筑波町史 下巻』つくば市 1990
註14 大道寺政博「栃木縣下ノ概況」1886年12月27日『三島通庸関係文書』五三五、 探聞書・報告書 二 明治一九年七月‐一二月、国立国会図書館憲政文庫蔵
註15 大道寺政博「無題報告書」1887年1月14日『三島通庸関係文書』五三六、 探聞書・報告書 三 明治二〇年一月‐三月、国立国会図書館憲政文庫蔵
註16 小田急電鉄株式会社編「(一)予ガ自由党員トナリシ動機」『利光鶴松翁手記 小田急電鉄株式会社開業三十周年記念出版』小田急電鉄株式会社 1957
註17 学校法人聖セシリア大和学園 モニカ会編「創立者モニカ伊東静江先生の足跡 ただ信頼あるのみ」学校法人聖セシリア大和学園 モニカ会 2013年第3版、初版は2006
註18 「教会・修道院巡り(22)『喜多見教会』」『東京教区ニュース』第99号 東京大司教区事務局 1993年1月1日、web版による
註19 小村大樹「利光鶴松」歴史が眠る多磨霊園サイト
註20 「喜多見教会の聖堂閉鎖について教区本部事務局より」『東京教区ニュース』第300号 東京大司教区事務局 2013年3月1日、web版による
註21 中山龝【表紙は穐】吉編纂「安藤彌五郎」『關東俠客列傳』永盛舘 1901
註22 伊藤仁太郎「明治の俠客」『痴遊隨筆 それからそれ』一誠社 1925、「明治の俠客」『伊藤痴遊全集 第十三卷 政界表裏快談逸話』平凡社 1931
註23 「被災者よりカジノでさっさと国会閉幕 驚くべき身勝手、冷血、恥知らず」『日刊ゲンダイ』2018年7月20日1面
註24 「【攻防・終盤国会】「カジノより被災者を助けて!」 自由・山本太郎氏らIR実施法投票時に垂れ幕」『産經新聞』2018年7月20日web版
註25 中川收「第5章 キリスト教をめぐる人々 助川貞利」札幌市教育委員会文化資料室編『札幌とキリスト教』さっぽろ文庫41 札幌市 札幌市教育委員会 1987
註26 鈴木源十郎 杉山指粹共編「渡島海岸鐵道株式會社專務取締役 助川貞利氏」『現代札幌人物史』札幌現代社 1931
註27 北海道総務部知事室道民課編「更生保護事業の先達・助川 貞利」『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和四十六年)』北海道 1972
註28 北海道総務部知事室道民課編「更生保護事業の先達・助川 貞利」『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和四十六年)』北海道 1972、中川收「第5章 キリスト教をめぐる人々 助川貞利」札幌市教育委員会文化資料室編『札幌とキリスト教』さっぽろ文庫41 札幌市 札幌市教育委員会 1987
註29 森瑶子『シナという名の女』集英社 1994、初出は『すばる』第15巻第9号 集英社 1993年9月1日
註30 警醒社編纂「杉原成義」『信仰三十年基督者列傳』警醒社書店 1921
註31 札幌市史編集委員会編「第二篇 行政篇 第五章 交通通信 第三部 電車・自動車 電車 一、馬車鉄道の創始」『札幌市史 政治行政篇』札幌市役所 1953
註32 札幌市史編さん委員会編さん「交通の進歩 駄送から馬鉄へ」『札幌百年のあゆみ』札幌市 1970
註33 札幌市史編集委員会編「第二篇 行政篇 第五章 交通通信 第三部 電車・自動車 電車 二、電車の開通」『札幌市史 政治行政篇』札幌市役所 1953
註34 鈴木源十郎 杉山指粹共編「渡島海岸鐵道株式會社專務取締役 助川貞利氏」『現代札幌人物史』札幌現代社 1931
註35 札幌市史編さん委員会編さん「交通の進歩 電気とガソリン時代」『札幌百年のあゆみ』札幌市 1970
註36 札幌市史編集委員会編「第二篇 行政篇 第五章 交通通信 第三部 電車・自動車 電車 二、電車の開通」『札幌市史 政治行政篇』札幌市役所 1953
註37 札幌市史編さん委員会編さん「交通の進歩 電気とガソリン時代」『札幌百年のあゆみ』札幌市 1970
註38 札幌市史編集委員会編「第二篇 行政篇 第五章 交通通信 第三部 電車・自動車 電車 二、電車の開通」『札幌市史 政治行政篇』札幌市役所 1953
註39 札幌市史編集委員会編「第二篇 行政篇 第五章 交通通信 第三部 電車・自動車 電車 二、電車の開通」『札幌市史 政治行政篇』札幌市役所 1953
註40 徳富蘇峯先生題字 犬養木堂先生題字 鐵山蓑田政徳著「札幌電鐵專務取締役 助川貞二郎」『人物評論 第壹篇』北日本刊行協會 1926
註41 「刑法」明治40年法律第45号、『官報』印刷局 1907年4月24日、北海道警察史編集委員会編「第三章 北海道庁時代(明治期) 第三節 拓殖の進展と警察活動 第二 博徒の横行とその取締り」『北海道警察史(一)明治・大正編』北海道警察本部 1968
註42 金子信尚「助川貞二郎」『第二版 北海道人名辭書』北海民論社 1923
註43 北海道総務部知事室道民課編「更生保護事業の先達・助川 貞利」『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和四十六年)』北海道 1972
註44 牧口準市「第六編 代言人 弁護士 仁平豊次 第一章 履歴書」『明治期における北海道裁判所代言人弁護士史録 代言人弁護士仁平豊次 村田不二三』北海道出版企画センター 2014
註45 岡崎官次郎編纂「仁平豐次氏」『北海道人物誌第一編』北海道人物誌編纂所 1893
註46 金子郡平 高野隆之「仁平豐次(にひらとよじ)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註47 岡崎官次郎編纂「仁平豐次氏」『北海道人物誌第一編』北海道人物誌編纂所 1893
註48 金井輝夫「更生事業に挺身」北海道総務部知事室道民課編『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和四十六年)』北海道 1972
註49 助川貞利「保護司のこころ 出口のない保護会」『更生保護』第8巻第6号 法務省保護課 1957年6月1日
註50 鈴木袖浦(源十郎) 戶石北陽「仁平豐次氏」『札幌紳士錄』札幌紳士錄編纂會 1912
註51 札幌市史編さん委員会編さん「助川貞二郎」『札幌百年の人びと』札幌市 1968
註52 野村琢民編輯「第二章 北海道社會事業團體聯合會加盟團體 第二節 加盟團體の槪要 四 財團法人札幌大化院」『紀元二千六百年記念北海道社會事業團體誌』北海道社會事業協會 1942
註53 北海道総務部知事室道民課編「更生保護事業の先達・助川 貞利」『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和四十六年)』北海道 1972
註54 札幌市史編さん委員会編さん「助川貞二郎」『札幌百年の人びと』札幌市 1968
註55 鈴木源十郎編輯「藪堯祐」『札幌之人』鈴木源十郎 1915
註56 金子郡平 高野隆之「藪堯祐(やぶげういう)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註57 鈴木源十郎 杉山指粹共編「大沼電氣鐵道會社取締役社長 籔惣七氏」『現代札幌人物史』札幌現代社 1931
註58 金子郡平 高野隆之「藪堯祐(やぶげういう)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註59 鈴木源十郎編輯「藪堯祐」『札幌之人』鈴木源十郎 1915
註60 金子郡平 高野隆之「藪堯祐(やぶげういう)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註61 鈴木源十郎編輯「藪堯祐」『札幌之人』鈴木源十郎 1915
註62 「○藪家の施米」『北海タイムス』1919年12月21日朝刊4面
註63 「○完成した札幌新住宅 理想村にする抱負」『北海タイムス』1921年1月9日朝刊9面
註64 「藪特設商店 互助組合組織 本日より實行」『北海タイムス』1922年3月31日朝刊3面
註65 「●大化院花の日」『北海タイムス』1915年5月6日4面
註66 「●滿開な花の日」『北海タイムス』1915年5月7日4面
註67 「●美しい慈善の花 購つてお遣りなさい【9字△傍点】」『北海タイムス』1915年5月14日4面
註68 北海道総務部知事室道民課編「更生保護事業の先達・助川 貞利」『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和四十六年)』北海道 1972、原出典は助川貞利「先人に応えるもの」『開道百年と更生保護―随想集』らしい、未見
註69 鈴木源十郎編輯「地崎宇三郎」『札幌之人』鈴木源十郎 1915
註70 高橋理一郎編纂「土木界の巨頭 公共仁慈の篤志家 札幌區 地崎宇三郎」『北海開發事蹟』地方振興事績調査會 1921
註71 金子郡平 高野隆之「地崎宇三郎(ちざきうさぶらう)」『北海道人名辭書』北海道人名辭書編纂事務所 1914
註72 鈴木源十郎 杉山指粹共編「土建建築請負業 地崎宇三郎氏」『現代札幌人物史』札幌現代社 1931
註73 高橋理一郎編纂「土木界の巨頭 公共仁慈の篤志家 札幌區 地崎宇三郎」『北海開發事蹟』地方振興事績調査會 1921
註74 徳富蘇峯先生題字 犬養木堂先生題字 鐵山蓑田政徳著「財產の世襲を排する 地崎宇三郎」『人物評論 第壹編』北日本刊行協會 1912
註75 高橋理一郎編纂「土木界の巨頭 公共仁慈の篤志家 札幌區 地崎宇三郎」『北海開發事蹟』地方振興事績調査會 1921
註76 助川貞利「先人に応えるもの」『開道百年と更生保護―随想集』、北海道総務部知事室道民課編「更生保護事業の先達・助川 貞利」『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和四十六年)』北海道 1972による、同書は国内図書館に収蔵なく未見
註77 助川貞利「更生を語る」『保護時報』第十九卷第四號 財團法人輔成會 1935年4月1日
註78 鈴木源十郎 杉山指粹共編「渡島海岸鐵道株式會社專務取締役 助川貞利氏」『現代札幌人物史』札幌現代社 1931
註79 「五十町步の農園をポンと寄付する 父の七回忌“赤” 轉向者の道場に」『讀賣新聞』1935年11月23日朝刊7面
註80 札幌市史編さん委員会編さん「助川貞二郎」『札幌百年の人びと』札幌市 1968
註81 徳富蘇峯先生題字 犬養木堂先生題字 鐵山蓑田政徳著「札幌電鐵專務取締役 助川貞二郎」『人物評論 第壹篇』北日本刊行協會 1926
註82 札幌市史編さん委員会編さん「助川貞二郎」『札幌百年の人びと』札幌市 1968
註83 兵藤裕己「第二章 演説・大道芸・浪花節」『〈声〉の国民国家』NHKブックス900 日本放送協会 2000、兵藤裕己『演じられた近代 〈国民〉の身体とパフォーマンス』岩波書店 2005
註84 瀬戸内寂聴「日本共産党創立93周年記念講演会へのビデオメッセージ」日本共産党創立93周年記念講演会 日本共産党 YouTube 2015年7月19日公開
註85 井深大「第四章 科学する心と教育の原点 身近な人びと」『創造への旅』わが青春譜シリーズ 佼成出版社 1985
註86 小林峻一「第9章 ソニーのスプリングボード」『ソニーを創った男 井深大』WAC 2002
註87 文野方佳「研究余録 助川貞二郎小伝(上)」札幌市教育委員会文化資料室編集『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第27号 札幌市 1994年8月25日
註88 井深大「第二章 限りない科学への好奇心 早稲田大学第一高等学院へ」『創造への旅』わが青春譜シリーズ 佼成出版社 1985
註89 鶴岡新太郎『和洋新家庭料理』日本女子割烹講習會支部 1923
註90 半澤洵「序」鶴岡新太郎『和洋新家庭料理』日本女子割烹講習會支部 1923
註91 佐々木シロミ「第1編 学園の現状 第1章 学校法人鶴岡学園の誕生 1 北海道栄養学校 (1)創立の発端」『鶴岡学園創立五十年史』鶴岡学園 1992、北海道私学教育史編集委員会編纂「第二部 学園史編 第二 道央(札幌・小樽)地域 学校法人鶴岡学園」『北海道私学教育史』北海道私学協会 1963
註92 北海道総務部知事室渉外課編「女子教育と寒地栄養研究の先駆者・鶴岡 トシ」『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和五十年)』北海道 1976
註93 佐々木シロミ「第1編 学園の現状 第1章 学校法人鶴岡学園の誕生 1 北海道栄養学校 (1)創立の発端」『鶴岡学園創立五十年史』鶴岡学園 1992
註94 鶴岡新太郎『和洋新家庭料理』日本女子割烹講習會支部 1923
註95 北海道総務部知事室渉外課編「女子教育と寒地栄養研究の先駆者・鶴岡 トシ」『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和五十年)』北海道 1976、佐々木シロミ「第1編 学園の現状 第1章 学校法人鶴岡学園の誕生 1 北海道栄養学校 (1)創立の発端」『鶴岡学園創立五十年史』鶴岡学園 1992は、日本大学でなく明治大学とするが、STVラジオ編「鶴岡トシ」『続ほっかいどう百年物語』中西出版 2002は日本大学とする
註96 ja.wikipedia「鶴岡トシ」「相模女子大学」
註97 相模女子大学八十年史編集委員会編「第一部 三、帝国女子専門学校時代―帝国女子専門学校・日本高等女学校・静修女学校―」『相模女子大学八十年史』相模女子大学 1980
註98 相模女子大学六十年史編纂委員会編「三 帝国女子専門学校時代(旧小石川区大塚校舎) 五 苦難の数年間」『相模女子大学六十年史』相模女子大学 1960
註99 相模女子大学六十年史編纂委員会編「三 帝国女子専門学校時代(旧小石川区大塚校舎) 一一 帝専第一回卒業生を送り出す」『相模女子大学六十年史』相模女子大学 1960
註100 相模女子大学八十年史編集委員会編「第一部 三、帝国女子専門学校時代―帝国女子専門学校・日本高等女学校・静修女学校―」『相模女子大学八十年史』相模女子大学 1980
註101 原田清子「受賞者をたたえることば 鶴岡トシ氏をたたえて」北海道総務部知事室渉外課編『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和五十年)』北海道 1976
註102 北海道総務部知事室渉外課編「女子教育と寒地栄養研究の先駆者・鶴岡 トシ」『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和五十年)』北海道 1976
註103 梶山積「第一〇章 北海道伝道 第二節 札幌伝道」『使命に燃えて 日本セブンスデー・アドベンチスト教会史』福音社 1982、なお同書ではS・J・ジェークスと記されるが、Review & Herald Publishing Association出版の『Year Book of the Sevevth-day Adventist Denomination The Official Directories』1918年版から23年版までHokkaido MissionのDirectorには一貫して「S. G. Jacques」とある、英仏語での発音もジャック、ジャクィーズ、ジェークス、ジャックスと多様で確定できない
註104 原田清子「受賞者をたたえることば 鶴岡トシ氏をたたえて」、「年譜」北海道総務部知事室渉外課編『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和五十年)』北海道 1976による、札幌市教育委員会文化資料室編「鶴岡トシ」『札幌人名事典』さっぽろ文庫66 札幌市 札幌市教育委員会 1993に「県立新潟高等女学校3年終了後、東京の天沼学園歴史科を卒業」、日外アソシエーツ編「鶴岡トシ つるおか・とし」『学校創立者人名事典』日外アソシエーツ発行 紀伊國屋書店発売 2007に「東京の天沼学園歴史科を卒業」とある、
註105 「1‐(2)沿革」『三育学院学校概要』三育学院 2017年5月1日現在、「天沼教会の歴史」SEVENTH-DAY ADVENTIST CHURCH セブンスデー・アドベンチスト 天沼教会サイト、中井純子「戦いを超えて 宣教師 Andrew N. Nelson の生涯と働き」『明治学院大学キリスト教研究所紀要』第47号 明治学院大学キリスト教研究所 2015年1月31日
註106 林恒子「第1編 北の女性史 8 文学・学習 友の会と白雪会」、「年表 明治以降(1868~1980)」札幌女性史研究会編『北の女性史』北海道新聞社 1986、典拠文献は『札幌友の会五十年のあゆみ』1982、同書は北海道含む公共図書館、大学図書館に所蔵なく未見
註107 內務省警保局保安課「宗教運動の狀況 一六、第七日基督再臨團の治安維持法事件檢擧」『嚴秘 特高月報』昭和十八年九月分、国立大学法人東京大学法学部研究室図書室蔵
註108 梶山積「第一九章 政府による弾圧 第二節 検挙から仮釈放まで」『使命に燃えて 日本セブンスデー・アドベンチスト教会史』福音社 1982
註109 內務省警保局保安課「宗教運動の狀況 一六、第七日基督再臨團の治安維持法事件檢擧」『嚴秘 特高月報』昭和十八年九月分、国立大学法人東京大学法学部研究室図書室蔵、明石博隆 松浦総三編「第四部 「大東亜戦争」(後期)下の宗教弾圧―一九四三年九月~四五年六月 13 第七日基督再臨団等への弾圧」『昭和特高弾圧史 4 宗教人にたいする弾圧 一九四二~四五年』太平出版社 1975に翻刻あり、引用は原書による
註110 北海道教育研究所「第十四 私立学校教育および各種教育 第四章 戦時下の私立学校教育」『北海道教育史 全道編 四』北海道教区委員会 1964
註111 北海道総務部知事室渉外課編「女子教育と寒地栄養研究の先駆者・鶴岡 トシ」『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々(昭和五十年)』北海道 1976
註112 井上由美「札幌建築鑑賞会と歩く 愛され建築 第2回 KAKUイマジネーション 夢持つ人を引き寄せる、建物の磁力」webマガジン『北海道マガジン「カイ」』2017年夏号 株式会社ノーザンクロス 2017年8月30日

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