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魯迅と日暮里(62)南波登発の「亞細亞」への視線(37)栗村寛亮の死まで KURIMURA Kwansuke: The latter half of life

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さて、時代はさかのぼる。『福島毎日新聞』が新体制になった1880年5月24日、栗村寛亮は福島毎日新聞社を無断退社し、行方不明になったことが同紙広告に載る。

「當社雇人栗村寛亮儀無斷退社行衛不相知候處當人之居所御案內の御方も有之候ハヾ郵税先拂を以て當社迄御報知被下度相當之謝禮可致候
  五月廿二日        福島新聞社」(註1)

同内容の広告は26日まで3日間にわたって掲載された。ただ25、26日の両日は「栗村寛亮」の文字が例の「深瀬」の如く大活字で植字されており、皮肉な印象を与えるとともに、経過した時間の長さを感じさせる。さらに、この尋ね人の広告は東京の『讀賣新聞』にも掲載された。(註2)『福島毎日新聞』の編集陣の改編と栗村寛亮の「失踪」には何らかの関係があるだろう。同じ民権派とはいえ、栗村寛亮は以降、自由党からは距離を置いたようにみえる。そのことと何か関係があるのかもしれない。

『福島毎日新聞』1880年5月26日

『福島毎日新聞』1880年5月26日


再び彼が登場するのは約1年後。1881年、水戸の地、『茨城日日新聞』の社説執筆者としてであり、社説「國家ノ安寧ハ制度ノ確立ニアリ」(1881年4月8日)、「國政ハ人智ニ從ハザル可カラズ」(1881年8月16日)の2本が彼によって書かれたと推測される。(註3)同年7月には、水戸政談演説会の出版部門である『茨城演説叢誌』の設立にあたり編輯長となっている。9月10日には上市裏信願寺町の劇場で演説会を行ない、栗村寛亮は「國會論者の腐敗を論ず」を講演、別に法学館を退館した宮地茂平が「地獄ノ土産」の題で教育講演を行うことが告知される。(註4)
宮地茂平は水戸法学館に所属し、3月27日の演説会(上市大工町劇場、集會條例ヲ讀ム)で中止解散を命ぜられ(註5)、4月3日「水戶警察署へ召喚され縣令代理相原少書記官より管內に於て六ケ月間公衆に對し政事に關する事項を講談論議寿るを禁止すと申渡されたり」。(註6)このため、4月17日の政談演説会では「万物盛衰ノ説」の演題で学術講演をすることが告知されたが、その前日の16日に拘留。(註7)そして9月6日、宮地茂平は水戸法学館退館を宣言していた。

「 水戶法學舘退舘廣告
小生天賦ノ自由ニ基キ本月六日决然水戶法學舘ヲ退キ水戶政談演説會ニ加入ス此段普ク四方ノ諸君ニ告ク
         水戶政談演説會
             宮 地 茂 平」(註8)

早速、水戸法学館は宮地茂平の退館を承認したことを広告する。

「僕ノ無學不才ナルヲ擯斥セラレズ當春入舘以來諸君ノ高誼優待實ニ肝銘シテ忘ル〻能ハサルナリ僕今ヤ一朝事アリ茨城縣ヲ去リ諸君ニ別ル〻ノ不幸ニ遭遇セリ僕ノ心膓將ニ寸裂セントス嘻哀哉噫哀哉然リト雖トモ【合字】磊々タル男子ノ心事ハ决シテ變化ナキナリ故ニ僕今□【次カ】茨城縣ヲ辭シ又法學舘ヲ退クト雖トモ【合字】諸君ノ熟【熱】心ニ憤【奮】發セラル〻目的ニ至テハ固ヨリ曾テ毫髮ノ差異ナキナリ故ニ僕茲ニ一言ス假令諸君ノ膝下ヲ去リ身ハ雲外万里ノ客トナルモ自由權利ノ四字决シテ忘レサルナリ僕又演説ニ討論ニ暗ニ冥々諸君ノ目的ヲ賛成裨補スルヲ望ム是レ僕ノ法學舘ニ在ルト他邦ニ遊フト直間ノ差異アレトモ【合字】蓋シ其意ハ一ナリ矣是レ間接ニモ法學舘ニ報スルノ義務ナリ今茲ニ退舘ノ期ニ際シ聊カ蕪言ヲ吐キ謹テ從來ノ思義ヲ謝ス僕紙ニ望ンデ情迫リ言縮マリテ言フ所ヲ知ラズ頓首
             宮 地 茂 平
      法學舘御中
右ノ通申出ルニ付規則第十八條ニヨリ承認ス
         東京府武蔵國荏原郡
         居木橘村平民錦一郎弟
             佐 野 謙 次 郎
         茨城縣常陸國那珂郡港村
            平民
             峯 岸 善 之 介
右兩人除名候事
           水 戶 法 學 舘 幹 事」(註9)

しかし、宮地茂平は茨城県を去ることなく、前述のとおり、水戸上市で教育講演を行うことが告知され、9月29日には演題不明であるが笠間町で演説を行ない(註10)、さらに政治演説の禁が解かれた10月8日には水戸に登場し、下市芳町演劇場で「再ヒ集會條例ヲ論ス、亡國ノ兆ハ何ゾ」との演説を行なっている。(註11)しかし、宮地茂平は円満退館というわけではなかった。退館直後、同館を相手取って「家屋并ニ附属品明渡シノ詞訟」を、同館借家所有者の代人として提訴。家主主張は、元来家屋を貸していたのは北辰社(薗部秀)であり、同社が1881年5月23日に廃社の後、6月1日に開設された法学館が継承しているという論理だった。法学館は北辰社からの転借として、明渡しの当事者ではないと主張したものの、10月27日の判決では法学館が賃貸契約の当事者であることを認定し、明渡し要求から30日を経過していることから原告主張を認めて明渡しを命令、かつ訴訟費用の償却を求めている。(註12)したがって宮地茂平が裁判を起したのは、法学館退館、水戸政談演説会入会の直後であると考えるのが妥当であろう。

一方、栗村寛亮が編集する『茨城演説叢誌』は、9月1日に見本誌を発行。10月3日には第1号が創刊されている(註13)ところが、同誌発刊後の11月12日、見本誌の発行が新聞紙条例に違反したとして罰金刑を受けている。(註14)
実は、これに先立つ1881年9月8日、「○常州水戶に某雜誌社あ里此日出版の新誌に規則通りの郵券を貼たるが驛逓局に達した里其名宛を見れば大日本國皇帝御名大君とあ里是は異奈名宛の書き樣か奈恐れ多き事奈り勿体奈き事なり抔局中にて申されたれども然りとて天皇陛下を指名志奉りたる郵書を送達寿るを得ずとの定規もなければ其儘宮内省へ送付附せらる〻よし(東京日〻新聞)」という「事件」があった。(註15)ただし、引用元とされる『東京日日新聞』の現存紙に当該記事は見出せない。また、手塚豊は記事中に現われる「某雜誌」を『茨城演説叢誌』と見る。(註16)そうだとすれば、この「事件」が引き金となって新聞紙条例の適用と罰金刑が科せられたのだと了解される。

日本政府脱管届の一件は、栗村寛亮が罰金刑を受ける直前の11月8日に勃発している。かつて裁判所配下の木っ端役人に対して抱いた怒り、今回の国家権力に対して抱いた怒り。その2つは、怒りの質においては同等なものがあったと思われる。もしくは「福島輕罪裁判所平支廳」を貫いて、日本政府を串刺しにしようとしたのであったか。

福島縣監獄本署『福島市史』より

福島縣監獄本署『福島市史』より

日本政府脱管届の件で栗村寛亮は、取下の結果無罪釈放になったと報道された。11月29日の『朝野新聞』は「○前號尓掲載せし彼の日本政府脱管届の件尓付水戶警察署へ一時拘留の末責付と奈りし栗村寛亮氏ハ去る廿一日水戶裁判所檢事尓於て罪の問ふべき所奈しとて無罪放免尓奈りたる由」(註17)、『大阪日報』によると、「○先きに日本政府脱管届を出したりし栗村寛亮氏ハ其後水戶警察本署へ拘留せられしが責付を許されて去る二十一日旅宿泉町麴屋へ下りしと該氏ハ一度右届を出せしが願下をせし故責付を許され多れども宮地茂平ハ再び出せしを以て責付を許されざる由」(註18)と報道され、翌日には同じ大阪の『朝日新聞』も「○曩きに水戶にて脱管届を出だしたるを以て拘留されたる內栗村寛亮氏ハ此比該届書を願下げたるに付責附を申付られ去る二十一日同地泉町の麴屋某へ引渡に奈りしといふ」(註19)という。キリスト教系の『七一雑報』も2週にわたって記事を打った。「○日本政府脱管届を出されたる栗村寛亮宮地茂平能兩氏ハ水戶警察署へ抅留せられ其後栗村氏ハ右届を願下せしを以て責付されたるよし」(註20)、「○彼脱管届をせられし栗村寛亮氏ハ該届を願下けしたる尓より無罪放免となり宮地茂平氏ハ去月廿五日水戶裁判所に於て改定律令第二百八十七條違制の重尓問ひ懲役百日申【草字】付られたりと」。(註21)
しかし、12月10日の『茨城日日新聞』は「何に故か土浦警察署へ拘引の上一昨日【12月8日】警察本署へ送られた里と」と報じている。(註22)また、『郵便報知新聞』による後日の報道によれば「一昨年【1881年】脱管届違制の科尓依り水戶輕罪裁判所尓て禁獄七十日に處せら連た」という。(註23)さらに『仙臺人名大辭書』では「『日本政府脱管届』なるものを內務省に提出、刑に問はれ獄に投ず」といい(註24)、野口勝一もその『日記』に「曾在水戸、明治十四年中、与土佐人宮地茂平共、出日本民籍脱除書於茨城県庁、獲罪抅獄、是実有名之事、当時余謂寛亮曰、苟脱日本民籍、則非日本人、又非外国人、故余殺子亦応莫所訴焉、彼後大悔」と記す。(註25)なお、森田美比氏の「野口勝一年譜」には「明治一四年(一八八一)/一一月八日 県下の自由民権運動家栗村寛亮・宮地茂平、日本国籍脱管願を太政大臣宛に提出。栗村を諭す。両名とも懲役一〇〇日。」とある。(註26)以上より定説とは別の事実が浮かび上がる。これらの中、かつての茨城日日新聞社社長・野口勝一の日記の記述は決定的である。栗田寛亮のそばにあって事情を熟知する立場にいた関係者の証言は重い。
栗村寛亮の懲役の事実を完全に証明するのが、1883年2月14日付『福島新聞』の次の記事である。裁判所の判決文と記事をすべて翻刻する。

「○處刑  兼て脱管届を以て世人に其名を知られたる一狂生栗村寛亮が處刑の宣告文寫を得た連バ左に掲ぐ
    公判言渡書
         宮城縣陸前國宮城郡仙臺區
         新坂通士族磐城國磐城郡北
         目村寄留代書職
                 栗 村 寛 亮

其方公訴セラレタル侮辱事件審判ヲ爲ス左ノ如シ
其方ハ曩キニ明治十四年十二月日未詳水戶輕罪裁判所ニ於テ違制ノ科ニヨリ禁獄七十日ニ處セラレタル者ナル處明治十五年十二月一日北目村鶴木亭事久野市松方ニ於テ自由演説會ヲ開キ專制ノ文化ハ與論ニ現ストノ題号ニテ一國ヲ亡シ一家ヲ覆ス皆無理非道ヨリ起ルトノ引例ニ一昨年山形縣下ニ遊ブ當時其令タリシ人本年春何レノ縣トカ此近クノ縣トカヘ轉任セシト聞キタリ云々其縣令カ縣下ヲ爲ムル如何ナル方法ヲ以テスル乎ト注目スルニ下民ヲ壓制シ無理非道ヲ縣下ニ布クト演説シタル處臨監警部ニ中止解散ヲ命セラレ尋テ懇親會ヲ開キ衆人ノ前ニ於テ前述ノ殘シト云フテ縣令ハ山形ニテ金持ノ番付ヲ拵ヘ目安トシ新築ニ寄附ヲ申付不服者アレハ直ニ捕ヘ人民困苦不少云々縣令カ左樣ナレハ下ノ官員マテ壓制極ルト云フモ可ナリ胡麻擂縣令ト唱ルフ【フル】モ可ナリト演説シタルハ白狀及臨監筆記等ニ吻合シ事實明白ナリトス而シテ其縣令ハ誰タルヲ知ラストノ辨護ハ己【已】ニ山形ニ遊ブノトキ【合字】日報社タル新聞ノ編集ニ從事シタルト云フニ至リ其縣令ノ誰タルヲ知ラサルノ理ナク不言中故ラニ福島縣令三島通庸ヲ敗付シタルモノニシテ即チ官人ノ職務ニ對シ其目前ニ非ラスシテ公然ノ演説ヲ以テ侮辱シタルハ證據充分ナリトス
右所犯刑法第百四十一條一月以上一年以下ノ重禁錮五圓以上五十圓以下ノ附加罰金ニ該ルヲ以テ重禁錮十一ケ月ニ處シ罰金三十圓ヲ附スモノナリ
 但再犯加重ハ適用セス
右于與フ撿察官ハ撿事井出亨
       福島輕罪裁判所平支廳
 明治十六年二月五日  判事  松 原 佐 久
            書記  大 坂 孫 作」(註27)

本記事を目睹したのであろう。宮武外骨は著書『府藩縣制史』に、次の如く記す。

「○宮城縣士族の栗村寛亮といふ人は、明治十五年十二月一日、福島縣磐城國磐城郡北目村の鶴木亭に於て、自由政談會を開き、其演説中に、福島縣令三島通庸【8字白丸圏点】を
  壓制極まる胡麻すり縣令なり
と侮辱したので、直ぐに臨監の警官に拘引され、永く留置の後、明治十六年
二月五日、福島輕罪裁判所平支廳に於て刑法第百四十一條の官吏侮辱罪として重禁錮十一ケ月【8字傍点】、罰金三十圓の刑に處せられた」(註28)

福島県監獄署-1882年頃『福島市史』より

福島県監獄署 1882年頃『福島市史』より

いずれにせよ、栗村寛亮は日本政府脱管届の件で1881年12月から1882年2月ないし3月まで懲役70日の刑に処せられたのは間違いなく、一旦解き放たれたのちも、1883年2月から1884年の正月までの長期間を獄中で過ごしたことになる。また、1882年12月3日の『福島新聞』には、宮地茂平が「自由平權黨」を組織していることが記事となっている。「○自由平權黨  甞て茨城縣下に於て日本脱管届を爲して世の胡廬(ものわらい)と奈りし高知縣平民宮地茂平ハ今度新に自由平權黨と云ふを團結し同志を募らんと各府縣を奔走し居る由奈るが矢張り當縣の破壞連中と同主義」(註29)自由平権懇親会のことと思われるが、気付いたので載せておく。
そして、注意しておかなければならないのは、「福島輕罪裁判所平支廳」が、例の深瀬義致が転勤を命ぜられた職場だったことである。栗村寛亮が深瀬義致を追い詰めたのか、逆に深瀬義致の張った罠に栗村寛亮が捉えられたのだろうか。

栗村寛亮が眠花粹史のペンネームで執筆した『磐城寫眞 平繁昌記』には、「記者放たれて平に來る行々長橋より貳丁目横町に到る顏色憔悴形容枯槁藝妓見て問ふて曰く先生は眠花先生にあらずや何んぞが故に斯に來る記者曰く世人皆な朴直我れ獨り惡言此頃繁昌記を著し酒席常に歌妓の振る所と爲る」とあり(註30)、著者が投獄されていたことを示唆する。さらに、野口勝一も「寛亮在磐城数年」と日記に記すため、本書の著者が『茨城日日新聞』にいた栗村寛亮であると判明する。(註31)これらの証憑から、栗村寛亮が出獄後に福島から再び平城下(現・いわき市)にやってきたことが分かる。

同書を発行した平活版所の坂本厚蔵と、新聞編集経験を積んで筆が立ち、印刷技術の知識を有した栗村寛亮の間には、一種のウィン・ウィン関係が結ばれていた。平活版所からは、1886年以降次々に栗村の編集による出版物が刊行されており、上記の『磐城寫眞 平繁昌記』もその1冊である。現物未発見・編者不明のものも含めて列挙する。

1) 栗村寛亮編輯『かなつき 證券印税規則』平活版所發賣 1886年2月21日届(註32)
2) 編者不明『証券印税規則』平活版所 1886年3月出版
3) 編者不明『福島縣違警罪』平活版所 1886年2月21日時点近日出版(註33)
4) 栗村寛亮編輯『明治十九年三月出版 一月 二月 兩月分 福島縣縣達郡達全集 第壹』平活版所發賣 1886年2月22日届
5) 栗村寛亮編輯『明治十九年四月出版 三月分 福島縣縣達郡達全集 第貳』平活版所發賣 1886年3月24日届
6) 栗村寛亮編輯『明治十九年五月出版 四月分 福島縣縣達郡達全集 第貳』平活版所發賣 1886年4月26日届
7) 栗村寛亮(眠花粹史)編輯『磐城寫眞 平繁昌記』平活版所發賣 1886年6月1日届
8) 栗村寛亮編輯『美術展覽會出品目錄』平活版所發賣 1886年10月16月届(註34)

ゴルドン型フート機(足踏み式印刷機)『いわき市史』より

ゴルドン型フート機(足踏み式印刷機)『いわき市史』より

平活版所は、1882年3月1日(註35)、「活版術修得の修業(長崎・函館)を終えた坂本厚蔵によって足踏み式印刷機(ゴルドン型フート機)が平町にもたらされ」(註36)ることにより開業された。そして、同所に栗村寛亮が身を寄せている。同所への寄寓の事実は、上記1)、4)、5)、6)、7)、8)の各書籍の奥付で確認できる。
坂本厚蔵の子孫・坂本行藏による『いわき市史』の記述によれば、「坂本厚蔵が一念発起して海路横浜に赴いたのは、明治十二【1879】年三十九歳の時であったから、すでに中年に達していた。坂本家は袋屋といって代々荒物を販売し、安藤侯にも出入りを許されていた旧家であったから、これにはなにか深い事情があったのかもしれない。/彼は横浜でかずかずの外国からの輸入品を見たが、その中でもっとも注意を惹いたのは印刷機であった。これで彼の将来はきまった。その後は印刷の技術を長崎・函館で修得することに専念し、三年ほどの間になんとか一人立ちできるほどになったので、彼は技術者栗村寛了を伴い平に帰り、平活版所を開業した。/当時の印刷機は、足踏みの幼稚なものであったが、この新しい職業は町の大評判になった。初めのうちは広告用のチラシなどを印刷していたが、折りからの文明開化とマッチしたのか、次第に注文も増加し、弟子入りを希望する者も出て来て、平活版所の基礎は日一日と固まっていった。」といきいきと叙述される。(註37)ここで「栗村寛了」とあるのは「栗村寛亮」であろう。すなわち、日本政府脱管届提出の「罪」で70日間の獄中生活を終えた栗村寛亮が、平活版所に身を寄せたことを意味しよう。なお、『いわき市史』はこの平活版所で印刷されている。(註38)

ここに別の証言がある。以下の情報も坂本行蔵からの聴取によったと思われる。

「厚蔵は船で横浜港に着き、そこで直接外国から輸入されてくる新しいものをみたが、その中でもっとも心をひかれたのは、活版印刷だった。平地方にはもちろん、日本でもまだ少なかった活版に、将来性があることを見抜いた。これで家運再興をはかろうと決心した。そのうちに知り合ったのが、西村寛了という印刷技術者だった。しかし平にもどって、開業するわけにはいかない。たまたま西村が北海道凾館の印刷所に招かれることになったので、厚蔵もいっしょに凾館に渡り、働きながら技術を習得することになった。文字通り40の手習いだった。
西村寛了は若いころ長崎に住み、本木昌造のもとで、わが国に伝えられてまもない活版印刷技術を勉強した。当時の数少ない技術者のひとりで、凾館でも先生格だった。厚蔵は熱心に指導をうけながら、しばらく凾館にふみとどまるつもりだったが、平の坂本家は荘太郎の浪費につづく厚蔵の出奔で、日常生活にもこと欠くほど困りはてていた。家からは早くもどって、商売をやるようにとの催促だったので、3年ほどいて、なんとか印刷業を開業できるメドがつくと、栗村を伴って平に帰った。
こうして平活版所は発足した。機械はもちろん初期の足踏み印刷機だったが、平ではじめての活版印刷は、地方民の間ではたいへんな評判になった。はじめはチラシなどを刷っていたが、しだいに注文もふえ、弟子入りを希望するものも少なくなかった。資金をやりくりしての開業だったが、栗村の指導もあり、苦心経営のすえ、どうやら商売としての将来の見込みがつき、いよいよこれからという明治26【1893】年、厚蔵は53歳で死んだ。」(註39)

本木昌造-内田久一撮影『贈從五位本木昌造先生略傳』国会図書館蔵より

本木昌造-内田久一撮影『贈從五位本木昌造先生略傳』国会図書館蔵より

文章の最初には「西村寛了」とあるが、後段では「栗村」となっている。坂本行藏の記述と同じく、栗村寛亮のことであろう。そして本記述によれば、栗村寛亮は若い時に長崎の本木昌造の下で活版技術を学んだということになる。
日本における活版印刷は、1590年、天正遣欧少年使節に随行したコンスタンティノ・ドラード(Constantino Dourado、日本人だが原名不明)によって持ち帰られたグーテンベルク式印刷機と活字一式が島原・加津佐のコレジヨに設置され、いわゆるキリシタン版の書籍が出版されることによって始まった。しかし、キリシタン弾圧によって印刷機はマカオに移転する。(註40)また、豊臣秀吉の朝鮮侵略で略奪した銅活字(註41)によって印刷された古活字本も存在したが衰頽、近世後期に木活字版にとってかわられていた。(註42)

日本における近代的印刷は、本木昌造によってその技術体系が確立する。阿蘭陀通詞を勤めた本木昌造はマシュー・ペリー(Matthew Calbraith Perry)来航の際に日米和親条約調印にも立ち会っており、その後長崎につくられた海軍伝習所や長崎製鉄所のスタッフとなり、西洋のテクノロジーを習得するパイオニアの1人であった。日本語の活版印刷を可能にしたのは、複雑な日本語文字の活字の鋳造技術である。本技術は伝統的に電胎法と呼ばれ、ダニエル電池の原理を利用したものである。活字の原型(種字)に蜜蠟を流して作成した母型に導電処理を施し、硫酸銅溶液を満たした電解槽を用意、槽内に沈められた希硫酸を入れた素焼の筒に挿入した亜鉛棒を以て陽極とし、槽の金属板と電導体で結んだ母型を入れる。本装置によって内部起電力が発生し、陰極となる母型の表面に電解銅が集積され、活字生産が可能な母型(ガラハ)が製造される。(註43)これは中国で活版印刷を開始したアメリカ長老会系の上海美華書館(The American Presbyterian Mission Press)館長でアイルランド系アメリカ人・ウィリアム・ギャンブル(William Gamble、漢名・姜別利)によって開発された方法であり、本木昌造はオランダ系アメリカ人でアメリカ・オランダ改革派教会宣教師・グイド・フルベッキ(Guido Hermann Fridolin Verbeck (born Verbeek))の援助を得て、ウィリアム・ギャンブルの招聘に成功、中国で成立した漢字活字製造の技術移転を果した。(註44)

「此【明治2】年二月【1869年3‐4月】【本木昌造】君同志の人と謀り同地新町尓新街私塾といへるを開けり其を如何にといふに今斯く日を逐ひて外國との交際盛んに赴けるに只漢學のみを修めて目下有用の學を修めざるより君ハ太(いた)くこれを憂ひ斯くてハ後日に悔ゆべしとて良き教師を聘し實用を主としたる至善の學則を立て讀書、習字、數学、洋學の四科を兼ね學べる學塾を興しけり然(さ)れば是れより少年子弟の入學する者日々に多く暫時にして盛大なる塾とハなれり然る尓此塾ハ素と義塾の主意より出でしなれば束修或るハ月謝、塾費等を取立ることなきものから年中の入費ハ一千餘圓にも上りけるゆゑ僅少(さヽい)奈る資金にてハ維持(もちこた)ゆること難かりしを年來思立てる活字製造の業を起し此利益の中をもて塾費を支え愈々盛んなる塾となしけるとぞ」(註45)

「此塾が設けられてから、入學する少年子弟は、日日夥しく、恰も蟻の甘きに就く如しであつた、初は長州藩の屋敷を買受けて、これに當てたが、狹隘なので、又隣なる小倉藩の屋敷をも買受け、合併して追々盛大なる私塾となつた」。(註46)

築地活版製造所『東京盛閣図録』国会図書館蔵より

築地活版製造所『東京盛閣圖錄』国会図書館蔵より

こうして開かれた新街私塾に参集した若者は新学問の洗礼を受けると同時に、近代活版技術の知識を得て旅立っていくことになる。「本木はもともと、活字と活字版印刷術を、ひろく一般に解放する意志はなく、「新街私塾」一門のあいだにのみ伝授して、一般には秘匿する意図をもっていた。そのことは、『大阪印刷界 第32号 本木号』(大阪印刷界社 明治45年)、『本木昌造伝』(島屋政一 朗文堂 2001年)などの諸記録にみるところである。」(註47)ただし、『大阪印刷界 第32号 本木号』大阪印刷界社 1912年6月は大阪府立中之島図書館以外に収蔵がなく未見だが、『本木昌造伝』には「本木昌造には活版印刷事業についての秘密ということはひとつもなかった。むしろ一刻もはやく全国に活版印刷技術をひろめたいというのが本木昌造の念願だったから、いつもみずからが完成させた活字版製造法と印刷の技術を習得したいと希望するものには喜んで教授した。」とある。(註48)
いずれにせよ本木チルドレンは、大坂、京都、横浜、東京に活字製造所を設立し、大学(現・文部科学省)や印刷局に活版所を作る。(註49)それらが起点となり、『東京日日新聞』の日報社、『讀賣新聞』の日就社をはじめとする新聞社が陸続と誕生することになる。
福島活版所、仙臺活版舍、山形縣活版社、平活版所においても事情はかわらない。福島活版所と築地活版製造所の系譜をより如実に語るのは、福島活版所の広告に使用されているヴィネット(花形活字)である。その図柄は、築地活版製造所で好んで使用されたものであり(註50)、東京築地活版製造所の活版見本(1903年)に見える「各種電氣銅版」No. 4039-40である。(註51)これにより福島活版所が築地活版製造所から印刷機械と活字を購入したことが分かり、技術者やノウハウも導入したであろうことも判明する。また、1880年に栗村寛亮が福島新聞社を出奔した時に、『讀賣新聞』に失踪広告が掲載されていたことを思い起こせば、栗村寛亮が向かったのは東京方面ではなかったか。その後、坂本厚蔵とともに北海道の函館に渡り、1881年に水戸にやって来たということになる。函館には、1876年、伊藤鋳之助の興した函館活版舎がほぼ唯一の活版印刷所として存在し、翌年に改組されて北溟社となっている。同社は1878年に『函館新聞』を創刊するが、翌年、年末の大火で全焼する。

福島活版社広告『福嶋新聞』1879年3月1日

福島活版社広告『福嶋新聞』1879年3月1日

1879年12月6日、「午後8時半頃,堀江町(現 末広町)から出火して,堀江町,天神町,地蔵町,船見町,船場町、 駒止町,内澗町,台町,東浜町,山背泊町,仲浜町,元町,大町,会所町,富岡町,上大工町,松蔭町,下大工町,愛宕町,茶屋町,山の上町,仲新町,本新町,上新町,下新町,鍛治町,芝居町、花谷町,梅ヶ枝町,常盤町,坂町,片町,神明横町の各町33箇所,2,326戸焼失した。うち,官庁,学校,寺社,会社等31を含む大被害を被った。/この火災の原因は放火(推定)で,折からの強風により火の粉は遠近に飛散して各所に飛火火災が発生し,消火不可能な状態となり未曾有の大火となった。この大火は,り災戸数が多いのみならず市内の重要部分を焼き払ったので,函館は一時ほとんど消滅した如く誠に惨状極まるものだった。」(註52)

『函館新聞』(『凾館新聞』)は12月14日、満身創痍の中、被災後初の第94号を発行する。その事情は紙面で報告されている。

「○今回の大火災尓付ては獘【弊】社も屋宇幷ひに印刷器械其他に至る迄悉皆燒失遺類無きに至りしかは早速其筋へは休業の御届を爲し且東京そ能他の新聞紙を以て當分休刊の旨を廣告したれども斯る場合に際しても新聞紙は目下必要の具なれば久しく休刊して世の便冝を鈌【缺】くに忍び寿因て非常の勉勵を以て今回青森縣下尓假分局を置き同縣青森新聞社能印刷器械を借用し編輯局をば當地に据置き當分元町傳習所附屬小學校を拜借して編輯幷ひに諸務の事務を辨じ往來者隔日刊行の處右の事情な連は當分は無定日一ケ月十回の刊行として暫く目下至急の用を辨じ不日東京よ里購求する印刷器械の着港まて豫て受客の需求を辨じ目下の必用を達せんとす庶幾くは諸觀客所乃事情を推察あ里て暫く新聞紙体裁能不全備なるを惇せられよ」(註53)

2011年の東日本大震災と津波の後、手書きの壁新聞で報道を続けた『石巻日日新聞』にも匹敵する新聞人の熱意と使命感をこの文章から感じることができるだろう。しかし、購読者の罹災、そして顧客名簿の焼失も経営に大打撃を与えたに違いない。またパトロンにして北溟社社長職をつとめる渡邊熊四郎も大打撃を受けた。

「    社  告
今度類燒の際諸帳簿類燒失致候處新聞配達先更に相知れ不申依て止を得寿居住所等記憶有之分のみ配達可仕候間若し配達漏の御方は早速御住所を御報知被成下度此段遠近之諸君に廣告仕候」(註54)

「弊店儀本月六日の火災に際して類燒仕候に付ては暫時たりとも豫て御得意樣方の御便利を缺き候儀を深く恐れ取敢ず燒失跡へ假屋を繕ひ平常の通り商賣仕候間不相替御引立の程偏に奉願上候    內澗町三十四番地
 十二月      金森店 渡邊熊四郎」(註55)

12月19日に印刷人小平金次郎の名が紙面に見えるまで、野村庸直は孤軍奮闘して新聞を発行し続ける。そして、翌年1月9日には朗報を伝える。

「   社     告
兼テ東京表ヘ注文致シタル活版諸器械幷ニ活字トモ旣ニ到達相成候ニ付不日ノ內ニ開店シ從前ノ通リ活版營業ヲ始メ公私ノ需用ニ供シ度尚開店ノ期日ニ至リ候ハヽ更ニ廣告可致候得共此段豫メ廣告候也」(註56)

1月23日には印刷機の設置がほぼ完了したことを伝える。諸情報によれば、機械設備と活字の調達に動いたのは伊藤鋳之助であったらしい。(註57)しかし、印刷機と各自一式の購入費はどのようにして用立てたのか。経営規模も大きくなく、収入も不安定だった一地方紙の予算には重荷であったに違いない。

「    社  告
一今般活版諸噐【U+5650、器】械及活字等排置方畧整頓候ニ付諸般ノ摺物等一層入念廉價ニ御引受從前之通リ公私ノ需用ニ應シ度此段愛顧諸君ニ廣告ス
一本社新聞紙從前隔日刊行ノ處舊冬類燒ノ砌毎月拾回ニ相改メ尚又今般六回ニ改候ニ付テハ遠カラス再ビ隔日刊行ニ復シ候迄當分ノ內新聞紙代價ノ儀ハ矢張從前ノ如ク据置月數ニ不拘拾五枚ヲ以テ一ケ月分ト見做シ計筭【U+7B6D、算】致候間此段看官諸君ニ廣告ス
            北  溟  社」(註58)

2月25日、従来青森新聞社に依頼していた4号の大文字の、やたら変体仮名の多い旧活字による印刷は終了し、自社印刷に移行する。ただし、広告を含む第4面だけは通常の5号の活字で組まれていた。貴重な収入源であり、従来の情報量を確保したかったからだろう。

「○本紙も是迄は器械等不全備のため止を得ず大文字を用ゐたれば書きたい事も十分に載盡せ寿゛遺憾ながらも沒書に付したる種も少な可ら寿゛諸看官より度々のお叱りを頂戴しましたが未だ器械等も十分には揃ひ申さねど一層勉強を致し今日の新聞より以前の通小文字に改め又不日より發兌數をも増します可ら相變ら寿゛五愛覽のほどを願ひ上候」(註59)

しかし、努力もここまで。大火災後の出版を1人で支えていた野村庸直は筆禍事件に見舞われ(註60)、裁判所に呼び出され(註61)、この後、2月25日まで新聞は停刊する。筆禍の中傷事件の対象であった1人は、ほかならぬ札幌の石川正蔵(正叟)であった。(註62)

「    社  告
一客冬本港火災ノ際敝社幷ニ舊社長渡邊熊四郎商店トモ類燒致候ニ付同人ハ將來商業事務繁劇ニ付社任ヲ辭シ今回更ニ山本忠禮ヲ入レテ社長ノ任ヲ委托セリ此段廣告致候
一敝社新聞ノ儀從前直ニ配達致來候處這回修文堂及西川町三番五ノ地愛新軒ノ兩家ヘ賣捌方及函館市街ニ限リ配達方トモ爲致候ニ付自今敝社ニ關係ナク兩家ヘ御申入被下不相變御愛顧蒙リ度此段江湖諸君ヘ謹告ス

但シ函館市街ノ外ハ從前ノ通リ當社ヨリ直配達可致候得共自今総テ前金ヲ申受若シ右期日相切レ候トモ引續前金御廻シ無之節ハ逓送方見合可申候

一敝社火災に遭遇ノ際諸帳簿類悉ク燒失候ヨリ御看客中前金旣濟之分ニテ配達漏ニ相成候モ難斗右ハ來ル五月迄ニ前金領収ノ証書ヲ添ヘ御申入被下度候
              北  溟  社」(註63)

渡辺熊四郎-晩年の小照『初代渡邊孝平傳』国会図書館蔵より

渡辺熊四郎 晩年の小照『初代渡邊孝平傳』国会図書館蔵より

こうして『函館新聞』は復刊を果たすが、山本忠礼が社長を務めることになった。公的な届出は遅く、「十三【1880】年三月九日、社長の渡辺熊四郎から「今般示談ノ上、山本忠礼譲受候ニ付、此段御届申上候」(前掲「諸願届書」)という届書が内務省宛てに提出され、社長が山本忠礼に交代したのである。内務省の許可を得たのは六月十一日だが、忠礼は“届”が提出された三月から社長としての仕事を始めていた。」(註64)新社長は、代言人の資格を持つ函館自由党の猛将にして北海道自由民権運動中屈指の闘士であった。
山本忠礼は、高松藩士山本畑衛門の長男として(註65)1853年6月11日(嘉永6年5月5日)生れ、愛媛県讃岐国高松の士族であり、1890年の著書に示された住所は「香川縣香川郡高松外磨屋町三十七番屋敷」とある。(註66)1875年、名東県に出仕、翌年司法省に転じ、函館裁判所に配属された。(註67)1878年に代言人試験に合格、7月17日、一諾舎を開業する。(註68)これは、函館の地にもぐりの「三百代言」が横行したことへの対抗策として渡辺熊四郎が発案し、裁判所の久保秀景判事が人選したものであった。(註69)
彼が函館に着いた当時、椋園赤松渡が寄せた漢詩が残る。

「 寄山本忠禮在凾舘
一朝分手即參商 只望平安書幾行 偉業期心存宿志 專精報國是剛膓 危樓影聳空洋月 寒析聲高殘夜霜 水複山重勞遠夢 五千里外路茫茫」(註70)

椋園赤松渡は、高松藩侍医渡辺立斎の子に生れ、のち本姓赤松に復す。高松藩少参事、会計検査院吏員などを経て、1890年に高松市初代市長となった。また、『萍水相逢』の序を書いたのは、清国駐神戸理事府理事の廖錫恩である。(註71)旧幕時代以来の日中間の友誼が伺われる。

山本忠礼は1880年3月24日から社説を執筆、第1弾は「國會論」(註72)、第2弾は野村庸直の筆禍の対象となった仏教界の腐敗の件だったが(註73)、その後「郡區長ノ集會」(註74)、「驗屍官ノ心得」(註75)、「北海道民會論」(註76)、「開拓政務ノ約束」(註77)、「開拓政談」(註78)と植民地北海道に密着した地方自治の確立を訴える論説を次々に公表する。彼の標榜した「民會」はアメリカ植民地におけるタウン・ミーティング(Town Meeting)と同義のものだったろう。ただし、伊藤鋳之助は「併し聽いて見れば新聞も一種の事業、顧客から憎まれては勘定が立たなくなる正義だ黨論だと言つて無鐵砲な議論を振りまはし、誤つて見當違ひの議論をして信用を失ふやうでは主張も通らす勘定も立たぬといふのであつた」という。(註79)

しかし、「被災復興後の新たなる活動を開始した山本忠礼の北溟社も、経営面では大きな問題を抱えていた。大火後の物価高騰の中で「公益」を旨とし印刷代の値上げもしない北溟社の運営は、株主一同より月々出される資金によってなされていた。しかし株主ら自らも被災し分担金を出すのが困難となり、ついに十三【1880】年九月、函館支庁に相当の抵当物を出し、三〇〇〇円無利息五か年賦の資金拝借を願い出た(明治十四年「親展文移録」道文蔵)。北溟社の印刷技術を認め、株主も「当港屈指ノ人物ニテ最モ信ヲ置クニ足ルモノ」で「相当ノ抵当物モ差出候儀ニ付、夫是事情御汲置、願意採用」して欲しいという函館支庁に対し、東京出張所からは翌十四年二月になって「本年ハ定額満期ノ事故…何分繰合ノ道無之…月々何程ツヽ歟ノ補助金ヲ与ヘ」るようにしてはという返事が来た(同前)。/こうして拝借金の結論も出ないうちの十四【1881】年一月二十六日の函館新聞に突然「当社々長山本忠礼儀、今般営業ノ都合ニヨリ社人ヲ辞シ、更ニ当社従来ノ印刷人伊藤鋳之助譲受ケ、現今其旨内務省ヘ出願中ニ候得共、爾来当社ノ事業ハ勿論貸借上トモ一切伊藤ニ於テ負担候間、不相変御愛顧アランコトヲ祈ル」という社告が掲載された。再び社長の交代が行われたのである。被災後の機械の購入や新社屋の建築など復興に伴う費用がかさみ、経営困難の責任をとって山本忠礼が社長を退任、同時に創立以来の株主による結社組織も解散し、社の財産すべてを北溟社開設の功労者であり開設当時からの印刷人である伊藤鋳之助に譲渡し、鋳之助が社長となったのである(「函館県(雑記)」『北海道史編纂史料』北大蔵、明治十三年度「函館商况」道文蔵)。」(註80)

明治7年函館製造レンガ

明治7年函館製造レンガ

退任した山本忠礼は「知人に資本を借りて末廣町に店舗を開き罐詰菓子類を販賣す時に集會に出席して演説等をなすことあり、仝【1881】年八月開拓使官有物拂下の事あるや本道に於て最初に反對の聲を揚げたるは凾館の豪商等にして、其主唱者は實に忠禮なり」。(註81)菓子屋の屋号は六花亭ならぬ六花堂であった。(註82)六花は、無論雪の結晶を意味していよう。

当時の山本忠礼の様子については、矢田績が記録している。1881年9月、彼は福沢諭吉から「大いに拂下反對の氣焰を上げよ」との指令を受け、高木喜一郎とともに渡道。函館で払下げ反対の政治集会に参加する。2人は初めて着る洋服を身につけ、金時計を懐に意気揚々と出発する。いずれも借り物であった。

「▲函舘へ着して見ると開拓使拂下問題で當地の人々は大激昻大混亂で鼎の沸くが如きである、其際我我義塾出身の青年辨士が二人乘込んで來たのだから、人氣はすばらしいいもので非常な前景氣である【、】當時我々の爲めに周旋して吳れた有志者も隨分多かつたが、山本忠禮と云ふ辨護士(當時は代言人)が最も主として盡力し、愈々劇場を借入れて政談演説會を開いたが、何が扨一大時事問題であるから滿場忽ち立錐の餘地無き程の大入りで余は「之れを將來に防ぐの道如何」と題して演説したが之れとは無論開拓使拂下問題を指すので、斯る不祥事を防ぐには、是非共速かに國會を開設せねばならぬとの趣意を述べたのである、此演説會開會について凾舘の三菱會者支配人以下が大に周旋し吳れたのは大なる意味ある事で、三菱は當時北海道航路を營業して居り若し開拓使がその物件權利を政商五代に拂下ぐる時は三菱は忽ち其營業區域を侵さる〻の恐れがあるので、扨こそ我我の如き拂下反對の演説者に對し三菱が大いに便利を與へ周旋をしたのである、我々は福澤先生から命ぜられて出掛けたのであるが實は其旅費抔は三菱から支出したのであつた
▲斯くの如く凾館の三菱が我々の爲めに周旋して吳れたと同時に、東京三菱からも特に二三の若手社員を凾館へ派遣した、其社員の顏觸れは今の子爵加藤高明君、久しく郵船會社の重役で明治製糖會社社長であつた小川䤡【U+4921、金+冉】吉君、幸徳秋水事件に座して死刑に處せられた奧宮健之君であつた、當時加藤子爵は帝大卒業のホヤ〱で、年齡は廿二歲漸く三菱會社へ近頃這入つたところ年少氣鋭、當るべからざるの勢ひであつた、小川君は巳【已】に稍老練の風はあつたが奧宮と來ては土佐の學生、其風采其言語純然たる壯士風であつた、此三人は特に開拓使問題視察として派出されたのであるが、當時三菱の內規として社員は一切公開演説に出演するを禁じてあつたから此三人も無論演説をやる譯には行かない、しかし此大問題、此物論に對して何か氣焰を上げたくて堪らないが致し方は無い、ソコで我々が出演する芝居小屋の樂屋へ三人が來て脾肉の嘆に堪へず、奧宮の如きは內規を破つて壇上に飛び出しそうな勢ひであつた」(註83)

栗村寛亮の失踪時期は、山本忠礼が『函館新聞』を主宰していた時期とほぼ重なり、その社長退任の直後に栗村寛亮が水戸に登場したことになる。問題となる栗村寛亮の在籍の事実は明確には証明できないが、同紙に次のような記事を認めることができる。

「○弊社新聞の賣捌所なる福山の佐々木與兵衛氏は父子とも先頃(せんころ)より出京中なるが今度築地の活版製造所平野【富二】より活版噐【U+5650、器】械一挺と活字五万個餘を購ひ來り自宅に於て活版業を開可んとて同氏の息子を平野へ入れ該業を習はせる積りにて旣に其手配も齊ひたりと在京の社員より申し越せり」(註84)

伊藤鑄之助『函館市功勞者小傳』国会図書館蔵より

伊藤鑄之助『函館市功勞者小傳』国会図書館蔵より

この人物の名前こそ明らかにされていないものの、築地活版製造所と関係の深い函館新聞社の社員がこの時点で東京にいたことが判明する。あるいは1879年12月14日から1880年3月18日まで印刷人を交替していた伊藤鋳之助であるかもしれないが、日付が遅れるため、栗村寛亮や坂本厚蔵である可能性も残る。印刷技術の地方への普及にあたっては、新聞雑誌を中心とする新たなメディアの勃興が重要な契機となったが、近代初期にあっては府県庁からの諸達の印刷という新需要があり、各府県庁による活版印刷施設の設置が大きな推進力となった。それらの施設が民間印刷所に貸与され、やがて新聞の発行と通達、府県報の印刷発行の民間委託へと移行する。ただし、それら新興新聞は手放しの経営であったわけではない。北海道において「法令・布達の掲載や、官庁の買上げ、印刷の委託など、官庁依存の新聞として出発するのが普通で」(註85)、新聞報道を規制する諸法令により監視、検閲、発刊停止にも及ぶ権力的統制の手綱が府県庁当局によって握られていたのである。
『函館新聞』もまた函館区庁によって購入された印刷機械、活字一式を民間に貸与したことでスタートを切り、山本忠礼が社長に就任するや、北海道民の政治的意見を発表するオピニオン紙として成立する。新聞の印刷発行にあたっては印刷技術に習熟した技術者の招聘、配属が必須であったが、当時の日本における技術者総数は決して多くはない。築地活版製造所をはじめ、本木昌造の門流に属する技術者がその大部分を占めていた。栗村寛亮や坂本厚蔵ら印刷技能に習熟する人物が同製造所の周囲におり、印刷機器セールスや技術者の斡旋に関与していたと考えることは十分に可能で、リクルート条件によっては自らが赴くこともあったとするのは、あながち無理な想像ではない。

坂本行蔵の証言から、栗村寛亮が『函館新聞』に在籍したとすれば、彼らは山本忠礼の下で激烈な自由民主主義の洗礼を受けることになったであろう。そして、当時の平城下においても自由民権運動は活発に展開されていた。実家の困窮が直接的な帰郷の理由であったにしても、平活版所が新たな言論機関のための印刷を行うことも想定の内にあったと推察される。それを証明するように、栗村寛亮は自由演説会で政治演説を打っている。
1882年12月1日、先にも触れた通り、栗村寛亮は「磐城國磐前郡北目村の鶴木亭に於て自由演説會を開き三島福島縣令を壓制極る胡麻摺縣令なりと侮辱せし科尓依り福島輕罪裁判所平支廳に於て去る【1883年2月】五日重禁錮十一ケ月罰金三十圓尓處せられたり」。(註86)北目村は平城下を構成する4か村の1つである。(註87)いずれにせよ、この官吏侮辱事件により1884年はじめまで入獄したことになる。

1884年10月1日、平警察署により栗原寛亮は再び拘引される。8日付の『自由新聞』によれば以下の通り報道されている。

「○拘引 福島縣三春の安積三郎氏尓ハ一昨年福島事件尓關して風雪の中尓永らく起居せられし爲め「リーマチス」病尓惱まされ今尓楢葉郡折木村の温泉へ入浴なし居られし處去る一日磐前郡平警察署より探偵二名巡査一名俄然其旅宿尓闖入し來りて拘引せられ其外同縣下四ツ倉の川口元海氏平驛寄留の栗村寛亮氏(脱管届尓て有名の人)も同日拘引せられたりと云ふ聞く處尓拠れば同氏等の拘引ハ茨城暴動の嫌疑奈らんと尚ほ探訪の上報道すべし云々と該地よりの通信尓見ゆ」(註88)

すなわち、加波山事件関係者の嫌疑を受けての拘束である。しかし、その名はこれ以降見ることができず、「加波山事件関係人名表」にも載らない。(註89)次も『自由新聞』の関連記事であるが栗村寛亮についての詳報はない。

「○三春通信 加波山暴徒河野廣体尓關係の嫌疑事件とか尓て去る十一日三春町の自由黨員松本宮治三輪正治佐久間正織の三氏三春分署へ拘引の上更尓郡山本署へ護送尓相成當時も尚ほ拘束中奈り又安積三郎氏尓ハ何かの所用ありて平驛尓出張奈し居りし尓不意尓平警察署へ拘引せられ汝ハ山口守太郎栗原足五郎等へ旋費を與へしならんとの尋問を蒙りし尓同氏ハ全く以て存ぜぬとの即答尓及しより一旦放免なりしが又々此の五六日前尓拘引となれりと尚ほ聞く所尓據れバ平驛有志者二三名中學生五六名も同樣に拘引せらる而して彼の先般若松裁判へ廻されたる三輪新左衛門氏ハ此程漸く責付の身と奈りたる由。」(註90)

栗村寛亮の平活版所での旺盛な出版活動は、この事件後の1886年のことになる。一見無味乾燥な『かなつき 証券印税規則』の跋を見れば、「今回此印税規則を出版するものは豈に徒爾にして之を爲さんや凡そ法律規則なるものは誰れ人と雖も常に之を心得相遵奉するなくんば識らず知らず自ら其本分を誤るに至らん故に感慨の余り此出版を爲す看客諸君夫れ之を諒し玉へ」とある。(註91)法律に詳しく、法に抵抗し、しかしながら法に屈した彼の半生を思うとき、われわれもまた「感慨の余り」読まざるを得ない。
そして、栗村寛亮が『磐城寫眞 平繁昌記』を執筆した際のペンネーム「眠花」を号とした人物に、彼と同じ宮城県士族の眠花情史・草刈源吾がいる。(註92)その寄留先(山形七日町五十五番地)は『山形新聞』の版元である3代長谷川吉郎治(直則)の開明社(山形七日町五十四番地)の隣地である。『山形縣所得納税者一覽』に七日町の五十嵐太右衛門、草刈源助が並んで載る。(註93)あるいは同一人物であろうか。同書の印刷は旧山形県活版社の遠藤活版社(遠藤時助、元福島新聞社主)、編者・出版人は八文字屋の五十嵐太右衛門である。八文字屋は、「紅花商を営む初代五十嵐太右衛門の後を継いだ二代目が、上方との商いを通じて、 浮世草子を山形の地に持ち帰ったことから」始まり、今なお書店チェーンとして存続する。(註94)あるいは、栗村寛亮は彼の号を引き継いだのかもしれない。

3代長谷川吉郎治(直則)『改進新聞』1890年10月1日附録による

3代長谷川吉郎治(直則)『改進新聞』1890年10月1日附録による

さらに時代が下がって、眠花道人・旗軒飯田旗郎という人物がいる。飯田旗郎は、1866年江戸両国生れ、ベルギーに渡航してアンヴェルス高等商業学校(Institut supérieur de commerce d’Anvers)を卒業、西園寺公望とも交友を結び、帰国した1891年から2年間日本銀行で働き、のち横浜正金銀行に入行するかたわら硯友社社員として文学作品を執筆。ピエール・ロティ(Pierre Loti、本名Louis Marie-Julien Viaud)、エミール・ゾラ(Émile François Zola)の作品を翻訳、日本への紹介者となった。ピエール・ロティの「江戸の舞蹈會」を「戯譯」した際に使用された号が「眠花道人」である。(註95)その後の栗村寛亮の経歴と考え合わせて興味深い。なお、アンヴェルス(Anvers)はベルギー北部・アントヴェルペン(Antwerpen)のベルジシスム(ベルギーにおけるワロン語の影響を受けたフランス語(オイル語)の変異)読みで(註96)、日本では英語読みのアントワープ(Antwerp)で知られる。アンヴェルス高等商業学校は東京高等商業学校(現・国立大学法人一橋大学)の目標とされた学校であり(註97)、のちに三井物産の御曹司・太郎冠者益田太郎が入学することとなる。(註98)

この後、「栗村寛亮」名義の出版物に『銀行要鑑』(1890)がある。住所は「東京市麴町區一番町二十七番地」とある。(註99)同書に序を寄せる野口勝一は「珂北 野口勝一」と署名する。「珂北」は茨城県の北部3郡を指し示す地域名であり、「珂北」を号とする「珂北 野口勝一」は、元茨城日日新聞社社長で後に自由党から出馬し、3期にわたり衆議院議員を努めた野口勝一にほかならない。その序文には「余曾知栗村子。好學孳々不倦。處事謹恪。能有順序。」と記されるため(註100)、同書の著者が茨城日日新聞に在籍した栗村寛亮その人であると分かる。また、野口勝一の『日記』には、1889年12月7日に「栗村寛亮来」「今在日本銀行、此日来訪」と記す。さらに同月30日には、「起草○為栗村寛亮、為銀行要鑑序」と書いており(註101)、『銀行要鑑』の序文には「栗村寛亮子久居日本銀行」と書いているため(註102)、軌道に乗った平活版所での活動を終えてすぐ日本銀行に入ったと思われる。野口勝一は『風俗画報』、『新撰東京名所図会』のプランナ、エディタとしても知られ、この後も栗村寛亮との交友関係は続いた。(註103)
また、いま1人序を寄せる荒井泰治(註104)は仙台出身で、中江兆民の仏学塾を出たのち、『東京横浜毎日新聞』記者、『大阪新報』編集長を経て、改進党書記長をつとめた自由民権運動家である。1886年、日本銀行に入り、第2代総裁・富田鉄之助の秘書となる。富田鉄之助も仙台藩の出身で、1856年江戸に出て砲術を学び、勝海舟の門に入った人物である。1867年、勝海舟の子・勝小鹿とともに渡米、W. C. ホィトニー(William Cogswell Whitney)の主宰するブライアント・ストラットン・アンド・ホィトニー・ビジネス・カレッジ(Bryant,Stratton & Whitney Business College)に入学。荒井泰治は、帰国後に開設した商法講習所教授としてW. C. ホィトニーを招聘している。(註105)すなわち、われわれがすでに見たクララ・ホィトニー(Clara Alma Norton Whitney)及びウィリス・ホィトニー(Willis Norton Whitney)医師の父である。そして、荒井泰治が抜擢されたのと同様、仙台人の人脈を通じて栗村寛亮も日銀入りしたと考えられる。富田鉄之助が松方正義と対立、罷免されることになり、荒井泰治は日銀を退職して1890年鐘淵紡績支配人、1894年東京商品取引所常務理事、1897年富士紡績の支配人、1900年サミュエル商会(Samuel Samuel & Co. 現・Royal Dutch Shell plc)台北支店長として台湾に渡り、ここでも仙台藩出身の後藤新平に協力して塩水港精糖を起業、台湾商工銀行頭取、台湾肥料社長などを歴任した。(註106)
『銀行要鑑』においても「盖シ金錢ノ經濟世界ニ於ケル恰モ血液ノ身体ニ於ケルガ如ク流通循環シテ休止スルヿナシ其分配ノ職ニ當レル銀行者ハ則チ此錯綜混交スル事實ニ對シ充分精覈ナル判斷力ヲ涵養セザル可カラザル固ヨリ論ヲ竢タス」(註107)「此書ハ余カ執務ノ際自ラ不便ヲ感シ常ニ參照ノ用ニ充テタルモノニシテ自ラ其益ヲ得タルヿ多シ因テ同感者ニ此益ヲ分タント欲シ之ヲ印刷ス」(註108)と述べており、法律への執着がうかがわれる。

鹽水港製糖會社『臺灣寫眞帖』国会図書館蔵より

鹽水港製糖會社『臺灣寫眞帖』国会図書館蔵より

1896年6月15日午後7時32分30秒、岩手県上閉伊郡釜石町東方沖200km、北緯39.5°、東経144°の地点を震源とするM8.2‐8.5(推定)の巨大地震が発生。遡上高海抜38.2mの記録的な津波(大海嘯)が発生、甚大な被害を与えた。7月30日の『奧羽日日新聞』には「本縣下海嘯罹災」の「救恤義捐金人名」の中に「金壹圓五拾錢仝日本橋區 栗村 寛亮」の名を認めることができる。(註109)この義捐金は『奧羽日日新聞』を発行する奥羽新聞社によって組織されたものであった。(註110)菅原道明の後任として『福島新聞』の編集者になったのは「奧羽日々の福島出張所主任記者榊時敏氏」であった。(註111)すなわちかつてのライヴァルであるのだが、すでに恩讐の時期は去っており、同紙から情報を得、故郷の惨状に幾分の力を与えたくての献金であっただろう。また、ここに記載される住所は『銀行要鑑』のそれとは一致しないが、次の書籍に接続する。

1900年、栗村寛亮の著『自明治廿九年一月 至仝三十三年六月 東京商品取引所 高低表』が出版されているが、著者名は「東京商品取引日報栗村寛亮」、住所は「東京市日本橋區濱町三丁目一番地」とある。(註112)内容は主要商品の価格変動を2次元のグラフに落としたものである。序文も同様に無味乾燥なものではあるのだが、栗村寛亮の最後の社会的発言として残しておきたい。

「      緒   言
夫レ取引所ノ要ハ受容供給ノ關係ヲ極メテ敏捷ニ極メテ圓滑ニ調和包合シ以テ市價ノ標準ヲ立テ物品ノ賣買上其平衡ヲ保テ流通ノ圓滑ヲ計ルニ緊要缺ク可ラザルノ機關タリ是レ何人モ知ラズンバアルベカラズ
東京商品取引所ハ明治廿七年十月一日ヲ以テ創立セラレ專ラ𪉩【U+2A269、鹽】、雜糓【U+7CD3、穀】、砂糖、油【、】肥料、綿糸、綿花、木綿、諸金屬、生糸、等人生日用須臾モ缺ク可カラザル重要物品ノ賣買取引ヲ實踐シ旣ニ七星霜ヲ閲シタリ其間社會經濟上又ハ商工業發達上如何ニ裨益ヲ與ヘ如何ニ利便ヲ與ヘツヽアルカハ今俄ニ之ヲ判定スルコト難シト雖モ年々歲々賣買取引シ來リタル処ノ高低ヲシテ之ヲ有形的ニ認ムル事ヲ得バ其一張一弛或ハ乱調或ハ靜調日トシテ時トシテ妙【秒】時モ止ラズ其活動シタル形况ハ宛然地球ノ回轉無窮ナルガ如シ今其形跡ヲ表出シ其一張一弛其乱調靜調トナク採ツテ以テ將來ニ鑑ミナハ斯道ニ裨補スル果シテ幾干ゾ即チ茲ニ明治廿九年一月ヨリ卅三年六月ニ至ルノ高低表ヲ表出シテ以テ同好ノ士ニ頒ツ豈ニ斯道ニ少補ナシト云フ可ケン哉
                 東京商品取引日報 栗 村 寛 亮 識」(註113)

『東京商品取引日報』紙は、「東京商品取引日報 日刊 日本橋區蠣殻町一ノ四 明文社」(註114)とあり、現存紙によれば1900年2月27日に第3種郵便物認可を受けている。1901年7月9日(646号)の発行兼印刷人は栗村寛亮、編輯人は小原凖藏となっており(註115)、1908年2月5日(2249号)の発行兼印刷人は栗村寛亮、編輯人は高橋某(活字ツブレ、達カ)である。(註116)その外に1907年10月28日(2175号)が帯封共の状態で残存する。宛名は「(磐城国白石町・渡辺義蔵様)」となっているという。(註117)富田鉄之助のラインの下にあった栗村寛亮もまた日本銀行を退職し、荒井泰治の人脈下で東京商品取引所に関係する業界紙を創業したと見てよい。

日本銀行は、中央銀行としての役割を果たすために外国為替市場や国債購入以外の市場介入をせず、商品取引市場への介入はおろか、リスキーな株式保有もしてこなかった歴史と伝統がある。しかし、現政権下「アベノミクス」と自称される自らの経済政策の「3本の矢」の1つ「異次元の金融緩和」により、今や日本の上場投資信託(ETF)市場の75%ともいわれるシェアを持ち、日本株の4%といわれる大量の株を購入保有している。しかし、期待された物価上昇の成果は上がらず、株価の急落を懸念すれば容易に株の保有量を減らすことができないというディレンマに陥っている。かつて指摘されたことのあるジャパン・リスクの増幅的再燃が見え始めている。

栗村寛亮は、『仙臺人名大辭書』によれば、没年こそ伝えないものの「赦後東京に歿す」という。すなわち、同辞書は栗村寛亮の全生涯を最もコンパクトに伝えていたことになる。ちなみに人物のジャンルは「奇人」である。(註118)

庭坂発電所『福島市史』より

庭坂発電所『福島市史』より

栗村寛亮が去ったのち、一時期『福島新聞』を主宰した菅原道明であるが、1883年には彼の拠って立っていた立憲帝政党が解党、1898年に新聞社を去る。一時はドイツ貿易の刺賀商会に勤務するが、自身を含む家族の大病の後、福島県に戻って電源開発に取り組み、1895年、営業用電気事業としては京都蹴上発電所に次ぐ国内2番目の水力発電所となる庭坂発電所を開業して福島電燈株式会社を設立、取締役支配人となった。同発電所から供給される電気は、福島町や沿線の家々を明るく照らすことになった。(註119)しかし、ここまでで良かったのだ。元来、1921年時点での福島県の「潜在的な水力開発地点の多さは,明治40年代以降顕著となる水力発電による電灯会社の開業を容易にすることを予想せしめる」状況にあった。(註120)したがって、東京圏の民生用、商業用、工業用の大電力需要に福島県が応えなければならない理由はまるっきりなかったはずだ。自分たちの生活に役立たない、東京の電力会社の設立した核発電所を受け入れた結果、故郷の一部を人間が住むことのできない場所として切り取られてしまった。

『山形新聞』を発刊した長谷川吉郎治は、緒方洪庵の適々齊塾、伊東玄朴の象先堂の門人で天童藩御展医・玄々武田直道の開いた私立病院を移転して、1873年12月、山形県立済生館を開館する。(註121)

長谷川竹葉『山形縣下名所圖會』『済生館史』より

長谷川竹葉『山形縣下名所圖會』『済生館史』より

『函館新聞』の山本忠礼は、1881年12月、開拓使払下事件への抵抗の結果、禁獄100日の刑を処せられたが、1882年6月、浅草井生村楼で開催された自由党臨時大会に参加(註122)、1883年10月、在函の民権家と北海自由党を結党して幹事に選ばれている。しかし、ただちに内紛が起ってボイコットされ、1883年12月6日退道の挨拶を残して東京へ向かう。排斥の理由は山本忠礼が「脳病」であるという理由だったという。(註123)
翌年には鉄腸末広重恭が中心となって構想された「亜細亜學舘」の創立に参与している。同学館は、「貿易ノ道ヲ講習シ兼【脚を从に作る】テ興亜ノ㫖意ニ基キ内外人ヲ論セス廣ク清國ノ言語(南北官話)ヲ教ヘ併セテ英國語學ヲ教授スルヲ目的」として構想された。(註124)
末広重恭のアジア認識は、「今日英、佛諸邦ニ行ルヽ立憲政體共和政治ノ如キ其社會ノ必要ニ應ジテ成立セシニ相違ナシ然レトモ【合字】臺灣ニ於テ立憲政體ヲ施行シ朝鮮支那ニ於テ共和政治ヲ行ハント欲スレバ一日モ國家ノ治安ヲ維持スルヲ望ム可カラザルナリ之レト同ジク東洋諸邦蒙昧ノ人民ヲ統御スルニハ獨裁壓制ノ政治ヲ必要トスルナラン」(註125)というレベルにとどまっていた。台湾に北東アジア最初の共和国ができるのはその11年後であったが、台灣民主國は日清戦争後の日本の侵略への対抗手段として建国されたものであり(註126)、「人民ヲ統御スル」ために「獨裁壓制ノ政治ヲ必要」があったのは、日本国の側だった。沖縄の現状を見る時、それは今でも変わっていないとつくづく思う。
「亜細亜學舘」プロジェクトには、福島出身の医師で政治家の鈴木万次郎も参画していた。「十七年清佛ノ戰爭福州ニ破裂スルヤ、末廣重恭氏等ト通牒シ、聊カ思フ所アルヲ以テ東洋學舘ナルモノヲ清國上海ニ設立ス、氏監督ノ任ヲ囑セラレ學生十餘名ヲ率井テ該地ニ赴ケリ、氏ノ上海ニ到ルヤ熟々同地ノ狀况ヲ視察シ、到底學生ヲ陶冶スベキノ地ニアラサルヲ悟リ、屢々書ヲ末廣氏ニ寄セ、其得策ニ非ラザルヲ説イテ止マズ、然レトモ【合字】氏等容易ニ其言ヲ信セサリシモ、後チ遂ニ動スベカラサルノ根據アルニ服シ愈々之ヲ廢スルニ至レリ」。こうして「東洋學舘」を廃止の上、改組再編したのが「亜細亜學舘」である。上記引用には続けて「已ニシテ歸朝醫院ヲ神田ニ開ケリ」とある。(註127)この医療機関が神保院である。
佐々博雄氏は、東洋学館と亜細亜学館の歴史を整理解明し、「東洋学館は清仏戦争により触発された危機感や国内情勢の変化を背景として日本で最初に海外に設立された学校であり、対支文化教育活動の具体的施設としてはその先駆をなすものといえるであろう。また、自由民権派の人々がアジア民衆と連帯を図った初めての具体的事例として、こののちの大井憲太郎の大阪事件や善隣館設立計画(玄洋社の頭山満や中江兆民が朝鮮釜山に設立せんとした日韓清語を教授する学校設立計画)、それに、日清戦争直前、朝鮮東学党の農民との連帯を図った天佑俠活動の魁をなすものとして注目に値しよう。」と結論する。(註128)
しかし、日本政府の認可が得られなかった「亜細亜學舘」は開設の同じ年に解散を決定、大隈重信の金銭援助を得て、スタッフ・学生が帰国。(註129)山本忠礼は1886年に帰郷、「愛媛縣・香川縣に奉職し【明治】二十三年九月二十七日歿す。」(註130)死因はコレラであった。(註131)

函館金森赤レンガ倉庫

函館金森赤レンガ倉庫

長崎に生れて来函し、『函館新聞』の創立社主だった渡辺熊四郎(初代渡辺孝平)は、大火の情報をキャッチするや旅行先から救恤物品の輸送を指示、帰函後は旺盛な復興活動に邁進。(註132)函館港金森の赤煉瓦倉庫を含め、函館の町のそこかしこに、彼の偉業を今なお辿ることができる。また、黒田清隆開拓使長官時代の1878年にはヴラヂヴォストク(Владивосток、旧称ᡥᠠᡳᡧᡝᠨᠸᡝᡳ、海參崴)を訪問している。(註133)1860年満洲民族の故地であった沿海州(プリモリェ、Приморье、Outer Manchuria)に位置する「本港ノ人口滿州及朝鮮人等聚散常ナキノ流民ヲ併セテ亡慮壹萬人ニ過キス而シテ其三分ノ一ハ則チ海陸兵員ニシテ其粮食被服ノ類皆給テ露都ニ仰キ復タ本港商賈ノ手ヲ假ラス」という状況であり(註134)、北海道物産の輸出が目論まれての訪問調査であった。1880年にウクライナ・オデッサ(Одеса, Україна)から義勇艦隊(Добровольный флот、UKR Добровільний флот)による定期航路の開設を見たが(註135)、「ロシアの中心部からただでさえ遠隔のアムール河口から海路2,000キロも隔たった日本海岸の過疎地における新規の港湾・都市建設は、自給困難な労働力を主として中国に(とくに山東半島からの季節労働者)、燃料炭を日本に(とくに長崎の高島炭)、食肉や燕麦を朝鮮(その北部)に依存することで、はじめて可能になった。」(註136)

最後に、わが眠花粹史・栗村寛亮が商品取引関係の新聞を創刊したのが1900年、東京商品取引所は1894年開設のため、1891年入行の眠花道人・飯田旗郎とともに日本銀行で働いたと思われる。1917年、飯田旗郎は2年間の日本銀行生活を振り返って「僕在行當時の在職員其數三百何十人の內、今日依然として在職するのは、僅かに五指を屈るのみだ、死んだ人も固よりあるが、纔に一二分を除いた九分九厘は、皆他へ移り變つて異つた生涯を行つてゐる、本當に變れば變るものである」と語る。(註137)いずれにしても、「眠花」の号は次のランナーに手渡された。飯田旗郎はその後、社会主義に急速に接近して普選運動に参加、その子・時江は加藤(加治)時次郎の養女となり(註138)、慈恵医科大学出身の耳鼻咽喉科医師・加治甚吾と結婚した。加治甚吾は、山を愛した敬虔な仏弟子である。(註139)

福島電燈株式会社旧本社『図説福島市史』より

福島電燈株式会社旧本社『図説福島市史』より

 

※ 2019年3月7日、民事判決原本データベースを利用し、宮地茂平と法学館の裁判闘争について追記しました。

 


 

註1 「廣告」『福島毎日新聞』1880年5月24日4面
註2 福島毎日新聞社広告『讀賣新聞』1880年5月28日4面
註3 西茨城郡 栗村寛「國家安寧ハ制度ノ確立ニアリ」『茨城日日新聞』1881年4月8日1‐2面、栗村寛亮「○國政ハ人智ニ從ハザル可カラズ」『茨城日日新聞』1881年8月16日1‐2面
註4 雜報『茨城日日新聞』1881年9月9日2面
註5 雜報『茨城日日新聞』1881年3月30日2面
註6 雜報『茨城日日新聞』1881年4月9日2面
註7 雜報『茨城日日新聞』1881年4月18日2面
註8 広告『茨城日日新聞』1881年9月1日4面
註9 広告『茨城日日新聞』1881年9月8日4面
註10 雜報『茨城日日新聞』1881年10月3日2面
註11 雜報『茨城日日新聞』1881年10月6日2面、「水戶政談演説會」広告『茨城日日新聞』1881年10月7日4面
註12 「明治十四年千百九十二号 水戸裁判所裁判言渡書」1881年10月27日、資料は人間文化研究機構大学共同利用機関国際日本文化研究センター民事判決原本データベースを利用(簿冊番号10500389簿冊内番号22事件番号1881年01192号)
註13 「茨城演説叢誌」広告『東京日日新聞』1881年10月4日7面
註14 雜報『茨城日日新聞』1881年10月22日2面、雜報『茨城日日新聞』1881年11月14日2-3面
註15 雜報『茨城日日新聞』1881年9月8日2面
註16 手塚豊「資料 明治十五年刑法施行直後の不敬罪事件(三)」『法學研究 法律・政治・社会』第44巻第9号 慶應義塾大学法学研究会 1971年9月15日
註17 雜報『朝野新聞』1881年11月29日1面
註18 雜報『大阪日報』1881年11月29日2面
註19 雜報『朝日新聞』(大阪)1881年11月30日1面
註20 雜報『七一雑報』1881年12月2日2面
註21 雜報『七一雑報』1881年12月9日2面
註22 雜報『茨城日日新聞』1881年12月12日2面
註23 「○處刑」『郵便報知新聞』1883年2月19日2面
註24 篁洲今泉彪監修(執筆) 任天菊田定鄉編著「クリムラ・カンスケ【栗村寛亮】」『仙臺人名大辭書』仙臺人名大辭書刊行會 1933
註25 野口勝一『日記 明治二十二年自八月 同二十四年二月 八』1889年12月7日条、北茨城市教育委員会編『北茨城市史 別巻 野口勝一日記III』北茨城市 1993による
註26 森田美比「野口勝一年譜」『野口勝一の人と生涯―明治中期の政治家・文人―』森田美比(私家版) 2003
註27 「○處刑」『福島新聞』1883年2月14日2面
註28 宮武外骨「府縣長誹謗侮辱事件 演説講談者の舌禍集」『府藩縣制史』名取書店 1941
註29 「○自由平權黨」『福島新聞』1882年12月3日3面
註30 眠花粹史(栗村寛亮)編輯「附錄 記者之嘆」『磐城寫眞 平繁昌記』平活版所 1886
註31 野口勝一『日記 明治二十二年自八月 同二十四年二月 八』1889年12月7日条、北茨城市教育委員会編『北茨城市史 別巻 野口勝一日記III』北茨城市 1993による
註32 国立国会図書館蔵
註33 以上2点は、「○平活版所出版書目」栗村寛亮編輯『かなつき 証券印税規則』平活版所 1886による
註34 以上5点は国立国会図書館蔵
註35 「沿革」坂本紙店サイト
註36 いわき市史編さん委員会編「第八章 新聞・雑誌・印刷・出版・放送 第三節 印刷」『いわき市史 第6巻 文化』いわき市 1971
註37 いわき市史編さん委員会編「第八章 新聞・雑誌・印刷・出版・放送 第三節 印刷」『いわき市史 第6巻 文化』いわき市 1971
註38 「すでに7冊をおくりだす 『いわき市史』全14巻の印刷 平活版所が全面協力」『印刷界』第305号 日本印刷新聞社 1979年4月
註39 三浦康「5. 県下印刷業界の草分け」『福島県の印刷文化史 百年の歩みと日進堂印刷所』日進堂印刷所 1965
註40 王彩芹「第2章 日本初のグーテンべルク印刷機の歴史的意義」『天草諸島の文化交渉研究』周縁の文化交渉学シリーズ2 関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS) 2011年3月31日
註41 千恵鳳「韓国の典籍 朝鮮時代の活字の種類と印本」『Koreana コリアナ 韓国の文化と芸術』Vol.6 No.2 한국국제교류재단(Korea Foundation、韓国国際交流財団) 1993年9月10日
註42 百瀬宏「第二部 活字の世界 駿河版銅活字 ―その歴史的・技術的由来の探索」、府川充男「第二部 活字の世界 小括―幕末和文鋳造活字の展相」、いずれも西野嘉章編『歴史の文字 記載・活字・活版』東京大学コレクション 3 東京大学総合研究博物館 1996所収
註43 小塚昌彦「第二部 西洋式活版印刷術 諏方神社収蔵種字による活字母型製作の技術再現プロジェクト」『印刷博物館開館三周年記念企画展「活字文明開化―本木昌造の築いた近代」図録』 凸版印刷株式会社印刷博物館 2003
註44 大槻纘八郎(梅溪生)「本木昌造先生傳」『活版術楷梯』清文堂活版所 1902、鈴木淳「第一部 長崎からの維新、そして開化 長崎から始まった文明開化」『印刷博物館開館三周年記念企画展「活字文明開化―本木昌造の築いた近代」図録』 凸版印刷株式会社印刷博物館 2003、後藤吉郎 森啓 横溝健志「William Gambleの生涯 アメリカ議会図書館におけるW. Gamble Collectionの調査」『第55回 デザイン学研究 研究発表大会概要集』日本デザイン学会 2008年6月20日
註45 篠田正作(城南)「本木昌造君」『實業立志日本新豪傑傳』偉業館 1892
註46 大槻纘八郎(梅溪生)「本木昌造先生傳」『活版術楷梯』清文堂活版所 1902
註47 「平野富二と活字*10 渺渺たる大海原へ―長崎港と平野富二の夢、そして注目してほしい出版人・安中半三郎のこと」朗文堂webサイト内タイポグラフィ・ブログロール『花筏』 2013年12月5日公開
註48 島谷政一「新街私塾と長崎活版製造会社」『本木昌造伝』朗文堂 2001
註49 板倉雅宣「活字 東へ―長崎の活字のゆくえ」『Vignette』07号 朗文堂 2002年12月3日
註50 板倉雅宣「扉絵解説」『活版印刷発達史 東京築地活版製造所の果たした役割』財団法人印刷朝陽会 2006
註51 野村宗十郎編輯「各種電氣銅版」『紀念見本貼』東京築地活版製造所 1903
註52 「函館の大火史(説明)」函館市サイト 2018年3月15日により誤字を訂正
註53 雜報『凾館新聞』1879年12月14日4面
註54 社告『凾館新聞』1879年12月14日4面
註55 渡邊熊四郎広告『凾館新聞』1879年12月14日4面
註56 社告『凾館新聞』1880年1月9日4面
註57 在大町木下讓太郎 投書「○函館新聞の再發行を祝す」『凾館新聞』1880年3月21日4面、瀬川光行編輯「第九篇 渡邊熊四郎君」『商海英傑傳』瀬川光行發行 大倉書店 冨山房書店大賣捌 1893
註58 社告『凾館新聞』1880年1月23日4面
註59 雜報『凾館新聞』1880年2月25日3面
註60 雜報『凾館新聞』1890年1月31日3面
註61 雜報『凾館新聞』1880年2月25日3面
註62 雜報『函館新聞』1879年10月2日3面、雜報『凾館新聞』1880年1月31日3面
註63 社告『凾館新聞』1880年2月25日4面
註64 辻喜久子「第一三章 社会・文化諸相の光と影 第二節 マス・メディアと活字文化 一 函館新聞の発刊」函館市史編さん室編『函館市史 通説編第2巻』函館市 1990
註65 福田隆三「第四章 孤高の自由民権家 八、山本忠礼との出会い」『北海道の自由民権家 本多新の生涯』清水書院 1996
註66 馬塲辰猪原著全校閲 山本忠禮 明石兵太合譯『條約改正論』興文館 1890 奥付
註67 山本忠礼『代言願』1878年3月11日、山本忠礼『履歴書』1878年3月13日、いずれも『開拓使公文録』1878 司法省 文書番号5871、永井秀夫編集責任『北海道民権史料集』北海道図書刊行会 1986による
註68 雜報『函館新聞』1878年7月6日2面、雜報『函館新聞』1878年7月18日2面、函館書記官「代言人免許受取方東京江依頼文移伺」1878年3月23日、『東京出張所文移録』1878 記録課 文書番号2558、「九年司法省諭達甲十七号心得方ノ儀山本忠礼伺書ニ付御指令ノ儀伺」1878年8月1日、『取裁録』1878 記録課 文書番号2562、いずれも『開拓使公文録』1878 司法省 文書番号5871、永井秀夫編集責任『北海道民権史料集』北海道図書刊行会 1986による
註69 渡邊孝平「徳馨錄(中卷) 明治十一年代言一托社開設の事」、岡田健藏編輯『初代渡邊孝平傳』市立函館圖書館叢書 第十二編 市立函館圖書館 1939所収
註70 赤松渡編輯『萍水相逢 巻下』舩井政太郎出板 大野木市兵衞發兌 1880、標点を削り、句の区切りにスペースを挿入
註71 柴田清継 蔣海波「水越耕南と『萍水相逢』―併せて萍水吟社について」『武庫川女子大紀要 人文・社会科学編』第57号 武庫川女子大学 2010年3月31日
註72 山本忠禮 論説「國會論」『函館新聞』1880年3月24日1面、「國會論 (前号の續)」3月27日1面
註73 山本忠禮 論説「僧徒ノ惡弊」『函館新聞』1880年4月27日または28日、「僧徒ノ要【惡】弊 (前号ノ續)」4月29日2面、「僧徒ノ惡弊 (前号ノ續)」5月5日1‐2面、初回分は原紙未発見、岡崎元肇 辨駁「僧徒ノ惡弊論ヲ駁ス」5月5日3‐4面により存在と標題を推定
註74 山本忠禮 論説「郡區長ノ集會」『函館新聞』1880年5月23日1‐2面、「郡區長ノ集會(前号ノ續)」5月26日1‐2面、永井秀夫編集責任『北海道民権史料集』北海道図書刊行会 1986によれば29日にも続編掲載
註75 山本忠禮 論説「驗屍官ノ心得」『函館新聞』6月9日1面、「驗屍官ノ心得 (前号ノ續)」6月11日1面、「驗屍官ノ心得 (前号ノ續)」6月13日1面
註76 山本忠禮 論説「北海道民會論」『函館新聞』1880年6月23日1‐2面、「北海道民會論 (前号ノ續)」6月25日1‐2面、「北海道民會論 (前号ノ續)」6月27日1‐2面、「北海道民會論 (前号ノ續)」6月29日1‐2面
註77 無記名 論説「開拓政務ノ約束」『函館新聞』1880年7月13日1‐2面、「開拓政務ノ約束(前号ノ續)」1880年7月15日1面
註78 無記名「開拓政談 (前号の續き)」『函館新聞』1880年10月19日1面、それ以前の掲載紙は未発見
註79 出戶榮松「憶起錄(三)」『函館毎日新聞』1921年10月12日3面
註80 辻喜久子「第一三章 社会・文化諸相の光と影 第二節 マス・メディアと活字文化 一 函館新聞の発刊」函館市史編さん室編『函館市史 通説編第2巻』函館市 1990
註81 河野常吉「やまもと‐ただひろ 山本‐忠禮」『北海道史附録人名字彙原稿 甲六 自まノ部 至 ノ部』1920頃成立 北海道大学附属図書館北方資料室蔵
註82 辻喜久子「第一三章 社会・文化諸相の光と影 第二節 マス・メディアと活字文化 一 函館新聞の発刊」函館市史編さん室編『函館市史 通説編第2巻』函館市 1990
註83 矢田績手記「懷舊慢話」『懷舊慢話』出版所不記(私家版?) 1922
註84 雜報『函館新聞』1880年5月8日2面
註85 永井秀夫「総論 北海道の自由民権運動 二 関係資料の概観 (1)新聞・雑誌」永井秀夫責任編集『北海道自由民権史料集』北海道大学図書刊行会 1986
註86 「○處刑」『郵便報知新聞』1883年2月19日2面
註87 「たいら平〈いわき市〉」、「きため北目〈いわき市〉」「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三編纂『角川日本地名大辞典 7 福島県』角川書店 1991
註88 雜報「○拘引」『自由新聞』1884年10月8日2面
註89 稲葉誠太郎「加波山事件関係人名表」稲葉誠太郎編『加波山事件関係資料集』三一書房 1970
註90 雜報「○三春通信」『自由新聞』1884年10月21日1‐2面
註91 栗村寛亮「編者識」栗村寛亮編輯『かなつき 証券印税規則』平活版所發賣 袋屋商店 富田屋伊右門衛【伊右衛門】 清水屋甚太郎賣捌 1886
註92 眠花情史(草刈源吾)宮城縣士族 南村山郡山形七日町五十五番地寄留『花競入山形 上篇』八文字屋太右衛門(山形七日町)荒井太次郎(同十日町)賣捌 1883
註93 五十嵐太右衛門編輯『明治二十七年 明治二十六年對照 山形縣所得納税者一覽』有斐堂(五十嵐太右衛門) 1894
註94 「About Us 八文字屋のご紹介 書籍業三百余年」八文字屋サイト
註95 眠花道人戲譯「江戶の舞蹈會」『婦女雜誌』第二卷第六號 博文舘 1892年3月15日、「江戶の舞蹈會(續)」第七號 同4月1日、「江戶の舞蹈會(七號の續)」第十號 同5月15日、「江戶の舞蹈會(承前)」第十一號 同6月1日、「江戶の舞蹈會(承前)」第十二號 同6月15日、「江戶の舞蹈會(承前)」第十三號 同7月2日
註96 石部尚登「Belgique / België / Belgien / Belgium ―ベルギーにおける言語状況―」La domo de mia scivolo旧サイト 2001年7月12日公開
註97 一橋大学学園史刊行委員会編「第一編 商法講習所の設立から大学昇格まで(一八七五~一九二〇) 第一章 商法講習所の創立・東京外国語学校との合併 第三節 東京商業学校時代・東京外国語学校との合併」『一橋大学百二十年史 captain of industryをこえて』一橋大学 1995
註98 中川清「太郎冠者を名乗った実業家―益田太郎の生涯」『白鴎法學』第7号 白鴎大学法学部 1997年3月1日、高野正雄「生い立ち」『喜劇の殿様 益田太郎冠者伝』角川叢書22 角川書店 2002
註99 栗村寛亮編輯『銀行要鑑』日本書籍會社 1890
註100 珂北 野口勝一「銀行要鑑序」栗村寛亮編輯『銀行要鑑』日本書籍會社 1890
註101 野口勝一『日記 明治二十二年自八月 同二十四年二月 八』1889年12月7日、30日条、北茨城市教育委員会編『北茨城市史 別巻 野口勝一日記III』北茨城市 1993による
註102 珂北 野口勝一「銀行要鑑序」栗村寛亮編輯『銀行要鑑』日本書籍會社 1890
註103 野口勝一『日記 自明治二十四年三月 至同年八月 九』1891年8月7日、16日各条、『日記 自明治二十四年九月 至 十』1891年11月8日、15日、20日、12月10日各条、北茨城市教育委員会編『北茨城市史 別巻 野口勝一日記III』北茨城市 1993による
註104 荒井泰治「銀行要鑑序」栗村寛亮編輯『銀行要鑑』日本書籍會社 1890
註105 一橋大学学園史刊行委員会編「第一編 商法講習所の設立から大学昇格まで(一八七五-一九二〇) 第一章 商法講習所の創立・東京外国語学校との合併 第一節 商法講習所の創立」『一橋大学百二十年史 captain of industryをこえて』一橋大学 1995、Yosuke Meshitsuka「Linkages with Businesspeople and Practice-oriented Nature of School: Institutionalization of Higher Commercial Education in Japan, 1880-1920」『帝京經濟學硏究』第46巻第1号 帝京大学経済学会 2012年12月31日、内田和秀「雑報 横浜山手病院について 15. 解説編:ホイットニー一家(1)」『聖マリアンナ医科大学雑誌』第42巻4号 聖マリアンナ医科大学 2015年3月、髙橋秀悦「幕末維新のアメリカ留学と富田鐡之助~「海舟日記」に見る「忘れられた元日銀總裁」富田鐵之助(5)~」『東北学院大学経済学論集』第186号 東北学院大学学術研究会 2016年3月15日
註106 篁洲今泉彪監修(執筆) 任天菊田定鄉編著「アライ・タイジ【荒井泰治】」『仙臺人名大辭書』仙臺人名大辭書刊行會 1933、諌山正男「アライタイジ 荒井泰治」下中彌三郎編『大人名事典 第1‐2巻 ア‐コン』平凡社 1957縮刷第1刷
註107 栗村寛亮「自序」栗村寛亮編輯『銀行要鑑』日本書籍會社 1890
註108 栗村寛亮「凡例」栗村寛亮編輯『銀行要鑑』日本書籍會社 1890
註109 「●本縣下海嘯罹災」『奧羽日日新聞』 1896年7月30日5面、津波ディジタルライブラリィTSUNAMI Digital Libraryサイトによる
註110 「海嘯の慘害 義金の募集」『奧羽日日新聞』 1896年6月18日3面、津波ディジタルライブラリィTSUNAMI Digital Libraryサイトによる
註111 菅原道明自述「中篇 生れて七十年 外國品輸入の會社に入る」菅原道明編著『壽賀記念 古稀來』青里園 1926
註112 栗村寛亮『自明治廿九年一月 至仝三十三年六月 東京商品取引所 高低表』明文社 1900
註113 栗村寛亮「緒言」『自明治廿九年一月 至仝三十三年六月 東京商品取引所 高低表』明文社 1900
註114 前田千香良編輯「第二章 保証金ヲ納メサル新聞雜誌」「第一節 東京府」『最近全國新聞紙雜誌總目錄』警眼社 1907
註115 『東京商品取引日報』1901年7月9日、神奈川県立図書館蔵、神奈川デジタルアーカイブによる
註116 『東京商品取引日報』1908年2月5日、国立大学法人東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫蔵
註117 白石市教育委員会 渡辺家文書調査研究会『白石市文化財調査報告書 第56集 渡辺家文書III~現況目録3~』白石市教育委員会 2018
註118 篁洲今泉彪監修(執筆) 任天菊田定鄉編著「クリムラ・カンスケ【栗村寛亮】」『仙臺人名大辭書』仙臺人名大辭書刊行會 1933
註119 菅原道明編著『壽賀記念 古稀來』青里園 1926、福島電燈株式會社編纂『福島電燈株式會社史』福島電燈株式會社 1927、山名隆之『史的随筆 菅原道明伝 ■ふくしま水力発電創設者の生涯』高島書房出版部 1981
註120 杉浦芳夫「福島県における電灯会社の普及過程―利潤指向的な多核的イノベーションの空間的拡散事例―」人文地理学会編『人文地理』第30巻第4号 古今書院 1978年8月28日
註121 諏方武骨編纂「長谷川直則君(貴族院議員)」『山形名譽鑑 上巻』諏方武骨發行 鳴時社 五十嵐太右衛門 素月晨平 大井家慶輔賣捌 1891、後藤嘉一『済生館史』山形市立病院済生館 1966
註122 「自由党臨時会出席人名簿」国立国会図書館憲政資料室蔵 樺山資紀文書 書類の部R3-57、安在邦夫「自由党結党後の党組織化の動向」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第28輯(創立100周年記念号) 早稲田大学大学院文学研究科 1982年3月1日による
註123 榎本守恵「第二章 自由民権運動と道民意識 一 官有物払下事件前後の動向」『北海道開拓精神の形成』雄山閣 1976
註124 山本忠禮『亜細亜學舘設立願』1884年12月9日、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B12081910300、清国上海亜細亜学館(東洋学館)設立一件(B-3-10-2-3)(外務省外交史料館)
註125 末廣重恭演説「○物ハ必要ヨリ出ヅ(國友會宴席ニ於テ)」杉山哲理校閲 栗田素一編輯『朙治卓論新編』樂成舎發兌 榊原友吉 高崎修助專賣 1884
註126 黄昭堂『台湾民主国の研究―台湾独立運動史の一断章』東京大学出版会 1970
註127 榊時敏編纂「鈴木萬次郎氏(平民)」『明治二十三年五月 福島縣名士列傳 一名衆議院議員候補者略傳(前編)』福嶋活版舎 1890
註128 佐々博雄「清仏戦争と上海東洋学館の設立」『国士館大学文学部人文学会紀要』第12号 国士館大学文学部人文学会 1980年1月1日、ただしこうした結論については熟美保子氏による重要な異論がある。(熟美保子「上海東洋学館と「興亜」意識の変化―杉田定一を中心に―」『經濟史研究』第12号 大阪経済大学 2009年2月10日)
註129 佐々博雄「清仏戦争と上海東洋学館の設立」『国士館大学文学部人文学会紀要』第12号 国士館大学文学部人文学会 1980年1月1日
註130 河野常吉「やまもと‐ただひろ 山本‐忠禮」『北海道史附録人名字彙原稿 甲六 自まノ部 至 ノ部』1920頃成立 北海道大学附属図書館北方資料室蔵
註131 福田隆三「第四章 孤高の自由民権家 八、山本忠礼との出会い」『北海道の自由民権家 本多新の生涯』清水書院 1996
註132 渡邊孝平「徳馨錄(中卷) 明治十二年十二月六日函館大火災尓就き道路改正町名改正の事」及び「徳馨録(下卷)」の各章 1913成立、岡田健藏編輯『初代渡邊孝平傳』市立函館圖書館叢書 第十二編 市立函館圖書館 1939所収
註133 『函館新聞』1878年8月20日からの各紙、渡邊孝平「徳馨録(中卷) 明治十一年浦鹽斯徳港出張の事」1913成立、岡田健藏編輯『初代渡邊孝平傳』市立函館圖書館叢書 第十二編 市立函館圖書館 1939所収
註134 鈴木大亮「序」『浦鹽斯徳紀行』開拓使 1878
註135 Ретрофлотъサイト
註136 原暉之「アジア太平洋に開かれた窓・ウラジオストク」『Город Навзыаемый Урадзуио 新潟開港140周年記念 浦塩とよばれた街 図録』新潟市美術館 2008
註137 飯田旗郞「一七四 僕の通つて来た世の中」『ざつくばらん』南北社 1917
註138 成田龍一「年譜」加治甚吾監修 成田龍一編『加藤時次郎選集』弘隆社 1981
註139 加治甚吾「岳父時治郎のこと」『加藤時次郎選集 付録』弘隆社 1981、中西淳朗「3 医師・加藤時次郎と横浜」『日本醫史學會雜誌』第44巻第2号 日本医史学会 1998年4月20日、発表は第99回日本医史学会学術大会一般口演 1998年5月16日、「法華会アルバム」法華会サイト

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