今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.


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2020年2月6日、日暮里富士見坂のすきま富士

おはようございます。
寒いですね。

遅くなりましたが、2月6日のすきま富士です。

20200206すきま富士

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魯迅と日暮里(71)南波登発の「亞細亞」への視線(46)津田官次郎の「武士道」あわせて壮士と博徒の統一戦線(下) The Bushidô by TSUDA Kwanjiro and the Sôshi-gambler united front, part 4

長谷川如是閑によってモグリ代言と呼ばれた宮地茂平であったが、1913年、『萬朝報』が宮地茂平を「三百【代言】」と記事に書いたのを激怒し、同紙を相手に新聞廃刊の訴訟を起こしている。
事件の発端は、1916年4月19日の記事。同紙のコラム・机の塵欄に書かれた「十八日日比谷の松本樓で開いた太平洋會主催の對米問題恊議會といふのハ、例の官僚系の連中が、有志家や新聞記者を躍臺(ふみだい)にして、自分等の名譽回復をやる計畫であつたが、其演説者が三百の宮地茂平や、會社荒しの須永清、夫に六區の活辯先生まで飛出して大に憂國論を振廻すといふ有樣に、出席の人人ハ開いた口が塞がらず、加之(おまけ)に其宣言書といふのが誤字だらけと來て居るので、一同でそれを修正するといふ騷ぎ、イヤハヤ飛だ恊議會であつた」というもの。(註1)

愛宕山上より天徳寺其他を望むの図(明治弐四年十一月寫)右奥画面外に東京区裁判所があった『風俗画報』より

愛宕山上より天徳寺其他を望むの図(明治弐四年十一月寫)右奥画面外に東京区裁判所があった『風俗画報』より

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2020年1月30日、日暮里富士見坂のダイヤモンド富士

本日の東京の最高気温は16.8度(気象庁データ)、
風もなく、昼間は半袖で平気なくらいでした。
西の空の雲が心配されましたが、富士山がくっきりと見えました。
以前にも富士見坂にお越しの写真愛好家の方や
広東省からのお客さんも富士山をお楽しみいただきました。

20200130ダイヤモンド富士_01

20200130ダイヤモンド富士_01


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魯迅と日暮里(70)南波登発の「亞細亞」への視線(45)津田官次郎の「武士道」あわせて壮士と博徒の統一戦線(中の2) The Bushidô by TSUDA Kwanjiro and the Sôshi-gambler united front, part 3

原敬は、1918年に日本最初の「本格的政党内閣」を組織した人物とされている。ただし、戦前期にあっては、その概念は「純然たる政黨內閣」と一般的に呼称されていた。(註1)「本格的」の形容詞がいつから使われたのかはよく分からないが、戦前にさかのぼることはないだろう。
歴史学者の服部之総によって原敬が高く評価されるいっぽう、政治学者の岡義武による評価は低い。マルクス主義歴史学の服部之総にあっては、明治維新による近代日本国家の成立を「最後の封建的支配體制たる絕對王政的權力が準備されてゆく過程」(註2)と見、新政府下の百姓一揆、士族反乱や自由民権運動を「ブルジヨア革命」に措定し、その絡み合いの中に明治維新史を位置付ける。そして、司法省法学校、中江兆民の仏学塾を退学、『郵便報知新聞』記者となった原敬が、1880年の同紙社説で「「自由民權」の「政理」を武器として明治專制政府に立ちむかっているわがくに最初の民主主義革命の、いまや高揚期に直面しつつ、破壞よりも「制法」が、革命よりも「國家の保全」が直面の急務である」ことを宣言したとする。(註3)さらに、「「自由民權」時代の「理論の武器」の戰士たる新聞記者出身の、役人であり政治家であった」原敬を「これ以上ぜったい發展しない。なぜならそれは事物の核心をその見地【4字傍点】から把握し、その見地からは【7字傍点】もはやこれ以上の把握はありえずかつそれで充分であるほどに徹した」「後世おそるべき老成の絕對主義的見識」をもつ理解者、体現者であるとみなしたのだった。(註4)

パリ時代の原敬『畫譜 憲政五十年史』国会図書館蔵より 近代日本人の肖像による

パリ時代の原敬『畫譜 憲政五十年史』国会図書館蔵より 近代日本人の肖像による


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