今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.


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2021年2月19日、日暮里富士見坂のすきま富士

2月19日、昼前でも見えていた富士山です。
晴天にめぐまれ、各地から富士山が観測されました。
田代博先生の発見された「すきま富士」もきれいに見えました。


この日、田代先生の長い闘病生活が終わりました。
つらい状況を頑張って耐えてこられたことと思います。ただただ、残念でなりません。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

2020年2月19日すきま富士
2020年2月19日すきま富士
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3件のコメント

追悼・田代博先生 2021年富士山の日

皆様へ

悲しいお知らせです。
田代先生が、2月19日に亡くなられました。
昨年9月5日の闘病記が最後になりました。
今日は富士山の日です。
悲しいです。富士見坂にまた来ることを楽しみにしてくださっていました。
先生のご冥福をお祈りします。

会員より追悼文(順不同)

富士山のみならず、山と展望のロマンを極められた先生は憧れでもありました。
残念でなりません。
ご冥福をお祈りいたします。

今日は富士山の日。言葉がありません。

言葉がありません… 神にWhy?と問います…

寂しいですね。残念です。お悔やみ申し上げます。

田代先生、そうでしたか、大変残念です。

田代先生誠に残念なことです。ご冥福をお祈りいたします。

本当に残念ですね。家でお花をあげてお祈りいたします。

日暮里富士見坂から富士山が見えなくなって、グレそうになっていた私たちにすきま富士の存在をお知らせいただき、これから歩むべき道を教えていただきました。
課外授業では嵐やサッシーの番組にお誘いいただいたり、田代先生は、まぎれもなく私たちの教師でした。
また再びすきま富士を見に行きたいとおっしゃっていた田代先生に、わずかに見えた本日のすきま富士の写真を捧げます。
安らかにお眠りください。そして、今後とも私たちをお導きください。

2014年11月12日富士見坂隣地で田代先生と
2014年11月12日富士見坂隣地で田代先生と
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19番目の富士見坂(下の3)帝国小学校と富士見坂の成立(3) 19th Fujimizaka and Sekiji Nishiyama’s Adventure in United States, part 2

1928年7月13日、再び訪れたニューヨークを発った西山哲治(惁治)は大西洋を横断してプリマスに上陸、ロンドンを経てパリへ行き、リヨン駅から南仏へ鉄道の旅。

 八月一日(水) 朝は三フランで五分間にパン、ココアなどたべる。晝は十五分間にコーヒー、サンドウイツチ(食堂車なし)などたべた。隣の陸軍少佐が二ツ目の驛で下車せよと教へてくれた。アメリカの旗を立てゝ恩人アリス女史が驛まで來てくれてゐたとのこと。面會出來ないで一足先に自動車で小丘の上の別莊へつく。伊太利人夫婦に案內されて二階へ上る。自分の宿る部屋へ荷物を運ばせて浴室でからだをふき汗のじゆばんを取かへ服をかへてゐたら、アリス女史の聲「來てくれ」と。直ちに下へ降りて行つた。十八年ぶりの恩人八十六歲の老女史の手をとる、ホツペタにキツスされた。ポーチへ出て直ちにお茶、菓子をたべる。間もなくコーヒーやブドウ酒も出る。つきせぬ話に十時過ぎまで市內の平和なニースを一眸の下に眺めつゝ語る。明日は十時までねるといつて。(註1)

恩人アリス老女史と寫す『最近歐米に於ける職業指導の實際』より
恩人アリス老女史と寫す『最近歐米に於ける職業指導の實際』より
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19番目の富士見坂(下の2)帝国小学校と富士見坂の成立(2) 19th Fujimizaka and Sekiji Nishiyama’s Adventure in United States, part 1

1906年秋、ニューヨーク。無事ニューヨーク大学に入学したものの生活に困った西山は、「紐育の家庭に入るチヤンスを得申候間これより米國の家庭を實地に觀察するを得可申これに對する見解など何れ便を重ねて御報導申すべく候」と報告する。(註1)すなわち、「スクールボーイ」となったのである。西山はのちに「米國の地や日本の女學生を遇するに親切到らざるなく夏季四ヶ月の家庭勞働に於て優に一學年を支ふる學資を得せしむること容易なり」というが(註2)、実体験によるものであろう。

 幸にもブロンクスに住む醫學博士レベルソン博士の學僕として月二十五弗を得て通學することを許された。博士は猶太人の獨身者で同室のアパートに生活し、現在の種痘法に反對し、服藥して天然痘を完全に豫防し得るといふ新學説の大著述を編纂中であつたから英文原稿の清書も手傳つた。
 博士の許に二年餘り御厄介になつた。其の間、博士は歐洲へ旅行され、六ケ月間留守を守つて猛勉強することも出來た。(註3)

Montague Richard Leverson, wikimediaによる
Montague Richard Leverson, wikimediaによる
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