今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

バガボンド長谷川利行 (3)の1

1件のコメント

熊谷守一という画家がいる。

この長いお話の最初に登場した長谷川利行展の推薦者の一人である。「紙でもキャンバスでも何も描かない白いままがいちばん美しい」(註1)と言い切る画家である。父が初代岐阜市長で衆議院議員、画壇の最先頭に立つ二科会の創立メンバーでありながら、長い間貧乏暮らしをした。熊谷は、長谷川利行の作品に「いい、わるい」という物差しを当てることをしない。また、長谷川も熊谷を自身の守護聖人のように考えていたらしい。(註2)

鋼鐵場 1935年 油彩、カンヴァス 200号 現存せず 『色鳥』第24号より

鋼鐵場 1935年 油彩、カンヴァス 200号 現存せず 『色鳥』第24号より

「長谷川さんは、だいぶ前から來たが、ひとりで來たことがなかつた。誰か友達を連れて來た。後に一人でも來た。

長谷【川】さんの二科へ出した繪では「ガス・タンク」なんかも好きだが、自分には「女」(五十號)の顏が好きだ。どれでも長谷川さんらしい、長谷川さんの繪は好きだ(中略)

醉つ拂つて來て、かよ【かや】(註・熊谷氏令孃)にお菓子を買つてやると出て行つたが、お菓子を買つて歸りに溝に落ちて、溝へ落ちたから浴衣を貸して呉れと言ふので俺のを渡した。秋に美術館でその浴衣を着た長谷川さんに逢つた。俺を見ると浴衣の袖をつまんで、これあなたのを借りてゐます、とモヂモヂして云つた。恥かしがることも知つてゐる。」(註3)

その熊谷榧(註4)氏が書いた「父守一年譜」によると、次の通り。なお、文中「モリ」とあるのは、熊谷守一のこと。

「一九三一年(昭和6)五十一歳

(中略)少しでも日当たりのいい家をというので、池袋の近くに借家を替ったが、生まれて十日目から発熱していた茜の病気は一向好転しなかった。

この前後十年間ぐらい、モリは二科会の研究所に週一度、絵を教えに行っていた。車代として二科会から三十円貰っていたが、家賃が三十円だったから、どうやって暮していたのだろう。夕方、絵具箱を肩に帰ってきたモリが、わたしに赤いゴム靴をみやげに買ってきたのをおぼえている。

この頃家にきた人々は、二科の研究所に通っていた絵かきが多く、ドヤ街の絵かき長谷川利行や、後に山小屋をはじめた高橋達郎(註5)など。また、国鉄の機関区に勤めていた何とかいう人は、子ども達に高価なおもちゃをくれたりしたが、戦後消息が知れないから戦死したのかも知れない。

一九三二年(昭和7)五十二歳

茜が死んでから、池袋の現在住んでいる千早町の畑の中に小さな家を建てて引越す。引越しのきらいなモリは、それ以来ここを動かない。

(中略)

一九三五年(昭和10)五十五歳

四月、次女榧の小学校の入学式に、珍しくモリがついて行き、他人の間できょとんとしていた私を見て、死んだ次男陽を思い出し、帰ってから涙を見せていたと母が話していた。

絵のきらいな兄と違って、私は子どもの頃から絵が好きだったが、モリにはいつも、「榧は小学校へ行く前まではよい絵をかいたが、小学校に行ってから駄目になった。」といわれている。

その駄目になる前だったか、家にやってきた長谷川利行が、私の絵と自分の絵を交換したことがあって、今でも利行の暗い小さな裸婦が私の手許にある。」(註6)

「長谷川が溝に落ちる」の話を、寺田政明の証言から聞いてみよう。

「私が池袋の長崎村(今の立教大付近)に住むようになってからも、長谷川はたびたびたずねて来て泊って行った。気が向くと、精神がはっきりしてきたといって、私の古カンバスを引っぱり出して制作した。二科に「ガスタンク」の大作を発表した後に、「割烹着」をすごい早さで仕上げ二科(昭和九年)発表したが、これらの作品は消滅している。「ガスタンク」は逢染橋の坂の彩美堂の裏で水をくむように両手にバーミリオンをたっぷりもらって一気に描き上げたのを、私は手伝いながら見た。

一度長谷川は私と夏の夜に熊谷守一さんをたずねたことがあった。途中で酔った長谷川はドブにころげ落ちてしまったが、熊谷さんから着替えのゆかたをもらったりして、ひどい迷惑をかけたのを覚えている。昭和九年頃である。」(註7)

「私の家の近くに熊谷守一さんのアトリエがあった。長谷川は熊谷守一さんを心から尊敬していた。その頃は街灯がないので夜は暗く酒も手つだって、訪ねる途中ドブにころげ落ちて、熊谷さんの着替えのゆかたをもらってひどく迷惑をかけたりしていた。その帰り池袋の「テ【デ】イゴ」というアワモリ屋で柿手春三や小熊秀雄(註8)、桑原実(註9)達とよく飲んだ。」(註10)

当の熊谷は、寺田にちなむこのような話を伝えている。

「長谷川さんにはいろんな話がある。長谷川さんが寺田(註・友人の畫家)の大家から、いちばんいい下駄をもらつた。長谷川さんはその下駄を履かないで、質に入れて呑んでしまつた。下駄まで呑んでしまふ、それが面白い。」(註11)

池袋のご近所である柿手春三によれば、長谷川の「溝におちる」は、毎度のことだったらしい。

「真夏のある日、ひょっこり長谷川利行が訪ねて来た。

この日、利行さんはよれよれのめくら縞(じま)の単衣(ひとえ)に茶色になったカンカン帽を着用、少し汗くさいがその眼光は鋭く、八の字ひげの顔は端正であった。利行さんは「熊谷守一先生を訪問するので一緒に来い」という。寺田政明は所用があって結局私が同行することになった。

やがて熊谷先生宅に近くなると利行さんは突然よろけて道路わきの小みぞに落ちてしまった。ズブぬれのまま熊谷先生の門をたたくと、玄関に出た熊谷夫人は利行さんをていねいに、少し笑いをおさえたようすで迎えた。そしてすぐ奥から上等のゆかたと帯を持ち出して着替えをさせた。アトリエでは、かねて聞いていた通りコップに水、それに熊谷先生の袋から生米が少しずつ手渡された。久しぶりという割に大した話もなく帰ることになると、利行さんは玄関で夫人に「この帽子代わりに―」といってそのまま外に出た。私はいささか困ったが、夫人のさわやかな笑顔を見てほっとした。

利行さんは帰る道すがら、それがクセの片手を口にあてて「柿手氏すまん」といって「ホホホ」と笑った。打ち合わせどうり寺田政明と地蔵堂で落ち合うと驚いたことに利行さんは金のないクセに、ハダ身離さず持っていた三つ折れ財布から五円札をとり出してソバとビールをごちそうしてくれたのである。

パリパリのさつま上布を着て、さっそうと行く利行さんの姿が街に消えると、寺田と私はこみ上げるおかしさをいつまでもおさえることが出来なかった。」(註12)

なお、柿手の別の証言では、熊谷邸での話は次のようなものだったらしい。

楽器のある部屋 制作年不明 水彩 16.0×21.3cm 『放浪の鬼才日本のゴッホ長谷川利行』展図録より

楽器のある部屋 制作年不明 水彩 16.0×21.3cm 『放浪の鬼才日本のゴッホ長谷川利行』展図録より

「アトリエへ通されて、わたしゃ、さあこれからおもしろい話がはじまるぞ、とわくわくしとったんじゃが、それがいっこうに始まらんのんですよ。熊谷先生が“展覧会のまえのいそがしいときにようきたな”いうと利行さんが“二百号描いとります”いうて、口に手あててオホホと笑うてそれでしまいですよ。ものの十分くらいですよ。」(註13)

薩摩上布とは、その名が示すような鹿児島県西部産の織物ではない。現在では、産地に基づく正当な名前「宮古上布」と呼ばれるが、きわめて高価な麻織物のひとつである。1583(万暦11)年、宮古島の上地与人(ゆんちゅ)迎立氏の娘稲石(いないし)刀自(とぅじ)(註14)が宮古上布のもととなる織物、綾錆布(あやさびふ)を織り、 尚永王(註15)に献上したのが始まりといわれる。『宮古史傳』によれば、洲鎌与人(ゆんちゅ)下地親雲上(べいちん)真栄(しんえい)(註16)が、「公用を帶びて中山に上國し其の皈航【引用者註・皈は、き、かえる。帰に通じる】の際逆風に逢つて明國に漂着したが遇々琉球の進貢船が廻航したので請ふてその船に乘せて貰ひ皈國の途に就いた。すると洋上で又風波に襲はれ勒肚綱(ろくとうつな)が切れて船体の自由を失ひ危機に瀕した。時に眞榮は水練に巧であつたので、直ちに激浪中に身を躍らし怒濤を蹴つて勒肚綱を貫き替へ、一行は無事に皈國することが出來た。同乘の進貢使等は洋中での眞榮の壯擧を國君尚永王に言上したので、王はその功を賞して下地の頭役を授けた。眞榮は身に餘る光榮に浴して皈島したが、其の夫人稲石は君恩に報いやうと一身を捧げて綾錆布(あやさびふ)を製出した。眞榮は之を王に献じ大いに賞せられて天正十一年【1583(万暦11)年】には親雲上の位階に列せられた。爾後例年之を献上したが、後には税賦の内に加へられて貢納布となつた。」(註16)

熊谷榧氏によれば、熊谷守一の「金銭欲、所有欲の少ないことは並はずれていて、人を押しのけて自分から恵まれた地位につこうとすることなど全くなく、大切にしているパイプでも花でも、人が欲しいというと、自分の持っている中で一番気に入っているものを人にやる」(註18)のだという。

熊谷は言う。

「長谷川利行とは、ひんぱんに付き合いました。これはよく知られているように大変な変わり者で、私の家に遊びに来ていたころもひどく貧乏のうえにめちゃくちゃなことばかりやっていました。(中略)彼は家もありません。画家仲間もゼニがないと相手にしないような人がいて、一部の人のところだけ行っていたようです。酒が好きで酔うと同じことばかり繰り返す。自分一人でさんざんしゃべったあと、もう帰るゾといって外に出て、しばらくするとまた戻ってきてさっきと同じことを繰り返すというふうでした。」(註19)

二科会の中でも、長谷川を「認める」者と「認めない」者が別れて、そのはざまにあった者は苦労したようだ。東郷青児などは、先輩同士のやりとりの中で気苦労した一人で、長谷川を好きだと公言する熊谷守一は、二科会の中で、よくいえば超越した立場、悪く言えばいないも同然の立場にいた。その東郷の証言は次の通りである。

「長谷川利行の絵を見ると正宗得三郎先生の顔がすぐ浮かんで来る。

一番最初,二科の審査で長谷川利行の絵を支持されたのは正宗先生だけだった。ほとんどの先生方が嫌っているのに,正宗先生だけが激賞して一歩も後に引こうとされないので,末輩の私など,ただおろおろするばかりだった。」(註20)

ただし熊谷は、長谷川の見かけのナイーブさの裏側、心の奥底にある出世志向を鋭く見抜いていた。

「当時長谷川は浅草附近の木賃宿にごろごろして絵を描いていた。いわばルンペン生活である。酒が好きな男だったが,それも当り前の酒ではなく,安い焼酎ばかりを飲んでいた。

私のところへはじめて訪ねて来たのは,たしか二科へ出していた頃だろう。酒が入らないとまともに人の顔が見られず,何時までもうつむいているような内気な男であった。

酒場ではよくゴールデン・バットの空き箱やボール紙に絵を描いては客に売って飲んでいたそうだ。案外義理がたいところがあって,人に何かさせると必ず画をくれたものだ。これから絵を売りに行くのだが,そこまで行く電車賃がないから借してくれと言う。借してやると,ではこれをとってくれと他の絵をさし出すのだった。

長谷川はあれで結構名誉も金も人並みには欲しがっており,決して世の中から超然としているばかりではなかったが,長谷川の生活環境そのものが,それを不可能にさせていた。画商に連れられて大阪へ行き,そこで大分稼いだらしく,赤い着物を着て得意になっていた一時期もあるが,それも永続きしなかった。そういう破綻の多い性格が安井曾太郎(註21)氏などにはひどく嫌われたものだ。」(註22)

長谷川が熊谷宅を訪れるのは、きまって二科展の前で、平沢や萩原がすすめた御機嫌伺いの時期であり、当然、二科会の会友または会員への推薦をあてにしたものであった。ただし、長谷川の行動などはかわいいもので、芸術院会員ともなれば、「実弾」が飛び交ったらしい。(註23)

動物園風景 1937年頃 油彩、カンヴァス 45.0×53.0cm 石橋財団石橋美術館蔵 『歿後60年長谷川利行』展図録より

動物園風景 1937年頃 油彩、カンヴァス 45.0×53.0cm 石橋財団石橋美術館蔵 『歿後60年長谷川利行』展図録より

江戸期に導入された西洋画の技法は、明治維新以後定着する。美術品の直接の主要な目的は室内装飾であり、遅れて投機の対象となる。しかしながら、日本における住宅と生活様式の西洋化はきわめて緩慢であり、洋室が住居の主体になるのは、高度成長期まで待たなければならない。「日本では廊下に繪を飾るやうな不埒な事はしない。ちやんと「床の間」と云ふものがあつて、座敷の中に陳列するのである」(註24)とあるように、和室に西洋画を飾るのはなじまない状況があった。美術品市場も、日本の美術商は、古物商、古美術商と分かちがたく発展してきた経緯があり、本格的に西洋画を取り扱うのは、昭和戦前期の画廊の創立を待たなければならず、同時期に百貨店美術部も活動し始める。(註25)しかし、店舗を持たず風呂敷包みに美術品を入れて、お得意回りをする外商形式の「風呂敷画商」と呼ばれる商業形態も多く、かつ有力な存在であったらしい。(註26)

また、古美術品や工芸品以外の作品の国外への輸出もきわめて限られており、狭隘な国内市場を対象とせざるをえなかった。明治国家を最先頭に、植民地を含めて、権威、権力の象徴としての建築作品とその室内外装飾を目的とする西洋風美術品需要はあったが、限定的なものであり、一部の富裕市民層を除けば、十分な市民的需要も準備されていない。こうした中で、毎年洋画家が生まれ、供給量が増加してくるのに対し、需要量が対応しない構造が定着する。大家と呼ばれる先行する作家群にとっては、制作物の販売市場の確保が死活的な要件となった。このため、美術界の中心かつ先端的存在となること、美術教育を独占的に支配すること、そして、有力な画家群と国家や富裕市民との間で寡占的市場を形成することが競争の意図となり、至上目的となった。各種画会がこのためのギルドであると考えることは、十分に現実的だろう。

多くの洋画家たちは、当時の国際的「画壇」の中心と考えたフランスを目指す。渡仏経験により、新技術を導入し、自らの国内での地位がより上位に順序づけられることが可能になると考えたからである。長谷川利行も、1934(昭和9)年、友人の画家である荒井龍男(註27)の洋行を祝福したという記録がある。以下に引用するのは、荒井による長谷川を追悼する散文詩である。

「やきとり、質屋、電氣ブラン、瓦斯タンク……そんなものが僕の頭の中をかすめた。何と云ふこともなし君とは長い間逢はずにゐた。もう何年前であつたらう。十年もの歳月が一瞬の如く目の中を走る。雜布のやうな浴衣を着た赤黒い顔が、現れる。その頃君は下谷に住んでゐた。がらがらした長屋の二階の三疊で、君はびらびら燃え上るやうな熱情を畫布に叩きつけて八十號に「瓦斯タンク」を眞赤に描いてゐた。パレツトも使はず、筆先にびゅっと繪具を搾出したかと見るや、息もつかず色が走しる。左手に持つたチユーヴが踊るやうにキヤンバスの上へ火を吐く……。君は間もなく外に出やうと云つた。(中略)

あの時僕の連れは之も今は亡き薄倖の詩人小松鳳三(註28)であつたが、小松が泥溝の揚蓋を踏み外して靴をとられてしまつた。君は暗闇の中で泥溝に手を差込んで、しばらく掻き廻はした。そんなことがあつた。(中略)

何と云ふ店だつたか、君は僕の歐洲行を心から祝つてくれて、電氣ブランと云ふものを飲ませた事がある。僕にはとても之れは怖はかつた。やつと一杯飲んだかどうだつたか……君は盃を重るにつれ、段々元氣になつた。救ひのない絶望に沈んだやうに深くうなだれた。あの小心な含羞屋の、おどおどした目、ストイツクな感情をおし秘して、物言はぬ不幸な友は、醉ふ程に頭をもたげてくるのだつた。君の口は傲岸不遜に歪められる。君はその頃酒なしには過ごせぬらしかつたが、今思ふとその電氣ブランが君の命取りだつたのじやないか。酒氣のない君に對座すると何時も僕は息苦しかつた。何故つて君は餘りに慇懃であつたから。それは時として卑屈にさへ見へた。それが僕をよく苛立たせたものだ。人生の苦惱と戰ひながら世に容れられずして死んで行つた藝術家は多い。君もその一人だつた。洗ふが如き貧困の中で君は常に群集と共に孤獨だつた。君はじめじめとした濕地に立つてゐる蒼ざめた馬の如く、しよんぼりと憂鬱だつた。

魂の家郷を求めて中穹をさまよひ廻るやぶれ凧のやうな君。」(註29)

街景 1937年頃 油彩、板 24.4×33.3cm 宮城県美術館蔵 『歿後60年長谷川利行』展図録より

街景 1937年頃 油彩、板 24.4×33.3cm 宮城県美術館蔵 『歿後60年長谷川利行』展図録より

荒井と長谷川の出会いは、どの時代にさかのぼるのだろうか。次の詩は、荒井が小松鳳三らと刊行していた『牧羊神』に収載されたものである。頭文字「H」で示された人物がおそらく長谷川である。掲載号の出版年次は1932(昭和7)年10月である。この年の夏、荒井は、東京の里見勝蔵を訪問、9月には、はじめて二科会に入選する。(註30)この年の二科展への長谷川利行の出典作品は、「ガスタンクの晝」「水泳場」「女」の3点(註31)。荒井が小松を伴って長谷川の下谷を訪れたときに描いていた「瓦斯タンク」の絵が出展した「ガスタンクの晝」であろう。この9月、荒井は、勤務先の朝鮮総督府通信局保険課の職を辞し、画業に専念することになる。二科展には洋行の年、1934(昭和9)年まで連続出展、朝鮮美術展には、同じく3年連続で出品、1933(昭和8)年には、「海峡ヲ渡ル」で特選を受賞している。(註32)荒井に長谷川の死を告げたのは、里見勝蔵であり(註33)、二人は里見宅で出会った可能性が高い。そして、長谷川との出会いが、荒井の画家としての生き方に影響を及ぼしたことは想像に難くない。

「黄昏の裏通り薄明り

カタカタとカタカタと

チンドン屋の車は鳴り

下谷の裏店(うらだな)の子が馳けつける。

ゆれるゆれるゴム風船

居酒屋の角でぽっかり

電氣ブランに醉った顔の「H」と云ふ繪描き

冷い「やきとり」の櫛をそっとにぎらせる。

風吹いて

暮れる町の鋪石の上に娘がひとり

裾を爬合せてゐる

ふと消えたおでん屋の提燈。

煤けた貨車がヨチヨチと車庫に近づいて停る

無表情なノワイエの横顔。

だらだら坂の上から馬の顔がゆらゆら降りて來る

カタカタとカタカタと

チンドン屋の姿はもう見えぬ。」(註34)

長谷川自身もフランス行きを望んでいたことがある。

「二科會の長谷川氏が今度渡佛研學の資の一助とする爲畫會を起した。大きさはサムホール板から十五號迄で價格は二十圓から百圓迄八種類ある。申込所は東京市下谷區谷中阪【坂】町二一彩美堂氣付長谷川利行宛。」(註35)

もっとも海老沢省象(註36)によれば、「あの頃も洋行ブームでね、ちょっとフランスへでも行って来れば立派な先生なんだな、だからネコもシャクシも行ったわけ。で、噂によると利行も「フランスへ行く」と言って金を集めたらしいんです。集めた金が翌日まであるわけないのに。宵越しの金は持たずっていうんじゃないんですよ。宵越すほどの金が集まりやしないってこと。だってそうでしょう。一時間も二時間もかかって、一円じゃあ……。しかし、フランスへ行った人よりいい絵描いてますよね。「銀座風景」(国立近代美術館蔵)(註37)なんて、下手な滞欧作より、よっぽどいいですよ。」(註38)

銀座風景 制作日不明 油彩 49.0×59.5cm『三彩』413号より

銀座風景 1937年頃 油彩 49.0×59.5cm『三彩』413号より

新宿風景 1937年頃 油彩、カンヴァス 46.0×53.0cm 東京国立近代美術館蔵 『歿後60年長谷川利行』展図録より

新宿風景 1937年頃 油彩、カンヴァス 46.0×53.0cm 東京国立近代美術館蔵 『歿後60年長谷川利行』展図録より

長谷川は、有力な寡占的ギルドの構成員になることを拒否される。パリに行けるほどの金も集められない。このため、自ら購入者の元へ赴き、手売り、押売りという形態で作品を売り歩くことになる。一種の生産者直売である。

長谷川による多くの「被害者」がいるが、その代表者として東郷青児の証言を取り上げる。

「私の家の玄関に座り込んで,絵を買わなければ金輪際動かなかった。根負けして僅かばかりの小銭を摑ませると,最敬礼して引き下がるのだが,四五日すると再び現れて,絵に加筆したいからといって持ち出し,それを他に売り飛ばすということを再三ならずやった。

まるで絵の値段などとはいえないような零細な金だったから,被害をこうむったという意識はなかったが,その手口はまことに言語道断で,長谷川が来ると,女房も女中も鳴りをひそめて玄関に出ようとはしなかった。」(註39)

「そりゃあ、ぼくのところへも何度も来たよ。穢い服装、チビた下駄、ぼうぼうの髪だろう。ぼくのいるときはまだいいが、留守に来られると家内も家の者も驚いてしまって、とにかく恐がっていたよ。来るたびに五円、一円、何度も来られれば、五拾銭くらいに渡す金は少なくなったさ」(註40)

一方では、長谷川の作品を評価するコレクターも多く、幸福な関係を結んだ者も多かった。詩人として長谷川を支えた前田夕暮、稀代の近代詩集のコレクターであり、自らも絵を描いたミツワ石鹸の衣笠静雄(註41)、医師の鈴木達夫(註42)、紺戸廉平(註43)、郵便局長の今泉義雄(註44)、編集者の桜井均(註45)や彩美堂の土肥円修(註46)も忘れてはならない。先に紹介した質屋も思い出されたい。古い時代に公表されていた所蔵者のリストを見ると、さらに広範な個人や機関の名前が見える。初期には、父長谷川利其の紹介で、大野重昭(註47)、浜口儀兵衛(註48)、梅津勘兵衛(註49)、神林虎雄などのパトロンがいた。長谷川利其は、熊谷守一にも手紙を書き、息子の後見を依頼している。

神林国士の像 1935年 油彩 64.0×44.5cm『放浪の鬼才日本のゴッホ長谷川利行』展図録より

神林国士の像 1935年 油彩 64.0×44.5cm『放浪の鬼才日本のゴッホ長谷川利行』展図録より

しかし、相対取引による売買によっては、思うような価格形成が不可能であったことも事実である。東郷のように「絵の値段などとはいえないような零細な金」しか支払わない購入者も多かったし、「貧乏画学生へ三十銭、五十銭で売りつけて暮している」(註50)というように十分な支払い能力を持たない購買層も多かった。こうした中では、材料原価の回収も生活の維持も困難であったに違いない。ただし、長谷川の驚異的な生産性により、廉価多売で、ある程度の販売額総額を確保できる可能性を持っていたのは事実である。

1966年、ウィリアム・J・ボウマル(註51)、ウィリアム・G・ボウエン(註52)によって発表された『Performing Arts The Economic Dilemma』(MIT Press paperback edition)は、舞台芸術をケースに市場経済による法則の貫徹によっては、芸術的パフォーマンスが成立しえないか、あるいは、不十分にしか成立しないことを論証し、公的支援の必要が絶対的であることを証明した。(註53)これによって成立した文化経済学(cultural economics、Économie de la culture)は、各種美術作品にもあてはめて考察するだけでなく、導き出された「ボーモルのコスト病(Baumol’s cost disease)」という概念を他の産業部門にもひろげ、病院や大学のような公共サービスの経済学的解析にも適用を拡大していく。(註54)

さて、熊谷のいう浅草附近の木賃宿についてであるが、平沢宅を出た1935(昭和10)年以降の長谷川利行の居所について、矢野文夫は次のように書いている。

「浅草の東京市設竜泉寺町宿泊所は、鉄筋コンクリート五階建ての殺風景な建物であった。竜泉寺といっても、三の輪の市電車庫に近い所である。長谷川利行は昭和十年頃から、十二年に新宿旭町の木賃宿に移るまでここにいた。」(註55)

当時の木賃宿については、1922(大正11)年3月23日現在とやや古い統計だが、東京市社會局『東京市内の木賃宿に關する調査』(註56)が、まとまった統計情報を提供してくれる。それによれば、東京市内の木賃宿に居住する「畫家、彫刻家」の総数は12名、市外を含めれば13名である。なお、同じ統計によれば、公務員は501名も木賃宿に居住していたことが分かる。

東京市龍泉寺町簡易宿泊所(建築写真)建築學會『東京横浜復興建築図集1923-1930』丸善1931より-私立近現代建築資料館(復興建築の世界)サイトによる

東京市龍泉寺町簡易宿泊所(建築写真) 建築學會『東京横浜復興建築図集1923-1930』丸善1931より 私立近現代建築資料館(復興建築の世界)ご提供による

竜泉寺宿泊所は、関東大震災後に造設された仮設住宅にかわる恒久的建物として1929(昭和4)年7月に竣工された施設で、同年9月5日に供用開始となったが、1935(昭和10)年6月22日付で廃止が宣言され(註57)、翌1936(昭和11)年からは、女子専用の施設となっている。したがって、少なくとも1936(昭和11)年から1937(昭和12)年に長谷川が宿泊することは不可能である。また、5階建というのも正しくない。天城俊彦(註58)が「鐵筋六層」とするのも事実と違う。(註59)残された図面を見ると、4階建であり、最上部の庇にRをもつ復興建築の特徴を備えたモダン建築である。(註60)当時の長谷川の居所は、彼の美術家年鑑への登録によると、1935(昭和10)年には、「浅草區山谷町四ノ六鷹木方」(註61)である。同年の二科会の出品者住所は「東京市浅草區山谷町四六(鷹木方)」となっている。(註62)同住所への移転の日付をさらに特定するのは、1935(昭和10)年8月発行の『みづゑ』、「長谷川利行氏 淺草區山谷町四ノ六鳶木方へ轉」とする記事である。(註63)記事は長谷川の通報によるものと考えられ、竜泉寺宿泊所の閉鎖の時期とほぼ一致する。

そして、微妙な差異は誤植または誤読の結果と考えられるが、山谷町4-6の住所こそが木賃宿「紅葉館」の住所である。鷹木(または鳶木)とはどのような人物であったか。長谷川がこれまで公式の住所に選んだ例を見れば、長谷川の連絡先となる信頼できる人物、パトロンの一人と考えられるが、鷹木に関しては、矢野文夫以外に記載する人物はいないため、これを引用する。

「雑居生活だから、空巣やかっぱらいや泥棒と同居することもある。長谷川も一度、運送業と自称する鷹木という男にまんまとひっかかった―というのはちょっと変なのだが―ことがある。この男、北千住で運送屋をやっていたが、女房と別居し、独り暮らしでつまらないからここに来て泊っている、と言い毎晩近所のバーや酒場に長谷川を連れてゆき、豪遊する。長谷川も男の言うことを真にうけて、毎晩酒びたりでよい御機嫌であった。ドヤのおかみが、コッソリ長谷川に、鷹木はクサイからおごられてはいけないと注意するのだが、「いや、そんなことはない。鷹木は千住の運送屋だし、古い南画のことなんかよく知っている。インテリだから大丈夫です」と言って、肯かなかった。鷹木は毎朝、出がけにそっと小銭を置いていってくれるし、長谷川はいい人間だと言って信用し切っていた。

結局、ある早朝、長谷川の部屋は二人の刑事に寝こみを襲われ、日本堤警察にあげられた。鷹木は元は沖仲仕であったが、ここ半年ばかりの間に身を持ち崩し、倉庫専門の泥棒をやっていたのである。長谷川は、鷹木が紅葉館に泊るようになってから約六ヵ月、毎晩酒をおごられ、小金も貰っていた。いわば共犯である。紅葉館のおかみも参考人に呼ばれたが、「長谷川は二科会の偉い絵描きさんで、少し変人であり、鷹木の素性など全く知らずにおごられていた」ことをよく弁解してくれた。おかげで長谷川は、五日ばかり臭い飯を食っただけで、釈放された。」(註64)

執筆年代のより古い、矢野文夫編纂『夜の歌(長谷川利行とその藝術)』に収められた年譜によれば、「昭和十二年 五月、伊豆大島に遊ぶ。二科二十四回展に「夏の女」「ハレルキン【ハルレキン】」出品。これ二科展最後の出品なり。淺草泪橋附近の木賃宿に、空巢ねらひ、土方、淫賣婦などと同居す。同宿人が泥棒とは知らず酒などおごられしこと三ケ月。」(註65)とある。これが、矢野が後に記載する「鷹木」の一件のことと考えられるが、『日本美術年鑑』、『二科展目録』、『みづゑ』に記載された事実と、矢野の記述を勘案すると、時期的に1937(昭和12)年の事実とは考えられない。矢野の記述には著しい錯綜がある。

それでは長谷川が簡易宿泊所、あるいは木賃宿に宿泊していたことを「目撃」した同時代の人物の証言を集めてみよう。証言の性質上、場所と時間があいまいなのは計算に入れつつ、長谷川の足どりをたどるべく試みる。

麻生三郎の証言。

「彼が谷中龍泉寺の宿泊所にいたとき訪ねたが、二畳の彼の部屋の押入にはちいさい油絵や水彩画が山ほどあってそれをひっぱり出して見せてくれた。その時この絵は私の初期の仕事でしてといって十五号位の風景を見せてくれた。遠方に森があって夕方の原っぱの風景で赤い着物の子供がすみの方にかたまって遊んでいる絵であったが、そのよさは忘れることができない。」(註66)

吉井忠の目撃報告。

「私が知っていた頃は浅草山谷にあった木賃宿に寝泊りしていたんですよ。三畳程の何もない部屋の壁にデッサンが何枚か貼ってあって、これがまたいいデッサンでした。雨の日以外は朝の八時になるとそこを追い出されるんです。だから訪ねていってもいるわけはないんですが、上がっていっても部屋には何もなく押入の中に茶色になった柳行李がひとつあるきりで、中にはぎっしりつまったデッサンと着物の切れ端しかなかった。」(註67)

「いつだったか麻生三郎と一緒に下谷の竜泉寺の簡易宿泊所へ行ったことがあります。ここは日雇い労働者の泊まる所で、朝めしが終ると外へ出ることになっているのです。何時頃でしたか、宿泊者が出払った後でした。そんな場所ですから戸は開くのです。好奇心も手伝って入ってみると、暗い部屋の中にとてもいいデッサンが貼ってあるのです。晩年のように派手な色でなく、プルシャンブルーなんかのがですね。そっと押入れを開けてみると、黒い汚ない行李なんかがあって、まさか中を見るわけにも行かないのでそのまま帰って来ましたけどね。会えなかったのは残念でした。」(註68)

浅草龍泉寺附近の景 1939年 油彩 35.0×27.0cm『放浪の鬼才日本のゴッホ長谷川利行』展図録より

浅草龍泉寺附近の景 1939年 油彩 35.0×27.0cm『放浪の鬼才日本のゴッホ長谷川利行』展図録より

寺田政明は、座談会で、竜泉寺の簡易宿泊所の二階に長谷川がいたという矢野文夫の発言に続けて次のように回顧する。

「僕もそこをたずねたことがある。麻生や吉井もそこにいった。狭いへやにデッサンがはってあるだけでなにもないんだ。油絵も一点あったかな。押入れをあけたら、茶色のコウリが一つはいっていた。ふたをあけたらノートみたいなものや着物みたいなものがはいっていた。」(註69)

「私も「リリオム」で個展を開いてた。

利行は当時、龍泉寺の簡易宿泊所に泊っていまして、泊っているとはいうけれど、安酒飲んで、行きあたりばったり、野宿も平気でするような生活でしたが、利行も「リリオム」で個展などをして、何となく、谷中の画家仲間のそういうつき合いで知るようになったんですね……。(中略)雨の降る日は居っていい。日雇労働者の宿泊所だから……。雨の降る日、そこに利行を訪れたことがあるが、三畳ぐらいの部屋に、小さな行李と二十枚ぐらいのデッサンを前に、壁に向って独りショボーンとしていた姿を思い出しますね……。

壁に一匹の蛾がピンでおしてあったのがいまも印象深い。

僕が九州から出て来て間もなくの頃でした。九州から出て来て、新宿の同舟舎に行きましたが、しばらくして谷中の太平洋に移って間もなくの頃です……。」(註70)

「その頃浅草龍泉寺の簡易宿泊所に彼は茶色の柳行李(ごうり)一つの生活をしていた。日中は雨の降らぬ限り在宅は許されぬのであった。大雨のある日、私が彼の宿泊所をたずねると、彼は三畳の隅で腕をくんでいた。私は瞬時胸がドキリとした。壁に蛾が一匹針でさしてあった。こんなどうしようもない寂しさが、彼を絵を描くことに夢中にさせていたのだろう。」(註71)

寺田が太平洋画会研究所に入所したのは、1929(昭和4)年4月、リリオムの開店は1931(昭和6)年10月25日、リリオムでの最初の寺田の個展は1934(昭和9)年6月(「寺田政明年譜」『寺田政明回顧展』図録 板橋区立美術館1979)である。寺田が簡易宿泊所の長谷川を訪れたのは、この期間ということであろう。

寺田らと辻ハウスの中村金作の部屋でデッサンをしたこともある詩人の高橋新吉(註72)は、次のように回想する。

「彼は、三河島辺の都営の宿泊所にもいたことがある。一日彼を訪問すると、洋館の2階の大広間に、私を連れて上がった。昼間は働きに出て、だれもいないのである。長谷川の持ち物は、ふろしき包みと、パレットと筆だけのようだった。

内庭があって、百号ぐらいのカンバスを、長谷川は、コンクリートの壁に立てかけていた。銭湯のように広い浴場があった。長谷川がすすめるので、2人で沸き立ての新しい湯にはいった。彼の裸体を見たのは、その時初めてだが、ナデ肩で、カタブトリの筋肉をしていた。長谷川は幸福そうに、手ぬぐいを腰部にアテテいた。」(註73)

彼の小説作品では、次のように描かれる。上記の思い出の補足となるだろう。

「ハセガワ【長谷川利行のことらしい】が下谷の市民館にいる頃だった。前から遊びにこいこいといっていたので、ある日竹井【高橋自身のことらしい】は訪問した。鉄筋コンクリート建の大きい洋館だった。ハセガワは折よくいて、彼の室へ竹井を案内した。清潔に掃除の行きとどいた感じで、ハセガワも、割にシャツなど洗濯したものを着ていてキレイだった。昼間だったが、彼の室には誰もいなく、ハセガワの荷物らしい荷物もなく、庭に出て、ここで絵を描くんだなどとハセガワは話した。風呂が沸くから入って行けと言われるままに、竹井はハセガワと一緒に、市民館の湯に入ったが、風呂場は銭湯のように広く、キレイで、二三人しか人もいず、二人はのんびり湯から出て、ハセガワのねる部屋で休んだ。竹井はハセガワが至極楽しそうに見えた。木賃ホテルなどよりいくらかましかもしれぬ。しかしながら、何という欲のない男だろう。結婚もせず、市民館の一室に陣取って、最低の食事で甘んじて、孤独な生活を送っているハセガワを、竹井は、無気力過ぎると思って、決して羨む気持は起らず、それからはたずねなかった。」(註74)

東京市龍泉寺町簡易宿泊所(平面図)建築學會『東京横浜復興建築図集1923-1930』丸善1931より-私立近現代建築資料館(復興建築の世界)サイトによる

東京市龍泉寺町簡易宿泊所(平面図) 建築學會『東京横浜復興建築図集1923-1930』丸善1931より 私立近現代建築資料館(復興建築の世界)ご提供による

一方では、海老原省象による次のような証言もある。海老原は、1937(昭和12)年ころに長谷川に初めて出会った「新参組」であるから、この話もそれ以降のこととなる。

「行李の中に、絵をたくさん入れて持って歩いてたなんて伝説があるそうですが、そんなことはないと思いますね。もしあれば、誰かの所へ行って売りつけるもの。彼は、今描いたものは今日のメシにするんですよ。でも、嫌いなやつには渡さない。彼を知っていて、讃めてくれなきゃね。売り損なったのを風呂敷包みに入れてはいただろうけど……。

何か大変なお金を貯えて、貯金通帳を風呂敷包みに入れてるって噂もあったんですよ。それで包みを開けてみたら、そんな絵だとか、雑誌の見本刷りなんかばかり入ってる。ルナアール(註75)の写真版なんか……。それスケッチブックにしてたんですよ。あとは雑記帳……友人の所書きなんかをメモしたもの。それから手拭い。歯なんか磨かないから、歯ブラシはない。石鹸もないな。それから髪も梳かさないから櫛もない。

その当時は、三【山】谷とか三河島あたりの木賃宿に泊まってましたね。僕も一回泊まったことがありますが、身分証明も何も要らないで、すぐ泊まれるんですよ。十銭もしなかったんじゃないかな、宿賃は。」(註76)

最後は、竜泉寺の鈴木医院、鈴木達夫医師のご子息鈴木大吉(註77)氏の証言である。

「小生の父は、戦前、下谷区竜泉寺町で医者を開業していました。

母の話では、昭和の初め頃、長谷川利行さんは毎日のように家に来て、断りもなしに台所に座り込んで、酒瓶を取り出しては一人飲んでいました。

そして、近くにある使い古しの紙の裏に絵を描いては置いていったそうです。その頃、長谷川利行さんはわが家の近くの下谷竜泉寺の東京市設宿泊所をねぐらにしていたようです。

あるとき、母が「長谷川さん、あなたの絵は何が描いてあるかよく分からない、私にも分かる絵を描いてきてちょうだい」といったそうです。

ほどなくして、「奥さん、これなら分かるでしょう」といって持ってきたのがこの「富士」です。

昭和、4,5年の頃ですね。母も「これなら分かるね」といって眺めたそうです。写真がそうです。

小生が少年の頃、母は、「長谷川さんの絵は目を細めて見るのよ」と言っていました。そうすれば分かるでしょうと、よく言っていたのを思い出します。」(註78)

下町の少年像 1935年 水彩、紙 22.7×13.7cm 個人蔵 『歿後60年長谷川利行』展図録より

下町の少年像 1935年 水彩、紙 22.7×13.7cm 個人蔵 『歿後60年長谷川利行』展図録より

「長谷川利行の「下町の少年」1935年です。 実は、この絵は、ある展覧会の図録で見ています。

個人蔵となっていました。その時は、叶わぬこととは言え、欲しいなぁと思いました。

それと言うのは、この絵のモデルは、小生である可能性が高いと思ったからです。

まず「下町の少年」の下町です。その頃、長谷川利行さんは、下谷竜泉寺の東京市設宿泊所をねぐらにしていました。

我が家、父は、竜泉寺で医者を開業していました。

長谷川さんは、矢野さんを伴って幾度となく我が家へ来ました。母がよく言っていました。このことは、矢野文夫著「長谷川利行」のP74にあります。

長谷川さん一人で来ることもしばしばであったようで、台所に上がりこんで、酒を飲んでいたと母が言っていました。

この「下町の少年」の作成年は、1935年です。小生が5歳のときです。

絵のモデルの年齢は5歳ぐらいと見れます。となりますと、このモデルは小生の可能性が高いということです。」(註79)

以上の証言だけでは、長い期間にわたって、長谷川が木賃宿や施設に定住していたのかどうかは分からない。むしろ注意を払う必要があるのは、閉館時期を考えるとき、竜泉寺簡易宿泊所に長谷川が宿泊したのは、長谷川に住むべき部屋があった期間だということである。家がないから簡易宿泊所にいたわけでない事実にあらためて注意を促したい。家があるから家に帰る、というのは正当であるが、これまでの証言を見ても、寺田の家にも何日も泊っているし、田中陽のアトリエにも長いこと逗留している。もしかしたら、平沢宅にいた時も、日暮里の部屋はまだ追い立てを食っていない時期かもしれない。さらに次のような証言もある。

(3)の2に続く


註1 熊谷守一の言葉 九十五歳/一九七五年『熊谷守一画文集 ひとりたのしむ』求龍堂1998

註2 熊谷は後に「ミケランジェロやロダンなんてつまんない芸術家だ、ゴッホなんかより長谷川利行の絵の方がいい、なんていうもので、みんなが熊谷は天狗だといったんです。

わたしって嘘がつけないから、そういうことをすぐいってしまう。世の中の人はそれを聞いて、熊谷守一は不遜な男だというのです」(1975年9月談「かまきり」、熊谷守一『蒼蝿』求龍堂1976)という発言をしているが、これは「長谷川さんの絵はどれも好きだ」という好悪の表現のひとつのバリエーションであり、一般社会への挑発である。

註3 熊谷守一談・在文責編者「長谷川さん」高崎正男編輯『長谷川利行畫集』明治美術研究所1942。文中、「かよ」は「かや」の誤り、画家、熊谷榧氏のこと。

註4  熊谷榧  くまがい かや。1929(昭和4)年4月3日‐。熊谷守一の次女として東京に生まれる。1951(昭和26)年、日本女子大学卒業。20代より山に魅せられ、多くの山を巡るうち山岳画家の道を歩み出す。山スキーのとりこになり、1960年代には既にヨーロッパの雪山をガイド付きで滑る。父熊谷守一の死後、1985年に豊島区千早にあった守一の旧居跡地に熊谷守一美術館を創立。「父は画家だった。画家は絵だけが残ればよい。」という自身の信念により、熊谷守一の旧居と庭は美術館に姿を変えた。2007年に自身所蔵の熊谷守一作品をすべて豊島区に寄贈、創立時より豊島区立熊谷守一美術館となった現在に至るまで25年間、同館の館長を務めている。

註5 高橋達郎 名のよみ調査中、1913(大正2)年‐2000年。戦後まもなく信州富士見に移住し、入笠山(にゅうかさやま)に山小屋を開く。1952(昭和27)年には霧ヶ峰にヒュッテ・ジャヴェルを建てる。「画家の熊谷守一とも親交があった。生涯弟子を取ろうとしなかった画家の、実質的には唯一の弟子ともいうべき関係だったようである。氏のお宅で、熊谷守一の直筆の絵を何枚か見せて貰ったことがある。「どういう経緯でお持ちなのですか?」と訊ねたら、身の回りの世話をするたびに、「お礼をしたいが金が無い。これで良かったら持って行け」と渡されたものだったとか。/「尾崎喜八さんにしろ、熊谷守一さんにしろ、あれほど偉大な芸術家が、よくもまあオレみたいな若造を相手に遊んでくれたものだ」と氏が述べた。私が、「そういう関係を結べた理由は何だったんですか?」と聞くと、氏はギョロリと目を向けて、「そりゃあ、私が便利に使える男だったからでしょう」と言った。」(大竹收「高橋達郎氏の思い出」週刊マルタケ雑記2012.2.7)著書に『高原のエッセイ』『絵本の中に想う-亡き尾崎喜八先生と実子未亡人に捧ぐ』ヒュッテジャヴェル(復刻)1987『のびたきの歌』新信州社 1972など。

註6 熊谷榧「父守一年譜」熊谷守一随想集『蒼蝿』求龍堂1976。

註7 寺田政明「「放浪の天才画家 長谷川利行展」より銀座風景」『月刊美術』第2巻第3号通巻5号 株式会社サン・アート1976

註8 小熊秀雄 おぐま ひでお、1901(明治34)年9月9日‐1940(昭和15)年11月20日。小樽市稲穂町に生まれる。幼少期を稚内市、秋田、樺太で過ごし、泊居(とまりおろ)高等小学校を卒業。養鶏場の番人など様々な雑務作業に従事した後、1922年より旭川新聞社で新聞記者となる。この頃から詩作を始め、1928年、27歳で東京に来てからは、雑誌社や業界新聞で働きながら、雑誌『民謡詩人』などに作品を発表。1935年に『小熊秀雄詩集』、長編叙事詩集『飛ぶ橇』で詩人としての地位を確立。詩作にとどまらず、童話、評論、絵画、漫画の原作など幅広い分野で活躍した。初の詩集『小熊秀雄詩集』の装幀をおこなった寺田政明らの画家たちと交流し、みずからも絵筆を執った。なお「池袋モンパルナスに夜が来た」という文で始まる詩を発表。これが「池袋モンパルナス」の名前の発祥といわれる。

註9 桑原実 くわばら みのる、1912(明治45)年3月10日‐1979年2月11日。新潟県刈羽郡出身。1929(昭和4)年新潟県立長岡中学校卒業、1930(昭和5)年東京美術学校図画師範科に入学し、1933(昭和8)年、東京市下小岩尋常小学校代用教員となり、1935(昭和10)年同校訓導、1939 (昭和14)年池袋第五小学校、1946(昭和21)年東京第二師範学校、1949(昭和24)年東京学芸大学となり、1951(昭和26)年東京学芸大学附属豊島小学校教諭、1954(昭和29)年東京大学教育学部附属中学校、同高等学校教諭、1967年東京芸術大学助教授に転出、同大附属音楽高校教諭を兼務した。1970年東京芸術大学教授となり美術教育過程を担当した。作家活動としては、1935(昭和10)年第22回二科展に「父と子」が入選となり、以後、二科展に毎回出品、1942(昭和17)年会友、1947(昭和22)年会員に推挙された。その間、ユネスコ・ジュニア文化センター理事長、日本造型教育連盟委員長、教育美術振興会理事などをつとめた。(東京文化財研究所『日本美術年鑑』所載物故記事参照)

註10 寺田政明「長谷川利行のこと」『三彩』通巻413三彩新社1982年2月

註11 熊谷守一談・在文責編者「長谷川さん」高崎正男編輯『長谷川利行畫集』明治美術研究所1942

註12 柿手春三「池袋交遊録 楽しい日」『中国新聞』1980年7月4日。

註13 宇佐美承『池袋モンパルナス』集英社1990

註14 稲石刀自 いないしとぅじ。刀自は、トゥジ・トゼと読み、沖縄全域で既婚の女性の敬称。上地与人(うえち・ゆんちゅ)迎立(んかいでて)氏の娘として産まれ、洲鎌与人下地親雲上真栄と結婚。宮古上布の創製者と伝えられる。真屋御嶽(まやうたき)の祭神。以下に、稲石刀自作と伝えられるアヤグを掲げる。

「(アヤゴ)

一、上(のぼ)りてや、押上(おしや)げてや、モテアガワラ(六文字圏点)

下(くだ)りてや、おり果てや村主(むらしゆ)。

七重卷き髪筋(かもぢ)に、こなつけて、

我(あ)が手せど、女(め)が手せど、

取合(とりあ)し、うやせと見う。

一、 細綾錆(こまあやさび)十九(とほこゝの)よみ、

せ夫(おと)のモテアガワラが、

首里拜む物そも。

子(ね)の方(ば)星、七つ星、一つなり、

モテアガワラや宮古となげな。」(慶世村恒任『宮古五偉人傳』南島史蹟保存會1925)

註15 尚永王 しょうえいおう、1559(嘉靖38)年‐1588(万暦16)年11月25日。幼名は阿応理屋恵(あおりやえ)王子、神号は英祖仁耶添按司添(えぞにやすえあじおそい)、または日豊操王。1572(隆慶6)年に父王が薨じると、その長男である尚康伯、久米具志川王子朝通が正妃の子でなかったため、次男であった尚永が即位、1579(万暦7)年には明王朝から冊封を受ける。この時に「守禮之邦」の扁額が作られた。それからは、中国から冊封使が来ている間は「守禮之邦」の扁額を掲げ、それ以外の期間は「首里」の扁額を掲げるということとなった。島津氏による琉球への経済的、領土的野心は強く、王の死の直前、薩隅日三国を統一した島津義久は尚永王に書簡を送り、豊臣秀吉への臣従を強要した。

註16 洲鎌与人下地親雲上真栄 すがまゆんちゅ しもじぺーちん しんえい、別名もてあがーら、あるいはは嘉和良(かわら)(慶世村恒任『宮古五偉人傳』南島史蹟保存會1925、慶世村恒任『宮古史傳』南島史蹟保存會發行、大野書店發賣1927)。真栄が与えられた役職については、下地大首里大屋子(しむじうぷしゅりうぷやぐ)とする記述もある。また、地頭職にあたる親雲上はぺーくみーと発音されるのが正統であるが、先島の場合は読み方による差別化として、本島よりも一段下位に当たることを明示するため、ぺーちんと発音するとのこと。真栄は宮古の主長仲宗根豊見親(なかそね とぅゆみゃ、空広、そらびー)の与那国鬼虎(うにとら)征討を主導したもてあにぎゃもりの子孫と伝えられる。

註17 慶世村恒任『宮古史傳』南島史蹟保存會 發行、大野書店發賣 1927による。なお、この起源譚が直接に史実を記載したものではなく、従来、豊見親(とぅゆみゃ)という王権的中心を有していた宮古(みやく)の地方的王権に対し、沖縄本島(うちなー)の王権「琉球王国」が八重山(やいま)のおやけあかはち(遠弥計赤蜂、於屋計赤蜂)の独立戦争(1500(弘治13)年)、与那国島(どぅなんちま)のうにとら(鬼虎)の独立戦争(1522(嘉靖1)年)を粉砕する中で、宮古島の在地勢力の分裂闘争(1532(嘉靖11)年の「大嶽城(うぷたきぐすく)の変」)に乗じつつ、沖縄本島の王権に依拠する政治的統一を遂行した歴史的経過の正当化と、それに基づく朝貢制の起源を説明する説話と見るのが事実に近いだろう。

なお、上布の貢納は上記書にあるとおり人頭税化されるが、これは1609(万暦37、慶長14)年の薩摩藩による侵略後も継続された。先島諸島は、明治政府により永遠に清国に割譲することが決定された(「第一款 大日本国將琉球南部宮古八重山島属之大清國管轄以劃両國疆界永遠不相干預」(原文は手書き、返り点、送り仮名省略。訓み下し文「大日本国は将(すなわ)ち琉球南部の宮古八重山島を之を大清国の管轄に属し、以て両国の疆界を劃(かく)して永遠に相干預(かんよ)せず」)、「九月廿五日我公使提出スル所ノ底稿」1880(明治13)年太政官文書)が、日清戦争の結果、台湾及び澎湖諸島の日本への割譲が決定し、先島諸島もうやむやのままに日本領となる。台湾との中間にある尖閣諸島の帰属問題はこの時の一件に起因している。また、前近代的な人頭税制度が消滅するのは、さらに時間が経過した1903(明治36)年のことである。

註18 熊谷榧「父守一年譜」熊谷守一随想集『蒼蝿』求龍堂1976。

註19 熊谷守一「絵の付き合い 変わり者長谷川利行 何でもすぐ質に入れ飲む」「私の履歴書 熊谷守一26」『日本經濟新聞』1971年7月9日、のちに同様の回想のあと、「それでも、いやな感じはぜんぜんしなかった。」と付け加えている。(1975年9月談「友人」、熊谷守一『蒼蝿』求龍堂1976)

註20 東郷青児「長谷川利行の足」『放浪の天才画家長谷川利行展図録』毎日新聞社1976

註21 安井曾太郎 やすい そうたろう、1888(明治21)年5月17日‐1955(昭和30)年12月14日。京都中京区で木綿問屋を営む商家の五男として生まれる。1898(明治31)年、京都市立商業学校に入学するが、反対する親を説得、1903(明治36)年、同校を中退して絵の道に進む。翌年、聖護院洋画研究所(のち関西美術院に発展)に入所し、浅井忠、鹿子木孟郎らに師事して絵を学び始める。同時期に、梅原龍三郎もここで学んでいた。1907(明治40)年、先輩画家の津田青楓が渡欧すると聞いた安井は、津田とともに渡欧することを決意、フランスではアカデミー・ジュリアンに学ぶ。また、7年ほどの滞仏の間にイギリス、イタリア、スペインなどへも旅行している。1914(大正3)年、第一次世界大戦が勃発し、ドイツがフランスに宣戦布告したことに加え、安井自身の健康も悪化していたため、日本へ帰国。翌1915(大正4)年、第2回二科展に滞欧作44点を出品し、二科会会員にも推挙される。1935(昭和10)年には帝国美術院会員となる。文展に対抗して組織され、在野の立場を貫く二科会の方針から、安井は同会を離れる。翌1936(昭和11)年、石井柏亭、有島生馬、山下新太郎らと一水会を結成。安井は生涯、同会の委員を務めた。1944(昭和19)年には東京美術学校教授となり、1952(昭和27)年には文化勲章を受章している。

註22 熊谷守一「長谷川のこと」『放浪の天才画家長谷川利行展図録』毎日新聞社1976。

註23 曽根原正好氏によると、帝国美術院会員の彫塑家内藤伸のお孫さんである内藤一彦氏から伝聞した思い出として、芸術院会員にまつわる次のような話があるという。

「ある時島根県の内藤家に東郷青児が訪ねてきた。伸が不在だったので一彦さんに菓子折を渡し、駅前の旅館に滞在していると伝えてくれと言った。帰宅した伸が菓子折を開けると札束が入っていて、一彦さんはそれを東郷に返しに行かされた。

この時すでに帝国美術院は日本芸術院となっていたが、会員は定員制で終身会員だったので、誰かが亡くなった時だけ会員の推薦で新しい会員が選ばれた。東郷は会員に選ばれたくて島根県まで札束を抱えて出かけて行ったのだ。」(「彫刻家内藤伸」mmpoloの日記2006年11月09日)まるで水戸黄門の悪徳商人である。

註24 美之國編輯部「畫廊巡禮―(一)―」『美之國』第四百十一號 第十三卷第二號1937年2月

註25 東京では、資生堂ギャラリー(1919年)、青樹社画廊(1924年)、紀伊国屋画廊(1927年)、日動画廊(1931年)、三昧堂(1934年)などが古い創業である。同時期に高島屋呉服店、三越呉服店、阪急百貨店等の百貨店が洋画を含む美術品を取扱うようになる。

註26 wikipedia 「美術商」、油井一二『風呂敷画商一代記 商売から得た人生の苦楽』美術年鑑社1988。

註27 荒井龍男 1904(明治37)年1月18日‐1955(昭和30)年9月20日。カトリックの両親の元に大分県中津市下池永で生まれる。生後すぐ家族とともに朝鮮に渡り、京城府外鷺梁津(노량진)で暮らす。1923(大正12)年、日本大学入学、1924(大正13)年太平洋画会研究所で絵画を学ぶ。朝鮮総督府に勤務していたが、1933(昭和8)年二科展に初入選、第11回朝鮮美術展(鮮展)で特選受賞。1932(昭和7)年、総督府逓信局を退職し、1934(昭和9)年渡仏、パリのアカデミー・グラン・ショーミエールに学び、翌年、オシップ・ザッキンに師事する。1936年サロン・ドートンヌで受賞。帰国後は自由美術家協会に参加。1950(昭和25)年には山口薫らとモダンアート協会を設立。ニューヨーク、パリ、サンパウロで個展を開き、サンパウロ・ビエンナーレにも出品。1955(昭和30)年帰国しブリジストン美術館で個展を開くが、その年に急逝した。

註28 小松鳳三 こまつ ほうぞう、1909(明治42)年1月28日‐1938(昭和13)年5月10日。佐賀県東松浦郡鏡村生まれ。生後すぐ1909(隆煕3)年、父の大韓帝国済州(제주)普通学校赴任に従い、一家で大韓帝国へ渡る。京城帝国大学で心理学を学び卒業。1927(昭和2)年、『開墾時代』、1931(昭和6)年創刊の京城帝国大学の文学誌『駱駝』同人。同年、同人誌『牧羊神』を荒井龍男、小黒稔夫、上村光佑とともに創刊。1933(昭和8)年、実兄で医師岡田祐之の開業していた満洲国間島省任清県百草溝に滞在、その後新京で満洲通信社に入社。1934(昭和9)年、朝鮮総督府刑務官練習所教官。1937(昭和12)年、京城商工学院講師。心理学者としては、単著「兒童に於ける圖形の再生に就いて」『心理學研究』第六卷第四輯1931、共著に天野利武、小松鳳三「空間的大いさの比較に就いて」『心理學研究』第七卷第五輯1932等。詩人としては、著書に、没後出版の『小松鳳三詩集』杉本長夫発行1938、共著に京城文学会編『詩・研究』京城文学会シーリーズ第一輯(右下の「원문보기」(原文表示)を押下すれば、画像閲覧可能、ビューア要、IEのみ)(小松鳳三 杉本長夫 寺本喜一 崔載瑞)日韓書房1935など。

註29 荒井龍男「利行追想點描」矢野文夫編纂『夜の歌(長谷川利行とその藝術)』邦畫莊1941

註30 「年譜」大分県立芸術会館編『荒井龍男展』図録 大分県立芸術会館1992

註31 東京文化財研究所編『昭和期美術展覧会出品目録 戦前篇』中央公論美術出版2006

註32 「年譜」大分県立芸術会館編『荒井龍男展』図録 大分県立芸術会館1992

註33 荒井龍男「利行追想點描」矢野文夫編纂『夜の歌(長谷川利行とその藝術)』邦畫莊1941、長谷川と里見勝蔵の交友については、落合道人 Ochiai-Dojin ブログサイトを参照。

註34 初出は『牧羊神』第1巻第4輯1932年10月20日、テクストは目黒区美術館 学芸員・正木基編『荒井龍男作品集』美術出版社1991による。

註35 雜報「長谷川利行氏畫會」『アトリエ』第八卷第五號 1931年8月。

註36 海老原省象 えびはら しょうぞう、1908(明治41)年1月5日‐1992年2月10日。豊島区椎名町に商家の次男として生まれる。1925(大正14)年、岡田三郎助に師事し、 1928(昭和3)年から太平洋画会研究所、その後、川端画学校でも学んだ。その頃岡田の参加していた燕巣会の同人であった藤島武二、梅原龍三郎にも師事。1930(昭和14)年からは満洲各地で会が指導公衆や講演を行なう。戦後すぐに日光郷土美術工芸研究所を設立、1947(昭和22)年に東京に戻り、水彩連盟でみづゑ賞を受賞、会員に推挙される。1957(昭和32)年に新象作家協会を設立、創立会員。同年、宮城県の尚絅女学院短期大学で美術教育にたずさわる。

註37 東京国立近代美術館に収蔵されているのは、「新宿風景」(1937年)。「銀座風景」は、1937年頃の作品で、2013年9月オークションに出品されているが、国立近代美術館蔵ではない。海老原の談話が発表された1976年の2月、日本橋三越百貨店で開催された、毎日新聞社主催「放浪の天才画家 長谷川利行展」には、この両作品が展示された。なお、入院先の病院を無断外出し、同展を見に行った二見利節は、肺炎に罹患して死去することになる。

註38 海老原省象「長谷川利行」『季刊パリ通信』通巻第2巻第2号 東広企画株式会社1976

註39 東郷青児「長谷川利行の足」『放浪の天才画家長谷川利行展図録』毎日新聞社1976

註40 田崎暘之介「「野ざらしの詩」の周辺―取材日記から」長谷川利行画集刊行委員会編『長谷川利行画集』協和出版1980

註41 衣笠静夫 きぬがさ しずお、1895(明治28)年12月2日‐1962(昭和37)年2月24日。兵庫県出身、京都高等工芸学校図案科卒。ミツワ石鹸本舗丸見屋商店に入り、1960(昭和35)年から副社長。新聞による大量広告戦術を展開し、全日本広告連盟理事長としても活躍。1962年、業績を記念して「衣笠賞」が設けられた。

註42 鈴木達夫 名のよみ調査中、1886(明治19)年‐1943(昭和18)年3月4日。宮城県小牛田町生まれ。1920(大正9)年東京医科専門学校卒業。宮城県に広い田畑をもつ大地主でありつつ、東京市下谷区竜泉寺町8番地で鈴木医院を開業、妻うたとともに長谷川を支援。三楽病院での十二指腸潰瘍の治療時、輸血によるマラリヤの発症により死亡。長谷川利行作品のコレクションは彼の死後、宮城県にもどった未亡人が「何度捨ててしまおうと思ったか知れないが、主人が買ったものだからと、ついつい古川まで持ってきてしまった」という。相談を受けた河野保雄の友人が売却について相談を受け、「絵と関係があると思われる友人たちに片はしから相談した。ところが意外にも、彼らは長谷川利行の名を知っていたのだ。」(河野保雄「長谷川利行と私」『美しき原風景』百点美術館出版部2012)こうして、1954(昭和29)年、宮城県図書館で長谷川利行作品展示即売会が開催された。

註43 紺戸廉平 名のよみ調査中、1889(明治22)年‐没年調査中。宮城県志田郡生まれ。1916(大正5)年東京帝国大学医学部卒。小児科医局に入局。横浜十全病院小児科などを経て、1926(大正15)年、私立九段坂病院小児科医長。従兄弟の鈴木達夫の紹介で長谷川を知る。(尾﨑眞人編「人物・場からみる東京の長谷川利行」尾崎眞人編・監修『池袋モンパルナス そぞろ歩き 読んで視る 長谷川利行 視覚都市・東京の色』「池袋モンパルナス」叢書5(株)オクターブ)長谷川の診察、投薬を行なう。長谷川には、「紺戸博士像」がある(1936(昭和11)年二科展出品)。

註44 今泉義雄 名のよみ、生没年調査中。湯島の切通局の郵便局長。長谷川に洋服を与えたところ、不審者として警察に事情聴取を受ける。引取人として坂本警察署に赴く。

註45 桜井均 さくらい ひとし、1901(明治34)年6月13日‐1983年1月27日。茨城県筑波郡田井村立野生まれ。1933(大正12)年、東京で山洞書院、大同出版社の名称で出版業を営む。1940(昭和15)年、新たに桜井書店を興し、爾来純文学書、哲学書の出版に専念。1960(昭和35)年、志賀直哉の『夕陽』を最後として、出版を廃業。自適の生活に入る。(「著者紹介」桜井均『奈落の作者』文治堂書店1978による)

註46 土肥円修 名のよみ、生没年調査中。広島県福山生まれ。大正年間、日本肖像学院を開院、ブラジル帰りの山東紀一の買った彩美堂を引き継ぐ。著書に『絹本肖像画講義』東京肖像学院 1925、『コンテー肖像畫講義 全』東京肖像学院 1925。

「主人は広島の福山の坊さんの出身なので、初めは池の端で絵を描いていたんですが、その後、肖像学園を開いたりまた額椽の仕事も始めて彩美堂と名づけたのです。額椽の方は谷中の坂町にあって、住まいは別でしたが、その後発展して、谷中玉の倫寺の広場を美術館のための貸椽の場所にしたのです。

昭和の初め、利行さんがそこへ外のエカキさんと来るようになったのです。主人は坊さんでしたから面倒見がよくて、当時、作家の今東光さんや東郷青児さんも来て、何か喰わせてくれってやってきたのものです。

絵具屋も合わせてやってましたから、絵具を買ってくれた人には、貸椽はたゞでしたね。現在の芸大の先生なんか、そのころよく貸椽を借りに来て、そのとき釘打ったりして手伝っていたのが利行さんだったんです。来はじめると始終いて、店で絵を描いたり、ぶらぶらしていたみたいですね。」(土肥ミサヲ「彩美堂と利行」『美術誌パリ通信』通巻第五巻第五号 東広企画1979年1月)

註47 大野重昭 名のよみ、生没年調査中。麻布鳥居坂の稲葉子爵家の家令。長谷川は、妻の大野セキをモデルに「老母」という絵を描き、第16回二科展に出品している。著書に『淀稲葉家文書写』1935。

註48 10代目浜口儀兵衛 はまぐち ぎへえ、1874(明治7)年4月24日‐1962(昭和37)年1月31日。名は慶次、号は梧洞。和歌山県生まれ。帝国大学理科に進み、イギリスに留学して化学を専攻。1899(明治32)年に儀兵衛家を継ぐ。1928(昭和3)年には濱口儀兵衛商店を株式会社組織に改組、現在のヤマサ醤油株式会社を発足させて社長に就任、醸造工程と経営の近代化に努めた。また、理化学研究所、日本醸造協会、日本工業倶楽部などの評議員を務めた。1925(大正14)年5月から1939(昭和14)年9月まで貴族院議員(多額納税者議員)を務めている。三男は版画家の浜口陽三。六男は灘の醸造家、本嘉納家(「菊正宗」で知られる)を継いだ嘉納毅六。「醤油王」と謳われた。紀州と銚子のあいだには伝統的な関係があり、銚子の漁師の多くは先祖をたどると、紀州出身であるといわれる。

註49 梅津勘兵衛 1872(明治5)年5月10日‐没年調査中。幼名鶴吉。京都府淀生まれ。クリスチャンで、同志社から京都第三高等中学校予科補充科卒後、第一高等中学校の受験のため、東京に来るが、上州屋芳五郎一家に草鞋を脱ぎ、のち上州屋の跡目を継ぐ。1919(大正8)年、河合徳三郎、梅津勘兵衛、倉持直吉、青山広吉、篠信太郎、西村伊三郎、中安信三郎が中心となり、原敬内閣の内務大臣、床次竹二郎(立憲政友会)を世話役に、アジア主義者の頭山満を顧問に迎えて大日本国粋会を結成。国粋会は、1927(昭和2)年に麹町区下二番町へと総本部を移設、1929(昭和4)年に鈴木喜三郎が総裁となっている。

註50 寺田政明「長谷川利行」『VISION』第6巻第2号 ビジョン企画出版社1976年4月

註51 ウィリアム・J・ボウマル William J. Baumol、1922年2月26日‐。ニューヨーク生まれ。1942年、ニューヨーク市立大学卒業、B.Sc.取得。1949年、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE)よりPh.D.を取得。1954年、プリンストン大学教授。1967年、アメリカ経済学会副会長。1978年、西洋経済学会会長。1981年、アメリカ経済学会会長となる。

註52 ウィリアム・G・ボウエン William G. Bowen1、933年10月6日‐1955年、デニソン大学卒業、1958年、プリンストン大学よりPh.Dを取得。1972年から1988年までプリンストン大学の学長。

註53 原著は、『Performing Arts – The Economic Dilemma; a Study of Problems Common to Theater, Opera, Music, and Dance』Twentieth Century Fund Book, The MIT Press, 1966。邦訳書は池上惇 渡辺守章訳『舞台芸術 芸術と経済のジレンマ』芸団協出版部発行、丸善発売1994。誤りをおそれず要約すると、芸術鑑賞に支出する可処分所得の比率は不変という現実に対して、芸術的パフォーマンスの生産性は、他産業と異なり向上することはないので、芸術家の相対的な収入は減少する一方となるためである。これがボーモルのコスト病である。

註54 William J. Baumol, with contribution with David de Ferranti, Monte Malach, Ariel Pablos-Mendez, Hilary Tabish and Lilian Gomory Wu『The Cost Disease Why Computers Get Cheaper and Health Care Doesn’t』Yale University Press 2012

註55 矢野文夫『長谷川利行』美術選書 美術出版社1974

註56 東京市社會局『東京市内の木賃宿に關する調査』1923

註57 1935年06月22日東京市公報「龍泉寺町宿泊所限り廃止」

註58 天城俊彦 名のよみ調査中、1906(明治39)年‐1955(昭和30)年、本名高崎正男。後文参照。

註59 高崎正男「長谷川利行追憶」高崎正男編『長谷川利行遺作畫集』明治美術研究所1941

註60 建築學會編纂『東京・横濱復興建築圖集1923-1930』丸善1930

註61 「人名録(昭和十年十二月卅一日締切)」美術研究所『日本美術年鑑 昭和十一年版』岩波書店1936

註62 『二科美術展覽會目録“第二十二回.昭和十年”』

註63 「雜報欄」『みづゑ』第三六六號 春鳥會1935年8月

註64 矢野文夫『長谷川利行』美術選書 美術出版社1974による。

東京港が国際港として開港するのは1941年と新しく、東京の港の玄関は、幕末以来長らく横浜港であった。横浜港における輸入額は、1930(昭和5)年の世界恐慌、1931(昭和6)年の満洲「事変」により激減し、第一次大戦中の好況期以降、関東大震災前の1920(大正9)年の輸入額に較べても半減する(単純比較)。このため、港湾労働者もピークに比べて1万数千人から5,000人を切るまでに激減した。(『財務省貿易統計』(横浜税関『横浜開港150年の歴史―港と税関』改訂版2007による)、横浜市社会課『横浜港仲仕労働事情調査』1928(斎藤多喜夫「港で働く人びと-昭和8年(1933)の調査から-」『開港のひろば』第79号 横浜開港資料館2003による))

註65 「長谷川利行年譜」矢野文夫編纂『夜の歌(長谷川利行とその藝術)』邦畫莊1941。なお、この記事は、矢野文夫撰「年譜」矢野文夫『長谷川利行』美術選書 美術出版社1974でも踏襲されており、「共犯の疑いにて日本堤警察署に留置さる。釈放後、天城の計らいで新宿旭町の木賃宿に移る。」と追加されている。

註66 麻生三郎「起上り小法師」『新しい学校』第4卷臺11號 興文館1952

註67 吉井忠「生誕百年記念 無垢なる放浪 長谷川利行展 ねっからの芸術家 長谷川利行 利行と池袋モンパルナスの頃」『三彩』通巻525三彩社1991年6月号

註68 吉井忠「利行とわたし」『長谷川利行未発表作品集』旺国社1978

註69 井上長三郎 大野五郎 河北倫明 木村東介 寺田政明 矢野文夫 吉井忠 対談「長谷川利行をしのぶ(二)」(昭和三十七年十二月)における寺田政信の発言 木村東介編纂『長谷川利行画集』長谷川利行画集刊行会1963

註70 寺田政明 吉井忠対談「白い道」における寺田の発言『美術ジャーナル』復刊第25・26号合併号 美術ジャーナル発行所1974

註71 寺田政明「長谷川利行のこと」『三彩』通巻413三彩新社1982年2月

註72 高橋新吉 たかはし しんきち、1901(明治34)年1月28日‐1987年6月5日。愛媛県伊方町出身。八幡浜商業学校を中退し、以後、放浪がちの生涯を送った。1920(大正9)年「萬朝報」の懸賞短編小説に『焔をかゝぐ』で入選、小説家としてデビュー。その後詩作に転ずる。ダダイストを自称した。

註73 高橋新吉「長谷川利行の芸術」中日新聞社『長谷川利行名作展』図録1979、日本経済新聞社「長谷川利行名作展」より、とあるが初出は未見。

註74 高橋新吉「としゆき」『高橋新吉全集』青土社1982、小説作品である。初出は『若草』昭和24年11月号宝文館1949

註75 ピエール=オーギュスト・ルノワール Pierre-Auguste Renoir、1841年2月25日‐1919年12月3日。フランス中南部のリモージュで仕立屋を父に、お針子を母に、7人兄弟の6番目として生まれる。1854年、13歳で磁器工場に入り、磁器の絵付職人の見習いとなるが、産業革命の影響で、1858年に伝統的な磁器絵付け職人としての仕事を失職。画家を目指し、1862年にはエコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学。並行して1861年からはシャルル・グレールのアトリエに入り、ここでモネ、シスレー、バジールら、後の印象派の画家たちと知り合う。画塾で制作中のルノワールに師のグレールが「君は自分の楽しみのために絵を描いているようだね」と言ったところ、ルノワールが「楽しくなかったら絵なんか描きませんよ」と答えたという。

註76 海老原省象「長谷川利行」『季刊パリ通信』通巻第2巻第2号 東広企画株式会社1976。

註77 鈴木大吉 すずき だいきち、1930(昭和5)年‐。東京生まれ。1953(昭和28)年東京大学法学部を卒業、 日本団体生命保険に1995年7月まで在籍、副社長で退任。財団法人国民工業振興会常務理事、ビジネス情報ネット代表。IT研究会、3万ドル倶楽部主催。

註78 「長谷川利行作「富士」と北斎の神奈川沖波裏(なみうら)」『経営者の情報技術勉強会 IT研究会、ネット通販の勉強会 3万ドル倶楽部を主宰する鈴木大吉の日記』サイト、2007年12月23日18:30

註79 「シンワオークションで長谷川利行の「下町の少年」をゲット」『経営者の情報技術勉強会 IT研究会、ネット通販の勉強会 3万ドル倶楽部を主宰する鈴木大吉の日記』サイト、2007年09月16日18:18

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