今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

魯迅と日暮里(69)南波登発の「亞細亞」への視線(44)津田官次郎の「武士道」あわせて壮士と博徒の統一戦線(中の1) The Bushidô by TSUDA Kwanjiro and the Sôshi-gambler united front, part 2

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1892年3月1日には、津田官次郎は「亞細亞勞働協會」「會計員」となっている。中心メンバーと目される南波登発は、このとき「事務員」であった。(註1)また、1893年相馬事件の予審決定書の写を見つけたので引用しておく。

「     豫審決定書
      高知縣高知市新町田淵九十番地平民當時東京市
      京橋區北槇町五番地無職業
                   宮 地 茂 平
                   三十四年七月
      大阪市北區紅梅町百八十六番地平民當時東京市
      芝區田村町十八番地寄留賣藥業
                   津田 官次郎
                   三十九年一月
右之者共に對する誣告被告事件豫審する所被告茂平官次郎は錦織剛清と共謀し若くは同人の所爲を幇助して相馬順胤外七名に對し謀殺罪の誣告を爲したりとの證憑充分ならず
因て刑事訴訟法第百六十五條に待ひ被告兩名を免訴す
  明治二十六年十二月二十五日
      東京地方裁判所 豫審 判事 西川 漸
              裁判所書記 清水 恭」(註2)

砲艦千島 wikipediaによる

砲艦千島 wikipediaによる


相馬事件の後の1894年には、フランスで建造された砲艦千島を回航中の瀬戸内海において、イギリスのフラッグシップ・キャリアで勅許会社のPeninsular and Oriental Steam Navigation Companyが所有するRavenna号と衝突、沈没して多くの犠牲者が出た事件がおこる(千島艦事件)。これに対して津田官次郎は、第2次伊藤内閣が起した訴訟の政府代理人となった岡村輝彦の講演会を企画。面会と講演依頼が拒絶されたにかかわらず演説会の印刷物を配布、出版條例と予戒令に違反したとして起訴されるが、3月27日の判決で無罪放免となった。(註3)
同年8月7日には山田浅右衛門家の「家務第八嗣山田吉亮氏發起と成り津田官次郎宮地茂平鵜野彥等の斡旋にて」「安島帶刀、吉田松陰、橋本佐內、頼三樹三郎、大關和七郎、蓮田市五郎、雲井龍雄等其他忠君愛國の志士」が「刑塲の露と消へ果てし」慰霊のため、小伝馬町の祖師堂で大法会を開催する。(註4)山田吉亮(よしふさ)は7代山田朝右衛門吉利(吉年)の3男として生れ、明治政府下でも東京府囚獄掛斬役(代理)をつとめ、斬首刑の廃止後は監獄署書記に転じた人物である。彼は、高津村の経師屋、考古学者、在村民権運動家の林喜楽と親交があったものの(註5)、宮地茂平や津田官次郎との接点は薄い。ただし、林喜楽が「自由党の壮士として白匁【白刃】の中へ一人娘のいちさんを背負つて切込んだりした」という証言が残り(註6)、興味深い。さながら「子連れ狼」(註7)である。
山田浅右衛門家は武士身分ではなく浪人身分で町奉行支配であったが、その稼業は様斬(ためしぎり)と獄門の執行、幕末期に刀剣鑑定が加わるが、サイドビジネスとして刑死した屍体起源の臓器製剤業があった。(註8)1870年、「從前刑餘ノ骸ヲ以テ刀劍ノ利鈍ヲ試來候右ハ殘酷ノ事ニ候間嚴禁取締可候其他人膽或ハ靈天蓋陰莖等密賣致ス哉ニ候處其効驗無之事ニ付是又嚴禁取締可候事」(註9)として禁止されたが、1886年には再発売されている。

山田吉亮-1903年12月17日-望月日宗撮影-wikipediaによる

山田吉亮-1903年12月17日-望月日宗撮影-wikipediaによる

「  山田丸廣告
山田丸調劑之儀者從前發賣致來俗に淺山丸亦淺右衛門丸共御唱ひ有て諸君普く知處也然るに戊辰之際都合に依て暫時閉劑仕候處今般更に其筋之官許を得て再度發賣仕候間不相換御購求之程奉願候敬白
但し定價從前之通壹週間分四拾三粒入金貳拾五錢
     麴町區平河町壹丁目六番地
         山田淺右衞【𫟙、U+2B7D9、衞の偏旁の間が⿱一+韋】門」(註10)

小伝馬町の祖師堂は、かつての牢屋敷・刑場の跡地。1875年まで使用されていたが、取り壊されて火除地となっていた一部を、1881年に山田吉利が「お拂ひ下げを願ひ佛堂を建立して我手に掛多罪人の幽魂を吊ひたい」と願い出ている。(註11)日蓮宗側の記録によれば、「此の場處は元、牢屋のあとで、此處で斬罪になつたものもある。明治になつてから、お取拂ひになつたまま、空地であつた。あのままにしておいては、靈魂も浮ばれまいし、祟りも恐ろしい。何とかこれを清淨な土地にし、設化布教の道場にしたいと思ひついて、願ひ立つたのが、深川淨心寺中本立院の住持江上勝義師と檀家の鈴木伊兵衞氏とであつた。それから藤懸(桐生出身)だとか、澤田治助(金澤出身)だとかいふ人たちにも話込み、又宗局が淨心寺にあつた時代であつたから、早速薩師【新居日薩】にも相談し、身延との關係から、鑑師【吉川日鑑、身延山法主】にも話したのである。土地は安田の手にあつたのを購入が出來たのが、十五【1882】年九月。開堂が十六【1883】年十月。安置の尊像は、十四【1881】年六月に、大教院の本尊として身延から御移動の願滿祖師である。それから衆庶參拜所となり、身延別院となつて、今日に及んでをる。」とあり(註12)、山田家との関係については触れられていない。1888年には山田吉亮が鼠小僧を斬首した「同家に傳來の備前長船の刀ハ長さ貳尺三寸五分鉏元(はヾもと)一寸中心(なかご)六寸七分重ね二分反五寸」、および高橋お伝を斬った新刀を祖師堂へ奉納するとの記事が『讀賣新聞』に載る。(註13)新居日薩上人は桐生の機織屋の生れで「祖父にあたる人が長脇差風の任俠であつたので、その感化も受けられたのであろう、御兄弟はみなしつかりもの、どこか嚴重な、氣ブツセイな人であつた。」という。(註14)

邦枝完二によれば、山田吉亮すなわち「五三郎(友達はごささんと呼んでゐた)は、博奕が大好物であつた。疊屋の權八や、提燈屋のぶら庄などはそのいゝ相棒であつて、刑場で囚人を斬つて來た日には、百匁蠟燭を三十本もともした座敷で徹夜をするのが例になつてゐた。首を斬るのが職業の淺右衞門の家へは、さすがに如何なる岡ツ引が附けられなかつたのである。」という。(註15)山田家の構成員について誤認があるとはいえ、同じ町内に生れた(註16)邦枝完二の証言は重い。また、望月茂によれば「斬首の刑が廢止されると共に、吉亮は、十四【1881】年八月二十二日、市ケ谷監獄書記を拜命し、翌【1882】年十二月十五日依願免職となつております。/私の友人で、澁谷で青物市場を開いてゐる落合次郎氏は、もと、東京の三顏役の一人といはれた俠客、澁谷の圓次の孫に當ります。圓次は、市ケ谷監獄に入獄中、吉亮の世話になつたといふのですから、多分此時のことだらうと存じます。吉亮は、明治二十四【1891】年春、堀ノ內料亭大蔦に於て、高圓寺の村田市五郎【四軒寺一家3代目】と會飲中、圓次が今度堅氣になつて、圓滿社といふ青物市場を開設したといふ話をした處、それなら一筆描いてやらうと、有合せの障子紙に、有合せの筆をもつて認めたものを、届けてよこした。圓次は、これを額に仕立て楣間に飾つておいたので、曾孫の時代までのこつて居るのであります。」という。(註17)落合円次郎(広尾の円次、落合一家初代)は1891年、早川富五郎による品川馬車会社襲撃によって勃発した浅草と品川の人力車屋の紛争を調停、事をおさめた人物。(註18)家業の製剤業に加えてアウトローとの交際を通じて、津田官次郎との接点があったのかもしれない。また、後に見るような事情も考慮される。

さて、長谷川如是閑の言葉には続きがある。私たちの追いかけている地域を実に生き生きと描き出しているので、あまりに長い引用となるがお許しください。デブとヤセの2人組の悪党が借金取りにきたものの、「ミイラ取りがミイラ」、心ならずも債務者の手伝いをしてしまうの段である。ローレル&ハーディ(Laurel and Hardy)の喜劇映画で見たことのあるような、お定まりのパターンなのが笑える。

Laurel-and-Hardy『玩具の国』1934-wikipediaによる

Laurel-and-Hardy『玩具の国』1934-wikipediaによる

「私が表町の玄關に机を据えて座つていると、いつも「宮地と津田」と名乘つてやつて來るのが、大兵肥滿の、いかにも壯士の親分然たる宮地【茂平】と、瘦形の、むしろ人柄のいゝ津田【官次郎】とだつた。八方塞がりの父は、「無い袖は振れぬ」の一点張りだつたらしいが、その父の態度に、どこかそういう連中の氣分に通じるところでもあつたか、お百度を踏んでいるうちに、あべこべにこつち側になつてしまつて、債主との間をとりつくろつてくれるようになつてしまつた。
そのうちに【1895年】、表町の家の家賃も拂えないようになって、同じ小石川もずつと奧の、その頃は、雜木林と竹林とのうちに農家のような家が散在していた、植物園【小石川植物園】裏の、林町に引移つた。廣い茶畑の中の一軒家で、判事とかが建てた家で、相當の構えだが、家賃は五圓だつた。家主は茶畑の持主で、それが後の東大教授の杉山直治郞氏の生家で、その父君は穩かな品のある老人だつた。直治郞氏は、大學生でそこから通つていた。
そこへ移つた頃は、もう宮地と津田は手を引いたが、すると早速執達吏を向けられて、家中の道具に赤紙を張られた。私は外出中だつたが、歸って來ると、父は、床の間の、それだけ殘された趙子昂【趙孟頫】の大幅――その裏にも赤紙の張られた――を背にして、煙草盆を前に畏つて座つていて、「只今」という私の顏を見るなり「アッハッハ」と大きい聲で笑つた。隣の部屋から、母の「あれアッハッハだつて」という、いかにも腹立たしいような聲が聞えた。
今から思うと、その時分の私たちの氣分は、頗る樂天的だつた。あしたの米が無いという日も珍らしくはなかったが、するといつも、長持の、中味は半分も殘されていないうちから、何かしらもち出して、毎日のように近所の竹早町から通つて來た、出入りの古道具屋に賣るのである。」(註19)

それにしても「その後の壯士」は、なかなか大変なのである。「吉原の遊廓の老妓」(註20)「おちやら」は、その後どうしたのだろう。Charaと同名なだけに、なんだか気にかかる。

Nesnad氏撮影 Chara at Countdown Japan 2011 music festival wikipediaによる

Nesnad氏撮影 Chara at Countdown Japan 2011 music festival wikipediaによる

また、弁護士から衆議院議員となり、東亜同文書院の設立に関与した小川平吉も2人の「訪問」を受けている。

「明治二十五【1892】年我が輩が大斈【學の異体字】を卆業した頃は、國會開設の為政府は頻りに法斈士を採用し卒業者は無試験で奏任官に採用され五十円の月給を與へられた、(但し司法官は二十五円)、五十円ならば餘程贅澤な暮しが出来た【中略】当時法斈士の代言人は其の数極めて尠なく世間の信用もなか〱厚かつたのであるが、何分にも年は若し開業匆々のことで依頼者は少なく収入も薄かつたのである。然るの其の頃は大學卒業者の信用が厚かつた爲に之に対する殆ど専門の高利貸が澤山あつて、學生が卒業する頃には借金を持つて居る者も澤山あつたが、我が輩は幸にして毫も高利の借金を持たなかつた。所で二三の友人から依頼を受けて借金に連帯の捺印をしてやつた爲に隨分ヒドイ目に會つて學校から社會に出るといきなり猛烈な打撃を受けて六七年間と云ふもの非常な苦しみを甞めた。【中略】或る時宮地茂春【茂平の誤】、津田官次郎と云ふ撃劍の道場を有し両人ともお抱へ車に縮緬の紋付羽織を着流して居る有名な壮士の大将が堂々と乘込んで来て、色々の文句を並べた末寄附金の要求をしたから、我が輩は即座に「金の話なら駄目だ」と言つて卓子掛を剝いで見せた所が其の卓子に差押への張紙があつたので「これはどうも、〱」と連呼しつヽ唖然として退却したことなどもあつた。」(註21)

小川平吉は1892年から99年の頃のこととするが、撃剣道場の文字があるため、早くとも1895年以降で、1897年のころの出来事だろうと思われる。

小川平吉『信州の大臣たち』より-wikipediaによる

小川平吉『信州の大臣たち』より-wikipediaによる

長谷川如是閑一家が小石川区林町43番地に落ちのびたころ、津田官次郎と宮地茂平は広島で軍夫頭となっている。1895年5月の『讀賣新聞』は「前年都下に壯士として運動したる宮地茂平・津田官次郎・渡邊徳次郎等ハ目下軍夫頭と奈りて廣島に在り又氏家直國氏ハ蓋平に在り其他舊盈進社の壯士宇關外三郎飯田魁等の人々ハ夫々占領地に於て人夫頭を爲し居よし」と伝える。(註22)日清戦争勃発への対応である。他にも三多摩壮士の森久保作蔵、有一館の内藤武兵衛らによって結成された「玉組」軍夫団の例が、乾照夫氏によって詳細に調査されている。(註23)また、俠客の石定こと高橋文吉も軍夫となっている。

「○俠客石定の從軍志願 關東地方に於て俠客を以て知られたる石定事高橋文吉は今回の朝鮮事件に付き近日府下の遊人一千人を糾合し親ら之を統督して軍に從はんと專ら奔走し居たる由なるが或人彼を諭し汝の志は誠に好きも戰鬪は海陸軍隊の任ずる所なれば希望を達せんこと難し寧ろ人夫となりて彈丸雨飛の下に立ち輸卒の助勢を爲すは或は宜しからんと云ひたれば去ればとて目下頻に其の事に努め居るとか」(註24)

尾佐竹猛によれば、石定は「本名高橋文吉と云ふ京橋水谷町の生れ茅場町に大賭場を開き關東一の俠客を歌はれた大親分で晩年には京橋采女町に住んで五六年前に死亡した佃政は此身內で古賀吉喜太郎と共に石定身內の三羽鴉と云はれたのだ石定は斯んな大親分だが生涯、人と喧嘩したことはないと云はれて居る又曾て淺草署で惡少年狩りをなし伊豆七島へ送つたことがあるが此時の費用は此石定が悉く支出したのだ斯んなことはちよつと他の俠客連の眞似の出來ない所だ」という人物である。(註25)

さらに石定事高橋文吉、上萬事藤江亀吉の2人は広く俠客に呼びかけ、1905年には426円50銭を「征清軍資として陸軍恤兵部に上納。この時、「安藤彌五郎藤江龜吉高橋文吉」は「金三十圓」、「伊藤松五郎秋元文次郎長谷川龜太郎北川彌七井上吉五郎岡田政吉藤田喜太郎金子政吉」も「金十圓」を出金している。(註26)軍夫業に関しては、旧幕以来の博徒俠客による中間等の口入稼業がそのままスリップしたものとも読める。上坂仙吉は、京都守護職となった会津藩に戦闘能力を供与したことによって会津小鉄の勢力基盤を盤石のものにした。なお、上坂仙吉の親分には大澤清八(大垣屋清八)がいるが、その子・大澤善吉は新島襄より受洗してキリスト者となり、実業界入り後は、京都電燈株式会社代表取締役社長、京都電気鉄道を設立して取締役を歴任、京都財界の重鎮となっている。京都電燈の社章、そして後継会社の京福電気鉄道の社章は菱型雷文で電気を表現したものといわれるが、見ようによっては組の代紋にも見える。

京福電気鉄道(旧・京都電燈)社章 wikipediaによる

京福電気鉄道(旧・京都電燈)社章 wikipediaによる

その後2人は一大プロジェクトに取りかかっていた。それが「大日本武術講習會」である。

津田官次郎の「劍術道場」は、1895年9月13日、「芝公園地舊彌生館跡に於て開會」。(註27)創立の目的は「日清戰爭以來特に講武の必用を感じたるに付帝國固有の武術練習を目的」にあったという。(註28)発会式の呼びかけでは「本會ハ道塲を彌生舘廓內に設け連日午後一時より五時迄同七時より十一時迄無料にて各種の武藝を教授す都下七萬の青年學生諸君並に滿天下篤志の諸士奮て來り此技を演じ小ハ以て一身の自衛を爲し大ハ以て國家の干城と爲り日本固有の元氣を發揚し嚇々たる武勇を世界各國に照耀せしむ可し」と勇ましい。(註29)ここに国権主義への絡め取られを見ることも可能であるし、またかつての有一館のごとき壮士養成機関の再建と「元氣」の「發揚」の意思を見ることもできよう。
この会について『少年園』は「其永續するや否やは疑はしけれど、觸れ込みは實に感心の至りなり。國民の強壯ならむ事を計るべし、武人的教育を施すべしと、其の聲は如何にも大にして其實は皆無なる今日、此の如き會の組織せられたるは最も喜ぶべし。」と評している。ただし、その直後に「然れども、かゝる企は往々私利を計るの徒に由てなさるゝものなり。爾來之に類似の會の創立を多く見るべきも、徒らに皮相の見を以て、輕々しく資を出し、奸奴の腹を肥すが如きものなからむを望む。」と釘をさす。(註30)はたして本会はいかがであったか。
1897年は、「感ずる處あり爾後禁酒す/津田官治朗」という新年の宣言でスタートした。(註31)その後、『讀賣新聞』は「麴町區上六番町十七番地平民津田官次郎(四十二)ハ何の職業も奈きに引替へ一ケ月二十八圓の家賃を拂ひ妾を置き抱車を有ちて最(い)と贅澤に暮らすをかね〲麴町警察署に於て注目し居たるが津田ハ事務員として愛知縣平民服部永三郎(二十三年)奈る者を雇ひ芝彌生舘跡に事務所樣のものを置き「大日本武術講習會趣意及規則」と記せしものを擔ぎ廻り中等以上の生計を爲寿家へ押掛けて賛成を請ひ若し聞かざれバ強請を爲すより何れも長がく取合ふを面倒奈りしとて二圓三圓と寄附寿るものあり貴族院議員中にも出金せし向少奈から寿゛集まりし金額總計幾千圓の多額に上りたり此証跡一々判明せしかバ一昨日【1897年2月5日】刑事巡査同家に出張して津田を麴町警察署へ引致し段々取調べたりしに二十四【1891】年警察令第二十四號の違犯者なりけれバ科料金一圓九十五錢に處し尚當日不在奈りし服部の行方を尋問せしに前日已に逃亡せりと申立てたり然るに此服部奈るものハ已に品川、芝等にて處分を受けし事數度あるものなれバ警察署にてハ尚嚴重に探偵を凝し居る由」と報じる。(註32)しかし「去七日【1897年2月7日】の讀賣新聞に予の科料に所せらると題せし記事掲載ありしも寄附金募集の手續を誤り科料に所せられたるハ事實奈るも其他の事抦ハ總じて無根に付此段御配慮を蒙りたる會員諸彥に謹告候也/大日本武術講習會/明治三十【1897】年二月九日    會頭 津田官治朗」と潔白の宣言を広告している。(註33)
『大日本武術講習會趣意及規則』は、大量に発送されたと見え、今日各所の文書館や図書館に所蔵されており、いくつかのヴァージョンがあったようである。山口県文書館には、長府藩士、政府高官(外務省職員)、衆議院議員を歴任した梶山鼎介旧蔵の『大日本武術講習会趣旨』(1894年9月)、『大日本武術講習会趣旨及(同会費賛成員名簿共)』(1896年2月)、『大日本武術講習会趣旨及規則』(1896年2月)(註34)、明治新聞雑誌文庫に『大日本武術講習會趣旨及規則』(1895年9月跋)(註35)、鹿児島大学附属図書館に『大日本武術講習會賛成員名簿』武藤活版所(1896年5月)(註36)、立教大学図書館に越後国西蒲原郡中之口村小柳家文書『大日本武術講習會趣旨及規則』(1896年2月)(註37)、国文学研究資料館に、戸長、山梨県学区取締総理、県会議員、村会議員、衆議院議員をつとめた依田道長旧蔵の『大日本武術講習会趣旨及規則』(註38)、国会図書館憲政資料室には斎藤実旧蔵の『大日本武術講習会趣旨及規則』(註39)が存在する。また、山口県文書館には、萩藩士(手廻組)、長野県知事、元老院議官、男爵の木梨精一郎旧蔵の『大日本武術講習会会員之証』も残る。(註40)

芝公園内の弥生館は元来警視庁の施設「彌生舍」として設けられた建物であったが、芝区民の集会場として払い下げられ、多目的ホールとして利用されていた。しかし「建物の狹隘を感じ。三十【1897】年五月に至り。現在の地を卜し。新築工事に着手し。同年十一月落成移轉せし」(註41)ということで、自社ビルを持つに至った。これについては、新聞にも次の通り広告が打たれている。

「新築落成に付祝意を表する爲め來る十月十七日正午より武術試合大會擧行候間會員諸君御奮臨を願ふ
 神田錦町三丁目廿四番地
  大日本武術講習會
        會頭 津 田 官 治 郎」(註42)

同会は「今ヤ列國ノ形勢外ニ平和ヲ裝ヒ內、實ニ不測ノ禍有リ兵戈ヲ衽席ノ內ニ藏シ鋒鏑ヲ談笑ノ中ニ磨ス危機一髮朝ニシテ夕ヲ測ラレス於是乎本會ノ必要起リ武事ヲ平靖ノ日ニ修シ身謄ヲ安宴ノ時ニ養ハント欲」して創設され、会員は「規定ノ時間內隨意入塲武術ヲ硏究シ又ハ參觀スルコトヲ得」、「毎年二月九月ノ兩度武術大會ヲ開キ劍槍柔術薙刀鎖鎌等ヲ講シ大ニ國家ノ元氣ヲ振起シ大日本帝國ノ武術ヲ隆盛ナラシメ以テ國家ニ報ヒンヿヲ期ス」ものとされた。(註43)津田官次郎自身の言によれば「現今察宇內形勢、弱肉強食之競爭塲裡、而西洋列國、及亞細亞強國、窺窺四隅、縱一戰克清國、不可高枕安臥、彼雖弱國、甞膽臥薪、不可謂無復讐念、當此時若有過一步、外對外列國、內對四千萬國民、何顏得見之乎」との認識が示される。(註44)
以降、実際に武術大会が開催されたことは、この後の新聞報道で確認できる。1899年3月25日には、神田錦輝館で「大日本武術講習會春季大會」が開催され、「劔柔鎗各科師範の教員其他練習生英國陸軍中佐チヤーチル英國公使舘員エーアール、フアース同ハミルトン、ホームス同クラフー競技及ひ子爵渡邊昇醫學博士高木兼寛立法學士磯部四郎氏等の講演」が行われた。(註45)ただし、この後、『東京朝日新聞』は「麴町區中四番町大日本武術講習會長津田官次郎ハ昨年【1898年】十二月中露國公使館に赴き公使及び書記官を勸誘して三十圓の寄附金を募り其後麴町區永田町に住む英國人ブリンゲリン氏より四圓、獨逸、澳國、佛國、伊國、伯耳義【、】英國等の各公使を遊説して尠からざる金員を募集したるハ警視廳令寄進勸誘の條項に違犯したるものなりとて一昨日【1899年4月7日】同人を麴町署へ召喚し拘留十日に處したりと」と報じる。(註46)しかし、これまた『東京朝日新聞』の誤報であり、「津田官治朗ハ拘留せられず寄附金募集は會費領收の間違なり日本男兒ハ奮て入會あれ/神田錦町 大日本武術講習會」と反撃の広告を打ち(註47)、正誤記事が出されている。(註48)

『武士道』第四號表紙

『武士道』第四號表紙

その機関誌『武士道』は1898年2月24日に発刊。「發軔の聲」と題された巻頭言では「武士道起る、厥の何の爲に起るかは、全世界の地圖を介倪【亻+皃】指點して、之を人道と天道とに對照權衡すべし、直下に首肯して寶刀鞘を脱せむ。埃及は如何、印度は如何、安南緬甸暹羅は如何、支那は如何、朝鮮は如何、乃至南洋諸島は如何。それ孰れか碧眼紅毛の歐人に䖍【虔】劉せられ、馮陵せられ、蹂躙肉薄せられざる。抑も紅毛碧眼の歐人、彼等必【畢】竟何爲る者ぞ、始は博愛平等等の教を歌ひ、自由自治の政を唱へ、呫呫來りて交を求め、厥の交の關門開けんとするや、彼此の貿易を畵して經濟利用の益を示し、則ち益を示すと共に、漸くその本性を露はし、生存競爭、優勝劣敗の免ぬかるべからさるを鼓吹す、則ち之を鼓吹すると共に、已に旣にその國の形勢に熟し、その民の風俗を知るを以て、忽地その虚を衝き、その呼吸を制し、その民を降し、その國を奪ふに終はる、是れ彼等か旣徃經過の印跡なり。」「夫れえ已に優勝劣敗は、天理にあらず、天理の正因正果にあらず、弱肉強食は、人道にあらず、人道の正情正義にあらす。天理の正因正果は、一圓平等の快樂なり、人道の正情正義は各自相應の平和なり。然則この天理に應し、その正因正果を發して、一圓平等の快樂を期するには、この人道を履み、その正情正義を發して、各自相應の平和を求むるには、人天を感動せしむるの至誠なかるべからず、万世を震慄せしむるの威勢なかるべからず、是れ「武士道」が世道を風發し、人心を鼓舞せんか爲に起る所以也。」と宣言する。(註49)ここでは日本伝統の精神といわれるものが、ヨーロッパ諸強国の侵略という事態によって惹き起こされた一種のカウンターカルチャであったことに注意しておけばよいだろう。(註50)同誌に原稿を寄せたメンバーには嘉納治五郎や片岡健吉ら武道家のほか、福地源一郎、尾崎行雄、中江兆民、植田正久、大井憲太郎、紫瀾坂崎斌らの名が見え、かつての民権運動家が執筆していることも分かる。
さらに、津田官次郎は近衛篤麿を訪問している。近衛篤麿へは1896年12月10日、「面会 津田官次朗〔東久世伯紹介武術講習会の賛成を乞ふとの事〕」とあり、東久世通禧を既に訪問していたことも分かる。翌1897年4月13日には「染筆依頼」に訪れ、27日にも再訪、7月27日には書信で再び「染筆依頼」、8月10日には「染筆催促」している。(註51)1898年2月5日には「面会【中略】津田官次朗〔撃劔道場機関雑誌投書寄贈の事〕」と記す。(註52)また、1900年には、三菱合資会社奥帳場から大日本武術講習会に寄付を提供している。調査者の石井里枝氏は「明治期においては,三菱自体からの寄附は少額にとどまっていたと思われる。 しかしながら,奥帳場や高輪邸といった個人的な出資も併せて考えてみると,災害に対する義捐金や教育事業に対する出資など,社会的意味のある寄附も比較的多く行っていたということが理解できる。」という。(註53)

大日本武術講習会の新築移転前の1897年、津田官次郎が新聞紙上のスキャンダルになったころ、宮地茂平と津田官次郎が回向院のトラブルの調停に介入したことが報じられている。

「●回向院葛藤事件の調停  圓隨排斥に就て檀家總代の運動が愈〻步武を進め宗務所への交涉及び內務大臣への具申に及びたる次第ハ前號に報道せしが一昨日宮地茂平津田官次郎の兩氏宗務所の廣瀬氏と知友なるより回向院の檀家總代事務所を訪づれ調停を試みたしとの事に檀家總代に於ても固より強て事を好むにあらざれバ新住職圓隨に宗務所より退院命令を與へくれるならバ我等ハ今日にても解散すべしと陳べたるところ調停者ハ兎も角も及ぶだけ圓滑に局を結びたしと答へて立歸りしと云ふされど宗務所に於ても今更無條件にて圓隨を退去せしむるハ如何あらん歟」(註54)

歌川広重「両ごく回向院元柳橋」Brooklyn-Museum蔵-wikipediaによる

歌川広重「両ごく回向院元柳橋」Brooklyn-Museum蔵-wikipediaによる

実はこれより先、宮地茂平が「天下之苦情爭論引受所」を本郷区春木町に開設していた。以下は1896年3月16日の『讀賣新聞』に掲載された広告。

「天下之苦情爭論引受所
  本鄉春木町二丁目 宮地茂平
  五十四番地
●掛合事ハ奈んでも受合ます
●運動費其他前金ハ一錢も受けません
●多用の御方ハ書面下さい人を出します
●事件に見込あれバ前金を貸します
●事件を周旋の御方へハ相當の謝儀を呈す
●日本內地新領地ハ勿論五大洲中何れの地方へも出張しま寿
如何奈る難局之國際談判と雖も萬國政府の依頼に應寿゛」(註55)

今でいうコピーライタのようでもあり、「着手金不要、まずはお電話を、○○法律事務所」といった体でもある。6月以降、「天下之苦情爭論引受所」は「法學館」とその名称を変更し、『實業時論』、『東京市報』のほか『讀賣新聞』、『東京朝日新聞』、『平民新聞』、『社會新聞』にしばしばその広告を載せており、人の目にふれることは多かったと思われる。

「  法學舘長 宮地茂平
       赤坂區仲の町二七電車山王
       下約一丁在宅毎日午後三時
男子進で總理大臣たる事を得ず退て浪人となる職務左の如し
如何なる難局の國際談判と雖も萬國政府の依頼に應ず又全世界の苦情爭論を引受け糺紛解亂の實を擧ぐ」(註56)

宮武外骨は、この広告文を掲げたのち、「此宮地茂平と云ふ人は、我輩の記憶を去らざる舊時代よりの壯士である、」「一個の浪人たるに過ぎないが、老軀尚壯心を失はず、右の如き大言の廣告を出して居るのは一奇と云ふべき乎」と述懐する。(註57)なお宮武外骨は1926年に「脱管届を出せし宮地茂平」の一文を書き、『昭代史要』三編卷ノ十二、明治14年11月25日条に「高知縣平民宮地茂平、處徵役百日、初茂平與栗村寛亮上書太政大臣、願去朝廷之治下、自稱地上自由生、無幾何兩人就縛、寛亮悔其非、乞官求書、引咎面謝、茂平獨不屈、官因斷其罪、爲違制重處之徵役」とあるのを引き「其刑を免れたので、卑怯漢栗村寛亮の名を傳ふる者はない」と結ぶ。(註58)しかし、これが事実に反すること、栗村寛亮が処刑された記事を宮武外骨も見たことはその後に書かれており、このことは既に述べた。

片岡直温『大正昭和政治史の一斷面 續回想錄』より wikipediaによる

片岡直温『大正昭和政治史の一斷面 續回想錄』より wikipediaによる

やや時代はさかのぼるのだが、伊野部勝作によれば、土佐出身の片岡直温が滋賀県警部長の時代(1886年6月7日 ~1889年7月18日)に宮地茂平が訪問したことがあるという。

「片岡直温が滋賀縣警部長となると宮地茂平が一日突如としてやつて來て面會するや否や
「直温誤魔化したな」
と續け樣に二三回も大聲にて言ふ故片岡が
「こゝは警部長官舍で己の內には書生も居れば女中も居る。金でも誤魔化したと間違へられては困るからさう大ごえで誤魔化したな誤魔化したなと云ふな」
と言ふと宮地なる程とうなづいて
「さうだ。さうだ」
と言ひ樣俄かに聲を低くめさゝやく樣な態度で
「直温誤魔化したな」
とやる。狼のうなる樣な聲が蚊の鳴く樣な聲に變つた丈けでいつ迄たつても「誤魔化したな」の連發だ。片岡堪まり兼ねて
「時に何か用か」
と聞くと
「東京に行く途中金が足りなくなつた故五圓貸せ」
と來た。
「おれもさうだらうと思つて居た」
と言ひ樣片岡が十圓札を渡すと宮地きよろきよろとして之を眺め乍ら
「直温こりや十圓札じやないか」
と呆れ顏
「さうだ。十圓だ」
「おらあ釣は持て居ないぞ」
片岡笑ひ乍ら
「釣のないのは判つて居るよ。久し振りであつたから飯でも出し度いがおれはこれから知事の所へ行かねばならぬ故其暇がない。金が餘る樣ならどこか其邊で飯でも食つて行てくれ」
と云ふと宮地顏の相好を崩して
「これを皆貰つて構はぬか構はぬか」
と繰返し乍ら退却した。宮地は斯の如く脱線の內に何處となく淡泊にして可愛氣のある人物であつた。
筆者等が青年となつた後宮地は時々新聞紙に
「喧嘩口論間男騷ぎ等一切引受ける。又如何なる國際談判と雖も萬國政府の依頼に應ず」
と廣告した。喧嘩口論間男騷ぎは如何か知らぬが國際談判は萬國政府より依頼がなかつた模樣である。宮地としては「冀北馬なきに非らず伯樂なきを如何にせん」の嘆があつたかも知れぬが夫れは宮地の心得違ひだ。失策は之を依頼せざる萬國政府に非らずして日本語にて之を廣告せし宮地にある。若し英語を以て之を廣告したならば宮地も或は各國の競爭的依頼に忙殺されたたかも知れなかつた。」
また、「宮地が誤魔化したなと言ふは言ふ迄も無くうまくやつたなと云ふ意味である。宮地は片岡の父母を知らぬ故片岡が巧に運動して出世したと思つたであらうが决してさうでない。片岡兄弟は世間周知の通りの人物である上父孫五郎母信子亦僯出【傑出】の人物であつた。孫五郎は武市系志士の一人にて武市瑞山、吉村寅太郎、那須信吾等と交際し田畑を賣りて志士脱藩の旅費を給したり志士を宿泊させて接待したり脱藩の便宜を與へたり長州に密行して木戶、高杉に遇つたりした。夫れが爲め家窮乏し孫五郎の死せる頃は債ありて產はなかつたが信子亦頗る賢夫人にて勤勉家系を持直し二兒を教育して斯る立派な人物に育て上げた。瑞山系人物の廟堂に立てるものが此夫妻の事跡を知れることも直温が巡査部長となる一便宜となつた。」という。(註59)

筆者・伊野部勝作にとっても、宮地茂平の広告が印象的だったことが如実にわかる。
片岡直温は、1927年3月14日の衆議院予算委員会における「現ニ今日正午頃ニ於テ渡邊銀行ガ到頭破綻ヲ致シマシタ、是モ洵ニ遺憾千萬ニ存ジマスガ、是等ニ對シマシテ預金ハ約三千七百萬圓バカリゴザイマスカラ、是等ニ對シテ何トカ救濟ヲシナケレバナラヌト存ジマスガ、偖テ救濟ヲシヤウトスレバ、ソノ財產ヲ整理シタ所ノモノヲ引受ケルト云フ者ヲ見出サナケレバ、是ハ整理ハ付キマセヌ」(註60)という失言を契機に、銀行への取り付け騒ぎが生じて勃発した昭和恐慌の当事者として、その名を今日に残している。しかし、大臣や総理大臣の数限りない失言が実世界によって無視され、何の影響も及ぼさない現代と比べ、この時代の大臣発言の何と重かったことか、改めて考えてみる価値はある。

片岡直温『濱口内閣』より-wikipediaによる

片岡直温『濱口内閣』より-wikipediaによる

津田官次郎、宮地茂平ともに訴訟における代人の役を果たしたことについては、多くの事例が残る。裁判事例は国際日本文化研究センター・民事判決原本データベースで検索しており、収録年代は1890年までとなる。

津田官次郎は、
1) 手数料請求ノ詞訟 天王寺治安裁判所 1883年第00505号 1883年5月18日判決(原告・津田官治郎)
2) 預ケ金取戻ノ訴 天王寺治安裁判所 1883年第00689号 1883年5月26日判決(原告代人・津田官治朗)
3) 白米売掛代金請求ノ訴訟 中之島治安裁判所 1883年第02630号 1883年10月(被告代人・津田官次郎)
4) 不渡手形金請求ノ詞訟 大阪始審裁判所 1883年民第02176号 1883年11月21日(原告総理代人・津田官次郎)
5) 貸道具取戻并ニ損料金請求一件(控訴) 大坂始審裁判所 控訴第00435号 1883年12月2日(被告代人・津田官治郎)
6) 貸金請求ノ詞訟 大阪始審裁判所 1883年第02090号 1883年12月20日(原告総理代人・津田官治郎)
7) 貸金請求ノ詞訟 大阪始審裁判所 1884年第00051号 1884年1月25日(原告総理代人・津田官治郎)
8) 貸金請求一件 大阪控訴裁判所 1884年第00312号 1884年3月7日判決(被告総理代人・津田官治朗)
9) 月賦貸金請求ノ訴訟 中之島治安裁判所 1884年第00488号 1884年4月11日(原告・津田官次郎)

宮地茂平は、
1) 高知裁判所 宛口米ノ内減租弐歩米不払ニ付地所引揚ノ詞訟 1878年00476号 1878年4月(被告)
2) (用紙)水戸裁判所 家屋并ニ附属品明渡シノ詞訟 1881年01192号 1881年10月27日(原告代人)
3) (用紙)大坂控訴裁判所 預金取戻ノ控訴 1884年第01140号 1884年11月21日(原告代人)
4) 大坂控訴裁判所 預金取戻ノ控訴 1884年第01140号 松山1884年00254号 1884年11月21日(原告代人)

の各裁判に関与している。(註61)ただし、宮地茂平の裁判1)の事例は、高知県香美郡中野村の宮地茂平が安政3年以来の小作地貸借料として地主に引き渡す宛口米のうち地租軽減分を差し引いたため、地主が小作地の返還を求めた訴訟であり、われわれの追求する宮地茂平ではないだろう。他は原告代人として活動しており、確実に法学館時代の宮地茂平に接続する。また、宮地茂平の事例2)の意味についてはすでに触れた。また、津田官次郎の旺盛な活動には目を瞠るものがある

宮地茂平による法學館の広告には人の目を惹く秀逸なものが多い。

「天下之浪人宮地茂平
 未死也國家之事亦不
 足憂也政治家煩悶苦
 惱之秋來就問我」(天下の浪人宮地茂平未だ死せざるなり。国家の事また憂ふに足らざるなり。政治家煩悶苦悩の秋来たる。就(すなは)ち我に問へ。)(註62)

宮地茂平の「天下之浪人」のキャッチーな自称は当時、彼の好んで使ったもので、1897年6月30日に亡くなった父・宮地次郎の墓には家紋である丸に抱き茗荷紋が描かれ、「天下之浪人 宮地茂平父 次郎之墓」の文字が刻まれる。(註63)この広告では、残念なことに「未」の文字が「末」と誤刻されているようだ。ただし、あながちこうした言説はハッタリというわけでもなく、宮地茂平とすればその気はあったようで、1898年7月、日本初の政党内閣で総理大臣となった大隈重信に次のような頌文を送っている。

「  頌文
藩閥跳梁、秕政累年、生民苦塗炭、國威亦日堕、罪戾盈天地、神人皆共怒」大人夙抱濟民志、糾合同士謀革新、苦辛經營之跡、轗軻不遇之情、今尚盛夏肌生粟」曾聞、順天者昌、逆天者亡、順逆之理、榮枯之數、千古不易、蓋天之則也」時維明治三十一年六月、藩閥政府茲倒、政党内閣猛然而起、實天下大快事也」抑順逆之理、榮枯之數、固雖據天則、大人発憤之効、亦可謂偉矣、億兆之民衆、歡呼頌其賢、豈亦徒爾哉」方今天下望治如饑渇、大人不㞮𥘾蒼生何、吾聞斯語旣久、今而甫逢此時、誠千歳之一遇也、大人千金自愛、謹白、
明治三十一【1898】年七月
        天下之浪人宮地茂平
大隈重信殿」(註64)

頂上表半面圖及び裏半面圖『富士山頂上獨案內』国会図書館蔵より合成

頂上表半面圖及び裏半面圖『富士山頂上獨案內』国会図書館蔵より合成

しかし、隈板内閣は4か月後に瓦解、宮地茂平が中央政局に参加することはなかった。同年5月13日、元茨城日日新聞社長の野口勝一に書信が届く。内容については記載されていないものの、28日朝には同宅を訪問、6月7日、16日にも再訪しているため、何らかの依頼をしたのだろう。(註65)野口勝一とは法学館・水戸政談演説会以来、旧知の人物である。さらに、翌年末の厳冬の中、宮地茂平は富士山に登頂を試みたらしく、1899年12月29日の『日刊人民』に「明三十三年一月二日 非華族無爵宮地茂平 於富士山巓金水池邊 謹而受年賀之禮」という広告が掲載され(註66)翌日の『東京朝日新聞』でも報じられている。(註67)「富士山巓金水池」というのは不明だが、このしろ池でなければ、金明水をいうのだろう。

富士山頂上金明水『富士名所寫真帖』国会図書館蔵より

富士山頂上金明水『富士名所寫真帖』国会図書館蔵より

1900年同年4月には「徳川三代家光公の二百五十年に相當するを以て日光廟に於てハ四月十二日より二十日間盛大なる祭典を擧ぐべき企てあり大日本武術講習會及び日光町の有志數名發起し榎本【武揚】子爵大鳥圭介兩氏の賛成を以て右祭典中ハ奉納撃劍大會を催すとぞ」と報じられ(註68)、5月15日には「上野彰義隊三十三年忌相當に付大日本武術講習會の奉納撃劍會を同公園山王臺の會塲にて催すと」との記事が載る。(註69)自分たちの生きて盛んに活動した時代をさかのぼって、旧幕時代への憧憬がうかがわれるように見える。その後も1903年9月27日、大日本武術講習會で「教師及び講習生の競技を劉覽に供」し(註70)、1906年5月27日には「新橋新富座に於て」「大日本武術講習會大會」が開催されている。(註71)

また、1905年には「大日本武術講習會 附屬健兒養成所」が創立されている。その事業の詳細は不明だが、「精良 無黴 牛乳」の販売をおこなっている。(註72)同事業は少なくとも翌年末まで継続した。(註73)

いっぽう、生業である調停活動も盛んにおこなわれている。1900年10月には、吉原近江楼の娼妓左近(柴田お梅)の自由廃業届提出にあたって、「辯護士松宮尚次郎及び宮地茂平が待搆へ居りお梅が同區仲猿樂町の叔父の許へ徃かんとするを呼留め錦町の武術講習會津田官次郎方へ連れ行き切めて今日より六箇月再勤して吳れまじきやと頼み」(註74)、1901年6月10日、重役交代が発議された成田鉄道株式会社臨時総会では、「宮地茂平氏ハ這回(こたび)の事ハ改革派の野心に出でたるものにして大株主中にて恊議せられたる重役候補中にハ重役の品位無きものあり且つ會社ハ何人に逼られて斯る總選擧の案を提出せしやと質問を試み」ている。(註75)つまりは、総会屋としての活動である。
翌1902年2月には、「本鄉區切通坂町廿番地高知縣人壯士宮地茂平(四十三年)ハ豫戒令を四回受け毆打にて三回も處分されし者なるに同じ壯士仲間なる神田區錦町三丁目廿四番地矢張豫戒令執行中の津田官治郎(四十八年)と談合し昨年十月中東京商業銀行の總會の際重役の島田久兵衛より同銀行の株券一枚づ〻を表面上買求めし体になし實ハ島田より貰受て株主となり同銀行の總會に出席し島田等の都合よき事にハ賛成し不利益の事にハ反對したるも已に同銀行ハ解散の命を受け破產に及びし塲合になりしかバ同銀行に對して債權者日本橋區岩槻町二番地藥種商井上兼吉外廿六人より大藏大臣に宛て解散ハ不當なりと申告し其尤も重なる個條にハ重役島田ハ不正の所爲ある上之に從ふ津田及宮地ハ窃盗罪を犯し強盗の所爲さへありて良民を惱す者なり云々との辯駁書を出したるより島田ハ之を聞き津田宮地等へ我持株の內より一株づ〻を遣はし株主になしたる者として廿七人の債權者の自宅に押行き無傷の二人に傷けたるハ不都合なりとて脅迫し結局二十七人より金を卷上げんとせしも廿七人の者ハ何れも避けて面會せ寿゛流石の二人も困却し居りしが本月の初め京橋區南鍋町の通りにて津田ハ廿七人の內の齋藤熊三郎と云へる者に出會したれバ兎角に談判したれど此方ハ相手にせ寿゛して去りたれバ威し文句も効なかりし由ゑ又も舊臘五日兩人ハ成田鐵道の總會に出席したしと考へ同會社の重役より一株づ〻貰ひて株主になり濟まし重役改革運動の反對を唱へて重役より五十圓くれと強談せしも金ハ取れ寿゛尚本年二月二十九日にハ重役の許へ行きて神田に尚武館と云ありて金のなき所より擴張に窮すれバ十五圓貸せと迫り」さらに「某縣選出の代議士某が元吉原仲の町の引手茶屋の娘に手をつけし事件」にも関与して「日本橋署の高等視察掛りが聞込み手配中」「直ちに取押へ昨日宮地津田の二人ハ豫戒令違犯として檢事局へ送られしと」という。(註76)最後の一件については『東京朝日新聞』が詳報を伝えたものの(註77)事実無根の訴えがあり、またまた『東京朝日新聞』は正誤を打っている。(註78)しかし、現在の代議士を見ている限り大いに起りそうなので、果して事実無根であったのだろうか。
ただし、けちな総会屋にとどまる宮地茂平ではない。1900年代、中野武営が東京株式取引所理事長の時代、その本拠を宮地茂平が訪れている。

中野武営『中野武營翁の七十年』より wikipediaによる

中野武営『中野武營翁の七十年』より wikipediaによる

「此の取引所理事長時代に、土佐の宮地茂平が中野【武営】翁を取引所に訪うて凄文句を竝べた事は前に一寸書いたのですが【以前の記述については不詳】、此の宮地といふのは頭山滿翁あたり迄もおどさうとした程の剛の者で、一寸手に負へない、世間の恐れ者であつたのです。それが取引所玄關で大聲に怒鳴り付ける。理事長の中野に會ひに來たと叫ぶのです。受附の方では困つて、何んとかして追ひ返したいのですが、梃でも動かんといふ權幕です。其事を給仕が理事長室に居る中野翁に通じたものです。
すると中野翁は、
「宜しい、其者を此處へよこせ、連れて來い」といふ。側近の人は危ぶむのですが、中野翁は平氣で居ります。やがて宮地茂平入り來り、何か取留めのない事を言うて、目を光らす。金と口では言はんで、實はゆするつもり。馴れたもので、目で物を言つて居るのが、中野翁には會はぬ先きからわかつて居るのです。
「君は要點を言へ」と中野翁は面倒臭しとばかり、ずばりと先手を打つたものです。
すると肚を見透かされた宮地茂平、
「無禮な事いふな」とかさにかゝつて進む、腕力を出すと見て、中野翁は、壁を背にして身構へ、
「貴樣腕力を出すか!」と大喝したものです。すると、宮地は忽ち態度を變へて、
「いや、そんな事はない」と身を退き、双方しばし睨み合の體、やがて、宮地は、何か獨白を言つて室を去つたのです。
後で宮地氏仲間に語つて曰く、
「あの理事長の奴、柔術をやる。あの身構へが氣に喰はん、生意氣な」と、其實宮地が自分で學んだと同じ中野翁の身構へを見て、侮りがたしと、鉾を收めて退却したのです。」(註79)

さらに1901年には日本資本主義の中枢にいた渋沢栄一を訪問している。「【1901年】七月廿四日/晴、午前十時兜町邸ニ抵リ事務ヲ処理シ且来人ニ接ス、津田官次郎、宮地茂平等来ル」(註80)

渋沢栄一「新しい日本銀行券の肖像等について」財務省webサイトより wikipediaによる

渋沢栄一「新しい日本銀行券の肖像等について」財務省webサイトより wikipediaによる

こうした活発な行動に警察も神経をとがらせ、宮地茂平の身辺調査のため尾行をつける。これにたいして1903年8月16日、内務大臣・児玉源太郎に宛てて『嘆願書』を提出する。

「     嘆願書
七月九日ヨリ夲日ニ至ル三十九日間角袖巡査并ニ制服巡査連日昼夜共居宅門前ニ立番外出ニハ必ス尾行アリ
容易ナラザル御手数相掛候段誠ニ恐縮之至ニ奉存候
爾来層一層謹慎相守居候間何卒特別ノ御憐愍ヲ以テ御宥免被成降度此段謹而奉嘆願候也
 明治三十六年八月十六日
     本郷□湯島切通坂町二〇
            宮地茂平㊞
内務大臣
男爵児玉源太郎殿」(註81)

カルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)の監視で失態を演じた警視庁であるが、明治期に「容易ナラザル御手数相掛」けることに「恐縮之至」を表明した民権活動家がいたことは、記憶しておいても良いであろう。

さて、1900年12月、横浜居留地にいたフランス人「ロバートミツシヨ」、「アルドミシヨ」または「ヱルドミシヨ」と奥宮健之、津田官次郎の間に、新橋の芸者8人をパリ万博に送り、歌舞音曲演芸のアトラクションを興行する契約が結ばれている。警視庁の報告によれば次の通り。

「乙秘苐一三九三号 十二月廿二日(警視廳報告)
佛國巴里博覧會ヘ藝妓ヲ渡𦨞【U+26A1E、航】セシメントス
芝區愛宕下町一丁目四番地嶋田伊兵衞方東京府平民奥宮健之神田区錦町三丁目廿四番地大坂府平民津田官次郎等横濱居留地佛國人「ロバートミツシヨ」ナル者ト謀リ明年巴里博覧会開設ニ際シ歌舞音曲演藝ノ目的ヲ以テ藝妓ヲ渡航セシメントシテ芝区烏森町五番地料理店芳扇亭事岩間芳松ヘ交渉シタルニ仝人ハ烏森町藝妓屋すみ家ニ計リ募集セシメントシタルモ一名八百円ニテハ容易ニ應ズル者ナキヨリ芳扇亭ハすみ家ニ命ジテ十一月五日勝太、さみ龍【、】壽満、日の丸、㐂翁、ノ五名ヲ抱ヘサセ之レニ仝家在来ノ抱ヘナル若太郎、すみ子、太助、ノ三名ヲ加ヘ猶二名不足ナルヨリ目下募集中ナルモ奥宮朩ハ既ニ募集済ト称シテ先頃「ロバート」ヨリ内金トシテ貮千円受取タリト云フ奥宮岩間朩ハ若シ賎業婦ト見做サレ渡𦨞許可セラレザル様ノ事アリテハ折角ノ計画モ画餅ニ歸スルヲ以テ警視廳ノ手ヲ経ズ東京府廳当局者ヲ手ニ入レ目的ヲ達セント既ニ同廳内部課ノ某ト通ジ演藝研究ノ名ヲ以テ㞮願ノ手続ヲナシタリト云フ亦藝妓監督トシテ奥宮【、】津田、すみ家ノ三名ハ渡𦨞凖備中ナリ奥宮ハ此ノ事ノ卋間ニ洩レ新聞紙上ニ賎業婦渡𦨞云々ノ記事ヲ掲ケラルヽヲ慮リ窃カニ知己ノ新聞記者ニ向テ辨護ヲ依頼シ故ラニ欧刕【州の異体字】社會党状况視察ノ為メ渡欧スト吹聴シ居レリト云フ」(註82)

後続の報告書によれば渡航した藝妓の名は若太郎(齋藤りう)、すみ子(齋藤きく)、太助(前田ゑい)、喜翁(中島者る)、勝太(上杉きみ)、壽美龍(鈴木た満)、壽満(羽田野させ)、日の丸(村上ちか)とあるが(註83)、帰国後に体験談をまとめた『洋行みやげ』により、実際のメンバーは、たすけ、すみ子、喜撰、すみ龍、てふ、かつ太、いと、若太郎の8名については確定する。(註84)

歐州を漫遊せし烏森藝妓一行『洋行みやげ』八戸市立図書館八戸青年会文庫蔵より

歐州を漫遊せし烏森藝妓一行『洋行みやげ』八戸市立図書館八戸青年会文庫蔵より

倉田喜弘氏による周到な研究によれば、もともとフランス本国の要請は柔術剣士の渡航を要請したものであったという。(註85)津田官次郎との接点はここから生まれたらしい。外務省外交史料館に残された警視庁文書には以下の通りあるという。

「客年七月頃、仏国パノラマヂヲラマ株式会社日本代理店(在横浜)ヱルドミシヨ商会ヨリ仏国公使館附某ニ、今回巴里博覧会等ヘ世界道中ト称スル者ヲ設ケ、裡ニ世界各国ノ名勝ヲ網羅シ、及ヒ其固有ノ技芸等ヲ観覧セシムルノ計画ナスニ付、日本国ヨリハ柔術剣士ヲ雇ヒ入レントス、依リテ其心得アル者ニ紹介ヲ乞フ旨委托サレタル以テ、某ハ予ネテ津田官次郎ノ創立ニ係ル大日本武術講習会ノ会員タル故、某ヨリ津田ヘ此事ヲ談シタル事カ原因トナリ、遂ニ芸妓ノ演芸ト化シタル結果、津田ヨリ奥宮健之ヲ、奥宮ヨリ岩間ニ、岩間ヨリ斉藤ニ談シ、斉藤ハ自家ノ抱芸妓若太郎、すみ子、太助、喜扇、勝太、寿美竜、其他三名ヲ渡航セシムルコトヲ約シ、客年九月廿日契約書作成ト共ニ、ヱルドミシヨ商会ヨリ第一回金貳千百圓ヲ受取タリ。」(註86)

先に見た通り、大日本武術講習會は「佛國」公使館にまでその会員を広げていた。そして倉田喜弘氏は、同会会員の仏国公使館附某を「スギタ」、フランス人「ヱルドミシヨ」をLafeye de Micheauxであると推定する。同人はFrancois Lafaye de Micheauxが本名。Bernd Lepach氏によればそのプロフィールは次の通り。記載内容は、同時代資料でも裏付けが取れる。

「He came to Japan in 1888 and was employed with J. Reynaud, Merchant, Yokohama # 157. He worked there until he established his own firm in 1897 which continuously stabilised, listed in 1899 under L. de Micheaux, Import and Export Merchant, Yokohama # 164-B with one British and six Japanese employees.
He married Pauline Antoinette Salabelle on June 7, 1892 at Christ Church of Yokohama and they lived privately at Yokohama # 9 Bluff.
In 1901 they left Japan for French Indo-China (Vietnam) working there for the civil administration.」(註87)

すなわち山田寅次郎(茶道宗徧流8世家元・山田宗有)の学んだサラベール学校すなわち「Bay View House Academy」を開いたAlfred Xavier SalabelleとPauline Salabelle nee Tourniereの娘と結婚したことになる。

SALABELLE Family, 1880, Meiji portraitsによる

SALABELLE Family, 1880, Meiji portraitsによる

※ 『洋行みやげ』の画像使用にあたり、所蔵館である八戸市立図書館のご許可をいただきました。記して御礼を申し上げます。

 


 

註1 「●亞細亞勞働協會」『東京朝日新聞』1892年3月3日朝刊2面
註2 梅原北明編「謀殺 贈賄 相馬事件」『近世社会大驚異全史中卷』白鳳社 1931、原出典不明
註3 「●無罪」『東京朝日新聞』1894年3月28日2面
註4 國難殉死者法會事務所 山田吉亮「●大法會執行告文」『東京朝日新聞』1894年8月4日6面、「●大法會執行」『東京朝日新聞』1894年8月16日3面
註5 村田文雄「山田朝エ門吉亮(四)【連載開始の表題は首斬淺右衛門】」『たちばな』第廿二号 高津図書館友の会 1959年12月16日
註6 村田文雄「山田朝エ門吉亮(四)【連載開始の表題は首斬淺右衛門】」『たちばな』第廿二号 高津図書館友の会 1959年12月16日
註7 小池一夫原作 小島剛夕画『子連れ狼』『漫画アクション』1970年No.38 1970年9月10日‐1976年No.15 1976年4月1日
註8 望月茂「首斬淺右衞門の硏究(一)」『腦』第九卷第十號 精神衛生學會 1935年10月1日、「首斬淺右衞門の硏究(二)」『腦』第九卷第十一號 精神衛生學會 1935年11月1日、村田文雄「山田朝エ門吉亮(四)【連載開始の表題は首斬淺右衛門】」『たちばな』第廿二号 高津図書館友の会 1959年12月16日、邦枝完二「山田淺右衞門」『双竹亭隨筆』興亞書院 1943、氏家幹人『大江戸死体考 人斬り浅右衛門の時代』平凡社新書016 平凡社 1999
註9 明治3年4月15日(1870年5月15日) 第二百九十四 辨官布告『明治三年 法令全書』內閣官報局 1887
註10 広告『讀賣新聞』1886年1月13日4面
註11 雜報『讀賣新聞』1881年5月4日3面
註12 林竹次郎「第三編 日薩和上略傳」薩和上遺稿事蹟編纂會(清水龍山代表)編纂『新居日薩』日蓮宗宗務院 1937
註13 雜報『讀賣新聞』1888年12月15日2面
註14 林竹次郎「第三編 日薩和上略傳」薩和上遺稿事蹟編纂會(清水龍山代表)編纂『新居日薩』日蓮宗宗務院 1937
註15 邦枝完二「山田淺右衞門」『双竹亭隨筆』興亞書院 1943
註16 邦枝完二自叙「小傳」國民圖書編纂『現代戯曲全集 第十七卷』國民圖書 1926、邦枝完二「山田淺右衞門」『双竹亭隨筆』興亞書院 1943
註17 望月茂「首斬淺右衞門の硏究(二)」『腦』第九卷第十一號 精神衛生學會 1935年11月1日
註18 藤田五郎「時代篇 暴力小史(明治)」『公安百年史 暴力追放の足跡』公安問題研究協会 1978
註19 長谷川如是閑「ある心の自敍傳11 法學院時代(その二)」『朝日評論』第四卷第二號 朝日新聞社 1949年2月1日
註20 長谷川如是閑「ある心の自敍傳I 法學院時代(その一)」『朝日評論』第四卷第一號 朝日新聞社 1949年1月1日
註21 小川平吉「𠁅生㐧一歩」、小川平吉関係文書 書類の部 資料番号827「学校時代ノ書生第一歩」国立国会図書館憲政資料室蔵、伊藤隆「小川平吉小伝並に主要文書解題」小川平吉文書研究会編『小川平吉関係文書 1』みすず書房 1973に一部翻刻あり
註22 「○壯士軍夫頭と爲る【8字圏点】」『讀賣新聞』1895年5月1日5面
註23 乾照夫「軍夫となった自由党壮士―神奈川県出身の「玉組」軍夫を中心に―」『地方史研究』第32巻第3号 名著出版 1982年6月1日
註24 「○俠客石定の從軍志願」『東京日日新聞』1894年7月1日3面
註25 雨花山人君(尾佐竹猛)「満録 下等百科辭典(六)」「いしさだ(石定)(人名)」『法律新聞』1910年10月15日20面
註26 金員献納広告『東京朝日新聞』1905年3月3日6面
註27 近藤競四郎「●大日本武術講習會」『風俗畵報臨時増刊 第百九十三號 新撰東京名所圖會 第貳拾編 神田區之部 其一 ●錦町』東陽堂 1897年7月25日
註28 「●大日本武術講習會の創立」『東京朝日新聞』1895年9月10日5面
註29 「大日本武術講習會發會式」広告『讀賣新聞』1895年9月12日6面
註30 麻賤子。「時事一斑。 大日本武術講習會。」『文庫』第壹卷第貳號 少年園 1895年9月25日
註31 津田官治朗「新年広告」『讀賣新聞』1897年1月3日4面
註32 「●津田官次郎、科料に處せらる」『讀賣新聞』1897年2月7日4面
註33 津田官治朗広告『讀賣新聞』1897年2月13日6面
註34 『大日本武術講習会趣旨』1894年9月(梶山家文書337)、『大日本武術講習会趣旨及(同会費賛成員名簿共)』1896年2月(梶山家文書859)、『大日本武術講習会趣旨及規則』1896年2月(梶山家文書866)、山口県文書館所蔵文書リストIV.諸家文書リスト(2018年3月末現在)による
註35 『大日本武術講習會趣旨及規則』1895年9月跋(ID: 8544)明治新聞雑誌文庫蔵
註36 『大日本武術講習會賛成員名簿』武藤活版所 1896年5月(資料ID: 61100003401)鹿児島大学附属図書館蔵
註37 越後国西蒲原郡中之口村小柳家文書『大日本武術講習會趣旨及規則』1896年2月(文書コード:128;箱番号21 文書番号2085)立教大学図書館蔵
註38 『大日本武術講習会趣旨及規則』(文書記号 27D;2958、3170)国文学研究資料館蔵『史料館所蔵史料目録 第13集 甲斐国山梨郡下井尻村依田家文書目録追補』史料館 1967年3月による
註39 『大日本武術講習会趣旨及規則』(斎藤実関係文書 書類の部 2 通年の活動 二〇七、その他諸団体 30 大日本武術講習会趣旨及規則 活版 一冊)国会図書館憲政資料室蔵
註40 『大日本武術講習会会員之証』(木梨文書家620)、山口県文書館所蔵文書リストIV.諸家文書リスト(2018年3月末現在)による
註41 近藤競四郎「●大日本武術講習會」『風俗畵報臨時増刊 第百九十三號 新撰東京名所圖會 第貳拾編 神田區之部 其一 ●錦町』東陽堂 1897年7月25日
註42 大日本武術講習會広告『東京朝日新聞』1897年10月13日7面
註43 津田官次朗「大日本武術講習會趣旨」『大日本武術講習會趣旨及規則』大日本武術講習會 c. 1987
註44 正三位伯爵 鷲尾隆聚公題字 正三位子爵 渡邊昇君序文 大日本武術講習會長 津田官治朗䟦 直眞影流十五世 齋藤明信先生著『直眞影流 劔術極意教授圖解』井口魁眞書樓 青木嵩山堂 1901
註45 「○集會」『讀賣新聞』1899年3月21日1面、「●大日本武術講習會の演武會」『東京朝日新聞』1899年3月25日5面に関連記事が載る
註46 「●大日本武術講習會長の拘留」『東京朝日新聞』1899年4月9日4面
註47 大日本武術講習會広告『東京朝日新聞』1899年4月11日3面
註48 「●正誤」『東京朝日新聞』1899年4月11日5面
註49 瑞穗太郎「發軔の聲」『武士道』第1号 大日本武術講習會 1898年2月24日
註50 佐伯真一「第4章 「武士道」の誕生と転生」『戦場の精神史 武士道という幻影』NHKブックス998 日本放送出版協会 2004、藍弘岳「近現代東亞思想史與「武士道」傳統的發明與越境」『台灣社會研究季刊』第八十五期 台灣社會研究雜誌社 2011年12月、藍弘岳「近現代東亞思想史與「武士道」―「武士道」在日本、中國、台灣的發明與越境―」行政院國家科學委員會專題研究計畫成果報告「「武國」之知與「帝國」之政:「武士道」與漢學、近代日本政治思想研究成果報告(精簡版)」中華民國99年12月1日
註51 近衛篤麿日記刊行会代表者浅野長武編『近衛篤麿日記 第1巻』1896年12月10日、1897年4月13日、27日、7月27日、8月10日の各条 鹿島研究所出版会 1968
註52 近衛篤麿日記刊行会代表者浅野長武編『近衛篤麿日記 第2巻』1898年2月5日条 鹿島研究所出版会 1968
註53 石井里枝「第1章 明治期から戦間期にかけての三菱による寄附―『寄附金明細帳』の検討を通じて」―『戦前期の日本企業における社会貢献活動―三菱財閥の寄附に関する検討を中心として―』愛知大学経営総合科学研究所叢書46 愛知大学経営総合科学研究所 2015
註54 「●回向院葛藤事件の調停」『東京朝日新聞』1897年2月11日3面
註55 「天下之苦情爭論引受所」広告『讀賣新聞』1896年3月16日5面
註56 法學舘広告『讀賣新聞』1900年9月20日6面
註57 宮武外骨「●老壯士の廣告文」『興味雜誌 奇』第四號 宮武外骨 大正三年八月十日發行(奥付に大正三年八月十五日發行)
註58 「●脱管届を出せし宮地茂平」『明治奇聞』第六篇 半狂堂 1926年6月5日
註59 伊野部勝作「第三一 自由國民の黨爭」『近藤勇ト土佐勤王黨』伊野部勝作 1929
註60 『(第一類第一號)第五十二囘帝國議會衆議院 豫算委員會議錄(速記) 第九囘』昭和二年三月十四日における片岡直溫大藏大臣の答弁
註61 人間文化研究機構 大学共同利用機関 国際日本文化研究センター「民事判決原本データベース」で検索
註62 宮地茂平広告『讀賣新聞』1898年1月4日5面
註63 宮地次郎墓、東京都立染井墓地
註64 宮地茂平「大隈重信宛書簡」1898年7月、読み下しにあたって早稲田大学大学史資料センター編『大隈重信関係文書 10 まつ‐よこ』みすず書房 2014を参照した
註65 野口勝一『明治三十一年一月~同年九月日記』各日条、北茨城教育委員会編『北茨城市史 別巻8 野口勝一日記IV』北茨城市 1994による
註66 年始広告『日刊人民』 1899年12月29日6面
註67 『人民新聞』の当時の正式名称は『日刊人民』、「●歲律茲促」『東京朝日新聞』1989年12月30日3面による
註68 「●三代將軍の二百五十年祭」『東京朝日新聞』1900年3月26日4面
註69 「●奉納撃劍會」『東京朝日新聞』1900年5月15日5面
註70 「●大日本武術講習會」『東京朝日新聞』1903年9月26日4面
註71 「●會一束 ▲大日本武術講習會大會」『讀賣新聞』1906年5月27日2面
註72 「大日本武術講習會 附屬健兒養成所」広告『東京市報』1905年12月5日
註73 「大日本武術講習會 附屬健兒養成所」広告『東京市報』1906年11月25日
註74 「●娼妓左近の自由廢業に就て」『東京朝日新聞』1900年10月6日5面
註75 「●成田鐵道總會【6字圏点】」『東京朝日新聞』1901年6月12日3面
註76 「●壯士の豫戒令違犯」『讀賣新聞』1902年2月24日4面
註77 「●宮地津田兩人の拘引」『東京朝日新聞』1902年2月24日5面
註78 「●正誤」『東京朝日新聞』1902年2月28日4面
註79 薄田貞敬編纂「五 東京株式取引所理事長として」『中野武營翁の七十年』中野武營傳編纂會 1934
註80 渋沢栄一『日記 自明治三十四年五月 至明治三十五年八月 1901‐1902』1901年7月24日条、渋沢青渊記念財団竜門社編纂『渋沢栄一伝記資料 別巻第一 日記(一)』渋沢青渊記念財団竜門社 1966による
註81 宮地茂平「嘆願書」1903年8月16日、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A05032116100、「警保局長決裁書類・明治36年」巡査尾行に関する嘆願書の件・警視庁(平9警察00179100)(国立公文書館)
註82 「乙秘苐一三九三号 十二月廿二日(警視廳報告)佛國巴里博覧會ヘ藝妓ヲ渡𦨞【U+26A1E、航】セシメントス」1900年12月22日、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B12083570200、巴里博覧会ニ本邦芸妓ノ渡航方奥宮健之及仏人「ロバート、ミッショ」等ニ於テ計画一件(B-3-15-2-40)(外務省外交史料館)
註83 警視総監大浦兼武 安楽警保局長宛 丙秘苐二号 1900年1月8日
註84 鹿島淑男編集『洋行みやげ』一二三舘 一二三舘支店 1903
註85 倉田喜弘「第二章 洋行した烏森芸者 四 扇芳亭の事情」『海外公演事始』東書選書137 東京書籍 1994
註86 警視庁文書、外交史料館蔵、倉田喜弘「第二章 洋行した烏森芸者 四 扇芳亭の事情」『海外公演事始』東書選書137 東京書籍 1994による、原資料未見
註87 Bernd Lepach「MICHEAUX, Francois Lafaye de, 1862 -」『明治人物お雇い外国人Meiji Portraits』サイトによる

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