今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.


コメントする

魯迅と日暮里(58)南波登発の「亞細亞」への視線(33)筑波山麓の梁山泊 The Liangshan Marsh at the foot of Mt Tsukuba in Ibaraki

ここで、再び「亞細亞勞働協會」の他のメンバーについてのレヴューをしておこう。

助川貞二郎『在北海道茨城縣人寫眞帳』国会図書館蔵による

助川貞二郎『在北海道茨城縣人寫眞帳』国会図書館蔵による

続きを読む

広告


コメントする

魯迅と日暮里(57)南波登発の「亞細亞」への視線(32)群馬のアウトローと伊藤痴遊の政治講談 The Outlows in Gumma and standup-comedy by Ito Chiyu

助川貞二郎が出獄を出迎えた宮部襄(みやべ のぼる)(註1)とは、次のような人物である。

助川貞二郎『小樽新聞』1929年10月4日

助川貞二郎『小樽新聞』1929年10月4日

続きを読む


コメントする

魯迅と日暮里(56)南波登発の「亞細亞」への視線(31)北辺のルンペンプロレタリアートと博徒の群れ Lumpenproletariat in the northern frontier of Japan

さて、当時の北海道における「勞働」の実態を見るため、以下において消防組の構成員の実態を見てみよう。札幌消防組は「北海道勞働組」の結成された1892年、大規模な暴力事件を起こしている。

花月樓-笠原文治邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より

花月樓 笠原文治邸『札幌繁榮圖録』国会図書館蔵より

続きを読む


コメントする

魯迅と日暮里(55)南波登発の「亞細亞」への視線(30)助川貞二郎と北方の民権運動家たち Democrats in the northern colony of Japan

以下は「亞細亞勞働協會」メンバーの銘々伝の続きである。だが、決してザコキャラ退治のつもりはない。また、本シリーズでは、ほとんど知られることのない人物を取り上げているのだが、助川貞二郎については札幌市教育委員会の文野方佳氏による詳細な伝記が著されており(註1)、同時代資料も多い。そして、明治期の北海道の人物のレファレンス情報については、北海道立図書館北方資料部作成の『北海道人物文献目録(明治~戦前期)』(註2)のお世話になった。最初に掲げてお礼を申し上げます。

助川貞次郎『北海道立志編-第貮巻』国会図書館蔵より

助川貞次郎『北海道立志編 第貮巻』国会図書館蔵より

続きを読む


コメントする

魯迅と日暮里(54)南波登発の「亞細亞」への視線(29)須戸橋藤三郎 見沼代用水と内水交通、あわせて上武のキリスト者たち(下) The Outlaws in Northeast Asia, Chapter 22

1952年4月、教員資格を持つ1人の男が本庄駅に降り立った。

「「暴力の町」として、一時有名になったことのある、高崎線本庄駅に私は降りた。やせて背が高く、鳥打帽をかぶっていた。私は駅前から、すぐタクシーに乗った。町を通りぬけて、まがりくねった、がたぴしした道を北の方へ六キロばかり行くと、桑畑やねぎ畑や、ほうれん草畑にかこまれた静かな部落が見えた。桑畑の向うには堤防がひくく東西につづいていた。桑畑も部落も、春の光をあびて、うすむらさきにやわらかくけぶっていた。
そこは島村といった。この村は、群馬県の南のはしで、埼玉県との県境にある、戸数四百余、人口二千四百ばかりの小さな村である。」(註1)

座談会-これからの社会科-(右より梅根悟-海後宗臣-斎藤喜博-岡津守彦)『教育』3巻10号より

座談会 これからの社会科(右より梅根悟 海後宗臣 斎藤喜博 岡津守彦)『教育』3巻10号より

続きを読む