今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.


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魯迅と日暮里(62)南波登発の「亞細亞」への視線(37)栗村寛亮の死まで KURIMURA Kwansuke: The latter half of life

さて、時代はさかのぼる。『福島毎日新聞』が新体制になった1880年5月24日、栗村寛亮は福島毎日新聞社を無断退社し、行方不明になったことが同紙広告に載る。

「當社雇人栗村寛亮儀無斷退社行衛不相知候處當人之居所御案內の御方も有之候ハヾ郵税先拂を以て當社迄御報知被下度相當之謝禮可致候
  五月廿二日        福島新聞社」(註1)

同内容の広告は26日まで3日間にわたって掲載された。ただ25、26日の両日は「栗村寛亮」の文字が例の「深瀬」の如く大活字で植字されており、皮肉な印象を与えるとともに、経過した時間の長さを感じさせる。さらに、この尋ね人の広告は東京の『讀賣新聞』にも掲載された。(註2)『福島毎日新聞』の編集陣の改編と栗村寛亮の「失踪」には何らかの関係があるだろう。同じ民権派とはいえ、栗村寛亮は以降、自由党からは距離を置いたようにみえる。そのことと何か関係があるのかもしれない。

『福島毎日新聞』1880年5月26日

『福島毎日新聞』1880年5月26日


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2018年12月19日、日暮里富士見坂のすきま富士

昨日、NHKの番組のディレクタさんと日暮里富士見坂へ。
午後、雲が出て来て、あ~駄目だなと思いながら待ち合わせ場所に向かいました。
そうしたら、魔法のように陽光が。
とっても美しいすきま富士とスーパーすきま富士が見えたのですが、
カメラのバッテリがダウン。
それでも肉眼で富士山が見えました。

残念なので、今朝、バッテリ・チャージしたカメラを持って現地へ。

くっきりと富士山が浮かび上がっていました。

2018年12月19日すきま富士

2018年12月19日すきま富士

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魯迅と日暮里(61)南波登発の「亞細亞」への視線(36)栗村寛亮の脱管まで KURIMURA Kwansuke, another asylum seeker and the exiles raft for freedom

栗村寛亮から花香恭次郎への編輯長の交替は、筆禍事件によるものであった。栗村寛亮は、現存最古の『福嶋新聞』第21号(1878年3月1日、推定)から第67号(6月17日)まで編輯長代理。第68号(6月19日)は安藤房太郎がワンポイントリリーフ、6月21日の第69号からは前述の通り、佐藤清が編輯長となっている。再刊後の第144号(1879年3月1日)には「○本日より勝手に付栗村寛亮を以て本務代理爲致候」「附て白す恭次郎儀も急用にて一昨日宮城地方へ罷越候に就不在中ハ姑く該務をも栗村に攝理致させ升」とのことで、栗村寛亮が編輯長代理及印刷人となった。(註1)

社告『福嶋新聞』1879年3月1日

社告『福嶋新聞』1879年3月1日

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魯迅と日暮里(60)南波登発の「亞細亞」への視線(35)栗村寛亮と『福島新聞』および福島のキリスト者たち KURIMURA Kwansuke, the newspaper and Christians in Fukusima

松本健一は、「絶対自由への筏」のおわりに「栗村【寛亮】のその後は伝えるものがない。行方さえ杳としてわからない」と記す。(註1)しかし、「伝えるもの」は数多くあったと思われ、いわきの詩人で歴史研究者の郷武夫は『調査情報 栗原寛亮』を著している。(註2)ただし同書は国立国会図書館、全国大学図書館、福島県下の図書館にも収蔵がなく、容易に見ることはできない。

『仙臺人名大辭書』

『仙臺人名大辭書』


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