今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

バガボンド長谷川利行(2)- 前半

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1939年5月、当時の満洲国とモンゴル人民共和国の国境ハルハ廟で戦闘が開始された。死闘は4ヶ月に渡って続いた。ノモンハン戦争である。

戦前、モンゴル首相ゲンデン(註1)は、スターリン(註2)に呼ばれて訪ソ、1935年モロトフ(註3)邸でスターリンと会談した際にけんかになり、ゲンデンはスターリンのほっぺたを平手打ちにし、足蹴にしたうえ、スターリンのパイプを机に叩きつけて壊したという。ゲンデンは翌年首相を解任され、「療養のため」ソ連に向かい、1937年同地で日本のスパイとして処刑される。(註4)

 1.photo of Peljidiin Genden, former president and prime minister of mongolia wikipediaより

photo of Peljidiin Genden, former president and prime minister of mongolia, wikipediaより

こののちモンゴルでは、独立と民族統一を願う革命家たち、僧侶などが反政府、反ソ的、日本のスパイという理由で粛清され(註5)、日本・満洲国、ソ連・モンゴルの間に戦争が勃発する。日中戦争も「事変」と言いくるめる日本政府は、この戦争をノモンハン「事件」と呼んだ。ただし、ソ連の手先と見なされていたチョイバルサン(註6)は、ソ連の命令をすべて執行しながらも、独立だけは手離すことがなかったため、独立モンゴルはヤルタ協定で国際的に承認された。

ノモンハンの戦地には、若い応用化学者苫米地歓三(註7)がいた。植民地朝鮮に生まれ、ドイツに留学、勉強の傍ら欧州各国を訪問、見聞を開いていた。留学先のヨーロッパから帰国して応召、激戦地に投入され戦死する。父造酒弥(註8)は子の戦死を悲しみ、歓三の兄苫米地一男(註9)の編集による追悼録『砲隊鏡』を出版する。苫米地造酒弥は、旧盛岡藩士苫米地金次郎(註10)の二男に生まれ、父とともに植民地北海道に入植、同地で始めた商いを皮切りに大韓帝国に進出する。弟に芦田内閣の官房長官、苫米地義三(註11)、陸軍少将苫米地四楼(註12)がいる。

2.平沢義明扉絵『砲対鏡』より。著作権者を探しています。

平沢義明『砲隊鏡』扉絵、苫米地一男編『砲隊鏡―苫米地歡三追悼録―』私家版1940より。
著作権者を探しています。

追悼録の扉は平沢義明(註13)の絵で飾られている。また、野田新吾(註14)、矢部忠治(註15)、湯浅誠之助(註16)、小柳司気太(註17)やドイツで同時期に学んだ中村初男(註18)、芳賀檀(註19)らの追悼文の中に並んで、平沢の一文が収められている。

「初めて歡三さんに接し親しくして頂くやうになつたのは歡三さんがドイツから歸朝された年で、東京、日光、北海道と御見物のため上京され、目黒のお兄さん宅(註20)にお泊りになられて居た時であつた。その頃は眞夏でビールの美味しい時分であつた。(中略)一男兄さんに紹介された時から氣が合つたとも云ふか僕と二人で枕を並べて話をしながら夜を徹した。

話はベルリンの學生生活から始つてウィン其の他の古都を一巡し、さうしてスヱーデン、ノールウェーと北歐諸國の風物に飛んで、何時かしら僕の旅心を案内してくれて居た。歡三さんの些細な説明が洋行を憧れる僕の心をすつかり喜ばしてくれた。ナチス運動も聞いた。ドイツビールの味も味はつた。ウィンの音樂も聞いた。そして美術館の繪畫から北歐人の夢の世界も語つてくれた。(中略)二人で品川驛附近でビールを飲んだ時僕の繪を幾度も激勵してくれた。

僕の貧しい繪が少しでも社會的に認められる時勢が來たら必ずドイツに往きなさいと語つたことを記憶して居る。

僕にはドイツに行けるやうな将来は到底來ぬものと信じては居るが、然し歡三さんが僕の心に一生涯の贈物として勵まして呉れた繪の生活を必ずものにして英靈に報告する日のあることを誓ひたい。」(註21)

アマチュア画家と彼を励ます若い科学者の間に、永遠の別れが来るとは思ってもいなかっただろうし、終生の友情が続くことをお互いに願ったに違いない。それにしても軍国主義体制の戦時下、ナチス運動について苫米地歓三はどんなことを語ったのか。

この年、寺田政明(註22)、吉井忠(註23)、麻生三郎(註24)の若い3人の画家は、動坂下から大塚方面に向かう市電の中で長谷川利行を目撃する。

麻生「晩年の利行に都電でひよつこり会つたが、その顔色は黄ばんで皮膚には死が見えてこれまでの反抗がなかった。」(註25)

吉井「最後に会ったのは市電の中でした。動坂の神明町あたりまで来てふと気がつくと、向うの陽【端】にヨレヨレの着物に下駄履きで、腕組みをして深刻な顔をしてじいっとしている利行がいます。その時の印象がとても強かったので、私はその後その顔を油絵に描いて今でも保存しています。」(註26)

寺田「ノモンハン事件のあったころであった。戦争もだんだん深みにはいり特高が肩をいからせ、動坂の福沢一郎(註27)さんのお宅での集いの帰り、吉井忠、麻生一郎と私が神明町から大塚方面に行く夜更けの電車に乗ると、人ごみの中に長谷川の姿があった。無精ひげと黒く日焼けした顔、いつもの目の鋭さ、その物思いにふけっているらしい姿には声をかけなかった。」(註28)

彼ら3人は、かつて太平洋美術学校でともに学んだ仲であり、長谷川を尊敬し、目標として画家生活を続けてきた。彼らをしても長谷川に声を掛けるのをためらわせたものは、はたして何だったのだろうか。

太平洋美術学校は、太平洋画会の研究所が改組されて創立された美術学校である。太平洋画会は、1889(明治22)年に小山正太郎(註29)、浅井忠(註30)らによって結成された明治美術会の直系の組織。黒田清輝(註31)を先頭にする白馬会が独立、東京美術学校の主流になることなどで勢力が衰え、1901(明治34)年に解散したが、ヨーロッパから帰国したメンバーが中心となり、明治美術会の後身として結成された。黒田清輝がもたらした新絵画の前で旧派とみなされる写実主義の画家たちによる団体であったが、集まった画学生は次の時代を担う新潮流を作り出していくことになる。

1929(昭和4)年、太平洋画会研究所の画学生が大量処分される事件が起きる。月謝滞納者の構内立ち入り制限を経営陣が決定したことが直接の原因であったが、学生の鶴岡政男を中心に研究生集会を開催してこれに対抗、結成直後の日本プロレタリア美術家同盟から応援が来たこともあり、経営陣はロックアウトを敢行する。研究所は廃止、新たに太平洋美術学校が創立されるが、鶴岡政男(註25)、井上長三郎(註32)、柿手春三(註33)、靉光(註34)らは研究会を離れた。退所した研究生は新団体洪原会を結成、洪原会解散後、その主要メンバーは公募形式の団体NOVA美術協会を組織する。(註35)

5.中華料理店-1936、水彩、紙-41.0×33.0cm-板橋区立美術館『東京の落書き1930’s』展図録より

中華料理店 1936年 水彩、紙 41.0×33.0cm 板橋区立美術館『東京の落書き1930’s』展図録より

太平洋画会研究所に在籍した靉光と井上長三郎は、寺田らより早い時期に長谷川利行と面識があり、1926 (大正15) 年に結成された新団体一九三〇年協会の展覧会に受賞した祝いとして、長谷川に上野広小路の中華料理店五十番で食事をご馳走になった。一九三〇年協会のメンバーは、フランスに留学してエコール・ド・パリの雰囲気の中でともに研鑽した画家たちで、既成画壇に対抗し、「西洋画の模倣、追随を脱して自分たちの手による油彩画の創造を」することを目標に掲げていた。

「上野の美校,いまの芸大の裏道で長谷川利行に会ったのは1928年の晩秋だったろうか.その時彼は袷の着物に靴をはいていた.この身なりはその頃の私の眼にもはなはだ古風に思えた.日焦けした顔には明治調のヒゲをたくわえ威厳があった.彼は絵を巻いた風呂敷包みをかついで商売の帰りらしく見えた.これがその前年樗牛賞をもらった颯爽たる長谷川利行であった.彼は上方の人らしく優しく叮嚀であった.」(註36)

「ウス汚れた袷せを着てフカゴム(これは紳士用であるが古典的なもの)を穿いた彼に連れられて二十数年前のある夕方〓【靉、ゲタ字の植字もれ】光と私は広小路の五〇番で生ビールの御馳走になつた。この時の支拂は大マイ五円であるが、当時五円あれば画学生の私たちは一ト月位食べられるので利行氏の氣前に嘆驚したのも無理はない。」(註37)

「その夜板橋の靉光の部屋で語りあかしたが、何を話したか記憶にない。翌朝利行は靉光の描きつぶしの画布に約二、三十分もかかったろうか、靉光像を描く。この時この絵は靉光におくると。また私にはルパシカつまりロシアの労働服であり、礼服を呉れると約したが、何れも不履行であった。」(註38)

靉光像-1928年-油彩、カンヴァス-45.7×37.8cm-個人蔵

靉光像 1928年 油彩、カンヴァス 45.7×37.8cm 個人蔵

これと前後して、1927(昭和2)年、サトウハチロー(註39)の提唱で「ラリルレロ玩具製作所」が設立される。サトウと同居していた安永良徳(註40)の東京美術学校卒業を機に、子供のおもちゃを芸術的、実際的に作ろうというのが目的で、顧問には文壇十数氏、工作部には吉邨二郎(註41)、岡本唐貴(註42)、吉田謙吉(註43)、安永良徳(註44)、尾形亀之助(註45)、浅野孟府(註46)など若い美術家を集めた。1927(昭和2)年3月10日には、発会祝賀会が上野の三橋亭で催されているが、竹久夢二(註47)、今和次郎(註48)、長谷川浩三(註49)、水谷まさる(註50)など30名以上が集まった。また、製作された玩具の第1回展が同年3月26日から三越で開催されたという。(註51)

「――ラリルレロ玩具製作所――

いささか首をかしげているが、門柱のある家だ。その門に、この札をぶらさげたのである。池袋の家は、ナレ(註52)の思い出を別れるようにと、引き払って、巣鴨宮中へと、引きうつったのだ。(ああ、どこにも、ここにも空家があった。自由な自由な昔よ)

部屋数は、下が三間、二階が一と間。家賃は二十五円。敷金が三つ。二階を寝室にして、下は工房。ノコギリミシンを、先ず一台工面してきた。フクサン(註53)が、自分の愛犬シエーパードを売って、買ってくれたのだ。湯殿がついているので (おお廿五円で湯殿つきですぞ) そこへ釜をすえた。釜と言ってもゴハンをたく釜ではない。ねんどでこしらえたオモチャを焼く釜だ。セトモノをやく釜のキボの小さい奴だ。広く、同人を募集した。

というと、新聞広告でも出したように思われるが、そうではない。来るものはこばまずと、つてを求めて若き美術家を集めたのだ。

宮坂普九、サトウハチロー、吉村【邨】二郎、吉田謙吉、島村竜三(註54)、浅野孟府、安藤秀吉(註55)、宮地寅彦(註56)、安永良徳、後藤俊春(註57)、山田ヘコエム(註58)、津田シャム(註59)」(ルビ略、註60)

「安永がデザインした動物のおもちゃをミシンノコを使って板をくり抜いて作る。こどもの人形を型ぬきをして庭のカマで焼く、そんな作業をみんなでやった。

菜っ葉服を着て髪を長くした若いのが集まって、出たり入ったりしているというので警察が目をつけた。社会主義者の集団ではないかと思われたのである。昭和三年は共産党の大弾圧(三・一五事件)が行われた年で警察も神経をぴりぴりとがらしていた時代であったから風態のよくない青年たちが菜っ葉服を着てうろうろしていれば目につくはずである。ところが調べてみると、これが全く無害無益な存在だということがわかって、のちには派出所のお巡りさんと仲よしになった。」(註61)

実際には、岡本唐貴、浅野孟府はのちに日本プロレタリア美術家同盟の主要メンバーであり、中央委員の岡本は1929(昭和4)年に検挙、1932(昭和7)年3月に再検挙されている。以下は、岡本による検挙拘留時の回想。

「こういう情況の中で私も自宅から検挙され、真夏の長いブタ箱生活をさせられ、相当衰弱しているところを特高のテロ係にとうとうのされて了った。気を失ってどれ位たったかわからないが、すーと気付いてくる夢の中で水の音を聞いた様な気がした、とたんグロツスの「アッカー街の艶殺事件」という絵が現われ、女を殺して手を洗っている男を見たとたん眼が覚めた。ふと見るとさっきの特高のテロリストが洗面器で手を洗いながらこちらを見たとたん眼が合った。水の音は特高の手洗いの音だったのだった。

両足のももがはれ上って動けなかった。やっとブタ箱につれてゆかれた。それでも一週間ほどではれは小さくなった。面会だというので特高室に行くと家内(註62)が来ていて大きなテーブルをはさんで私の真正面の椅子にかけていた。生後半歳ほどの長男をおんぶしていた。差し入れだというトマトをかじったとたん長男登(註63)が私を見てウ・ウーと奇声をあげて、母の背中であばれだした。その声を聞きその姿を見たとたん、眼から熱いものが、喰べかけのトマトの上にぽたぽたと落ちた。実にくやしかった。なさけなかった。しばらくして私はとうとう手記を書かされた。それからも一回まわされて最後に警視庁のブタ箱に四日とめられて、終に釈放された。私は不起訴になったわけだ。党員でないのでついに起訴に出来なかったわけだ。私は当時共産党に入る気持になれなかった。直接政治的な統制を受けるのは絵かきにとって困るからだ、こういうのを当時は右翼日和見主義といっていたが、私は政治と芸術とは別であると思っていた。

帰宅してみると家はさんたんたるもので、ガスが止められ炊事は出来ないので妻はわずかな小遣を工面して外出してウドンを喰べている仕末、家賃はたまったので追立をくっていた。さて生活をどう建て直すか大ごとだった。それで結局考えあぐねた末、しばらく東京を離れて母と兄の家に親子三人で居候ということになって、家財道具を親類に買って貰って旅費をつくり終に都落ち。」(註64)

話は、ふたたびラリルレロにもどる。

「人形の製作は順調にいったし、アイデアも悪くはなかったのだが、何しろなじみがないので、さっぱり売れない。従ってメシが食えなくなった。仕方がないから万年床のフトンのかわをはがしてクズ屋に売ってメシ代にした。それ以来、ワタを着て寝るような始末であった。(中略)雨でも降ろうものならカサはなし電車賃はなしで外に出られない。遊ビニ行キタシ カサハナシで仕方がないから万年床にもぐり込んで寝ていたが雨もりで畳の上にキノコが生えてきた。「このキノコが一時間に、どのくらいのびるか計算してみよう」みんな息をこらしてキノコを見つめていたというから貧乏でハラはへっていたが底ぬけにのん気だった。

そのうちに紹介する人があってラリルレロ人形を銀座の英彰堂という文房具屋に持っていったら「これはユニークだから、きっと受ける」と言われた。先方の助言も、いろいろとり入れて作ると案の定これが大当たり。作るはしからどんどん売れて英彰堂の紹介で三越、白木屋、松坂屋などのデパートにも出した。クリスマスにはサンタクロース、大学野球がはじまると野球のボールを二つに割ったものに各大学のペナントをくっつけて売り出す、年末には人形に小さなカレンダーをつけた。こうしたアイデアが当たって飛ぶような売れ行き。ラリルレロは金まわりがよくなってきた。」(註65)

これに関しては、違う話がある。次に掲げるのは、詩人荻原俊三(註66)の1941(昭和16)年6月19日付の追悼文の一部である。

「初めて長谷川氏に會つたのはもう今から十年も前のこと、當時中央沿線高圓寺驛の附近に廃屋のやうな一軒の家があつて、そこで今は富山縣に歸つてゐる能川外次郎(註67)氏など二三の人が集まつて泥人形を拵へたり何處からかモデルを連れて來てデツサンなどをやつてゐた。これから岸田國士(註68)さんのところへ繪を買つて貰ひに行くといふ長谷川氏と同行者二三子が丁度その廢屋を出かけたところに私は行き合せ、能川君から紹介されたのが初めてだ。こちらは當り前に挨拶もしたつもりであつたが、相手は何かモグ〱と口を動かしただけで物を云つたのかどうかさへ解らなかつた。眼はおど〱と定めなく空間を漂つてゐた。その姿全體が、沼澤地に立ち騰る陰気な陽炎―と云ふよりもあの瘴氣といふものを線で現したらこんな風でもあらうかといふやうな感じであつた。その後長谷川氏の繪を見るたびに、さういふ形のない定め難くせつない陰氣な瘴氣のやうなものが、ゆらゆらと立ち騰るやうな、へんに陰氣な墨色の線を見出して、そのたびに最初に會つたときの印象を思ひ出した。」(註69)

この製作所は、L・L・L玩具製作所という。長谷川利行は、「LLL洋画研究所ノ裸女」と題した水彩画を残している。(註70)長谷川は、おもちゃの色も塗りにきたし、牛込神楽坂の夜店販売にも応援に来て、むしろの上に座り込んでいたという。矢野文夫の記述によると、L・L・Lの命名者は佐藤春夫で、出資もしたという。メンバーにサトーハチロー、宮坂普九、岡本唐貴、浅野孟府、矢部友衛(註71)らの名前も見えるので、「ラリルレロ」と同じ組織であったのか、あるいは移転したのだろうか。(註72)

3.LLL洋画研究所ノ裸女-水彩-1933‐40年-『長谷川利行未発表作品集』より

LLL洋画研究所ノ裸女1933‐40年 水彩 23.8×26.8cm 『長谷川利行未発表作品集』より

話は少しさかのぼる。1898(明治31)年、6人兄弟の長子として埼玉県北葛飾郡に生まれた岩井弥一郎(註73)は、尋常小学校を2年で退学。上野駅前で人力車の車夫を始めた父(註74)に迎えられ、親子3人、下谷区金杉下町の松葉新道の奥の長屋に居を定めた。少年時代を過ごした家の付近の様子は次のとおりであったという。

「弥一郎は新道を通って音無川岸に出ては、目高を掬ったり、小鮒を獲ったりして遊んだ。此の川岸には小魚が沢山に游でいた。三河島田甫は見晴らしもよく子供心にも美しいと思った。汽車は今の三河島駅あたりを走っていた。」(註75)

丁稚奉公を転々として下谷万年町の池原理髪店で修行ののち、関東大震災後、三ノ輪町7に岩井理髪店を開業する。理髪業の合間に自学自習で絵を描き、1923(大正11)年第4回新光洋画会に「元衛町の裏通り」が入選、翌年の第5回展には「ヱカキ」「タンク」「テツ橋」を出品、新光奨励賞を受賞した。「タンク」は南千住のガスタンクを正面から描いた作品である。

「弥一郎は理髪師の仕事を終えてから絵画制作に取りかかるので、深夜まで店に明かりが灯り、警邏(けいら)中の巡査が訝って立ち寄ったこともあったという。」(註76)

一線美術の村岡優子氏によると、この時の巡査は兒玉勝次(註77)でのちに画家となるが、その証言。

「昔、私の師、岩井弥一郎先生(一線美術代表者)が下町の三ノ輪にいらした頃、夜中に絵を描いている時、警羅中のお巡りさんが兒玉先生だったそうで、その縁で絵の仲間になり、後(のち)に一線美術創立の委員に加った、とお聞きしております。」(註78)

岩井弥一郎の周囲に地域の若い画家たちが集まってくる。

「岩井理髪店には日暮里、三河島辺の新進画家が集まるようになった。長谷川利行も谷井喜三郎(註79)に連れられてやってきた。このころ、長谷川利行は各展に搬入しては落選を繰り返していた。それ以来、長谷川利行はしばしば弥一郎の店を訪れて、酒代をせびった。人の好い弥一郎はそのつどいくばくかの金を渡してやった。谷井喜三郎、岩井弥一郎、長谷川利行らは仲間が展覧会に入選すると、祝いの酒盛りをした。」(註80)

一方、1931(昭和6)年、改組された太平洋美術学校に寺田政明、吉井忠、麻生三郎がいた。研究生仲間の石田新一(註81)が下谷三崎町、今のよみせ通りに開店された喫茶店リリオムを「発見」、たちまち太平洋美術学校の学生のたむろする店となる。寺田政明はここで長谷川利行に出会う。例により、太平洋の仲良し3人組の証言を聞こう。

最初に吉井忠の証言。

「長谷川利行は、当時私達の間ではかなり知られており、非常に注目されていた作家でした。尊敬していた友人も沢山いました。私も彼等の影響を受けて興味を持つようになったわけです。(中略)当時同じ画学生仲間で、山形の地主の息子が研究所の近くに下宿しており、皆でよくそこに集まって騒いだものです。ある日、その二階でダベっていると「利行が来た!」というので、戸を開けて下を見ました。夏の強い日射の中に、真黒い顔をし、ヨレヨレの着物を着てじっと立っている男……それが長谷川利行でした。その姿は、今でもありありと思い出されます。利行はその友人にも「金貸せ」と言って、絵を置いて行ったりしたのです。

貸額縁屋の彩美堂に利行が入りびたっていて絵も沢山あると聞いたので、その二階に行ってみると作品がずらりと立てかけてあるのです。そこで私はありもしない金―五円ぐらい―で、エノケン(註82)一座の花島喜世子(註83)を描いたのを買いました。友人も浅草の女の像を買いました。そのようにして皆、それぞれ作品を持っていました。そしてお互いに見せ合って研究したり、交換したりしたものです。」(註84)

4.酒祭り・花島喜世子-1930年頃-油彩、カンヴァス-宮城県美術館蔵-『歿後60年長谷川利行』展図録より

酒祭り・花島喜世子 1930年頃 油彩、カンヴァス 40.9×31.9cm 宮城県美術館蔵 『歿後60年長谷川利行』展図録より

次は寺田政明の証言。

「私が長谷川利行を知ったのは彼が二科展に出品した「カフェー・オリエント」「頭蓋骨の静物」「靉光像」や「岸田国士氏像」を描いた翌年の昭和五【六】年頃だったと思う。下谷真島町の太平洋画会研究所の近くに、リリオムという小さな喫茶店があった。そこで私は長谷川利行に会った。四十歳前の長谷川は一見ドヤ街の芸術家という感じで、不思議なほど口髯が似合っていた。私はすぐに絵にある支那の十六羅漢像を思った。リリオムのおやじ中林(註85)さんの紹介で私たちはすぐ親しくなり、私の下宿が谷中のモデル坂の墓地に向き合った辻ハウスという化物屋敷みたいなところであったが、長谷川は私の下宿をたずね、私の作品についてなにかと話し合った末に、団子坂近くの飲み屋で焼酎を飲んだのを覚えている。

もの静かで口数は少ないが、口を開けば実に鋭いことをいう。酒と日やけした顔に目だけが光っている。背広を着ていたかと思うと、よれよれの着物で現われる。五銭玉をひもに通して腹に巻いていたが、思ったより多額の金を首からつるした財布に入れて、日暮里や尾久のお化煙突の見える裏町の酒屋で飲んだ。酔うと必ずゴールデンバットの空箱の裏に、そばで飲んでいる労働者風の人をかいた。そんな長谷川の風貌や、彼独特の美しい色彩を織り込んだフォービックな作風に私たちはすっかり参って、彼の周辺には死んだ安孫子真人(註86)、中村金作(註87)、吉井忠、麻生三郎など私たち若い画家グループができるようになった。

長谷川はすでに二科で樗牛賞などもらっていて、今なら新進作家というところであったが、作品が売れるわけでもなく、貧乏画学生に五十銭ぐらいで売りつけた。」(註88)

最後に麻生三郎の証言を掲げる。

「長谷川利行に初めて会つたのは昭和六、七年頃で、私が太平洋画会研究所の時代であつた。谷中のある額縁屋の店先で彼の作品をよく見かけた。縁を見せるためであつたが、そのなかの絵の美しさに驚いた。それが長谷川利行の作品であつたのは後で知った。」(註89)

「谷中の中村君が間借りしていた二階の部屋で、長谷川利行は八十号の裸婦を描いたという彼からのハガキを受取ったことがある。一九三四年の夏のことであった。その年の二科に「獣人」(註90)という題で出品したのがその絵であった。(中略)そのころたびたび中村の二階で長谷川利行に会った。二階でごろりと彼はよこになっていた。

山形の安孫子真人も太平洋画会研究所でわたしと同時に絵を描いていた親しい友人であるが、彼のところには利行の絵が何点かあった。利行に売りつけられてもっていたのだ。」(註91)

谷中坂町にあった彩美堂については、多くのエピソードがあるが、高橋賢一郎(註92)の思い出を見てみよう。

「四十年以上も昔になろうか、ある日、松島一郎(註93)君と連れだって、谷中の彩美堂画材店に行った。丁度、利行が来ていて、菓子箱のフタに描いた。女の顔と交換に絵の具をセシメているところであった。見ると、その絵は乾いてもいなかった。

松島君は利行と親交があったので、話がはずみ、さかんに煙に巻かれていたが、私は会釈する程の、尊敬する先輩画家であった。(中略)

着物はヨレヨレの身なりの良くない、今で言うヒッピー族のようである。貧乏画家ぶっていて、これが利行の自己満足でもあったようだ。(中略)

当時私は月島に居住していた。ある日、独立展の出品者仲間の谷井喜三郎君が、利行を連れて我が家へ来訪した。利行は「賢チャン五十銭貸せ」と言う。そんな仲でもないのに、谷井が、目顔で、「断れ」の合図をするので、都合ワルイと言うと、いいよと言って蓬衣の袂を振って銭の音をさせて、「ゼニ有るんだ」と言うのである。

私はこの賓客を連れて月島西仲のすし屋に案内した。

そこで利行は「おれは本物の利行だ、タダで食わせろ」と言う。すし屋のあんちゃん怒ったね、危うくブットバサレるところだった。」(註94)

徳山巍(註95)との親交も早い時期にはじまっている。1929(昭和4)年に浅草三筋町の徳山のアトリエの前で画家仲間と撮影した集合写真が残されている。(註96)

「今でも浅草の六区を歩くと、懐しい昔の六区が心に蘇える。

今は埋められてしまってどこに何があったか定かには判らなくなったが、いつも思い出されるのは、俗称瓢箪池と呼ばれる池があって石の橋が掛っていた。藤棚もあった。池の向うには大きな欅が二、三本あってその緑を池に落して美しい漣を描いていた。豊かな池泉の趣であった。この石橋のたもとに、「さゞえ焼」と称して串焼きの夜店があった。映画がかぶると弁士連中や長谷川等ともよく食べにいった。おいしそうなあの焼ける匂いは今でも鼻に残る。

林皐【泉】の向うの小高い丘にキャンバスを立ててよく描いた。池の中島に余り大きくはなかったが形のよい松の木が一本あった様に思う。描き疲れると映画館通りにあった「白十字」と云う喫茶店によくコーヒーを飲みに行った。

長谷川ともこの喫茶店にはよく行った。長谷川利行とは、熊谷登久平の家で紹介されて知った様に思う。昭和三年頃のことであった。彼と歩くと必ずと云っていい程雷門にある「カミヤ」の電気ブランを飲みに連れて行かれた。その頃の彼は、誰かに貰ったと云う黒いソフト帽に、袖口の少々くたびれた黒の洋服を着て黒いネクタイをキチンとつけていた。胸に余り白くはないがハンカチを覗かせて黒い八字鬚をよく撫でていた。やや真中のあたりが少しクビレた長目のコップで、電気ブランを飲んだ。彼は強いので三杯、私は一杯しか飲めなかった。酔うと奥山の木馬館の二階にカジノフォーリー(浅草水族館演芸場)にまだ有名にならない「エノケン」がギャグの利いたレビューをドタバタやっていてよく見に行った。踊り子のパンティが、踊っている舞台で破れたとか、落っこちたとかの噂を流して、トタンに大入満員となったのもこの頃である。長谷川はこの「踊子」を何枚か描いているし、「安木【来】節」(註97)の女の人も何枚かを描いた。出来上がると新聞紙に包んでよく見せに来た。

6.安来節の女-1935年-油彩、カンヴァス-個人蔵-『歿後60年長谷川利行』展図録より

安来節の女 1935年 油彩、カンヴァス 34.0×46.0cm 個人蔵 『歿後60年長谷川利行』展図録より

その頃の仲間に、山中美一(註98)と云う文士の卵もいた。彼は巧い文章を書いた。長身で芥川龍之介やノーベル文学賞になった川端康成などとも交友があって谷中の川端氏(註99)の二階建の家にも彼に連れられて訪門したことも思い出す。代筆などもしていた様であった。彼も酒は強く、長谷川と山中と私と三人でよく泡盛を飲みに行った。

長谷川は三杯の泡盛でも、電気ブランでも飲んで酔うと皆と別れて一人街をトボトボと歩くのが好きだった。夜更けの街をいかにも楽しそうに街灯の灯に、長身の影を落してユラユラと歩いて行った。彼の詩はこの様な時に生まれるのだなと思ったものだ。」(註100)

なお、文中にカジノ・フォーリーが木馬館の2階とあるのは隣接する水族館の2階の誤りである。カジノ・フォーリーは、創業以来アナキストとの関連が強い。母体となった浅草公園水族館は、1899(明治32)年、浅草瓢箪池の裏手、四区の勧工場「共栄館」に改造を加え、私設水族館として開業した。内海正性(註101)は、義兄桜井源一郎(註102)に経営が移っていた浅草水族館の二階余興場にレヴューの開業を宣言する。これは、内海正性がパリで見てきたボードビル、バラエティ・ショーを日本に持ち込むことが企図されていた。(第1次カジノ・フォーリー、1929(昭和4)年7月10日‐9月)

最初の経営は失敗に終わるが、内海の友人でアナキスト画家、詩人である溝口稠(註103)が総支配人兼美術担当となり、アナキスト詩人島村竜太郎を文芸部長にすえ、アナキスト系の思想家グループ北風会のメンバー五十里幸太郎(註104)を速水純の筆名で文芸部に入れるなどアナキズム系の素人集団で、10月26日再出発する。出演者陣は、当時無名の榎本健一ら浅草オペラの残党組を集めての興行だったが、奇跡のように集客に成功する。(第2次カジノ・フォーリー)長谷川利行は、浅草に勃興した文化の魅力に取り憑かれる。

長谷川利行は、山中美一、川島潮(註105)と上野桜木町の川端康成宅をたびたび訪れた。矢野文夫を連れて訪問した際には、長谷川は川端の眼の前に絵を差し出した。川端は不愛想に黙り込み、「利行の絵を、氏が買ったかどうか覚えがない。」(註106)

(2013年12月24日 書名『砲隊鏡』の誤記を訂正、安孫子真人の名のよみに関して追記しました。)


註1 ゲンデン དགེ་འདུན་ 、dge’dun、Genden、Гэндэн、1892または1895年‐ 1937年11月26日。モンゴル人民共和国の政治家。名前は「お坊さん」の意味、姓や父称はない。外モンゴル・ウブルハンガイ県に極貧の牧民の女ペルジドを母として生まれた。父は知られていない。1924年11月29日、国家小議会(バガホラル)議長(国家元首)、1932年7月2日、首相に就任。ソ連からのさまざまな圧力、すなわちラマ僧や富裕層の一掃と牧畜の集団化やソ・モ相互援助条約の成文化などに抵抗したため、1936年3月に首相の座を追われる。翌4月から療養のためにソ連に向うが、翌1937年夏に滞在先のウクライナの温泉地フォロスで逮捕され、激しい拷問の末、11月26日に日本のスパイなどの罪でモスクワにて処刑された。ソ連においては1956年に名誉回復されたが、モンゴルにおける名誉回復は民主化される1990年を待たなければならなかった。彼は、スターリンがモンゴルにおいて1934‐39年に展開した大粛清被害のさきがけとなった最初の14人のひとりに数えられている。(田中克彦『ノモンハン戦争』およびwikipedia による)

註2 ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン იოსებ ბესარიონის ძე სტალინი、Иосиф Виссарионович Сталин、1878年12月18日(ユリウス暦1878年12月9日)‐1953年3月5日。グルジア人。「スターリン(“鋼鉄”)」は組織名であり、本姓はジュガシヴィリ(ჯუღაშვილი、Джугашвили)。ロシア帝国領ゴリ市に生まれる。グルジア正教の神学校で教育を受けるが棄教、マルクス主義に基いた革命運動に参加する。ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин 、オイラト人、ロシア人、スウェーデン系ユダヤ人の血を引く)によるロシア社会民主労働党ボリシェビキ派(ロシア共産党)による十月革命に加わり、ソヴェト連邦政府及びソヴェト連邦共産党の成立に深く関与する。1924年、レーニン死後に起きたレフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー(Лев Давидович Троцкий 、ユダヤ人)との後継者争いを制すると、自身が務めていたソビエト連邦共産党中央委員会書記長に権限を集中させる事で、最高指導者としての地位を確立した。

註3 ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ Вячеслав Михайлович Молотов、1890年3月9日(ユリウス暦2月25日)‐1986年11月8日。第二次世界大戦前後の時代を通じてスターリンの片腕としてソ連の外交を主導した。「モロトフ(金槌)」は組織名であり、本姓はスクリャービン(Скрябин)。ユダヤ人であったマクシム・マクシモーヴィッチ・リトヴィノフ(Макси́м Макси́мович Литви́нов)外務人民委員が解任され、後任の外務人民委員となり、1939年8月23日、ナチス・ドイツと不可侵条約締結。その直後に開始した、第1次ソ連・フィンランド戦争(冬戦争)でのフィンランドに対する最初の空爆について、「資本家階級に搾取されているフィンランドの労働者への援助のため、パンを投下した」などと発言した。実際に投下されたのは、コンテナが空中で回転しながら周囲に60個の小型焼夷弾を放出する集束爆弾だったのだが、その爆弾のことをフィンランド人は、「モロトフのパン籠」と呼んだ。また、対戦車兵器の乏しかったフィンランド軍は、「モロトフに捧げる特別製のカクテル」として火炎瓶を使用した(モロトフ・カクテル、Molotovin cocktailin)。兵器の乏しかったフィンランドで、この火炎瓶はソ連軍との対戦車戦で頻繁に使用された(ノモンハン戦争でも、日本・満洲国軍により火炎瓶が使用されている)。ガソリンエンジン使用車が大半であった当時のソ連軍戦車は、多数炎上したという。今でも英語では火炎瓶のことをMolotov Cocktail と呼ぶ。また彼は、1930年代以降、スターリンに対して革命時代の愛称「コーバ」を使うことの許された唯一の人物という。

註4 田中克彦『ノモンハン戦争』岩波新書新赤版1191岩波書店2009

註5 田中克彦によれば、1937年10月から1939年5月までに20,474人が銃殺された。田中による当時のモンゴルの推計人口を用いれば、銃殺者は全人口の2.9%を超える。

註6 チョイバルサン(ᠴᠣᠶᠢᠪᠠᠯᠰᠠᠩ、Чойбалсан、Choibalsan、1895年2月8日‐1952年1月26日。名前の意味は「仏法の善きほまれ」。自国民を大量粛清したモンゴルの独裁者として知られる。遊牧民の女ホルローを母として生まれる。父親は不詳。幼くしてチベット仏教の僧院に入るも脱走、クーロン(現ウランバートル)のロシア領事館付属学校に入学し、1914年にロシアのイルクーツクに留学。1918年に帰国して独立運動に参加、1920年にボドー、ダンザン、ドクソム、スフバートルらと共にモンゴル人民党の結成に携わる。1951年の暮れ、再三断り続けていたスターリンの誕生日の式典に参加するようにとの招待を受けてモスクワへ向かったが、翌年1月26日、同地で死去。暗殺説もある。(wikipedia 及び田中克彦『ノモンハン戦争』岩波新書新赤版1191岩波書店2009による)

註7 苫米地歓三 名のよみ調査中、1911(明治44)年1月11日‐1939(昭和14)年8月27日。朝鮮京城府古市町に生まれる。1928(昭和3)年京城公立中学校卒業後、翌年ドイツに留学。フライブルク大学、ボン化学研究所で学究生活を送り、1927(昭和12)年帰朝。出征先のノモンハンで戦死。

古市町は、1903(明治36)年京釜鐵道株式会社総裁、1906(明治39)年統監府鉄道管理局長官であった古市公威(ふるいち きみたけ、(1854年9月4日(嘉永7年閏7月12日)‐1934(昭和9)年1月28日)を「記念」して屯芝坊東子洞が改名された。(서울특별시 문화정보네트워크 ソウル特別市文化情報ネットワークによる)。現在のソウル特別市 龍山区 東子洞(서울특별시 용산구 동자동)に当たる。(Doosan Encyclopedia、동자동 による)

本人がドイツでの「応用化学」の勉強を目指したのには、叔父義三が東京高等工業学校で応用化学を専攻したほか、以下の諸事情も考慮すべきと思われる。

1906(明治39)年、統監府設置の翌年、朝鮮の伝統産業を調査研究の中心的な対象として、工業伝習所が設置された。専攻科には,陶器・染織・木工・金工・応用科【化】学・土木の六つの科が開設されたが、1910(明治43)年、教育要件の問題で土木科が廃科、染織・窯業・応用科【化】学という三つの3 年課程の特別科が1915(大正4)年に新設された。(朴美貞「植民地朝鮮の博覧会事業と京城の空間形成」『立命館言語文化研究』21巻4号 2010年3月)なお、旧工業伝習所本館は現在、史跡279号に指定されている。

また、産業革命後のヨーロッパにおける綿布の晒し工程は、天日晒が主要な方法であったが、本工程が綿布製造工程の最大の制約となっていた。工程時間短縮のため塩素法が導入されるが、塩素生産は需要に追いつかない中、「1866 年,ドイツ人ジーメンスによって,大容量発電の可能な発電機が発明され,それまで蒸気をエネルギー源としていた工業は,電気をエネルギー源とする工業に変革されていった。1890 年,ドイツのグリースハイム化学工場で,400 馬力の電力を利用し,初めて直立隔膜法によって電解槽を運転することに成功した。」(東洋曹達工業株式会社総務部編『社史四十年東洋曹達』東洋曹達工業 1978)これを契機にドイツでは化学工業が発達、新興工業国としての地歩を固めることになる。また、基礎科学としてのドイツの化学は世界を牽引するようになる。しかし、過剰生産された塩素は、第一次大戦において毒ガスとして「消費」されることになる。

註8 苫米地造酒弥 名の読み調査中。1975(明治8)年1月10日‐没年調査中。洗礼名はダニイル。(1896(明治29)年6月付寿都協会、後志十字教会、作開及黒松内教会連名請願書への署名、札幌正教會百年史編纂『札幌正教會百年史』札幌ハリストス正教会1987による)青森県上北郡藤坂村相坂生まれ。1888(明治21)年、父金次郞ともに、北海道で開拓に従事。尻別川の水運を利用し、農場から穫れた穀類や材木、木炭などを海岸都市に運んで販売、農場に必要な生活物資を購入する商売を始める。岩內町を拠点に內地から米の買付、海運も手がけるが、1902(明治35)年、事業に失敗、農場は公売となり、大韓帝国にわたる。兄金太郎は馬山浦(마산포)で農事実行組合に勤務、父は成歓(성환)で農業指導、自身は、初めソウル(漢城、한성)で木材業、次いで大韓国政府官営「平壤無煙炭大放賣所(평양무연탄대방미쇼)」の経営、京城ゴム会社の重役となる。(苫米地義三述 長澤玄光編『苫米地義三回顧録』浅田書店1951、長澤玄光『和耕 苫米地義三伝』和耕録刊行会1976)1909(隆熙3、明治42)年、忠清南道公州郡南部面(충청남도 공주군 남부면)で黒鉛の採掘許可を取得(『官報』第四千三百七十號、ソウル国立大学奎章閣デジタルデータによる)。夙に朝鮮に渡り、朝鮮印刷取締役、東亜商工専務等歴任、京城窯業株式会社社長。(『拓務内外紳士録』昭和16年版中央情報社1941)

註9 苫米地一男 名の読み、生没年調査中。苫米地造酒弥の長男。昭和7年10月、昭和8年10月の『文部省職員録』で文部省学生部属(判任官)、昭和9年、10年、11年の『文部省職員録』、昭和12年7月の『職員録』では文部省思想局属(判任官)。のち京都に移り、第三高等学校事務官。(『文部省職員録 昭和12年10月1日現在』『文部省職員録 昭和14年10月1日現在』、交詢社日本紳士録編纂部『日本紳士録42版』交詢社1938、『日本紳士録44版』交詢社1930)1940(昭和15)年、『砲隊鏡』出版時には京都在住。戦後、教科書参考書(アンチョコ)の執筆者に同名の人物がいるが不明。1976年、和耕録刊行会に名を連ねている。

註10 苫米地金次郎 名の読み、1853年 10月 29日(嘉永6年9月27日)‐1922(大正11)3月18日。洗礼名はペトル。(『札幌正教會百年史』による)青森県上北郡藤坂村相坂生まれ。代々農業の傍ら酒造業を営む。1868(明治1)年、18歳で父を失い家業を継ぐ。1882(明治15)年頃から村評議員となる。1887(明治20)年役場筆生。1888(明治21)年、北海道後志国磯谷郡甫尻別村大谷地、蘭越両地に、道庁から200万坪の貸下げを受け、開拓に従事。翌年、地代は無償化。1890(明治23)年、町村制施行とともに村会議員になるが、一家で移住。同郡昆布に70万坪の貸下げを受けて第2農場、手塩国国士別村に80万坪の貸下げを受け、第3農場とするが、資金欠乏によりすべて譲渡あるいは公売にかかる。1909(明治42)年、造酒弥のいる朝鮮に渡り、のちソウルで死去。1930(昭和5)年8月、第一農場のあった大谷地に「開拓記念 苫米地金次郎翁碑」が建てられたが、碑文の文字は渋沢栄一によるもので、渋沢の絶筆という。(苫米地義三述 長澤玄光編『苫米地義三回顧録』浅田書店1951、林田忠執筆「苫米地金次郎」の項、佐々木高雄編『青森県人名事典』東奥出版社2002)なお、枝豆品種の「大谷地」は、彼が持ち込んだ「秋田」系大豆から選別されたもので、改良を経て後年まで栽培されたが、昭和40年代に冷凍枝豆の生産が始まると、褐毛の毛茸は汚れと間違われるため冷凍用には向かないとされたという。(相馬暁「豆と生活 豆と日本人の食文化 その2 北海道開拓と豆」『豆類時報』No.5 1996、土屋武彦「北海道における大豆生産の現状と展望」『豆類時報』No.10 1998、Tsuchiya, Takehiko「枝豆(えだまめ)の歴史,美味しい北海道産でしょ!」『豆の育種のマメな話』サイト2013)

註11 苫米地義三 とまべち ぎぞう、1880(明治13)年‐1959(昭和34)年。青森県上北郡藤坂村に生まれる。10歳のとき、北海道磯谷郡南尻別村に父金次郎の後を追い、入植。北海道立札幌尋常中学校から東京高等工業学校応用化学科に入学。1903(明治36)年、阿部製紙に入社するが、ストライキを主導して馘首。後に大阪曹達、大日本人造肥料などを経て日産化学工業専務となる。終戦直後、疎開先の十和田市から上京、政界入りを果たすと、片山内閣の運輸大臣、芦田内閣の官房長官を務め、民主党にあって、幹事長、最高委員長などを歴任。1951(昭和26)年、サンフランシスコ講和条約調印式に日本全権として出席する。1952(昭和27)年、吉田茂による抜き打ち解散は違憲として訴訟を起こす(苫米地事件、一審(東京地裁)勝訴、二審(東京高裁)敗訴、最高裁は上告棄却で確定)。自著に『苫米地義三回顧録』、『人を見抜く法』など多数。(苫米地義三述 長澤玄光編『苫米地義三回顧録』浅田書店1951、「青森20世紀の群像53 苫米地義三」『東奥日報』1999年8月19日等による)なお、阿部製紙の新工場建設受注のために大林芳五郎が大阪に創業したのが、大林店(現・大林組)である。

註12 苫米地四楼 とまべち しろう。1885(明治18)年‐1952(昭和27)年。青森県上北郡藤坂村生まれ。1914(大正3)年、陸軍大学校卒業。職業軍人として10数年中国雲南省に駐在、蒋介石とも親交があったという。1930(昭和5)年、近衛師団司令部附(大正大学配属将校)。1933(昭和8)年、歩兵第35聯隊長。1935(昭和10)年、陸軍少将・歩兵第29旅団長。1937(昭和12)年、予備役となるも召集、歩兵第104旅団長。1940(昭和15)年、召集解除。1945(昭和20)年、津軽要塞司令官。正三位勲二等功三級。雅号を呉仙と称し、能書家としてしられ、戦場において兵士が書を求めると、ちり紙をもって応じたという。(林田忠執筆「苫米地四楼」の項、佐々木高雄編『青森県人名事典』東奥出版社2002、上法快男監修 外山操編『陸海軍将官人事総覧』陸軍篇 芙蓉書房1981、サクラタロウDB、南部美術編『青森県南部書画人名典』伊吉書院1985)

註13 平沢義明 名のよみ、生没年調査中。後文参照。

註14 野田新吾 名のよみ調査中、1887(明治20)年‐没年調査中。三重県生まれ。1910(明治43)年神戸高商卒。漢城銀行頭取、朝鮮殖産銀行理事。(『拓務内外紳士録』昭和16年版中央情報社1941)京城日報 1941(昭和16)9月16日、17日に「金融人の立場は果して旧体制か」の記事を連載。(神戸大学附属図書館 新聞記事文庫)「背が低くて眉毛が特に黒く非常に力強く見える日本人」(解放当時、銀行員の生活 해방당시 은행원의 생활상)三重県生まれ、内務省警保局保安課長、岐阜県知事、埼玉県知事などを歴任した内務官僚で、オランダ人女性を「慰安婦」としていた当時のスマラン州長官、宮野省三は従弟。

註15 矢部忠治 名のよみ、1886(明治19)年12月5日‐1965年12月23日。徳島県板野郡坂東町三俣生まれ。三高を一番で卒業。(鉄鋼新聞社編『浅田長平―鉄鋼巨人伝』1972非売品)京都帝国大学採鉱冶金学科卒、恩賜の銀時計という。1911(明治44)年住友本社入社、別子鉱業所勤務。1928(昭和3)年1月から1930(昭和5)年9月、ベルリン駐在。1934(昭和9)年5月、住友アルミニウム精錬株式会社取締役。1943(昭和18)年、住友アルミニウム製錬の元山工場を単社化、朝鮮住友軽金属を設立社長。(射場恒三「住友のアルミニウム製錬事業と共に歩んで」『軽金属』1954)飛行機製造材料としてのジュラルミンの原料であるアルミニウム生産は国策的に遂行されていた。クリスチャン。(伊藤健勇「矢部忠治さんを偲びて」『浮選』29号 浮選研究会1966)

註16 湯浅誠之助 名のよみ、生没年調査中。訳書に、マルティン・ハイデガー『形而上學とは何ぞや 』理想社出版部1930.10、オスカー・ベッカー『美の果無さと芸術家の冒険性 : 美的現象領域に於ける存在論的研究』理想社出版部1932、マルティン・ハイデガー『形而上學とは何であるか』理想社出版部1937、リッケルト『哲学の根本問題』理想社出版部1938。論文に「カント、ヘーゲル、ハイデガー―ヘーゲルに於ける現象の意味」『理想』22号特輯ヘーゲル復興 理想社1931、「独逸このごろ」『理想』11月号1933など。1933(昭和8)年の滝川事件の際には、「大学・学問の「自由」を超える、真の自由=「自律」」を主張した。(苅部直「「間柄」とその波紋―九鬼周造・和辻哲郎・中井正一―」『Heidegger-Forum』 第3号2009)実業家としての顔も持ち、大阪市東区今橋3丁目30番地に湯浅実業株式会社(昭和24年(判)第3号 日綿実業(株)ほか10名に対する件 同意審決)、銀座東一ノ二に湯浅貿易株式会社(下村寅太郎宛三宅剛一葉書1956(昭和31)年5月30日消印、酒井潔・加瀬宜子「三宅剛一差出・下村寅太郎宛書簡(下)」『人文』7号 学習院大学2008)による)を経営していた。

註17 小柳司気太 おやなぎ しげた、1870年12月24日(明治3年11月3日)‐1940(昭和15)年7月18日。越後国上保内村生まれ。旧姓は熊倉。3歳で代々庄屋を務める母方の小柳家の養子となる。6歳から漢学に親しみ、西蒲原郡吉田町の鈴木揚軒の私塾『長善館』に学び、18歳で上京。東京帝国大学文学部卒業後、一時新聞雑誌記者を志し、『東亜説林』を刊行するが挫折。中学校、山口高校、学習院、國學院大學、慶応大学、駒澤大学、母校の講師を経て、1926(大正15)年大東文化大学教授となる。1940(昭和15)同学長となるが、同年急逝。学のみならず、儒学、道教、仏教に通じ、とりわけ道教研究に先駆的業績を残したほか、宋学から近代思想に及ぶ多角的な研究を推進し、我が国の教育界に多大な貢献を成した。また超脱・誠実な人柄であった。主な著書に、『宋学概論』1894、『詳解漢和大字典』(服部宇之吉と共著)1920、『道教概説』1923、『白雲観志』1934、『東洋思想の研究』1934 などがある。 その深い学識を駆使した『新修漢和大字典』1932 は、後の漢字研究家に大きな影響を与えたといわれる。小柳司気太の業績をまとめた『近世の醇儒 小柳司気太』という書物がある。(小村大樹氏「歴史が眠る多磨霊園」サイトによる)小柳の姪が苫米地一男の妻である。

註18 中村初男 なかむら はつお、1911(明治44)年‐2006年1月22日、ミュンヘン大学博士課程修了後、川崎航空工業株式会社技師、昭和女子薬専講師、国立国会図書館司書(目録課長、分類課長)、慶應義塾大学教授、鶴見大学教授等を歴任。日本図書館協会においては、1948(昭和23)年入会以来、用語委員・委員長、目録委員、分類委員会委員、同委員長等、主として資料組織分野で尽力、1985年より顧問。(社団法人日本図書館協会『JLAメールマガジン』第289号2006/2/1発信による)1030(昭和5)年、中村初男がドイツに到着し、苫米地歓三に会ったとき、「勢一杯の獨逸語で「失禮ですがお尋ねします。貴方は日本人ですか?」上品な微笑をたゝへながら、彼は餘裕のある日本語で「エヽ左樣です。僕は朝鮮人です。」と答えたという。(中村初男「歡三君と私」苫米地一男編『砲隊鏡―苫米地歡三追悼録―』私家版1940)

註19 芳賀檀 はが まゆみ、1903(明治36)年7月6日‐1991年8月15日は、日本の評論家、ドイツ文学者。国文学者、芳賀矢一の子として東京府に生まれる。第三高等学校教授、関西学院大学教授、東洋大学、創価大学教授を歴任。

註20 翌年には京都に移るものの、『文部省職員録 昭和11年10月1日現在』によれば、苫米地一男の住所は目黒区三田で符合する。

註21 平沢義明「歡三さんを想うて」苫米地一男編『砲隊鏡―苫米地歡三追悼録―』私家版1940

註22 寺田政明 てらだ まさあき、1912(明治45)年1月3日‐1989年7月12日。福岡県八幡市高見四条生まれ。1929(昭和4)年、下谷区真島町1‐2の辻ハウスに転居し、太平洋画会研究所に入所。翌年閉所、改組後も太平洋美術学校に通学、吉井忠、佐藤俊介(松本竣介)、安孫子真人、麻生三郎、薗田猛、中村金作らと出会い、長谷川利行や靉光との交流が始まる。1933(昭和8)年、退学、1935(昭和10)年豊島区長崎仲町1‐894に転居。1936(昭和11)年に麻生三郎らとエコール・ド・東京を結成。1939(昭和14)年には福沢一郎、吉井忠、麻生三郎らと美術文化協会の結成に参加。さらに1943(昭和18)年には麻生三郎、松本竣介、靉光、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男と「新人画会」を結成。戦後、1964年 森芳雄らと主体美術協会を結成し創立会員となる。

註23 吉井忠 よしい ただし、1908(明治41)年7月25日‐1999年8月5日。福島市生まれ。1937(昭和12)年、豊島区長崎町に住む。1939(昭和14)年、福沢一郎らと美術文化協会の結成に参加。

註24 麻生三郎 あそう さぶろう、1913(大正2)年3月23日‐2000年4月5日。武蔵野美術大学名誉教授。京橋区本湊町鉄砲洲の炭問屋の家に生まれる。実家は当時築地居留区があった明石町に近く、モダンな雰囲気に影響され洋画を志す。明治学院中等部在学中の1928(昭和3)年より、小林萬吾の設立した同舟舎洋画研究所でデッサンを学び、1930(昭和5)年に太平洋美術学校選科に入学。1933(昭和8)年に退学、1936(昭和11)年にエコール・ド・東京を結成。1938(昭和13)年2月、訪欧。9月に帰国後は豊島区長崎にアトリエを構え、1939(昭和14)年、福沢一郎らと美術文化協会の結成に参加。1943(昭和18)年には「新人画会」を結成。1944(昭和19)年に応召、身体虚弱の為に兵役不適とされてすぐに帰された。空襲によりアトリエを焼失。戦後、松本竣介、舟越保武と日動画廊にて三人展を行った後、1947年より自由美術家協会に参加。

註25 麻生三郎「放浪画家・長谷川利行の復活」『藝術新潮』第12巻第5号新潮社1961。

註26 吉井忠「利行とわたし」『長谷川利行未発表作品集』旺国社1978

註27 福沢一郎 ふくざわ いちろう、1898(明治31)年1月18日‐1992年10月16日。群馬県北甘楽郡富岡町に生まれる。父は後に富岡町長。1918(大正7)年東京帝国大学文学部入学。彫刻家朝倉文夫に入門、彫刻家を志す。1924(大正13)年から1931(昭和6)年にかけてパリに遊学、絵画制作へと移る。ジョルジョ・デ・キリコやマックス・エルンストに影響を受け、シュルレアリスムを日本に紹介した。1941(昭和16)年4月、治安維持法違反の嫌疑により逮捕、世田谷署に拘置、長期留置される。戦後、多摩美術大学、女子美術大学教授をつとめた。1978年、文化功労者。1991年、文化勲章受章。なお、1934(昭和9)年、長谷川の第21回二科展への出品にたいし、「長谷川利行君は「ラ、ベット、ユメース【ヌ】」に於て女人の裸體を獸肉の如く描き出した。徹底したヴアガボンド長谷川君の夢は、諦観的悲調を帶びてゐる。フオーヴ的筆法も、こゝでは甚だ効果的だ」(「二科評」『アトリヱ』第11卷第10號アトリヱ社1934)と評した。本稿の題名「バガボンド長谷川利行」は、直接はこれに由来している。

註28 寺田政明「長谷川利行のこと」『三彩』通巻413三彩新社1982年2月

註29 小山正太郎 こやま しょうたろう、1857年2月15日(安政4年1月21日)‐1916(大正5)年1月7日。奥羽越列藩同盟側で敗北した越後国長岡藩の藩医の惣領として生まれる。1872(明治5)年、川上冬崖の画塾「聴香読画館」に入り、まもなく塾頭になる。1873(明治6)年、陸軍兵学寮に入り、翌年陸軍士官学校図画教授掛となって、陸軍省に招聘されていたフランス人教官アベル・ゲリノー(Abel Guérineau)から水彩画法などを学んだ。1876(明治9)年、工部美術学校開校と同時に入学、フォンタネージの指導を受け、翌年、門下生の中で最も優秀な成績だったためその助手となる。1878(明治11)年11月、フォンタネージの後任となったフェレッティの教育法に不満を抱き、退学。浅井忠ら連袂退学者と十一会を結成する。1879(明治12)年、東京師範学校図画教員となり、以後1884(明治17)年図画調査委員、1887(明治20)年図画教科書編纂委員になるなど、図画教育の普及に尽力。1885(明治17)年、図画取調掛で、普通教育に毛筆画と鉛筆画どちらを採用するかをめぐり、鉛筆画を主張、毛筆画を推すフェノロサらに破れ、1891(明治23)年、岡倉天心らの洋画排斥論に反対し、東京高等師範学校を解任される。1889(明治22)年浅井忠らと明治美術会の創立に参画するも、1993(明治26)年黒田清輝が帰国し白馬会を結成すると、小山ら明治美術会の画家は「旧派」と呼ばれ高等美術教育の傍流に追いやられ、東京高等師範学校などの初等中等教育の場で活動する。1900(明治33)年、パリ万博の出品監査委員となり、文部省より図画教育取調の命を受けて渡欧、その帰りにロンドンで偶然、夏目漱石と同じ下宿に滞在している。1907(明治40)年、文展が開催されるとその審査員を務めた。

註30 浅井忠 あさい ちゅう、1856年7月22日(安政3年6月21日)‐1907(明治40)年12月16日。江戸の佐倉藩中屋敷に藩士浅井常明の長男として生まれる。13歳の頃から佐倉藩の南画家、黒沼槐山に花鳥画を学び、「槐庭」の号を与えられ、1875(明治8)年に彰技堂で国沢新九郎の指導のもと油絵を学び、1876(明治9)年に工部美術学校に入学、西洋画を学び特にアントニオ・フォンタネージの薫陶を受けた。退学後、新聞画家としての中国派遣などを経て、1889(明治12)年に明治美術会を設立。1898(明治31)年に東京美術学校教授となる。その後、1900(明治33)年からフランスへ西洋画のために留学した。1902(明治35)年に帰国後、京都高等工芸学校教授、1903(明治36)年に聖護院洋画研究所を開いて後進の育成にも努力した。安井曽太郎、梅原龍三郎、津田青楓、向井寛三郎を輩出した。正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説『三四郎』の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。

註31 黒田清輝 くろだ きよてる、1866年8月9日(慶応2年6月29日)‐1924(大正13)年7月15日。通称は新太郎(しんたろう)。名の清輝は、本名では「きよてる」と読むが、画名では「せいき」と読む由。薩摩藩士黒田清兼の子として鹿児島市に生まれ、のちに伯父の子爵黒田清綱の養子となる。1872(明治5)年に上京。小学校卒業後は漢学塾二松學舍に通う。1878(明治11)年、高橋由一の門人、細田季治につき、鉛筆画ならびに水彩画を学ぶ。東京外国語学校を経て、1884(明治17)年から1893(明治26)年まで渡仏。当初は法律を学ぶことを目的とした留学であったが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に出会い、1886(明治19)年に画家に転向、ラファエル・コランに師事する。帰国後は、美術教育者として活躍する。1894(明治27)年には山本芳翠の生巧館を譲り受け久米桂一郎と共に洋画研究所天心道場を開設し、印象派の影響を取り入れた外光派と呼ばれる作風を確立。1896(明治29)年には白馬会を発足させる。同年、東京美術学校の西洋画科の発足に際して教員となり、以後の日本洋画界のドンとなる。1898(明治31)年、東京美術学校教授に就任、1910(明治43)年には洋画家として最初の帝室技芸員に選ばれ、また帝国美術院院長などを歴任した。1917(大正6)年には養父の死去により子爵を襲爵、第5回貴族院子爵議員互選選挙にて当選し、1920(大正9)年に貴族院議員に就任している。

註32 鶴岡政男 つるおか まさお、1907(明治40)年‐1979年。高崎市生まれ。1922(大正11)年、太平洋画会研究所に入所、井上長三郎、靉光らと親交が始まる。1929(昭和4)年、井上長三郎らと太平洋画会研究所でストライキ、洪原会結成。翌年、NOVA美術協会を結成に参加。1943年、松本竣介らと新人画会を結成。戦後は自由美術家協会に合流。

註33 井上長三郎 いのうえ ちょうざぶろう、1906(明治39)年11月3日‐1995年11月17日。神戸市生まれ。2歳で両親に連れられ、大連に渡る。1924(大正13)年、内地に渡り、太平洋画会研究所に通う。鶴岡政男、靉光と出会う。二科展、独立美術協会展などに出品。1929(昭和4)年、鶴岡政男らと太平洋画会研究所でストライキ。1953(昭和25)年から1956(昭和31)年にかけて、日本美術会の委員長を務める。

註34 柿手春三 かきて しゅんぞう、1909(明治42)年‐1993年。広島県双三郡三良坂町長田に生まれる。1928(昭和3)年、画家を志して上京。太平洋画会研究所に入所し、その後さらに川端画学校に移り、長崎東町すずめが丘アトリエに一人で住む。すぐ板橋に転居。1929(昭和4)年の一九三〇年協会展で、「滝野川モミジ園風景」が初入選。1936(昭和11)年の第6回独立美術協会に「歩兵」を出品するが、当局の指示により「風景」と改題させられた。1940(昭和15)年に体調を崩し帰郷。以後、広島県内の県立高校の美術教師として教鞭をとる。戦後、三次文化協会設立に参加。1955(昭和30)年、四国五郎、下村仁一、増田勉らと「広島平和美術展」を創立。(三良坂平和美術館編「柿手春三略年譜」『三次ゆかりの作家III柿手春三と池袋モンパルナスの作家たち』図録 奥田元宋・小由女美術館2009による)

註35 靉光 あいみつ、1907年6月24日‐1946年1月19日。本名石村日郎(いしむら にちろう)。広島県山県郡壬生町に農家の二男として生まれる。1926(大正15)年、二科展に初入選。谷中初音町、根津宮永町、板橋大山の炭屋の2階、北豊島郡瀧野川三軒家2006加藤方、牛込区横寺町9番地芸術倶楽部35号室、横寺町9番地小林方42号室、板橋町金井窪358小川方、豊島区長崎培風寮、池袋2丁目、小石川戸崎町、小石川区白山前町57、小石川区原町42と、はげしく転居を繰り返す。1939(昭和14)年、福沢一郎らと美術文化協会を設立。1944(昭和19)年、応召。終戦後の1946(昭和21)年、中国上海郊外で結核性胸膜炎とアメーバ赤痢により病死した。麦100%の「麦飯」を炊かせれば右に出るものはいなかったという。「彼は麦めしと味噌と大根葉との食生活だったが、コーヒーだけはよくのみにでかけた。その頃滝の川に「マルヤ」と云うカフェーがあって、そこにひょろりほそいすがたをあらわしていた。(中略)井上は彼のボロボロの麦めしとコーヒーのぜいたくな生活をいつも笑っていた。」(大野五郎による回想、菊地芳一郎編『靉光』時の美術社1965)

註36 宇佐美承『池袋モンパルナス』集英社1990(初出は『すばる』1988年5月号から1990年3月号)、太平洋美術会百年史編纂委員会『太平洋美術会百年史』社団法人太平洋美術会2004による。なお、吉田和正『アウトローと呼ばれた画家 評伝 長谷川利行』で太平洋画会研究所の画学生がリリオムで対策を協議したとあるが、リリオムの開店は1931(昭和6)年で、このときにはまだ存在しない。

註37 井上長三郎「リベラリスト長谷川利行」『みづゑ』No.763美術出版社1961年5月

註38 井上長三郎「薄命作家列伝➀長谷川利行」『美術運動』再刊第1号 日本美術会1951年2月1日

註39 井上長三郎「長谷川利行のいた頃」『季刊パリ通信』通巻第2巻第2号 東広企画株式会社1976。なお、「靉光像」の行方であるが、「車坂で質屋をやっていて、美しい奥様を持っていた小池政治君の家に、「靉光像」の絵を持ち込んで、無理やり二円で質入れして浅草を飲み歩いた」という。(徳山巍「長谷川利行と私」『長谷川利行未発表作品集』旺国社1978)。また、徳山によれば、「小池は彼の絵あまり好きじゃなかったんだが、僕達の仲間だから」とのこと。(新井祥伯 徳山巍「対談利行回想」徳山巍の発言『長谷川利行未発表作品集』旺国社1978)。「靉光像」は、長谷川によってひんぱんに質入れされ現金化されるが、その都度受けだされたらしい。現在は板橋区立美術館に寄託されている。これも、いってみれば質入れの現代的なかたちである。小池政治は、上野車坂町で質店を経営。徳山巍の画友。

註40 サトウハチロー バガボンド長谷川利行(1)註43参照。

註41 安永良徳 やすなが よしのり、1902(明治35)年‐1970年9月12日。旧福岡藩士安永徳の長男として、横浜市に生まれる。父の転勤のため幼年時代から住居を転々とし、京都府立第五中学校から、福岡県立中学修猷館に転校して1919(大正8)年に卒業。一浪した後成績優秀で学費免除の特待生で東京美術学校に入学。1931(昭和6)年、豊島区池袋にアトリエを構える。同年9月、構造社展に出品した「首B」で構造社賞を受賞し、構造社会員となる。その後、構造社展や帝国美術院展覧会(帝展)に出品を重ね、1937(昭和12)年、帝展の後身である文部省美術展覧会(新文展)の無鑑査となる。1941(昭和16)年、応召、満州国牡丹江省東寧県の大肚子川449部隊に配属される。終戦後、ソ連によりシベリアに抑留され、1947(昭和22)年に復員する。その後は福岡に定住し、日本美術展覧会(日展)などに出品を重ね、地方在住ながら日展の審査員をしばしば務めている。日展参与や、福岡県美術協会理事長、福岡ユネスコ協会常務理事などを歴任し、福岡の美術界の指導者として重きをなした。1941(昭和16)年、高橋亀子と結婚するが、「名前がイヤだ」とのことで「靗子(ていこ)」と改名。「そのころドイツ映画で「青の光」というのがあった。アルプスの伝説からとった話で神秘的な山の少女が登場する。この主演の美女がレニ・リーフェンスタール」(柳猛直「ハカタ巷談美の創造者たち(49)梁山泊を出て」 『夕刊フクニチ』1978年1月18日)で、それにちなんだものという。

註42 吉邨二郎 よしむら じろう、1899(明治32)年‐1942(昭和17)年。本名は吉村二郎。長崎県生まれ。1922(大正11)年、東京美術学校図案科卒業。同年秋の第9回二科展に入選。同年、中川紀元、神原泰、古賀春江、岡本唐貴、浅野孟府らとともに二科会系の前衛美術団体「アクション」の創立同人となる。1925年7月16日、今東光が創刊した同人誌「文党」有志の行った示威行動のプラカードを村山知義とともに描く。同年10月、「造型」に参加。1926(大正15)年、佐藤八郎(サトウハチロー)著『爪色の雨』(金星堂)を装幀。1927年3月、サトウの作ったラリルレロ玩具製作所に工作部員として名を連ねる。同年5月、帝国劇場における「藤蔭会」公演の洋楽3作の舞台装置と衣裳を担当。1928(昭和3)年、斎藤佳三、峰岸義一、渋谷修らの「主情派美術展」に出品。1929(昭和4)年12月、多田北烏らの実用版画美術協会第1回展に出品。後年は挿絵画家として活動。『少年倶楽部』などの子供向け雑誌の挿絵を数多く担当した。(古賀春江資料室による)

註43 岡本唐貴 おかもと とうき、1903(明治36)年12月3日‐1986年3月28日。本名は登喜男(ときお)。岡山県浅口郡連島町西之浦字腕の生まれ。1916(大正5)年、小学校卒業後は、岡山市つづいて神戸市に出て、父の家業に従事したが、父は家業に失敗し、倒産寸前に追い込まれ、古本屋を始める。それを唐貴にまかせた。1917年、米騒動と労働争議を目撃。「兵隊が機械的に人を殺すのを見て、言いようのない驚きを感じた」という。1922(大正11)年、東京美術学校彫刻選科に入学するが、翌年駒込の友人宅で関東大震災に被災、学校は出席不良と月謝滞納のため退学。1924(大正13)年、二科会を離れ、神原泰、矢部友衛らと三科造形美術協会の結成に参加。1926(大正15)年、神原泰、矢部友衛、浅野孟府らとグループ造型の結成に参加。1928(昭和3)年、グループ造型を造型美術家協会として再組織。1929(昭和4)年全日本無産者芸術連盟(ナップ)改組による日本プロレタリア美術家同盟(PPのちヤップ)の結成に参加。1929(昭和4)年4月、長崎町大和田1983番地に造形美術研究所(1930(昭和5)年6月にプロレタリア美術研究所、1932(昭和7)年12月には東京プロレタリア美術学校と名称変更)を設立。黒澤明はその時の教え子である。作品に「同志小林多喜二の死面」(1933)など。1948(昭和23年)年、共産党に入党するが、1958(昭和33)年に離党している。(wikipedia 、ブログ再出発日記、落合道人Ochiai-Dojinブログによる)

註44 吉田謙吉 よしだ けんきち、1897(明治30)年2月10日‐1982年5月1日。舞台装置家、映画の美術監督、衣裳デザイナー、タイポグラフィ作家。日本橋区に生まれる。17歳のとき、二科会に「演劇人」を出品、初入選を果たす。1922年(大正11)年、東京美術学校図案科を卒業、「アクション」の設立に参加する。関東大震災後、演劇復興のため、1924(大正13)年に土方与志と小山内薫が創設した築地小劇場に宣伝・美術部員として参加。同年、雑誌『建築新潮』に「バラク東京の看板美」を寄稿。関東大震災の頃から街中の看板等を写生した活動が後に「考現学」に発展し、1930(昭和5)年には東京美術学校の先輩、今和次郎とともに共著『モデルノロヂオ』を上梓する。

註45 尾形亀之助 おがた かめのすけ、1900(明治33)年12月12日‐1942(昭和17)年12月2日。アナキズム詩人、画家。宮城県柴田郡大河原町生まれ。東北学院普通部中退。歌人として出発したが、1923(大正12)年に詩に転向。『月曜』などいくつかの詩誌を主催。『月曜』には宮沢賢治が童話『オツベルと象』『ざしき童子のはなし』『猫の事務所』を寄稿している。同年のマヴォ第1回展覧会に50点の絵を、第2回に2点の絵を出品している。1942(昭和17)年に孤独死するが、日頃から餓死自殺願望を口にしており、自殺であったという説もある。読者は決して真似をしないでいただきたい。

註46 浅野孟府 あさの もうふ、本名は猛夫。1900(明治33)年1月4日‐1984年4月16日。東京生まれ。1918(大正7)年、東京美術学校彫刻科に入学、北村西望に師事するが、中退。賀川豊彦の『死線を越えて』を読み、神戸に転居、岡本唐貴に会う。1923(大正11)年「アクション」、1924(大正13)年三科造型美術協会の結成にくわわり、前衛美術運動を展開した。昭和30年一陽会創立に参加。長崎励朗「プロデュースという思想―浅野翼を中心に―」『京都大学大学院教育学研究科紀要』57号2011によると、ご子息の「浅野潜の話によれば孟府自身は共産党員ではなかったというが、「太平洋戦争開戦以前から終戦まで、毎週のように特高刑事が訪れてくる家だったが、そんなことはおかまいなく、芸術論や戦争に苦戦する話が出た」」という。(文中の引用の出典は、浅野潜『吶喊 映画記者―持続と信義の思想』ブレーンセンター2002である)なお、ご子息浅野潜氏の名前は、初期の共産主義者片山潜の名に由来する。

註47 竹久夢二 たけひさ ゆめじ、1884(明治17)年9月16日‐1934(昭和9)年9月1日。本名は竹久茂次郎(たけひさ もじろう)。モデルで妻のお葉さん(本名は佐々木カ子ヨ)は、もと伊藤晴雨のモデルだが、長谷川利行の「Y子の像」とは関係がない。

註48 今和次郎 こん わじろう、1888(明治21)年7月10日‐1973年10月27日。「考現学」を提唱し、建築学、住居生活や意匠研究などでも活躍した。弘前市百石町に医師の子として生まれる。1912(明治45)年、東京美術学校図案科卒。1917(大正6)年、早稲田大学の佐藤功一教授の誘いで「白茅会」に参加。柳田国男の調査に同行するようになる。1920(大正9)年、早稲田大学教授。1922(大正11)年、朝鮮総督府の委嘱により、朝鮮で民俗調査に従事。関東大震災後の銀座に「バラック装飾社」を興し、1927(昭和2)年「しらべもの(考現学)展覧会」を新宿紀伊国屋で開催、「考現学」を提唱。1930(昭和5)年、吉田謙吉との共著『モデルノロヂオ』を出版する。なお、「藤井浩祐「富士見坂」(1927年)」では、柳田国男から「破門」されたと書いたが、wikipedia によると「柳田國男に「破門」(本人談)されたと称したが、一方で、柳田の方は、和次郎の弟子・竹内芳太郎に「破門した覚えはない、君からそう伝えておいてくれ」と答えている」らしい。

註49 長谷川浩三 生没年調査中。江戸川乱歩の「精神分析研究会」によると、元博文館社員。『近代文学研究叢書第46巻』に長谷川天渓の門下とあるため早稲田大学の出身らしい(神保町系オタオタ日記)。1919(大正8)年、柏村次郎や吉田甲子太郎と『基調』を創刊(牧野信一「交遊記」)。牧野信一のために白石実三氏から紹介状を貰い、牧野は島崎藤村を単独で訪問。その時、牧野は『新小説』への執筆を勧められている(牧野信一「初めて逢つた文士と当時の思ひ出」)。1926(昭和2)年『少女の友』に「歓喜の涙」(今田絵里香「少女雑誌にみる近代少女像の変遷―『少女の友』分析から―」『北海道大学大学院教育学研究科紀要』第82号2000)、1931(昭和6)年『共楽』(博英社)に長篇探偵小説「客間の惨劇」連載(北原尚彦の古本的日常)。『ほしかげ』(号外私冊)に寄稿(古本おもしろがりずむ:一名・書物蔵)。長谷川滔浦の筆名で『指紋と性格』運命学全集第7春秋社1932、『指紋と運命』アルス1933など、戦後も版を重ね、最新刊は『指紋と性格(指紋法・指紋と運命・指紋排列の実例)』東洋書院2009を出版。

なお「精神分析研究会」は、長谷川天溪らとともに精神分析家大槻憲二が創設した東京精神分析研究会で、大槻はジークムント・フロイトと定期的に文通していた。フロイトの1933年5月20日付けの書簡「あなたがぶつかっている抵抗について書かれていることは私にとっては驚くべきものではありません。それこそまさにわれわれの予期し得たものであります。しかしあなたが日本の精神分析に確かな基盤を据えたこと、それが消え去る恐れのないことを私は確信しております」とある。

註50 水谷まさる みずたに まさる、本名は勝。1894(明治27)年12月25日‐1950(昭和25)年5月25日。東京生まれ。1918(大正7)年に早稲田大学英文科を卒業すると、コドモ社に入社、そこで『良友』の編集をつとめたのち、東京社の『少女画報』に移る。編集のかたわら自作も発表していたが、1924(大正13)年から1年間訪欧、帰国後、本格的に作家業へ転じる。1928(昭和3)年には『童話文学』を創刊。特に少女向けの童話・詩・翻訳を中心に著し、作品の傾向としては、心の美しさをテーマにしたものが多い。童話集には『マッチの兵隊』、『葉っぱの眼鏡』、童謡集には『歌時計』、『神さまのお手』、翻訳には『若草物語』、『ロビンフッド』、『世界童謡集』(共訳)などがある。一般には「あがり目さがり目」の作詞者として知られている。(大久保ゆう氏作成青空文庫インデックスによる)

註51 湯浅篤志「ねこのラリー☆ とラリルレロ玩具!」『ライスリングの世界 ※ 湯浅篤志の時々ブログ』による

註52 柏木ナレ 池袋2丁目19番地のサトウらが集団生活をしていた家に居候した女性。三河屋さんの小僧さんに蛇が沢山いると聞き、やってきた。(サトウハチロー『青春風物詩』東成社1952)

註53 宮坂普九 みやさか ふく、生没年調査中。愛称フクサン。上諏訪の呉服屋の息子で雑学の大家。今東光の従兄弟。池袋の家に、東郷青児、サトウハチローをはじめとする若く才能のある食客を家に住まわせながら、一生遊び暮らした人物らしい。日本經濟新聞に連載された『私の履歴書』(1960(昭和35)年8月連載、東郷青児の項)に、「らりるれろ(5文字傍点)の福さん」とある。詩人として「全詩人聯合」のメンバーに名を連ねている。「武技の修行によって武術を体得し、武術の体得によって、武道を悟る。武道の悟達によって、心眼を開き、心眼の開きによって、人格が成る。武は人の道にして即ち和を尊ぶ。」との言葉が剛柔流空手道のサイトに「The Words of Grand Masters」のひとつとして紹介されている。『つり人叢書 釣場問答』つり人社1948『つり人叢書 はやとやまべ釣』つり人社1948(共著)の著書がある。ご子息は、新富町にある「マッキーズ」という釣り具店の店主、オリジナル仕上げのフライロッドの製作をいち早く始めた。

註54 島村竜三 しまむら りゅうぞう、本名は黒田儀三郎(義三郎とも)、詩人名に黒田哲也。1906(明治39)5月15日‐1989年4月27日。淡路島生まれ。アナキズム詩人を目指し、『白山文学』、『太平洋詩人』に参加。1927(昭和2)年東洋大学支那哲学科卒。「玩具制作の傍ら、島村龍三は「金主を見つけてアナキズムと農民運動の色彩の混じつた素人芝居を朝日講堂でやつた」り、剣劇一座の手伝いをしていた」という。(中野正昭「カジノ・フォーリーとモダン・エイジのアナキストたち」『文学研究論集』第14号2001、文中の引用は水盛源一郎「魚眼風景」『早稲田文学』1935年12月)第2次カジノフォーリーの文芸部長、のち新宿ムーラン・ルージュの初代文芸部長。東宝や松竹、宝塚などで劇作家や演出者として活躍。原作にPCLの映画「踊り子日記」(1934)、出演は千葉早智子、大川平八郎、藤原釜足、岸井明、古川緑波。演出にコマ爆笑ミュージカル「ガラマサどん」(1960、出演、古川緑波、旗照夫、筑波久子、島崎雪子、由利徹、南利明、八波むと志、 相模太郎、沢たまき、左とん平)東宝喜劇六月明治座公演「ミスター源氏」(1964)、著書に『恋愛都市東京』新喜劇叢書第1西東書林1936。ハナ肇の義父。

註55 安藤秀吉 あんどう ひできち、生没年調査中。「安藤秀吉は、呉服橋の洋服屋の伜である。ずんぐりと太って、その頃洛(らく)陽(よう)の紙価を高からしめた大菩薩峠に出てくる宇治山田の米友に似ている。さんだらぼっちを、ほどきましたという妙な頭をしているのだが、江戸ッ子は、ポマードなんかつけねえや、いつも洗い髪だ。と、げんこつで、鼻を横なぐりにこすってる男である。江戸ッ子ぶったために、みんなにたかられたのか、自分の方で江戸ッ子ぶった手前、おごらなければ、ならなくなるのか、いつも、おふくろから、小遣いを貰った日に、すッからかんに、はたかれていた。」(サトウハチロー『青春風物詩』東成社1952)東京美術学校卒、帝国美術院第8回美術展覧会に彫塑作品「緑調」を出品している。

註56 宮地寅彦 みやじ とらひこ、愛称ジイ、1902(明治35)年‐1995年。金沢市生まれ。木彫家相川松涛は伯父。1923(大正11)年石川県立工業学校窯業科卒業、1929(昭和4)年東京美術学校彫刻科研究科修了、斉藤素巖に師事。、1928(昭和3)年第9回帝展初入選、以後帝展・新文展、日展に出品。1954(昭和27)年イギリス政府主催世界彫刻コンクールに日本代表として出品。動的で優美な裸婦像で知られる。日展参与。(石川県立美術館作家解説による)

註57 後藤俊春 ごとう としはる、愛称ゴッチン、生没年調査中。福岡県生まれ。「自画像」(1931)が東京藝術大学大学美術館に収蔵されている。画集に『東京美術學校西洋畫科卒業製作』1931。一時期『つり人』の編集長をしていた後藤俊春は、彼かもしれない。

註58 山田ヘコエム やまだ へこえむ、本名、生没年調査中。「ヘコエムの方は、山田という名をどこかへやってしまって、もっぱらドンヘコエムと名のっていた。長崎の産で、スペイン人の血がまじっているので、ドンヘコエムと名乗り申すといばっていた。ヘコエムは、(女の読者よ以下数行を読まずとばしたまえ)われわれ男性のシンボルであるものの一ヶ所が、ちゃッとくびれてへこんでいるのだ。故にヘコエムなのだ。ふざけてると言えばそれまでだが、この時代は妙に片仮名の名の流行時代だったのだ。詩人の方にもドンザッキーだの、カネコミラセッチなどというのがいた。」(サトウハチロー『青春風物詩』東成社1952)マヴォ第2回展にも住谷磐根が、イワノフ・スミヤヴヰッチの名で大量の作品を出展している。そういう時代であったのだ。

註59 津田シャム つだ しゃむ、本名、生没年調査中。「シャムの方は、先祖が、山田長政がシャムに行った時に一緒について行った津田又左衛門の子孫だというのだ。真偽のほどは、わからないが、本人がそういうのだから信用しておく。」(サトウハチロー『青春風物詩』東成社1952)それにしても、これらの愛称を並べてみると、まるでたけし軍団を見ているような気分になってくる。

註60 サトウハチロー『青春風物詩』東成社1952による。同書によると、他に安永の子分で美術学校の学生だった伊勢幸平(洋画家・創元会会員)、ハチローの弟子で、後に劇作家・演出家として有名になった菊田一夫もいた。彼は台湾の生まれ、大阪で丁稚奉公をしていた純朴青年であった。淡谷のり子なども、よくやってきたという。

註61 柳猛直「ハカタ巷談 美の創造者たち(48)ラリルレロ玩具製作所」 『夕刊フクニチ』1978年1月17日9面

註62 岡本きみ おかもと きみ、旧姓は相馬(そうま)、相馬君子という表記も見える、生年調査中‐1981年5月。相馬家の三女。矢部友衛の妻、矢部光子の女学校での生徒で、画家志望であったともいう。岡本唐貴に紹介され、1930(昭和5)年結婚。

註63 白土三平 しらと さんぺい、本名は、岡本登(おかもと のぼる)、1932(昭和7)年2月15日‐。父の出獄後、家族は、神戸の伯父(岡本唐貴の兄)宅や大阪の被差別部落、朝鮮人部落に庇護を求め、各地を転々、敗戦を見通して長野県に疎開。これらの生活体験が、後年の漫画作品に影響を与えたという。(毛利甚八『白土三平伝―カムイ伝の真実』小学館2011)

註64 『岡本唐貴自傳的回想画集』東峰書房1983

註65 柳猛直「ハカタ巷談 美の創造者たち(48)ラリルレロ玩具製作所」 『夕刊フクニチ』1978年1月17日9面

註66 荻原俊三 おぎわら しゅんぞう。1902(明治35)年福岡県生まれ。日大芸術科卒。国語国文学専攻。教員、編集者等の経歴がある。国語に関する研究論文のほか、詩、小説等の作品がある。(広田甚七編『新進小説選集』(第6輯)昭和18年度版 南方書院1944所収略歴)小説作品に「戦場の茶会」広田甚七編『新進小説選集』(第6輯)昭和18年度版 南方書院1944、著書に『上杉鷹山公と現代政治』政経評論社1936、編著に『締めよ、こゝろ 軍国家庭讀本』軍人會館出版部1939。その他『白鳩』誌に論文を多数載せている。

註67 能川外次郎 名のよみ、生没年調査中。富山県生まれ。「文学青年」で、村井武生の友人。L・L・L玩具製作所では、販売、金策を受け持っていたという。(矢野文夫『長谷川利行』美術選書 美術出版社1974)高岡古城公園二の丸の水濠内に自生していたレンコンの採取権のための入札書類「高岡公園濠池内蓮根採取願」(1914(明治37)年)に、定塚町の柴野源太郎と、源平町の能川外次郎の2人の名が見える。採取期間は1年間で落札金額は20円と記されている。採取区域を示した図面によれば、高岡市民会館近くにある駐春橋付近だったという。(『北日本新聞』2009/09/12朝刊、『ほっとホットメール高岡』第186号 2009年9月25日による)また、長谷川利行「歌集「女體は光る」斷感」(『詩歌』第12卷第2號 白日社1931)に「○ 支那海をのりきつてきたジヤンクセンのずつぶりぬれた氾【泥】繪具の繪だ/明麗なる歌。LLL玩具製作所熊川外次郎氏の工作に戎克船がある。」という自由律短歌がある。

註68 岸田国士 きしだ くにお、1890(明治23)年11月2日‐1954(昭和29)年3月5日。劇作家・小説家・評論家・翻訳家・演出家。四谷区に和歌山県出身の陸軍軍人岸田庄蔵の長男として生まれる。岸田家は旧紀州藩士の家系。陸軍士官学校を経て少尉に任官、久留米の第48歩兵連隊に配属されるが、文学を志望し、父の勘当を受けながらも軍籍を離れ、文学、演劇の道に進む。1937(昭和12)年に顧問を務めていた築地座を解消し、新たに文学座を岩田豊雄・久保田万太郎らと創設。1940(昭和15)年から1942(昭和17)年まで大政翼賛会文化部長を務め、太平洋戦争後の1947(昭和22)年にGHQにより公職追放となる。

註69 荻原俊三「長谷川利行氏のこと」矢野文夫『夜の歌(長谷川利行とその藝術)』邦畫莊1941

註70 『長谷川利行未発表作品集』旺国社1978

註71 矢部友衛 やべ ともえ、1892(明治25)年3月9日‐1981年7月18日。新潟県岩船郡生まれ。1918(大正7)年東京美術学校日本画科卒、渡米する。翌年渡仏し、パリでドニにまなび、キュビスムの影響もうける。前衛派のアクションに参加。1922(昭和7)年帰国、二科展に立体派の作品を出品。アクションに参加、のち三科造型美術協会に参加。岡本唐貴らと造型を結成。1926年渡ソ。1929(昭和4)年日本プロレタリア美術家同盟を創立し、委員長。1933(昭和8)年6月、極東平和の友の会に参加、幹事となる。1944(昭和19)年よりシリーズ「農民百態」にとりくんだ。戦後も岡本唐貴との共著『民主主義と総合リアリズム』を出し、その運動を提唱。1946年、岡本唐貴、山上嘉吉ら元造型メンバーと現実会を設立するが、2年後に解散する。矢部を通じて日本共産党が現実会を影響下におこうと働きかけてきたことに岡本が反対して激しい論争になり、「解散だ」と岡本氏が言ったという。(門田秀雄「美術史から消えた”労働者” 弾圧受けたプロレタリア美術、歴史の空白を追う」『日本經濟新聞』2009年11月19日)1948年、日本共産党入党。作品に「労働葬」など。

註72 矢野文夫『長谷川利行』美術選書 美術出版社1974による。

サトウによるとラリルレロは9月に解散したという。(サトウハチロー『青春風物詩』東成社1952)

柳によれば、「ラリルレロは、福岡出身で漫彫をやっていた岡城(おかぎ)鷹雄、伊勢幸平、中野正剛の書生だった三好義隆らが引き受けてやっていたが製品は飛ぶように売れて業績はすこぶる好調。金まわりがよくなると遊びたい連中だから、よく遊んだ。そのころは同じ巣鴨に四十五円の家賃の家を借りていたが、当時の家賃四十五円といえば相当なもので広大な豪邸であった。

ところがラリルレロの業績がいいのを見て同業者の中から模倣の作品がぼつぼつ出はじめた。明らかにアイデアの盗用だからラリの連中は憤慨して、この盗作者の追及をはじめた。販売店から糸をたぐっていって遂に盗作者をつきとめた。岡城、伊勢、三好が乗り込んで抗議をするうちに元気のいい九州人だから口よりも先に手が出てぽかりといく。乱闘さわぎになって警察につかまり、ブタ箱に放り込まれてしまった。

サトウや美校の先輩の須藤雅路らが奔走して、やっと釈放されることになったが、サトウが自動車で迎えに行ったら、一同凱旋将軍のような顔をして留置場から出てきた。」(柳猛直「ハカタ巷談美の創造者たち(49)梁山泊を出て」 『夕刊フクニチ』1978年1月18日9面)

註73 岩井弥一郎 いわい やいちろう1899(明治31)年9月18日‐1968年1月27日。「理髪師の画家」として有名。1950(昭和25)年一線美術会創設。

註74 岩井弥吉 名のよみ、生没年調査中。代々、埼玉県北葛飾郡豊野村赤沼に住む。「東京でないと出世できない」とのことで出稼ぎの仕事に従事、上野駅前で人力車夫を始め、一家で東京へ移住した。

註75 石名田喜久男『洋画家岩井弥一郎』私家版1964

註76 坂元哲男「岩井弥一郎 理髪師の画家」『異彩を放つ画家たち 埼玉ゆかりの画家を中心として』中央公論事業出版2010。松島光秋「新人エピソード 岩井弥一郎と新光洋画会」『美術グラフ』1978年1月号では、いささか脚色過剰であるが次のように書かれている。ただし、本事件を1923(大正12)年とするのは誤り、場所も三ノ輪町7の岩井理髪店であると思われる。正月のこととすれば、少なくとも1926(大正15)年以降ということになる。

「大正十二年【実は1926(大正15、昭和1)年以降】の正月、東京の下町を吹き渡る夜の風に門々の松飾りがまだ揺れている頃、下谷万年町に深更二時、三時になっても灯の消えない店があった。店頭には白いカーテンが引かれて閉店を告げてはいたが、中では何やら仕事をしているらしく、人の影がカーテンに映って伸びたり縮んだりしていた。

不審に思った警羅中の付近の交番の巡査が、その池原理髪店と書かれたガラス戸に手を掛けると少し開いたので、やにわに手荒く引き開けて店内に入った。

驚愕の眼を見開いて立ちすくんでいる背のずんぐりした若い男を、警羅巡査は目にした。若者は手にパレットと絵筆を持っていた。

「絵を描いていたのか」

巡査はそういうと、気負い立った有り様を隠すようにサーベルをがちゃつかせて、青年の描きかけている画布の前に立った。

「なかなかうまいじゃないか。名前はなんというのか」

青年は不意の闖入者が警羅巡査であるのを見て、ようやく恐怖の色の消えた顔で、

「弥一郎、岩井、弥一郎です」

とどもるように答えて、手にしていた絵筆とパレットを床に置いた。」

註77 兒玉勝次 こだま かつじ、1904(明治37年)‐1995年6月21日。鹿児島県川内市生れ。1920(大正9)年旧制県立川内中学校中退後上京。本郷洋画研究所に通い、岡田三郎助の指導を受ける。二科会には24回から30回まで連続出品。岩瀬行雄 油井一人編『20世紀物故洋画家事典』AA叢書5美術年鑑社1997に兒玉勝治とあるのは誤り。

註78 村岡優子「兒玉勝次をしのんで」深川行敏編『兒玉勝次画集』兒玉拓発行1996。三ノ輪町7の岩井理髪店は、関東大震災の焼け跡にバラック建てで作られた。また、同画集に収載された略歴には、兒玉勝次が下谷警察署の巡査として従事するのは1925(大正14)年とある。

註79 谷井喜三郎 生年調査中‐1961(昭和36)年。1938(昭和13)年第一美術協会第10回展で会友推挙、1942(昭和17)年第14回展で会員に推挙される。(小史編纂委員会『第一美術協会小史』第一美術協会2009)

註80 松島光秋「岩井弥一郎と新光洋画会」『美術グラフ』1978年1月号

註81 石田新一 名前のよみ調査中、1907(明治40)5月‐1937(昭和12)年11月26日。向島生まれ。1930(昭和5)年太平洋美術学校選科入学。1932(昭和7)年市外長崎村に画室「赤荳会」を結成、解散。以降関東各地に転住する。(創風社編集部編『一九三〇年代―青春の画家たち』1994による)

註82 榎本健一 えのもと けんいち、1904(明治37)年10月11日‐1970年1月7日)。赤坂区青山の生まれ。1919(大正8)年に浅草オペラの根岸大歌劇団の俳優、柳田貞一に弟子入りし浅草金竜館で初舞台を踏む。1922(大正11)、根岸大歌劇団によるジョルジュ・ビゼーのオペラ『カルメン』の初演にコーラス・ボーイとしてデビュー。東亜キネマ京都撮影所、中根龍太郎喜劇プロダクションの端役俳優を経て、1929(昭和4)年、浅草に戻り、第1次カジノ・フォーリーに参加。一度は解散するが、エノケンを中心とした第2次カジノ・フォーリーは、都会的なギャグとコントのセンスで一躍人気を集めた。川端康成が『浅草紅団』(1929年‐1930年、東京朝日新聞)で紹介。「金曜日の晩には踊り子がズロースを落とす」という噂も手伝い、連日満員の大入りとなり、浅草の人気者となった。当時のPR誌『カジノ・フオーリー』1号カジノ・フオーリー文藝部への榎本の寄稿は、「皆樣に御挨拶申上ます。日頃の皆樣の御ひいきを思ひますと、私は嬉しくて胸がせまつて感極まつて、………、…………、………………………………、………………………………、……………。」なお、当該誌には、高村光太郎の詩も掲載されている。決してコマーシャル・ソングではないのでご注意。

カジノ・フオリイはいいな

高村光太郎

カジノ・フオリイはいゝな

わかくて、新らしくて、水々しくて

みみつちくて、アンチイムで

かうなると

ヴイユ・コロムビエよりもいいな

巴里にゐるコレツトさん

ちよいと此のアツカリアムをのぞきませんか。

なお、高村光太郎の名前のよみは、本名は「たかむら みつたろう」。卒業した小学校は、現・第一日暮里小学校である。

 

※2021年2月9日、坂齊久美子様のご教示をいただき、徳山巍の名のよみと生没年月日を追加しました。

 

註83 花島喜世子 はなしま きよこ、本名は古郡 キヨ(ふるごおり きよ)。1910(明治33)年1月28日‐没年調査中。芝区高輪の生まれ。第2次カジノ・フォーリーに参加。榎本と結婚、一児をもうけるが、結核で夭折。1960(昭和35)年、徳川夢声司会の日本テレビのドキュメンタリー番組『クライマックス 人生はドラマだ』に榎本と夫婦で出演するが、その後、榎本と離婚。以降の経歴は不明。「カジノ・フォーリー」に足繁く通っていた洋画家の長谷川利行が、花島をモデルに「酒祭り・花島喜世子」(宮城県美術館蔵)を制作。本作品は、洲之内コレクションの中の1点で、洲之内徹は「エノケンさんにあげようと思った絵」というエッセイを書いている。

註84 吉井忠「利行とわたし」『長谷川利行未発表作品集』旺国社1978。文中に「山形の地主の息子」とあるのは中村金作のことらしい。

註85 中林政吉 名前のよみ調査中、1903(明治36)年7月27日‐1991年7月2日。新潟県北魚沼郡川口村生まれ。1919(大正8)年、単身北海道に渡り、札幌丸井(○に井の合字)本店の呉服部で働く。1925(大正14)年、大山郁夫の政治研究会に入会。社会主義者との交友が問題となり、解雇される。東京に来て、同郷の直江新太郎の営む藤屋呉服店に入社。1931(昭和6)年、喫茶リリオムを開店、若い画家の溜まり場となる。東京美術学校の左翼運動の連絡場所に使われたことから1924(昭和9)年営業停止となる(本人は不起訴)。松本竣介の父佐藤勝身に組織され、生長の家に入会、満洲に伝道に行く。戦後は理事長となる。(「「リリオムの時代」補遺 團子坂下茶房リリオムの履歴書」『地域雑誌谷中・根津・千駄木』其の四十八 谷根千工房1996による、同記事の出典は、中林邦夫氏作成の中林政吉年譜)

註86 安孫子真人 あびこ まさと 又は まひと、1912(大正2)年‐1941(昭和16)年8月12日。山形県寒河江町生まれ。太平洋画会研究所に学び、1931(昭和6)年、松本俊介らと太平洋近代芸術研究会を結成、機関誌「線」の同人となる。1934(昭和9)年、帝展に出品、独立美術協会展入選。1936(昭和11)年、エコール・ド・東京展に出品。1937(昭和12)年渡仏、1939(昭和14)年、帰国後、美術文化協会同人となった。1940(昭和15)年、第1回美術文化協会展に出品。作品集に安孫子真也編「安孫子真人作品集」美術工芸会1943。なお、註91参照。名の読みは「まさと」説は、国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス(出典 安孫子真人作品集、日本著者名・人名典拠録)、バーチャル国際典拠ファイル、CiNii(大学共同利用機関法人情報・システム研究機構国立情報学研究所 論文情報ナビゲータ)、筑波大学日本美術シソーラスデータベース、広島県三次市公式サイト、wikipedia User:20th Century (Zenhan) Artに従った。「まひと」説は、「安孫子真人年譜」気まぐれ美術館サイト、「ネット上で出会った「あびこ」な方々」「あびこ」な人々サイト、日外アソシエーツ「CD‐人物レファレンス事典 日本編」(掲載事典『20世紀物故洋画家事典』)、The World Artists BlueBook(Artis Japan.net)、「20世紀検証シリーズNo.3 池袋モンパルナス展 ようこそ、アトリエ村へ!」図録によるが、親族の証言でもあり、これが正しいかもしれない。

註87 中村金作 名のよみ調査中、1910(明治43)年6月27日‐1988年。山形県東置賜郡沖郷村生まれ。幼時を浅草で過ごし、赤湯に帰り、1923(大正11)再上京。丸の内の船会社に給仕として2年ぐらい勤務ののち、新宿の工手学校に入る予定を谷中の東京肖像学院で学び、後、太平洋画会研究所で学ぶ。1928(昭和3)年、帝展入選。谷中真島町、千駄木町、根津権現、逢初町、三崎町、寺町と転居を重ね、1935(昭和10)年頃にはかつて靉光の住んだ培風寮に住む。その後板橋に転居するが、1944(昭和19)年、山形に疎開。1948(昭和23)年、山形県立宮内高校の美術科教師となる。(中村金作『雑記文集』私家版1987)谷中三崎町で住んでいたのは、寺田と同じ「辻ハウス」。

「僕は金作に教えたんだ。「ここは金がいらんから……」とね……。金作はお母さんと一緒だった。/金はいらんが、ウンチは溜りっ放し――。これには閉口した。汲み取りに来られると、なにがしかは払わにゃならんし、そういう、通称「お化け屋敷」といわれているところなんですね。/帝展の彫刻に出していた鈴木仁亮も同宿だった……。彼は美術学校銀時計組で、帝展定連でしたが、僕が二階に居て、彼は下の三畳間に住んでいた。三人は随分長くそこに居ましたが、あとの人はしょっ中いれ変っていた――。/利行は度々そこに訪ねてきました。/詩人の高橋新吉さんとも、そこではじめて会うんです――。」(寺田政明 吉井忠対談「白い道」における寺田の発言『美術ジャーナル』復刊第25・26号合併号 美術ジャーナル発行所1974)

註88 寺田政明「「放浪の天才画家 長谷川利行展」より銀座風景」『月刊美術』第2巻第3号通巻5号 株式会社サン・アート1976による。なお、本稿では、可能な限り初出に拠っているが、寺田政明が改稿した「長谷川利行の思い出」(『三彩』通巻413三彩新社1982年2月)、「長谷川利行」(『主体美術』1987主体美術協会1987)では、かなりの部分が書き直されており、年代も「昭和六年頃」と訂正している。実際、リリオムの開店は1931(昭和6)年10月25日である。(「「リリオムの時代」補遺 團子坂下茶房リリオムの履歴書」『地域雑誌谷中・根津・千駄木』其の四十八 谷根千工房1996による。なお、同記事の出典は、中林邦夫氏作成の中林政吉年譜。)

註89 麻生三郎「放浪画家・長谷川利行の復活」『藝術新潮』第12巻第5号新潮社1961。

註90 獣人 La Bête Humaine。エミール・フランソワ・ゾラ(Émile François Zola)の小説の題名が画題の由来。「『ラ・ベット・ユウメイヌ』は、描き上げた作品を持って、利行が私を訪ねてきた。(中略)「画題がなかなか決まらない。いい題はないか」という利行に、即座に私は答えた。「“ラ・ベット・ユウメイヌ”がいいだろう。ゾラの傑作『獣人』のフランス語だ。」「それはいい」と利行は喜んだ。」(矢野文夫『長谷川利行』美術選書 美術出版社1974)とあるが、長谷川には「獸人録」と題された詩がある。影印の挿図には1929と読める数字があるので1934年の作品の命名以前である。(テクストは、矢野文夫『夜の歌(長谷川利行とその藝術)』邦畫莊1941所収影印による。所収誌は不明)当時の三河島がほうふつとされる作品である。

獸人録

長谷川利行

三河島、蚤ノ市。

そこで三十錢を投ずれば柱八角時計が手に獲られる。時間は正確である。

子供をおんぶした家婦は、極めて喧騒である。

夜は魔物らしい對置で、寂しいネオンはかがやき罪惡は星のやうに光りを消(か)くす。

都會病の特性が溢れて居る。

人生の血は豚臭のやうなものだ。

猥雜は明色に擴がる。

黒須馬術團のサーカス小屋が掛かり、馬馴らしの二十二三歳の女の身振りが愉快である。彼女、アンシヤンツウルな朱唇を持つて居る。

大人二十錢が入場料である。

お湯やのやうに高い足場で、いろ〱曲技をみせ、レビユウ女十數人が現はれる、動物臭は熱帶の原香料を思はす。

ここの場所での寶焼酎の醉ひは、琥珀のジンや火酒に優さるただし強烈である。

にはかに、赤き青きチンドン屋が錬り廻つて來る。彼氏彼女たちは餘技の仕事ではない。

街並の煙草色せる朽ち葉はかさ〱と鳴り渡り、黒き黄色きカフエの女給が、忙がしそうに媚びを撒く。屈托もなき居心地の勤める店々にエロ七十パーセント。

あ、ラ・ベツト・ユウメイヌ

新鋭イズムがある。

註91 麻生三郎「長谷川利行のこと」『長谷川利行作品集』八重洲美術店1973。

「吉井 安孫子真人は長谷川のファンだったが、あまり襲撃されるので逃げ回っていたこともある。中村金作らは長谷川に夢中だった。

井上 安孫子が帝展にだしたのは、長谷川が描いたんじゃないの。

吉井 あれは長谷川もみてやった。安孫子が僕と一緒に東大寺裏をかいたけど、うまくいかない。落ちると郷里の親父から金がこなくなる。お前も手伝えというので、僕もちょっと手をだしたんだが、僕が落ちて安孫子のほうがはいった。(笑)そのとき利行も手を入れたらしい。」(井上長三郎 大野五郎 河北倫明 木村東介 寺田政明 矢野文夫 吉井忠 対談「長谷川利行をしのぶ(二)」木村東介編纂『長谷川利行画集』長谷川利行画集刊行会1963)

註92 高橋賢一郎 名前のよみ、生没年調査中。第一美術協会会員。1921(大正11)年、北海道内初の組織的な美術団体・赤光社の第1回展に出品。1930(昭和5)年第2回聖徳太子奉賛美術展に出品。海軍従軍画家として「アリユーシヤン作戦」の作品あり。1962(昭和37)年1月28日、神奈川県美術家協会創立発起人。「第一審委,元独立,個展12,賞7,師武二熊治,外遊2」(清水澄編『美術家名鑑』118版美術倶楽部出版部1971)

註93 松島一郎 まつしま いちろう、1902(明治35)年‐1965年5月17日。横浜市に生れる。1917(大正6)年慶應義塾商工学校に入学、1920(大正9)年に中退。里見勝蔵に師事し1927(昭和2)年、一九三〇年協会第2回展に「角のパン屋」を出品、1928(昭和3)年には第15回二科展に「ガードと橋」を出品、翌年第16回展に「水族館」「弘明寺裏」を出品した。独立美術協会が創設され、1931(昭和6)年第1回展から出品、翌年第2回展に「風景」他2点を出品してO氏奨励賞をうけ、1933(昭和8)年第3回展では「人夫」「家族」他2点を出品、独立賞を受賞した。1935(昭和10)年に推薦となり、翌1936(昭和11)年に会員に推挙され、以後、独立美術協会の中堅作家として活躍した。かたわら、1930(昭和5)年頃から横浜市桜木町駅前の石炭ビルの一室に研究所を設けて後進を指導、1945(昭和20)年には横浜美術協会(ハマ展)の創立に参加、横浜独立美術協会を設立、1862(昭和37)年には神奈川県美術家協会の創立に参加、県展をはじめとして神奈川県下の美術界でも活躍した。なお、1954(昭和29)年以降は横浜国立大学建築科講師の職にあった。(『日本美術年鑑』昭和40年版 美術研究所1967による)

註94 高橋賢一郎「長谷川利行と私」『季刊パリ通信』通巻第2巻第2号 東広企画株式会社1976。なお、文末に「一九五一・四」の日付があるが昭和51年のことと思われる。

註95 徳山巍 とくやま たかし、1903(明治36)年12月12日~1991(平成3)年1月10日名のよみ調査中、1904(明治37)年?‐1991年。一九三〇年協会展出品1932(昭和7)年、第19回光風会展初入選。退会後、新構造社委員。

註96 徳山巍「利行を語る」『季刊パリ通信』通巻第2巻第2号 東広企画株式会社1976。

註97 安来節 やすぎぶし。1907(明治40)年、昆虫学者の名和靖(なわ やすし、1857年11月24日(安政4年10月8日)‐1926(大正15)年8月30日)が日露戦争勝利を記念して昆虫館を企画。東京市は、「昆虫知識普及館」建設への土地貸与を決定、4月21日に「通俗教育昆虫館」が開館。開館当初は人気があったが、すぐに経営は行き詰まる。浅草喜劇の俳優曾我廼家五九郎の援助を受け、木造から鉄筋コンクリート2階建ての建物に改築、1918(大正7)年には根岸吉之助率いる根岸興行部に経営が移り、1922(大正11)年には昆虫の展示は2階部分のみとなり、1階には回転木馬を輸入、設置し、子供の娯楽場となる。名称も「昆虫木馬館」、やがて「木馬館」となった。1931(昭和6)年、昆虫展示が消え、また、回転木馬もなくなり、木馬館は民謡ブームに乗って浪曲やコント、講談、大衆演劇などを中心に公演する芝居小屋になる。当時、木馬館で浅草名物となったものが「安来節」。初代渡辺お糸や大和屋三姉妹といったスターを擁し、「どじょうすくい」を演じて人気となる。ちらちらと見える太ももが人気を博した要因であったともいう。この時期、長谷川利行は木馬館に通い、「安来節の女」、「大和屋かほる」(ともに1935)などを制作する。初代渡辺お糸に安来節を世に広めるよう勧めたのは、横山大観、安来節を全国規模に広めたのは、吉本せい率いる吉本興業であった。

熊谷登久平によると「彼は私を吾妻橋のビヤホールに誘ひ、淺草のカフエ・オリエントに誘ふやうになつた。二人は畫布と繪具箱を肩にして、月の半分を、この二つの店や、當時、隆盛であつた安來節の小屋で繪をかいたものである。/酒気をおびた彼は、安來節のはやしがとても愉快であつたらしく、三味や太皷に合はせて、唄ひながら絵をかいていた。」(熊谷登久平「長谷川利行と私」『長谷川利行画集』中央公論美術出版1963)

註98 山中美一 やまなか よしいち。生没年調査中。矢野文夫と早稲田大学で同級生。Le Nismois のヴィクトリア風ポルノグラフィ『ジュリヤの青春』東京書院1951を翻訳出版して発禁処分となる。下村千秋の傑作と言われた『天国の記録』が何万円かの印税を稼ぎながら、代作料としてたった十円しか払わなかつたというので、ゴーストライターの山中美一が公表したという話や、『浅草紅団』のアイデア提供料をノーベル賞作家に要求したとか、この手の話題には事欠かない。のち山中は鉄道自殺したという。読者は決して真似をしないでいただきたい。

註99 川端康成 かわばた やすなり、1899(明治32)年6月14日‐1972年4月16日。大阪市北区此花町で開業医の家の長男として生まれる。1968年にノーベル文学賞を受賞した。wikipedia によると1971年の都知事選挙に立候補した秦野章の応援のため宣伝車に乗るなどの選挙戦に参加した川端は、ホテルで按摩を取っている時に、突然と起き上がって扉を開けて、「やあ、日蓮様ようこそ」と挨拶したり、風呂場で音がすると言いながら、再び飛び出していって、「おう、三島君。君も応援に来てくれたか」と言い出したために、按摩師は鳥肌が立ち、早々と逃げ帰ったという。今東光も、都知事選最後の日に一緒に宣伝車に乗った際に川端が、「日蓮上人が僕の身体を心配してくれているんだよ」とにこにこ笑いながら言ったと語っている。1972年、神奈川県逗子市のマンション「逗子マリーナ」の自室で死亡しているのが発見された。死因は自殺と報じられ、それが通説となっている。読者は決して真似をしないでいただきたい。

なお、wikipedia では、川端があん摩を呼んだというホテルの名が不思議な名前「瑚ホテル」となっているが、これは以下の文章の読み誤りに基づくと思われる。「川端の奇異な行動の一つとしてあげられる秦野章の選挙戦の砌ホテルで按摩を取っている時、突然起きあがって扉を開け、/『やあ。日蓮さまようこそ』(以下略)」今東光「本当の自殺をした男」(文藝春秋 1972年6月号に掲載)砌は「みぎり」である。

註100 徳山巍「長谷川利行と私」『長谷川利行未発表作品集』旺国社1978

註101 内海正性 うつみ まさなり、生没年調査中。本郷で資産家の長男として生まれた内海正性は、家督相続の忌避と絵を学ぶために渡仏、5年間遊学する。在仏中、友人の松岡虎王麿(まつおか とらおまろ、1854(嘉永6)年?‐1964年1月4日)にアドバイスを与え、本屋の二階におしゃれなカフェ・レストランを作ることを示唆、松岡は白山上槙町に南天堂を開業する。南天堂は、当初の思惑をはずれ、アナキストの溜まり場、また日本におけるダダイズムの拠点となる。一方、内海は母の死によって帰国。内海家の分家である桜井家の当主、源一郎と結婚した内海の姉が主導して財産分与を行うが、このとき内海正性は、桜井源一郎に経営が移っていた浅草水族館の二階余興場にレヴューの開業を宣言する。(寺島珠雄『南天堂 松岡虎王麿の大正・昭和』皓星社1999、中野正昭「カジノ・フォーリーとモダン・エイジのアナキストたち」『文学研究論集』第14号2001による)

註102 桜井源一郎 名前のよみ調査中、生没年調査中。内海家の分家桜井家の当主。内海正性の姉の夫。資産家で多数の事業を営み、失敗も多かったという。昭和初期、水族館は仙台の斉藤某のものになり、その経営を任された。(中野正昭「カジノ・フォーリーとモダン・エイジのアナキストたち」『文学研究論集』第14号2001、鈴木克美「浅草公園水族館覚え書」『海・人・自然(東海大博研報)』2003年第5号 東海大学社会教育センター2003による)

註103 溝口稠 名前のよみ調査中、生没年調査中。アナキスト画家、詩人。前衛詩運動の雑誌『赤と黒』に詩「シユマイ」を寄稿。同誌廃刊後、1924(大正13)年、ダダイズム雑誌『ダムダム』創刊同人(発行は南天堂)。内海家所有の千駄木の家作に住む。伊藤新吉「年譜」前田淳一編『萩原恭次郎詩集』報国社1940によれば、1926 年5月、(川浦三四郎編、秋山清、伊藤信吉補足「年譜」『萩原恭次郎全集』1980,82静地社によれば、6月)妻子と共に駒込千駄木町に移る。(この家は内海正治の所有で家賃無料、溝口稠も同居した)とのこと。

註104 五十里幸太郎 いそり こうたろう、1896(明治29)年4月13日~1958(昭和34)年5月25日。上野生まれ。大正末から昭和初期にかけて宮島資夫らと文芸思想運動で活躍。大正・昭和期の小説家、ジャーナリスト。アナキズム文学運動誌『矛盾』を主宰。妹は内海正性の妻。

註105 川島潮 名のよみ、生没年調査中。顔役でブリキ職人。「さよならお八重」というズベ公の愛人があった。(矢野文夫「カフェ「オリエント」と「三橋亭」」『色鳥』第26号1978)木村学司の一軒おいての隣人で、家はブリキ屋であったが、自分から勉強を志して、夜間の中学校を卒業、いちも英語の歌を口ずさんでいた。ロック街の殆んどの主任弁士と親交があった。(木村学司「途上の色―異端の画家長谷川利行」『長谷川利行未発表作品集』旺国社1978)浅草のズベ公や不良の親分。(徳山巍「長谷川利行と私」『長谷川利行未発表作品集』旺国社1978)エンコの軟派として顔をきかしていた。妹が竜泉寺町市電停留所附近に、「微笑み」という小さなスナックを開いた。矢野文夫、木村学司、小沢不二夫、田中陽、山中美一らが毎晩のように集まり、親睦会「超々会」を作ることが決まる。「微笑み」は、毎晩満員の盛況であったが、貸倒れで一年も続かなかったという。(矢野文夫『長谷川利行』美術選書 美術出版社1974)また、ニセ長谷川利行を探し出して追及したという。

註106 矢野文夫『長谷川利行』美術選書 美術出版社1974

バガボンド長谷川利行(2)- 前半」への10件のフィードバック

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  3. はじめまして。私は昔金沢近郊にあった粟崎遊園というレジャー施設について調べている者です。そこには劇場があり、昭和9年以降に村井武生が脚本や演出、舞台監督としてと活躍していましたが、それ以前の村井武生の足跡についても調べております。
    L・L・L玩具製作所については名称と関わりがあることだけ知っていたのですが、そこに関わった人物の書籍があることをこのサイトで知りました。注釈で挙げられている書籍を見ていくことで、東京にいた時代の村井武生について思った以上に手がかりをつかむことができました。どうもありがとうございました。
    誠にあつかいましいお願いではありますが、もし、注釈の書籍以外で村井武生やL・L・L玩具製作所についてご存知のことがあれば教えて頂けると幸いです。
    よろしくお願い致します。

  4. 44◯様 記事を執筆したものです。このたびは私たちのサイトをご訪問いただき、ありがとうございます。お返事が遅れ、申し訳ありませんでした。
    お尋ねのL・L・L玩具製作所につきましてご報告申し上げます。同時期に存在したラリルレロ玩具製作所との関係が、メンバーの重複もあり、後の時期の資料では混同されているように見え、記憶の混乱または組織の分裂によると思いましたが、『定本佐藤春夫全集 第34巻』に「L・L・Lの玩具」が収載されています。
    「僕の以前から知つてゐる村井武生といふ詩を書く男がゐます。村井君は一度浅野孟府君らと玩具をやつたことがあるといふので、何かの拍子に僕の工案した玩具を説明すると、非常に賛成してくれたのです。そして彼等の作つたものを見せてくれたのが、一寸面白いと思ひました。それで又始めやうといふことになつたのです。」(初出は『週刊朝日』15(23) 1929.5.26)
    本記述から製作所創立にかんする疑念が氷解します。「又」とありますが、『児童研究』は佐藤春夫がラリルレロに参加していたと伝えます。(「雜報 ラリルレロ玩具會」『兒童硏究』31(1) 1927.4.25)同会の「顧問には文壇諸大家十數名」との新聞報道があり(「ラリルレロ玩具の會」『讀賣新聞』1927.3.13, 4面)、その1人と見られます。広報誌『三越』では確認できませんでしたが、佐藤春夫はL・L・L第1回の展覧会が大阪の三越で5月22-27日に開催と書いています。三越はラリルレロ以来の筋でしょう。ご承知かもしれませんが、村井武生『明日の手工藝』に「L・L・L玩具研究所は、昭和四年二月に創設されたもので、藝術的な玩具の研究創作とその運動について、當時かなりなセンセイションを興しました。所長は佐藤春夫氏で、著名な藝術家二十數名の援助を受け、舞臺装置家の吉田健吉、彫刻家の淺野孟府、それに私などもそのメンバアの一人でした。東京、大阪及び神戶、京都等の三越や高島屋で、前後七囘の展覽會を開き、割合好成績を收めたのですが、何しろ武家の商法でしたので、昭和五年六月、大阪高島屋の實演展を最後に經營難に陥り、遂に解散の止むなきに到りました。」とあります。(村井武生「「明日の手工藝」覺え書」『明日の手工藝』1932)同書にはL・L・L製の雛人形とギニョールの写真が掲載されています。また、『婦人グラフ』には、台座に「RRRR」の文字が刻されたラリルレロの人形の写真が載ります。(「ラリルレロ玩具」『婦人グラフ』4(5) 1927.5.1)佐藤春夫は「L・L・Lといふのは、Love Laugh and Lifeのことです」と言いますが、「RRRR」から「L・L・L」が発想されたようです。
    粟崎遊園のサイト拝見しました。遊園地のことも大衆芸能のこともとても興味深いです。鉄道終着駅に遊園地や公園緑地を造営するのは、小林一三のアイディアというより、アメリカの鉄道開発を範にしたものと思います。目下、浅草オペラの初期スター・高木徳子のアメリカ時代を調査中ですが、アメリカの大衆文化・大衆芸能史はまだまだ蓄積不足で英文資料の地方史的記述をたんねんに調べる必要があり、骨が折れる作業です。高木夫婦のアルバイト先の日本人村やJapanese Tea Gardenも概ね私鉄終点の公園や遊園地内にありました。
    なお、L・L・Lのメンバーにはアーティストのほか、共産主義者やアナキストも多く参加していたので、その線の資料にも何か有用な情報があるかもしれません。以上、雑ぱくですがご報告です。今後、何か分ればお知らせ致します。

  5. ご丁寧なお返事ありがとうございます。
    確かに鉄道終点駅に施設を建てるのは小林一三のオリジナルアイデアではないですよね。
    L・L・Lやラリルレロ に共産主義者やアナキストが参加していたことは知らなかったので、そちらの方面からも調べてみようと思います。
    高木徳子さんのアメリカでの足跡も大変興味深いです。
    どうもありがとうございました。

    • 44◯様 昨日、国会図書館の抽選が当っていましたので、マイクロ資料を見てきました。
      『週刊朝日』にはL・L・Lの写真図版2枚と玩具展の告知が掲載されていました。(37頁)製作所のスタッフ一覧と後援者一覧が分ります。山本実彦の名もありました。
      また、『アトリヱ』6(8)に創作玩具運動の小特集が組まれており、村井武生「L・L・L玩具に就いて」が掲載されています。(『アトリヱ』6(8)1929.8.1)写真4枚のほか、7月16-21日に三越でマリオネット人形50個を展覧すると書いています。製作所の計画として人形劇の研究と発表、斬新な意匠の家具類、室内装飾の設計、16mmへの進出を列挙しています。また、連絡先は「東京市外板橋町中丸二四一」とありました。「巣鴨宮中」とも「中央沿線高圓寺驛の附近」とも違う住所です。
      同記事によれば、西村真琴がサンデー毎日にL・L・Lのことを書いているようですので探してみます。少々お時間を下さい。取り急ぎ。

    • 44◯様 遅くなりましたが『サンデー毎日』の記事、判明しました。第8年第28号(1931年6月16日号)に西村眞琴「近頃の人形藝術」(pp. 26-27)が掲載されています。内容はL・L・Lの人形と「農民藝術」の話題で、後者については山本鼎の一文と匿名(AB生)の感想記事が載っています。(pp. 27-28)L・L・Lの人形の写真図版が2体分ありました。取り急ぎご報告まで。

      • ikben00様
        教えていただいた『週刊朝日』と『アトリヱ』の記事は私も国会図書館で確認できました。L・L・Lの事で私の方でも何かわかった事があればご連絡させて頂きます。どうもありがとうございました。

  6. 徳山巍の読み方は ”とくやま たかし” です。
    生まれは明治36年(1903)12月12日。亡くなったのは平成3年(1991)1月10日です。
    巍の長男、徹人氏(てつんど)の持っている戸籍謄本からの情報なので確かです。
    アップデート、よろしくお願いします。

    • 坂齊久美子様。この度は貴重な情報をありがとうございました。徳山巍の名前のよみと生没年月日を追加いたしました。今後とも宜しくお願い申し上げます。

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