久永廉三は1888年4月には関西に移り、旧に倍して旺盛な執筆活動を行なっている。
【関西時代】
関西での住所は、1888年4月24日に「大和國添上郡奈良高畑町五十八番地」(註1)、26日に「奈良縣添上郡奈良公納堂町廿二番地」(註2)、7月25日「大和國添上郡奈良公納堂町二拾壹番地居【留】」(註3)、1890年6月11日に「京都市下京區魚棚通室町東入上柳町第十番戶」(註4)と変遷する。また、1893年9月6日の住所は「奈良縣大和國添上郡奈良町大字高畑五十八番地」(註5)とあるものの、この時点では東京にいたと見られる。
自序、自跋を見ると「明治戊子【1888年】春於舊平安城僑居南隅之盆梅将綻薫風静入處 久永㢘三識之」(註6)、「明治二十一【1888】年孟春於浪華僑居 學棠 久永廉三識」(註7)、「國會開設ノ前二年戊子【1888】ノ春浪華ノ僑居ニ於テ 久永學棠識之」(註8)、1888年に「丁戌【存在しない干支】中春於北新地僑中 學棠居士識」(註9)、1890年には「京都の客舍に於て 學棠 久永亷三識」(註10)と関西圏にその居所を変転する。一人称の語り作品『大日本帝國之行末』の序でも「今春【1888年】偶マ隙ヲ得テ浪華ニ閑遊スルヲ得タリ」という。(註11)