今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

19番目の富士見坂(下の3)帝国小学校と富士見坂の成立(3) 19th Fujimizaka and Sekiji Nishiyama’s Adventure in United States, part 2

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1928年7月13日、再び訪れたニューヨークを発った西山哲治(惁治)は大西洋を横断してプリマスに上陸、ロンドンを経てパリへ行き、リヨン駅から南仏へ鉄道の旅。

 八月一日(水) 朝は三フランで五分間にパン、ココアなどたべる。晝は十五分間にコーヒー、サンドウイツチ(食堂車なし)などたべた。隣の陸軍少佐が二ツ目の驛で下車せよと教へてくれた。アメリカの旗を立てゝ恩人アリス女史が驛まで來てくれてゐたとのこと。面會出來ないで一足先に自動車で小丘の上の別莊へつく。伊太利人夫婦に案內されて二階へ上る。自分の宿る部屋へ荷物を運ばせて浴室でからだをふき汗のじゆばんを取かへ服をかへてゐたら、アリス女史の聲「來てくれ」と。直ちに下へ降りて行つた。十八年ぶりの恩人八十六歲の老女史の手をとる、ホツペタにキツスされた。ポーチへ出て直ちにお茶、菓子をたべる。間もなくコーヒーやブドウ酒も出る。つきせぬ話に十時過ぎまで市內の平和なニースを一眸の下に眺めつゝ語る。明日は十時までねるといつて。(註1)

恩人アリス老女史と寫す『最近歐米に於ける職業指導の實際』より
恩人アリス老女史と寫す『最近歐米に於ける職業指導の實際』より

イタリア人夫婦の名は「ジヨーヂと妻アンテネ」、2人には3歳の子どもと母がいた。同宅で「レエクラーリア【L’Éclaireur de Nice, journal républicain quotidien】記者アントイネ、アルベルト君(五十歲)」や「クエーカー宗の人で巴里で働いてゐるヘンリー、バンイドン君」、さらに「大の希臘好」の「デイモンド、ダンカン君」らの訪問を受けたあと、妻と生徒に手紙を書く。

 今から二十年前、紐育で私が勉強をしてゐましたその頃、二年あまりの間慈母の如く私をよく世話して下さつたアメリカのおばあさん。美術家でアリスドンレビー女史(本年八十六歲)は三年前から佛國ニースのペチトピオル小丘にレゴビーといふ美しい別莊を作り住んでゐます。私は七月卅日巴里から汽車で十八時間かゝる此のニースの町へわざ〱お訪ねして老恩人に先年のお禮を申述べました。八月一日ニースへ着いたときはアメリカの旗を立てゝ私を迎へに來てくれたのであるが驛で行違ひとなり私の方が一足先に自動車でレゴビーの別莊へつきました。景色のよい、この山の上の別莊ですゝめらるゝままに三ケ月に亘り引つづく旅の疲れを私は八月六日まで憩ひました。八月五日午前十一時此の別莊の庭園に於て老恩人と寫眞をとりました。當町新聞社の寫眞技師の伊太利人が寫してくれました。私はお禮のしるしに千フランを狀袋に入れて老恩人に差上げ、二十年の後此のニースの町で小さい恩返しをして老女史の喜ばるゝ顏を見たことは今回の旅行中の最大な喜びの一つでありました。明日は汽車で二十數時、伊太利瑞西を經て獨逸に入り、伯林に宿る。居ること十日、卽ち八月十八日頃出發、いよ〱入露、シベリヤ經由にて歸朝の途につきます。(註2)

文中の「ペチトピオル」はPetit Piol(プティ・ピオル)でニースの旧地名(後述)、「レゴビー」はLe Gourbi(小屋)、アラビア語マグリブ方言قربي(qurbî, 血縁親族の集う場; 家庭)からの借用語である。(註3)

Nice. Vue générale prise du Petit Piol (c1920)
Nice. Vue générale prise du Petit Piol (c1920)

 八月五日(日) けさは八時、ジヨーヂが朝食を持つて二階の私の部屋へ來てくれた。九時に起きて荷物を整理して十時下へ降りてアリス女史に會ふ。アリス女史は私の扇子に何か畫いてくれてゐた。長男にコンパス、長女に胸飾り、六人の子供に書物一册づゝくれた。【中略】午後はひるね一時間の後入浴四時下に來る。アリス女史は扇子に畫きつゝあつた。ビスケツト一鑵、ブドウ酒小一本、(ゆで)卵三個汽車中へ持込む。午後五時、ポーチにてお茶、それからアリス女史とアトリエや頂上の方の庭を見てまはりスケツチ幾枚かを見せてもらひ、又、數枚貰ふ。(註4)

 八月六日(月) けふはニースの町を出發する日、二十年前私の紐育に於ける恩人アリス女史に別れを告げて獨逸入りのために出發の日である。大戰後は一週間に二日、月曜日の外、金曜日(宗教的として)牛肉なしデーとされてゐる。【中略】八時、アリス女史と共に食堂で朝食した。ジヨーヂの小さな子供にお小遣十フラン與へた。彼の母も大喜びであつた。一時間あまりポーチにて休みアリス女史と語る。そこへアメリカからフアラー女史の禮狀が來た。又ニースの新聞に出た私の記事ののつた新聞も郵送された。(註5)

 十時になつたからアリス老女史と馬車にてステーシヨンへ出かける、十時半にはニース驛へつく、汽車は旣に私を待つてゐてくれた。直ちに乘り込む。
 プラツトフオームにはいつまでもいつまでも老恩人は立つて私を見送つてくれてゐる、まことに淚ぐましい別離の光景、數年後又相會するまで健全にとは言つたが或は之が見おさめであらう。併し小さい御恩返しが出來てよかつた。アリス女史と別れた。十一時に汽車は出る。十二時までは佛國の領域、海邊を右に左には小山、小山の上には美しき家が窓より窓へと展開して旅情を慰めてくれる。(註6)

Alice Donlevy, by Clara Ruge (1892) A woman of the century, University of Illinois Urbana-Champaign蔵より
Alice Donlevy, by Clara Ruge (1892) A woman of the century, University of Illinois Urbana-Champaign蔵より

長々と引用したが、西山に親愛の情を示した「アリス、ドンレビー」は、イングランド・マンチェスター生れのアリス・ドンレヴィ(Alice Heighes Donlevy, 1846-1929)。スペイン系アイルランド人(註7)ジョン・ドンレヴィ(John Intagilo Donlevy, 1817-1872)を父に、ジェニー紡績機の真の発明家トマス・ヘイ(Thomas Haye, Hayes, Highs, Hughes, 1718-1803)の孫でロバート・オーウェン(Robert Owen, 1771-1858)の親友一家に生れたアリス・ヘイ(Alice Haye, 1825-1851)を母に生れた。1848年、一家はともにアメリカに移民する。(註8)
5歳で生母が死去したのちの1856年、ニューヨーク・トリビューンの編集者だったホレス・グリーリー(Horace Greeley, 1811-1872)に才能を見出され、10歳にしてCooper Union’s School of Design for Womenに入学。(註9)師はフレンド派(クェーカ)のグリエルマ・フィールド(Gulielma Field, 1814-75)。(註10)7年間彫刻を学んだのち、カリグラフィと写本装飾に転向。美術評論各誌に投稿するなか、禁酒主義者ウィリアム・デモレスト(William Jennings Demorest, 1822-1895)創刊の女性向けファッション誌『Demorest Monthly Magazine』のアートエディタとなり、美術評論も担当。1867年には8人のプロ芸術家とニューヨーク女性美術協会(Ladies’ Art Association of New York)を創立し、1877年に法人化した時点で50人のメンバーがいた。(註11)メンバーと事務員のほぼすべてがフレンド派だったといい(註12)、ドンレヴィ自身も『Friends’ Intelligencer』に記事を寄せ(註13)、ニューヨーク年会に出席しており(註14)、フレンド派の信者であった。

Harriet Farley『Woman's Record』より
Harriet Farley『Woman’s Record』より

アメリカ移住後の1854年、父はマサチューセッツ生れのハリエット・ファーリー(Harriet Jane Farley, 1812-1907)と結婚。(註15)彼女は繊維工場に勤務して女性労働者の文芸雑誌The LowellOffering、ついでThe New England Offeringの編集者となるほか、マサチューセッツ反奴隷制協会(Massachusetts Anti-Slavery Society)に加盟する。彼女の立場は道徳的信念(moral persuasion)に基いており、工場労働における劣悪な条件への抗議が改良主義との批判を受けつつも、アメリカ初期の女性作家、初期フェミニストとしての人生を送った。(註16)同時期はフェミニズムと黒人解放運動が乖離、労働運動では労働騎士団(Knights of Labor)が衰退し、熟練労働者中心のアメリカ労働総同盟(American Federation of Labor)の全盛時代へと変質していくなど、厳しい時代にあった。
フレンド派は、平等主義と平和主義を教義に内包しており、教団運営の場面においても女性信徒の実践によって女性会が創立されるなど組織改革が実体化されていた。(註17)また、移住地のペンシルヴェニア植民地では普通教育が先行的に普及確立されており(註18)、1798年には非フレンド派の病児や貧困な子どもたちの教育のための女性協会(New York Female Association, Association of Women Friends for the Relief of the Sick Poor)が設立され、1800年代初頭には最初のFree Schoolが開設され、1845年に組織されるニューヨーク公立学校協会(New York Public School Society)に継承されている。(註19)また、ドンレヴィはニューヨーク女性美術協会を舞台に、8歳から12歳までの少年少女に美術教育を行なっており、「Miss Donlevy’s system of teaching has the merit of compelling the children to do their own thinking【子どもたちが自分自身の考えで行なわなければならない】. And to leave them entirely unconstrained【拘束されない】 by embarrassment【気おくれ】 or the childish vanity【子どもっぽい虚栄心】 of showing off【見せびらかす】, the teacher allows no grown person besides herself to be in the room with them.」という。(註20)西山はニューヨークで最先端のプラグマティズム教育学を学び、諸学校を見学するが、それに加え、ドンレヴィらを通じて学んだ教育の魂は、西山の考える女子教育、図画教育と自主教育の理念に影響を及ぼしたことだろう。
また、扇面への描画について、ドンレヴィは装飾的絵画の技法について『Demorest’s Family Magazine』に詳細を書いたことがある。ジンクホワイトとアイボリーブラックの油性絵具で多相なグラデーションを描いた上に、アルミや銀粉にアラビアゴムを混ぜて描線した絵画を両面に施すのだそうだ。(註21)西山の扇子にも美しいデザインが描かれたに違いない。

米國留學記念⦅其の一⦆『教育界』10(8)より
米國留學記念⦅其の一⦆『教育界』10(8)より

アリス・ドンレヴィは、女性記念基金(Woman’s Memorial Fund)のほか、ボーア戦争への対抗運動であるボーア救援基金女性援助同盟(Woman’s Auxiliary League of the Boer Relief Fund)、女性南アフリカ同盟(Woman’s South African League)に加盟する。後2者の事務局を担当したのが、ジェシー・ファラ(Jessie Quintana Fara, 1883-?)である。彼女がすなわち「フアラー女史」であろう。今1人の候補は、西山が『婦女新聞』で著書を紹介したジェシー・ファウラ(Jessie Allen Fowler)であり、骨相学者(phrenologist)のロレンゾ・ファウラ(Lorenzo Niles Fowler)とアメリカ女性で最初に医学博士の学位を取得したリディア・ファウラ(Lydia Folger Fowler)を両親に1856年に生れ、ニューヨーク大学女性法学部を卒業、父と同じ骨相学者となっている。同じ大学という接点はあるが、西山は「ホウラー」と呼んでおり(註22)、ドンレヴィとの接点もなく、別人物のようだ。1911年にドンレヴィとファラは130 West Ninety-seventh Streetに同居しており(註23)、1938年のファラの住所は「Addresses: Le Gourbi, Petit Piol, Nice; 184 Rue Faubourg, St. Honore, Paris; 44 West 75th Street, New York」で(註24)、ニースの住所がドンレヴィの住んだ家に一致するため、「総合的、俯瞰的な観点から」本推定は「揺るがない」。Petit Piolは、ニース(Oc: Niça ニサ, Nissa ニッサ; It: Nizza ニッツァ; Fr: Nice ニス)市内の旧地名。同地がサルデーニャ王国領の時代(のちフランスに割譲)に同市に生れた建築家Sebastiano Marcello Biasini(Fr. Sébastien-Marcel Biasini, 1841-1913)によりニースの大規模集合住宅群計画の一環として開発された地区である。(註25)

米國留學記念⦅其の二⦆『教育界』10(8)より
米國留學記念⦅其の二⦆『教育界』10(8)より

ジェシー・ファラは、1883年(註26)ニューオリンズ生れ。(註27)Nelson Wheatcroft’s Empire Theatre Dramatic Schoolの出身。遅くとも1894年、子役でデヴュー(註28)、その後多くの舞台に立った演劇人で、1903-04年にNational Art Theatre Society(註29)、1912年にFederation Theatre Co.(註30)に在籍。のち、映画の脚本・脚色を手掛け、文芸・商業翻訳家としてフランス外国人記者クラブに所属した。(註31)1900年、ボーア戦争にたいして「The Boers are the only Christian people that are not savage【野蛮】. And they make me angry because they are so good. Why didn’t they kill all of those monsters 【英兵を指す】they caught instead of letting them go? Don’t they know every one of those creatures killed makes the earth just that much more pure? You have made a just mistake about me. I’m not good. I don’t want to be good. I’d love to furnish【提供する】 some of the oil to boil some of those missionaries in China. 【義和団戦争について】But of course the Chinese are like the Boers[;] they wouldn’t use it.」(註32)と過激な言辞を吐いている。ドンレヴィの帰依するフレンド派の絶対平和主義からは遠いものの、2人の交友関係は深く結ばれていた。

1909年、社会教育を特集した『教育學術界』に、東京高等師範出身で欧米留学を終えて帰国、文部省視学官、のちに衆参両院議員となる服部教一は「歐米に於ては芝居を見に行くのは大人だけで子供を連れて行くといふやうなことは殆んど是を見ないのであります」との「公式見解」を報告するが(註33)、いっぽう留学中の西山は、これにあらがうように「劇場は此れ社會教育の大學なり【14字白丸圏点】」と宣言する。(註34)、ただし、服部教一は、西山哲治の「雜誌「教育の實際」に御登載の論文『教授法の新方面』(本書第十二章結論のこと)は實に有益なる記事と存ぜられ候、我邦小學校及其他の學校に廣く行はるる教授法上の大弊害は教師中心主義に在り、此點は米國の勝れる處にして將來は大に兒童中心主義の教授法を鼓吹する必要ありと認められ候」と称賛し(註35)、帝国小学校設立顧問の1人となる(註36)など、協力姿勢が如実である。
西山が帰国して帝国小学校・帝国幼稚園を開設した後の1920年、長田秀雄、天草種雄、益田甫らが組織(註37)、本居長世が音楽を担当(註38)、秋田雨雀が協力した(註39)童話劇協会に参加(註40)、12月24日から3日間、有楽座で第1回公演(註41)、1921年3月29‐31日と4月3日に第2回公演(註42)を行なったほか、5月28日から6月1日には神戸で興行するが(註43)、「幾何もなくして解散した。」(註44)「児童劇というものが、経済的に成りたたないということが、そして、それを何らかの形で、支えていく地盤といったものも、何ひとつつくられていないということが、現実であった。」(註45)西山は学校教育への演劇の取り込みに意欲を見せ(註46)、活動写真も許容する。(註47)近代日本の児童劇は川上音二郎と巌谷小波のお伽芝居に起源をもち(註48)、三越少年音楽隊、白木屋少女音楽隊、宝塚少女歌劇とつながる流れを別の柱として展開。沢柳政太郎創設の成城学園に招聘、のち玉川学園を創立する小原国芳が広島高等師範学校付属小学校で開始した学校劇の潮流下にあるのは間違いないが(註49)、ジェシー・ファラと西山の関係を考えるとき、彼女の及ぼした影響は大きいだろう。なお長田秀雄は、西山の開院した人形病院に「支那人形二本」を「入院」させている。(註50)

Otto Bernhard Friedmann, Juden und Judengemeinden mährens in Vergangenheit und Gegenwartによる
Otto Bernhard Friedmann, Juden und Judengemeinden mährens in Vergangenheit und Gegenwartによる

アリス・ドンレヴィの肖像画を描いたクラーラ・オッティリエ・ルーゲ(Klara (Clara) Ottilie Ruge (geb. Friedmann), 1856-1937)は、オーストリア生れの画家。モラヴィアのStaré Hobzíから移住したユダヤ人で工場主の一族に生れ、1848年革命に鼓舞されてジャーナリストとなり、ヴィーン(Wien)最大の急進的政治新聞『G’rad’aus』を発刊後ドイツに亡命したオットー・ベルンハルト・フリートマン(Otto Bernhard Friedmann (Fridmann, Friedemann), 1824-80)を父に、枢密顧問官カール・ヴィルヘルム・シュミーダ(Karl Wilhelm Schmieder, zwischen 1750 und 1810-?)の一人娘で、フリードリヒ・フレーベル(Friedrich Wilhelm August Fröbel, 1782-1852)に師事して幼稚園を経営、のちに文筆家となったオッティリエ・シュミーダ(Ottilie Louise Friedmann (Schnahel, geb. Schmieder), 1815-91)を母に生れた。

Gerad'aus an O. B. Friedmann, Juden und Judengemeinden mährens in Vergangenheit und Gegenwartより
Gerad’aus an O. B. Friedmann, Juden und Judengemeinden mährens in Vergangenheit und Gegenwartより

2人は、カール・マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818-83)と『独仏年誌』を編集したアーノルト・ルーゲ(Arnold Ruge, 1802-80)宅の青年ヘーゲル派のサロンで出会い、結婚。ヴィーン帰還後の1858年に『Wiener Wochenblatt』、翌年『Neuesten Nachrichten』(『Wiener Lloyd』と改題して1864年まで出版)を発刊して共同編集者となり、オッティリエは子育て、食事や女性問題についての小説や随筆を発表する。父は絵画の収集家で造園もするなど、芸術的な環境に育ったクラーラは美術の世界に進む。1878年、アーノルト・ルーゲとアクネス・ニーチェ(Agnes Wilhelmine Ruge (geb. Nietzsche), 1814-81)の子息でエンジニアのヘルマン・ルーゲ(Hermann Arnold Ruge, 1843-1912)と結婚、1889年には鉄道建設のためベネズエラに赴任する夫に同行、1891または92年にニューヨークに移住。『Norddeutsche Allgemeine Zeitung』(Berlin)、『Fremden-Blatt』(Wien)やアメリカの新聞の通信員として活動、ニューヨークのドイツ語新聞『Volkszeitung』でも美術、音楽や演劇の批評を30年以上寄稿するかたわら、自身のアトリエ、ニューヨーク教育委員会、ニューヨーク社会科学協会などで美術史を講義した。(註51)ドンレヴィの周囲にはこうした人間関係が形成されていたのである。

Die Freien by Friedrich Engels, wikimediaによる 左端がArnold Ruge
Die Freien by Friedrich Engels, wikimediaによる 左端がArnold Ruge

西山は、ニューヨーク大学で「教育科長バーレツト博士」に「教育學、教育硏究、古典硏究」、「ホーン博士」の「教育哲學」を学ぶ。その他「米國で其の半生を子女の教育に捧げた」「ライエル女史」とも知り合い「貴下(あなた)が日本へお歸りになつて少女を教育なさるに就て注文したいことが只一つ、それは娘どもをして遊ばせることなのです、Let her play!」との助言を受ける。(註52)ただし、「ライエル女史」については不詳。「紐育市小學校長ジヨージ、同教員クイツシ、レーリーの三氏合著「硏究教授法」」の「レーリー」(註53)と同一人物だろうか。また、再渡米時、留岡幸助に託された書籍をニューヨークからモスクワの片山潜に送付(註54)、帰路立寄ったモスクワでは片山潜を2度面会に訪れたものの、果たせなかった。(註55)留岡幸助は帝国小学校の移転地を提供したキリスト者で、1894年から翌年、アメリカの監獄や更生施設見学の際、アンドーヴァ神学校(Andover Theological Seminary)留学中の片山潜と約10日間起居をともにした体験があり、その後もキリスト者としての交流があった。(註56)

1909年5月、西山の修士論文thesis on Japanese History of Educationの一部がSchool and Home Educationに掲載されている。掲載論文はNew Text-book System in Japan. By Sekiji Nishiyama, Japanese Commissioner of Education for the United States.として紹介されており、かつて外交筋から問題視された肩書が使用されている。論文では、教科書疑獄事件によって国定教科書制度が発足したことを解説。その功罪について、a)国定教科書が全国の小学校で一律に使用され、教育の統一の効果を上げたこと、b)委員が出版社から賄賂を受け取るという恥ずべき事態を避けることができること、c)教科書が安価で提供されること、の3つの効果と、a)教科書の改善を阻害しうる制度であること、b)教育の過度な一本化を招き、地方ごとに必要とされる多様な教材を最も現実的ではないものにしていること、の欠陥があると結論する。(註57)こうした意見は、さまざまに変奏される。(註58)

1909年7月30日には、「紐育大學にて「日本教育史」の講演」を行なっている。(註59)時期的にはSummer schoolの中で「On two or three afternoons of each week during the session, special popular lecture will be given in the Auditorium at four O’clock. These lectures will be free to all regular students of the Summer School, and will be open to general public upon payment of a special fee of $3 for the course.」という特別公開講義として行われたものであろう。(註60)講義は、前年に提出された修士論文Japanese History of Education(註61)をベースにし、翌年受理された西山の学位論文「The Educational History of Japan」(註62)の骨子となるものだろう。
講演の翌日、西山は「米國富豪ヒリップ夫人」によりイーストハンプトンの自邸に招かれている。彼女はマーサ(マーガレット)・フィリップス(Martha (Margaret) Bagg Phillips, c1857-1943)で、3ドルを支払って公開講義を聴講したのだろう。Detroit Free Press編集長ジョン・バッグ(John Sherman Bagg, 1809-1870)(註63)の娘に生れ、1901年にはアメリカ自然史博物館の年次会員となった女性である。(註64)夫のフレミング・スタンホウプ(スタナプ)・フィリップス(Fleming Stanhope Phillips, ?-1901)について、西山は「鑛山業に從事したる」というが(註65)、死亡報道ではa rich dry goods merchantと伝える。(註66)アメリカ語の「dry goods」はファブリック、テキスタイル、毛布、ひざ掛け、リボン、毛糸、靴下、帽子、既成服等の繊維製品を意味する。(註67)夫の死後の1901年、遺産トラブルがあり、裁判終審後、アーツアンドクラフトの建築家ジョセフ・ソープ(Joseph Greenleaf Thorpe, 1862-1934)設計による大小2つの住宅の建設が開始された。西山が招かれた家はGrey Gardensの名で現存する。現在の住人は、ファッションデザイナでマタニティ服を中心にブランドを展開するリズ・ラング(Liz Lange, 1966-)である。(註68)

Grey Gardens, Frances Benjamin Johnston撮影(c1916) Library of Congress蔵
Grey Gardens, Frances Benjamin Johnston撮影(c1916) Library of Congress蔵

マーサ・フィリップスは、1913年に屋敷を売却した後も村(Village)に思いを寄せ、1931年、メアリ・ウッドハウス(Mary Kennedy Woodhouse, Mrs. Lorenzo Easton Woodhouse, 1865-1961)の寄付によるギルドホール(Guild Hall)建築の際には、トマス・モラン(Thomas Moran, 1837-1926)画のハワード・ラッセル・バトラー(Howard Russell Butler, 1856-1934)の肖像画を寄贈。1938年のハリケーン(Long Island Express)被害にたいしては、景観保全団体Ladies’ Village Improvement Society(LVIS)に義捐金を送っている。(註69)
西山は、フィリップスについて「少女時代は佛國に學びたりとか、佛、獨、スペイン語に長じ、音樂はその最も好み且つ善くする處、自然を友として植物の蒐集、寫眞、美術の興味を有し、文學に通ず、高等教育を受けたる丈に常識高く趣味深く廣し殊にその資性極めて温順、而も爽快にして人に誇らず、社交に巧にして人を外らすことなく、貧人に對する同情に富み、老母堂に孝養到らざるなき等(とう)、眞(しん)に敬愛の念禁ずる能はざるものありき。」という。(註70)西山は、コロンビア大学植物学教授でブロンクス大公園博物館植物園理事となった「ブリトン博士」(Nathaniel Lord Britton, 1859-1934)と妻で植物学者のエリザベス・ブリトン(ナイト)(Elizabeth Gertrude Knight Britton, 1858-1934)(註71)、学芸員であった「スモール博士」(John Kunkel Small, 1869-1938)とも知り合っているが(註72)、彼女の紹介によるものか、またはその逆であるかもしれない。ただし、エリザベスの出身校を西山がバーナード女子大学(Barnard College)とするのは誤りで、ニューヨーク師範大学(Normal College of the City of New York)の卒業である。

菊池大麓がカーネギーホールで日本の教育について講演した(註73)翌日の1910年2月2日、「余はグールド孃(Miss Helen Miller Gould)に招かれて茶の會に參ず、女史襟を正して『日本に於ける基督教の影響に對する菊池博士の否定的解答に就て如何考へ給ふにや?』と」問われ、「基督教が我が女子教育發達の根本的動機を與へ沒すべからざる一大貢献として新日本の文明史に特筆大書せらるべきものたるを信ず」と返答、「妾も斯く信ずるものにこそ」と言われる。「余之れに勵まされ『日本教育に與へし基督教の貢献』(The Christian Contribution to Japanese education.)と題し、紐育女子美術協會に招かれて演説す、其の草稿は紐育大學バーネツト博士の勸めに依りて一雜誌に寄せたり」。(註74)「紐育女子美術協會」はアリス・ドンレヴィらの組織した美術家団体the Ladies’ Art Association of New York、論文の掲載誌は『The Open Court』、哲学・科学・宗教雑誌であり、全文閲読可能。(註75)ヘレン・グールド(Helen Miller Shepard (b. Gould), 1868-1938)は、鉄道王ジェイ・グールド(Jason “Jay” Gould、1836-1892)の長女に生れ、巨万の富を相続した。さらにニューヨーク大学法学部の先輩で大富豪、母校に図書館や偉大なアメリカ人の殿堂(Hall of Fame for Great Americans)を寄贈するなどスケールがでかい。のちにアメリカ聖書協会の副代表にも選出されている。西山は彼女の創設した基金(Jay Gould Fellowship)から450円(註76)または500円(註77)の奨学金を受けているため、反論可能な相手ではない。日本に帰ってからの著書で、ヘレン・グールドの体験談を次のように書く。まあ、サービストークである。

Helen Gould's Tarrytown House (c1910-15), Library of Congres Bain Collection
Helen Gould’s Tarrytown House (c1910-15), Library of Congres Bain Collection

 余輩が紐育大學に在學中最高額のフエローシツプを與へられた恩人グールド女史は制裁に就て自己の苦しき經驗を有ちて居られるのであつた。
 グールドは人も知る如くハリマン【Edward Henry Harriman, 1848-1909】と併び稱せられた米國の鐵道王の一人である。然るにグールドの品性を疑ふものはグールドが今日の成功を見るまでには幾多の人を欺き、落し入れ踏みつけ、叩き落し人をチートしつゝ其の巨萬の富を作り、其の名を成したものである。而も富成り名をなしたる曉に此等の犠牲者を顧みてやることかと思ひの外、グールドは此等の犠牲者には一瞥も與へず、何等の謝禮をもしない、故にグールドは大いに制裁すべき人物であると説いた。其處で巨萬の富は積んだのであるけれども、グールドは遂に社交界の人々から交際されずして死んだのである。グールドの死後遺產は三人の兄弟に分與された。
 其の幾萬金かを分けて貰つたグールド孃は丁度妙齡の處女であつた。然るに新聞では若しグールド孃に結婚を申込むアメリカ人がありとすれば彼はグールドその人に結婚しやうといふのではなくして實はグールド所有の巨額な金に結婚せんとするものであらう、と、冷評した。斯ういはれたからにはグールドは意地にも結婚が出來なくなつた。今は四十歲を越えたオールドミスとして依然獨身で通して居るのである。【1913年に結婚】
 父の死後グールド孃は父の罪滅ぼしとして少しは社會に善をもなし、社交界へも出入してみたいとの希望を有つて、先づ第一着として紐育の第一のホテルに於て一大レセプシヨンを催し、千名に近い紐育の紳士淑女を招待した。然るに定刻になつても一人の客も來ない。十分過ぎ二十分待てども一人の淑女の影もない、一時間待つても一人として來るものはなかつた。此のグールドは米國の社會的制裁の今更に手強いのに驚き且は恐れて一夜を泣き明かしたのである。  社交界へは到底出入することを許されないから此の方は斷念するとして、せめては小さな慈善をしやうと决心した。そこでグールド孃は自分の馬車に植木の盆栽を五鉢六鉢載せて下町の東方紐育の貧民窟を指して急いだのである。  彼等貧民は穢い狹くるしい一室に五六人の家族が起居して居る、而も彼等は其の日其の日の生活に追はれて到底自然を樂しむことさへ出來ない悲しむべき境遇にあるので、若し此の些細な植物、これも自然の片われである以上、之を彼等に與へなば朝な夕なにこれを窓側に眺めて小さき慰安を得ることもあらう。然らば自分の志は達したものであるとて、此の植木鉢を長屋の子供に與へたのであつた。
 今持つて來た植木鉢の五、六鉢は無事に施し盡したからいざ歸宅しやうと馬車に乘りかける刹那子供等は件の盆栽をつき返しに來て居る。私等はグールドのものは貰はないの、グールドの名は大嫌ひといふ小さき子供の大きな聲がする。盆栽は馬車を目がけて投げつけられる、盆栽は遂ぞ貧民の手にさへ受領されないのであつた。泣きつゝ馬車を驅るグールドの心中は察すべきである。
 小さい慈善に失敗したるグールドを救濟せんとて來つたものは救世軍のブース大將【William Booth, 1829-1912】であつた。ブースは懇々とグールド孃に説いて寧ろ思ひ切つて大きな慈善から始めよと勸告した。最も遠いところの人類を救濟するのは最高善であるとかいつて亞弗利加の傳道事業に對して五十萬金を投ぜしめた。次には日本及支那の東洋傳道に對して幾萬金を寄附した。更らに米國の私立大學に對しても幾萬弗かを寄與した。其の都度新聞紙は生れ代つたグールド孃の大慈善として時々雜報を賑はすのであつた。斯くの如く大慈善を施したグールド孃は社交界の人々の顧みるところとなり、交際を申込むものがだん〲多くなり、今日ではグールド女史といへば米國社交界一方の重鎭と見做さるゝやうになつて居るのである。(註78)

Helen Miller Gould Shepard (c1910-15), Library of Congerss Bain Collection
Helen Miller Gould Shepard (c1910-15), Library of Congerss Bain Collection

学位論文については「英文日本教育史を提出の論文とし、ドクトル、オブ、ペタゴギーの學位を得たのは明治四十三【1910】年五月である。」(註79)ただし、履歴書では6月といい(註80)、年譜には7月に学位授与とある。(註81)ニューヨーク大学の公式記録にSekiji Nishiyama, Pd. M., 09; Pd. D. 10; Gould fellowship, 09: prin. and founder “Teikoku Elementary School” and Teikoku Kindergarden in Tokio. 1217 Sugamo, Tokio, Japan.とあり(註82)、学位取得は間違いなく、7月刊のThe Open Courtに掲載された論文の著者名がDr. Sekiji Nishiyamaとなっているため(註83)、授与はそれ以前のことである。1909年にはExamination in Graduate Schoolが5月1日から15日、Annual Commencementは6月2日となっているため(註84)、西山は試験を終えたあと、学位授与式を待たずに帰国の途に就いている。Herman H. Horne博士から贈られた写真に添えられたはなむけの言葉の日付が20th may 1910となっているので(註85)、出発はそのあとと見られる。このため、1928年6月にニューヨークを再訪した西山は、ガウン(academic dress, graduation gown)と角帽(square academic cap, graduate cap)をかぶった、晴れの姿、あるいはこっ恥ずかしい姿で写真におさまっている。この時、恩師の前で学位授与のコスプレをさせられたのだ。そして、この房飾りのついた帽子は、東京高等師範学校風の三角帽子にアレンジされ、帝国小学校の制服として採用されることになる。(註86)
そして「歐洲經由歸朝の旅費として約四百弗貯へたが未だ五十弗不足なので困つた、それをフアラー女史が貸して吳れた、此の温情は歸國後送金、返濟したが誠に有難かつた、お蔭で倫敦に航し、日英博覽會、英國の小、中、女學校を參觀し、巴里に渡り、マルセーユより船にて明治四十三【1910】年七月、五年ぶりに神戶へ着、歸朝した。」(註87)
西山がアメリカを立った日は年譜に「四月、歐洲見學」とあるが(註88)、6月10日ロンドン発の通信には「小生數日以來倫敦市に於ける學校の參觀に極めて多忙、女學校を參觀いたし候處米國のそれとは餘程萬端の設備異なり居候女子大學として名高きキングス女子大學【King’s College Women’s Department, University of London】、ベツドホード女子大學【Bedford College for Women, University of London】、女子高等師範學校【Home and Colonial School Society?】、倫敦大學【University of London】等參觀いたし候」、「小生は明日朝十時の汽車にて倫敦を發し巴里に向ふ考」といい(註89)、日英博覧会も見物している。(註90)前述した日程からみても4月ではありえず、少なくとも5月半ばを過ぎたあとのことであろう。6月17日のパリからの通信には「小生は明朝マルセーユに向つて巴里を辭することに致候、巴里よりマルセーユまで約十二三時間汽車の窓より佛蘭西の景色よき田舍を見ることと今より樂居候、小生はマルセーユより船にてスエズ運河印度洋を經て歸朝することに决定いたし申候」、「けふは七時よりアメリカの叔母さんの姪なるダンカン孃姊妹に夕食するやう招かれ」たという。(註91)

「アメリカの叔母さん」はアリス・ドンレヴィで、パリに住む「ダンカン孃姊妹」は、彼女の妹のフローレンス・ドンレヴィ(Florence (Flora) Intaglio Donlevy, also named Anna Francesca, 1849-1906)とトマス・ダンカン(Thomas Wellington Duncan, ?-?)の間に生れたメーベル・ジョセフィン・ドゥ・カーシ(Mabel Josephine De Courcy Duncan, 1870-?)、フローレンス・マーガレット・ドンレヴィ(Florence Margaret Donlevy Duncan, 1872-?)、メアリ・エセルドゥリーダ・シドニー・ドンレヴィ(Mary Etheldreda Sidney Donlevy Duncan, 1882-?)の「自助・共助・公助」じゃなかった、「次女・長女・三女」のうちの2人もしくは全部であろう。メーベルとフローレンスは、パリ市パッシの聖母被昇天修道会(Religieuses de l’Assomption et de Passy)で教育を受け、フローレンスは1895年、ウィリアム・ハーディ(William Duff Hardy, ?-?)とパリで結婚する。(註92)ドンレヴィは姪メーベルの住所を「Care of Monroe 7, Rue Scribe, Paris」と書く。(註93)Monroeは、おそらく銀行家のジョン・マンロー(John Munroe, c1860-1904)によって1836年に創立され、パリに支店を持っていたJohn Munroe and companyで(註94)、姪またはその家族がその関係者であったと見られる。また、1882年時点でMrs. Florence I. Duncan, 912 Arch St., Phila.という女性がLadies’ Art Associationのメンバーであったことが分かる。(註95)のちに西山が会うことになる「大の希臘好」の「デイモンド、ダンカン君」(註96)は、こうした人々の縁者ではなかろうか。

アメリカ、ヨーロッパを再訪した西山は、115日に及ぶ旅行の終盤、イタリア、ドイツ、ポーランド、ソヴェト連邦を経て帰還。モスクワからはシベリア鉄道に乗り、満洲、朝鮮を縦断する旅である。1928年9月1日、東京駅到着。「東京驛には東洋大學の石川【義昌】、石井【光躬】幹事、明治圖書會社の藤原【惣太郎】、有牛【崎太郎】君、小學館の宮西【一積】君、親類の數名、生徒父兄の十數名、職員代表四名、卒業同窓生、五六學年七十名に迎へられ、記念撮影して十時過ぎ自動車にて十一時無事歸宅。全校生徒の歡迎會に出席し、土產ばなし三十分にて散會、職員たちと輕い晝食をして留守中の禮を述べ一時に歸り休む。」(註97)さあ、明日からまた忙しい日々がはじまる。

東京驛歸朝『最近歐米に於ける職業指導の實際』より
東京驛歸朝『最近歐米に於ける職業指導の實際』より


註1 西山哲治「第三編 再航記 五七、佛國ニース行、恩人アリス女史を訪ふ」『最近歐米に於ける職業指導の實際』明治圖書 1929
註2 西山哲治「帝國小學校生徒諸君宛書簡」1928年8月6日、「第三編 再航記 六二、ダンカン君の事業を觀る」『最近歐米に於ける職業指導の實際』明治圖書 1929による
註3 Edited by Terry Ramsaye, International Motion Picture Almanac 1937-38, New York: Quigley Publishing Company, 1938; Dictionnaire de l’Académie française, huitième édition, Tome Premier A-G, Paris: Librairie Hachette, 1932; Trésor de la langue française, vol. 9, Nancy: Centre de Recherche pour un Trésor de la Langue Française, 1981, electronic edition (Trésor de la langue française informatisé); Fr. Wiktionary; ghirba (italien, origine arabe), le Forum des Babéliens
註4 西山哲治「第三編 再航記 六二、ダンカン君の事業を觀る」『最近歐米に於ける職業指導の實際』明治圖書 1929
註5 西山哲治「第三編 再航記 六三、恩人アリス女史に別れを告げて」『最近歐米に於ける職業指導の實際』明治圖書 1929
註6 西山哲治「第三編 再航記 六四、フランスの新聞に出る」『最近歐米に於ける職業指導の實際』明治圖書 1929
註7 Donlevy Notes: Extracts From Letters From Miss Alice Donlevy, of New York. 217 W. 125th ST., 6 Jan 1899, cited from Gwendolyn Dunlevy Kelley, A Genealogical History of the Dunlevy Family: Don Levi, Donlevy, Dunleavy, Dunlavey, Dunlevey, etc, Private distribution, 1901
註8 Gwendolyn Dunlevy Kelley, A Genealogical History of the Dunlevy Family: Don Levi, Donlevy, Dunleavy, Dunlavey, Dunlevey, etc, Private distribution, 1901による
註9 Frances E. Willard and Mary A. Livermore, American women: Fifteen Hundred Biographies with over 1,400 Portraits: a Comprehensive Encyclopedia of the Lives and Achievements of American Women during the Nineteenth Century, New York; Chicago; Springfield: Mast, Crowell & Kirkpatrick, 1897; April F. Masten, Art Work: Women Artists and Democracy in Mid-Nineteenth-Century New York, Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 2008; Maura Ives, Teaching Women’s Art in America: Alice Donlevy’s Designs for Christina Rossetti’s Consider, Textual Cultures: Texts, Contexts, Interpretation, Vol. 4, No. 1, Bloomington: Indiana University Press, Spring 2009
註10 Alice Donlevy, Quaker History and Biography. Gulielma Field, Pioneer Painter, Friends’ intelligencer Volume LXXII, Number 29, Seventh month 17, 1915, Page 452-453
註11 The Ladies’ Art Association of New York, The Aldine, Vol. 8, No. 5, 1876; The New York Ladies’ Art Association, The Art Amateur, Vol. 2, No. 2, Jan 1880; Maura Ives, Teaching Women’s Art in America: Alice Donlevy’s Designs for Christina Rossetti’s “Consider,” Textual Cultures, Vol. 4, No. 1, Indiana University Press, Spring, 2009, all cited from JSTOR site
註12 Overview of Ladies’ Art Association records, 1867-1914, Archives of American Art, Smithsonian Institution Collections, Originals in the Friends Historical Library, Swarthmore College
註13 Alice Donlevy, Personal, Friends’ intelligencer Volume LXXII Number 24, Sixth month 12, 1915, page 379; Alice Donlevy, Quaker History and Biography. Gulielma Field, Pioneer Painter, Number 29, Seventh month 17, 1915, Page 452-453
註14 Notes, Friends’ intelligencer Volume LXXII, Number 11, Third month 13, 1915, page 173; New York Yearly Meeting, Number 23, Sixth month 5, 1915, page 363
註15 Gwendolyn Dunlevy Kelley, A Genealogical History of the Dunlevy Family: Don Levi, Donlevy, Dunleavy, Dunlavey, Dunlevey, etc, Private distribution, 1901によるが、記述内容にやや混乱が見える、Harriet Jane Faarley, Center For Lowell History – University of Massachusetts Lowell Librariesを参照した
註16 Edited by Sarah J. Hale, Woman’s Record: Or, Sketches of All Distinguished Women, From “the Beginning” Till A.D. 1850. Arranged in Four Eras. With Selections from Female Writers of Every Age, New York: Harper & Brothers, Publishing, 1853; Harriet Jane Farley, Center for Lowell History – University of Massachusetts Lowell Libraryies; Harriet Farley (1817–1907), Portraits of American Women Writers that appeared in print before 1861,the Library Company of Philadelphia; 相本資子「女性の労働とロウェルの女工たち」『英米文学』第51巻第2号 関西学院大学英米文学会 2007年3月15日; 久田由佳子「市場革命の時代における女工たちの労働運動─マサチューセッツ州ローウェルを中心に─」『愛知県立大学外国語学部紀要(地域研究・国際学編)』第42号 愛知県立大学外国語学部 2010年3月30日; Yukako HISADA(久田由佳子)「The Ten-Hour Movement and the Massachusetts State Legislative Election in 1845」『愛知県立大学外国語学部紀要(地域研究・国際学編)』第47号 2015年3月22日
註17 マーガレット・H・ベーコン著 岩田澄江訳『フェミニズムの母たち アメリカのクエーカー女性の物語』未來社 1993
註18 村田邦子『アメリカ教育理念の形成 植民期ペンシルヴェニア・クエーカー研究』亜紀書房 1993
註19 William Oland Bourne, History of the Public School Society of the City of New York: With Portraits of the Presidents of the Society, New York: Geo. P. Putnam’s Sons, 1873、村田邦子『アメリカ教育理念の形成 植民期ペンシルヴェニア・クエーカー研究』亜紀書房 1993
註20 Academies and Schools, The American Art Review, Vol. 1, No. 3, Jan. 1880, cited from JSTOR site、1882年のSylvester Rosa Koehler, The United States art directory and yearbook: a guide for artists, art students, travellers, etc., New York; London: Cassell, Petter, Galpin & Co., 1882によれば for boys and girls up to the age of fifteen in art industrial educationとあり、年齢が引き上げられている
註21 Alice Donlevy of the “ Ladies’ Art Association.”, Artistic Notes, Demorest’s Family Magazine, Vol. XXVII, No. 12, New York: W. J. Demorest, Oct 1891
註22 在紐育大學 西山惁治「書見餘錄(つヾき)」『婦女新聞』1908年11月13日3面、なお、同記事ではMarriageの著者L. N. Fowlerを母L. F. Fowlerと誤認し「女流の作」とするが誤り
註23 [No Title], New York Times, 12 Nov 1911, Section Drama, Page 5
註24 Edited by Terry Ramsaye, International Motion Picture Almanac 1937-38, New York; Quigley Publishing Company, 1938
註25 Construction Work Abroad. France. [From Consul Williams Dulany Hunter, Nice.], Daily Consular and Trade Reports, 15th Year No. 45, Washington: Bureau of Manufacture, Department of Commerce and Labor, 23 Feb 1912, Page 788
註26 United States Passport Applications 1795-1925, cited from myheritage site
註27 Ed by Terry Ramsaye and Ernest A. Rovelstad (associate editor), International Motion Picture Almanac 1937-38, New York; Quigley Publishing Company, 1938
註28 Alexander Hamilton Laidlaw Jr. , The Charms of Music: Farce in One Act and One Scene, “Music hath charms to soothe the savage breast,” French’s Minor Drama, the Acting Edition, No. CCCLVIII, New York: T. H. French, London: Samuel French, approximately 1894-1895, year of publication is referred to Orbis Cascade Alliance Archives West
註29 Manual of the National Art Theatre Society of New York incorporated, Mar 1904, Office of the Society, 1904
註30 Rosenfeld’s Federation, Variety, 8 Nov 1912, Page 14
註31 Terry Ramsaye, editor, International Motion Picture Almanac 1937-38, New York: Quigley Publishing Company, 1938
註32 Jessie Fara to Mrs. Lasher, November 26th, 1900, Alice Donlevy Papers (MssCol 826), series IV, box 6, The New York Public Library, New York, N.Y., cited from Robin K. Crigler, “When George Washington’s Ghost Turned Handsprings: South African Conflict and American Identity, 1899-1902,” William & Mary ScholarWorks Undergraduate Honors Theses. Paper 33, 2014
註33 文部省視學官 服部教一「歐米の社會教育」『教育學術界』第貳拾卷第貳號(教育學術界十週年紀念 臨時増刊 社會教育の硏究) 同文館 1909年10月20日
註34 在紐育大學院 米國教育學士 西山惁治「米國と社會教育」『教育學術界』第貳拾卷第貳號(教育學術界十週年紀念 臨時増刊 社會教育の硏究) 同文館 1909年10月20日
註35 西山惁治『兒童中心主義 攻究的新教授法』寶文館 1911
註36 西山哲治「二五、本校設立趣旨と檄 (一)本校設立趣旨」『私立帝國小學校經營廿五年』モナス 1937
註37 「娛樂の內に偉大なる藝術の力を與へんと童話劇協會を設立 發起者長田秀雄(談)」『讀賣新聞』1920年9月28日4面
註38 童話劇恊會(広告)『東京朝日新聞』1921年3月28日3面、「三月の芝居 童話劇協會第二回公演」『讀賣新聞』1921年3月30日9面
註39 「少佐の令孃天草浪子さん 此夏輕井澤で野外劇を實演」『讀賣新聞』1921年5月20日5面、關根黙庵「童話劇と落語 「首賣り」と―「づつこけ」と―「擬寶珠」と」『女性日本人』第二卷第七號 政教社 1921年7月1日
註40 「學藝たより ◇童話劇協會成る」『東京朝日新聞』1920年10月5日7面、「女優募集」『讀賣新聞』1920年10月7日4面
註41 「學藝たより ◇童話劇協會公演」『東京朝日新聞』1920年10月29日7面、「▲童話劇協會」『東京朝日新聞』1920年12月20日7面、「◇童話劇協會」『讀賣新聞』1920年12月24日4面
註42 「▲童話劇協會」『東京朝日新聞』1921年3月23日夕刊3面、童話劇恊會(広告)『東京朝日新聞』1921年3月28日3面、童話劇恊會(広告)『讀賣新聞』1921年3月28日4面、「▲童話劇協會」『東京朝日新聞』1920年12月28日7面、「三月の芝居 童話劇協會第二回公演」『讀賣新聞』1921年3月30日9面
註43 「少佐の令孃天草浪子さん 此夏輕井澤で野外劇を實演」『讀賣新聞』1921年5月20日5面、「▲童話劇協會」『讀賣新聞』1921年5月25日7面
註44 坪內博士記念演劇博物館編纂「第五篇 新演劇 第五章 特殊の新劇運動 第四節 兒童劇・學校劇 二、我が兒童劇沿革」『國劇要覽』梓書房 1932
註45 冨田博之「第四章 「童話劇」の挫折と大正期の要約 二、大正期の児童劇団」『日本児童演劇史』東京書籍 1976
註46 米國教育學博士 西山惁治「第五章 攻究主義と思想の補充」『兒童中心主義 攻究的新教授法』寶文館 1911、西山哲治「言語教授の豐富化」初等教育研究會編輯『教育研究』第參百八拾號 大同館 1931年2月1日、「言語教授の豐富化(二)」第參百八拾貳號(教育精神の振興) 大同館 1932年1月1日、『優良児教育法 附 各科學習心理の實際』教育實際社 1932所収
註47 ドクトル・オブ・ペタゴギー 西山哲治「改革制度と活辯問題」『雄辯』第八卷第十三號 大日本雄辯會 1917年11月1日
註48 巖谷小波「童話劇の沿革」『歌舞伎硏究』第十二輯 歌舞伎出版部 1927年5月20日、「童話劇の沿革(二)」第十四輯 1927年7月15日、坪內博士記念演劇博物館編纂「第五篇 新演劇 第五章 特殊の新劇運動 第四節 兒童劇・學校劇 二、我が兒童劇沿革」『國劇要覽』梓書房 1932、秋庭太郎「第十一章 新派劇の發展」『日本新劇史』理想社 1955、冨田博之『日本児童演劇史』東京書籍 1976
註49 小原國芳『学校劇論』教育問題叢書 二 イデア書院 1923、落合聡三郎編「少年演劇の歩み 小原国芳先生に日本の学校劇の生い立ちを聞く」『小原国芳全集 36 教育論文 教育随想(7)』玉川大学出版部 1969
註50 帝國幼稚園長 西山哲治「人形病院及人形供養」『婦人と子ども』第十八卷第十號 東京女子高等師範學校附屬幼稚園內フレーベル會 1918年10月1日
註51 Sophie Pataky, Lexikon deutscher Frauen der Feder. 2. Band: M-Z, Berlin: Carl Pataky, 1898; Brümmer, Franz, Lexikon der deutschen Dichter und Prosaisten vom Beginn des 19. Jahrhunderts bis zur Gegenwart. Bd. 2. 6., Leipzig: Reclam, 1913; Dr. Michael Holzmann, O. B. Friedmann, der Schüler und Freund Adolf Fischhofs, herausgegeben von Hugo Gold, Die Juden und Judengemeinden mährens in Vergangenheit und Gegenwart, Brünn: Jüdisher Buch- und Kunstverlag, 1929; Österreichisches Biographisches Lexikon 1815–1950. Band 9 (Rázus Martin – Savić Šarko), Wien: Österreichischen Akademie der Wissenschaften, 1988; Mirjam E. Wilhelm, Auf Messers Schneide: Geschlechterdifferenz in Der Anatom von Gabriel von Max, Masterarbeiten von Goethe-Universität Frankfurt am Main, Hochschule für Bildende Künste–Städelschule, 2016; Wien geschichte Wiki; Geni.com; Friedmann Family Genealogy
註52 西山惁治「參、先づお花をして遊ばしめよ」『お花は如何にして教育すべき乎』金港堂書籍 1911
註53 西山惁治「自序」『兒童中心主義 攻究的新教授法』寶文館 1911、ただし、初出の米國教育學博士 西山惁治「教授訓練 攻究主義の教授法」『教育界』第十卷第五號 明治教育社 1911年5月1日には「レーリー」を「レーソー」とある
註54 西山哲治「第三編 再航記 三一、ジヨーヂワシントン中學校にホイート博士を訪ねて參觀」『最近歐米に於ける職業指導の實際』明治圖書 1929
註55 西山哲治「第三編 再航記 八三、モスコウ見物、片山潜氏に會へなかつた」「八四、大使館酒匂書記官の談」『最近歐米に於ける職業指導の實際』明治圖書 1929
註56 留岡幸助日記編集委員会編『留岡幸助日記 第1巻』矯正協会 1979、室田保夫『室田保夫』不二出版 1998、牧野虎次編『留岡幸助君古稀記念集』留岡幸助君古稀記念事務所 1933、兼田麗子「第1部 留岡幸助(1864‐1934年) 第1章 留岡幸助―社会事業を本格的に志すまで」『留岡幸助と大原孫三郎の社会思想―日本近代化過程における社会改良実践の一考察―』早稲田大学博士(学術)論文 2006年10月
註57 Sekiji Nishiyama, Japanese Commissioner of Education for United States, New Text-book System in Japan, Comment: Japan Has Educational Troubles, School and Home Education: devoted to The Interests of the Public Schools. VOL. XXVIII, No. 9, Bloomington: Public-school Publishing Company, May 1909
註58 米國教育學博士 西山惁治「教授案は囚はれざる程度に於て必要である」『教育界』第拾卷第拾號 明治教育社 1911年7月1日、西山惁治「●惡教育の硏究(十)▽惡教科書」『東京朝日新聞』1913年7月13日3面、教育學博士 西山惁治『惡教育之硏究』弘學館書店 1913所収
註59 在紐育 西山惁治「高等教育を受けたる米國婦人―米國富豪ヒリツプ夫人に接しての所感―」『婦女新聞』1909年10月22日5面
註60 Special Lecture, New York University Bulletin Vol. VIII, No. 6, The Summer School at University Heights: Fourteenth Year July 1 – August 11, 1908 Revised Announcements, New York: New York University, 18 April 1908
註61 Sekiji Nishiyama, Japanese Commissioner of Education for United States, New Text-book System in Japan, Comment: Japan Has Educational Troubles, School and Home Education: devoted to The Interests of the Public Schools. VOL. XXVIII, No. 9, Bloomington: Public-school Publishing Company, May 1909
註62 Nishiyama, Sekiji, The Educational History of Japan, New York: New York University, 1910; “Diss ms. not available,” cited from Frank J. Shulman, “Japan & Korea: an Annotated Bibliography of Doctoral Dissertations in Western Languages, 1877-1969,” Chicago: American Library Association, 1970
註63 F. A. Barnard, American Biographical History of Eminent and Self-made Men, with PortraitIllustrations on Steel, Michigan Volume, Cincinnati: Western Biographical Publishing Company, 1878; James J. Mitchell, Detroit in History and Commerce: A Careful Compilation of the History and Commerce, Detroit, Mich.: Rogers & Thorpe, 1891; Frank Angelo, On Guard, a History of the Detroit Free Press, Detroit Free Press, 1981
註64 The American Museum of Natural History for the year, Annual report of the president, Treasurer’s report, List of accessions, Act of incorporation, Constitution, By-laws and list of members for the year 1901, New York: American Museum of Natural History, 1901
註65 在紐育 西山惁治「高等教育を受けたる米國婦人―米國富豪ヒリツプ夫人に接しての所感―」『婦女新聞』1909年10月22日5面
註66 In Matrimonial Tangle: Rich Man’s Friends Seek to Annul His Marriage: New York, Dec. 16, The Wichita Daily Eagle, 27 Dec 1901, Page 3
註67 Webster’s New World College Dictionary, Fifth Edition, Houghton Mifflin Harcourt, 2014; George S. Cole, A Complete Dictionary of Dry Goods and History of Silk, Cotton, Linen, Wool and other Fibrous Substances, including a full explanation of the modern processes of spinning, dyeing and weaving, with an appendix containing a treatise on window trimming, German words and phrases, with their English pronunciation and signification, together with various useful tables, Revised Edition, Chicago: W. B. Conkey Company, 1892
註68 Stanhope Phillip’s Will Admitted, The New York Times, 3 Apr 1901; Steven Petrow, The Lost Hamptons, Mt. Pleasant: Arcadia Publishing, 2004; Grey Gardens, en.wikipedia
註69 Philips Mrs F Stanhope (Martha Bagg) Mrs. Martha B. Philips, The East Hampton Star, 2 Sep 1943, Page 1 cited from NYS Historic Newspapers site
註70 在紐育 西山惁治「高等教育を受けたる米國婦人―米國富豪ヒリツプ夫人に接しての所感―」『婦女新聞』1909年10月22日5面
註71 西山惁治「二十六、女魂男才主義の女子教育は如何にすべき」『お花は如何にして教育すべき乎』金港堂書籍 1911
註72 西山哲治「第三編 再航記 三九、ブロンクス植物園スモール博士に招かる」『最近歐米に於ける職業指導の實際』明治圖書 1929
註73 Baron Kikuchi, New Japan: Its Intellectual and Moral Development. An address delivered before the Civic Forum of New York, 1 Feb 1910, 冨山房 1910
註74 在紐育大學院教育學士 西山悊治「菊池男の紐育に於ける講演」『婦女新聞』1910年4月15日3面、ほぼ同一文が西山惁治「米國に於ける菊池男の講演」教育學術硏究會編輯『教育學術界』第廿壹卷第貳號 同文館 1910年5月10日として載る
註75 Dr. Sekiji Nishiyama, The Christian Contribution to Japanese Education, The Open Court, Vol. XXV No. 7, Chicago: The Open Court Publishing Company; London: Kegan Paul, Trench, Trübner & Co. Ltd., Jul 1911; Dr. Sekiji Nishiyama, The Christian Contribution to Japanese Education, The Inglenook, Vol. XIII No. 33, Elgin: Brethren Publishing House, 15 Aug 1911
註76 西山惁治「履歷書」『幼稚園設立認可願』1912年1月19日付属文書 東京都公文書館蔵、西山哲治「西山哲治年譜」『私立帝國小學校經營廿五年』モナス 1937
註77 西山哲治「西山哲治自傳 四、アメリカに於ける五ケ年の生活」『私立帝國小學校經營廿五年』モナス 1937
註78 米國教育學博士 西山哲治「第四編 知識的教科敎授法 第一章 小學校に於ける修身教授法 第一節 疑はし道徳教育 四、道徳上の制裁」『自學主義各科教授原論』隆文館圖書 1918
註79 西山哲治「西山哲治自傳 四、アメリカに於ける五ケ年の生活」『私立帝國小學校經營廿五年』モナス 1937
註80 西山惁治「履歷書」『幼稚園設立認可願』1912年1月19日付属文書 東京都公文書館蔵
註81 西山哲治「西山哲治年譜」『私立帝國小學校經營廿五年』モナス 1937
註82 General Alumni Catalogue of New York University 1916, New York: New York University, Dec 1916
註83 Dr. Sekiji Nishiyama, The Christian Contribution to Japanese Education, The Open Court, Vol. XXV No. 7, Chicago: The Open Court Publishing Company; London: Kegan Paul, Trench, Trübner & Co. Ltd., Jul 1911
註84 Ney York University Calender, 1909, New York University Bulletin Vol. X, No. 1, Catalogue, New York: New York University, Jan 1909
註85 エッチ、エッチ、ホーン博士『教育界』第拾卷第五號 明治教育社 1911年3月1日寫眞版
註86 巣鴨のむかしを語り合う会 第6回 1986年6月7日 巣鴨のむかし編集委員編『座談会集 巣鴨のむかし 第一集』巣鴨のむかしを語り合う会 1989、「帝国小学校」豊島区教育史研究会編『資料が語る教育豊島の一世紀 上巻』東京都豊島区教育委員会 2000 第6章扉写真図版(出典不詳)、須貝正義インタヴュー 水田健男談話 須貝正義『私説 安藤鶴夫伝』論創社 1994所収
註87 西山哲治「西山哲治自傳 四、アメリカに於ける五ケ年の生活」『私立帝國小學校經營廿五年』モナス 1937
註88 西山哲治「西山哲治年譜」『私立帝國小學校經營廿五年』モナス 1937
註89 在英教育學博士 西山惁治「倫敦だより」『婦女新聞』1910年7月22日4面
註90 在英京 教育學博士 西山惁治「婦人界より見たる日英大博」『婦女新聞』1910年7月29日6面、西山哲治「西山哲治自傳 四、アメリカに於ける五ケ年の生活」『私立帝國小學校經營廿五年』モナス 1937
註91 在佛京 教育學博士 西山惁治「巴里だより(上)」『婦女新聞』1910年8月5日3面、教育學博士 西山惁治「巴里だより(下)」1910年8月12日3面
註92 Gwendolyn Dunlevy Kelley, A Genealogical History of the Dunlevy Family; Don Levi, Donlevy, Dunleavy, Dunlavey, Dunlevey, etc, Private distribution, 1901
註93 Donlevy Notes: Extracts From Letters From Miss Alice Donlevy, of New York. 217 W. 125th ST., 6 Jan 1899, cited from Gwendolyn Dunlevy Kelley, A Genealogical History of the Dunlevy Family: Don Levi, Donlevy, Dunleavy, Dunlavey, Dunlevey, etc, Private distribution, 1901
註94 Death of John Munroe: Well-Known American Banker in Paris Had Long Been III, The New York Times, 2 Dec 1904, Page 9; John Munroe and company, fr.wikipédia
註95 Sylvester Rosa Koehler, The United States art directory and yearbook: a guide for artists, art students, travellers, etc., New York; London: Cassell, Petter, Galpin & Co., 1882
註96 西山哲治「第三編 再航記 六二、ダンカン君の事業を觀る」『最近歐米に於ける職業指導の實際』明治圖書 1929
註97 西山哲治「第三編 再航記 八七、長春、京城、釜山、下關、歸朝」『最近歐米に於ける職業指導の實際』明治圖書 1929、人物同定の根拠は、石井光躬編輯『東洋大學一覽』東洋大學內觀想發行所 1924、『東洋大學一覽 昭和九年度』東洋大學 1935、明治図書株式会社編『明治図書五十年史』明治図書出版 1960、「組合通報 本組合定時總會 精勤者氏名」『圖書月報』第廿七卷第壹號 東京書籍商組合事務所 1929年1月15日、目黒甚七編輯「勤續店員表彰者氏名」『東京書籍商組合五十年史』東京書籍商組合 1937、坪内逍遙『昭和3年日記』1928年2月23日条 逍遙協会編『未刊・坪内逍遙資料集 四 逍遙日記 大正十五年~昭和三年 延葛集 第四号・第五号』早稲田大学演劇博物館内逍遙協会 2001による

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