今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.


コメントする

魯迅と日暮里(43)南波登発の「亞細亞」への視線(18)須戸橋藤三郎 見沼代用水と内水交通、あわせて上武のキリスト者たち(中の5) The Outlaws in Northeast Asia, Chapter 11

大内青巒の証言の中、ただ1人教導職補任の事実が確認されないのが初代三遊亭円朝である。1877年、『東京さ起可゛け』に掲載された次の記事からは、初代三遊亭円朝をはじめとする噺家にとって教導師たらんとする意思や羨望があったことが読み取れる。しかし、バレ噺や音曲に乗せての芝居噺、さらには「咄シ終ニ高坐脊ヨリ幽㚑【U+3691、靈】ノ木偶䓁ヲ出ス」(註1)怪談咄の多かった当時の芸の実態は、「教導」という崇高な目標からはきわめて遠いところにあった。記事でいう「教導師」は、官職の「教導職」とは異なる普通名詞として用いられているのだろう。

鏑木清方「三遊亭円朝像」1930年 138.5×76.0『愛蔵版日本の名画9』より

鏑木清方「三遊亭円朝像」1930年 138.5×76.0『愛蔵版日本の名画9』より

続きを読む


1件のコメント

魯迅と日暮里(42)南波登発の「亞細亞」への視線(17)須戸橋藤三郎 見沼代用水と内水交通、あわせて上武のキリスト者たち(中の4) The Outlaws in Northeast Asia, Chapter 10

橋本治氏の分類によれば、「「挫折あり」を前提とするのが文学で、「挫折なし」を当然とするのが講談であり、そこから生まれる大衆小説なのです。」という。(註1)
そうした近代「文学」の王道がある一方、中世歌学の成立以来、短型詩である和歌が権力者による文芸装置として機能しており、さらにそこから連歌、俳諧、発句という短詩形式の言語芸術が誕生。江戸期に俳諧者の全国ネットワークが形成されていたことについては、既に見た。また、俳諧という言語芸術が、武士、町人、百姓に及ぶ階級、男女の性別も超えて展開され、隆盛を見せていた。この事実が近代初期の教化政策において重要視されることになる。すなわち、永平寺の61世貫主・久我環溪(俗姓細谷、環溪密雲 絶學天真禅師)によって、俳諧師を教導職に補任するよう建言がなされたのである。

勅特賜絶学天眞禅師密雲環溪大和尚頂像-興聖寺蔵『久我環溪禅師詳伝』による

勅特賜絶学天眞禅師密雲環溪大和尚頂像 興聖寺蔵『久我環溪禅師詳伝』による

続きを読む


コメントする

2016年11月13日、日暮里富士見坂のダイヤモンド富士

今日は午後から雲が出て、ダイヤモンド富士が観測できるか危ぶまれました。
日没直前、富士山頂らしきものがビルの谷間に見えた(ような気がした)のですが、
結局、太陽は雲の中に沈んでしまいました、がっかり。

うしろを振り向くと、スーパームーン直前のお月さまが、ぽっかり。
かつて日暮里は月見の名所でもありましたから、おまけの2枚です。

20161113スーパームーン前日_01.jpg

20161113スーパームーン前日_01.jpg


続きを読む


コメントする

2016年11月12日、日暮里富士見坂のダイヤモンド富士

富士見坂からは富士山の一部分しか見えません。
荒川区さんに設置していただいた足跡からは、すくすくと育ったエンジェルストランペットがちょうど富士山の方向に。

それではと、田代博先生の発見されたすきま富士へ向います。
この角度からは、ちょうど太陽が富士山の頂上に沈むのを観測できました。

それから富士見坂に戻ってスーパーすきま富士を撮影。
たまたま写ったものですから、どの地点からはよく分かりません

20161112スーパーすきま富士

20161112スーパーすきま富士


続きを読む


コメントする

魯迅と日暮里(41)南波登発の「亞細亞」への視線(16)須戸橋藤三郎 見沼代用水と内水交通、あわせて上武のキリスト者たち(中の3) The Outlaws in Northeast Asia, Chapter 9

9代市川団十郎及び初代三遊亭円朝の教導職任命のことを、文献を渉猟して記述したのは、キリスト者・佐波亘の『植村正久と其の時代』である。(註1)佐波亘は、1908年に東京・富士見町教会で植村正久より受洗。師であり、岳父でもある植村正久の伝記を書くにあたって収集した資料は、東京女子大学比較文化研究所に植村記念佐波文庫として保存されている。『植村正久と其の時代』で記述の資料として提示されたのは、次の2つ。いずれも原資料から引用する。

日本基督教団合同前の日本基督教会代表の準備委員 後列左より5人目が佐波亘 山田滋『小野村林蔵 日本伝道二代目の苦難』より wikipediaによる

日本基督教団合同前の日本基督教会代表の準備委員 後列左より5人目が佐波亘 山田滋『小野村林蔵 日本伝道二代目の苦難』より wikipediaによる

続きを読む