今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.


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正岡子規はダイヤモンド富士を見たか?!

今年も、秋のダイヤモンド富士の季節が巡ってきた。日暮里富士見坂からの富士山が見えなくなり、ダイヤモンド富士のに大賑わいが消えて早4年。寂しい。
ところで、明治の俳人・正岡子規は日暮里富士見坂から近い根岸に住み、その界隈である日暮里富士見坂の坂上に続く「道灌山」をよく散歩した。富士山を詠んだ句も多い。子規は、ダイヤモンド富士に遭遇することはなかったろうか?俳句を探してみた。(M) 本文は「子規庵友の会だより第14号」への寄稿文に一部加筆した再掲。

― 子規と道灌山と富士山と ―

「我嘗て此所の眺望を日本第一といふ……」随筆「道灌山」(明治32年9月)(注1)の一文である。読む度に、遠出は望むべくもない子規の病身と、その狭い行動範囲の中にも自分の「日本一」を見つけて感動する無邪気な心根に胸が痛くなる。
道灌山は私の生活圏、毎日歩いて通る。JR山手線・西日暮里駅と田端駅にかかる高台で、根岸(鶯谷駅)の子規庵からすぐのところ。ここからの眺めを日本一と子規はいう。「崖に臨みたれば眺望隠す所無く足下に見ゆる筑波山青うして消えなんとす。」上野の山から王子の飛鳥山まで続く小高い尾根道は古く、江戸期は花見や紅葉狩り、虫聞きとにぎわう遊興の道であり、標高が最も高いのが道灌山。広重の浮世絵などでも広く知られる。

歌川広重「東都名所 道灌山虫聞之図」(国立国会図書館デジタルコレクション)

歌川広重「東都名所 道灌山虫聞之図」(国立国会図書館デジタルコレクション)


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魯迅と日暮里(52)南波登発の「亞細亞」への視線(27)須戸橋藤三郎 見沼代用水と内水交通、あわせて上武のキリスト者たち(中の14) The Outlaws in Northeast Asia, Chapter 20

次に翻刻する『都新聞』の記事は、一見『嶋原時報』掲載の記事を抄約したものに見えるが、仔細に見ると、日時の記述等に異同があり、固有名詞の表記も、より正確性が高いようにも見え、かつ『嶋原時報』に見えない文言も含まれている。よって田添幸枝の手紙、あるいはその副本から『嶋原時報』と『都新聞』の記事が独立に作成された可能性があり、その資料的価値は高い。また、文中に登場する地点名についての詳細情報を注記する。

上海英租界江岸(税關附近)の景『長江大觀』国会図書館蔵より

上海英租界江岸(税關附近)の景『長江大觀』国会図書館蔵より


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魯迅と日暮里(51)南波登発の「亞細亞」への視線(26)須戸橋藤三郎 見沼代用水と内水交通、あわせて上武のキリスト者たち(中の13) The Outlaws in Northeast Asia, Chapter 19

以下に翻刻するのは、田添幸枝が1911年1月28日から2月14日にかけて『嶋原時報』に寄せた田添幸枝の紀行文。内容は、1910年に東京から長崎、上海、漢口、重慶を経て成都に赴いた時の記録である。同記事と同名の記事は、『都新聞』にも掲載された。(次回掲載)『都新聞』のそれは、堺利彦が見た「折々都新聞の紙上に、女史が南清地方から送つた通信が載つてゐた」(註1)という記事の1つであろう。先行して掲載された『嶋原時報』の記事には、本記事が田添幸枝のオリジナル原稿であると前文に書かれている。『嶋原時報』の記事前文中「本郡」とあるのは「長崎縣南高來郡」であり、記事本文に頻出する「宣昌(せんせう)」は「宜昌」の誤り。他にも多くの誤字、誤植、誤ルビがあるが校異訂正せず、必要性に応じて注記するにとどめた。章間に適宜解説情報を加える。

『漢口事情』付図-国会図書館蔵

『漢口事情』付図 国会図書館蔵


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魯迅と日暮里(50)南波登発の「亞細亞」への視線(25)須戸橋藤三郎 見沼代用水と内水交通、あわせて上武のキリスト者たち(中の12) The Outlaws in Northeast Asia, Chapter 18

岡本宏の示した田添幸枝の私塾の時代は、実は「東洋女藝學校」の退任後のことである。同校退職と同月の1906年1月、『讀賣新聞』は田添幸枝による美術塾の開設を報じている。

「▲女子美術塾 前東洋女藝學校長たりし米國文學士田添幸枝女史ハ此度小石川久堅町七十四番地なる自宅に女子美術塾を開始し專ら洋畵(刷筆畵、水彩畵、油畵)を懇切に教授すると云ふ」(註1)

さらに3月には「西洋美術恊會」による「正則洋畵硏究會」を開始することも告げる。ただし、これは上記の女子美術塾と全く同じものではないようだ。

「⦿西洋美術恊會【6字黒丸圏点】 田添幸枝女史及び其門下生の設立にか〻る同會ハ正則洋畵硏究會を小石川久堅町光圓寺境內に設け女子指導の下に專ら洋畵の研究をなすべく、尚ほ同女史ハ目下裸体畵『力の体現』を揮毫中なりと」(註2)

田添幸枝「力の体現」『衛生新報』97号より(画像提供:国立国会図書館)

田添幸枝「力の体現」『衛生新報』97号より(画像提供:国立国会図書館)


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魯迅と日暮里(49)南波登発の「亞細亞」への視線(24)須戸橋藤三郎 見沼代用水と内水交通、あわせて上武のキリスト者たち(中の11) The Outlaws in Northeast Asia, Chapter 17

さて、女子裁縫高等學院を存亡の危機に陥れた「大橋千田」とはいったい何者か。また、「東京女子美術學校」とはどのような学校か。小出新次郎の弁によれば、「大橋」とは「帝國教育會の事務員大橋次郎」、「千田」は「千田時次郎」である。(註1)次は大橋次郎の簡略な伝記。

大韓赤十字社本社-左のビルが旧日本赤十字社朝鮮本部庁舎-あばさー氏撮影-ko.wikipediaによる

大韓赤十字社本社 左のビルが旧日本赤十字社朝鮮本部庁舎 あばさー氏撮影 ko.wikipediaによる

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