今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

富士見と富士見坂(4)の7 日暮里花見寺と文化11年のダイヤモンド富士(7)

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時代はやや下がり、1831年11月25日(天保2年10月22日)、修性院境内で千畳鋪の大字を書くパフォーマンスが行われる。

千畳鋪太字図 国立国会図書館蔵

千畳鋪太字図 国立国会図書館蔵

下野烏山藩の家老を務めた菅谷八郎右衛門世彝は、自らの記録『捬循録』に、
「天性寺筆墨唐紙等沢山調参候付、承候処、不退堂頼置、寺中弟子共手習教貰候筈、依て致用意候旨、此不退堂儀は、去ル九月辰之口御屋敷、鵜沢作右衛門勤番長屋へ始て参致面会候節、二宮に被頼、唐紙等調参候者有之、作右衛門方へ承候処、兼て高名之者にて、名乗合致面会候、此者事、俗称倉田耕之進、先京師鞍馬山之僧、還俗之後於三拾三間堂千畳敷へ、一字書度旨願候処、不相済、夫より江戸へ下り、上野黒門前にて、千畳敷へ一字書度旨又々相願候処、元禄年中八畳敷へ一字書候者唯壱人有之、左様之大字御府内にては不相成旨、始諸家留守居方等より勧付、右之段相話候処、国主大家之留守居等残念に存、致世話候間、日暮之寺広庭にて、千畳敷之紙敷置、霽之一字認候由、此字板行に摺、其文字横竪間数、又丈尺寸法迄、委敷図面に有之、又墨之石数、筆の大サ等、委敷板行有之候、此筆、大殿様被遊 御覧候由、金竜山寺中に有之、筆軸長サ弐間半も有之、毛は打藁にて一抱も可有之旨、此時江戸之落首に
 千畳に、一字書くとは、ふてへ堂、
 江戸ツ子の眼を、くらまそふとは
箇様之事筆費に候得共、後々有用事故爰に記置候、」ということを書きとめている。(註263)
菅谷の「のちのち用ある事ゆえ」という深い配慮に、この一文も大きな援助を受けているわけである。

『斎藤月岑日記』天保2年10月22日の条に
「□不退堂といふ人、日暮ニ而せんくわの紙千畳敷継、大文字霽の字書ス
狂哥 江戸へ来てくらまさんとハ不退堂せん畳敷てはじをかくかも」とある。(註264)

同日記を材料に編集した『武江年表』には、
「○十月二十二日、日暮里修性院の庭中に於て、京師より下りし不退堂といふ人、大字、霽の字を書す(竪二十六間・横十九間。仙過の紙壱万弐千枚継・墨七石三斗・筆長弐間・朱印二十畳程あり)」とあり、喜多村筠庭は、
「筠庭云、大字の時、介錯人あり。書人は筆を肩にかけて引てまはる。介錯人、墨を器物に入れたるを筆に洒ぎたりとぞ」と補訂している。(註265)

喜多村筠庭の補訂の根拠となったのは、当時の実見記と思われるが、現在発見できない。『東京朝日新聞』に、恐らく宮崎璋蔵が三昧道人のペンネームで書いた記事があり、『不退堂大字実話』という同じ種本を基にしたものであろうと思われる。

「天保二年十月二十一日京師より来りし不退堂といへる僧日暮里修性院(俗に花見寺といふ)の境内に於て千畳敷の紙へ「霽」の字の大書をなせり其折の実況を書きたるもの不退堂大字実話といへる一巻あり其要を摘(つま)みて記さんには
不退堂の内扮(いでたち)ハ白綸子の小袖に紫竜紋のたちつけの如きものをはき脇差をさし木履を穿ち上下(かみしも)着したる者に刀を持せ同く上下着用の警固の者二人を左右に従へさも大裕に紙の上へのぼり床机に腰打懸て四辺(あたり)の体を見計らへる有様ハ天晴器量人とこそ見えにけれ斯て世話人十人ばかり一様に芭蕉布の単袴を着し股立(もヽだち)を取り欝金木綿の襷をかけ中抜草履を穿ち手桶に墨汁を入れたるを要処々々に運びて控へたり偖(さて)四半時大書に着手せり其用筆ハ稲稈製にて長二間、重十六貫余との触出(ふれだし)なりしが墨を含ませたる所全く十貫余ハあるべしと思はれたりこれに墨を含ますにハ不退堂の運筆に随ひ世話人件(くだん)の手桶を執て筆頭へ灑(そヽ)ぎかくる事譬へバぼや〱へ水をかくるが如し然れども其墨の漏流るるを左右へちらさず先生自ら文字(もんじ)の内へかきいるる事最も妙なり世話人草履をはきかゆる事度々なり然らざれバ草履に墨浸て紙を瀆(けが)す故なり墨の溜りし所ハ十納(なふ)にて掬ひ取て手桶へ移せり一人あやまちて文字の上に滑倒(こつたう)せるに半身真黒になりて甚だしき有様なりき斯て八半時に至りて見事に書終りしが最初書始めたりし時にハ甚だ不手際のやうに思はれ見物悪口のみ多くきヽたりしが雨冠も出来次第に文字の形成るに随ひ万人斉(ひとし)く感心の体なりき云々

此日墨を入るヽ料にハ四斗樽九、手桶九を用意し又左官の泥舟の如き箱を用て硯の代(かはり)となしたり墨の練方ハ灰墨を樽に入れて濁酒(だくしゆ)にて掻き能々(よく〱)練たる時水を注(さし)用ひたり書たる文字の大さハ竪二十六間横十九間、印の大さ疊二十畳なりしとぞ」(註266)

不退堂倉田聖純は、1794(寛政6)年に生まれ、若くして「京外 岩屋山 紫賜志明院」に入る。岩屋山金光峰寺志明院は役小角草創になる修験系の道場で、鴨川の水源地に位置し、「御所の御用水」でもある洞窟の湧水を守ってきた寺院である。歌舞伎十八番の「鳴神」はこの志明院に関する演目であり、鳴神上人が法力で竜神を志明院の滝壷に閉じ込めている。

歌川国芳『鳴神』wikipediaより

歌川国芳『鳴神』wikipediaより

国会図書館蔵の報道フライヤー『千畳鋪太字図』の裏書には、
「不退堂名聖純字林渓号不退堂京都人初金峰山/志明院ニ住ス高凢学院大先達ト称ス書に妙を得て/篆隷楷行草書せさるなし又額法に委しく書ハ/方寸〻に字を書して千畳敷ニ太字を書ス又算術を/善くし仙䑓伊達藩に招られ仙䑓ニ義人アリト呼けり/不退堂千畳鋪霽字      也軒老人手記」との記載がある。(註267)

額法とは見慣れない言葉だが、入木道(じゅぼくどう、書道)の秘伝のひとつで、『入木抄』の最終章「被用能書事」に「定頼卿ハ、父【藤原公任】ニヲトリタレドモ、其時、行成卿程ノ抜群ノ仁ナケレバ、定頼卿、門殿ノ額已下多ク書役ニシタガヒ畢」とあり(註268)、また、平安京の十二門の額は、弘法大師空海、橘逸勢、嵯峨天皇のいわゆる「書の三聖」らにより書かれており、扁額を書くことが入木道の最高目標であった。不退堂聖純も太字パフォーマンス敢行により、寺社権門の諸方面から扁額の揮毫のオファーが来ることを望んでいたのではないか。

不退堂聖純が、のちに仕官する白石城主片倉家に提出した『御知行三貫文』に記された経歴によれば「藤原姓、本国山城小倉正三位権中納言豊季実男」「母飛鳥井従三位中将信実女」とあり、「文政一一年【1828年】歌道修行のため下関し候」と書いているという。(註269)ただし、公式の系図には彼の存在も飛鳥井信実の名も見えない。小野意雄氏は、小田原藩主大久保忠真の代に特権的取り扱いを受けていた「お貞様」(サダ女)の口碑伝承と周辺文書を駆使して、サダ女が小倉家の、不退堂聖純が飛鳥井家の出身であり、駆け落ちして前京都所司代大久保忠真の助力に頼ったと推定している。(註270)

大久保忠真 wikipediaより

大久保忠真 wikipediaより

他の記録によれば、不退堂聖純は、入木道は持明院流、歌道にも長じ、1826年9月22日(文政9年8月21日)、京都壬生寺境内で360畳敷に寿字、1827年11月11日(文政10年9月22日)、大坂四天王寺境内にて500畳敷に麟字の「太字」を書いている。(註271)その後、志明院が火災のため全焼した1831(天保2)年、日暮里でスケールアップした大書を興行。

1834(天保5)年、小田原藩の所領である下野国桜町領に赴いて二宮尊徳(たかのり)の客人となり、書は二宮尊徳の師となっている。(註272)不退堂聖純の入木道の門下には、富士講の一派「不二孝(不二道)」の創始者で、鳩ヶ谷の小谷三志がいる。小谷三志は倉田耕之進の関東「下向」以前からの門人で、京都で大字のパフォーマンスを行なった際、他の13人の門人とともに大字を書いている。大きさは、師に次ぐ150畳敷であり(註273)、門人の中で筆頭の位置を占めていたことを示していると考えられる。小谷三志は、教派の公認を目指し、おそらく倉田耕之進のルートを使い、京都で公家や文人などにロビー活動を展開、不二道の後継には醍醐寺理性院の大徳寺行雅が就任している。(註274)

不二道は、江戸近郊農村を中心に信仰圏を展開、二宮尊徳の報徳運動と連動しながら運動を展開していたが、1789(寛政1)年酉8月には、吹上御庭方同心永井要右衛門(行名照行)とその妻そよにより、松平定信宛に公許請願の直訴が行なわれている。(註275)また、幕末期に不二心流という剣術流派があり、数馬広二氏によれば、島原藩士中村一心斎が1818(文政1)年に開いた剣術流派である。門人は「開祖中村一心斎が弘流に回った下総国の匝瑳郡,海上郡,上総国の望陀郡を中心に門人が広がっていた」が、この地域は「不二道の信仰の厚い地盤であ」り、「不二心流の分布と不二道および富士山信仰の分布が重なっていることが指摘できる」という。(註276)これらの事例は、不二道が武士階級にも浸透していたことを示している。宮田登によれば、不二道の教義の特徴は、性の価値の平等性に基づく世直り「おふりかわり」を前提としたユートピア「みろくの御世」の到来である。(註277)

従来から、農村における生産の拡大は、荒蕪地の開拓による農地の外延的拡大、新農法、新品種の採用による単位面積あたりの生産量の拡大、商品作物の栽培による現金収入の拡大、非農業生産(プロト工業化)の拡大等によっていたが、自然災害による人口減少、耕作放棄地の拡大によって疲弊した農村における生産の拡大は、荒蕪地の開拓、資本蓄積と金銭需要の協同的解決という問題に直面していた。村内のネゴシエーションを通じて、これらの解決を仕法として推進していったのが二宮尊徳である。マックス・ヴェーバーは、初期資本主義の担い手のエートスの中に禁欲的プロテスタンティズムを見出したが、二宮尊徳は、彼の農本主義イデオロギーの基礎を報徳思想として成文化していく。その形成の中で不退堂倉田聖純は一定の重要な役割を果しており、平等思想など思想的根拠の一部は不二道に拠っていた。

歌川広重 東都名所日暮里修性院境内之図『平成20年度荒川ふるさと文化館企画展_日暮里・舎人ライナー開通1周年記念日暮里最高SAIKO再考1868-2009』図録より

歌川広重 東都名所日暮里修性院境内之図『平成20年度荒川ふるさと文化館企画展_日暮里・舎人ライナー開通1周年記念日暮里最高SAIKO再考1868-2009』図録より

修性院には、初代歌川広重が同寺庭園を描いた浮世絵作品が残されている。山口桂三郎によれば、天保末年(1840‐1845)の作品と思われ、落款に「応需」の語があることから広告絵とよばれる「修性院の紹介と宣伝を兼ねた作品所謂特注品」と見られるという。さらに、修性院に特徴的な要素を図像学的に析出、他の日暮里の庭園を描いた浮世絵群もまた修性院を描いたものであることを証明した。(註278)今でいうノベルティグッズまたはミュージアムショップのギフト商品のようなもので、広告宣伝活動の一環であったのだろう。もっとも歌川広重も、このモティーフを「名所江戸百景」や「東都名所」「東都三十六景」「絵本江戸土産」などで繰り返し作品化しているから、元は取ったというべきだろう。

修性院に特徴的な要素とは、すなわち修性院の名物であり、アミューズメント要素である。以下にそれらを列挙し、わかる限りを説明する。

その要素とは、三十番神堂、扇形の石碑、日暮の宮の標石、日野資枝の歌碑、他に2つの石碑、4つの茶屋、開帳と書かれた提灯、梅木船、枝垂桜、松、ツツジである。(註279)

三十番神は、『望月 仏教大辞典』に「三十日番代の神の意。即ち一箇月三十日の間、毎日番代に国家人民を守護すると信ぜられるる三十柱の善神を云う」とあり、その起源は「三十番神の始まりは叡山の守護神としてふさわしい神々を私的に参集させたものであり、横川法界房で修行に励む僧達の日々の守り神であったと想像される」という。(註280)日蓮宗においては、日宣『番神縁起論』第六に示された法華守護三十番神と日蓮聖人流といわれる三十番神があり、神名は同じで、配当される日が異なる。(註281)また、明治になって太陽暦が採用された後、31日に法華経守護の五番の善神が御当番(日番)に当てられるようになる。五番の善神とは、二聖、二天、鬼子母神・十羅刹女を指し、日蓮の『日女御前御返事』に根拠を持つ。(註282)下表は、江頭務氏論文、日蓮宗玉蓮山真成寺公式サイト、「三十番神」wikipedia により作成したものである。

表1 日蓮宗における三十番神
神名 本地仏 所在 法華守護三十番神 日蓮聖人流
熱田大明神 大日如来 尾張熱田 1日 22日
諏訪大明神 普賢菩薩 信濃諏訪 2日 23日
広田大明神 勢至菩薩 摂津広田 3日 24日
気比大明神 大日如来 越前気比 4日 25日
気多大明神 阿弥陀如来 近江気多 5日 26日
鹿島大明神 十一面観音 常陸鹿嶋 6日 27日
北野大明神 十一面観音 山城北野 7日 28日
江文大明神 弁才天 山城大原江文 8日 29日
貴船大明神 不動明王 山城貴布禰 9日 30日
天照皇太神 大日如来 伊勢伊勢 10日 1日
八幡大菩薩 阿弥陀如来 山城石清水 11日 2日
加茂大明神 聖観音 山城賀茂 12日 3日
松尾大明神 毘婆尸仏 山城松尾 13日 4日
大原大明神 薬師如来 山城大原野 14日 5日
春日大明神 釈迦如来 大和春日 15日 6日
平野大明神 聖観音 山城平野 16日 7日
大比叡権現 釈迦如来 近江大比叡 17日 8日
小比叡権現 薬師如来 近江小比叡 18日 9日
聖真子権現 阿弥陀如来 近江聖眞子 19日 10日
客人大明神 十一面観音 近江客人 20日 11日
八王子権現 千手観音 近江八王子 21日 12日
稲荷大明神 如意輪観音 山城稲荷 22日 13日
住吉大明神 聖観音 摂津住吉 23日 14日
祇園大明神 薬師如来 山城祇園 24日 15日
赤山大明神 地蔵菩薩 山城赤山 25日 16日
建部大明神 阿弥陀如来 近江健部 26日 17日
三上大明神 千手観音 近江三上 27日 18日
兵主大明神 不動明王 近江兵主 28日 19日
苗鹿大明神 阿弥陀如来 近江苗荷 29日 20日
吉備大明神 虚空蔵菩薩 備中吉備津 30日 21日

なお、修性院の三十番神像は、2001年に発見されている。(註283)これら合計30体の神像が立ち並ぶさまは、アンパンマンファミリーやポケモンの眷属が大集合したような壮観であったろう。
日暮の宮の標石は、大田南畝『一話一言 巻三十一』『四方のあか』、斎藤月岑『武江年表』に記載があり、碑文は前掲した。

日野資枝の歌碑については、大田南畝が
「近頃日野大納言資枝卿の歌を石にゑりて山上にたつ。
側に建し制札に 日野大納言資枝卿御歌
     正面打事無用
       常州水戸産江府
       深川安宅住源延貞建之」と書いている。(註284)

日野資枝の和歌は、歌川広重作『東都名所 日暮里 修性院 境内之図』の画中に
「東なる日くらしの里ハ花のころ貴賎群集して佳景を賞するよし歌よめと乞れしかは従一位日野大納言資枝卿
たれとなく咲添ふ花のかけとひてけに日くらしの里そにきはふ」とある。(註285)この浮世絵は公式グッズと思われるので、これが正解だろう。1910年頃には、まだ歌碑が残っていたらしく、『東京近郊名所図会 第一 北郊之部』にもほぼ同文が見える。「多礼となく咲そふ花のかけとひてけに日くらしの里そにきはふ」(註286)

ただし曲亭馬琴の実見の記録によると、
「いぬる己巳の年【1809(文化6)年】にやありけん。日暮里なる修性院とかいふ寺のやんごとなきかたざまのおん歌を石に彫(ゑ)りて立てたり。此ころ予彼処に遊びつ立ちよりてこれを見れば、
  たれとなく咲きそふ花のかげに来てげに日くらしの里ぞにぎはふ
従一位資ーとかゝせ給へり。あづまの人の需(もとめ)に応ずるよし詞書あり。いとたふとく、いとめでたし。江戸にてかかる歌塚はいまだ見ざる所なり。日暮の里の名はこれよりや定まるべからん」(註287)とあり、やや語句に異同がある。

『江戸名所花暦』にも、
「いま日ぐらしの里と唱への定まりしは、修性院の庭中なる碑を見て知るべし。
  たれとなく咲きそふ花のかげに来てげに日暮の里ぞ賑はふ     従一位資枝」とある。(註288)

日野資枝は、京都にあって古今伝授の歌道家、画家として当代一流の文化人であり、茶道、学問もよくし、本居宣長にも資金援助を行なったといわれる。柳沢信鴻も高額の月謝を払い、日野資枝の添削を乞うという通信教育を受けていたことが、日記に詳細に記録されている。

山の上の茶屋は、『日くらしの里名所ひとり案内』にいう「冨士見(ふしミ)のちや屋」であり、後年の記録でも「明治に入っても東の入口には富士見屋という盆栽師がいたというが、境内の小高いところに登ると眺望はすこぶる好く、左に富士や箱根の連山、右に奥武蔵の山々や秩父の武甲山が波のように起伏して見事であり、秋の夕暮には美しく映えて絶景の地であった」とある。(註289)また、諏方神社の「神楽殿の裏の道路をへだてた所に花見寺の山の上の入口があった。入口には田村さんという植木屋(いまの伊藤技芸学校)が割合大きな広場のある家にすんでいたが、ここが村人の集会所であり神社への奉仕の足場でもあった」とあるのも同じものを指しているようである。(註290)他の茶屋については、調査中である。『松鶴日記』や他の資料を駆使することにより、詳細が判明するものと思われる。

開帳と書かれた提灯については、旧幕府引継書中の『開帳差免帳』に1765(明和2)年、1809(文化6)年に「新堀 日蓮宗 妙隆寺」、1839(天保10)年に「武州豊島郡新堀村 日蓮宗 修性院」とあり(註291)、修性院の開帳出願理由は、
「武州豊島郡新堀村
日蓮宗 修性院
客殿庫裏其外共及大破修復難叶自力為助成安置感応三十番神之像三十躰来三月九日【1839年4月22日】ゟ三十日之間自坊おゐて開帳いたし度方戌八月中青山因幡守江願出同月廿七日【1838年10月15日】自宅於内寄合願候通差免候」とある。(註292)

したがって、本図は、野尻かおる氏の指摘通り、1839(天保10)年の開帳を記念しての板行であり、少なくとも1838(天保9)年以降の作図であった可能性が強い。

扇形の石碑と梅木船は、修性院を描いた浮世絵を同定するメルクマールとなっているが、その意味と内容については分かっていない。梅木船は、今の言葉でいうトピアリーで、ツゲによる鶴亀や帆掛船(または宝船)は、伝統的な作例である。
『開帳差免帳』を見ると、1751(宝暦1)年、「新っ堀村 日蓮宗 修性院」より「修性院願出候者此度境内北之方江毘沙門堂建立致有来候表門ゟ北之方江八間寄セ九尺之木戸門新規相建度ト而願出候ニ付見分之者差遣被遂吟味隣寺隣家等江も被相尋候処障儀無之候證文差出候間願之通被申付寺社方帳面張紙仕候」と、北側に毘沙門堂を建設、付帯工事として木戸門の新設を願い出ている。(註293)毘沙門堂は、『新編武蔵風土記稿』の記述によれば、三十番神堂に聖徳太子とともに安置された伝教大師最澄自刻の像と称せられていたが、おそらくは違う。しかし、この仏像を安置する堂の建設をきっかけにして5年後には作庭を完了、周辺寺院を圧倒する装備をもって広告宣伝戦略を展開している。
布袋像は、現在の谷中七福神の中でもひときわ異彩を放っているものだが、青雲寺から移動してきたものである。

布袋堂 山東京伝『奇妙図彙』早稲田大学図書館蔵より

布袋堂 山東京伝『奇妙図彙』早稲田大学図書館蔵より

青雲寺は1807(文化4)年の火事で諸堂を消失し、庭園の復旧はならなかった。このためなのか理由は不明だが、文化年間(1804‐1818年)に青雲寺の布袋像は修性院に移されている。ただし、青雲寺もただでは転ばず、起死回生の一打をうつ。ライバル亀戸天神を蹴落としての曲亭馬琴の筆塚の招致である。既に1798年に「春の雪 跡や煙の麦畑」の発句の刻まれた硯塚、1804年に洒落本作家の山跡蜂満(安井甘露菴)の狂歌碑を建てた経緯を受けてのことであるが、まるでどこかの国にとってのオリンピックのようだ。
山跡蜂満の経歴は「その伝は明らかでない」(註294)とあり、後学のために山跡蜂満狂歌碑の背面に刻まれた碑文を翻刻しておく。

「甘露菴主人姓安井俗称□□□東都人主人
自結髪縦情風雅最耽狂□□□跡蜂満嘗従
桒揚庵光翁游翁亦常称其□□主人素多病
以享和癸亥八月六日遂病没年二十有九鳴
呼悲哉若主人可謂秀而不実者於是相共謀
立石日莫里𠜇其所取甞自作之狂歌庻足以槩
其生年平於是乎余為記其事云
文化元年甲子八月㕛人隺邉庵佐保丸誌
             井敬義書」

桒(桑)揚庵光翁は、後文にも見えるが、岸文笑(狂名・頭光、つぶりのひかる)。隺邉(鶴辺)庵佐保丸は、駒込四軒寺町瑞泰寺の頭光墓碑に名前が見え、狂歌師と思われる。(註295)□は、碑文の剝落による判読不明文字であるが、『荒川区史』(1936)によれば、俗称は「徳三郎」であるといい、参考になるだろう。(註296)

馬琴筆塚『東京近郊名所図会』より

馬琴筆塚『東京近郊名所図会』より

曲亭馬琴の筆塚について本人の記するものを見ると、費用がこと細かに記録されている。

「六、日暮里青雲寺に建し解が筆塚の費用記
予が筆塚を日暮里なる青雲寺の境内に建しは、書肆等が薦によりて、文化六年【1809年】の春よりこの催ありて、七年【1810年】に至りて落成す。当時塚の土中に埋めし者左の如し。〔頭書 解曰、唐山には筆塚と云者早くよりあり。筆塚の事唐国史補に見えたり〕

敗筆五百七十三管○故兄羅文居士前髪○羅文居士墨斗・羅文居士石印東岡舎【3文字□囲み】仙水【2文字□囲み】○仲兄慈正信士筆筩○慈正信士護身囊・硯一枚○先妣并に故兄護身囊(マモリブクロ)○不用過去帳三巻○毛髪一束〔解が十五歳の春三月元服のときの理髪の前髪なり〕○旧君諸霊位小繰位牌一本○大父考妣家兄遺墨〔惜字紙にて、文を成さゞる者数頁〕○故兄護身袋二つ・自作稿本若干冊○銅板一枚長七寸、幅二寸、厚一分、右板面三行に勒す。〔中央〕曲亭先生蔵筆塚石、〔左右〕文化七年春三月建焉。男滝沢興継謹識○裏面 ふみの道しげれすぐろの筆つばな 馬琴

右の如く彫刻、皆瓶に蔵めて土中に埋む。碑は谷中日暮里青雲寺境内繫舟松の辺(ホトリ)に建る。碑石高五尺八寸、横二尺三寸、厚五寸五分。台石壱枚、土中に入る。右諸雑費、金三両二分。外に金弐分運賃、石二枚○金五両二分、彫刻料○金壱両一分、鵬斎子謝義○銀九匁、棭斎へ万笈堂より銘酒遣す○銀七匁五分、雑費○銀三十三匁、去春別右手附金并に亀戸にて酒食代、此分不用になる。金二両二分、青雲寺へ寄進其外祝儀○銀七匁五分、銅版一枚○銀四匁、瓶一つふた共○金壱分弐朱、石工松五郎へ祝儀○金二分二朱、石工へ追注文。金弐朱、竹垣追注文、金石蓋注文。銭〔廿四日弐百文、廿八日七百文〕人足并に弁当入用、三月廿四日同廿九日雑費○金壱分弐朱と四匁五分、板摺仙蔵石摺入用。〆金十七両壱分と七匁九百文、内金壱両三分二朱、銀三匁、銭九百文、解出金○右筆塚入銀覚○金九両弐分、壱人前〔三両十匁づゝ板本平吉・柏屋半蔵・平林庄五郎〕○金壱両弐分、三河屋惣兵衛○金二分、大和や源二郎○金壱両、鶴谷金介○金三分、柏屋忠七。〆金拾三両壱分〔又金弐分は、去年分板本平林・柏屋より出金、又〆拾三両三分。此外は解より出、惣高十五両余〕入銀也。始は亀戸天満宮の社地に建まく欲ししに、障る事ありて果さず。石工松五郎が薦によりて青雲寺に建にき。右埋むる所の内中繰位牌は、吾曽祖唯称翁の祀る処、旧主松平信綱朝臣・竪綱主、両家累世の位牌也。解が身に至りて是を市中の持仏壇に置んは非礼なれば、是時瓶の中に蔵めたり。又過去帳三本は縁家高久・会田・丸山の物也。解が相識処は吾家の過去帳に写したり。其余は法名而已にて、何人なるを知らず。実に無用の物に似たれば、敗筆と共に塚の副主にしたる也。後に思へば吾謬なりき。旧主の位牌は野火留なる平林寺へ返し奉るべく、高久・会田の過去帳は其縁ある三田の長運寺、及牛込なる竜門寺へ遣す歟、然らずば元飯田町なる家に留在(トヾメアラ)するとも宜しきに、唯筆塚の副主になさまく欲しぬる。後悔其処に達ことなし。是等も昨非の一也。這筆塚も老後の今ならば建べからず。是時は猶名聞を好む心あり。故にかかる僻言したり。是を昨非の第一とやいはまし〔右筆塚は文化七年三月廿九日【1810年5月2日】に建る。翌四月朔日【1810年5月3日】落成す〕。」(註297)

曲亭馬琴の記録魔ぶりが発揮された一文であるが、要するに断捨理大失敗の巻である。また、木食白道の勧請した安井金毘羅社前に曲亭馬琴の石碑が建てられるが、その文面も本人が続けて記録しているので引用する。

「七 同所安井金毘羅社前の石表
同じ比書肆平林庄五郎が志願にて、右筆塚と同所なる安井金毘羅の社前に石表を立つ。其正面安井金毘羅大権現の七言は東洲の書也。左右は予が拙筆にて、曽祖并に故兄の詠を勒。左の如し。
  柴の戸に松の葉もりの影おちてこゝろと共にすめる世の月    信清軒源興也
  さくら戸や月下に帰る人の声                 東岡舎羅文
  右吾曽祖及家兄所詠 勒以代法楽               著作堂馬琴書
                        本所松坂町   平林庄五郎建

這石表、文化七年夏四月十九日【1810年5月21日】落成、同日是を立つ。この碑、予相見ざること三十許年、今も猶同所にありやしらず。」(註298)

十偏舍一九画『江戸名所図会』1813 国立国会図書館蔵

十偏舍一九画『江戸名所図会』1813 国立国会図書館蔵

これによれば、諸堂を焼失したとされる青雲寺だが、金毘羅社は残ったことが分かる。火災の被害をこうむった青雲寺もこれらの著名人のモニュメントを得て、何とか知名度を維持するが、かつてのアミューズメント・センターの面影はなかったであろう。

こうした各寺の経済基盤確保の努力にもかかわらず、やがて訪れることになる江戸幕府の崩壊と新時代の開始によって、その存立基盤を失うことになる。その時点はもうすぐ手の届くところまで来ている。

 

※2014年6月28日、今泉雄作の「書法論(上)」に関して追記しました。

 


 

註263 『捬循録 弐』天保八丁酉年条 1846、佐々井信太郎編輯『二宮尊徳全集 第廿四巻』二宮尊徳偉業宣揚会 1929
註264 斎藤月岑『斎藤月岑日記 第一冊』、テクストは東京大学史料編纂所編纂『大日本古記録 斎藤月岑日記 一』自 天保元年~至 天保六年 岩波書店 1997による、変体仮名は適宜通用字に変更した
註265 斎藤月岑『武江年表』、テクストは今井金吾校訂『定本武江年表 中』ちくま学芸文庫エ1 10 筑摩書房 2003による
註266 三昧道人(宮崎璋蔵カ)「遊戯菴古道具 十三 大書」『東京朝日新聞』1899年5月28日 3面、日付はおそらく誤りであろう
註267 今泉雄作(也軒老人)手記「不退堂千畳鋪霽字」今泉雄作旧蔵『千畳鋪太字図』裏書 国立国会図書館蔵。国立国会図書館に寄贈された今泉雄作旧蔵の栗原信充写『安土城内信長公殿舎図』に明治30年4月記、大正4年8月追記の同名同筆の識語があり、書誌によれば「今泉雄作の識語あり」とある。今泉雄作その人の号と見てよいと思われる。なお、今泉雄作「書法論(上)」『書画之研究』第1巻第1号 書画之研究社 1917年5月によれば、今泉勇作の父元作は書を不退堂聖純に師事したと記録されている。「吾父名は元長字善之、旧幕の小吏なりしが、弱冠より書を好んで不退堂聖純に師事す。常に師の言なりとて余に謂はれしには、画と違ひ書といへるものは普通誰にても書くものなれば、普通の書体のみを書きて吾は書家なりと云ふは恥づ可きことなり。先つ篆隷楷行草の五体は勿論其上に本邦には和様あれば其中の一流を習ひ、其上弘法大師所伝の額法あれば之を修めて始めて書家と云ふべきなりと。此言や難きを人に求むるに似たれども一理ある言なり。」「本邦にて篆書に熟せしは市河蘭台不退堂なる可し、然れども蘭台は唐篆を学びし者不退堂は唐篆の外器用にて雑体の篆に巧なれども、現今篆学の開けし世にては其様にも書き難し」などと書かれている。井口丑二「古今東西報徳千話 一七五 不退堂と今泉元長」『斯民』第12編第6号 中央報徳会 1917年9月に引用あり。
註268 尊円親王『入木抄』高山市郷土館蔵、国文学研究資料館編 新井栄蔵『「書」の秘伝 入木道の古典を読む』セミナー[原典を読む]2 平凡社 1994による
註269 小野意雄「不退堂聖純とサダ女伝聞」小田原市役所企画調整部文化室編集『おだわら―歴史と文化―』第1号 財団法人小田原市公益事業協会 1987年7月、漢数字の表記は引用文原文のまま
註270 小野意雄「不退堂聖純とサダ女伝聞」小田原市役所企画調整部文化室編集『おだわら―歴史と文化―』第1号 財団法人小田原市公益事業協会 1987年7月
註271 倉田耕之進『三都太字記』1832、富田高久『不退堂 倉田耕之進』私家版 1991による
註272 富田高久『不退堂 倉田耕之進』私家版 1991
註273 倉田耕之進『三都太字記』1832、富田高久『不退堂 倉田耕之進』私家版 1991による
註274 岡田博「小谷三志門下の著作」鳩ヶ谷市文化財保護委員会編集『鳩ヶ谷市の文化財 第九集・指定文化財その三』鳩ヶ谷市教育委員会 1983
註275 宮田登『神の民俗誌』岩波新書黄版97 岩波書店 1979
註276 数馬広二「幕末関東における不二心流についての研究―その特徴と社会的役割―」『武道学研究』21巻3号 日本武道学会 1989
註277 宮田登『神の民俗誌』岩波新書黄版97 岩波書店 1979
註278 山口桂三郎「修性院と浮世絵」坂輪宣敬博士古稀記念論文集刊行会『坂輪宣敬博士古稀記念論文集 仏教文化の諸相』山喜房佛書林 2008
註279 山口桂三郎「修性院と浮世絵」坂輪宣敬博士古稀記念論文集刊行会『坂輪宣敬博士古稀記念論文集 仏教文化の諸相』山喜房佛書林 2008、野尻かおる「II. 眺望と遊園の名所―日ぐらしの里・諏訪台・道灌山―」『平成23年度荒川ふるさと文化館企画展 絵解き あらかわの浮世絵』荒川区教育委員会 荒川区立荒川ふるさと文化館 2012
註280 望月信亨著 塚本善隆増訂『望月仏教大辞典 増訂版 第2巻 コ‐シ』世界聖典刊行協会 1955
註281 江頭務「創生期における三十番神の役割 <叡山三十番神 壱道、良生記の検討 前篇>」)『イワクラ』29号 イワクラ(磐座)学会 2013年12月
註282 日蓮『日女御前御返事』1277、「陀羅尼品と申すは、二聖、二天、十羅刹女の法華経の行者を守護すべき様を説きけり。二聖と申すは薬王(やくおう)と勇施(ゆぜ)となり。二天と申すは毘沙門(びしやもん)と持国天(じこくてん)となり。十羅刹女と申すは十人の大鬼人也、四天下の一切の鬼神の母なり、又十羅刹女の母あり鬼子母神是也」、「三十番神」日蓮宗玉蓮山真成寺公式サイトによる
註283 加藤陽子「文化財NEWS速報 江戸時代の仏像発見!!」『荒川ふるさと文化館だより』第8号 荒川区教育委員会 荒川ふるさと文化館 2002年3月31日、山口桂三郎「修性院と浮世絵」坂輪宣敬博士古稀記念論文集刊行会『坂輪宣敬博士古稀記念論文集 仏教文化の諸相』山喜房佛書林 2008、『荒川区の文化財(四)』荒川区教育委員会 2010
註284 大田南畝『一話一言 巻三十一』1805、テクストは浜田義一郎『大田南畝全集 第14巻』岩波書店 1987による
註285 初代歌川広重『東都名所 日暮里 修性院 境内之図』、釈文は山口桂三郎「修性院と浮世絵」坂輪宣敬博士古稀記念論文集刊行会『坂輪宣敬博士古稀記念論文集 仏教文化の諸相』山喜房佛書林 2008による。
註286 『東京近郊名所図会 第一 北郊之部』大日本名所図会 第七十六号『風俗画報』臨時増刊 春陽堂 1910年2月10日
註287 曲亭馬琴「新掘山」『烹襍乃記 上巻』羣鳳堂 群玉堂 1811、『滝沢馬琴集 第八巻』古典叢書 本邦書籍 1989により、適宜句読点を追加した
註288 岡山鳥『江戸名所花暦 巻之一 春之部』守不足斎蔵板 1826、テクストは市古夏生 鈴木健一校訂『新訂江戸名所花暦』ちくま学芸文庫エ4 1 筑摩書房 2001による
註289 高田隆成 荒川史談会『荒川史跡散歩』新版 東京史跡ガイド18 學生社 1992
註290 平塚春造『日暮しの岡 東に筑波、西に富士―里の語りべ』確連房文庫➀ 谷根千工房 1990
註291 旧幕府引継書『開帳差免帳』第2冊 第4冊 第7冊、比留間尚「江戸の開帳」西山松之助編『江戸町人の研究 第二巻』吉川弘文館 1973、朝倉治彦「『開帳差免帳』細目(稿)」国立国会図書館主題情報部『参考書誌研究』第55号日本図書館協会 2001年10月
註292 旧幕府引継書『開帳差免帳』第7冊 国立国会図書館蔵
註293 旧幕府引継書『年貢地古跡寺帳』 国立国会図書館蔵
註294 水野稔「替理善運解題」洒落本大成編集委員会『洒落本大成 第十四巻』中央公論社 1981、同解題によれば、山跡蜂満は洒落本『替理善運』、咄本『初あきなひ』の著書、『狂歌五十人一首』(享保3年刊)の編者、『青楼惚多手買』の校合者(実は著者か)
註295 十方庵敬順『遊歴雑記 二編 巻之下 第六拾四』1815序、江戸叢書刊行会編纂『江戸叢書 巻の四』江戸叢書刊行会、『曲亭来簡集』、川野正博『日本古典作者事典』2013第三次改訂
註296 『荒川区史』東京市荒川区役所 1926
註297 曲亭馬琴『吾仏の記 家説第二』1842序、野間光辰鑒修『吾仏の記 上』近世文芸叢刊 9 般庵野間光辰先生華甲記念会 1969、テクストは木村三四吾編校『吾仏の記 滝沢馬琴家記』八木書店 1987による
註298 曲亭馬琴『吾仏の記 家説第二』1842序、野間光辰鑒修『吾仏の記 上』近世文芸叢刊 9 般庵野間光辰先生華甲記念会 1969、テクストは木村三四吾編校『吾仏の記 滝沢馬琴家記』八木書店 1987による、安井金毘羅社を山跡蜂満(安井甘露庵)を祀ったものという説もあるが、誤りである

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