今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

富士見と富士見坂(4)の5 日暮里花見寺と文化11年のダイヤモンド富士(5)

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ここまで、村の名前を、今の地名「日暮里」ではなく「新堀村」と書いてきたことにお気付きいただいたであろうか。柳沢信鴻の日記の中で新堀といえば、まずは柳沢家上屋敷のあった麻布新堀(しんぼり)であり、または浅草の新堀(しんぼり)を指しており、新堀(にっぽり)村のことは「日暮里」「日暮」と書いている。これは、どのような事情によるものであろうか。

熊野領豊嶋年貢目録『あらかわ 図録荒川区史』より

熊野領豊嶋年貢目録『あらかわ 図録荒川区史』より

もともとのこの地域の地名は、1448(文安5)年11月の『熊野神領豊嶋年貢目録』に
「三百文 につほり妙円」と見え(註145)、
当時から「にっぽり」と呼ばれており、熊野大社の信仰圏内にあったことが分かる。また、1559(永禄2)年作成の北条氏の『小田原衆所領役帳』には、

「一    遠山弥九郎。
 卅九貫文     江戸屋中
 卅六貫文     同 駒込
 四拾五貫文      新堀
  以上百弐拾貫文 人数着到出銭者
          知行役者葛西在城付而御免」とあり(註146)、
「新堀」と記されていたが、江戸中期頃から雅名の「日暮里」の字が当てられるようになる。

曲亭馬琴の考証によれば、
「日暮の里は江戸名所記〔全部七巻寛文二年五月の印本〕巻ノ一第十五條に新掘村(につほりむら)と出せり。又江戸古鹿子〔元禄四年九月の印本〕紫一本〔天和三年写本〕等みな新掘としるして日暮里と書けることなし。但(たゞ)紫一本の上ノ巻新掘の條下編者の自注に所の者今は日暮里といふといへり。かゝれば天和のころ、はや日暮里と書けるにやあらん。新掘、日暮里音訓相似たれば也。かくてその文字稍俗ならずなりにければ、やがて訓に唱て日くらしの里といふ。

しかるに今俗(いまのひと)は、里の字を省きて日くらしとのみ唱るもあり。かくては旧名(もとのな)の新掘の義に称(かな)はず。上野(かみつけの)下野(しもつけの)は元来上毛野下毛野なるを、中葉(なかころ)より毛字を略されたり。毛は草なり。彼処は郊原山沢多くて、いと草ふかき地方(ところ)なれば、上毛野下毛野と呼せ給へる也。国〻の名二字に定りて、上野(しやうや)下野(けや)と書くに至ても、なほ毛の字を添へて唱へたり。〔和名類聚抄国郡の部考ふべし〕これ毛の唱を省かざる故に、今なほ古意を失はれず。

これらに由ても、日暮里を日くらしとのみ唱るは、省略に過たるをしるべし。然ればふるくは新掘なるを、後に日暮里と書きかへてより、日くらしの里と唱ふ。こは此ところのことなるを、入江翁の繫舟松の碑銘に山ヲ道灌ト曰ヒ、里ヲ日暮ト曰フ、以テ徴ス可シと書かれたるは、別に考る所ある歟。こゝろ得がたし。日暮里青雲寺の上なる山を今俗は道灌山と唱ふめれど、之もふるくは新掘山といへり」という。(註147)

そもそも、この地が「日暮の里」という麗しい名称でクローズアップするのは、花の名所である上野と飛鳥山をつなぐ中継点にあったことが理由である。「うつくしま、ふくしま。」というキャッチコピーが福島県のイメージアップ事業のためにつくられたが(註148)、福島県の経済の大きな部分が美しくない原子力発電所に拠っていたことは、そのフレーズからは窺い知ることができない。地名を麗しくいじくるのには、その場所を実態以上に良いものに見せようという企図ばかりではなく、見せたくない現実を覆い隠す意図が往々にしてあるということなのだろう。

曲亭馬琴と同時代に、十返舎一九のメガヒット『東海道中膝栗毛』(1編1802初刷)にはじまって、書籍版ロードムービー、いわゆる「膝栗毛」物の出版がブームとなる。膝栗毛物をスケールダウンした、滝亭鯉丈『花暦八笑人』というユーモア小説が1820年から刊行開始され、これもまたベストセラーとなっている。『花暦八笑人』は、上野をふりだしに、飛鳥山へ到り、茶番劇の馬鹿騒ぎをするというのがメインストーリーであるが、当然のことながら主人公たちは、日暮里の地を経由することになる。

『花暦八笑人』は、これまで見てきた富士見の旅の記、連歌師の旅行記、松尾芭蕉の『奥の細道』やあるいは、先行の『東海道中膝栗毛』などの大旅行記ではなく、何の覚悟も元手もいらず、容易に追体験できるお気軽、お手軽な小旅行のガイドブックとなっていたのである。江戸版『散歩の達人』といったところであろう。

滝亭鯉丈著 渓斎英泉 歌川国直画『花暦八笑人』巻一 早稲田大学図書館蔵

滝亭鯉丈著 渓斎英泉 歌川国直画『花暦八笑人』巻一 早稲田大学図書館蔵

同時期に発刊されていた、前近代の教科書的な書物である往来物の中でも、上野から飛鳥山への道筋はモデルコースとして紹介されている。そして、これが江戸市民の常識形成の基礎になっていた。例えば『王子詣』には、次のように書かれている。
「兼而御咄(かねておんはなし)申候王子詣之事、来る幾日(いつか)は幸ひ初午にて候儘、此日思召被為立(おぼしめしたゝせられ)候半哉(はんや)。左(さ)候はゞ、道之程御案内可申候。先(まづ)神田下より御成道(おんなりみち)を過行(すぎゆき)、下谷へかゝり三橋より不忍池弁才天へもふで、夫より上野東叡山根本中堂、霞の中に輝き、元三両大師を拝して谷中道へかかり、感応寺本堂毘沙門天五重之塔、夫よりかさもり稲荷を拝し、日暮里養福寺百観音太神宮人丸の社、この山上より眺望限なく、下総・鴻の台・筑波山・日光山抔(など)みへ渡り、諏訪大明神は本地千手観世音太子堂、富士権現護国稲荷は太田道灌築城のとき、国家鎮護のため建立とかや。

穴の弁才天布袋堂、船つなぎ松とて、いわれ有大木有、夫より道灌山にて三河嶋(みかわじま)青海原は霞のうちに見衛わたり、爰(こゝ)にて土器投(かわらけなげ)の戯(たわむれ)などいたし、山越て白鬚の社もいつか打過、まつと見へしは争の杉さへ、春は色まして、詠(ながめ)つきせぬ中里を行ば、西ケ原御殿山、平塚明神へ参り、由来を聞ば其昔、八幡太郎義家公、奥州征伐の時、御兄弟の鎧を納給ふ旧地、八幡太郎・加茂次郎・新羅三郎の三連枝をまつり奉る社とかや。夫より六阿弥陀、三番へ詣、一里塚を過行ば飛鳥山千本(ちもと)の桜盛のころは、よし野初瀬もおとらぬ名所にて、入相の鐘にわかれをおしみ、また音なし河の流れは玉川のむらゑとかや。

山の上に一つの碑あり、元文年中に奥州壺の石文を移されたり。荒川のながれ白布をさらせるがごとく見ゑ渡るよし。折から帰帆二三艘、梢によるは海士の釣船、雲に入(いる)かとあやしまる。左りは不二のしら山を打詠、程なく王子権現へまふで、別当金輪寺へ立より、委敷(くわしく)由来を尋(たずねし)に、当社は紀州熊野三所を勧請し奉るとかや。なを又、毎年七月十三日大躍(おほおどり)の神事あり。是熊野祭礼の遺風にして、誠に殊勝におぼへ侍る。夫より同(おなじく)王子稲荷大明神を拝し、これは関八州の惣司(そうつかさ)にして、毎年大晦日の夜(よ)、狐集ると土俗の説あり。又畑のかたゑに装束榎とて、其夜狐おの〱衣裳を改ると云伝へたるよし。

爰かしこと尋めぐれば互に足疲れ候はゞ、茶店(さでん)に甕(もたい)などとりひろげ、暫し休らひしに、はや休むまに、長き春の日もにしやまに傾舞(かたむかん)とすれば、立出で瀧の川岩窟弁才天、同瀧の不動尊を拝し、夫(それ)より野辺の浅茅をふみしゆき、雲ゐに遊ぶ雲雀の聲も、ほのかにきゝ、妙義坂より染井へ掛り、駒込の富士権現、神明宮を拝し、曹洞宗の禅林諏訪山吉祥寺、ほどなく目赤不動尊より土物店、鱣(うなぎ)縄手ゑかゝり、森川宿を過行ば、本郷へ懸り、黄昏時にただりたどりて家路に帰り可申候。謹言

朝輝斎 千春誌 ㊞ ㊞
寛政十午年 初秋」(註149)

長々と引用したが、要は「王子行かない?」、というお誘いの手紙の文例である。現在なら、メールかラインで7文字の用件である。ただし、その中に社会常識として身に付けるべき地理や歴史故事の一般常識を盛り込み、教科書としての要素をみたしている。また、本コースはわれらが柳沢信鴻のお散歩コースでもあった。

また、別の往来物『飛鳥山往来』にも、
「東照宮の御社を深樹の中に拝し、両大師にまふで、夫より谷中門を出て感応寺を斜に見やり、人家建つゞきし中をゆけば、笠森稲荷と額打し小社、七面の前を過て、右に補陀山といふ古院、庭に大なる糸ざくら枝たれしもとに、自堕落といへる隠士の墓碑あり。此辺すべて日暮の里とよぶ。諏訪明神の社頭、物旧(ものふり)かみさびて、一には爰を諏訪台といふ。

かたへに人丸の祠、又、天照す御神を勧請し、浄光青雲修正【性】妙隆の精舎相隣り、庭の面(おもて)、桃さくら咲みだれ、あやしき石、めづらしき樹、風流いふ斗(ばかり)なく、山岸に一樹あり、船繋松と名づく。上古は此あたりまで、滄海にて、舟を爰につなぎしとなん。まこと、桑田変じて海となる世のありさまも驚かれ、小坂をのぼれば道灌山とて、むかし太田氏城塁の地なり。彼人(かのひと)は、弓矢の道かしこくのみならず、和歌にさへ名高かりし。誠に一世の雄なりと、懐古の情もいやまし、かたりつゝ歩行(ゆけ)ば、みちのほとりに杉の古木、枝葉松のごときもの有。俗、あらそひの松とよぶ。」(註150)とあり、日暮里地区のより詳しい情報が学習対象となっている。

さらに、お江戸ガイドブックの集大成である『江戸名所図会』が、神田の草創名主斎藤家3代にわたる事業を受継ぎ、斎藤月岑により1834年から板行される。この中には「日暮里惣図」という長谷川雪旦による鳥瞰図が収載されている。

日暮里周辺図 鈴木圭一「『栗毛後駿足』から『花暦八笑人』へ」より引用

日暮里周辺図 鈴木圭一「『栗毛後駿足』から『花暦八笑人』へ」より引用

『花暦八笑人』の主人公たちのルートも、往来物『王子詣』『飛鳥山往来』のコースを行ったと推定され、1グループの変装の場所は「彼三人は、日暮し辺のうらみちにて、それぞれに支度を直し」、その後「日暮をぶら付き道灌山をたど」る。(註151)鈴木圭一氏は、「佐次郎たちや安房太郎が変装したのは「日暮里あたりの裏道」であるが、そこは日暮里の下道(日暮里の高台である諏訪台の台下の青雲寺から修性院、螢沢への道)付近であると考えられる。それは安房太郎が先に飛鳥山に着くことや佐次郎たちの動きから藍染川付近と考えられ、つまり安房太郎はそのまま近道をしているが佐次郎たちはわざわざ少し戻り日暮里から道灌山を歩こうとしているからである。具体的には藍染川付近から少し戻り、下道から青雲寺などの境内あるいは富士見坂をのぼり、諏訪台に至り、道灌山に行くのである。」と分析する。(註152)

鈴木圭一氏は、また、上野池之端から飛鳥山へのルートが「藍染川に行く道、日暮里を行く道、音無川沿いの道という三本の道筋があ」ることを解説する。藍染川は谷田川の下流の別称、日暮里といっているのは諏訪台、音無川はこの文章でいう石神井用水である。この3本の道は、新堀村付近では、三崎(さんさき)道、谷中道、王子道という名称となっており(註153)、後2者は、柳沢信鴻の日記中でもこの名で記載されており、三崎道では柳沢信鴻一行は道に迷っている。

飛鳥山2014春

飛鳥山2014春

さて、飛鳥山が花見の名所になったのは、徳川吉宗が紀伊徳川家から入って将軍職についたのちのことである。
5代将軍徳川綱吉は、「生類憐み政策」の施行に先立ち、儒教的な「仁政」の政治路線を掲げ、「綱吉政権はその初期に将軍の鷹狩りの不行使や鷹役人の削減、恩賜鷹場下賜の不履行、鷹の鳥や初物の下賜の一部中止、鷹部屋の一部撤退などの放鷹制度の縮小に取り組んだ。」(註154)なお、小石川の餌指町は、高家六角家屋敷のあった六角坂の付近の旧町名で、慶長年間に、鷹匠頭の配下にあって鷹の餌の確保を職掌とする餌指衆の屋敷が置かれたことに起源があるが、この時期に富坂町と改名されている。

徳川綱吉は、儒学を重んじ、昌平坂学問所を興し学問を振興するとともに、林家の私的祭祀施設を湯島聖堂として建立する。この時代に重臣として大老格まで登りつめたのが柳沢信鴻の祖父、柳沢吉保である。柳沢政権時代の1695(元禄8)年、勘定奉行荻原重秀は、当時、貨幣用貴金属の貿易による流出が進んでいたことに原因するマネー・サプライの不足を解消するため、貨幣改鋳を実行する。これによる出目(改鋳益金)により幕府財政は改善され、貨幣経済状況も改善した。(註155)1702年、柳沢吉保は上駒込村の下屋敷に回遊式築山泉水庭園、六義園を造営。徳川綱吉はたびたびこの庭を訪れている。そして1709年、柳沢吉保致仕後はその隠居所となった。

徳川宗家の家系が絶え、紀州家から入った8代将軍徳川吉宗は、積極的な政治改革を行なうが、最初に実施した政策が鷹場の再設置である。徳川家は、鷹についての支配を独占していたが、軍事力と権力の誇示としての鷹狩りは、また、市民層にたいして将軍の権威を示す場でもあった。「しかも吉宗は、鷹場の再置を単に政治的なデモンストレーションのためだけに行ったのではなかった。将軍が鷹狩りを行う場所として設定された江戸廻り一〇里四方の地は、幕府の政治的・軍事的拠点である江戸のお膝下、すなわち「御要害の地」〔「御鷹野日記」〕でありながら、御料・私領・寺社領が犬牙錯綜した支配形態を示す不安定な地域であった。吉宗は、ここに投網をかぶせるようなかたちで鷹場を設定し、個別支配の枠組を越えた「御場」、すなわち最終的には将軍のもとに帰属すべき領域とする意向を示したのである。」(註156)

王者による狩猟とそれに伴う巡行は、古く殷(商)帝国の時代から行なわれ、「食糧の獲得や遊興だけではなく、軍事訓練や統属関係の確認」を目的としており(註157)、東アジアにおける王権の権威と権力を示威する伝統的行為であった。鎌倉幕府成立直後の1193年、富士の巻狩りが多くの御家人を招集して行なったのも、武士政権の権威と権力を誇示するためのものであった。また、その10年後、2代将軍源頼家が、富士山へ狩に出かけたとき、家臣の新田四郎忠常に命じて富士山の溶岩洞穴(人穴)を調査させている。このことは、鎌倉幕府の準公式年代記である『吾妻鑑』にも「三日。己亥。晴。將軍家渡御于駿河国富士狩倉。彼山麓又有大谷(号之人穴)為令究見其所。被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱(重宝)入人穴。今日不帰出幕下畢。

四日。庚子。陰。巳尅。仁田四郎忠常出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮。不能廻踵。不意進行。又暗兮。令痛心神。主従各取松明。路次始中終。水流浸足。蝙蝠遮飛于顔。不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流。失拠于欲渡。只迷惑之外無他。爰当火光河向見奇特之間。郎従四人忽死亡。而忠常依彼霊之訓。投入恩賜御剱於件河。全命帰參云云。古老云。是浅間大菩薩御在所。往昔以降。敢不得見其所云云。今次第尤可恐乎云云。」と記載されている。(註158)この大冒険は、御伽草子「富士人穴草子」において全面的にストーリー展開される。また、16世紀後半、役行者の霊告を受けた長谷川角行は人穴に入り、寸5分角の角材の上に爪先立ちして千日行を行ない、富士講の開祖となっている。

歌川国芳「仁田四郎 富士の人穴に入る」

歌川国芳「仁田四郎 富士の人穴に入る」

根崎光男氏によれば、江戸期の鷹狩り、放鷹制度は、伝統的側面を継承しつつ、「幕藩体制の仕組みに広く浸透して構築されており、」「この社会のもとでの国家儀礼や主従関係」すなわち「鷹をめぐる支配・儀礼関係は天皇や大名はもちろん、民衆にいたるまで包み込み、幕府の放鷹制度が維持されていた。」(註159)

幕府は、1717年、火災により焼失した本郷御弓町の御鷹部屋を、千駄木、雑司ヶ谷の2箇所に分置して再建する。(註160)また、将軍の御成先である鷹場近くへの大規模な植樹を開始。1717年、隅田川御殿から隅田川堤(墨堤)に桜・桃・柳・ツツジ等を植えたのを皮切りに、1718年頃、品川御殿山へ桜・ハゼ等、1720年からは、飛鳥山への植桜を命じ、1720年から植樹作業が開始された。植樹は、苗の丈の長さや植樹間隔、樹種の指定、水茶屋の設置にいたるまで細かな指示の元に進められた。(註161)また、「あすか山なんとよんたかおかむ也」(註162)「なんだせきひかと一ツもよめぬなり」(註163)と川柳によまれた飛鳥山碑の碑文も、徳川吉宗の最終的な推敲が施されている。(註164)飛鳥山をはじめとする緑地は市民に開放され、遊興の地と化す。のちに中野桃園も加わり、江戸の四方の郊外に白幡洋三郎のいう「花見公園」が開発された。(註165)

飛鳥山の「花見公園」化は、この地が紀州徳川家の領内にあった熊野と深い関連を持っていたことと、上野が絶好の花見ポイントでありながら、上野山内は徳川家の霊廟であったことから遊興の場としてふさわしくないため、新たな花見の名所の創出が必要であったことが背景にあるといわれる。しかし、最も重要な目的は、花見の場がほかならぬ将軍の恩恵で与えられたことと、花見の場に将軍「御成」のための施設が置かれ、将軍の存在を日常的に認識させることであったといわれる。そしてこの後、上野、飛鳥山の2大花見公園に挟まれ、その通過地点となった新堀村、諏訪台も次第に遊園化していくことになる。

こうした中、宝暦(1751‐1764)頃から「郊行詩」と呼ばれる文学上の新ジャンルが盛行する。「都市郊外の田園を場と」し、「田園風景を取り込んで詩作する」芸術営為である。さらに安永天明期(1772‐1789)になると、描写の精細、風景の中でも人為的素材と、人的素材が極めて豊富にり、昂揚した感情表現を特徴とする新しい郊行詩が登場する。これに影響を与えられ、俳諧においても、句作のための郊外散策を行動様式とする諸作品が登場するようになる。(註166)
こうした文学上の新傾向も、西山松之助が「行動文化」と命名した文化行為の枠組の中で考えることは可能である。(註167)
「私のいう行動文化とは、一口にいうと遊芸とか物見遊山・縁日・祭礼・見世物・開帳などへの殺到、あるいは芝居・吉原などのあそび、また遠く、富士・御嶽・大山・江ノ島ないしは伊勢・熊野・西国三十三所・四国八十八ヵ所、北陸二十四輩巡拝などへの参詣の旅、また金沢八景・玉川八景・江戸近郊八景・隅田川八景とか、箱根への温泉湯治のあそびなど、きわめて広い生活領域にわたっており、菊人形とか上野・墨堤・飛鳥山・品川御殿山・小金井堤などにおしかけた花見の群集の行動などをもふくめて、これを行動文化というのであるが、こういう文化現象を活発にまき起こしたのが化政期江戸町人の最も著しい特色であり、そのようなエネルギーは刮目に値する。」「要点は、第一に、封建制社会下の被支配者たちが、支配・被支配の関係に生じた諸矛盾を解消するための現実問題として展開したこと、第二に、それは直接政治的行動として反体制的革命的行動に進展しなかったために、きわめて多彩な自己解放のパターンを創案して具現化されたものであること、第三にその場合、精神的な解放でこと足りるものと、経済的解放により多くの精力を集中したものとがあること、そして第四には、これらが、単に江戸だけのことではなかったが、とりわけ江戸に顕在化し、具現されたものが多かったこと、などに問題の焦点があると考えられる。」(註168)

柳沢信鴻の日記に出てくる郊外閑歩、芝居見物、寺社参詣、草摘み、あるいはモブ(群集)への自己投入等の行動も、明らかにこうした時代のトレンドの中にある。柳沢信鴻の行動には、草摘みなど郊外散策の側面と、都市内での遊興環境への参加の2つの側面があり、飲食施設の整備された日暮里は、その中間的なものであっただろう。ただし、柳沢信鴻らの「都市内外出行動」が、「自己解放」を目的にしたもの、あるいは支配者との矛盾を非革命的に解消するための営為であったと見ることができるかというと、はなはだ疑問である。(註169)

日暮里総図4

日暮里惣図4

さて、この項のテーマのひとつである日暮里花見寺に話は戻る。花見寺3ヶ寺の中で、最も早く造庭したのは妙隆寺である。『新編武蔵風土記稿』によれば、妙隆寺は、中山法華経寺を本山とする鎌倉妙隆寺の日遶が、1704(宝永1)年に創建したともいい、別説には谷中玉林寺内に草創、1694(元禄7)年日暮里に移転したともいう。『府内場末其外往還沿革図書』によれば、「宝永元申年中谷中妙隆寺境内当所東叡山領新堀村江引移」とあり、境内に当時稲荷太神宮の両社があったという言い伝えもあるが不明であるとする。(註170)
同じく旧幕府引継書の『宝永七寅年以来相改候寺社帳』によれば、1710(宝永7)年閏8月のこととして

「宝永七寅年閏八月
一古跡年貢地      谷中新堀妙隆寺
  境内三百坪
   外ニ六百五拾坪持添地
右妙隆寺寺地塲所悪敷片さがりニ而家作
致難儀候幸小之方ニ境内続妙隆寺抱屋敷
年貢地六百五拾坪有之候寺院三百坪右之
抱屋敷江引移し六百五拾坪致持添地建立
支度之旨本多弾正少弼方江願出候ニ付見分之
者遣し遂吟味候処寺地引移し候而茂相障茂
無之候彼地東叡山領ニ付猶又田村権右衛門ニ
相尋候処只今迠之通年貢致等妙隆寺相
勤候得共外ニ障茂無之由申ニ付御老中江
相伺願之通寺地引移し致持添地ニ申付候間
致張紙置者也」(註171)

妙隆寺から敷地に難があるため、境内の地続きの土地へ本堂を移転したいという希望が出され、見分の者に調査させ、東叡山領であることから年貢収納の状況も聞いた上で、問題なしとして老中の決済を得ている。境内地と添地の面積比を考えると、妙隆寺の元の所在地は諏訪台通り側にあったが、「悪しき片さがり」の地形であることから、この年に山下に移転したという文脈であると見ることができる。

その後、1748(寛延1)年の頃から、「境内東ノ方ナル岳ヲ開キテ巧ニ庭ヲ作リ、桜躑躅ヲ数多栽タリシヨリ、春コトニ遊歴ノ人ツトヒテ賞翫シ、春ノ永キ日ノ暮ルヲモ知ラサルニ至ルトテ、世ニ日暮ノ里ト号ストイヘリ。サレト日暮里ハ、既ニ紫一本ニモ載テ此園開カサル前ヨリノ唱ナリ」という。(註172)
『東京市史稿』に引かれた『雑糅』によれば、「同時【宝暦(1751‐1764)】日暮の浄光寺の下に日蓮宗妙隆寺といふ在り。是ハ鎌倉小町妙隆寺の持にて有る由。こゝに俳諧の宗匠秀億といふ人思付て、先ツ此庭へ木なと植て、始て築山出来けるに、夥しく群集せり。是より隣寺二軒も仮山を作り、今ハ遊観の勝景と成れり。故に太神宮の後に仮山開基秀億といふ石碑あり。其子東女といふか、皐月半砂の世話にて今年【1795(寛政7)年】卯七月秀億と改名し、古秀億十三回をとむらひけるよし。」という。(註173)

修性院日純、妙隆寺日堯・日義墓碑

修性院日純、妙隆寺日堯・日義墓碑

文中の人物「秀億」は、俳人の角醒秀億と思われる。深川の三聖山寒光寺(慧然寺)にある岡田米仲点印塚に句が刻まれているため、岡田米仲の門下であり(註174)、柳沢信鴻とは兄弟弟子ということになる。角醒秀億は、「明田氏、春日庵、天目庵と号す、米仲門、江戸人」(註175)、あるいは「秀億 天目庵、角醒」(註176)という。著書に『標雑談』(註177)、『葛藤』(註178)があり、句集アンソロジー『江戸十余歌仙』(註179)、岡田米仲『靱随筆』(註180)にその句が入集している。芳賀矢一編『日本人名辞典』には、秀億の号を持つ俳人は2名おり、二世乾十門の園秀億、春日庵、江戸人と三世雪斎門の木童、松林庵秀億である。他に安寿田収億という俳人がおり、米仲門で天目庵と号したといい(註181)、何か混乱があるものと思われる。また、『反古ふすま』、『童の的』に入集、(註182)栖鶴編『両兎林』(註183)、『未歳旦配留』(1775)にもその名が見え(註184)、近くは加藤郁乎『江戸俳諧歳時記』にも入集する。(註185)1784(天明4)年没で、追悼集に『去年の秋』がある。(註186)

彼の著『標雑談』に「叔父義閑居士いませし時の話にて」で始まる随筆の一文を収録、その中で「正宗ハ希代名剱価いふへからす」と、値段や収蔵者のことを話していたことを記している。(註187)居士号を持ち、正宗の刀の話題提供にふさわしい人物といえば、幕府の本丸表坊主出身で茶道宗徧流時習軒を継ぎ、諸大名を弟子に持ち、あるいは茶会に招いた水谷義閑という名前が脳裡に上がる。ただし『標雑談』の刊行年が1763(宝暦13)年で、かつ「叔父義閑」を故人のように取扱っていることから、1810(文化7)年没の水谷義閑とは特定できないようであるが、今後の精査の必要を感じる。なお、水谷義閑の文化2年9月15日(1805年11月5日)から文化5年4月7日(1808年5月2日)までの茶会記が残されており、その記録によれば、この間に開催した茶会は1,700回以上にも及ぶ。(註188)

水谷義閑雨雪庵茶会記『宗徧流 歴史と系譜』より

水谷義閑雨雪庵茶会記『宗徧流 歴史と系譜』より

妙隆寺の山上には太神宮(日暮神明社)があり、『新編江戸名所図誌』に「寛文六年【1666年】当寺へ勧請寛延元辰年【1748年】春より当社を山上に建立。日くらしの里とかな書にする事、当寺三四世先住書初るとなり。当寺境内の庭、寛延【1748‐1750】の比初て造り初む。山上神明社へ坂を上るその道曲折して、樹木たくみをなし、遊観の人多し」とあり(註189)、そこでは、妙隆寺の僧が「日暮里」の文字表記の命名者であったとする説を紹介している。同社は、『荒川区史』によれば、明治になってからの書上に「九十三坪官有地、太神宮敷地跡」とあるという。(註190)

修性院

修性院

続いて作庭したのは、妙隆寺に隣接する修性院である。修性院は長耀山感応寺の末寺で、1575(天正3)年、感応寺7世日運上人が浅草に創建、1663(寛文3)年、感応寺12世、修性院2世の日純上人が現在地に移転させている。(註191)1698(元禄11)年、幕府による不受不施派の弾圧により、受不施派の身延山久遠寺の直末となった。(註192)『府内場末其外往還沿革図書』によれば、この時、寺号を純光寺から修性院に改めている。(註193 『安政三辰年十月調 御府内塲末其外往還沿革図書 弐拾壱 元下』谷中本村松平三河守抱屋鋪七面社地延命院其外寺地新堀村辺之部 1856 国立国会図書館蔵)修性院も1756(宝暦6)年より庭園を「造りそむ。巌石をたゝミ上け、奇木花草時をあらそひ、橋をかけわたし、坂をのほりてその詠め尽すべからず。四時の荘観、人跡たゆる事なし」という状況だった。(註194)また境内には「三十番神堂 聖徳太子及毘沙門ノ像ヲモ安置ス毘沙門ハ伝教大師ノ作ト云」と付属施設もあった。(註195)
大田南畝の記録によれば、修性院創建の時期について、

「◆日暮里修性院開基の事
江戸日暮里修性院日蓮宗に石表あり。
夫当寺開闢者元禄年中権現院日遶上人到于斯境一寺建立
 寛永庚戌【1634(寛永11)年】迄凡九十余年          八世越智院日政」

とあるが(註196)、各寺の庭園が連担し、境界が不明瞭のため、妙隆寺の石碑を修性院のものと誤認した可能性が強い。権現院日遶上人が「観理院日堯上人」(註197)または「観理院日遶上人」(註198)の誤読もしくは誤記であれば、妙隆寺の開祖であり、妙隆寺の創建を記したものである。

2001年、立教開宗750年記念行事として、修性院本尊仏像の修復遷座が行なわれた際に、釈迦如来、多宝如来坐像と四天王像の胎内から古文書が発見され、1673(寛文13)年の大和新庄藩主桑山修理丞一玄の造立願文であることが確認されている。伝教大師の作といわれた毘沙門天像も含む四天王の胎内からは、桑山修理丞一玄の妻覚恩院月桂日要の願文が発見された。また、『本土寺過去帳』によれば、覚恩院は、下総平賀本土寺(日蓮宗)の燈明料を永代寄進しているという。(註199)なお、願主の桑山修理丞一玄は、千利休の孫弟子にあたる茶人でもある。

さらに、同時に発見された30軀の三十番神坐像の墨書銘文に1677(延宝5)年、1680(延宝8)年、1684(貞享1)年の年号が記され、願主は本阿弥六郎右衛門であることが判明している。(註200)江戸期に刀剣のとぎ(磨研)、ぬぐい(浄拭)、めきき(鑑定)の3業を家職としたとした本阿弥家の一族中に、通称を六郎右衛門と称するものが複数人存在するが、彼もその一人であろう。本阿弥家は法華宗に帰依しており、信仰の証として代々名前の一字に「光」の字がつけられているという。(註201)

修性院の作庭を担当したのは、岡扇計という人物であったことが諸書に記されている。これもまた大田南畝が、

「◆日暮里修性院石表
谷中日暮里修性院
山上に四面の石碑あり」として図を配し、
「日暮の宮
宝暦六年丙子十月廿一日【1756年11月13日】開
発起 高田義石
    庭造 岡 扇計
不二つくばあひの木がらしひゞく庭」

と書かれていたことを記録している。(註202)

残念ながら、高田義石、岡扇計ともに個人を特定できる正確な情報はない。探索のキーとなるのは、石碑に発句が刻まれたという事実と、隣寺妙隆寺の作庭に俳諧師が関与しているという経緯である。以下は、現時点での調査結果である。決定的なものは何もないが、今後のために記録しておく。

岡扇計については「京都の名人庭師」という説があるが(註203)、確実な根拠文書に見当たらない。作庭者を岡扇計とする記述は、大田南畝の『四方のあか』にも「妙隆寺の庭より修性院の山つゞきは、宝暦六のとし庭つくりのたくみ、岡扇計がつくる所にして、日暮しの宮といへる、小さき宮居の前に石ぶみたてり。富士筑波あひの木がらしひゞく庭、といへる句をきざむ。紅葉のにしき折えがほに二月の花毛氈もこれには過ぎじと覚ゆ」(註204)とあるが、斎藤月岑『武江年表』1756(宝暦6)年条には、

「○十月 谷中修性院の庭、今年より開き、毎春遊観の所となる(発起高田氏、庭作岡扇斗、碑を立て、左の句を鐫す。
  不二つくはあひの木からしひらく庭)。」(註205)と記されており、作庭者名と発句の文面に異同がある。
大田南畝の文は、先に引用したフィールドノートに依拠しているが、大田南畝の釈文等にやや不正確なところがあり、斎藤月岑の情報もフィールドワークによる石碑の実見に基づくものであるとすれば、『武江年表』の釈文が正しいかもしれず、作庭者の名の候補に「岡扇斗」を上げる必要があろう。

 


 

註146 佐𦚰栄智校注『戦国遺文後北条氏編別巻 小田原衆所領役帳』東京堂出版 1998による。『続群書類従』本では、
「一遠山弥九郎。
知行江戸屋敷駒込新堀
都合百二十貫文 〔人数着到如高辻出銭共。知行役ハ葛西在城ニ付御免。〕」(『小田原衆所領役帳 又北條家所領役帳』『続群書類従』巻七百十一本第25輯上 武家部五十七、『続群書類従 第25輯上』続群書類従完成会 1924による)とある。
註147 曲亭馬琴「新掘山」『烹襍乃記 上巻』(にまぜのき)羣鳳堂 群玉堂 1811、『滝沢馬琴集 第八巻』古典叢書 本邦書籍 1989により、文中の漢文は読み下し、句読点を付した
註148 「新“うつくしま、ふくしま。”県民運動ポータルサイト/県民運動の歩み 100年後も…いきいきふくしまうつくしま」福島県公式サイト
註149 朝輝斎千春作 常英斎画『新編王子詣〈頭書七福神詣〉』江都上野麓下谷町花屋久治郎 1798、テクストは石川謙編纂『日本教科書大系 往来編 第10巻 地理(二)』講談社 1967により、塚田芳雄『王子・飛鳥山・田端拾葉帖』東京都北区郷土資料館調査報告 第9号 東京都北区教育委員会 1994を参照して読点を追加した
註150 百瀬耕元撰『飛鳥山往来』前川六左衛門 松本平助 三崎屋清吉 刊年不記(1814以前)、テクストは石川謙編纂『日本教科書大系 往来編 第10巻 地理(二)』講談社 1967による
註151 滝亭鯉丈『花暦八笑人 初編二の巻』文永堂大島屋伝右衛門 1820、興津要『花暦八笑人 上』講談社文庫 古10 1 講談社 1972による
註152 鈴木圭一「「栗毛後駿足」から「花暦八笑人」へ―江戸周辺の膝栗毛物との関わり―」『文学・語学』第105号 全国大学国語国文学会 1985年5月
註153 『武州豊島郡新堀村絵図』1855によるが、同時期に他の名称もある
註154 根崎 光男「生類憐み政策の成立に関する一考察―近世日本の動物保護思想との関連で―」『人間環境論集』5巻1号 法政大学人間環境学会 2005年3月
註155 速水融 宮本又郎「概説 十七‐十八世紀」『日本経済史 1 経済社会の成立 17‐18世紀』岩波書店 1988
註156 北区史編纂調査会『北区史 通史編 近世』東京都北区 1996
註157 落合淳思『甲骨文字に歴史を読む』ちくま新書732 筑摩書房 2008
註158 『吾妻鑑 巻十七』建仁3年6月条、テクストは与謝野寛 正宗敦夫 与謝野晶子編纂『日本古典全集 吾妻鑑 第四』日本古典全集刊行会 1926による
註159 根崎光男「生類憐み政策下における放鷹制度の変容過程」『人間環境論集』1巻1号法政大学人間環境学会 2000
註160 『文京区動坂遺跡』動坂貝塚調査会 1978、根崎光男『将軍の鷹狩り』同成社江戸時代史叢書3 同成社 1999
註161 北区史編纂調査会『北区史 通史編 近世』東京都北区 1996、太田尚宏「享保改革期における「御場掛」の活動と植樹政策」竹内誠編『近代都市江戸の構造』三省堂 1997
註162 呉陵軒可有等編『誹風柳多留 八篇』1773、山沢英雄校訂『誹風柳多留(二)』岩波文庫3969‐3970 岩波書店 1951
註163 呉陵軒可有等編『誹風柳多留 二十一篇』1786、山沢英雄校訂『誹風柳多留(五)』岩波文庫3975‐3977a 岩波書店 1956
註164 成島竜洲『飛鳥山碑始末』1808
註165 白幡洋三郎『庭園の美・造園の心 ヨーロッパと日本』NHK人間大学テキスト 1998 4月~6月期 日本放送出版協会 1998
註166 田中道雄「郊外散策の流行―新しい場としての自然―」岩波書店2000、初出は「春日郊行の俳諧―新しい場の成立」『江戸文学』3号 ぺりかん社 1990、口頭発表は1977年 日本近世文学会秋季大会
註167 西山松之助「大都市江戸の特色」『西山松之助著作集 第三巻 江戸の生活文化』吉川弘文館 1983、同様の趣旨はすでに『文京区史 第2巻』文京区役所 1968に発表されている
註168 西山松之助「大都市江戸の特色」『西山松之助著作集 第三巻 江戸の生活文化』吉川弘文館 1983
註169 笹島幹広 篠野志郎 服部佐智子「『宴遊日記』にみる近世江戸の都市内外出行動」『2007年度日本建築学会関東支部研究報告集II』日本建築学会 2008に定量的分析がある
註170 『安政三辰年十月調 御府内塲末其外往還沿革図書 弐拾壱 元下』谷中本村松平三河守抱屋鋪七面社地延命院其外寺地新堀村辺之部 1856 国立国会図書館蔵
註171 『宝永七年以来改寺社帳』1713 国立国会図書館蔵
註172 『新編武蔵風土記稿 巻之十八』(1828成稿)内務省地理局 1884、適宜句読点を追加した
註173 『雑糅』、『東京市史稿 遊園篇第弐』東京市役所 1929による(東京大学史料編纂所「近世編年データベース」から閲覧可能)
註174 「岡田米仲点印塚 天明6年【1786年】在銘」臨済宗円覚寺派 寒光寺 慧然寺公式サイト
註175 「俳家人名録(歿年不詳者)」平林鳳二 大西一外『新選俳諧年表 附 俳家人名録』書画珍本雑誌社 1923
註176 鈴木勝忠『綿屋文庫俳諧書目録俳号堂号姓名総索引』私家版 1955
註177 角醒秀億『標雑談』西村源六 西村市郎右衛門 1763
註178 秀億『葛藤』須原屋茂兵衛 梅村三郎兵衛 大野木市兵衛、南寿堂蔵版 1768
註179 珠来編『江戸十余歌仙』西村源六 1752
註180 岡田米仲『靱随筆』西村市良右衛門 西村源六 1759
註181 芳賀矢一編『日本人名辞典』大倉書店 1914、検索には国文学研究資料館 地下家伝・芳賀人名辞典データベースを用いた
註182 後藤建坊「武玉川辞書」武玉川を歩むサイト
註183 栖鶴編『両兎林』柳枝軒1759、早稲田大学近世貴重本研究会 雲英末雄 伊藤善隆 二又淳「影印・翻刻『両兎林』」早稲田大学図書館紀要編集委員会『早稲田大学図書館紀要』第54号 早稲田大学図書館 2007
註184 森川昭「千代倉家日記抄 三十三―安永五年(学海)―」帝京大学文学部『帝京大学文学部紀要 日本文化学』36号 2005
註185 加藤郁乎『江戸俳諧歳時記』平凡社1983
註186 花咲一男『柳沢信鴻日記覚え書』三樹書房 1991
註187 角醒秀億『標雑談』1763
註188 『会席留雨雪庵扣写上』、『会席留雨雪庵扣下』、野村瑞典『宗徧流 歴史と系譜』光村推古書院 1987所収写真図版による
註189 近藤義休『新編江戸名所図誌 前編 巻之五』文化年間(1804~17)頃成立、長沢規矩也 財部建志 前島康彦責任編集『江戸地誌叢書 巻五 新編江戸名所図誌』有峰書店 1974 により、適宜句読点を付した
註190 『荒川区史』東京都荒川区 1989
註191 日蓮宗寺院大鑑編集委員会『宗祖第七百遠忌記念出版 日蓮宗寺院大鑑』大本山池上本門寺 1981、都守基一「再興なった修性院の諸尊像―胎内文書にみる近世大名の法華信仰―」『法華』942号 2002による
註192 『新編武蔵風土記稿 巻之十八』(1828成稿)内務省地理局 1884
註193 『安政三辰年十月調 御府内塲末其外往還沿革図書 弐拾壱 元下』谷中本村松平三河守抱屋鋪七面社地延命院其外寺地新堀村辺之部 1856 国立国会図書館蔵
註194 近藤義休『新編江戸名所図志 前編巻之五』文化年間(1804~17)頃成立、長沢規矩也 財部建志 前島康彦責任編集『江戸地誌叢書 巻五 新編江戸名所図誌』有峰書店 1974 により適宜句読点を付した
註195 『新編武蔵風土記稿 巻之十八』(1828成稿)内務省地理局 1884
註196 大田南畝『一話一言 巻三十』、テクストは浜田義一郎『大田南畝全集 第14巻』岩波書店 1987による
註197 在修性院妙隆寺廿四世日義墓碑による
註198 佐々木広光『日暮里町史』日本史蹟編纂会 1926、身延山関東別院 日蓮宗妙隆山玉川寺公式サイトによる
註199 都守基一「再興なった修性院の諸尊像―胎内文書にみる近世大名の法華信仰―」『法華』942号 2002
註200 山口桂三郎「修性院と浮世絵」坂輪宣敬博士古稀記念論文集刊行会『坂輪宣敬博士古稀記念論文集 仏教文化の諸相』山喜房佛書林 2008
註201 特集「本阿弥光悦」日蓮宗佐賀県宗務所サイト
註202 大田南畝『一話一言 巻三十一』1805、テクストは浜田義一郎『大田南畝全集 第14巻』岩波書店 1987による
註203 平塚春造「諏訪台山人懐古録(二)日暮里時代の久保田万太郎」木村芳雨研究俳句雑誌『東駒形』狐大月 通巻第34号 散不居 浦野栄一 1977年12月10日、西日暮里三丁目まちづくり協議会「(参考資料)西日暮里三丁目の歴史的資源」2006等
註204 大田南畝「日ぐらしのにき」『四方のあか 巻上』蔦屋重三郎 1781、浜田義一郎『大田南畝全集 第1巻』岩波書店 1985による
註205 斎藤月岑『武江年表』、テクストは今井金吾校訂『定本武江年表 上』ちくま学芸文庫エ1 9 筑摩書房 2003による

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