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魯迅と日暮里(60)南波登発の「亞細亞」への視線(35)栗村寛亮と『福島新聞』および福島のキリスト者たち KURIMURA Kwansuke, the newspaper and Christians in Fukusima

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松本健一は、「絶対自由への筏」のおわりに「栗村【寛亮】のその後は伝えるものがない。行方さえ杳としてわからない」と記す。(註1)しかし、「伝えるもの」は数多くあったと思われ、いわきの詩人で歴史研究者の郷武夫は『調査情報 栗原寛亮』を著している。(註2)ただし同書は国立国会図書館、全国大学図書館、福島県下の図書館にも収蔵がなく、容易に見ることはできない。

『仙臺人名大辭書』

『仙臺人名大辭書』


『仙臺人名大辭書』によれば、栗村寛亮は仙台藩士栗村常守の子孫。栗村常守の子・常寛は実は伊達綱宗の胤との伝説があり、故あって改易となったが次弟・定守が伯父・常成の嗣となって存続。(註3)後裔の栗村義迪は北沙を号とし、画人として名が知られる。「天保年中評定所役人となり、養賢堂目付を歷て御證文預主立に遷る、嘉永三年病を以て免ぜらる、後ち風月を友とし、吟咏繪事を以て自ら娯む、義迪當世の努を以て心に關せずと雖も、議論正確にして亦慷慨の氣に富む」という。(註4)
後年伝えられるエピソードによれば、靖亭若林友輔が梅関菅井智義に依頼した秋声図が完成して持参したとき、「偶々栗村北沙醉脚蹣跚として至り一見して曰く「何の圖ぞや」梅關鼻間栩々答て曰く「秋聲の圖なり」北沙啞然大笑曰く「梅關無學故に這樣の圖を作る乃ち公をして畵かしめば應に斯の如きのみ」と自ら墨を磨し落筆一揮圖立ろに成る、曰く「斯の如くにして始めて秋聲の圖なり」と。梅關黙然親ら己の圖に墨を塗抹して廢棄す。然れども靖亭割愛に忍びず、其所由を圖上に畫し北沙の圖なりと共に裝潢して家に傳ふ、當時これを「墨引秋聲」と曰ふ」という。(註5)菅井梅関は、1784年12月9日、仙台南町の茶舗・名取屋(註6)を営む菅井善五郎知則の長男に生れ、のちに仙台4大画家の1人に数えられる。家業を弟に譲り、はじめ来仙していた根本常南、ついで清国船の財副(経理長)として長崎に来舶していた江稼圃に師事。「稼圃名大來。姑蘇學士。應試落第。絶意仕進。其書畫固重於世。喜【梅関】山人有識。兼傳秘訣。兼授詩及書法。臨別使寫墨梅携歸。因贈以詩。山人於是號梅關云。」(註7)栗村義迪の画風は「梅關の畫法を受け別に一格を出した」と言われており(註8)、弟子筋にあたるため、俄かには信じがたいが、乱暴者の血が子孫に伝えられたのかもしれない。栗村義迪は1859年1月14日(安政5年12月11日)に没(註9)、その孫が栗村寛亮である。「性豪蕩細事に拘せず、盛に國事を誹議し」と評されている。(註10)『仙臺人名大辭書』は菊田定郷の企画で、若林靖亭の孫にあたる今泉篁洲が各項目を執筆した(註11)大著であるが、史料操作にやや不安が残る。以下では、近代初期の新聞資料とキリスト教関係の同時代資料を駆使し、栗村寛亮の人生を辿ってみよう。

栗村寛亮は「宮城縣士族」で(註12)、「仙台人也」。(註13)1879年6月3日の『讀賣新聞』に「○福島毎日新聞の前編輯長栗村寛亮どのハ同新聞第百五十九號と同百六十四號同【百】六十九號へ人の榮譽に係る事と斷獄の下調に係る始末書(しまつがき)を載せられ多亷にて此ほど罰金十圓と禁獄四十日申【草字】し付られまし多」(註14)、『東京曙新聞』の報道では「○福島新聞編輯長栗村寛亮殿ハ同新聞尓斷獄の下調べ尓係る始末書を掲載せし科尓依り罰金十圓禁獄【四】十日申付られたり」とある。(註15)また、安典久氏によれば、「栗村には『福島新聞』編輯長の経験があったという。」(註16)『福島新聞』は『福島毎日新聞』の前身紙であり、『讀賣』紙の報ずる号数を勘案すると、当該時期のタイトルは確かに『福島新聞』であった。以下、『福島新聞』の錯綜した経緯を解きほぐしながら歴史をたどってみよう。

『福島新聞』創業社主は丹治経雄。『福島市誌』によれば「縣社稻荷神社の社司で松江山人の孫に當り、天保十二年正月六日【1841年1月28日】に生れ、明治四十一年二月二十七日【1908年2月27日】に沒した。/安政三年三月【1856年】笈を負ひて江戶に上り、卜部流の神道を學び、明治三年四月【1870年5月】黒川眞頼の門に入つて皇典和學を專習し、和歌は海上胤平の流を汲み、長歌を得意とし又能書家であつた。性豪宕、奇事逸話多く、在京中は神祇官復興に寢食をわすれ、太政官に出入した。夙に文明思想の收得に腐心し、印刷器、活字を横濱より求めて、田村郡の寫眞師田村鐵三郎を招いて、新聞を刊行した。之れが福島新聞の濫觴をなした。」(註17)また、「剣道の達人で幕末に人を切り、それがいやで神官になったという。」(註18)『福島市史』は、丹治経雄が英学校「共立学舎」の流れを汲む福島学校で英語教育を受けたと推定する。(註19)一方、「淞江山人の曾孫経敏の子である。経敏は金沢村の半沢家の出で、明斎と号した最上流の算学者として名高い。経雄は幼名庄之助重満と称し、諱は子嗣、はじめ経正といい思斎と号した。」との異説を掲げている。(註20)丹治明斎は1836年9月11日(天保7年8月1日)に生れているため、『福島市史』の記述には世代的に疑問がある。

丹治重治『新・福島の和算』より

丹治重治『新・福島の和算』より

明斎丹治重治は、丹治源作、ツケの長男として生れ、初め野地豊成、のち完戸政彝について算学を修め、1857年、会田安明の拓いた和算・最上流4世の学統を嗣いだ。その子が丹治庄之助重満(号・思斎)である。(註21)こうしてみると、『福島市史』は明らかに2組の親子を混同して記述している。

『福島市誌』のいう松江山人(初号・松湖、淞江山人とも)は丹治経信。享保時の稲荷神社社司・丹治右京太夫経忠の子。「行草書に巧みで、特に大文字の妙といわれ、毎日墨汁一升ずつ習字した逸話が残」り、1818年4月2日(文政元年2月27日)に没した。(註22)寛政(1789‐1801)の頃には寺子屋を開いて子弟を教育(註23)、書を教えたといわれる。(註24)
丹治経雄もまた、「青藍塾」(註25)もしくは「藍塾」という私塾を開き、「和漢學を主とし算數の學をも合せ授けてゐた。」(註26)藍塾で算数を教えていたのは、明斎丹治重治と重満である。(註27)

なお、『神道人物大事典』によれば、丹治経雄は「京都に上って神道を学ぶ。明治維新の際は尊皇運動に組して刺客に襲はれること数度。神道大教福島事務局長に任ぜられ、官祭招魂社創建に尽力し」た、とのさらなる異説がある。(註28)前段は「江戸に上って」の誤り、後段は大教院ならぬ中教院事務局の誤りか、あるいは元・淀藩藩主の稲葉正邦によって創教された「神道(本局)」(1940年、神道大教と改称)の福島県の代表者ということなのだろうか。いっぽう「官祭招魂社」である東京招魂社の造営決定は、1869年7月20日(明治2年6月12日)、創建は同年8月6日(明治2年7月29日)であり、大教院創設の1872年、事務局創設の1875年の各年に先行する。福島県中教院の設置は1873年4月17日、到岸寺に合議所が設置されたのに濫觴をなし、9月20日に中教院と改称、常光寺に移転したと見られる。(註29)合議所は浄土真宗からの提案により発議され、政府によって追認された中教院に准ずる大教宣布の組織である。(註30)明治期の福島県における神道(本局)すなわち後の「神道大教」については、「三春の三山富沢支教会、若松三山支教会がある。出羽三山信仰を伝えている。」という。(註31)稲荷神社の社司として、これはないのではないか。さっぱり分らない。
丹治経雄は1887、89の両年、鐸木三郎兵衛らと連名で条約改正に反対する建白書を提出するほか(註32)、1891年には全国神官有志惣代に名を列ね、神祇官設置陳情書を提出(註33)、東京に出て神祇官復興を一貫して訴え(註34)、1898年、全国神職会創立時の中心メンバーとなっている。(註35)政教一致を国是として成立した明治政権の変質により、「復古」のエネルギーの行き場をなくした神道家によって組織された草の根運動である。さらに「芝居好きで福島に新開座を建て、当時の名優市川団十郎などを呼んで公演するといった文化人でもあった。」(註36)

丹治経雄『福島百年の人びと』より

丹治経雄『福島百年の人びと』より

福島における新聞発行の経緯は、1873年4月、「福島縣廳內に新聞局を置き、「福島新聞」を發刊」、「翌【明治】七【1874】年五月頃に及び此れを廢し、次いで純粹に民營へ移つた。即ち同年二月十六日、福島町字稻荷前(今福島市宮町)稻荷神社司丹治經雄が民間新聞として本縣に其の官許を受け發行したのが、當時の福島縣三縣合併前に於ける民間新聞業の抑々嚆矢とする。從つて社名を開明社と號し、本縣廳また同社紙の一部に、縣情の一端を毎號記載すべき旨を命じ、其の代りに縣內主署に頒布する爲に幾何かの枚數を買ひ上げてゐた。而して大部の殘餘は、一般民衆に一枚僅かに八厘を以て汎く發賣したのである。(體裁は大判磐城紙片而【面カ】摺)」(註37)官営の『福島新聞』(第1次福島新聞、福島県新聞局)は月刊で発行され、1874年5月30日の第10号で終刊となり、その後を民営の『官許福島新聞』(第2次福島新聞、開明社)が襲うのだが、2月16日から5月30日の期間は並行して発行されたらしい。民営化に際しては、印刷機は県所有のものを使用することが認められている。(註38)
『福島新聞』民営化の橋渡しをしたと思われる人物は、「具体的な関わりは定かではない」ながら福島県令の安場保和(註39)、そして二本松藩士の家に生れた田辺軌である。田辺軌は、『二本松市史』によれば「新聞社主」、「藩士田辺喜理の孫。維新後,【二本松】藩庁に勤め戦後処理業務を担当。明治12【1879】年4月丹治経雄・鐸木三郎兵衛らと共に『福島毎日新聞』を始め,のち福島活版社を経営して『福島新聞』を発刊」したといい、没年は「明治29【1896】年2月2日 52歳」である。(註40)情報源の1つとなったと思われるのは『福島縣政治史』の以下の記述。「同【明治】八【1875】年八月、丹治經雄外數名と計り、「信夫新聞」と題名せるを發刊した。同十一【1878】年一月十四日、復び之を「福島新聞」と改稱し、同志の募集を圖つて、翌十二【1879】年四月下旬、更に「福島毎日新聞」と改題した。此の時の主なる幹部には、佐藤理八、村井定吉、鐸木三郎兵衛、田邊軌等にて組合組織となし發行を繼續することゝし、主筆には愛媛縣人杉山重義(後ち早稻田大學教授)を招聘し、大いに自由、民權説を唱へた。」(註41)この記述はやや歴史的正確性を欠くと思われ、まず、原紙で確認すると、1878年10月4日、創刊時の『福嶋新聞』(第3次福島新聞)から『福島新聞』に改称、1879年4月24日から『福島毎日新聞』に解題するが、届出不備のため5月6日から26日まで『福島新聞』と復題している。田辺軌が1882年時点で福島活版社社長となっていることは鐸木三郎兵衛の証言及び残存紙奥付から間違いない。同社は1882年から『福島新聞』(第4次福島新聞)を発行しており、一時期竹内専蔵が社長を務めた福島活版所の名称が変更されたものであることは、福島活版社出版物の奥付に「社主兼印刷 竹內專藏」とあるから判明する。(註42)竹内専蔵の後を田辺軌が引き継いでいるのだが、実はその時点において印刷器械は売却されている。(註43)困難な状況の中で事後収集に当たり、新聞を発刊したこと、新聞印刷関係者の中で唯一の県職員出身者であることが注目される。なお、同社は三島通庸の策謀下、福島県に低価で買収されている。(註44)
また、『福島市誌』にも記載があったように、「義弟田村鉄三郎らと『福島新聞』を創刊した」という情報もあるが(註45)、高橋哲夫氏によれば、田村鉄三郎が修業を終え、福島で写真業を開業したのは1879‐80年のことという。ただし、1880年5月10日の『福島毎日新聞』に「小生儀上京中休業仕候處此度大中小之噐【U+5650、器】械新調/歸宅致從來之營業勉強仕候間孚不相替御【草字】贔屓之程奉願候」と報知されており(註46)、創刊の時点で福島にいたことは必ずしも否定できない。

浅草宇一郎像『浅草宇一郎小伝』より

浅草宇一郎像『浅草宇一郎小伝』より

『福島新聞』が錯綜した刊行経緯を持つため、いずれも真相の解明には詳細な調査が必要である。田村鉄三郎は、三春藩士田村喜平の3男で、九段の写真師鈴木真一の弟子となり、その後福島で開業しているが、福島事件に連座して井上康五郎とともに捕縛される。高橋哲夫氏によれば、井上康五郎は客自軒の主人・井上嘉兵衛の長男、遊廓主で十手を預かる俠客・浅草宇一郎の養子である。(註47)井上嘉兵衛は正しくは井上喜兵衛で、元丹波篠山藩士。江戸上野山の火事場で同僚を切って逃亡後に浅草で鰻料理を修得し、福島北南町の旅籠屋・立花屋の暖簾分けを受け、鰻屋・小立花屋を開業した人物である。(註48)客自軒の屋号は、文政年間に杉浦西涯が客自軒の扁額を与えたことに起因する。(註49)客自軒の女将は、浅草宇一郎の妻クラの娘かねであり(註50)、「浅草宇一郎ハ仙台大河原ノ産ニシテ実家同駅旅籠屋ヲ営ム宇一郎ハ若年ノ頃ヨリ農商ノ業ヲ好マス博打等ヲ好ミ家出シテ所々流浪伊達郡桑折近ニ居住中同郡松原村ノ農民某ト口論ニ及ビ討果シテ宇一郎ハ北越に逃レ新潟ニ数年居住其後嘉永初年頃福島ニ来リ見回役江口佐十郎ノ食客タリシ」という人物である。(註51)井上康五郎は喜兵衛の死後、母井上かねとともに洋風喫茶店と尾上劇場を営み(註52)、火消組の中心となって活躍した浅草宇一郎の後を嗣いだという。(註53)尾上劇場は政談演説会の会場となった尾上座である。1892年には家業に失敗して妻子と離縁、長男の文三を連れて東京に出て鹿島組の幹部になったという。(註54)また、高橋哲夫氏は井上康五郎を遊廓主であると推定している。(註55)

井上康五郎とその子分たち『福島百年の人びと』より

井上康五郎とその子分たち『福島百年の人びと』より


10代鐸木三郎兵衛(俳号・馬巌)は、1858年4月16日(安政5年3月3日)陸奥国刈田郡白石本郷桜小路金谷武功の2男に生れ、仙台で「獨逸學校太田孚漢學塾等に學び其後上京警視醫學校に入る。同校廢止後病を得て廢學」(註56)、伊達長岡村の養蚕家・4代芳賀甚七の食客となり、その媒酌で、1878年に福島町の薬種問屋伊勢屋9代鈴木三郎兵衛の養子となり、10代目の家督を嗣ぐ。ただし、警視医学校廃止は1878年4月であり、正則生55名は東京大学に入学することになったとある。(註57)
4代芳賀甚七は1887年に岩磐協会を設立、自らの蚕種製造所を集会場として福島自由民権運動の中心メンバーの1人となった一方、同じ製造所は信達教会の定期集会の会場にも使用されている。彼が「キリスト教に最初に接触したのは、安政年間から宍戸家に蚕種の取引のために来たイタリー人の影響で彼らのカトリック教徒の敬虔な態度に接したことに起因しているようである」とされる。(註58)

芳賀甚七『福島民報』より

芳賀甚七『福島民報』より

文中の宍戸家は天保1(1836)年、小楢村の名主遊佐田左衛門の6男として生れ、安政2(1855)年、中瀬村の名主宍戸義左衛門養子となった宍戸義八郎家であり、宍戸錠はその孫にあたる。(註59)1875年8月、「大学東校教師ライト及門人島田弟丸外三名は、二ヶ年間中瀬村宍戸儀八郎方に滞在して基督教の伝道をな」したという。(註60)
ウィリアム・ライト(William Ball Wright)は、イングランド福音伝播協会(The Society for the Propagation of the Gospel、SPG)の派遣により1873年9月25日、アレグザンダー・ショウ(Alexander Croft Shaw)とともに横浜に到来、公使ハリー・パークス(Harry Smith Parkes)のすすめでTokei(東京)Mitateramachi(三田北寺町)のDai Shôji(大松寺)に居を定め、廃寺寸前となっていた芝霊南坂の陽泉寺を聖堂に改造する。1874年3月、ライトは下二番町に転居して礼拝所を設営、1874年10月30日に島田弟丸、1875年5月16日に水野功らを受洗させている。(註61)

水野功は、信州上田在の「數百年來神主で父も我輩も平田篤胤先生の門人」の家に生れている。(註62)「父は水野保豐母はりき、安政元年八月八日に生る。」「幼年時代郷里にて漢籍和學を修め、明治三年上京して、近藤眞鋤氏の門に入り、明治七年中村敬宇の同人社に學び、而して此の時基督教の勢力侮り難きを知れり。」「今日基督教を防ぐにあらざれば詮方なきに至らんと思ひ、先づ斯教を硏究して其の弱點を知り之れを撲滅せんと欲し、之れを父に計り大いに賛成を得たり。由つて明治七年夏基督教信者にして父の知己なる岡田保饌氏を訪ひ基督教に就て聞きたるに、氏は聖書を開き創世記第一章を示し、始めに神天地を作り給へりの冐頭より讀ましめたり。其時氏は恰も我古事記神代記をよむ心地し興味を感じたりと云ふ。爾後岡田氏と共に毎日曜日築地の教會堂に於て説教を聞き、九月下旬より英人ライト氏より、一日二回づゝ聖書の講義を聞きたるに、年來の迷霧全く晴れ、十月下旬全靈覺醒の思ひを以て信仰に入り、基督教撲滅を志し斯教の硏究を企てたる氏は、明治八年五月十六日ライト氏宅に於て、監督ウイリアムス師より洗禮を受くるに至れり。」(註63)旧約聖書に触れて自らの神道観に揺らぎをみせたのは、水野功の師・平田篤胤にあっても同様であった。(註64)

水野功『信仰三十年 基督者列傳』国会図書館蔵より

水野功『信仰三十年 基督者列傳』国会図書館蔵より

また、水野功の事歴を『キリスト教信越伝道史』にまとめたジャーナリスト・牛山清太郎(雪鞋)は、1886年陸軍教導団を首席で卒業した軍人であるが(註65)、彼をキリスト教に導いたのは笛木角太郎。1845年1月30日(弘化1年12月23日)(註66)、群馬県利根郡新治村相俣の生れ。(註67)「笛木氏の前生は上州の長脇差、かの国定忠治の跡をうけて上州小僧とアダ名された大親分、子分の四、五百人も率いて諸方を荒れ回ったというシタタカ者なのだ。」(註68)「ばくちを打っては買い,飲むという放蕩のため勘当され,叔父弁二を頼って上京。聖パウロ教会の熱心な信徒であった弁二に感化され,1879(明治12)年12月,妻りん子と共にパイパー, J. から受洗。翌年から聖書販売人として,隅田川の汚穢船を渡り歩いて分冊を頒布,あるいは社寺の縁日・祭礼に乗込み,大八車に仁王立ちになって群集の罵言をものともせず奇智とベランメー調で真神を説き,「天来の妙薬」として聖書を売りさばいた。」(註69)のちの「社会主義伝道」(註70)の祖形である。また、「入信後よく上州を訪ねて、旧い遊び仲間を説教するのに、先づサイコロをふって一戦を試み、めちゃめちゃに仲間を負かして了ふと、そこで賽を投げて、キット居直って説教を初めるのである。/おい兄弟たち、へたくそなバクチなどやめてしまへ、俺はな、お前たちが束になって掛って来ても負けはしない。俺はバクチ打ちなら安楽にしてぜいたくな暮しが出来るのだが、今はやらない、なぜだ!この俺を見ろ、昨日のバクチ打ち今日はヤソの聖書売りをやっている。さアみんな、遊び人暮しをやめて正業につけ!と、之が彼の改信生活の第一声であった。而ふしてこの間、多くの入信者を得たこと勿論である。」(註71)そして、「クチバシの黄色い青年軍人などの談論が傍へも寄りつけたものではないのである。それで我々数名の下士教官はついに笛木氏のために説服されてしまったのである。我々は数十回にわたって同氏から基督教の大体を教えられ同氏の導きにより、明治二十二【1889】年の正月二十八日、東京は築地聖パウロ教会において英国宣教師ウィリアムス氏から無事洗礼を授けられた」。(註72)

笛木角太郎『信仰三十年 基督者列傳』国会図書館蔵より

笛木角太郎『信仰三十年 基督者列傳』国会図書館蔵より

ウィリアム・ライトは来日当初、「親しく僧侶に交りて日本語及び漢字を硏究したり。」(註73)当時の様子はSPGに宛てたライトの書簡にいきいきと叙述されている。

The Bozu【坊主】 of our temple is a very intelligent young man aged 28. He bought a spelling-book, and has been getting me occasionally to give him a few lessons in English. One day we had a conversation about prayer【祈禱】. I expressed my surprise that he should think God would like such prayers as his, ―Sanskrit words repeated over and over again without knowing their meaning, accompanied by the beat of a drum【木魚とおもわれる】. He replied by a tatoyeba【例えば】 (a parable【譬話】): “If a little snow falls, it soon melts; but if a great deal keeps falling, a large heap is raised, and by and by it becomes ice. So if I say the prayer once or twice, Butsu【仏】 forgets it; but if I keep on praying, as there are a great many bad people in many countries, a great heap is raised, and Butsu cannot help seeing them.” ―They are very fond of【大好きだ】 parables and illustrations.(註74)

1875年6月14日には仲六番町に英語塾・乙亥学舎を開き、島田弟丸を校長に据えた。(註75)のち上一番町3番地イギリス公使館下に移転、「基督教講義所」の看板を掲げることが認可されず、「止むを得ず、「泰西教講義所」なる珍名を作りて、其筋の認可を得たり。」(註76)さらに翌1876年10月には、若山儀一所有地の四谷簞笥町23番地に四谷聖十字教会仮会堂を設けている。(註77)1877年には学生数増加のため分校を併設した。(註78)1876年8月には相州旅行中、大山の仏寺で避暑生活を過ごし、その後、小野村(現・厚木市)、中津村(現・愛川町)に農村伝道を開始する。(註79)ライト師に関する名取多嘉雄氏の周到な研究(註80)にその福島伝道のことについては触れられていないが、『日本キリスト教歴史大事典』の水野功の項に記載があり(註81)、聖公会関係の資料で事実を確認することができる。
まず、島田弟丸の回想に「【明治】九【1876】年の始め、勤(すヽ)【勸】むるものあり、水野功氏福島在に傳道す。余もあとより出張滯在約一ヶ月、母の重病の電報に接し、急に歸宅せり。村人(そんじん)之を傳へきゝて曰く、耶蘇急に雲にのりて歸京すと。祝すべし余偶然雲上の人となりぬ。呵々。」とある。(註82)また、雪鞋牛山清太郎の証言によれば、「宣教の第一着として氏はまず明治九【1876】年に奥州安達郡中瀬村に赴いた。そこの銀山の役人に杉山某という人があった。如何なる動機からか知らぬがたいそう熱心に基督教を求めたので、氏は杉山氏の家に五ヵ月ばかり滞留し、ここを本拠としてその付近に道を伝えた。それからその夏七月中に福島に引きあげてそこに伝道したところ、非常な迫害で生命からがらの目に逢ったこともたびたびだったという。」(註83)

宍戸義八郎『中瀬の先覚者-宍戸義八郎』より

宍戸義八郎『中瀬の先覚者-宍戸義八郎』より

SPGの本部資料『Mission Fiiled』に掲載された書簡には詳細な報告が載る。そこでは、日本の北国からの訪問者にキリスト教書籍を持たせたところ、その者(姓名不明)から、友人の助言を求めたのちに手紙が到来した。役人や主要な人物らは誰かが当地に来ることを望んでおり、多くの人が教えを受けることを望んでいるとの内容であった。また、Shishido Gibachiroという別の人物からの手紙では、人々がみなキリスト教の教えを聞きたがっており、彼の家を住居として提供するという内容であった。そこでJames Midzuno(22歳)とMatthew Kimmura(16歳)を福島に派遣したと報告している。MidzunoとKimmuraの手紙が紹介され、福島の各地で伝道を行なったことが示されている。その中心的な対象として、NakazeのShishido Gibachiro、FukushimaのKanno、Okaに住むShishidoの親戚の各人があげられている。(註84)記事内に頻繁に登場するShishido Gibachiroが宍戸義八郎であり、彼が福島におけるキリスト教受容の中心的人物であったことが分かる。しかし前述の通り、翌年からは相州伝道が開始され、Ôshiû伝道は一頓挫することになったようである。なお、伝道の際に使用された ‘Ten do Sogen’ (Evidences of Christianity) は、『天道溯原』。アメリカ長老教会によって清国に派遣されたウィリアム・A・マーティン(William Alexander Parsons Martin、丁韙良)により、1854年、寧波で出版された教義書である。全体は3巻に分かたれ、それぞれ自然神学、教義神学、教義解説書となっており、特に第1巻では近代天文学から説きおこし、西洋学術の紹介を五行説と調和させつつ展開している。(註85)

逝ける吉田佐次郎氏『福島民報』より

逝ける吉田佐次郎氏『福島民報』より

宍戸義八郎、鐸木三郎兵衛の周囲には、吉田佐次郎がいる。1871年、伊達郡長岡村田町の吉田佐伝治の2男として生れ、料理屋花月楼を経営する博徒で、1886年、ドイツ改革派教会(Reformed Church in the United States,German、RCU)のウィリアム・ホーイ(William Edwin Hoy)により受洗、1905年、東北冷害を受けた孤児救済のため映画の巡回上演を行ない、1924年には信達軌道株式会社(現・福島交通)専務支配人となった人物である。(註86)また5代芳賀甚七(守之助)は、1884年に上海に留学、帰国後の1905年11月、東京神田教会牧師嶋貫兵太夫(註87)による冷害慰問伝道を受け入れ、翌年2月、貧困学生の霊肉救済を目的に渡米留学を推進する日本力行会の伊達支部を組織している。(註88)嶋貫兵太夫と日本力行会によっておこされた渡米実践はアメリカ帰りのキリスト教社会主義者・片山潜を巻き込み、ここに一大ムーヴメントが開始されることになる。
9代鈴木三郎兵衛(俳号・西美)は、1874年に「宮城県貫属塚原有の紹介人となり、福島にギリシャ正教の布教と外国語塾を開くことを出願して「伺之趣難聞候事」と却下されている」。(註89)しかし同記述には事実誤認があり、『福島伊達教会百年史年表』によれば1874年7月6日「知人青森県貫属士族於曽半十郎から、宮城県貫属平塚有を以て聖教理証及観見図を相添遣わし当地へ天主教を開きたいとの周旋の依頼があったが、如何すべきとの伺書、鐸木三郎兵衛より県七等出仕木村矩至宛提出される/県の指令按は、伺の趣聞届難く候事であった。」とする。(註90)天主教はカトリック、『聖教理證』は、エティエンヌ・アルブラン(Etienne-Raymond Albrand)名義司教によって清国で出版された同名書の日本語訳。アルブランは、1805年4月4日、オートザルプ(Hautes-Alpes)県サンクレパン(Saint-Crépin)に生れ、パリ外国宣教会(La Société des Missions Etrangères)に派遣され、1833年シンガポール、1835年シャム伝道を経て、1846年より貴州使徒座代理、1853年貴陽で死去。(註91)日本語版は1873年にベルナール・プティジャン(Bernard-Thadée Petitjean)により出版された。(註92)したがって同書もカトリックの教義書であり、ニコライのロシア正教ではない。
その養子に入った鐸木三郎兵衛は、1881年の福島大火のあと市区改正事業に従事、「工費金七千餘圓、殆ど自辨せり。」(註93)翌年には「福島自由黨事件ノ際、市內多數ノ士民ハ嫌疑ヲ受ケ」て連座し、12月から2月まで酷寒の季節を牢獄に過ごす。獄中の元旦の句に「無遠慮に茲まで來るや初日影」、「若水にをのが姿をうつしけり」の句がある。(註94)出獄後の1885年には、押川方義、上村正久、フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck (born Verbeek))を招聘、飯坂小学校で基督教演説会を開催。(註95)同演説会は4代芳賀甚七と共催されたという。(註96)、さらに1886年5月23日、「第二回の洗禮式に於て新に受洗したる鐸木三郎兵衛氏外數名及び己【已】に信者となつてゐた前記山本【兼吉】、小此木【信六郎】の人々を以てこゝに始めて講義所を設け鐸木氏宅の一部を借受けて之に充て、こゝに「福島耶蘇教講義所」の看板をかゝげた。即ちこの日を以て福島教會創立の日となすのである。」(註97)そして鐸木三郎兵衛は、自ら東北各地へ伝道に赴いている。
信達地方は日本屈指の養蚕地帯であり、日本経済史のフィールドとしても活発な研究の対象となっている。同地方は、かつて見た上信武地方と同様、きわめて早期からキリスト教・自由民権運動を受容しており、その中に博徒俠客が存在していたことも共通する。したがって「民権運動が下火になったのちに、この運動のヒューマニティはキリスト教において結実していくのである。」とする小林喜成氏の結論(註98)は、やや謙遜にすぎる。

さて、民営『官許福島新聞』の第1号に掲載された「稟告」は次のようなものである。

「 ○稟 告
維新ノ際ニ生レ文明ノ域ニ至ラントスルニハ以テ天下ノ形勢四海ノ風俗ヲ知ラザルベカラズ然レドモ家鄉僻地ニ在ルモノ徧ク覽シテ而悉ク知ルヿ能ハズ之レヲ知ルハ新聞誌ヲ見ルニ如カズ夫レ新聞ノ用タル瑕堵ヲ出デズシテ世態事情ヲ知リ其人ニ遇ハズシテ名言高論ヲ聞クヿヲ得其裨益アル豈尠カラン哉今我社已ニ官許ヲ得テ開明社ト號シ福島新聞ト題シ追次發兌シ之レヲ世ニ公ニシ善事ハ見テ以テ之レニ傚ヒ惡事ハ聞テ之レヲ戒メ互ヒニ相切劘シテ開化進步ノ一助トナサシメント欲ス大方ノ諸君子異事奇談アラバ幸ニ此社ニ投書センヿヲ是レ乞フ」(註99)

「開明社より發行する「福島新聞」は遲々として印刷を續け、時には月に二回或は十回に及びたることはあれども、旣に經營困難の爲に翌年に至つて廢刊するに至つた。」(註100)同紙第2号は1874年2月26日(木)、第5号は3月16日(月)、第6号が3月21日(土)、そして第7号が3月26日(木)と続く。『福島県史』は月3回の定期発行と見るが(註101)、当初の発行頻度は不定期ながら、それよりも多かったらしく見える。
1875年8月「丹治經雄外數名と計り、「信夫新聞」と題名せるを發刊した。」(註102)その原紙は発見されていないが、1877年の福島県警部平田保直による兇徒聚衆事件を報道したと見る研究者もいる。(註103)
その後、『信夫新聞』は廃刊となり、1877年12月7日に発行許可を得た『福嶋新聞』(鳴岡社)が1878年1月14日に創刊された。創刊時の原紙は現存しておらず、宮内庁書陵部に収蔵されていた原紙が、国立国会図書館により1990年にマイクロフィルム化されたことによって、1878年3月1日の第21号(原紙破損のため、日付・号数は推定)以降の分を見ることができる。同号によれば、社主は丹治経雄、編輯長代理が栗村寛亮、印刷長が花香恭次郎となっている。福井淳氏は、同月には官員姓名を新聞付録として出版することや県政便覧の発行を県に願い出たものの許可されなかったとする。(註104)しかし、同紙の印刷をしたと考えられる福島活版所は、1878年5月に「縣廳內より轉居」、県の布達、日誌、官員録の出版を告知している。(註105)11月には「噐【U+5650、器】械活字花形物体」の図版印刷を開始(註106)、翌年3月には銅版印刷に加え、多色刷を開始したことを宣伝、代表者名を「竹內專藏」とする。(註107)竹内専蔵は、福島事件裁判の際に平島松尾が政治的には無関係と証言したものの(註108)、1882年5月に自由党福島町の幹事を努め(註109)、『福島自由新聞』発行の中心人物の1人となった人物である。翌年4月には「福島縣町村會規則」、「同職員錄附郡吏職員錄」、「縣乙第廿四號達戶籍取扱規則」の出版を広告している。(註110)また、岩谷巌の1879年1月17日の日記には「川辺ヨリ福島新聞代価取ニ使者来リ」と見え、新聞の集金状況が分かる。(註111)

戸田氏栄『美濃大垣十万石太平記』より-wikipediaによる

戸田氏栄『美濃大垣十万石太平記』より-wikipediaによる

花香恭次郎は、1856年7月9日(安政3年6月8日)、幕臣でペリー来航時の浦賀奉行をつとめた戸田伊豆守氏栄を父に、駒込片町で生れる。同所は御手先与力同心大縄地である。万延1年に香取の名主・恭法花香弘一郎の養子となっているが(註112)、明屋敷伊賀者組頭格から浦賀奉行手付に取り立てられた内田弥太郎の「つて」で、その和算の弟子・花香恭法の養子となったと思われる。(註113)
内田弥太郎は幕臣宮城弥一郎の次男として生れる。蟹江幸博氏のまとめによれば、父は御家人で、藤村権左衛門組の御小人。名を五観(いつみ)といい、諱は恭、後に観(よくみ)、字は思敬、号は観斎、KWANSAY、宇宙堂主人、東曈軒。住居は1826年の和田寧への入門帳への記載では四谷忍原横町、1846‐48年の間に「麻布六本木通り飯倉河町、五鴻様御屋敷裏門キワ小路入る見附」に転居、1861年の切絵図に、内田弥太郎の家として載るが、1854年には深川八幡旅所前に住んだという記録もある。関流宗統6伝を嗣いだ和算家で、洋学も修め、数学、物理学、天文学、暦学、測量術、兵学等幅広い領域を高度なレベルで理解、著述、教育し、その膝下から俊才を輩出した。和算の師は日下誠、和田寧、阿蘭陀語の師は高野長英、暦学の師は釈圓通。1822年、日下誠の塾を引き継ぎ、瑪得瑪第加(まてまていか)塾を開く。1826年、明屋敷番伊賀ノ者である内田家の家督を継ぐ。1834年には富士山の高さを測量して3475.7mの値を得、『日本高山直立一覧』に記述した。1835年には『新星発秘』を著述、ティティウス・ボーデ則(Titius-Bode law)を紹介した。その関係者には、渡辺崋山、江川太郎左衛門英龍、高野長英など洋学の錚々たるメンバーが名を連ねる。(註114)その著書『新星発秘』(天保6年(1835‐36年))、『彗星真言』(1872年以前)は「激しいまでのキリスト教的自然観」に支えられた宇宙認識によって執筆された。(註115)当然のことながら両書ともキリスト教禁制下での著作である。新政府下では暦学の第一人者として、明治5年12月(1872年)の「太陽暦への改暦の中心的人物」であったという。(註116)

花香恭次郎は、1876年8月10日、四通社に入り『廣益問答新聞』(服部誠一により6月15日創刊)の社員となる。同誌は「本社ハ江湖諸彥ト共ニ百般ノ事業上ニ就テ其得失利害ヲ討論シ以テ國益ヲ起サントスルノ目的也故ニ社員ヨリ問ヲ起シテ諸彥ノ答ヲ促シ或ハ諸彥ノ問ヲ得テ社員之ニ答ヘ或ハ又諸彥ノ互答ヲ集錄シテ之ヲ世ニ公ニセントス諸彥幸ニ問起答文共ニ之ヲ投寄セラレンヿヲ仰望ス」との社告を掲げて発刊された。(註117)今でいえば「教えて! goo」あるいは「Yahoo! 知恵袋」にオピニオン誌のテーストを加え、紙媒体にしたような雑誌である。同年7月25日発行の第21号に掲載された東京深川寄留・三原孫七の問「○借地約條ノ規則ヲ設ケハ其利害如何」にたいし、林徳門とともに「花香次郎」が回答を付す。(註118)同様の回答は、第22号(花香次郎名義)(註119)、第23号(花香次郎名義)(註120)、第36号(花香二郎名義)(註121)、第38号(花香次郎名義)(註122)、第44号(花香次郎名義)(註123)、第51号(花香恭次郎名義)(註124)、第65号(花香恭次郎名義)(註125)、第71号(花香恭次郎名義)(註126)、第79号(花香恭次郎名義)(註127)に掲載されている。最終の回答は1876年11月23日号である。また、回答経歴から12月23日発行の第89号に掲載された「○禾花媒助法ノ要旨」という記事も彼の筆によるものかもしれない。(註128)「媒助法は明治六年にオーストリアで開催の万国博覧会に出席した泰西農学の先覚津田仙が、滞在中にオランダ人のホーイブレンク【Daniel Hoobrenk】から伝習を受けた三技術―気筒埋伏法・樹枝偃曲法・禾花媒助法―の一つで、帰朝した津田は『農業三事』(明治七年五月初版)を著し、また学農社を設立し、あるいは農業雑誌を創刊して普及宣伝に努めた。禾花媒助法とは一本の縄に緬羊の毛を注連縄のように吊して毛の先端に薄く蜂蜜を塗布し、米麦その他の雑穀の花の開綻期に縄の両端を二人で持ち、穂の上を二―三回、撫で回して受粉を助け増収を図る技術である。」(註129)

ワグネル氏肖像『ドクトル・ゴツトフリード・ワグネル傳』国会図書館蔵より

ワグネル氏肖像『ドクトル・ゴツトフリード・ワグネル傳』国会図書館蔵より

「内藤新宿試験場の実験結果では、媒助法がそれほど効果のあるものでないことがわかる。さらにお雇い外国人教師ワグネル(Gottfried Wagener, 1831-1892)は、媒助法は効果のないものであるとする報告書を勧業寮長に提出し、さらに書簡(1876 年 2 月 10 日付)においてホイブレンクの批判などを行なっている。農林省農務局は「当局にては欧米諸国の農学者の意見を徴し、また津田仙の申請により内籐新宿試験場において厳重なる試験を施行せるも、結局当局としては媒助法の効果はこれに要する経費を償うに足らざるものと認めたるものの如し」という結論を出す。媒助法は実験方法が確立されたものではなく、そのうえ採算性を考えると、津田が主張するほどの利点をもたなかった。そして勧業寮は媒助法の廃棄を指示する。この結果、津田縄の購買者は急速に減少し、1879(明治 12)年以降はほとんど顧みられることがなくなる。」(註130)
しかし、「交雑が品種改良や品種劣化の要因となることを気づかせ」、「1877年に内務省勧農局が「前田正名ノ献策二基キ,植物種苗等二關スル試験範示並ニ頌布交換ノ中心機關」を目的に三田育種場を開場した」。(註131)さらに「この媒助法の論争による影響は大きく、これをきっかけに農業改良への関心が高まり、学農社の活動が広く知られるようにな」った。1875年には、津田仙を中心に結成された学農社には農学校が併設され、巌本善治、十文字信介その他農学者を輩出することになる。(註132)花香恭次郎も、こうしたムーヴメントの中にいたと考えられる。

花香恭次郎は、翌1877年5月に同社を退社し、6月より宮城地方を歴遊する。『廣益問答新聞』社員には佐藤清がおり、第80号(1876年11月26日)から第135号(1877年5月16日)まで同誌の編輯長代理を務めている。2人が同時期に退社したと思われること、佐藤清の故郷が磐城(仙台藩領)であり、仙台藩校・養賢堂出身だったこと、『廣益問答新聞』の創刊社主・服部誠一が二本松藩儒者の出身であったことが花香恭次郎の東北行に関係していよう。花香恭次郎については田﨑【崎の異体字、U+FA11】公司氏による詳細な伝記があり、父親が戸田氏栄という名門の出身であること、養家の花香家が下総の名望家であったこと、同姓の親戚に欽堂戸田氏益がいたことを3つの重要なバックボーンとして指摘しているが(註133)、彼が活躍の場所を福島県に選んだことについては、『廣益問答新聞』の同僚の人脈が最重要なポイントである。また花香家、丹治家がともに算学に関係があったらしいことも見逃せない。また、『履歴書』には「七年十月ニ茨城県鹿島郡息栖村ニ赴キ某家ニ覊寓ス蓋シ講学ノ余時農業ノ実験ニ志アルヲ以テナリ然トモ佐賀ノ変台湾ノ役世上騒然常ニ地方ニ僻在スルノ気象ナシ」というが(註134)、『廣益問答新聞』や『福島毎日新聞』においては農業、農法、農家経済上の回答や論説を執筆しているのが目立つ。政治上の諸問題については「○小笠原島ヲ以テ流罪地トナサハ如何ノ利害アルヤ」、「○國ニ政談家ノ多キハ民權ヲ維持スルニ足ル可キヤ」、「○人民ニ平等ノ權利ヲ得セシムルノ策問」、「○英雄ハ貴族ヨリ出ル歟將タ匹夫ヨリ起ル歟ノ疑問」に回答している佐藤清の方が目立つ。(註135)花香恭次郎は佐藤清の政治的・思想的影響を受けたと見るのが妥当である。

花香恭次郎墓所

花香恭次郎墓所

「佐藤清君 君は嘉永五年十一月二十九日を以て磐城國伊具郡大張村に生る、夙に【仙台】藩校養賢堂に入りて和漢の學を修め、明治五年東京に遊學す、後明治九年君問答新聞の記者となり操觚に從事す、十一年轉じて福島新聞、福島毎日、福島日々、福島自由の各新聞に健筆を振ひ、又磐城共衆會の委員となり熱心に自由民權の説を唱導し、專ら國會願望の事に奔走せり」。(註136)

佐藤清は栗村寛亮のあとを襲ぎ、6月21日の第69号から編輯長となっている。この時の社主は丹治經雄であるが、10月4日の再刊第97号からは社主の名が消える。現存紙によれば『福嶋新聞』は8月28日に第95号が発行されたあと、10月4日に『福島新聞』(第97号)として再刊されるまで休刊状態となっていたことが分かる。第96号は原紙未発見だが、後で引用する再刊告知によれば、定期の8月30日(金)に発行されたようだ。
この間の状況については、1878年10月22日、河野広中、酒井成師らが連名で石陽社に送った文書に「本【1878】年六月廿四日吉田正雄県会ノ為メ福島ニ出デシ時、鳴岡社ノ福島新聞発行株ヲ引受ケント欲シ、事急遽ニ係ルヲ以テ社員数名ト商議シテ引受ルヿノ条約ヲ為セリ/其条約ハ八月一日ニ該社ノ負債及【丹治經雄】社長ニ創立以来ノ慰労金〔ソノ合計ハ金二百十八円ナリキ〕ヲ整調シテ引受ル事トス、而〆【シテの合字の代用】七月廿二日【石陽社】臨時会ヲ開キ之ヲ決議セシニ豈図ランヤ、社員中陰ニ不満ヲ懐クモノアリ勢決行スベカラク矣、然レトモ【合字】社業ノ隆盛ヲ謀ラント欲セバ亦之ヲ捨ツベカラズ、依テ断然七月廿二日ノ決議ヲ履行スルヲ見合セ、我輩其関係ノ事ヲ引受ルニ決シタリ/八月一日ニ至リ金員整ハザルヲ以テ九月一日ニ延期シ新聞誌ハ元ノ如ク刊行セシガ、九月一日ニ亦不整ノ事アリ更ニ引受ノ期ヲ十月一日ニ延バシ新聞ノ発兌ハ一日【月カ】間止ムヲ得ズ休刊スルニ至レリ、而〆【シテの合字の代用】十月一日吉田正雄福島ニ至リ之ヲ引受ケ本月四日ヨリ発行セリ」と詳述される。その目的は「思想論説ヲ自由ニ公布セントスル」ことにあった。(註137)
その時に福島新聞社の社長に就任したのが河野広中である。これにより再刊『福島新聞』は完全に民権派のオピニオン紙になった。これを第2.5次の福島新聞と呼ぶことにより、事情はより明確になろう。そして、福島活版社の社長が竹内専蔵と明示されたのも関係があるだろう。翌1879年9月10日の河野広中の日記には、同社社長を辞任したことが記され、社長に就任した際の状況が説明されている。

「○九月十日影山氏ヨリ来書仍テ返翰ヲ出ス又石川ヘモ書ヲ出ス此時新聞社長ノ職ヲ辞ス
客年我新聞社権危急存亡ノ秋ニ𦡚【U+2685A、膺ノ誤】リ諸君ハ本社ノ全権ヲ挙テ小生ト酒井成師トニ委任セリ仍テ不侫【佞】ヲ顧ミス拮据黽勉ヲ得サルノ場合ニ到リ酒井氏ノ奨勧ニヨリ甘心ナラヌヿト思惟シタレトモ【2字合字】本社ノ安全ヲ冀図スルノ一意ヨリ仮ニ社長ノ任ヲ襲キタリ之レ蓋シ酒井成師ヲシテ復命セシ時ニ於テ同氏ヨリ委曲縷述セシナラン此時ニ当リ更ニ公撰社長ヲ置サルヘカラサルノ時ナリ然ルニ生不在ナルヲ以テ或ハ此挙ニ到ラサリシカ将殊更生ノ復命書ナキヲ以テ敢テ更撰セサリシ乎暫ク徃事ヲ措キ今茲ニ自ラ任ヲ解キ以テ復命ス諸君之ヲ聴納シテ更ニ撰挙セヨ社長其人ヲ得ハ社運将ニ萬全ナラン伏テ以聞
十二年九月十日       河野廣中
   福島新聞社々権所有
     諸君御中」(註138)

1879年3月1日の第144号からは佐藤清主幹、栗村寛亮編輯長代理の体制となり、『福島毎日新聞』、『福島新聞』とタイトルを変更しながら継続し、1879年5月10日の第201号までつづく。1878年5月12日発行の『福島新聞』第202号から佐藤清主幹、花香恭次郎編輯長代理、『福島県史』によれば6月30日の『福島毎日新聞』第242号まで花香恭次郎が編輯長の職にあったことが確認される。(註139)同月21日には、福島活版社から『福嶋縣達全報』が創刊され、社主兼印刷に竹內專藏、幹事兼編集に花香恭次郎の名が見える。(註140)この体制は同年8月5日の第5号まで続いている。(註141)8月15日同誌第6号では幹事兼編集の名が鈴木清隆に貼紙で訂正されている。(註142)これは花香恭次郎の『履歴書』に「十三【1880】年秋終ニ新聞記者ヲ罷メ専ラ地方団結ノ事ニ当リ各地ヲ遊説シテ国会開設ノ請願書ヲ作興シ委員ヲ期成同盟会ニ出シ願望書却ケラルヽニ及ンテ其同志ヲ糾合シテ遂ニ主義ノ結合体ト為シ東北各社ト連絡シテ又遂々東北自由党ヲ興ス」とある経過に合致する。(註143)また、『福島県史』の記載によれば、『福島毎日新聞』第242号では杉山重義が主筆に迎えられているという。(註144)

杉山重義は「伊豫國松山市木屋町」に、「父は杉山重厚、母は靜子、安政四年六月廿七日【1857年8月16日】に生る。兄を杉山重俊、姉を久松カナ子と云ふ。明治六七【1873‐74】年の頃大阪に遊学中、米國宣教師ゴルトン【Marquis Lafayette Gordon】氏に接し、其個人的感化によりて基督教を硏究するの志を生じ、遂に斯教を信ずるの决心をなし」(註145)、「1874(明治7)年5月24日梅本町公会(大阪教会)設立の日に,ゴードン,M. L.から受洗。その後自由民権運動に加り加波山事件で捕えられた。87年3月東京第一基督(霊南坂)教会に転会,のち番町教会に移った。87年10月‐88年7月,森本(松村)介石の後任として警醒社発行の『基督教新聞』(『基督教世界』)の編集を担当。」のち、早稲田大学教授、早稲田実業校長を歴任した。(註146)

Fk氏撮影-福島稲荷神社-wikipediaによる

Fk氏撮影-福島稲荷神社-wikipediaによる

 


 

註1 松本健一「絶対自由への筏―日本政府脱管届をめぐって―」『流動』第6巻第3号 流動出版 1974年3月1日
註2 郷武夫 本田善人『調査情報 栗原寛亮』福島自由民権大学 1988、金井隆典「みやじもへい 宮地茂平」宮地正人 佐藤能丸 櫻井良樹編『明治時代史大辞典 第三巻 に~わ』吉川弘文館 2013による
註3 篁洲今泉彪監修 任天菊田定鄉編著「クリムラ・ツネモリ【栗村常守】」「クリムラ・ツネヒロ【栗村常寛】」『仙臺人名大辭書』仙臺人名大辭書刊行會 1933、宮城県姓氏家系大辞典編纂委員会編「栗村 くりむら」『角川日本姓氏歴史人物大辞典4 宮城県姓氏家系大辞典』角川書店 1994も参照
註4 篁洲今泉彪監修 任天菊田定鄉編著「クリムラ・ホクシャ【栗村北沙】」『仙臺人名大辭書』仙臺人名大辭書刊行會 1933
註5 小關三郎編輯「菅井梅關―(畫家)―」『仙臺先哲偉人錄』仙臺市教育會 1938、出典は「仙臺近古史談」とあるが今泉寅四郎『仙臺人物史 仙臺近古史談』早川活版所發行 菊田任天堂發賣 1909に同挿話は見えない
註6 筱崎小竹『交友郷里姓名』文化11至天保2年 大阪府立中之島図書館蔵、水田紀久 森上修 多治比郁夫校「筱崎小竹『交友郷里姓名』」『大阪府立図書館紀要』第2号(館報特集号) 大阪府立図書館 1966年3月1日による
註7 筱崎弼「梅關山人墓碑」弘化二年乙巳四月、『仙臺金石志 卷之廿一』鈴木省三編纂『仙臺叢書』第2期第2巻 仙臺叢書刊行會 1927による
註8 小關三郎編輯「菅井梅關―(畫家)―」『仙臺先哲偉人錄』仙臺市教育會 1938
註9 篁洲今泉彪監修 任天菊田定鄉編著「クリムラ・ホクシャ【栗村北沙】」『仙臺人名大辭書』仙臺人名大辭書刊行會 1933
註10 篁洲今泉彪監修 任天菊田定鄉編著「クリムラ・カンスケ【栗村寛亮】」『仙臺人名大辭書』仙臺人名大辭書刊行會 1933
註11 常盤雄五郎「仙台人名大辞書」『本喰い蟲五十年』仙台昔話会 1956、「特集 宮城県図書館のルーツを訪ねて その4 〜今泉・小西・大槻文庫〜」『宮城県図書館だより ことばのうみ』第32号 宮城県図書館 2009年12月2面
註12 「○處刑」『郵便報知新聞』1883年2月19日2面
註13 野口勝一『日記 明治二十二年自八月 同二十四年二月 八』1889年12月7日条、北茨城市教育委員会編『北茨城市史 別巻 野口勝一日記III』北茨城市 1993による
註14 雜報『讀賣新聞』1879年6月3日2面
註15 『東京曙新聞』1879年6月4日2面
註16 安典久「第一章 維新変革と水戸 第七節 自由民権運動の展開 二 国会開設請願運動と政談演説会の盛況」水戸市史編さん近現代専門部会編『水戸市史 下巻(一)』水戸市役所 1993
註17 福島市役所編纂「第十九章 人物 第二節 僧侶、儒者、醫師、其他」『福島市誌』福島市役所 1942
註18 福島民友新聞社編「信仰に生きる 神道界に丹治の活躍 剣の達人から神官へ」『福島百年の人びと』福島民友新聞社 1968
註19 「新しい教育・文化と社会の動き 第四節 学問のすすめ 一 英学校「共立学舎」」福島市史編纂委員会編纂『福島市史 第四巻 近代1(通史編 4)』福島市教育委員会発行 岩瀬書店 巌南堂書店発売 1974
註20 梅宮茂「第三編 幕藩体制の解体 第五編 近世の文化と生活 第一章 学問・思想 第二節 国学と和歌 二、信夫地方の国学と和歌」福島市史編纂委員会編纂『福島市史 第3巻 近世II(通史編3)』福島市教育委員会発行 岩瀬書店 巌南堂書店発売 1973
註21 田嶋寛撰「明斎先生碑」1888年12月、福島市史編纂委員会編『福島市史資料叢書 第48輯 福島のいしぶみ』福島県教育委員会 1986所収、福島研究保存会編「第二章 福島の算額 二 福島の和算家 (二)福島、伊達、信夫」『福嶋の和算』福島研究保存会 1970、丹治文雄「第2章 福島の和算を立てた人々 五 明斎 丹治重治」福島県和算研究保存会編『新・福島の和算』福島県和算研究保存会 1982
註22 誉田宏「第三編 幕藩体制の解体 第三章 美術・工芸 第一節 美術 二、書」福島市史編纂委員会編纂『福島市史 第3巻 近世II(通史編3)』福島市教育委員会発行 岩瀬書店 巌南堂発売 1973
註23 福島市役所編纂「第六章 學事 第一節 總説 一、維新前」『福島市誌』福島市役所 1942
註24 秋山政一「第一編 福島町の成立 第四章 新しい教育・文化と社会の動き 第一節 学制発布と福島学校 一、学校御開き」福島市史編纂委員会編纂『福島市史 第4巻 近代I(通史編4)』福島市教育委員会発行 岩瀬書店 巌南堂書店発売 1974、大竹正三郎「第一編 藩学と寺子屋 第二章 福島の寺子屋と私塾 第一節 福島の寺子屋と私塾 一、寺子屋・私塾の特色」福島市史編纂委員会編纂『福島市史 別巻II 福島の教育』福島市教育委員会発行 岩瀬書店 巌南堂書店発売 1979
註25 福島市役所編纂「雜錄 風俗習慣 第一節 寺子屋教育と子弟の情誼」『福島市誌』福島市役所 1942
註26 福島市役所編纂「第六章 學事 第一節 總説 二、維新後 (四)私塾」『福島市誌』福島市役所 1942
註27 丹治文雄「第2章 福島の和算を立てた人々 五 明斎 丹治重治」福島県和算研究保存会編『新・福島の和算』福島県和算研究保存会 1982
註28 「丹治 経雄(たんじ つねお)」『神道人物大事典』神社新報社 1986
註29 谷川穣「第一部 教導職と教育―明治初年― 第三章 筑摩県における「教」の位相」『明治前期の教育・教化・仏教』思文閣出版 2008
註30 「中教院ノ事、神官僧侶議論難決シテ不得止ノ分ハ(中略)地方ノ適宜ニ従ヒ、各宗申合セ僧侶ノミ神速ニ取結ビ当分、合議所ト称シ、粗中教院ノ規則ニ准シ学生養育シ且ツ布教ノ合議ヲ遂ゲ(後略)」1874年、『教部省関係書類』北海道立文書館蔵、函館市史編さん室編「第4編 箱館から近代都市函館へ 第11章 函館における宗教世界の諸相 第3節 教部省の設置と函館中教院 2 函館における教導職」『函館市史 第2巻 通説編2』函館市 1990による
註31 宗像喜代次「第二編 近代社会の成長 第三章 文化の成長 第四節 宗教」福島県編『福島県史 第4巻 通史編4 近代1』福島県発行 福島県図書教材株式会社 巌南堂書店発売 1971
註32 福島市史編纂委員会編纂『福島市史 第10巻 近代資料I(資料編5)』福島市教育委員会発行 岩瀬書店 巌南堂書店発売 1972、「五九 建白書」大日方純夫 安在邦夫編『明治建白書集成 第八巻』筑摩書房 1999、「八五 〔外交問題ニ付建白書〕」安在邦夫編『明治建白書集成 第九巻』筑摩書房 2000
註33 「神官有志 神祇官設置陳情書(明治二十四年一月)」國學院大學図書館梧陰文庫蔵、安丸良夫 宮地正人校注『日本近代思想大系5 宗教と国家』岩波書店 1988所収
註34 丹治經雄編輯『壬辰組講究錄』丹治經雄 1892
註35 財團法人全國神職會編輯「第二章 全國神職會の創立 一、本會の創立」『全國神職會沿革史要』全國神職會 1935
註36 福島民友新聞社編「信仰に生きる 神道界に丹治の活躍 剣の達人から神官へ」『福島百年の人びと』福島民友新聞社 1968
註37 諸根樟一「第五章 本縣政黨及言論の胚胎 第三編 第二期の政治(縣會創設時代) 第三節 上期の言論機關 一 本縣の新聞一【衍字カ】史考 一 明治三十年迄の過程」『福島縣政治史 上卷』 福島縣政治史刊行會 1929
註38 井筒平「第五編 新聞・電波報道 第一章 新聞 第一節 福島県の新聞のはじまり―明治元年(一八六八)から明治七年まで― 四 民営『福島新聞』の創刊」福島県編『福島県史 第20巻 各論編6 文化1』福島県発行 福島県図書教材株式会社 巌南堂書店発売 1965
註39 福井淳「第三章 県令時代」安場保吉編『安場保和伝 1835‐99 豪傑・無私の政治家』藤原書店 2006
註40 紺野庫治 根本豊徳 渡辺博「第3編 人」二本松市『二本松市史 第9巻 自然・文化・人物 各論編2』二本松市 1989
註41 諸根樟一「第三編 第二期の政治(縣會創設時代) 第五章 本縣政黨及言論の胚胎 第三節 上期の言論機關 一 本縣の新聞一史考 一 明治三十年迄の過程」『福島縣政治史 上卷』福島縣政治史刊行會 1929
註42 『福島縣達全報』第壹號 福島活版社 1880年6月21日奥付、第卅五号 1880年11月25日まで、国立大学法人東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫蔵
註43 高橋哲夫「第二編 三春町と自由民権運動 第二節 三春正道館の設置 一 正道館の設立」三春町編『三春町史 第3巻 近代I (通史編3)』三春町 1975
註44 鐸木三郎兵衛『福島大火新道開鑿始末書』手稿、福島県編『福島県史 第20巻 各論編6 文化1』福島県発行 福島県図書教材株式会社 巌南堂書店発売 1965所収
註45 梅宮茂「第三編 幕藩体制の解体 第五編 近世の文化と生活 第一章 学問・思想 第二節 国学と和歌 二、信夫地方の国学と和歌」福島市史編纂委員会編纂『福島市史 第3巻 近世II(通史編3)』福島市教育委員会発行 岩瀬書店 巌南堂書店発売 1973
註46 田村鉄三郎「寫眞廣告」『福島毎日新聞』1880年5月10日4面
註47 高橋哲夫「無名館と尾上座(福島地区)」『福島民権家列伝』福島民報社 1967、「第四部 各地方の民権壮士 一 県北の青年闘士―斉藤又郞と沢田清之助ら―」『風雲・ふくしまの民権壮士』歴春ふくしま文庫64 歴史春秋社 2002
註48 斎藤友三『客自軒と長州藩参謀世良修蔵について』手稿本、大村三良「第2章 客自軒のあゆみ」『旧紅葉館(元客自軒)調査報告および元客自軒遺構保存工事報告書』福島市教育委員会 1993による
註49 山岸文蔵「勝俊公御行状御逸事之記」『板倉家御歴代略記第弐』手稿本 1907、福島市史編纂委員会編『福島市史資料叢書第24輯』福島市教育委員会 1971による
註50 庄司重男『浅草宇一郎小伝』大河原郷土史研究会 1971、庄司重男『侠客浅草宇一郎伝』宝文堂 1972
註51 山岸文蔵『奥羽戦争福島藩記事』手稿本 1899、としぼー「浅草宇一郎伝 奥羽戦争福島藩記事より」2011年2月14日『としぼーのブログ!!』サイト
註52 斎藤友三『客自軒と長州藩参謀世良修蔵について』手稿本、大村三良「第2章 客自軒のあゆみ」『旧紅葉館(元客自軒)調査報告および元客自軒遺構保存工事報告書』福島市教育委員会 1993による、「第一編 福島町の成立 第一章 県政の府「福島」の誕生 第三節 警察・裁判・消防・衛生」福島市史編纂委員会編纂『福島市史 第4巻 近代 I 通史編4』福島市教育委員会発行 岩瀬書店 巌南堂書店発売 1974
註53 「第一編 福島町の成立 第一章 県政の府「福島」の誕生 第三節 警察・裁判・消防・衛生」福島市史編纂委員会編纂『福島市史 第四巻 近代1(通史編 4)』福島市教育委員会発行 岩瀬書店 巌南堂書店発売 1974、大村三良「第2章 客自軒のあゆみ」『旧紅葉館(元客自軒)調査報告および元客自軒遺構保存工事報告書』福島市教育委員会 1993による
註54 斎藤友三『客自軒と長州藩参謀世良修蔵について』手稿本、大村三良「第2章 客自軒のあゆみ」『旧紅葉館(元客自軒)調査報告および元客自軒遺構保存工事報告書』福島市教育委員会 1993による
註55 高橋哲夫「無名館と尾上座(福島地区)」『福島民権家列伝』福島民報社 1967
註56 鐸木彥象編纂「馬巖鈴木三郎兵衞年譜」『馬巖句鈔』鐸木彥象(私家版) 1941
註57 「卷之一 東京警視廳」明治11年4月1日条『警視廳史稿 上卷』警視廳 1894、「卷之十四 舊警視病院附舊黴毒病院」明治11年4月1日条『警視廳史稿 下卷』警視廳 1894、『東京大学百年史 通史 一』東京大学 1974、吉原丈司「裁判医学校乃至警視医学校関係文献一斑―明治警察史の一齣―」2012年9月25日改訂版
註58 遠藤修司「義八郎の薫陶をうけた人々」『中瀬の先覚者宍戸義八郎』遠藤農政経済研究所 1979
註59 遠藤修司『中瀬の先覚者宍戸義八郎』遠藤農政経済研究所 1979
註60 福島伊達教会百年史編集委員会編「福島伊達教会百年史年表」『福島伊達教会百年史年表』日本基督教団福島伊達教会 1991、原出典は『伏黒郷土誌』というが未見
註61 Charles Frederick Pascoe「CHAPTER XCI. JAPAN」『Two hundred years of the S.P.G.: an historical account of the Society for the propagation of the gospel in foreign parts, 1701-1900 (Based on a digest of the Society’s records.)』Society’s Office 1901、島田徐行(弟丸)「雜錄 三十年の囘顧 古い事とも」『基督教週報』1917年9月7日12‐13面、水野功「三十年の囘顧 水野功氏囘顧談(承前)」『基督教週報』1917年10月5日5‐6面、名取多嘉雄「第三章 伝道活動時代 宣教師の都市と地方における伝道の展開―明治六年から同末年まで―」日本聖公会横浜教区歴史編纂委員編『み名によりて 横浜教区一二五年の歩み』聖公会出版 1998
註62 水野功「三十年の囘顧 水野功氏囘顧談(承前)」『基督教週報』1917年10月5日5‐6面
註63 警醒社編纂「水野功」『信仰三十年 基督者列傳』警醒社書店 1921、大江真道「「明烏迷の目醒」考―明治前期キリスト教伝道文書にみる神仏否定の論理―」『柳城女子短期大学研究紀要』第3号 柳城女子短期大学 1982年1月28日所引「日本聖公会 中部教区 長野聖救主教会教籍簿」によれば生れは安政元年8月8日(1854年9月29日)(戸籍届 同年2月15日(1854年3月13日))という
註64 平田篤胤『霊【𤫊】能眞柱』塾藏版 1813
註65 牛山雪鞋著 大江真道解説『キリスト教信越伝道史―ウォーラー長老、伝道の軌跡―』研究・資料シリーズ 4 銀河書房 1980(原資料は「回顧25年―ウォーラー長老信越伝道歴史」『信越新聞』1916年5月15日-8月25日77回連載)、名取多嘉雄『明治期における日本聖公会の千葉宣教』三恵社 2011、名取多嘉雄『明治期、英国人宣教師による千葉宣教を追う』文芸社 2015
註66 本多夏彥「牧師 笛木角太郎先生」三浦浅一郎編「教育、宗教篇」『新治村史料集 第三巻』新治村村誌編纂委員会 1959所引笛木角太郎戸籍、警醒社編纂「笛木角太郎」『信仰三十年 基督者列傳』警醒社書店 1921によれば1845年1月20日(弘化1年12月23日)
註67 警醒社編纂「笛木角太郎」『信仰三十年 基督者列傳』警醒社書店 1921
註68 鈴木二郎(吹潮子)証言『大高原』1929年9・12月号、大江真道「解説 明治期、カナダ聖公会の日本伝道の意義とウォーラー長老の果した役割」牛山雪鞋著 大江真道解説『キリスト教信越伝道史―ウォーラー長老、伝道の軌跡―』研究・資料シリーズ 4 銀河書房 1980による
註69 日本キリスト教歴史大事典編集委員会編「ふえきかくたろう 笛木角太郎」『日本キリスト教歴史大事典』教文館 1988
註70 荒畑寒村編 平田順解説『社会主義伝道行商記』新泉社 1971
註71 松井正明『笛木先生の思い出』出版年不明、本多夏彥「牧師 笛木角太郎先生」三浦浅一郎編「教育、宗教篇」『新治村史料集 第三巻』新治村村誌編纂委員会 1959による
註72 鈴木二郎(吹潮子)証言『大高原』1929年9・12月号、大江真道「解説 明治期、カナダ聖公会の日本伝道の意義とウォーラー長老の果した役割」牛山雪鞋著 大江真道解説『キリスト教信越伝道史―ウォーラー長老、伝道の軌跡―』研究・資料シリーズ 4 銀河書房 1980による
註73 元田作之進「第一章 宣教時代 五、エス、ビー、ジーの日本伝道第一期」『日本聖公會史』善光社發行 日本聖公會出版社發賣 1910
註74 William B. Wright「SPG宛書簡」1873年12月21日『The Mission Field』1874年3月2日、Cyril Hamilton Powles「Victorian missionaries in Meiji Japan : the Shiba Sect 1873-1900」The Unversity of British Columbia博士(Philosophy)論文 1968年9月
註75 嶋田弟丸 水野功「私学開業願」1875年6月14日 『開学願書 第27号』東京都公文書館蔵(資料ID 000116977)、神辺靖光『日本における中学校形成史の研究 明治初期篇』多賀出版 1995による、島田徐行(弟丸)「雜錄 三十年の囘顧 古い事とも」『基督教週報』1917年9月7日12‐13面、神辺靖光「学制期における東京府の私立外国語学校―その形態と継続状況についての一考察―」『日本の教育史学 教育史学会紀要』第17集 講談社 1974年10月5日
註76 島田徐行(弟丸)「雜錄 三十年の囘顧 古い事とも」『基督教週報』1917年9月7日12‐13面
註77 島田徐行(弟丸)「雜錄 三十年の囘顧 古い事とも」『基督教週報』1917年9月7日12‐13面、山縣與根二「三十年の囘顧 會堂破壞の詫證文」『基督教週報』1917年9月14日5面
註78 島田弟丸「私学分校願」1877年9月19日 『明治十年 私学開業願』東京都公文書館蔵(資料ID 000116988)
註79 名取多嘉雄「第三章 伝道活動時代 宣教師の都市と地方における伝道の展開―明治六年から同末年まで―」日本聖公会横浜教区歴史編纂委員編『み名によりて 横浜教区一二五年の歩み』聖公会出版 1998
註80 名取多嘉雄「ウイリアム・ライトの相州伝道 その1」『紀要』No. 17(1985) 立教女学院短期大学1986年1月25日、名取多嘉雄「ウイリアム・ライトの相州伝道 その2」『紀要』No. 20(1988) 立教女学院短期大学 1989年2月3日、名取多嘉雄「ウイリアム・ライトの相州伝道 その3」『紀要』NO. 22(1990) 立教女学院短期大学 1991年2月12日、名取多嘉雄「ウイリアム・ライトの相州伝道 その4」『紀要』No. 23(1991) 立教女学院短期大学 1991年12月20日、名取多嘉雄「ウイリアム・ライトの相州伝道(補遺)」『紀要』No. 25(1993) 立教女学院短期大学 1993年12月20日、名取多嘉雄「第三章 伝道活動時代 宣教師の都市と地方における伝道の展開―明治六年から同末年まで―」日本聖公会横浜教区歴史編纂委員編『み名によりて 横浜教区一二五年の歩み』聖公会出版 1998
註81 大江真道「みずのいさお 水野功」日本キリスト教歴史大事典編集委員会編『日本キリスト教歴史大事典』教文館 1988
註82 島田徐行(弟丸)「雜錄 三十年の囘顧 古い事とも」『基督教週報』1917年9月7日12‐13面
註83 牛山雪鞋著 大江真道解説「上田町の伝道」『キリスト教信越伝道史―ウォーラー長老、伝道の軌跡―』研究・資料シリーズ 4 銀河書房 1980(原資料は「回顧25年―ウォーラー長老信越伝道歴史」『信越新聞』1916年5月15日-8月25日77回連載)
註84 「Latest Accounts from Japan; Letters from the Rev. W. B. Wright, the Rev. A, C. Shaw, James Midzuno, and Matthew Kimmura. Tôkyô, Japan, March 25, 1876.」『The Mission field』1876年6月1日
註85 吉田寅「『天主実義』と『天道溯原』―中国キリスト教の代表的伝道文書について―」『駒沢史学』第45号(橡川一朗先生退職記念号) 駒沢史学会 1993年9月30日
註86 二上英朗「日露戦争と活動写真 吉田佐次郎詳伝」『ふくしまの映画百年』おはようドミンゴサイトによる
註87 通常「島貫」と記されるが戸籍上は嶋貫という、相沢源七「凡例」『日本力行会の創立者 島貫兵太夫伝』教文館 1986による
註88 永田稠編纂「第六章 日本力行會年表」『日本力行會創立五十年史』日本力行會 1946、相沢源七『日本力行会の創立者 島貫兵太夫伝』教文館 1986、藍原寛子「南カリフォルニア移民の軌跡 波涛の向こうに 14 第2部 初期渡米の人々 日本力行会伊達支部(上)キリスト教支援 芳賀家5代目甚七、立役者」『福島民友』2007年3月7日19面、藍原寛子「南カリフォルニア移民の軌跡 波涛の向こうに 14 第2部 初期渡米の人々 日本力行会伊達支部(下)「海外出稼ぎ」推進 農村問題着目し地方組織」『福島民友』2007年3月8日19面、相澤一「島貫兵太夫と日本力行会―明治期日本キリスト教史の一側面としての「立身出世」試論―」『フェリス女学院大学キリスト教研究所紀要』第1巻 フェリス女学院大学 2016年3月20日
註89 梅宮茂「新しい教育・文化と社会の動き 第四節 学問のすすめ 一 英学校「共立学舎」」『福島市史 第四巻 通史編 4 近代1』、原資料は『諸願伺届綴』1874 福島県庁文書という
註90 福島伊達教会百年史編集委員会編「福島伊達教会百年史年表」『福島伊達教会百年史年表』日本基督教団福島伊達教会 1991、原出典は県庁文書F937とあり、福島県歴史資料館目録によれば庶務課作成の『諸願伺届』である
註91 「Notices Nécrologiques; Etienne ALBRAND (1805-1853)」ARCHIVES des Missions Étrangères de Paris
註92 山辺美津香「日本カトリック布教史と出版活動 ―幕末から昭和まで―」『南山大学図書館カトリック文庫通信 カトリコス』第12号 南山大学図書館「カトリック文庫」委員会 1999年10月1日
註93 鐸木彥象編纂「馬巖鈴木三郎兵衞年譜」『馬巖句鈔』鐸木彥象(私家版) 1941
註94 鐸木彥象編纂「明治十六年獄中元旦」、「おなじくつれ〲」『馬巖句鈔』鐸木彥象(私家版) 1941
註95 『飯坂教会雑書類綴』、小林喜成「第二編 宗教 第五章 キリスト教 第一節 プロテスタント 一 明治期の各教派教会の発生と経過」福島県編『福島県史 第21巻 各論編7 文化2』福島県発行 巌南堂書店発売 1967による
註96 藍原寛子「南カリフォルニア移民の軌跡~波濤の向こうに 14 第2部 初期渡米の人々 日本力行会伊達支部(上)キリスト教支援/芳賀家5代目甚七、立役者」『福島民友』2007年3月7日19面
註97 城生安治編輯「三、福島講義所の開設」『福島日本基督教會五十年史』財團法人福島日本基督教會 1936
註98 小林喜成「第二編 宗教 第五章 キリスト教 第一節 プロテスタント 一 明治期の各教派教会の発生と経過」福島県編『福島県史 第21巻 各論編7 文化2』福島県発行 巌南堂書店発売 1967
註99 「○稟告」『官許福島新聞』1874年2月16日1面、井筒平「第五編 新聞・電波報道 第一章 新聞 第一節 福島県の新聞のはじまり―明治元年(一八六八)から明治七年まで― 四 民営『福島新聞』の創刊」福島県編『福島県史 第20巻 各論編6 文化1』福島県発行 福島県図書教材株式会社 巌南堂書店発売 1965所収写真図版より読みおこし
註100 諸根樟一「第五章 本縣政黨及言論の胚胎 第三編 第二期の政治(縣會創設時代) 第三節 上期の言論機關 一 本縣の新聞一【衍字カ】史考 一 明治三十年迄の過程」『福島縣政治史 上卷』 福島縣政治史刊行會 1929
註101 井筒平「第五編 新聞・電波報道 第一章 新聞 第一節 福島県の新聞のはじまり―明治元年(一八六八)から明治七年まで― 四 民営『福島新聞』の創刊」福島県編福島県編『福島県史 第20巻 各論編6 文化1』福島県発行 福島県図書教材株式会社 巌南堂書店発売 1965
註102 諸根樟一「第五章 本縣政黨及言論の胚胎 第三編 第二期の政治(縣會創設時代) 第三節 上期の言論機關 一 本縣の新聞一【衍字カ】史考 一 明治三十年迄の過程」『福島縣政治史 上卷』 福島縣政治史刊行會 1929
註103 手塚豊「明治十年・福島県警部平田保直兇徒聚衆事件小考」手塚豊編『近代日本史の新研究III』北樹出版発行 学文社発売 1984
註104 福井淳「第三章 福島県令時代 1872-1875」安場保吉編『安場保和伝』藤原書店 2006、原資料は『諸願伺届』明治7年分 福島県歴史資料館蔵「福島県庁文書」F937である
註105 福島活版所広告『福嶋新聞』1878年5月10日4面
註106 福島活版所広告『福島新聞』1878年11月13日4面
註107 福島活版所広告『福島新聞』1878年3月1日4面
註108 福島事件平島松尾尋問書、高橋哲夫「無名館と尾上座」『福島民権家列伝』福島民報社 1967による
註109 佐藤庄太郎監修 半谷眞雄編纂「第三章 自由黨福島部」『立憲政友會福嶋縣史』立憲政友會福嶋縣史編纂會 1929
註110 福島活版所広告『福島毎日新聞』1879年4月24日4面
註111 岩谷巌『明治十二年 己卯日記』1879年1月17日条、石陽史学会岩谷巌日記出版委員会編『岩谷巌日記』石陽史学会岩谷巌日記出版委員会 2018による
註112 『花香恭次郎履歴書』1885年11月、『花香恭次郎履歴書』1890年2月 河野広中文書、福島県編『福島県史 第11巻 資料編6 近代資料1』福島県発行 巌南堂書店発売 1964、資料番号1027(2)、(3)
註113 鎹八咫烏「忍術は紀元前4000年頃発祥 日本で山岳的な兵法へと発展 今、世界が注目する日本遺産(壱の巻)」ZIPANG TOKIO 2020サイト 2017年10月6日
註114 蟹江幸博「人名索引」かにえマスラボサイトによる
註115 島野達雄 湯谷博「『彗星真言』注解」『大阪府立工業高等専門学校研究紀要』第33巻 大阪府立工業高等専門学校 1999年6月30日
註116 川尻信夫「幕末における「数学」意識の形成過程―内田五観の場合―」『思想』No. 643 岩波書店 1978年1月5日
註117 「社告」『廣益問答新聞』第壹號 四通社 1876年6月15日
註118 東京深川寄留三原孫七「○借地約條ノ規則ヲ設ケハ其利害如何〔此問寄書ニ係ル〕」『廣益問答新聞』第廾一號 四通社 1876年7月25日
註119 「○隣國開戰ノ時人民ノ思想如何〔此問寄書ニ係ル〕」『廣益問答新聞』第廾二號 四通社 1876年7月27日
註120 「○海關ニ保護稅則ヲ置キ國內ニ專賣免許ヲ與ヘ以テ工業ヲ振起スルノ制約ヲ立テハ如何〔此問寄書ニ係ル〕」『廣益問答新聞』第廾三號 四通社 1876年7月29日
註121 「○利足ノ分朱割合ヒノ疑問〔此問寄書〕」『廣益問答新聞』第卅六號 四通社 1876年8月24日
註122 「○旱天ニ雨ヲ祈レハ必ス雨ヲ得ルノ理由アルカ如何」『廣益問答新聞』第卅八號 四通社 1876年8月28日
註123 「○木綿ト砂糖ノ製造ヲ盛大ニセハ貿易上ノ得失如何」『廣益問答新聞』第四十四號 四通社 1876年9月10日
註124 「○朝野新聞雜錄記者ハ同業記者ヲ惡口誹謗スルヲ以テ本分トスルカノ疑問」『廣益問答新聞』第五十一號 四通社 1876年9月24日
註125 「○耶蘇宗は公許スヘキカ禁制スヘキカ將タ黙許ニ存スヘキ歟」『廣益問答新聞』第六十五號 四通社 1876年10月22日
註126 「○禾花媒助法ハ果シテ實益アルヤノ疑問」『廣益問答新聞』第七十一號 四通社 1876年11月4日
註127 「○田畑抵當借借證券ヲ確實ナラシムルノ法」『廣益問答新聞』第七十九號 四通社 1876年11月23日
註128 無署名「○禾花媒助法ノ要旨」『廣益問答新聞』第廾一號 四通社 1876年12月23日
註129 愛媛県史編さん委員会編「1 愛媛の農業 第二章 明治時代 第四節 明治前期の稲作 二 稲作の耕種概要 9 禾花媒助法」『愛媛県史 社会経済 11 農林水産』愛媛県 1986、データベース「えひめの記憶」による
註130 並松信久「明治期における津田仙の啓蒙活動─欧米農業の普及とキリスト教の役割─」『京都産業大学論集 社会科学系列』第30号 京都産業大学 2013年3月
註131 生井兵治「「育種」という用語の由来に関する歴史的考察(1)「育種(そだてぐさ)」から「育種(いくしゅ)」までの変遷」『育種学研究』5巻4号 日本育種学会 2003
註132 並松信久「明治期における津田仙の啓蒙活動─欧米農業の普及とキリスト教の役割─」『京都産業大学論集 社会科学系列』第30号 京都産業大学 2013年3月
註133 田﨑【崎、U+FA11】公司「旧幕臣子弟の自由民権―若き知識人民権家・花香恭次郎―」『歴史科学と教育』第14号 「歴史科学と教育」研究会(千葉大学教育学部歴史学研究室内) 1995年7
註134 『花香恭次郎履歴書 附録』1890年2月 河野広中文書、福島県編『福島県史 第11巻 資料編6 近代資料1』福島県発行 巌南堂書店発売 1964、資料番号1027(3)、地名について、福島県史では「鹿島郡鳥栖村」、田﨑【崎】公司氏は『帝國議會議員候補者列傳』によったらしく「鹿児郡息栖村」としているが、いずれも正しくないようだ
註135 『廣益問答新聞』第六十六號 四通社 1876年10月24日、第六十八號 1876年10月28日、第七十七號 1876年11月17日の各号に掲載
註136 山崎謙編輯「佐藤清君」『衆議院議員列傳』衆議院議員列傳發行所 1901
註137 鈴木嘉平 鈴木荘右エ門 吉田正雄 吉田光一 酒井成師 河野広中『新聞紙発行ノ事ニ付商議書』1878年10月22日 河野文書、「史料(一) 結社合併意見・県下有志同盟並に新聞発行関係文書(一) (自明治十一年 至明治十二年)」庄司吉之助『日本政社政党発達史―福島県自由民権運動史料を中心として―』お茶の水書房 1959による
註138 河野広中『明治十二年 南遊日記 第八月日』1879年9月10日条
註139 井筒平「第五編 新聞・電波報道 第一章 新聞」福島県編『福島県史 第20巻 各論編6 文化1』福島県発行 福島県図書教材株式会社 巌南堂書店発売 1965
註140 『福嶋縣達全報』第壹號 1880年6月21日奥付
註141 『福嶋縣達全報』第五號 1880年8月5日奥付
註142 『福嶋縣達全報』第六號 1880年8月15日奥付
註143 『花香恭次郎履歴書』河野広中文書、福島県編『福島県史 第11巻 資料編6 近代資料1』福島県発行 巌南堂書店発売 1964、資料番号1027(3)
註144 井筒平「第五編 新聞・電波報道 第一章 新聞」福島県編『福島県史 第20巻 各論編6 文化1』福島県発行 福島県図書教材株式会社 巌南堂書店発売 1965
註145 警醒社編纂「杉山重義」『信仰三十年 基督者列傳』警醒社書店 1921
註146 杉井六郎「すぎやましげよし 杉山重義」キリスト教歴史大事典編集委員会編『キリスト教歴史大事典』教文館 1988

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