今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.


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19番目の富士見坂(下の3)帝国小学校と富士見坂の成立(3) 19th Fujimizaka and Sekiji Nishiyama’s Adventure in United States, part 2

1928年7月13日、再び訪れたニューヨークを発った西山哲治(惁治)は大西洋を横断してプリマスに上陸、ロンドンを経てパリへ行き、リヨン駅から南仏へ鉄道の旅。

 八月一日(水) 朝は三フランで五分間にパン、ココアなどたべる。晝は十五分間にコーヒー、サンドウイツチ(食堂車なし)などたべた。隣の陸軍少佐が二ツ目の驛で下車せよと教へてくれた。アメリカの旗を立てゝ恩人アリス女史が驛まで來てくれてゐたとのこと。面會出來ないで一足先に自動車で小丘の上の別莊へつく。伊太利人夫婦に案內されて二階へ上る。自分の宿る部屋へ荷物を運ばせて浴室でからだをふき汗のじゆばんを取かへ服をかへてゐたら、アリス女史の聲「來てくれ」と。直ちに下へ降りて行つた。十八年ぶりの恩人八十六歲の老女史の手をとる、ホツペタにキツスされた。ポーチへ出て直ちにお茶、菓子をたべる。間もなくコーヒーやブドウ酒も出る。つきせぬ話に十時過ぎまで市內の平和なニースを一眸の下に眺めつゝ語る。明日は十時までねるといつて。(註1)

恩人アリス老女史と寫す『最近歐米に於ける職業指導の實際』より
恩人アリス老女史と寫す『最近歐米に於ける職業指導の實際』より
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19番目の富士見坂(下の2)帝国小学校と富士見坂の成立(2) 19th Fujimizaka and Sekiji Nishiyama’s Adventure in United States, part 1

1906年秋、ニューヨーク。無事ニューヨーク大学に入学したものの生活に困った西山は、「紐育の家庭に入るチヤンスを得申候間これより米國の家庭を實地に觀察するを得可申これに對する見解など何れ便を重ねて御報導申すべく候」と報告する。(註1)すなわち、「スクールボーイ」となったのである。西山はのちに「米國の地や日本の女學生を遇するに親切到らざるなく夏季四ヶ月の家庭勞働に於て優に一學年を支ふる學資を得せしむること容易なり」というが(註2)、実体験によるものであろう。

 幸にもブロンクスに住む醫學博士レベルソン博士の學僕として月二十五弗を得て通學することを許された。博士は猶太人の獨身者で同室のアパートに生活し、現在の種痘法に反對し、服藥して天然痘を完全に豫防し得るといふ新學説の大著述を編纂中であつたから英文原稿の清書も手傳つた。
 博士の許に二年餘り御厄介になつた。其の間、博士は歐洲へ旅行され、六ケ月間留守を守つて猛勉強することも出來た。(註3)

Montague Richard Leverson, wikimediaによる
Montague Richard Leverson, wikimediaによる
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19番目の富士見坂(下の1)帝国小学校と富士見坂の成立(1) 19th Fujimizaka and Sekiji Nishiyama’s Way to America

「山手線電車に乘つて大塚巢鴨間をお通りになる方は、上野行の電車が大塚を出ると間もなく、右側の二階建の校舍に『帝國人形病院』と横に書いてあるのを御覽になるでせう。」(註1)「人形病院」を併設する帝国小学校と帝国幼稚園は、1912年、西山惁治(にしやま せきじ、1917年に哲治=てつじと改名)の創立した「大正自由教育」の学校の1つである。

 西山哲治(1935)『私立帝國小學校經營廿五年』より
西山哲治(1935)『私立帝國小學校經營廿五年』より
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19番目の富士見坂(上)またの名を、あさみ坂(浅見坂)19th Fujimizaka also known as Asamizaka in Otsuka

田代博さんによれば、都心部に18の富士見坂が知られているという。(註1)今回、19番目の富士見坂が存在したことを確認したので報告する。引用文のうち、田村隆一の作品は初出によった。また、翻字中、下線で表現したのは、原文では傍点の箇所である。

日暮里富士見坂の報道状況の補遺作業をしている中、大塚三業地近くに富士見坂があったと報じる『朝日新聞』の記事を見た。坂の名は、平山蘆江作詞の「大塚ぶし」という小唄の中に登場するという。(註2)『市町村別 日本國勢總攬』(1934)に基いて再建した歌詞は以下のとおり。『三都花街めぐり』(1932)に載る異文を「松川本」として注記する。

平山蘆江『現代大衆文學全集-第二十二卷』より

平山蘆江『現代大衆文學全集 第二十二卷』より


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魯迅と日暮里(74)南波登発の「亞細亞」への視線(49)異形の人物との邂逅そして仏教布教者の時代(中の2)幸徳秋水、そして中村信次郎 Nakamura Shinjiro, the uncanny person, part 3 おうちでできる暫定版

約半世紀ぶりに『デカメロン』(Il Decameron)を読んでみた。昔むかし、岩波文庫の星1つが50円から上がる時に買って読んだのだが、すこし前、古本屋の店先で100円均一の棚に新潮文庫版を見かけ、探したら全10冊が集まったのだった。その時には、まさかこんな事態になるとは予想もしなかった。同書は、ウマニスタ(umanista)のジョヴァンニ・ボッカッチョ(Giovanni Boccaccio)の執筆。ヨーロッパ中世に終わりを告げたペスト・パンデミック後の時代状況を背景に、イタリア・ルネサンスを切り拓いた文芸作品群の1つである。ストーリーは、病禍を逃れようと郊外のお城に避難した男女により、10日間に及んで語られた物語に仮託される。デカメロンの第1日目は、次のことばではじまる。

いともやさしい淑女方よ、どんなにあなた方が生來心から情け深くていらつしやるかということをつらつら考えます度に、私はいつもこの作品が、あなた方の御判斷では、さぞ重苦しいうるさい書きだしになつていることでございましようが、それは存じております。と申しますわけは、本書が冒頭にかかげているあの旣に過去のものとなつたペスト病による死亡の悲しい思い出が、それを見たり、そうでなければそれを知つた者には誰にも一樣にいたましいものだからでございます。しかし、だからといつて、これを讀んでほとんどいつも溜息と淚の日をすごさなければならないのかと早合點して、この先を讀むことをこわがらないでいただきたいのでございます。あなた方にとつては、この恐ろしい書きだしは、ちようど旅人の前にそそり立つた、近くに美しいこころよい平地をひかえている險阻な一つの山にほかなりません。その平地は、これを上り降りする苦勞が大きければ大かつただけ、あなた方にとつては樂しいものとなるのでございます。(註1)

Decameron,-1492,-Biblioteca-Europea-di-Informazione-e-Cultura-collection

Decameron, 1492, Biblioteca Europea di Informazione e Cultura collection


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