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魯迅と日暮里(61)南波登発の「亞細亞」への視線(36)栗村寛亮の脱管まで KURIMURA Kwansuke, another asylum seeker and the exiles raft for freedom

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栗村寛亮から花香恭次郎への編輯長の交替は、筆禍事件によるものであった。栗村寛亮は、現存最古の『福嶋新聞』第21号(1878年3月1日、推定)から第67号(6月17日)まで編輯長代理。第68号(6月19日)は安藤房太郎がワンポイントリリーフ、6月21日の第69号からは前述の通り、佐藤清が編輯長となっている。再刊後の第144号(1879年3月1日)には「○本日より勝手に付栗村寛亮を以て本務代理爲致候」「附て白す恭次郎儀も急用にて一昨日宮城地方へ罷越候に就不在中ハ姑く該務をも栗村に攝理致させ升」とのことで、栗村寛亮が編輯長代理及印刷人となった。(註1)

社告『福嶋新聞』1879年3月1日

社告『福嶋新聞』1879年3月1日

実は、創刊当初の第22号(1878年3月6日)の紙面に「○敞【弊】社の【栗村】寛亮【花香】恭次郎の兩人は明七日午前第九時福島裁判所刑事課より御【草字】呼出を蒙りました定めて先日中屢々本縣第四課を煩はしたる云云の事で五座ひましや宇【御座居ましょう】」と、筆禍の記事が載り(註2)、「昨日福島裁判所刑事課の御呼出ハ矢張彼の編集署名の事で一應の御【草字】調へのみにて引取ました」と報告されている。(註3)こうしたこともあり、1878年5月1日の第47号で「本社新聞紙自今一層の注意を加へ記事は專ら着實を旨とし取消ハ出さぬやふ」注意していたのだが(註4)、54号(5月17日)には検閲の結果と見られる削字(ゲタ字による置換)があり(註5)、第116号(11月15日)では社説内に伏字が見られる。(註6)
また、月水金の隔日刊となっていた新聞の発行遅延や休刊は何度か経験しており、「縣會開塲以來印務頗る繁多を極めしより」(7月12日)(註7)、「故三品敬仁親王の御葬式に付」(8月5日)(註8)、「この頃社中に思ハざる事故出來」(12月15日)(註9)等の理由を示していた。126号(12月24日)の社告は原紙が破損しており、全体を読むことはできないが、破片中に「讒」の文字、「五圓申付られ」の文字が見え(註10)、讒謗律に抵触したことに関連しての休刊であったことは疑いない。
そして、159号(1879年3月19日)の記事が筆禍事件の決定的な契機となった。執筆者は不明だが、7・5調ベースの戯文の体裁である。調子が分かるよう、切れ目にスペースを挿入する。

「○善惡邪正を裁判する 役所に勤むる身ながらも 戀にハ心くら暗(やみ)の 夜半の契のわすられず 忍び逢ふ瀬の重りて 今ハ世間の口の葉に 懸る浮名を立田川 流すもさら〱厭ハねど 職務に係る不体裁 遂にハ役を免ぜられ 口糊【糊口】にさへ迷わんかと 思ひ【へ】ど凡夫のかなしさハ 忘れがたなき煩惱の 戀の奴(やつこ)となりし身ハ しだへ【い】に深瀬に沈むのみ 浮ぶ瀬もなきこのありさま コリヤどう志たら宜(よか)ろうと 思案投首しほ〻〻と 俯向く顏をヂツと見る 目もとに疊む愛敬ハ 風に惱める糸柳が 雨を帶たる海棠も うら愧(はづ)かしき風情にて 男にひしと寄添て サアその深瀬に沈ましたも みんな私か淫奔(いたつら)から 可受(かあい)【可愛】との古゛【殿御】に數〻の 難儀を懸るが悲しいとも 恨めしいとも云よふなき 私か胷(むね)を汲わけて これも宿世の惡緣と 遂ひ呆らめて一所に連れて逃けてたべ 假令ひ虎伏す山奧でも との古゛と一所に暮すなら 私しやうれし宇古゛ざんすと 云れて忽ち魂ハ 有頂天外に飛び去りて 去らバと云さま手に手を取り ドロ〱とやらかしたが 早くも追手に捕まりし 女ハ通り八丁目の 酒屋半澤の娘おしん(十七年) 男ハ同丁須田屋に 止宿の何某と云ふ 等外出仕の色男 イヨー色男とハ專ら世間の評判〱 アヽ 色男にハ誰がなる 金と力のな以奴(やつこ)なら 矢張(やつはり)記者だが記者などハハヤ」(註11)

福島地方裁判所『ふくしまの歴史』より

福島地方裁判所『ふくしまの歴史』より

筆禍記事でターゲットになったのは福島裁判所の属官。名を深瀬義致という福島裁判所等外出仕の小物なのだが、その恋愛スキャンダルをキャッチ、明治期の文春砲が炸裂するも裁判所の返り討ちにあう。下記記事の通り、翌日には深瀬義致の実兄から記事取消を請求され、160号(3月20日または21日、原紙未発見)で取消している。163号(3月25日)では「○福島裁判所詰の等外出仕にさるものありと聞へたる深瀬義致の告訴する所ろと罷成福島警察署より昨日【3月24日】御呼出を蒙りまして栗村寛亮が罷出でそれ〱手續を書てさし上ましたがその手續書の如きハ次号にて御披露可致候」と報告する。(註12)この官吏は栗村寛亮の感情をいかにして爆発させたのだろうか。岡義弘によって紹介された『府縣珍報』の社説「各郡區役所ノ受付諸君に白ス」では、郡区役所の少年書記までもが市民に傲慢な態度で臨むことが糾弾されている。

「夫レ一ト引力ヲ求メテ郡區廳ノ受付掛ヲ拜命スルヤ宛モ政府ノ官吏ニデモ登用セラレタルガ如キニ思ヒ忽チ意氣揚々トシテ【合字】官員然タル風ヲナシ彼ノ郡區役所ノ受付所ニ扣ヘタル容體ハ殆ント冥府ノ焰【閻】魔ノ廳ニ至ルガ如ク)【(ノ誤】見タ事ハナイガ)赫々タル威權ハ假令識者ノ笑抦トナルモ一時無智ノ小民ヲシテ恐怖セシムルニ足ル是等ノ人物ハ素ヨリ無識ノ徒ニシテ敢テ咎ムルニ足ラズト雖モ中等以下ノ人民ニ至テハ偶マ昇聽セザル可カラザル事故アル時ハ實ニ業ヲ休ミ心ヲ焦シ東奔西走他人ニ依頼シ漸ク書面ヲ制シ恟々トシテ【合字】昇聽スルモノ滔々皆是也如斯輩ニハ受付掛ニ於テハ尤モ懇切ニ接スベキ本意ナルモ却テ一層ノ威權ヲ増シ自カラ尊大ニ搆ヘ則チ焰【閻】魔ノ如キ顏色ヲシテ大喝一聲曰ク書式ニ違フゾ再ビ書キ直シテ持參ス可シ抔言ハルヽトキ【合字】ハ元來無智ノ小民恐々縮々言ハントスルモ言フ能ハズ憂慮焦心些々タル事件ニ貴重ノ光陰ヲ消費スルヿ之レナシトセン豈ニ不都合且愍然ノ至リニアラズヤ」(註13)

あるいは、福島裁判所でもこれと同様なことがあったのだろう。翌日の164号(3月26日)では予告通り警察署への弁明書を公開する。

「○約の如く一昨二十四日福島警察署へ御【草字】呼出にあいなり栗村より差出たる答辨書の全文を少し减して記バ
福島新聞第百五十九号雜報欄內に掲載せるその第十二項中深瀬なる二字に於て不揃の活字相用候趣意御【草字】尋問に付その答辨左に奉申上候

此段該雜報ハ在福島戀者曲者(こひはくせもの)の投寄(なげぶみ)に係るを以て真僞ハ得て必期し難しと雖とも之を一讀了するにその句の變妙その語の流灑(りうれい)【流麗】稱々(やヽ)【稍々】見るに足るのみならす先つハ野暮ならぬ珍聞と視認(みと)むるを以て之を掲載するに於てハ看者の喝采を博するのみならずその人に在てもさぞ本望のことなるべしと推測し不取敢登錄せしまで耳(のみ)こハ御尋問の要點に關係せざるものゝ如しと雖とも記者が不文なる預め之を採錄するの趣意をも略陳せざれバ或ハその答辨に盡さヾるものあつて彼の深瀬なる二字ハその故意に出るかの嫌疑を起來せんことを恐るヽを以てなり然り而してその不揃の活字を用ひたると前後その用を異にしたるとの原因ハ之を要するに活字の足らざると職工の手不足なるとの二點に歸す何となれバ則活字の足らさる或ハ大活字を用ひてその不足を補ハざるを得ざれバなり職工の手不足なる分陰を爭ひ汲〻乎之れに事に從ふもその紙面を植充するに容易ならすして或ハ發兌の期に後れんを是れ恐るヽが故に体面の完美を願ハざるにハあらずと雖とも力の及バざる所謂手當り放題に摘し旦【且】つ植へざるを得ざれバその用を前後にするが如きハ勢ひ之を顧みるに遑まあらざるを以てすれバなり之に加ふるに職工なる者ハ博學多識の者にあらずして多くハ青盲を以てせざるなし是を以て誤字顚倒の如きハ各社新紙に比々散見する所にして敢て珍しとするに足らざるのみ且つ亦た該雜報ハ事實相違の由を以て○○が實兄○○○○なる者より之が取消しを請求せられたるに由り直にその次号に於て之を取消し了ぬ以上【草字】尋問の答辨此(かく)の如し

右之通相違無之候以上       栗 村 寛 亮と」(註14)

福島市街之圖『福島縣小地理書』1890年-国会図書館蔵より-県庁前に新聞社とある

福島市街之圖『福島縣小地理書』1890年 国会図書館蔵より 県庁前に新聞社とある

さらに本記事の直後にすかさず追い打ちをかける。

「○サテこの所に「戀の深瀬に沈む處女(おとめご)」と題した珍しき新話を月雲花風樓主人より寄與せられました由ゑいづれ次の餘白に御【草字】目にかけましやうと一寸御【草字】披露」(註15)

よほど腹に据えかねたのであろう。栗村寛亮は翌々日の社説では「誣告律ヲ犯シテ人ヲ罪ナキニ誣罔ス予輩ノ固ヨリ欲セザル所ナリ讒謗律ニ觸レテ人ヲ罪ナキニ誹謗ス亦予輩ノ決シテ爲サヾル所ナリ」と宣言、「聞説ラク予輩カ日間ノ筆記ヲ以テ誹謗誣罔ノ集點トシ或ハ面目ヲ害サレタリ或ハ榮譽ヲ毀タレタリト將ニ之ヲ法庭ニ問ハントスルアリ又タ甚タシキハ之ヲ腕力ニ訴ヘントスルアリ」と糾弾する。(註16)これが社内で問題になったのか、または承知の上でのことだったのか、翌日の社説には「寛亮云昨廿七日ノ新聞社説欄內ニ登錄セシ一文ハ頗ル社中ノ意見ニ反對スルモノアルヲ以テ論説ノ別欄ヲ設テ掲出シ即チ本日所載ノモノヲ以テ昨日ノ社説トナスベカリシヲ植字方誤テ該稿ヲ社説欄內ニ塡充セン【シ】モノナリシガ之ヲ取替ヘルノ餘間ナカリシガ故ニ止ヲ得ス印刷ニ付セシナリ看官諸君ソレ之ヲ諒セラレテ該稿ヲ以テ社説視スル勿ランヿヲ請フ」との付言を加えている。(註17)しかし、さすがにすべてを「職工なる者」、「植字方」のせいにすることには無理があろう。翌号で、「○正誤 前号社説末端の附言にて昨二十七【白丸圏点】日ハ二十八【白丸圏点】日の誤塡に屬すその他雜報傍訓(ふり可゛奈)に至つて誤謬(あやまり)も多しと雖も現今社員の足ざるより何分行届兼る塲合もあれバ看官請ふ暫く恕せられよ頓て完全なるものをお目に懸んのみ」と述べるのだが(註18)、栗村寛亮の怒りの炎はおさまらず、翌日には再び警察署への提出書類を発表する。

「○彼の深瀬義致(よしむね)の一落に就き又候御【草字】を蒙り左の書面を差出ましたから例に依り一寸御【草字】被【披】露
自分儀福島新聞第百五十九号雜報欄內第十二項に掲載せし一件に付今般福島裁判所詰司法省等外二等出仕深瀬義致より告訴相成たる由を以てその事柄御尋問に付左に奉申上候

此段雜報を採錄せし趣意に於てハ旣に本月二十四日を以て彼の深瀬なる二字に不揃の活字相用候趣旨御尋問の時に際し明かに之を陳述したるが如く然れバ該報を指的して深瀬義致が身上(みじやう)に關涉するものとなすハ抑も那點に之ある乎自分に於てハ則該報の要領を摘み出して之れが辨解をなさすんバあらす
若し夫れ善惡邪正を裁判する役所に勤むる身ながらもと云ふを以て同人の事と思推(しい)【思惟】する乎飛んだ妄想のみ善惡邪正を裁判するもの豈に裁判所のみに限らんや警察署なり縣廳なり斯の民を支配するの役所にあつてハ善を勤(寿ヽ)【勸】め惡を懲らすの措置なくんバあらずその之を勸めその之を懲らすハその善惡を裁判せずして能くせん哉是の故に裁判と云ひ役所と云ふも决して裁判所と視認(み奈)すべからさるや固(まこ)とに云を待ず亦た况んや福島裁判所なる明文なきに於てをや夫れ然らバ第一領に於て己【已】に深瀬義致の事に關せざるや炳焉火を覩るか如し若し夫れ男ハ同丁須田屋に止宿の何某と云ふ等外出仕の色男イヨー色男とハ專ら世間の評判々々と云ふを以て同人の事に關するものと思惟する乎等外出仕天下に多し色男亦た世間に鮮なからず縱令(たとへ)同人ハ須田屋に止宿するにもせよ等外出仕にもせよ色男にもせよその性【姓】名を指的せざるに於てハ决して同人と云ふを得べからざるなり譬へバ爰に人あり大藏省の判任官何某ハ狹斜に敖遊して折盡せりと云ハヾ我が事なりと云つて省中の判任官が告訴するものあるか亦た一新紙を展べて前後左右の字を合せ此に深の字あり彼に瀬の字あり之れ我が事に關すると云はヾ日にその告訴すべきものある幾百なるを知るべからず天下豈に斯の如き理由あらんや須田屋と云ひ大藏省と云ふその所を異にするもその揆たるや一なり亦た果して等外出仕の該家に止宿するものハ今日同人の外に之れあらざるものにもせよ徃日その人のあるあつて之を今日に報道せしも亦た未だ知べからず况んや該報ハその事實相違の由を以て取消の請求を要せられたるものあるを以て見れバ事今日に涉るものにあらざるを證するに足るものに於てをや夫れ斯の如くなれバ第二領に於ても深瀬義致の事に關せざるや明々白々たり故を以て該雜報の一件に付同人より告訴さるべきの理由ハ毫も之れ無きものと確信す

右之通相違無之候以上    右
                栗 村 寛 亮」(註19)

信夫警察署-1897年頃『図説福島市史』より

信夫警察署 1897年頃『図説福島市史』より

なお、この時「○敝局にて雇置候職人渡邊音五郎堀田榮助儀事故有之先き頃放逐致候に付自今敝局にハ關係無之者なるを以て此段廣告す     福 島 活 版 所」との広告が載る。(註20)印刷方も含め、何やら『福島新聞』の周囲に大きな問題が生じている模様である。栗村寛亮の振り上げた拳は下げられることがなく、もはや戻れない場所にまで立ち入ってしまった感がある。そして、169号(5月5日)では「○敝社(てまい)の栗村寛亮は一昨二日例の深瀬一件に付本縣警保課より御【草字】呼出しの上社長保管(あづけ)を申付られました」と報告される。(註21)しかし、ここでまた挑発的な記事を挿入する。

「○戀の深瀬に沈む處女の新聞ハ都合ありて見合居りましたが明日より引續き記載いたしますれバ相變らす御【草字】愛覽を願ひます」(註22)

その「深瀬に沈む處女」の記事は、翌197号(5月6日)から連日にわたって掲載される。ここでもスペースを挿入するが、途中やや転調しており、語り物のスタイルとなる。講談の張扇があればいい調子になりそうだ。

「○(戀の深瀬に沈む處女)裙(くん)ハ施【拖】六幅湘潚【瀟湘】水 鬂掃【聳】巫山一【十】朶雲【くんはひく ろくふく しょうしょうのみず びんはそびゆ ふざん じゅうだのくも】(註23) こヽに散□【々カ】(さヾ)めく一派(ひとむれ)の 女流のうちにも一層と 目立一個(ひとり)の美少芥(たをやめ)ハ 當町通り八丁目 ○○家(や)何某の娘にて 名をおしんと呼ぶものなるが 今日しも螢狩んとて 近所の娘や侍女(こしもと)など 引き連れ凉みに出懸けし折 シャツポ眉深(まぶか)に戴きて 官棒小腋(こわき)にスタ〱と 遣て來(きた)のハその頃しも 三等巡査を勤めたる 深瀬義致と云ふ蕩放子(どらもの)なるが おしんが容貌(寿がた)を一とめ見るより 恍惚(うつとり)として現を拔し 暫し彳み睨目(奈が志め)に 見れバおしんも同じ思ひ 氣あり名古屋で目で知らせ 思を寄せしその後ハ 目先きにチラツク男の面(かほ) 寢ても起ても忘られず 晝ハ表の格子より 彼の義致が通るのを ポカンとして見て居るのハ この宇へもない樂みと 雨の降る日も雪ふる夕べも 障子押明け見て暮らせバ 義致も同じ思ひで いつかハ本望を遂げてやらん 是れが叶ハぬその時ハ 豆腐に頭(かうべ)を打附けるか 犢鼻褌(ふんど志)で首をも縊(くヽ)らんと 云ふべきほどに思ひ詰め 間がな透(すき)がな酒屋のあたりを ぶら〱然と徘徊したが 狐(こん)な手ぬるい事でハ なか〱せしめることの難(かた)いのみか 三尺俸【棒】に箇袍(かほつ)【筒袍(つつぽ)カ】でハ 何分人目に付(つく)ので 甘(うま)くいかぬと天晴にも 考え出し遂に裁判所出仕の 色男とハなりにける(巳【已】下ハ次号にてたつぷり)」(註24)

「○〔戀の深瀬に沈む處女」この古゛ろハ机に向ふ甲斐もなし あらぬ文(ふみ)のみ見まほしくて 叉手(さて)も深瀬義致ハ 一度(ひとたび)おしんを見染しより 煩惱の慾火(よくくわ)漸次(しだひ)に燃へ出し意馬心猿の繫繩(はづ奈)を燒盡せしかバ何事も手に附ず 彼の【斉】襄王にハあらねども 朝(あした)の雲に向ひても その姿(おもかげ)の心に懸り 夜半の月を詠めてもその顏(かんばせ)の胷に浮び 戀慕の情(じやう)やるせなけれバ 是非とも本懷を遂ずむば 睾丸(きんたま)さげて生れきた 甲斐なしとまで思ひ詰め 只管(ひたすら)云ひ寄る便宜をぞ 求めける落花意(こヽろ)あり 流水何ぞ情(奈さけ)なからん おしんも同じ思に沈み 巡査さんとハ知らずに惚た 日向臭ひので露れたと 人ハ何とも云ハヾ 私(わ)たしやよ宇見てやう惚れた 男と云ふてハ君ひとり、アヽ、コラセ傘(からか)さの骨の數程男ハあれど 開(ひろ)げてさすのハぬしひとり 女子(あ奈ご【おなご】)と生れし甲斐ありて 如彼(あん奈)との古゛に添へ臥(ふし)も 夫よ婦(つま)と呼びなされ 八千代までも玉椿 色も香をさへかはりなく 暮らせるように八雲立 出雲の神ハ云ふもさら、あら由る神に祈誓を懸(かけ) 只一筋に思ひこみ 後の嘆きも白糸の 胷のもつれを解かねし 處女(おとめ)古゛ヽろぞ是非なけれ サテこの後ハ例の次号に」(註25)

「○戀の深瀬に沈むハなしハ餘白がないので明日へ廻しましたで明日ハ頗る長く頗る面白くあります」(註26)

「○(戀の深瀬に沈む處女)却説(さても)お志んハ思ひに堪へ兼ね 紅葉の錦踐(ふ)み分けて 夫(つま)乞ふ鹿の卷き筆を 取りて心ろのあり竹を ふし細々と書き立(たつ)る 硯の海ハ淺くとも 因緣(ゑに志)ハ深し逢隈(あぶくま)の 河ハものかハ蒼海(う奈ばら)の 千尋の底の末かけて 契らまほしと千万無量 痴情を籠(こめ)たる一通を 下婢(はした)に持せて送りしかバ 義致ハ飛び立つ思ひ 取る手遲しと開きみる 是れぞ浮木(うきヽ)の盲龜か 優曇華の花まち得たる 心地なる義致ハ恍惚(うつとり)と 醉へるが如く痴なるに似て 暫時(志ば志)ハものさへ云ハざりしが 稱(やヽ)【稍】あつて唾液(つばき)を呑み 動氣を靜めさら〱と 御受の旨を認(志たヽ)めて 彼の使者(つかひ)に渡せしかバ おしんもこよなく打悦こび その後も數々玉章(たまつさ)を 贈答(やりとり)して樂み居りしハ 牛に汗に棟の充(みつ)ると云ふにハあらねど 朝な夕なの差別なく 繁き便【使】者(つかひ)ハ頂(かう)【項】と肯(はい)【背】 相ひ望むとや云へべからん 贅話休題(あだしごとはさておき) 斯く思ひ思ハれしかど男ハ職務(つとめ)ある身なれバ 世の人口(くちのは)もうしろめたしと 未だ温柔の一卿(いつきやう)にハ 至らざりけるとなん然バあれど 飽までも惑溺したる二人にあつてハ 思ひ止まることハ偖置き 天にあらバ比翼と指し 地にあらバ連理と誓ひしほどなれバ 寧ろ職務を辭退して 青天白日(あからさま)に和奸(ちヽくる)の 心配なきに如ずと 覺悟しおしんにもその旨云ひ聞かせしかバ おしんの悦び云ふばかりなく その信實なる情(奈さけ)に羈(ほだ)され 尚ほ一層の思をぞ増しにける 斯くて幾日もなく義致ハ 職務を差免され閑に客(い)【容】れ 散に投ずるの身となりしかバ 互に逢ふて口から耳宇ち付(つけ)に 語(かたら)ふこと【2字合字】さへ自由になりぬ(巳下(あと)【已下】次号)」(註27)

福島新聞社-1908年『ふくしまの歴史』より

福島新聞社 1908年『ふくしまの歴史』より

しかし連載はここで終わり。言い方は悪いが巡査上がりで裁判所勤務の「木ッ端役人」に対して、栗村寛亮はどれだけの怒りを持ちえたのか。もはや愛情にも似た執着心をそこに認めることができる。202号(5月22日)からは編輯長が花香恭次郎に交替。211号(5月24日)には、「敝社(へいしや)の栗村寛亮ハ昨日【5月23日】福島裁判所刑事課へお呼出しになり例の深瀬一件でお調を受ました」とある。(註28)そして、5月28日には栗村寛亮の公判が開かれた。掲載する記事は翌日の社説。下線は原文傍点、二重下線は白丸圏点を示す。また「シテ」、「トモ」は注記したもの以外すべて原文では合字である。

「 ○前編集長ノ公判
明治十二年五月二十八日ヲ以テ吾社ノ前編集長代理栗村寛亮ハ賢明ナル福嶋裁判所ノ喚徵スル所ト爲リ福島新聞第百五十九號第百六十四號及第百六十九號雜報ノ件ニ付テ罰金十圓禁獄四十日ノ所刑ヲ甘受シ己【已】ニ囹圄ノ囚ト爲ル矣嗚呼言論ノ愼ムベキ筆記ノ戒ムベキ今更之ヲ陳述スル迄モナク我輩ガ日ニ三唱スル所ト雖トモ亦タ豈ニ深愼嚴戒セサルベケンヤ今其申渡書ヲ左ニ掲示スベシ

其方儀新聞第百五十九號及ビ第百六十四號及第百六十九號雜報欄內ニ人ノ榮譽ヲ害スベキ行事並ニ斷獄ノ下調ニ係ル始末書ヲ掲載セシ科讒謗律第五條及ヒ新聞條例第十五條ニ依リ罰金拾圓禁獄四十日申付ル

右ハ全ク吾社ノ書記ガ之□【ヲ】該裁判所ニ得タルモノニシテ其ノ果シテ寛亮ガ甘受セシ所ト毫モ差謬ナキカハ敢テ保證スル所ニ非ズ又タ謄寫ノ際筆記ノ誤寫ニ出デシモ亦タ未タ之ヲ斷言スルヿ能ハズト雖トモ書記ハ再三之ヲ傍人ニ乞ヒテ復讀シタルモノナリト云ヘバ先ヅ間違ナキモノト看做シシ熟ラ之ヲ究考スルニ公判中ノ榮譽ヲ害ス云々ソノトハ果シテ夫レ何等ノナルヤ若シ夫レ第百五十四【九】、第百六十四、第百六十九、ノ三号ニ載スル雜報ハ總計卅五件ニシテ族ニ問ヘバ華族ノヿアリ士族ノヿアリ平民ノヿアリ職ニ問ヘバ郡戶長府縣會議長議員郡書記等外出仕等ヨリ娼妓ノヿアリ而シテ又タ男アリ女アリ老幼アリテ種々雜多孰レモノヿニ係ラザルハナシ然ルニ今マ單一ニ雜報內ニトアルヲ以テ見レバ讀者或ハ之ヲ何タルカト異ムアラン然レトモ是レ異ムベキニアラザルナリ何トナレバ彼ノ三号ニ涉ル雜報ハ先キニ賢明ナル同裁判所ニ等外二等出仕ヲ辱フスル深瀬義致ナルガ自カラノヿナリトテ告訴セシ一事ニ外ナラザルベシト想斷スレバナリ讀者決シテ人字ニ就テ異ム勿レ然リト雖トモ世ノ新聞記者ノ罪ヲ犯シ刑ヲ受クルヤ必ラス其ノ何々ノ件ハ何々ノ人ノ榮譽ニ係ル云々何々申付ルト明白ニ其被害者ヲ指摘シ唯タト單稱シテ【非合字】毫モ其人ハ如何ナルナルカヲ明記セザルカ如キ未ダ曾テ我輩ノ拜見セザル所ノ申渡書ナルヲ以テ人或ハ爰ニ之ヲ明白サザルハ必【畢】竟同人ハ同裁判所ニ出仕スルガ故ヘニハアラザルカト異ムモノアランカ是レ亦タ異ムベキニ非ザルガ如シ何トナレバ公明正大ヲ以テ貴重ノ法律ヲ施行スル所ノ我賢明ナル裁判官ハ未タ曾テ愛憎偏頗ノ措置アリシヿナケレバナリ但シ之ヲ明記セザルハ唯タ裁判官ノ御都合ナル
將タ其ノ末文ニ於テ新聞條例トアツテ新聞條例トナキヲ以テ諸君ハ亦タ之ヲモ異ムアランカ我輩モ亦タ其ノ當初ニ於テハ容疑セザルニアラズ夫レ新聞條例トハ何年何月ノ制定ニシテ何年何月布告サレタ條例ナルカト己【已】ニシテ【非合字】再思シテ【非合字】覺ツテ曰ク這ハ吾社書記ノ誤寫ナラン試ニ想ヘ裁判官ニシテ若シ之ガ申渡書ニ紙字ヲ略書シタルアラバ寛亮ハ決シテ之ヲ甘受セザルベク寛亮ニシテ之ヲ甘受スルハ正シク吾社書記ノ誤寫ナルヲ知ルベシ然ラザレバ裁判官豈ニ無制ノ條例ニ比準スルアランヤト異者夫レ異ム勿レ嗚呼昨ハ一堂ニ肘ヲ執テ共ニ轟飲論心セシモ今ハ早ヤ空ク鐵窓孤吟ノ人ト爲ル言論ノ愼マザルベカラザルソレ此ノ如キ乎杜宇一聲春雨濛々我輩覺ヘズ案ヲ拍テ長息矣」(註29)

そして、いやみに記事を添える。

「○色男の深瀬義致さんハ福島裁判所平支廳在勤を申付られ一二日中に彼地へ趣かる〻に付き私(わ)しやしんきジヤと苦勞する人ハ誰れだろ宇皆さん當て〻五覽」(註30)

福島県裁判所平支庁『いわき商業風土記』より-同書著作権継承者を探しています

福島県裁判所平支庁『いわき商業風土記』より 同書著作権継承者を探しています

筆禍事件はなおも続いたらしく、花香恭次郎の『履歴書』によれば、「十二年己卯九月該新聞編集上讒謗律第四条官吏ノ職務ニ付讒毀シタル科ニヨリ禁獄五十日ノ刑ヲ受ク是際讒謗律ニ触レ罰金ヲ科セラルヽ事前後六回」(註31)、別の『履歴書』に付された注によれば「十二年九月三日福島裁判所ニテ」とある。(註32)当時の『福島毎日新聞』原紙は未発見のため、これ以上具体的な情報は分からない。いずれにせよ新聞社が満身創痍の状況となったことは間違いない。1879年12月2日の『福島毎日新聞』第329号では主幹佐藤清、編輯長松本義一、印刷人松浦貫三の体制に移行(註33)、1880年4月13日、14日の両日の紙面に掲載された「青森縣下有志國會開設願望書」が元老院において登録されたとの記事に対し、調査の結果、元老院宛に呈出されたものの登録の事実がない旨、内務省書記官宛に回答している。(註34)その後、6月10日から主幹佐藤清、假編輯長成田健治、印刷人勢田金三郎のトリオにかわったことが告示される。(註35)また、4月23日には「仙臺活版舍」に支局が置かれている。(註36)「仙臺活版舍」は7月21日の『福島毎日新聞』の広告に「本社 福島活版社/分社 仙台活版社」とある(註37)通り、「舍」と「社」は通字である。同分社に関して『山形新聞』は、「些(ち)と不都合に奈川た(なつた)咄は此度設立志多(した)福島活版分舎は宮城縣廳の布告類を相愛社尓て引請多る半價にて摺立てる積りの所可゛相愛社尓ても斯まて社業の盛火(さかん)に奈つたも皆な縣廳のお蔭多可ら其御禮に分社より申入連た通りの代價(ねだん)で納めると云多のて縣廳では何方(どちら)も同價なれ者゛之まで摺來つ多相愛社を止(やめ)る譯で者奈いのと云ので該分社にて者大當(あて)可゛外連多(はづれた)とのこと【合字】」との記事を載せるが(註38)、「福嶋活版舍即はち福島新聞社よ里仙台分社の營業上の面目尓係る誹謗の妄説を故造【2字白丸圏点】せ志云々分社設立の主意は固と相當の手數料を以て一般の印刷を營業するの公益を謀る尓在里敢邊て他社の營業を妨害し官府の布達類印刷を横取りせんと寿るの私心尓非ず」とする反論が行われ、「事實相違に付き正誤する」ことをしぶしぶ認めている。(註39)『福島毎日新聞』が1880年8月31日に終刊したあと、11月27日から支局を「仙臺本局」に格上げし、福島を「福島本局」に『僊臺福島毎日新聞』として刊行されることになる。(註40)

內池三十郞『第百七銀行史』国会図書館蔵より

內池三十郞『第百七銀行史』国会図書館蔵より

さらに同紙が廃刊し、『仙臺繪入新聞』に移行するのと同時期の1881年2月20日、『福島日日新聞』が創刊されている。(註41)新聞報道では、発刊を前に「○今度福島縣下福島町の豪商櫻井忠助佐藤文之助等の諸氏が發起にて福島毎日【日日】新聞と云を發行せんとて盡力され旣に株金も三千四五百圓集り其筋の許可も得たれバ元福島日々【毎日】新聞の主幹奈りし佐藤清氏を主幹として近々に一號を出版寿るよし」と報じられていた。(註42)同紙に関し、『安達憲政史』には、平島松尾が「同【明治】十四【1881】年二月福島日報社に入り、專ら經營の任に當ると同時に、【中略】當時、福島日報社の記者は佐藤清、花香恭次郎、杉山重義氏等であつて、純然たる自由主義の機關新聞として覇をなし、金主としては福島の內池三十郞【9代、淡湖】、信夫郡野田村の渡邊儀助二氏の如き、其の主なるものであつた。然るに、同年四月福島市街に大火ありて、經營上の影響を被り、加ふるに其筋の干涉壓迫甚だしく、遂に其年の七月、百三十七號を以て廢刊の止むなきに立至つた」とある。(註43)出版社名が福島日報社であることは、当時の報道から間違いない。(註44)現在、『福島日日新聞』の原紙を見ることはできないが、1881年4月、内務省から福島県庁に通達された同紙に関する通牒の写しが残存する。

「乾警㐧三百廾六号
貴縣下発行福島日々新聞第五十号雑報欄内ニ大隈伊藤両参議農商務省設置ノ奏議掲載有之右ハ太政官ノ許可ヲ得ズ登録セルモノニシテ即チ新聞紙條例苐十六条ニ抵触ノモノニ候条至急其筋ヘ御求刑相成度此段及御照會候也
明治十四年四月廾八日 内務書記官
 福島県令山吉盛典殿
追テ貴県地検事ノ有無難相分ニ付貴縣及御照會候次㐧ニ付為念申添候事」(註45)

これにより「○福島日々新聞の假編輯長松本時敏氏ハ同新聞へ例の大隈伊藤両參議よりの奏議を載られ多科(とが)に依り去る【5月】二日に罰金百圓」と報じられている。(註46)さらに「○福島日々新聞の編輯長平島松尾氏ハ讒謗律に觸れて去る【7月】十六日に罰金十圓」を申し付けられている。(註47)

一方、1881年6月7日に福島日報社内本局「觀風社」から出版された『觀風雜報』が現存する。ただし出版所については「錦銹社發兌」とも記され、柱に『詞藻襍輯』のタイトルが記載されている。合綴本のため奥付を欠くものの、2号以降は同社名、同誌名を踏襲している。(註48)ただし、諸根樟一によれば2誌は別雑誌であり「詞藻雜輯(毎月一回、發行者杉內省三郎、記者同人)」、「觀風雜報(毎月四回、新聞に類するもの、發行者佐藤清、記者同人)」というのだが(註49)、詳細は完本の出現を俟つほかない。
また、日付は『福島日日新聞』廃刊後のこととなるが、1882年「五月五日、本縣會へ、福島町在住「福島日々新聞」記者佐藤清より、該年度の「本縣會議事筆記」を縣下民衆に販賣を請願する建議を提出した。其時の議事筆記中に、/二十二番(吉田光一)、今管下ニ一ノ新聞モナキコトナレバ、人皆議事ノ如何ヲ知ルニ由ナク、甚ダ遺憾ヲ覺ユル所、幸ニ此請求アリテ知ルベシ。/とて、一般に其の公賣を認め、初めて之を認可した事實がある。」という。(註50)新聞廃刊後約1年経過してなお、佐藤清が同紙記者を名乗っていたことがわかる。また、1882年度の同名書は河野広中旧蔵本が国文学研究資料館に収蔵されているが、その出版所は明らかではない。(註51)もしかすると、植木枝盛が自伝に「同【1882】年七月より暫時の間は福島県福島なる無名館の為めに聘せられて之に赴き、同地自由党員諸氏此際より始めて刊行する福島日々新聞の編輯を擔任することとなれり。」と記載するとおり(註52)、河野広中派の間では、新発行の新聞を『福島日々新聞』と呼んでいた可能性もある。ただし、上記記事の『土陽新聞』への初出時には「同年七月より暫時の間は福島縣福島なる無名館の為め尓聘せられて之尓赴き福島自由新聞の編輯を擔任すること【合字】となれり」との異文が載る。(註53)ただし、自筆原本は第2次世界大戦の戦火に遭って焼失、現在では確認しようもない。

いずれにせよ『福島日日新聞』の発行は、1881年2月から7月までの5か月間という短期間で終わった。作家で古い社会主義者でもある清野彦吉氏が『福島県史』で提起したとおり、問題は「同じ自由民権派である鐸木がなぜ『福島自由新聞』と同期にこれと対抗するような形で『福島新聞』を創刊したか、である。」(註54)ここがロドスだ、ここで跳べ。

河野広中『近世名士写真-其2』国会図書館蔵による

河野広中『近世名士写真 其2』国会図書館蔵による

1881年6月に河野広中らによる三春正道館が開館したおり、「一金七拾弐円 是ハ活版器械運転ノ教師ノ為メ、福島活版社ヨリ勢田金三郎相雇ヘ一ヶ月金拾弐円宛の給料相渡候分」と計上されており、12月までの給料が支払われ、また「一金壱円 是ハ吉田光一ニ托シ開館広告摺物福島活版社相払分」として支出している。(註55)勢田金三郎は、先に見た通り、1880年6月10日から『福島毎日新聞』の「印刷」名義者になっていた人物である。ただし、当時の福島活版社社主は竹内専蔵である。(註56)さらに、「関係文書(五十川文書)を見ると、委員の田母野秀顕(千秋)は、明治十四【1881】年の四月・五月・七月と三回福島町に出張して交渉にあたり、同地の印刷業竹内専蔵から印刷器械・活字・その他の附属品いっさいを購入して「三春活版所」を正道館に併置したのである。」(註57)その代価は「五百五拾九圓四戋八厘」と見える。(註58)
このことは、『福島日日新聞』の廃刊に関わる重要な事実を呈示する。官権『福島新聞』創刊時の発行所は福島活版社である。(註59)そして、福島活版社社長は、かつての福島活版所の社主・竹内専蔵であり、その人物が印刷器械すべてを売り払ってしまっている。したがって、『福島日日新聞』は、筆禍事件、官権の圧迫、福島大火(甚兵衛火事)によって1881年7月に廃刊に追い込まれたという定説はくつがえる。印刷機が売り飛ばされたため、もはや新聞を印刷することはできなくなっていたのだ。すなわち『福島日日新聞』は、ほかならぬ自由党幹部で活版社長の竹内専蔵によってとどめをさされたことになる。この経緯と、1881年6月に発刊された『觀風雜報』の誌名変更、出版所変更の奇妙な事実は、間違いなくシンクロする。高橋哲夫氏によれば、「印刷所の設置は河野【広中】・松本【茂】・安積【儀平】・田母野【秀顕】ら幹部の一致した願望であった。まず田母野が使者にたち四月十七日、活版器具購入のため福島に出張、四泊五日の旅費として一七円。さらに五月二十日に出張して一六円。七月一日には活版技術者を雇い入れるため再度福島に出張して一〇円、計三枚の正道館に宛てた受領書が残っている。/河野広中らの自由党幹部が福島で新聞発行を計画し、「新聞紙発行趣意書」を公表したのは明治一四【1881】年九月である。以来準備を進め、ようやくその第一号創刊にこぎつけたのが翌十五【1882】年七月二十五日であった。」(註60)すなわち、1882年7月25日発刊の『福島自由新聞』である。ただし、竹内専蔵は『福島新聞』に広告を打ち続け、福島事件への連座をはさんだ長期にわたり、自らの事業の広告記事を掲載していることが注意される。(註61)

未だ『福島日日新聞』が筆禍事件に巻き込まれる以前から、河野広中らによる印刷所の買収交渉は開始されている。自らの党派機関誌創刊のために、同志の一部やその周囲にいた人々を犠牲にし、『福島日日新聞』を廃刊に追い込んだのである。一種の「純化」運動であったのかもしれないが、福島における自由民権運動の内部に深刻な亀裂が生じ、もはや分裂状態にあったことが、この事実から感知されなければならないだろう。後年の日本共産党における「分離・結合論」(福本和夫)が想起される。(註62)

福島町絵図-明治初期『図説福島市史』より-上方に県庁、その右下方にカツパン所

福島町絵図 明治初期『図説福島市史』より 上方に県庁、その右下方にカツパン所

自由党福島部の機関紙『福島自由新聞』が発刊された後の8月(註63)、『福島新聞』(第4次福島新聞)が鐸木三郎兵衛、田辺軌らにより創刊される。同紙の発刊については『福島自由新聞』第1号に情報が載る。

「○福島尓於て福島新聞【4次白丸圏点】なるものを發刊せんと出願せしものあり巳【已】に允許を得たるよしなれは遠から寿゛出板寿る奈らん此の新聞ハ如何奈る主義にて何人が筆を取らる〻や知らざれども先頃右の出願者の一人なる某ハ斷然官權新聞とな寿べ志と云ひ又たその|【一】人ハ半官半民にあらされハ世間へ通りが惡ひゆへ中立正黨主義とな寿べ志と云ひ未定中なり志由なるが愈々本社の新聞紙を發行寿ると聞き狼狽志たるものと見へ官權を主張せ志某は其出版所に申入る〻樣ハ無利息にて五千圓の保護金を得ること【合字】尓畧定めたれば損失に眼を掛け寿゛盛大に發行寿べ志と則ち日なら寿刊行寿る尓至れり此金融壅塞の折柄なれば娼妓貸座敷の運上でもなければ五千圓の金は六ケ敷からんとの噂あり此尓就てハ委く聞込志こと【合字】もあれと復た次号に報すべ志」(註64)

これに対し、鐸木三郎兵衛は手記中で新聞発行の経緯を回想している。
まず、「県庁にても色々評議の末、県令三島も承諾の旨を以て一等属横川源蔵草稿により郡長矢部潔の余【鐸木】に言ひける様は、茲に兼て取立て置きし賦金一万円計りもあり、是れは本省より国事探偵費(取りもなほさず自由党撲滅費とも言ふなるべし)に充つべしと許されければ、当方に於ても如何なる手段をもっても、彼の自由党を撲滅するの良策か、又彼の一万円も何の費に充つべきやと、色々評定しけるに、先づ茲に一つの官権新聞を発行して飽くまで彼の自由党を抗撃し、我県下に亦、余類なからしむる事こそ第一ならんとの評決なり。」との指令があったという。さらに1万円の内訳として「三千円は活版社、一千円は荷造所、残六千円は君の費用に供せん」との提案を受け、福島活版社の田辺軌に計ることになった。
福島活版所は「是れより先き聞く所によれば、当県会議員等か、活版社を買ひとることにほぼ取極まりし折柄、県庁にては宮城活版所長、佐藤三之助に托して、活版所を買取らしめ、以て官権新聞を発行なさしめん為め、一万円貸下くべしと言ひければ、三之助は之を出版所に謀りしに、活版所では、早くもこの事を聞知り、他所のものにおめおめ渡すは土地の名誉に関する義ゆへに、三之助とは破断をなしたり。されば、又県会議員等に売り渡すに至らば、県庁よりは又如何なる事の難儀を言ひかくりやも知る可からすと思へば、此も破断の事となし、暫らくこのまま経過し居りたりとか聞けり。」
 こうした状況の中、「県庁よりは頻りに新聞発行を急がせられ、金策の事はいづれも都合宜しき様すべければ、一先づ新聞は発行すべしとの事故、やがて新聞発兌の願を出しければ、一等属横川源蔵は官権記者雇入れ、其の他一切の事務を引受けて上京せり。間もなく記者を下しければこの記者というは東京忠愛社とかに月給八円計り取り居りしものを、横川の指揮にて活版社にては此等に三十円内外の給料を与へる事となせり。亦不当と言ふべし。さはさりながら一切県庁よりの保護とあれば何の故障もなく命のままにしたり、遂に福島新聞と名づけて発兌する事になれり。活版社にては新聞を発兌すれば、月々七八十円の損失を来たすなり。」
約束された支援金は一向に支払われなかった。活版社からの要求に対する県の対応は、「活版所より県庁へ監督願を差出す」こと、さらに「社長を官撰にせられん事を願出づべ」きことであった。「茲に於て、社長幹事等は再々県庁の違約且つ我儘千万言語に堪えたる処置を怒り、此の儘仰せは随へかたしと答へ至急株主臨時総会を開き此れを諮謁せしに、皆々一同は官撰の義宜しからず、先づ道理上より言ふても決してさる理なし。こは御求めに応ずべきにあらずとなし、県庁に其の旨を報しけるに、然らは三千円は扨置きに此れまでなし来りたる御用印刷物も取上くる様に立至るべし。又当時の活版社敷地は官有なればそれも引き払はさすべし。加ふるに、前々よりの貸金もあれば、これも急劇に上納させしむる等に至らんなど種々雑多なる難題を吹きかけられしかば、かかる卑劣極まる県庁と交際なし居ては、此の後如何なる憂目にあはさる可きも知る可からず。今日にありて売却するに如らすと一決なし、終に県庁に五千五百円の低価(当時の価格一万余円)を以て売却して、茲に株主は県庁の籠絡手段にうまうまかけられ泣寝入りとはなり、又県庁にては思ふ其の図に当たれりとや思はれけん。山形より更に遠藤某なるものを呼び寄せ、其の地所も引払はせず、其の儘にて従前の如く営業を為さしめたり。」(註65)
別の手記では「偶々三島縣令の赴任より「福島新聞」を再興し、縣の機關紙たることを希まれしも、之を拒絶せる爲、強制的に殆ど沒收同樣の厄に逢ひて應ず。仍て縣令直參の經營者として、山形より遠藤司を福島に招び、中央帝政黨の鬪將にして明治日報社長丸山作樂の斡旋より、新鋭の言論と筆力を有す管【菅】原道明を主筆に聘し、縣の保護により全く官權新聞に化了せり。」(註66)

金婚式を迎える鐸木三郎兵衛・多賀子『福島民報』より

金婚式を迎える鐸木三郎兵衛・多賀子『福島民報』より

『福島県史』の「新聞」関係記事を担当した井筒平氏は、「一号から第一〇八号までは、社長田辺軏・編集長内藤広・印刷人千葉一郎となっているが、第一〇九号からは社主田辺の名が抹殺されているところからみて、完全に県庁の手にわたったものとみてよく、仮編集長として志賀幸が登場した。印刷人は千葉一郎であるが、四月十九日には仮編集長は小野寺庫之助に変わっている。小野寺は明治十六【1883】年五月十九日誹毀事件で重禁錮二カ月罰金三〇円の厳刑に処され、服役したため、五月十八日より六月末日まで休刊のやむをえない状態になったが、七月一日からは再び号数を追って発行した。この日から持主兼編集人ははじめて菅原道明となり、印刷人も長沢正毅と変り、発行所も福島県岩代国信夫郡福島町旧廓内八号地となし、発行所を福島新聞社と改めた。」という。(註67)

本記述には致命的な誤りが頻出する。まず、「田辺軏」という名前は新聞に見えず、すべて「田邊軌」となっている。また、井筒平氏は「福島新聞は現在第一号より第一〇〇号までは発見されないままになっている」というが、写真図版には第43号(1882年10月22日)の影印を堂々と載せており、福島県立図書館作成のマイクロフィルム(1997年作成)は第51号(11月1日)から始まっている。それはそれとして、少なくとも「第一号」の奥付は確認できないはずであるがどうか。現存最古の第43号に見える社主は田邊軌、印刷人は千葉一郎で間違いはないが、假編輯長は志賀幸であり(註68)、第57号(11月9日)から假編輯長が內藤廣に交替する。(註69)そしてこの体制は第137号(1883年2月23日)まで続き、その後4月9日まで休刊。(註70)第138号(4月10日)から田邊軌の名が消え、假編輯長・志賀幸、印刷人・千葉一郎の体制となる。(註71)假編輯長が「小野寺庫之助」ならぬ「小野寺庸之輔」になったことが確認されるのは、第147号(4月20日)であり(註72)、第146号(4月19日)の現存紙は奥付を欠く。その後の休刊は5月19日から6月末日の間であり、第170号(7月1日)から版元が福島新聞社に変更となり、持主兼印刷・菅原道明、編輯・長澤正毅の新体制に入ったことが分かる。(註73)ただし、4月10日の記事「演説討論」中に「會主は弊社の菅原道明」との記載があるため、この時点で菅原道明が『福島新聞』のスタッフに参加していることが判明する。(註74)
4月8日の「政談並に學術演説及び討論會」は、到岸寺で開催され、演題と演者は「思ひ〱の人心」(菅原道明)の他、「長澤正毅ハ「高田の變報」入江時光氏{茨木の人}ハ「政府ハ堅固奈らさる可(べか)らす」村山長太郎氏{福島の人}は「愛惡は勢の盛衰に伴ふ」の政談を爲し舍人重包{愛知の人}者「朝起千金」てふ學術演説を爲し演説全く了りて入江氏より「福島縣廳移轉の可否」てふ討論の發議阿りしかバ演説者ハ固より社員富田敬一郎、志賀幸其他山田良輔、圓谷胖次の二氏も與に席に列して充分に討論せら連たり」とあり(註75)、当時の福島新聞社の構成が分かる。また、県庁移転の動議については賛否の決を取らなかったとあるが、同問題は翌年にかけて福島県の大問題となった。この時、県庁の郡山移転反対論の先陣に立ったのが鐸木三郎兵衛である。(註76)『国史大辞典』の記事「福島新聞」は、『福島県史』を参考文献としつつ、原紙に当ったとみえ、矛盾のないよう記述している。(註77)
演説討論会参加者のうち、敬称のない人物が福島新聞社員と目される。まず、長澤正毅は「『明治日報』に明治十五年三月三日より八月二十七日まで編輯長または編輯兼印刷長と署名。」(註78)富田敬一郎は、何かトラブルがあったのであろう、1883年7月1日に解雇となっている。(註79)志賀幸は元編輯長である。余談だが、漢語の「胖次 pàng cì」は日本語「パンツ」の音訳語、とりわけACGN(Animation(动画)、Comic(漫画)、Game(游戏)、Novel(小说))愛好家にあっては女性のpanties(英knickers)の意味で使われる語である。(註80)

丸山作楽像『丸山作樂傳』より

丸山作楽像『丸山作樂傳』より

事件のもう1方の当事者・菅原道明の自伝には、その福島新聞入社は次のような経緯であったと記載される。
「丸山【作楽】先生が呼んだので行つて見ると「君は福島に新聞の創刊があるが、行かぬか」といふ話であつた。私は「行くも善いです」と答へた。先生又云ふ、「福島は民權發祥の地と自稱して居る、自由黨の巢窟である。此間は同黨員が巡査の交番所を荷ぎ出して山の中に捨てた。郡長もどこにか持つて行かれたなどの風評もあるが、それでもよいか」と。私は「妻もなし子も無い身分だから困難の地程面白からうと思ふ、行きませう、……私一人ですか」「イヤ君が行くなら長澤正毅を附けてやらう」と云ふことで「然らば行くと決めました」と即答した。」その翌日の夜、芝の「賣茶」で1人の人物に引合される。「何んな人かと思つたら、肥滿の紳士で横川某と云ふのであつた。江州の人で福島縣廳に居ると云ふ。其人の話では、/「福島には今『福嶋自由新聞』なる自由黨の機關紙があるが、僅に六七號を重ねたのみ、此の新聞も永續するや否やは分らぬ、多くは十號新聞で、起仆常ならぬ。今度は『福島新聞』と稱して第一號より創刊する。皇室中心主義で、漸進論を―自由黨に急進論に對して―唱導することを約して貰はねばならぬ。其他は何等干涉せぬ、故に記者を丸山先生に乞ふたところが、御兩君を推薦され、兩君も之を聽されたさうな、實に歡喜に堪へぬ」/との挨拶、吾々兩人も『明治日報』に主張するものを以て、福島新聞に移す、何等不可なしと、一々承諾した、夫より酒席となつた。兩人とも可なり飲む口である。十分獻酬して來る十二日に出發する事を約して辞した。/翌日忠愛社より旅費等を渡され、十二日に淺草馬道の人力車を賃して出發した。」(註81)

ただし、この「十二日」が分らない。本記事の前段に壬午軍乱の勃発のスクープ記事を執筆したと書くため、8月12日ということになる。年譜でも「八月聘せられ長澤正毅氏と共に福島縣福島町に入り、福島新聞を創刊す」とあるため(註82)、間違いはないだろう。しかし、スクープの日付を「日は確に覺えぬが、【7月】廿四五日であつた樣だ」「朝鮮討つべし」と題する論説を1‐2面に差し替えて輪転機をまわしたと記録するが、『朙治日報』の原紙で確認すると「○朝鮮變報」の社説が載ったのは1882年8月1日、しかも記事本文は「吾輩ハ一昨三十日實ニ驚クベキノ變報ヲ得タリ因テ取敢ヘズ之ヲ附錄ニ刷出シテ看官ニ報道セリ」とある。(註83)すなわち、初報は7月30日の付録だったことになる。(註84)
さて、菅原道明の福島行の人力車での道程中、栗橋、宇都宮、白河に宿泊している。したがって、白河から馬車で福島に到着したのは、8月15日と思われる。「吾々は上町の藤金旅館に投宿し、來宿の旨を鐸木三郎兵衞(今は鐸木)氏に報告した。入浴後鈴木氏より紅葉山なる旗亭で、會見せんとの申込があつた。私は直に長澤氏と共に車で出かけた。」「行つて見ると亭は、舊藩城內庭園の一部で、阿武隈の流に臨み、風景最も可(今は紅葉山小公園で板倉神社鎭座す)歡迎會を兼ねたる會見で、鈴木氏の外田邊軌(當時の社長)內池三十郞(淡湖翁當時百七銀行に在勤)原太市の數氏が居た。是れ等の人々は當時の福島新聞の株主兼膽煎の人々であつた。相互挨拶を述べ、直に酒席となる。此夜は雜談のみで、肝腎の新聞談には及ばなかつた。」回顧談に記載されているのは、「大鯛の「煮うめん」」の鯛が腐っていたこと、「鮑の醬油漬け」がおいしかったことである。
「此日は疲勞も可なり甚だしかつたので、早く宴を撤して宿に歸り寢に就いた。」「翌日よりは日々、福島新聞社に出て筆を執つた。」「新聞は皇室中心主義で、漸進論を唱へたから、隨分異彩であつた。」「其上我々は、同志と共に劇場に、又は寺院に、大に演説會又は討論會を開いて、我が新聞の主張を高調した。」(註85)

菅原道明『菅原道明伝』より

菅原道明『菅原道明伝』より

したがって、新聞記事の執筆を始めたのが8月16日、出典不明ながら創刊日を8月19日とする『国史大辞典』の記述(註86)と整合的に理解できる。
「私は福嶋新聞社に在つて、槪して社説論策の類を担當し、兼ては、雜報、雜錄、詩文等をも執筆した。又記者中に欠勤者の多きときは一人で其日の全紙面を書いた事もあつた。」「新聞社主の遠藤司氏は山形の人、私が赴任の翌年合資の體を解き、一時私は福嶋新聞の持主となつたが、凡そ半年許りで遠藤氏に讓渡す事となつた。」(註87)

太田富康氏の示す福島県庁文書には、福島新聞社(活版社?)の「社主遠藤司によれば、同社は明治16【1883】年2月に「福島活版社建物及印刷器械等、悉皆県庁ヨリ御払ヲ請ケ、諸御用類及御庁仲印刷之御用被仰付」就業した会社である。福島新聞は、従来福島新聞社から137号まで発行されていたものを引継ぎ、「第百三十八号ヨリ逐号発刊併業」してきたとある。」という。(註88)文中「従来福島新聞社から」とあるのは福島活版社の誤りと見られるが、他は諸証言の示す経緯と矛盾なく符合する。すなわち、『福島新聞』第137号と第138号の発行の間に切断の瞬間が存在したと見てよい。

1882年11月9日、志賀幸から内藤廣への編輯長交替については、「弊社の前假編輯長志賀幸ハ彼の上田與三郎を誹毀したる亷(かど)を以て重禁錮二ケ月罰金十五圓と申渡を被りたり」と報じられている。(註89)翌年の記事の「弊社前編輯長たりし志賀幸ハ昨【1882】年十二月十八日以來誹毀事件にて二ケ月の重禁錮に處せられしより以來本縣監獄署に阿りて服役して居たりしが漸く滿期と奈り昨日恙奈く歸社致したれバ之を諸君に報じ併せて見舞等を贈り下さ連し諸君に謝す」との説明を見れば、判決は12月18日であった。(註90)編輯長交替と裁判にタイムラグがあるのが、やや気になる。
1883年2月23日から4月10日までの休刊について、復刊号の社説に「我福島新聞社モ亦斯ノ內憂ニ罹リシモノナリ而シテ其病□□□【3字欠損、間二月カ】二十四日ヨリ昨日ニ至ル迄凡一月有半甚タ短キニ非ルナリ」と記す。(註91)社告では「弊社新聞ハ已を得ざる事故阿りて二月二十四日より昨日迄休刊致し居りしが始めて發刊の運びに至り本日より續〻發刊致しますれバ舊に倍して御愛顧阿らんことを冀ふ」と告げている。(註92)
また、内藤廣の後の編輯長・小野寺庸之輔は1883年5月9日、誹毀事件で福島輕罪裁判所から召喚を受け(註93)、5月19日、重禁錮2ヶ月・罰金30円の有罪判決を受けている。(註94)なお、判決日の小野寺庸之輔の年齢は「十九年八ケ月」、未だ少年である。
1883年7月1日、3日、4日の3日間に渡って掲載された社告には、「弊社福島新聞儀是迄田邊軌社主にて發行致來候處今回願濟の上菅原道明讓受号を續き發刊仕候間舊に倍し御【草字】愛讀給ハらんことを冀ふ且つ五月十九日より右出願中己【已】むを得ず休業罷在候」と経緯が説明されている。(註95)こうして見ると、編集長の受刑と新聞休刊の時期に関係があったように見える。新聞の経営に揺さぶりをかけるためだったのだろうか。いずれにせよ、筆禍事件の生起と編輯長の有罪判決は、新聞の官権化にとって強大な推進力になった。

旧福島県庁-1876年『図説福島県史』より

旧福島県庁 1876年『図説福島県史』より

『福島新聞』官権新聞化のフィクサ・横川源蔵は、旧彦根藩士。1868年7月8日(慶応4年5月19日)に江戸鎮台判事加勢(註96)江戸鎮台会計局輔相(輔助)(註97)、9月から10月(旧暦8月)時点で権判事(権判官事)となるが(註98)、1868年11月22日(明治1年10月9日)「巡察申付候處不行届ノ儀有之会計局權判事被免謹慎申付」られている。(註99)明治2年には井伊直弼の茶室を豪徳寺に移転(註100)、その後1882年に福島県一等属上等級となっているのだが(註101)、翌年5月御届分の『改正官員錄』からその名が消え(註102)、1883年5月25日以前に山形県少書記官に転じる。(註103)その日付は『山形新聞』によれば「○横川源藏君  福島縣一等屬横川源藏君者愈去十九日を以て本縣少書記官に任ぜられた里」といい、5月19日のことである。(註104)山形県の少書記官は、県令に次ぐ重職である。(註105)異動後1週間を経過しての報道は何かおかしい。

新社主の遠藤司は、1883年11月20日(天保4年10月9日)(註106)、出羽国北村山郡袖崎村の村方組頭役の家に生れ、元治1年【1864‐65年】、家を出て伊勢神宮、吉野、高野山、四国讃岐の霊場を巡り帰国。「明治三年【1870‐71年】君が敬神の念厚きを以て中館藩廳より土生田村格外社幸神社、戶倉神社兩社の神官を命ぜられ是れより教導職十三級試補となり新大石田村八幡神社の祠掌、祠官等を經て明治九【1876】年に至り權少講義に補せられ同十七【1884】年更に大講義に補せらる」。(註107)ただし、1884年の大講義は民間資格に過ぎない。1878年に遠藤司が出版した『山形縣管内神社名簿』の表紙に「神道事務分局蔵版」とあるため(註108)、神道事務局から与えられたものであろう。神道事務局は、のちに教派神道の「神道」(神道本局)に改編されている。なお、同書の著者・佐伯菅雄はもと仏僧で法名を浄珊と称した。還俗前は斯波家、最上家の祈願寺・新義真言宗摩訶迦羅山(大黒山)宝珠院宝幢寺の住職であり、その後、別当を勤めていた愛宕神社の神主職任命願を1869年9月12日(明治2年8月7日)山形藩庁に提出、1870年2月26日(明治3年1月26日)に許可を得て、名を佐伯菅雄と改め、神官に転向した。(註109)また、それ以前、遠藤慎七郎と司の兄弟は「兩人共幕末の神道國學者平田篤胤の學風を慕ひ其子鐵胤の門に學んだ人である」といい(註110)、「平田家資料の「金銀入覚帳」明治三年(一八七一)四月二一日【元号西暦換算では1870年5月21日である】の項に、「遠藤司」の名がみえ、彼が平田国学の門人組織である気吹舎に入金していたことがわかる」という。(註111)
「是れより先き明治六年中君氏が兄愼七郞氏、小池啓太郎氏と共に縣廳の准允を得て山形縣活版社を創立し諸達書類の印刷を業とす」。(註112)遠藤慎七郎名で県達印刷を求めた山形県への願書は明治6年4月付となっており(註113)、一般への販売許可は7月23日付で下り、30日に山形縣活版社宛に通達されている。(註114)当初は「舊縣廳舍卽ち舊藩時代の新御殿の外長屋を借受け」ていたが、(註115)1878年11月、「旅篭町の県庁に程近き南村山郡役所(現在の山形市役所南端)南際に、モダンな社屋を新築して移転し」ている。(註116)また、開業時には木製活字を使って印刷していたが、1874年「木活を改めて鉛活字を採用したので縣では同九【1876】年補助を交附して縣の布達を掲載し之を新聞として發行するの便なる考案したのである。」(註117)また、印刷機械は山形城下鍛冶町生れ、東京芝浦製作所で工作機械の製作を学んだ伊藤嘉平治の製作した手押印刷機を採用している。(註118)

山形県庁 1877‐1911年 wikipediaによる

山形県庁 1877‐1911年 wikipediaによる

こうして、1876年9月1日、鳴時社を発行所に『山形新聞』(第1次)を創刊するが数号で廃刊(註119)、『山形県史』によれば3号まで発見されているという。(註120)
その後、1878年11月21日、佐々木高行議官の山形巡視に際し、山形県有志が一行を「小姓町丸萬樓」で接待した折、「同夜議官の宿所に新聞記者武田義昌來り謁す」。(註121)その直後、『山形新聞』(第2次)の発刊を許されている。武田義昌は「天童町の醫師武田玄々の息で第一回の衆議院議員第一區より當選した宮城浩藏の實兄であり、且つ長谷川吉郎治の親戚であつた。」(註122)7代○長・3代長谷川吉郎治(直則)の家は、山形城下で紅花問屋として財をなし、○長を屋号とし「紅花のほか、青苧・生糸などを奥羽で買い付け上方に送り販売し、上方より呉服太物・古手や繰綿・蝋・砂糖・荒物・小間物などを仕入れ奥羽に売り捌く巨大な「のこぎり商い」を実施する一方、金融・地主・鉱山などの経営も広く実施していた」「先行研究の予想をはるかにこえた内容と規模で紅花流通に関与していた」「巨大紅花商人」である。(註123)宮城浩蔵は、法務官僚の育成を目的として設立された明法寮の第1期生で、明治法律学校(現・明治大学)の創立者の1人である。
1878年の『山形縣統計表』によれば、『山形新聞』の社主は武田義昌、記者は刈敷廣功、販売部数は176,503部とある。(註124)武田義昌は1875年2月に福島県「少屬」(註125)、7月に「權中屬」(註126)、1875年12月より翌年まで「中屬」(註127)、その後、山形新聞の社長となったのは、1878年10月16日であるといい(註128)、「のちには福島裁判所長となるなど、やはり法律に関与した人物である。」(註129)「福島、会津の裁判所長を勤め」、「山形市長選に出て落選したり、血の気が多かったようである。」(註130)ただし、裁判長任命の事実は、『職員録』各年版で未確認である。刈敷廣功は「初め『仙台新聞』記者、品行不良のため山形に去り同社支局に勤務」という経歴を持ち(註131)、新鞆三とともに第1次『山形新聞』の記者であり(註132)、両名は、経営がかわったのちも『山形新聞』の有力スタッフであり続けた。『山形新聞』を襲った数々の筆禍事件と編集陣のめまぐるしい交替については、小形利彦、佐藤孝の各氏による適切なまとめがある。(註133)新鞆三は、「明治一五【1882】年四月頃『朝野新聞』の記者」であり(註134)、のちに札幌に登場して『北海新聞』の編集人となった新鞆三郎と同一人物ではないかと疑われるが確証はない。

『山形名譽鑑』によれば、遠藤司は「明治十五【1882】年豪商長谷【川】吉郎治の所有經營に係る山形新聞社の機械活字等を金三千圓を投じて購求し同年十二月より續々刊行」、1890年『山形大同新聞』となるまで主宰したという。(註135)ただし、当時の「山形新聞社讓受」書面を見ると、同社を買収したのは遠藤慎七郎であるらしく(註136)、1882年12月4日の社説では「夜ヲ以テ日ニ繼キ孜々黽勉シ本社ノ全体ヲ改革シ新ニ記者ヲ聘シテ紙面ヲ改良シ漸ク今日ヲ以テ發刊スルニ至レリ」と述べており(註137)、1883年1月4日の奥付には「社長 遠藤愼七郎」の名が載る。(註138)しかし、その後『山形新聞』は49日間の発行停止を経て(註139)、4月22日には紙面から「社長 遠藤愼七郞」の名が消え(註140)、その1ヶ月後の5月23日、遠藤司が社長になっており(註141)、同体制は7月3日まで続く。(註142)さらに『山形名譽鑑』は、遠藤司について「君は亦明治十六【1883】年二月金五千五百圓を投じて福島新聞社の建物印刷機械を悉く購ひ福島新聞を發刊して依然今日に至る」という。(註143)
遠藤司の福島新聞社(活版社?)買収の記事が掲載された『山形名譽鑑』は鳴時社発行、印刷人は元『福島新聞』社主の遠藤時助であり、情報の信頼性は著しく高い。それによれば、福島活版社の売却価格と遠藤司の買収価格は5,500円で等しく、横川源蔵がカスリを取ったようにはみえないのだが、実際はどうだったか。県庁から福島活版社への貸金は低価での売却によりチャラになったはず、遠藤司の買収にあたって借金相殺分が上乗せされると見るのが常識であろうが、売却金額が同一なのは何故か。既に見た通り、横川源蔵は巡察中の不正行為で官吏をクビになった人物であり、福島県から山形県への異同の間にブランクの時期がある。さらに、官権『福島新聞』の完成を見ずして山形に去り、それと同時期に『山形新聞』の経営権は遠藤司に移動する。予定買収価格の差額分は中抜きされ、その一部が横川源蔵にキックバックされたとおぼしく、実に怪しい。

福島県庁-1880年竣工-1900年撮影『図説福島市史』より

福島県庁 1880年竣工 1900年撮影『図説福島市史』より

以上を見れば、『福島新聞』が完全に官権新聞と化したのは、1883年4月20日、田辺軌が退陣を余儀なくされた以降のことである。『福島県史』にいう「ここで【1883年7月1日】、三島県令の手になる御用新聞はようやく独立できた」(註144)のでは勿論なく、「めんぼく一新」(註145)でもありえない。その正反対に、鐸木三郎兵衛、田辺軌、内池三十郎の合資の解散と福島活版社の売却、福島新聞社の創立を承け、7月1日に菅原道明の社主就任、長沢正毅編輯長体制が確立することによって御用新聞化が完成したと考えてよく、このことはもはやゆるがない。
なお、福島活版社は1887年に『福島縣町村會規則全書』(舊郭內八番地、福島活版舍名義)、1888年に『自明治十五年七月 至同廿一年五月 福島縣取締規則類集 附關係諸達書』(舊郭內八番地、福島活版舍名義)、『福島縣內富之度一斑 一名所得納人調』(舊郭內八番地、福島活版舍名義)、1890年に『明治二十三年五月 福島縣名士列傳 一名衆議院議員候補者略傳(前編)』(杉妻二番地、福嶋活版舎、福島活版舍名義)の各出版物が現存。(註146)廓内の住所は福島活版社の住所に一致し、杉妻の住所も1892年12月1日の福島新聞社の住所に一致する。(註147)なお、『福島縣取締規則類集』の編纂者は、かつて『福島新聞』印刷人であった「福嶋縣平民 千葉一郎」である。(註148)新体制においても、福島活版社と福島新聞社は同一の場所にあったことが確認できる。

 


 

註1 社告『福嶋新聞』1879年3月1日3面
註2 縣下叢談『福嶋新聞』1878年3月6日2面
註3 縣下叢談『福嶋新聞』1878年3月8日3面
註4 「○社告」『福嶋新聞』1878年5月1日3面
註5 各地新報『福嶋新聞』1878年5月17日3面
註6 「○秘密ト乖離トノ關係(下篇)」『福島新聞』1878年11月15日1面
註7 社告『福嶋新聞』1878年7月12日3面
註8 縣下叢談『福嶋新聞』1878年8月5日3面
註9 雜報「○社告」『福島新聞』1878年12月15日2面
註10 『福島新聞』1878年12月24日3面、国立国会図書館作成マイクロフィルムによる
註11 雜報『福島新聞』1879年3月19日3面
註12 雜報『福島新聞』1879年3月25日2面
註13 「○社説 各郡區役所ノ受付諸君に白ス」『府縣珍【王+尒】報』第三號 探珍社 1879年11月25日、岡義弘『近代日本政治史 I』創文社 1967
註14 雜報『福島新聞』1879年3月26日3面
註15 雜報『福島新聞』1879年3月26日3面
註16 寛亮手記「○書感」社説『福島新聞』1879年3月28日1‐2面
註17 社説附言『福島新聞』1879年3月29日2面
註18 「○正誤」『福島新聞』1879年3月31日2面
註19 雜報『福島新聞』1879年4月1日2‐3面
註20 福島活版所広告『福島新聞』1879年4月1日3面
註21 雜報『福島毎日新聞』1879年5月5日2面
註22 雜報『福島毎日新聞』1879年5月5日3面
註23 李群玉「杜丞相誤壑性美人」、尤袤撰『全唐詩話 卷之四』のテクストに最も近い
註24 「○(戀の深瀬に沈む處女)」『福島新聞』1879年5月6日2‐3面
註25 「○〔戀の深瀬に沈む處女」」『福島新聞』1879年5月7日3面
註26 雜報『福島新聞』1879年5月8日3面
註27 「○(戀の深瀬に沈む處女)」『福島新聞』1879年5月9日2‐3面
註28 雜報『福島新聞』1879年5月24日3面
註29 社説「○前編集長ノ公判」『福島毎日新聞』1879年5月29日1‐2面
註30 雜報『福島毎日新聞』1879年5月29日2面
註31 『花香恭次郎履歴書』1885年11月 河野広中文書、福島県編『福島県史 第11巻 資料編6 近代資料1』福島県発行 巌南堂書店発売 1964、資料番号1027(2)
註32 『花香恭次郎履歴書』1890年2月 河野広中文書、福島県編『福島県史 第11巻 資料編6 近代資料1』福島県発行 巌南堂書店発売 1964、資料番号1027(3)
註33 奥付『福島毎日新聞』1879年12月2日4面
註34 「第三百九十八号 福島新聞ヘ登録セル青森縣下人民國會開設建言書ノ儀内務省ヘ囬答」、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15100048200、「明治十三年 元老院日誌 卷之五 五月」(国立公文書館)
註35 奥付『福島毎日新聞』1880年6月10日4面
註36 奥付『福島毎日新聞』1880年4月23日4面
註37 「製本廣告」『福島毎日新聞』1880年7月21日附錄1面
註38 「○仙臺景况一班」『山形新聞』1880年3月25日2面
註39 雜報『山形新聞』1880年4月6日3面
註40 奥付『僊臺福島毎日新聞』1880年11月27日4面
註41 廢姓外骨(宮武外骨)「明治新聞年表」吉野作造編輯擔當代表『明治文化全集 第十七卷 新聞篇』日本評論社 1928、諸根樟一「第五章 本縣政黨及言論の胚胎 第三編 第二期の政治(縣會創設時代) 第三節 上期の言論機關 一 本縣の新聞一史考 一 明治三十年迄の過程」『福島縣政治史 上卷』 福島縣政治史刊行會 1929、井筒平「第五編 新聞・電波報道 第一章 新聞 第二節 混沌から自由民権運動へ―明治八年(一八七五)から明治二十二年まで― 一 『信夫新聞』から『福島自由新聞』まで」福島県編『福島県史 第20巻 各論編6 文化1』福島県発行 福島県図書教材株式会社 巌南堂書店発売 1965
註42 雜報『讀賣新聞』1881年2月9日2面
註43 平島松尾「第二篇 平島氏の奮起と福島事件 第二章 平島氏の政界進出と機關新聞刊行」『安達憲政史』安達憲政史編纂會 1933
註44 雜報『讀賣新聞』1881年2月24日2面
註45 「[福島県関係書類]」1881年4月28日 福嶋縣用箋(写) 国立大学法人東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫蔵、諸根樟一「第五章 本縣政黨及言論の胚胎 第三編 第二期の政治(縣會創設時代) 第三節 上期の言論機關 一 本縣の新聞一史考 一 明治三十年迄の過程」『福島縣政治史 上卷』 福島縣政治史刊行會 1929を参照した
註46 雜報『讀賣新聞』1881年5月7日3面
註47 雜報『讀賣新聞』1881年7月26日2面
註48 『觀風雜報』第壹號 觀風社(錦銹社發兌) 1881年6月7日、『詞藻襍輯』第貳號、第四號 錦銹社 出版日不明、国立大学法人東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫蔵
註49 諸根樟一「第五章 本縣政黨及言論の胚胎 第三編 第二期の政治(縣會創設時代) 第三節 上期の言論機關 一 本縣の新聞一史考 一 明治三十年迄の過程」『福島縣政治史 上卷』 福島縣政治史刊行會 1929
註50 諸根樟一「第五章 本縣政黨及言論の胚胎 第三編 第二期の政治(縣會創設時代) 第三節 上期の言論機關 一 本縣の新聞一史考 一 明治三十年迄の過程」『福島縣政治史 上卷』 福島縣政治史刊行會 1929
註51 『明治十五年度 福島県会議事筆記 全』大学共同利用機関法人人間文化研究機構国文学研究資料館蔵、同館近代書誌・近代画像データベースによる
註52 植木枝盛『植木枝盛君略傳』1890、「史傳 植木枝盛自叙傳」「第八章 氏雜誌の編輯を理す○又新聞の記者と爲る」『土佐史談』第貳拾參號 土佐史談會 1928年6月30日、題名は鈴木安藏解題『言論自由論・勅爾咢ヲ教ス』近代日本文化叢書 實業之日本社 1948所収自筆稿本書影の外題による
註53 「植木枝盛君略傳(續き)」『土陽新聞』1890年4月18日2面
註54 清野彦吉「第二編 近代社会の成長 第三章 文化の成長 第八節 荒波にもまれる明治の新聞」福島市編『福島県史 第4巻 通史編4 近代1』福島市発行 福島県図書教材株式会社 巌南堂書店発売1971
註55 『正道舘開設費金仕訳帳』、高橋哲夫「第二編 三春町と自由民権運動 第二節 三春正道館の設置 一 正道館の設立」三春町編『三春町史 第3巻 近代I (通史編3)』三春町 1975
註56 『福島縣達全報』第壹號 福島活版社 1880年6月21日奥付、第卅五号 1880年11月25日まで、国立大学法人東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫蔵
註57 高橋哲夫「第二編 三春町と自由民権運動 第二節 三春正道館の設置 一 正道館の設立」三春町編『三春町史 第3巻 近代I (通史編3)』三春町 1975
註58 『証(活字器械代)』、高橋哲夫「第二編 三春町と自由民権運動 第二節 三春正道館の設置 一 正道館の設立」三春町編『三春町史 第3巻 近代I (通史編3)』三春町 1975
註59 『福島新聞』1882年10月22日、国立大学法人東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫蔵、鐸木三郎兵衛『福島大火新道開鑿始末書』手稿、福島県編『福島県史 第20巻 各論編6 文化1』福島県発行 福島県図書教材株式会社 巌南堂書店発売 1965所収
註60 高橋哲夫「第二編 三春町と自由民権運動 第二節 三春正道館の設置 一 正道館の設立」三春町編『三春町史 第3巻 近代I (通史編3)』三春町 1975
註61 都田屋傳藏「明治十六年大小略歴錦繪入」広告『福島新聞』1882年11月14‐19日、竹內傳藏「太陽曆賣出廣告」11月23日‐12月28日、竹內傳藏福島事件放免報告1883年2月14‐16日、竹內傳藏 つたや「活版開業廣告」7月1、4、7日各4面
註62 北條一雄(福本和夫)「『方向轉換』はいかなる諸過程をとるか我々はいまそれのいかなる過程を過程しつゝあるか―無産者結合に關するマルクス的原理」『マルクス主義』第三卷第四號(第18號) マルクス協會發行 希望閣發賣 1925年10月1日
註63 「三千號に題す」『福嶋新聞』1892年12月1日1面、諸根樟一「第五章 本縣政黨及言論の胚胎 第三編 第二期の政治(縣會創設時代) 第三節 上期の言論機關 一 本縣の新聞一史考 一 明治三十年迄の過程」『福島縣政治史 上卷』 福島縣政治史刊行會 1929、北根豊「ふくしましんぶん 福島新聞」国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第十二巻 ふ~ほ』吉川弘文館 1991は8月19日とするが出典不明、現存最古の第43号の発行日から新聞休刊日の月曜日・大祭日翌日を除いて遡上計算すれば『福島新聞』の創刊は9月2日以前となる
註64 雜報『福島自由新聞』1882年7月25日3面
註65 以上、鐸木三郎兵衛『福島大火新道開鑿始末書』手稿、井筒平「第五編 新聞・電波報道 第一章 新聞 第二節 混沌から自由民権運動へ―明治八年(一八七五)から明治二十二年まで― 三 『自由新聞』に対抗した『福島新聞』」福島県編『福島県史 第20巻 各論編6 文化1』福島県発行 福島県図書教材株式会社 巌南堂書店発売 1965所収
註66 鐸木三郎兵衛手記、諸根樟一「第五章 本縣政黨及言論の胚胎 第三編 第二期の政治(縣會創設時代) 第三節 上期の言論機關 一 本縣の新聞一史考 一 明治三十年迄の過程」『福島縣政治史 上卷』 福島縣政治史刊行會 1929所収
註67 井筒平「第五編 新聞・電波報道 第一章 新聞 第二節 混沌から自由民権運動へ―明治八年(一八七五)から明治二十二年まで― 三 『自由新聞』に対抗した『福島新聞』」福島県編『福島県史 第20巻 各論編6 文化1』福島県発行 福島県図書教材株式会社 巌南堂書店発売 1965
註68 『福島新聞』1882年10月22日4面、国立大学法人東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫蔵
註69 奥付『福島新聞』1882年10月22日4面
註70 「○社告」『福島新聞』1883年4月10日3面
註71 奥付『福島新聞』1883年4月10日4面
註72 奥付『福島新聞』1883年4月20日4面
註73 奥付『福島新聞』1883年7月1日4面
註74 「○演説討論」『福島新聞』1883年4月10日2面、なお同面に「第百卅七號」とあるのは「第百卅八號」の誤植
註75 「○演説討論」『福島新聞』1883年4月10日2面
註76 榊時敏「鐸木三郎兵衛氏」『明治二十三年五月 福島縣名士列傳 一名衆議院議員候補者略傳 (前編)』福嶋活版舎 1890、鐸木彥象編纂「馬巖鈴木三郎兵衞年譜」『馬巖句鈔』鐸木彥象(私家版) 1941
註77 北根豊「ふくしましんぶん 福島新聞」国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第十二巻 ふ~ほ』吉川弘文館 1991
註78 宮武外骨稿 西田長寿補「長沢正毅 ながさわまさたけ?」『明治大正言論資料 20 明治新聞雑誌関係者略伝』みすず書房 1985
註79 富田敬一郎解雇社告『福島新聞』1883年7月1日、4日、10日4面
註80 「胖次(日文音译)」百度百科
註81 菅原道明自述「中篇 生れて七十年 新聞記者となる」菅原道明編著『壽賀記念 古稀來』青里園 1926
註82 「菅原道明年表」菅原道明編著『壽賀記念 古稀來』青里園 1926
註83 「社説 ○朝鮮變報」『朙治日報』1882年8月1日1‐2
註84 原紙存在は確認されない
註85 菅原道明自述「中篇 生れて七十年 福島新聞の創刊」菅原道明編著『壽賀記念 古稀來』青里園 1926
註86 北根豊「ふくしましんぶん 福島新聞」国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第十二巻 ふ~ほ』吉川弘文館 1991
註87 菅原道明自述「中篇 生れて七十年 福島新聞の創刊」菅原道明編著『壽賀記念 古稀來』青里園 1926
註88 太田富康「府県公報誌の機能と管理―伝達と記録のメディア―」『文書館紀要』第23号 埼玉県文書館 2010年3月29日、原資料は福島県歴史資料館福島県庁文書F56「公布式」、福島歴史資料館県庁文書目録によれば知事官房文書「公布式」1886年、未見
註89 「○前假編輯長」『福島新聞』1882年12月19日3面、「○前假編輯長の宣告書」『福島新聞』1882年12月26日3面に判決文が載る
註90 「○前編輯長の歸社」『福島新聞』1883年2月17日2面
註91 社説「○讀者諸君ニ啓ス」『福島新聞』1883年4月10日1面
註92 「○社告」『福島新聞』1883年4月10日3面
註93 「○假編輯長召喚」『福島新聞』1883年5月10日3面
註94 「○前編輯長の公判」『福島新聞』1883年7月1日2‐3面
註95 「○看客諸君に申す」『福島新聞』1883年7月1日、3日、4日各4面
註96 「元年五月十九日 江戸鎮䑓官貟ヲ置ク」『太政類典 第一編 自慶應三年至明治四年七月 第十六巻 官制 文官職制 二』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A15070104000(国立公文書館)、的野半介「第六章 維新時代の南白 五 江戶市政と南白」『江藤南白 上』南白顯彰會 1914)、1868年8月5日(慶応4年6月17日
註97 「元年六月十七日 有栖川宮以下ニ江戸鎭䑓職貟ヲ命ス」『太政類典 第一編 自慶應三年至明治四年七月 第三十一巻 官規 任免 七』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A15070255300(国立公文書館)、太政官編纂『復古記 巻九十六』明治元年六月条、東京帝國大學藏版『復古記 第六冊』内外書籍株式會社 1929による
註98 「東京在勤官員 元年八月日闕」的野半介「第六章 維新時代の南白 五 江戶市政と南白」『江藤南白 上』南白顯彰會 1914所収、『會計局附属役々人數書』辰十月(明治1年、1868年)JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A07060040300(国立公文書館)
註99 「元年六月十七日 會計局權判事横川源藏ノ巡察中不行為アルヲ以テ其官ヲ罷メ謹慎ヲ命ス」『太政類典 第一編 自慶應三年至明治四年七月 第百九十四巻 治罪 審理 四』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A15071409000(国立公文書館)
註100 島田三郎「附錄 僧遠城謙道の傳」『開國始末 井伊掃部頭直弼傳』輿論社 1888、佐成源五郎編輯『遠城謙道傳』赤羽源治 1902
註101 彥根正三編輯『改正官員錄』博公書院 1882年8月2日
註102 彥根正三編輯『改正官員錄』博公書院 1883年5月28日御届
註103 雜報『朝日新聞』(大阪)1883年5月25日1面
註104 「○横川源藏君」『山形新聞』1883年5月26日2面
註105 彥根正三編輯『改正官員錄』博公書院 1883年7月28日御届
註106 武田好「第二章 明治前期の推移 第八節 文明開化と市民生活 4 文明開化の諸相 (1)印刷の需要と興隆」山形市史編さん委員会 山形市史編集委員会編さん『山形市史 下巻 近代編』山形市 1975
註107 諏方武骨編纂「遠藤司君(實業家)」『山形名譽鑑 上巻』諏方武骨發行 鳴時社 五十嵐太右衛門 素月晨平 大井家慶輔賣捌 1891
註108 佐伯菅雄編輯『山形縣管内神社名簿 卷之一』『山形縣管内神社名簿 卷之二』神道事務分局蔵版(遠藤司) 1878
註109 渡部功「摩訶迦羅山(大黒山)宝珠院宝幢寺の寺領の上地と廃寺について」山形県立鶴岡南高等学校山形鶴翔同窓会サイト 2013年9月2日公開
註110 川崎浩良「第一篇 搖籃時代 第二章 縣內に於ける新聞の發芽 二、山形新聞の發刊」『山形縣新聞史話―縣政党の略史―』山形新聞社 1949
註111 三上喜孝「山形大学小白川図書館所蔵「物部守屋大連之碑」拓本について」『山形大学歴史・地理・人類学論集』第14集 山形大学歴史・地理・人類学研究会 2013年3月18日、原資料は平田織瀬『金銀入覐帳』明治三年四月廿一日条、遠藤潤 熊澤恵里子 中川和明 松本久史 宮地正人 吉田麻子「一 金銀入覚帳」、宮地正人編『国立歴史民俗博物館研究報告 第146集 平田国学の再検討(三)「平田家資料」翻刻 解題(三)』大学共同利用法人人間文化研究機構国立歴史民俗博物館 2009年3月31日所収
註112 諏方武骨編纂「遠藤司君(實業家)」『山形名譽鑑 上巻』諏方武骨發行 鳴時社 五十嵐太右衛門 素月晨平 大井家慶輔賣捌 1891
註113 川崎浩良「第一篇 搖籃時代 第三章 新聞紙の体裁 一、縣廳新聞としての布告」『山形縣新聞史話―縣政党の略史―』山形新聞社 1949、武田好「第二章 明治前期の推移 第八節 文明開化と市民生活 4 文明開化の諸相 (1)印刷の需要と興隆」山形市史編さん委員会 山形市史編集委員会編さん『山形市史 下巻 近代編』山形市 1975
註114 『東村山郡史 續編卷之二』明治6年7月30日条 東村山郡役所 1923
註115 川崎浩良「第一篇 搖籃時代 第二章 縣內に於ける新聞の發芽 二、山形新聞の發刊」『山形縣新聞史話―縣政党の略史―』山形新聞社 1949
註116 武田好「第二章 明治前期の推移 第八節 文明開化と市民生活 4 文明開化の諸相 (1)印刷の需要と興隆」山形市史編さん委員会 山形市史編集委員会編さん『山形市史 下巻 近代編』山形市 1975
註117 川崎浩良「第一篇 搖籃時代 第二章 縣內に於ける新聞の發芽 二、山形新聞の發刊」『山形縣新聞史話―縣政党の略史―』山形新聞社 1949
註118 武田好「第二章 明治前期の推移 第八節 文明開化と市民生活 4 文明開化の諸相 (1)印刷の需要と興隆」山形市史編さん委員会 山形市史編集委員会編さん『山形市史 下巻 近代編』山形市 1975
註119 川崎浩良「第一篇 搖籃時代 第二章 縣內に於ける新聞の發芽 二、山形新聞の發刊」『山形縣新聞史話―縣政党の略史―』山形新聞社 1949
註120 石島庸雄「第七章 社会問題の発生と教育文化 第四節 近代文化活動の展開 1 県内新聞の発展」山形県編さん『山形県史 第四巻 近現代編上』山形県 1974
註121 諏方武骨編纂「遠藤司君(實業家)」『山形名譽鑑 上巻』諏方武骨發行 鳴時社 五十嵐太右衛門 素月晨平 大井家慶輔賣捌 1891
註121 藤田一郎『日誌』、川崎浩良「第二篇 政黨機關紙時代 第一章 政黨と新聞 二、自由民權と山形」『山形縣新聞史話―縣政党の略史―』山形新聞社 1949所収
註122 川崎浩良「第二篇 政黨機關紙時代 第一章 政黨と新聞 二、自由民權と山形」『山形縣新聞史話―縣政党の略史―』山形新聞社 194
註123 岩田浩太郎「山形城下町商人長谷川吉郎治家における紅花取引の実態―嘉永〜安政期を中心に―」『山形大学大学院社会文化システム研究科紀要』創刊号 山形大学大学院社会文化システム研究科 2005年3月31日、岩田浩太郎「山形長谷川家の商業活動―「奥羽の商都」の巨大紅花商人―」『山形大学歴史・地理・人類学論集』第9号 山形大学歴史・地理・人類学研究会 2008年3月20日
註124 「學事 第七十五 新聞紙」『明治十二年 山形縣統計表』山形縣藏板 1880
註125 『掌中官員録』西村組出版局 1875年2月改正
註126 『掌中官員録』西村組出版局 1875年7月改正
註127 『官員録』西村組出版局 1875年12月改正、『福島縣職員錄 明治九年一月三十一日改』、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A09054287400「職員録・明治九年一月・職員録改(福島県)」(国立公文書館)、西村隼太郎編輯『官員録』西村組出版局 1876年2月改正、『官員録』4月21日出版御届、『官員録』4月24日出版御届、『官員録』5月30日出版御届、『官員録』6月改正、『官員録』6月23日出版御届、『官員録』8月12日出版御届、 『官員録』9月26日出版御届、『官員録』10月11日出版御届、『官員録』11月改正、『官員録』12月18日出版御届の各版
註128 鈴木秀幸「地域と生活からみた宮城浩蔵―新たな大学史活動をめざして―」『大学史資料センター事務室報告』第27集(特集 大学史資料の新活用) 明治大学史資料センター事務室 2006年3月31日
註129 鈴木秀幸「地方・学生からみた初期明治法律学校―佐々木忠蔵を中心に―」明治大学創立100周年記念事業委員会歴史編纂委員会専門委員会編『明治大学史紀要』第12号 明治大学広報課歴史編纂資料室 1994年12月22日
註130 武田和夫「武田荘三郎とその兄弟たち」『郷土館だより』No. 66 山形市郷土館 1999年9月1日
註131 宮武外骨稿 西田長寿補「刈敷広功 かりしきひろかず」『明治大正言論資料 20 明治新聞雑誌関係者略伝』みすず書房 1985
註132 川崎浩良「第一篇 搖籃時代 第三章 新聞紙の体裁 二、山形新聞第一號体裁」『山形縣新聞史話―縣政党の略史―』山形新聞社 1949
註133 小形利彦「山形新聞の記事にみる言論統制」、佐藤孝「「山形新聞」明治十年代前半における編輯長の変遷」山形県自由民権百年のつどい実行委員会編『山形県の自由民権運動』遠藤書店発行 光文堂書店発売 1982
註134 宮武外骨稿 西田長寿補「新鞆三 あたらしともぞう」『明治大正言論資料 20 明治新聞雑誌関係者略伝』みすず書房 1985
註135 諏方武骨編纂「遠藤司君(實業家)」『山形名譽鑑 上巻』諏方武骨發行 鳴時社 五十嵐太右衛門 素月晨平 大井家慶輔賣捌 1891
註136 「山形新聞社讓受」1882年11月13日約定、川崎浩良「第二篇 政黨機關紙時代 第一章 政黨と新聞 二、自由民權と山形」『山形縣新聞史話―縣政党の略史―』山形新聞社 1949所収
註137 社説「看客諸君ニ告ク」『山形新聞』1882年12月4日1面
註138 奥付『山形新聞』1883年1月4日4面
註139 社説「解停の詞」『山形新聞』1883年3月19日1面、「○謝告」同3面、雜報『朝日新聞』(大阪)1883年2月9日1面、雜報『朝日新聞』(大阪)1883年3月28日2面
註140 奥付『山形新聞』1883年4月22日4面
註141 奥付『山形新聞』1883年5月23日4面
註142 奥付『山形新聞』1883年7月4日4面
註143 諏方武骨編纂「遠藤司君(實業家)」『山形名譽鑑 上巻』諏方武骨發行 鳴時社 五十嵐太右衛門 素月晨平 大井家慶輔賣捌 1891
註144 井筒平「第五編 新聞・電波報道 第一章 新聞 第二節 混沌から自由民権運動へ―明治八年(一八七五)から明治二十二年まで― 三 『自由新聞』に対抗した『福島新聞』」福島県編『福島県史 第20巻 各論編6 文化1』福島県発行 福島県図書教材株式会社 巌南堂書店発売 1965
註145 井筒平「第五編 新聞・電波報道 第一章 新聞 第二節 混沌から自由民権運動へ―明治八年(一八七五)から明治二十二年まで― 四 いわゆる「福島事件」の背景」福島県編『福島県史 第20巻 各論編6 文化1』福島県発行 福島県図書教材株式会社 巌南堂書店発売 1965
註146 すべて国立国会図書館蔵
註147 奥付『福嶋新聞』1892年12月1日4面、6面
註148 草莽山人序 千葉一郎編纂『自明治十五年七月 至同廿一年五月 福島縣取締規則類集 附關係諸達書』福島活版舍 1888奥付

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