今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

富士見と富士見坂(2)の1 太田道灌の城のコスモロジー(前半)

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江戸前期の兵学者大道寺友山が、次のようなことを書きとめている。

「一問曰、当御城内ニ八方正面の御櫓ありと申と何(いず)れの御櫓の事にて候や。答曰、 唯今の富士見の御矢倉と申ハ八方正面ニ是有よし、我等若年の頃北条安房守殿小川町の屋敷ニ於て氏長雑談の折、八方正面の櫓なとと申とハ太田道灌たとひ何程城取功者ニても、然(わざ)と工(たく)ミて取るる者ならず、第一其地形ニ寄、次ニ縄張の模様ニ依て、諸国ニ城の余多(あまた)有シといへども、八方正面の矢倉と申ハ稀なるべし。 然るに当御城内ニ有こそ不思議と申べし、是以(これをもって)御当家御繁昌の御吉隋ニ候、と皆申被成(もうしなされ)候を福島伝兵衛、相良加兵衛、奈良十郎右衛門我等四人一座ニて承りたる事ニ候、福島義其後遠山伝兵衛と申セし頃ニて候」(註1)

北条安房守は、後文にある通り北条氏長、甲州流兵学者小幡景憲の高弟で甲州流軍学者であり、北条流兵法の祖となる。通称は新蔵。後に氏永、正房と改名する。1655(明暦1)年、幕府大目付となり、正保国絵図を再製、また、1650(慶安3)年には、オランダ東インド会社所属の砲術家でスウェーデン人のヨーアン・シェーデル(Johan (Julian) Schelder / Schädell)から砲術の基礎となる測量術を学び、「攻城 阿蘭陀由里安牟相伝」にまとめている。(註2)また明暦の大火(1657(明暦3)年)の後に氏長が作製した「明暦江戸実測図」には西洋式航海図ポルトラーノの特徴が見られるなど、ヨーロッパの測量、地図作製技術の影響を受けていた可能性が指摘されている。(註3)

大円分度 一般社団法人 佐賀天文協会サイトによる

大円分度 一般社団法人 佐賀天文協会サイトによる

福島(くしま)伝兵衛国隆は、北条氏長の養子となり、北条流兵法を継ぎ、北条流兵法を体系づけ、発展させた。著書に『士鑑用法直解』等多数(註4)、伝記に有馬成甫著『福島伝兵衛国隆小伝』(註5)があり、測量器具「大円分度」が佐賀県立博物館とエジンバラのスコットランド国立博物館にそれぞれ現存しているが、前者には佐賀蓮池藩第2代藩主の鍋島直之が福島から伝授を受け、模作されたという銘がある。(註6)

また、福島伝兵衛は、1649(慶安2)年10月に、軍役令の改正試案『御軍役人数積』を提出している。従来「慶安軍役令」といわれてきたが、「慶安触書」とともに、現在ではそれらの法令としての歴史的事実は否定されている。(註7)その前年には、ヨーロッパの三十年戦争が終結、ヴェストファーレン条約が締結され、ハプスブルク家の地位低下がはじまるとともに、オランダの独立国としての地位が国際的に承認された。

また、東アジアでは、明の復興を目指す鄭成功(チェン・チェン・コン Zhèng Chéng gōng)が幕府に援助を要請(日本乞師)している。日本乞師は、鄭氏3代と一族のほかに、黄宗羲、朱舜水といった明末清初の大学者によっても行なわれており、朱舜水はのちに日本に定住する。徳川光圀(水戸黄門)は、朱舜水のために彰考館を作り、朱舜水の示唆を受けて、『大日本史』の修史事業が開始されることになる。(註8)

彰考館史館総裁となって、『大日本史』の編纂に携わった学僧が佐々宗淳(通称 佐々介三郎)、朱舜水に師事、のちに修史事業に加わった儒学者が安積澹泊(通称 安積覚兵衛)で、「助さん格さん」のモデルである。福島伝兵衛以外の2名も、文意から北条氏長の門弟と思われる。

大道寺友山は、後北条家3代に仕えた大道寺政繁の子孫で、越前松平福井藩の軍学講義を担当し、江戸留守居役を勤めている。

徳川家光時代、喧嘩停止令の成文法化による国内平和体制の完成により、「林家を主体とする朱子学的発想が反映し、「支配階級―文人」としての側面が大きくなっていた」中で、「戦士階級としての自己認識を求める幕府の要求にはそぐわない面があった。こうした問題に対応すべく将軍兵法師範として登用されたのが甲州流兵法の北条氏長である」という。(註9)徳川家光の時代は「平和の世」と言われているが、対外的な面では、1713(正徳3)年、長崎沖の九十九島に「唐人」が上陸、民間人を略奪、殺傷する事件が起きている。

長崎沖海域は、伝統的な倭寇世界で、多言語、超国家的な世界の現出していた場所である。記録による「唐人」の実像は不明だが、新井白石は、この事態に鋭く反応、各大名家に異国船の打ち払いを命じている。明朝の滅亡による中国沿海地域の海民の海賊化、イタリア人宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(Giovanni Battista Sidotti)の密入国事件、ポルトガル使節船の渡航、イギリス船リターン号、ポルトガル船サンパウロ号の長崎来航などの諸事件が相次いでおり、やがてシベリア東端に到達したロシアの艦船が日本領域に来航するようになる。(註10)

リターン号事件は、王政復古により帰国したイングランド王チャールズ2世(Charles II)が、鄭氏台湾の外交折衝に応じて通商条約を締結、さらに日本との通商再開を目指すイギリスが派遣し、台湾を経由して1672(延宝1)年に長崎に入港したものである。

戦士階級としてのアイデンティティの確立もさることながら、西洋式砲術とその基礎となる三角測量術のテクノロジーを持った北条流兵学者が幕府、各藩に採用されるのには、上記のような客観的状況があったのである。

さて、文中の八方正面というのは、よく分からない。四面のほかに四隅をもった八角形構造ででもあったのだろうか。「富士見」の語をはじめて成立させた太田道灌の建築物について、過去にさかのぼって検討してみよう。

中世の江戸城の様子は、例外的に多くの文献資料による記録が残っているという。それは、のちに引用する京、鎌倉の五山僧の詩文が主なものであり、いくつかの作品は、それぞれの作者の詩文集にも収められている。これは、江戸城主であった太田道灌が年少より鎌倉五山に学び(註11)、学問と文学に精通し、漢詩、和歌に優れていたこともあり、1476(文明8)年、当時の京、鎌倉の学問僧に江戸城の詩文の作成を依頼したためである。足利学校で学んだとする説もあるが(註12)、根拠はない。(註13)

足利学校については、フランシスコ・ザビエル(バスク語 Frantzisko Xabierkoa、スペイン語 Francisco de Xavier または Francisco de Gassu y Javier)は、インド・ゴアの布教本部に宛てた書簡の中で「坂東の学院(アカデミア)あり。日本国中最も大にして最も有名なり」と記し、明の鄭舜功(チェン・シュン・コン Zhèng shùn gōng)も「惟下野にのみ大いなる学堂を設け、名付けて学校と題す(中略)列国の学徒嘗て二、三千人」(『日本一鑑』)と報告しており(註14)、ルイス・フロイス(Luís Fróis)も本国のイエズス会宛の書状で「あらゆる(大学)のうちでもっとも高貴な足利(アシカガ Axicanga)の大学」と報告している。(註15)

また、アブラハム・オルテリウス(Abraham Ortelius)作成の東インド図(1570)には、「Bandu」(坂東)の「academia」(大学)として、足利学校が表記されているという。(註16)鄭舜功は、浙江都督楊宜の命を受け、倭寇の調査を目的に琉球を経由して日本に密入国、大分で捕えられ、幽閉されるが、日本の調査をしたのち帰国する。『日本一鑑』は、その帰国後に執筆された書物である。そして、兵学や易学に長じた足利学校出身者は、戦国期の有力武将の間で軍師や補佐役として盛んにリクルートされたといわれる。(註17)

太田道灌は、五山僧の詩文を板に書き(詩板)、自らの居所であった静勝軒に掲げる。それらの詩板は、その後どのような運命をたどったのだろうか。『異本北条記』によれば、「芳林院の孤月和尚参られ、此城の重宝とて、当城開基太田道灌が天下無双の詩人万里を呼下し江戸の城の景記を書きしを取り出し談義あり、【北条】氏綱を初め箱根【北条長綱のこと】以下大に感嘆ありて、和尚にも引出物御馬にて参らせ給ひ彼記をば小田原へ御持参あり、一枚は箱根殿御所望、一枚は屋形の御重宝になされける」とあり(註18)、1524(大永4)年の江戸合戦後、北条氏の拠点である小田原等に運ばれるが、北条氏の滅亡により散逸する。幸いなことに、詩板の内容は『江戸城静勝軒詩序並江亭記』及び万里集九の詩文集に記録され、現存する。

江亭記 特別展 東京都江戸東京博物館「江戸城」図録 東京都江戸東京博物館 読売新聞社東京本社 2007より

江亭記 特別展 東京都江戸東京博物館「江戸城」図録 東京都江戸東京博物館 読売新聞社東京本社 2007より

それらの多くは、その当時の明で流行した美文体によって書かれており、小川剛生氏によれば、「いずれの序・跋とも、見事な四六駢儷文である」とされるが(註19)、残念ながら力不足で判断能力を持たない。また、使用される言葉も一々先例と出典がある。このような詩文が書かれたのには、五山と呼ばれる東西の諸寺院においては、外交も担当しており、バイリンガルな言語状況があったためといわれている。(註20)

ただし、読解はきわめて困難で、日本歴史学会の創設会長の高柳光寿にいわせると、江戸城の研究については「静勝軒の詩の序や江亭記がまづ第一等の史料でしようね。しかしですね。この一連の史料は何といつても漢文です。やはりあれは日本語で書いてくれりやもつと良かつたんだ(笑)」とのことである。(註21)

詩文のタイプは二つあり、ひとつは実見に基づくもの、今ひとつは実見せずに詩文を作成したものである。そのひとつひとつを検証してみよう。

京五山僧の中で江戸城を実見したのはただ一人、建仁寺217世正宗竜統(しょうじゅう りゅうとう)だけである。正宗竜統自身も「幸に子が目撃する所を述して以て序せば可ならん」と書いているが、他に江戸訪問の記録が残されておらず、詳細は不明である。(註22)

希世霊彦(きせい れいげん)によると、太田道灌が「其の客の西上する者に託して、京師諸人の題詠を求」めたとのことだが、やや後年の例を見ると、玉隠英璵(ぎょくいん えいよ)が岩付正等の自耕斎のために書いた詩序に「岩付左衛門丞顕泰公の父故金吾、法諱正等、(中略)正等游息の斎自ら顔して自耕と曰ふ、而して絵して以て詩を求む、聴松住持竜華翁【竺雲顕騰(じくうん けんとう)】の詩有り、懶菴【玉隠英璵(ぎょくいん えいよ)】も亦(また)其の員而(にして)、詩序之を贅す」とあり(註23)、万里集九(ばんり しゅうく)による「万秀斎」の命名及び詩作の例でも、依頼主の大石定重は、図工に命じて高楼からの眺望を絵に書かせ、それを万里集九の元に届け、彼は、それをもとに高楼の命名と祝福の詩文を書いており(註24)、太田道灌も静勝軒からの眺望をイラストにして京都の学問僧に詩文を書いてくれるよう依頼したのであろう。

正宗竜統の父親は美濃郡上の東益之で、僧籍にあったのを還俗して東(とう)家を継いでいる。東益之は建築、造園を好み、「嘉木醜石」を好んだといい、寝室のそばには枝振りの変った松(「怪松」)があり、「冨士山之種」であったという(註25)。

彼はその後鎌倉公方足利持氏の遺児を擁立し、室町幕府に対して反乱(結城合戦)を起こした結城氏朝の一味と目され、流罪に処されている。また、兄の東常縁は武将にして歌人。1471(文明3)年、宗祇に古今伝授を行なったことで知られる。下総の本家千葉氏の内紛に介入を命じられ、関東各地を転戦、古河公方(こがくぼう)足利成氏と戦争になる。

正宗竜統が住持をつとめた建仁寺も対明外交に関わっており、正宗竜統の兄南叟竜朔(なんそう りゅうさく)も明に渡っている。(註26)江戸期の鎖国後も、長崎にある建仁寺の末寺、春徳寺は、代々住職が輸入漢籍改役として中国貿易に直接関与している(註27)ほか、建仁寺は、輪番制で対馬以酊庵外交僧を出し、対朝鮮外交にも関与した。(註28)

建仁寺三門(望闕楼)wikipedia による

建仁寺三門(望闕楼)wikipedia による

正宗竜統が太田道灌に請われて書いた詩には、「城上軒窓開画図」とあり、静勝軒を建物全体の名前ではなく、建物の上層部分の名称と認識していたことが分かる。また、下記の「寄題江戸城静勝軒詩序」によれば、「静勝」は、「軒」の南面の名称である。ただし、希世霊彦は、建物の上層部分全体を「軒」とし、名称を「静勝之軒」とする。

「寄題江戸城静勝軒詩序」では、江戸城全体の構造を描写したあと、太田道灌の「軒」からの眺望について以下のように述べる。

「西のかた望む則(とき)んば原野を逾(こ)へて雪嶺天に界す、三万丈の白玉の屏風の如き者、東のかた視る則(とき)んば墟[底本は墟の业を丘につくる]落を阻みて、瀛海天を蘸(ひた)す、三萬頃の碧瑠璃の田の如き者、南のかた嚮ふ則(とき)んば浩乎たる原野、寛舒 廣衍、平蕪 茵(しとね)のごとくに布(し)く、一目千里、野 海と接し、海 天と連なる者。是れ皆、公の几案の間の一物のみ。故を以て軒の南を静勝と名づけ、東を泊舩と名づけ、西を含雪と名づく」

「東瀛晨霞の絢如(じゅんじょ)たる、南埜薫風の颯如(さふじょ)たる、西嶺秋月の皎如(かうじょ)たる者は、天の与ふる所也」(註29)

上記を総括すれば、表1に示すような構造が示される。

表1 正宗龍統(序)による江戸城静勝軒の眺望デザイン
方位 地目 遠望 境界 評 価 天象 属性 命名
墟落 瀛海 蘸天 如三萬頃碧瑠瑙之田者 晨霞 絢如 泊舩
西 原野 雪嶺 界天 如三萬丈白玉屏風者 秋月 皎如 含雪
原野 平蕪 茵布 一目千里、野與海接、海與天連者 薫風 颯如 静勝

西を白色、季節の秋で、東を碧(青)色、(霞の季節の)春で特徴付けているのは、五行説に基づく修飾であり、東に流水、南に平地があるとし、また文中に「城之東畔河有り、其の流れ曲折して南に入る」とあり、町に川が流れ込んでいるのを強調しているのは、易学的風水論に基づく祝福である。また、西方にある雪嶺とは、冠雪した富士山である。

そもそも、各理論に従い、理想的な土地であり、建築物として設計されていれば、問題なく詩文が完成するのだが、実際には、風水や五行配当に合致していないので、苦労のあとが偲ばれるのである。それでも上記のように脚色されることによって、江戸という地の実態を超越し、祝福された土地として演出される。おべんちゃらなのだが、こうした行為が当時における学問というものである。

小川剛生氏によれば「静勝・泊船・含雪と、城内の建造物に一種の美名を冠することは、禅寺の「境致」に由来する」が、「もちろん、境致はもとより観念的な小宇宙であり、現実と乖離があるのは当然である」という。(註30)

それらの命名は、おそらく太田道灌によるものであろうが、含雪、泊舩(船)は、杜甫の詩に、静勝は、『尉繚子』に出典をもつ。幅広い学問的素養が基礎にあることが分かる。また、玉村武二によれば、「禅僧は、身辺のあらゆる物体に対して、実用を離れた、象徴的な命名をしたがるもので、禅林語彙には、如何に名詞が多いことか、この事は、一寸誰しも気付かない事であるが、禅林文学の一大特質であり、これを名詞羅列の芸術とも観ることが出来よう。」「境致とは、境内の人目を惹くような木石水流亭楣楼閣橋梁等のうち、先述の如き禅宗一流の態度で命名を施されたものをいうので、多くは一定数を限つて定められ、殊に十境といわれるものが多い」という。(註31)

一方、「八景」は、北宋の画家宋迪の「瀟湘八景」を原点とするもので、鎌倉後期以降、禅宗五山に受容される。(註32)

正宗竜統は江戸の町や江戸城を実見したにせよ、その経験を記録文として書いたのではなく、現状の江戸を都市と城の理想に近づけて合理化し、美化された都市として表現することにより、祝福を与えることが主要な目的であった。一方、太田道灌としては、江戸と江戸城のコスモロジーを言語によって「投入」させることにより、自身の事業が成功裡に進行することを期待するのである。(註33)

ただし、高楼の建設についていえば、軍事的目的のほかに、眺望の獲得を目的としているため、建設前から望む方向にたいする眺めを得るための設計がされたに違いない。玉村竹二は、博多の妙楽寺では、呑碧楼という重層楼閣を作っており、了庵清欲の序によれば「禅燕の所」とあり、自然の海浜の眺望を取り入れた重層建築上の居室となっていることを紹介している。(註34)

一方、希世霊彦は実見せずに「江戸城静勝軒詩後序」を執筆しているため、記載内容が依頼者のコンセプトを超えないことがかえって明白である。

「凢(およ)そ関左に遊ぶ者は必ず以て冨士山を見、武蔵野を過ぎ、隅田河を渡り、筑波山に登る則(とき)んば皆四方観遊の美を誇るなり。」

「矧(いはむ)や夫れ此の城、最も勝景を鍾(あつ)め、寔(まこと)に天下の稀なる所なり、睥睨の隙、地の形勢に隨ひ、彼に楼館有り、此に台榭(だいしゃ)有り、特に一軒を置き、扁して静勝の軒と曰ふ、是れ其の甲たるなり、亭を泊舩と曰ひ、斎を含雪と曰ふ、各々其の附庸なり、若し其の軒に憑(よ)り燕座して、四面を回瞻する則(とき)んば、西北に冨士山有り、武蔵野有り、東南に隅田河有り、筑波山有り、此れ乃ち四方の観、此の一城に在り、而して一城の勝、又此一軒に在るなり、是に繇(よ)りて四方有志の士、復た遠遊せんことを欲せずして、但(ただ)一 此の城に登り、此の軒に到らんことを願ふ者は、亦其の理の当然なり」(註35)

表2 希世霊彦(後序)による江戸城静勝軒の眺望デザイン
命 名 四方之観

亭曰泊舩 隅田河
筑波山
西
斎曰含雪 冨士山
武蔵野

楼・館の一つである台榭に「軒」を置き、「亭」と「斎」を附庸として建設し、それぞれを静勝の軒、泊舩、含雪と命名したのである。そして(西、北)富士山、武蔵野、(東、南)隅田河、筑波山を眺めるのである。

「選ばれし地より見つめる。得がたい価値を備える。
                            江戸静勝軒、誕生」

といったマンションポエム(註36)の高尚版と思えばよいのだろう。それだけに依頼者の意図は露骨なほど明瞭に示されている。

伝富士見櫓移築 佐倉城銅櫓 黒田基樹『図説 太田道灌―江戸東京を切り開いた悲劇の名将』戎光祥出版 2009より

伝富士見櫓移築 佐倉城銅櫓 黒田基樹『図説 太田道灌―江戸東京を切り開いた悲劇の名将』戎光祥出版 2009より

「台榭」は楼台等の建築物を指す。『尚書·泰誓上』に「惟宮室台榭、陂池侈服、以残害於尓万姓」と見え、孔穎達疏に引く李巡の解説では「台、積土為之、所以観望也。台上有屋謂之榭」と解説される。「台」は方形に土を築固めた土台、版築と呼ばれる工法で、仏塔建築の土台や城郭の土塁に用いられ、現在でも相撲の土俵などの工法に見られる。

「榭」は高台式の建築物でしばしば層状に構築される。物見の目的で避暑、気象観測、貯蔵などの用途に用いられたという(註37)。「軒」は、大夫以上の乗る車の意味から、建物の屋根の下部の「のき」または「のきのてすり」の意味に変った。さらに遅れて家の意味になる。「斎」は断食の意味から読書、休息、瞑想、斎戒する小部屋の意味に転じた。

「亭」は、四面を解放した建築様式で、アジア各地に見ることができる。

ベトナムでは、キン族(Người Kinh)によってĐinh ディン(亭)と呼ばれる村や町の共同体の中心施設が作られ、祖先や村の守護神を祀る廟、集会所などを複合し、しばしば複数の建築物の複合として構成される。ただし必ずしも開放式の建築ではない。(註38)ベトナムは、1945年の独立後、ホー・チ・ミン(Hồ Chí Minh)により、東洋博古学院が古跡保護の責任を持つようになり、現在は文化情報省が歴史文化遺跡指定制度をのもとに歴史文化遺跡保護を行なっており、現在の総指定件数約2,800件のうち、約2,000件は寺、ディン、廟、 Đền  デン(祠、神社)が占めているという。(註39)中世日本の村には、「惣堂」と呼ばれる共有の中心施設があり、宗教行事の場になるほか、共同仕事、旅人の宿泊、集会、一揆の決定を行なう自治的な場所であったという。(註40)ベトナムのĐinh ディンと共通の要素があるように思われる。

中国語における「亭(ティン tíng)」の意味は、国境辺の物見台の意味から、行政単位、行政単位に置かれた宿駅と意味を転じ、庭園や池の畔、名勝地に作られる四方開放式の小建築物(亭子 ティンズ tíng zi)の意味になる。方形のほか、八角形や円形のものがある。
白川静によれば、「みる」ことは、古代には呪術的要素が強く、戦闘のさいにも媚人と呼ばれる巫女集団や望乗と呼ばれる氏族が先陣に立ち、「みる」ことにより敵方を呪的に屈服させることを目的にしていたというが、落合淳思氏によれば、原甲骨文の誤読に基づくものであるとのことである。(註41 注意)。

庭園と亭については、(宋)黄庭堅に「借景亭 併序」という漢詩作品がある。(註42)

青神県中得両張、愛民財力惟恐傷、

二公身安民乃楽、勧葺城頭五月凉、

竹鋪不涴呉綾襪、東西開軒蔭清樾、

当官借景不傷民、恰似鑿池取明月、

のちに北東アジア全域に影響を及ぼすことになる「借景」という重要な概念を作り出した端緒となる詩であるが、周宏俊氏は、借景に2種類の基本的な構造を見出している。一つは、「借景亭型」で、自分の居所である高い視点場から隣の庭園の風景が見える形式。もう一つは、「尺幅窓型」で、部屋の中あるいは窓口の内側で、外の風景特に窓口の外の植物が見える形式であるとする。黄庭堅は、五山僧に大きな影響を及ぼし、当時「東坡(蘇軾の号)、山谷(黄庭堅の号)、味噌、醤油」という言葉が流行したという。(註43)

万里集九は、抄物『帳中香』で、黄庭堅の詩文を紹介しており、本詩「借景亭」も詳細に解説している。(註44)

朝鮮半島には、高麗期にもたらされたのち、朝鮮期に盛んに作られ、独特の展開を遂げる。村の権力者の住居で、一族の長男が代々暮らし先祖の祭祀を執り行う家である「宗家(チョンガ 종가)」と対をなして、小亭式の「亭(チョン 정)」が作られる。「宗家」は厳密に風水論に従って選地造営されるが、「亭」はもっぱら眺望の意図が優先される。多くは「八景詩」を伴い、村を中心とした風景を詩歌の形で記述し、「亭」はその視点場としての役割を果たす。(註45)

前近世の日本列島に、「亭」は、まず宿駅の形で導入され、仏寺の小房の意味で使われるようになる。眺望型の小亭が登場するのは、廃帝淳仁天皇の近江保良宮の池畔に作ったと見えるのが最初の記録である。(註46)本格的な「亭」様式は、中世以降にもたらされ、当時の中国音(唐音)により「ちん」と呼ばれた。また、「みる」力について、日本においても、例えば国見等に呪術的な意味がこめられていたことはよく知られている。花見、潮見、月見についても同様であることは、前章で示した。

日本語では、「アバラヤ」「アヅマヤ」という語がある。四面開放型の「亭」様式をアバラヤというのは、『十巻本和名抄』(934ごろ成立)に早くも登場する。アヅマヤは、四方葺き出しの寄棟造りを指していった言葉であるが、『運歩色葉集』(1547~1548ごろ成立)では四方に壁のない屋の総称とある。(註47)

また、「あつまや いやしき家を云也、又仙洞のすみかなんどをも申也」(註48)等と説明されるように、むさくるしいアバラヤという侮蔑的表現でもあるが、それ以上に、東国を表わす「アヅマ」の名で呼ばれることに注意が必要である。また、国名の「武蔵」の語源が「ムサムサ」(荒れ地にぼうぼうと藪が生い茂っている形状)という説もあり、東国に対するイメージが了解できよう。(註49)

亭という建築様式が、東国において西国以上に盛んに建設されており、東国の特徴的な建築様式になっていた可能性は高い。

なお、「附庸」の語があることから、菊池山哉は、「棟は三つであつたに相違なく、」「棟続きかとも思われる。按うにこれは寝殿造りの形式を取り、泊船も会【含】雪も別棟の対屋であり、中に庭を置いて、渡り廊を以て通じて居つたものであろうか」と考察するが(註50)、詩文全体の解釈からこの説には従わない。

京五山僧の「寄題 左金吾源大夫江亭」の詩によれば、

「伝へ聞く静勝軒中の景、四面の窓扉一々開く」(希世霊彦)(註51)とあり、静勝軒の四面が開口すること、「収めて青油幕(将軍の帳幕)の下 山を作る」(横川景三)(註52)の句により、開口部から山が見え、「城上の軒窓 画図を開く」(正宗竜統)(註53)、絵のような美しい景色がひろがることを表現している。大道寺友山のいう八方正面とは、恐らく櫓の上層部が全開口するさまを表現していたのだろう。そして具体的な眺望のありさまは次のように表現される。

「雲連雪嶺水連呉」「碧天低野入平蕪」(正宗竜統)(註54)

「三州冨士天辺雪」(横川景三)(註55)

「風帆多少載詩去、吹雪士峯晴堕江」(蘭波景茝)(註56)

「野闊靑丘呑帯芥、天晴碧海望蓬莱、啇帆似自平蕪過、漁火如従遠樹来、吾老無期泊船処、関心西嶺雪成堆」(希世霊彦)(註57)

と表現されている。これを空間構造の観点でまとめたのが、次の表である。

表3 京五山僧による江戸城静勝軒の眺望デザイン
方位 正宗竜統 横川景三 蘭波景茝 希世霊彦
水連呉 風帆多少載詩去 啇帆似自平蕪過、漁火如従遠樹来、吾老無期泊船処
西 雲連雪嶺 三州冨士天辺雪 吹雪士峯晴堕江 関心西嶺雪成堆
碧天低野入平蕪 野闊靑丘呑帯芥、天晴碧海望蓬莱

同じように鎌倉五山僧の「寄題 左金吾源大夫江亭」の詩を見ると、(註58)

「士嶺衝天東海瀾」(子純得么)

「北帆南楫日斜西」(集翁興徳)

「東溟浸戸波黏地、西嶺当窓雪界天」(春江中栄)

「士嶺之東湘水北、一亭新架有高城」(河陽東歓)

と表現されている。これを空間構造の観点でまとめたのが、次の表である。

表4 鎌倉五山僧による江戸城静勝軒の眺望デザイン
方位 子純得么 集翁興徳 春江中栄 河陽東歓
東海瀾 東溟浸戸波黏地
西 士嶺衝天 日斜西 西嶺当窓雪界天 士嶺之東
南楫 湘水北
北帆

実見の機会があったのか、土地勘によるのだろう、モチーフがばらばらであるのが分かる。

子純得么(しじゅん とくよう)の『左金吾源大夫江亭記』では、

「関左形勝の雄、武を以て冠と為し、武は大国なり、其の山木奇傑にして、要𡽗を兼する者は、江戸其れ武の冠か、相府連幙に距てて百里なるべし。緑蕪白沙海に並びて以て北す、王簪の山、羅帯の水、跋渉勌むことを忘れて、日の将に晩れんとするを覚へざるなり、翠壁丹崖、屹然として以て高く峙ち、珎卉佳木、蔚然として中に秀づるは、廼ち左金吾公源大夫の築く所の新城なり、攀ぢて以て躋り、俯して以て臨む、四面斗絶、直下百丈、東南の佳山水、歴々として以て杖履の下に在り、南に顧るときは則ち品川の流れ、溶々漾々として以て碧を染む、人家北南の鱗差す、而して白墖紅楼、鶴のごとく立ち、翬のごとくに飛ぶ、以て其の中に翼然たり、東武の一都を会にして揚一益二の亜称有るなり。東に望むときは則ち平川縹緲として長堤緩く廻る、水石瑰偉として佳気欝芬、之を浅草濵と謂ふ、白花大士遊化の場なり、巨殿宝坊、輪奐として以て数十里の瀛を掩映す、補洛の妙境、神人の所幻と云ふ、其の後ろは則ち滄洲茫乎して、百川海と会す」

「城上 間燕之室を置く、扁して静勝と曰ふ、々々【静勝】は蓋し兵家の機密か、其の西簷に当りて、冨士峯の雪有り、天芙蓉を削りて以て玉のごとくに立つこと三万余丈、其窓を含雪と曰ふなり、南檻に凭る則んば積水天に涵し、沙觜洪潮を含吐し、以て暁夕に出縮す、群山岸を隔て、雲鬟 濃翠を梳洗して、陰晴に隠見す、自然無軸の画なり、鳧渚鷗汀、漁家民屋、藉を枕して以て雑処す、沙戸水扉、人朴(はく)にして地清し、旅舩の泊る所なり、青龍赤雀、舳艫相銜(ふく)む、蘭棹桂槳、舸経舫緯、織るが如くにして、欵乃(らうあい)之声断ゆること無きなり、江情湖思、寔(まこと)に楽矣哉(たのしいかな)、小亭を締し泊舩と曰ふなり」(註59)

「静勝」と名付けられた城上のやすみどころの西の窓を「含雪」と命名し、また、小亭を締(むす)んで「泊舩」と名付けている。なお、青竜は東、赤雀(朱雀)は南の霊獣であり、ここでは方位を示している。

表5 子純得么(江亭記)による江戸城静勝軒の眺望デザイン
方位 地 勢 評 価 命名
平川縹緲兮、長堤緩廻、水石瑰偉兮、佳気欝葱、謂之浅草濵、白花大士游化之場、巨殿宝坊、輪奐以掩映乎数十里贏、補洛妙境、神人所幻云、其後則滄洲茫乎、百川与海会 積水涵天、沙觜含吐洪潮、以出縮于暁夕、群山隔岸、雲鬟梳洗濃翠、而隠見于陰晴、自然無軸之画也、鳧渚鷗汀、漁家民屋、枕藉以雑処、沙戸水扉、人朴地清、旅船之所泊也、 締小亭曰泊舩也
西 有冨士峯之雪天削芙蓉、以玉立三万余丈 其窓曰含雪也
品川之流、溶々漾々以染碧、人家鱗差乎北南、而白墖紅樓、鶴立翬飛、以翼然乎其中、東武之一都会、有揚一益二之亜称也 青竜赤雀、舳艫相銜、蘭棹桂槳、舸経舫緯如織、而欵乃之声無断也、江情湖思、寔楽矣哉

浅草浜は、江戸地域で最も古く栄えた湊(石浜湊)で、浅草観音を引上げ、祭ったという伝説のある浅草寺の鎮座する場所であり、江戸城と目と鼻の先の石浜城は、太田道灌により、古河公方に敵対して領地を追われた千葉実胤に与えられている。品川津は、南東の風によって形成される長い砂洲によって河口から内水域に導かれる、ベトナムのホイアン(Hội An)とよく似た地形の良好な港湾都市で、江戸湊以前に太平洋海運の拠点として栄え、自らも紀伊熊野出身で熊野大社に結びつく有徳の者、鈴木道胤、榎本道琳の根拠地であった。また、品川湊は中世期、内海と呼ばれた現在の霞ヶ浦、北浦、利根川を含む、高度な自治権を有した内水域世界とのつながりが強く、奥州から北関東を経て内海世界、江戸湾へとつながる大輸送路の要であった。(註60)

また、銚子の漁民も近世に至るまで、その多くは紀伊からの移入民であるという。(註61)

また、「含雪」は、「斎」という建築物として考えられる例もあるが、ここで明示されているように「窓」の名称である。讀賣新聞の編集長をつとめた大庭柯公は、「大都会から山々が見えることは日本の都会の特長の一であらう。(中略)宮城なる蓮池門内の三層閣は、富士見の御矢倉と云つて、旧建築の一に属する。太田道灌の静勝軒はすなわち此処であるとの説もある。江亭記に所謂「当其西簷、而有富士峰之雪、天削芙蓉、以玉立三万余丈、其窓日含雪也」がそれで、彼が含雪窓から西方に大岳を眺めて、豪気を遣つて居つた容子が想像される。しかも唯独り富士ばかりを語つてをつたものではない、有名な嘉陵紀行には、江戸から見える山々の見取図が挿入してある。或は玉川屏風嵓前西北秩父八王子諸山の図とか、或は染屋原西南望諸山の図とか云ふのがある。何んたる古人の用意の周到なることであらうか。今人が若し東京を語つて、這の遠山の眺望に想ひ及ばなかつたならば、そは詩想に於て、美感に於て古人に劣ることの甚だしきものである」と正しく解説している。(註62)

大庭柯公は、長門赤間関竹崎で問屋業を営み、薩摩藩の御用達商人でもあった白石正一郎の甥。幼少時に父を失い、小学校卒業後は太政官の給仕などの仕事をしながら夜学で英語やロシア語を学び、その中で二葉亭四迷と知り合う。たびたびロシアに渡航、大阪毎日新聞、東京日日新聞、東京朝日新聞記者を経て読売新聞の編集長となる。日本社会主義同盟の創立にかかわり、1921年、読売新聞の特派員として極東共和国に入るが(註63)、旧ソヴェト連邦に逮捕、粛清されたと思われる。(註64)

内海世界(概念図)「千年前の関東平野」農業土木歴史研究会編『大地への刻印  この島国は如何にして我々の生存基盤となったか』全国土地改良事業団連合会 1988 を引用、一部

内海世界(概念図)「千年前の関東平野」農業土木歴史研究会編『大地への刻印 この島国は如何にして我々の生存基盤となったか』全国土地改良事業団連合会 1988 を引用、一部

太田道灌はさらに上野国館林の茂林寺の堂頭(どうちょう)大林正通(だいりん しょうつう)を介し、万里集九に詩作の依頼と江戸への招聘の交渉を開始した結果、1485(文明17)年、万里集九は江戸に到着する。万里集九は、城内に庵室を与えられ、それを「梅花無尽蔵」と命名する。

万里集九は、江戸到着に先立って「静勝軒」と題する詩を書く。万里集九と親交のあり、当時きっての文人であった建長寺162世の竺雲顕騰、同164世住持の玉隠英璵、の詩と自詩を並べて、それに序を付している。詩は次の通り。万里集九の詩によれば、「主人 窓に溥山(あまねくすべての山)を置きて対す」とあり、詩では富士山のみが登場するが、眺望の主体は山岳であったことが示されている。(註65)

「江碧白鷗千戸侯」(玉隠英璵)

「滄波倒浸士峯雪、一朶芙蓉百億山」(竺雲顕騰)

「遠波送碧数州天」「一縷吹残富士煙」(万里集九)

表6 鎌倉五山僧及び万里集九による江戸城静勝軒の眺望デザイン
方位 玉隠英璵 竺雲顕騰 万里集九
江碧白鷗千戸侯 遠波送碧数州天
西 滄波倒浸士峯雪、一朶芙蓉百億山 一縷吹残富士煙

これらにおいては、櫓からの視線が東西軸に特化、限定されている。詩作のために太田道灌から万里集九に静勝軒からの絵図が送られたと想定しえたとしても、それは、四方を望む複数の図ではなく、東西軸を中心にした一枚の絵であったのかもしれない。

さて、江戸城についた万里集九が書いた鎌倉五山僧と万里集九の詩の序が「静勝軒銘詩並序」である。その一部を紹介する。

「城営の中(うち)に、燕室有り、静勝と曰ふ、西は含雪と為し、重〻の窓欞に透(とほ)し貫く、而して戸巧みに、径三二尺の円竅を鑿(うが)つ。〻〻(えんけう)の中に、千万仭の冨士を望む。則ち旦(あした)の雲 暮の煙、頃刻の隠顕なり、昨(きのふ)の陰(くも)り 今(けふ)の晴、造次の態度なり、作者舌を結び、画師筆を閣(お)く、西は兌なり、兌は沢なり、沢は地の潤和なり、兌の卦辞に曰く、君子は朋友を以て講習すと、公の徳沢弥(いよいよ)滔(はびこ)り、万物に覃(およ)ぶの謂(いひ)なり、東は泊舩を為し、上下天光、一碧万頃、数州を併せ呑む、東は震なり、震なる者は雷なり、雷なる者は天の号令なり、震の卦辞に曰く、君子は恐懼して修省すと、公の軍令弥(いよいよ)厳に、国家を靖んじ士卒を賑はすの謂(いひ)なり、震兌両扉の名は、拾遺の聯に出づと雖も、其の義は寔(まこと)に周易に係る」(註66)

これを空間構造によって、表に示す。

表7 万里集九(序)による江戸城静勝軒の眺望デザイン
方位 命名 状 況 卦名 卦象 意味 卦辞 予兆
泊舩 上下天光、一碧万頃、併呑数州 天之号令 君子恐懼修省 公之軍令弥厳、靖賑国家士卒之謂也
西 含雪 透貫重〻窓欞、而戸鑿径三二尺之円竅、〻〻之中、望千万仭冨士。則旦雲暮煙、頃刻之隠顕、昨陰今晴、造次之態度、作者結舌、画師閣筆 地之潤和 君子以朋友講習 公之徳沢弥滔、覃万物之謂也

ここでも、やすみどころの名が静勝であるとする。西を「含雪」と呼んでいるのは、次のような仕掛けがあるからである。やすみどころの西側には窓があり、窓を閉める戸には丸い穴があけてあり、その中に富士山を望むことができるというのである。東は「泊舩」で天地に陽光が満ち満ち、紺碧の海が広がるとする。「含雪」、「泊舩」とは東西の「扉」(註67)の意味であることが明かされる。さらに万里集九は、『易経』の所見を引用して、易学的に太田道灌の軍功を予祝するのである。

今風に解説すれば、江戸城の高楼の最上部は、パーテーションにより個室となる、西向きのクローズドな空間と、東及び南向きのオープンな「亭」構造の組み合わせとして設計され、西窓の「戸」には60~90cmの円形の開口を設け、朝に夕に富士山を望む仕組みになっている。これは「尺幅窓型」と見ることが可能である。また、一方の開放構造の「亭」からは日比谷入江、江戸湾と品川湊、南関東にかけての大パノラマが広がっていたことが想像できる。「戸」は扉型の引き戸であったか、上下に開く蔀(しとみ)戸であったかは示されていない。(註68)後の時代に谷文晁の描いた「道灌江戸築城の図」を見ると、蔀戸になっている。円形の開口を作るにはその方がよいだろう。

谷文晁 道灌江戸築城の図 黒田基樹『図説 太田道灌―江戸東京を切り開いた悲劇の名将』戎光祥出版 2009より

谷文晁 道灌江戸築城の図 黒田基樹『図説 太田道灌―江戸東京を切り開いた悲劇の名将』戎光祥出版 2009より

(2014年3月27日、福島伝兵衛国隆の「姓」のよみ「くしま」を追加しました)

 


 

註1 『落穂集』(1727(享保12)年)1巻「御城内八方正面御櫓之事」、テクストは大船住人「古文書を楽しむ」による、ただし旧字を新字に改めた
註2 柳沢重也「鎖国初期のスウェーデン人たちの日本遍歴」『上田女子短期大学紀要』13号 1990、小曽根淳「紅毛流として伝来した測量術について(I)」数理解析研究所講究録第1787巻 京都大学 2012
註3 平岡隆二「「大円分度」の研究 佐賀とエジンバラに現存する北条流測量器具」『財団法人鍋島報数会研究助成研究報告書』第5号2011、堀口俊二「樋口権右衛門(小林謙貞)の南蛮流測量術と紅毛流測量術 Gonemon Higuchi (Kentei Kobayashi)’s Portugal Surveying and Netherlands Surveying」『新潟産業大学経済学部紀要』第40号 新潟産業大学東アジア経済文化研究所 2012
註4 根岸茂夫「所謂「慶安軍役令」の一考察―慶安二年「御軍役人数積」をめぐって―」日本歴史学会『日本歴史』383号 吉川弘文館 1980
註5 『軍事史研究』2巻5号 軍事史学会 1927、未見
註6 平岡隆二「「大円分度」の研究 佐賀とエジンバラに現存する北条流測量器具」『財団法人鍋島報数会研究助成研究報告書』第5号2011
註7 根岸茂夫「所謂「慶安軍役令」の一考察―慶安二年「御軍役人数積」をめぐって―」日本歴史学会『日本歴史』383号 吉川弘文館 1980、山本英二「「慶安御触書」成立試論」山梨県教育庁学術文化課『山梨県史研究』第2号 山梨県 1994
註8 池内宏「鄭芝竜父子の日本乞師」歴史学研究会『歴史学研究』第7巻第4号 四海書房 1937、池内宏『日本乞師の研究』冨山房 1945、徐興慶「東アジアの視野から見た朱舜水研究」『日本漢文学研究』2号 2007 二松學舎大学
註9 田井健太郎「『士鑑用法』にみられる北条氏長の武士観」『体育哲学研究』38号日本体育学会体育哲学専門分科会 2008
註10 松尾晋一『江戸幕府と国防』講談社選書メチエ543 講談社 2013
註11 『道灌記』に見え、現行本『永享記』に収録されている
註12 西ケ谷恭弘編著『ニッポンの城 世界が注目するニッポンの城!戦国武将と城 城で語る13人の戦国武将』エイムック1872 枻出版社 2010
註13 前島康彦『太田道灌と萬里和尚―詩僧の記行文よりみた五百年前の江戸』武蔵野郷土叢書 第8輯 武蔵野文化協会 1956 に「関東における易学の中心は足利学校と鎌倉禅林の五山にあり、道灌も或いは若年の時こゝに学んだのではないかと思われる」と示唆されているが、無根拠であることにかわりはない。同著は、前島康彦『関東武士研究叢書 第3巻 太田氏の研究』名著出版 1975 に「「静勝軒記」「江亭記」に見る江戸城と道灌」として収録されている
註14 栃木県足利市『世界遺産暫定一覧表記載資産候補に係る提案書 資産名称「足利学校と足利氏の遺産」』2007
註15 松田毅一 川崎桃太『日本史4五畿内篇II』中央公論社 1978
註16 栃木県足利市『世界遺産暫定一覧表記載資産候補に係る提案書 資産名称「足利学校と足利氏の遺産」』2007、ただし、村井章介『世界史の中の戦国日本』ちくま学芸文庫ム5 1 筑摩書房 2012 の写真図版キャプションでは、Miaco Academia(都学院)と解説している
註17 小泉功『太田道真と道灌 河越・江戸・岩付築城五百五十年記念』幹書房 2007
註18 『異本北条記』江戸合戦の事、テクストは北区史編纂調査会『北区史 史料編 古代中世2』東京都北区 1995
註19 小川剛生『武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで』角川学芸出版 2008
註20 西尾賢隆「元朝信使寧一山考」日本歴史学会『日本歴史』第509号 吉川弘文館 1990、村井章介「渡来僧の世紀」石井進編『都と鄙の中世史』吉川弘文館 1992、村井章介『東アジア往還―漢詩と外交』朝日新聞社 1995
註21 座談会 高柳光寿 稲村坦元 前島康彦「太田道灌をめぐつて」『武蔵野』230号 武蔵野文化協会 1956年10月 における高柳の発言
註22 前島康彦『太田道灌と萬里和尚―詩僧の記行文よりみた五百年前の江戸』武蔵野郷土叢書 第8輯 武蔵野文化協会 1956 によれば、「竜統は東国に由緒ふかい東の一族であるから、幼時は勿論長じてからも屢々江戸の地を踏み江戸城についてはかなりの見聞をもつていたと思う」とする。東氏は、確かに千葉氏の一門であるが、代々の所領は美濃郡上であり、竜統自身は、幼時に仏門に入っている
註23 『文明明応年間関東禅林詩文等抄録』、テクストは、信濃史料刊行会編輯『信濃史料 第十巻』信濃史料刊行会 1957による、一部漢字を復活
註24 万里集九『梅花無尽蔵』巻2、巻6。「万秀斎詩」の詩題に「武蔵目代大石定重之を請ひ、画工に命じて其の斎を図す」とある。詩文は後述
註25 正宗竜統「先人故宅花石記」玉村武二編『五山文学新集 第4巻』東京大学出版会 1970
註26 正宗竜統「故左金吾兼野州太守平公墳記」『禿尾長柄箒 第三』、玉村武二編『五山文学新集 第4巻』東京大学出版会 1970
註27 「魅惑の清朝陶磁」長崎歴史文化博物館サイト
註28 田代和生『書き替えられた国書 徳川・朝鮮外交の舞台裏』中公新書694 中央公論社 1984
註29 訓読は、当時の受容者サイドの形式を示すため、基本的に荏柄天神社本の朱点に従った。「則」は仏家では「スナハチ」と訓ずるのが通例。本文は、『禿尾長柄箒 第四』玉村武二編『五山文学新集 第4巻』東京大学出版会 1970に、朱点は、『御鎮座九百年 荏柄天神社[資料篇]』所収の写真によった。他に、『埼玉県史』『北区史』『板橋区史』を参照した。また、『江戸城静勝軒詩序並江亭記』全体の訓読、校注と解釈については、藪野直史氏の電子テクスト化作業に多くを負っている。また、前島康彦『太田道灌と萬里和尚―詩僧の記行文よりみた五百年前の江戸』武蔵野郷土叢書 第8輯 武蔵野文化協会 1956に恩恵を受けた。
註30 小川剛生『武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで』角川学芸出版 2008
註31 玉村武二「禅宗の境致―特に楼閣、楼橋について―」『仏教芸術』26号 毎日新聞社 1965
註32 堀川貴司『瀟湘八景 詩歌と絵画に見る日本化の様相』国文学研究資料館編 原典講読セミナー8 臨川書店 2002
註33 中井久夫「概説―文化精神医学と治療文化論―」『岩波講座 精神の医学8治療と文化』では、天理教教祖中山みきによって行なわれた奈良盆地のコスモロジーの再編成を解説している
註34 玉村武二「禅宗の境致―特に楼閣、楼橋について―」『仏教芸術』26号 毎日新聞社 1965
註35 底本は、希世霊彦『村庵稿 下』玉村武二編『五山文学新集 第2巻』東京大学出版会 1968
註36 大山顕氏の命名になる。大山顕「高級マンション広告コピー「マンションポエム」を分析する」デイリーポータルZ、大山顕「さらに「マンションポエム」を分析する」デイリーポータルZ、また、三土たつお「不動産コピーの高級感」デイリーポータルZの不動産コピーのジェネレーターは秀逸である。試しに「江戸静勝軒」と入力した結果を本文に掲げた。ぜひ色々お試しいただきたい
註37 中国汉语大词典编辑委员会、汉语大词典编纂处编纂『漢語大詞典 第九巻』漢語大詞典出版社1992、田中淡「台榭」の項『世界大百科事典 16巻』改訂新版 2007
註38 上原英樹「ディン」長谷川啓之 上原秀樹 川上高司 谷口洋志 辻忠博 堀井弘一郎 松金公正『現代アジア事典』文眞堂 2009、末成道男「キン族村清福から見た明郷天后宮」『周縁の文化交渉学シリーズ 7 フエ地域の歴史と文化―周辺集落と外からの視点―』関西大学文化交渉学教育研究拠点 2012
註39 wikipedia「ベトナム」
註40 藤木久志『中世民衆の世界 ―村の生活と掟』岩波新書 新赤版1248岩波書店 2010
註41 白川静「眼 この神を視るもの」『季刊自然と文化』11号 財団法人観光資源保護財団 日本ナショナルトラスト 1985、白川静『中国古代の文化』講談社学術文庫441 講談社 1979。落合淳思『漢字の成り立ち『説文解字』から最先端の研究まで』筑摩選書0089 筑摩書店 2014によれば、白川の読解「眉人三千をして、呼びて苦方を望ましむること勿からんか」は、「人三千を眉し呼びて【工と𠙵の合字】〔方〕を望せしむる勿からんか」の誤りで、「眉」は視察・閲兵、「望」は偵察の意味であるという
註42 黄庭堅撰 任淵注『山谷内集詩注 巻十三』欽定四庫全書1782
註43 禅僧にとっての必需品を上げたという説のほか、蘇東坡の父老泉、弟の子由の文人3人の意味で三蘇、すなわち「みそ」という語呂合わせという説もあり、こちらの語源説の方がしゃれている。大田南畝『一話一言』15「味噌のから名を東坡と付けたるやうの事はやさしく侍る。覃案、三蘇といふことか」
周宏俊「借景の展開と構成-日本·中国造園における比較研究」2012
註44 万里集九『帳中香 第十三之下』慶長元和古活字版
註45 鄭泰烈 斎藤潮 金在浩「韓国の伝統的村落における眺望構造について―宗家と亭の関係に着目して―」『都市計画』48巻4号 日本都市計画学会 1999、鄭泰烈「韓国の伝統的眺望構造の構造―慶尚北道の亭を中心として―」2000年博士(工学)学位論文、鄭泰烈 斎藤潮 金在浩「亭における八景式の風景鑑賞について―韓国の慶尚北道をケーススタディとして―」『都市計画』別冊35号 日本都市計画学会 2000
註46 『続日本紀』巻第24 天平宝字6(762)年3月壬午【3日】条
註47 「あずまや」『建築大辞典 第2版〈普及版〉』彰国社 1993、静嘉堂文庫蔵本では「四阿屋(アヅマヤ)四方𢂡無之」とある(中田祝夫 根上剛士『中世小辞書四種研究並びに総合索引 影印篇』風間書房 1971)。京都大学附属図書館所蔵『運歩色葉集 第三』では「四阿屋(アヅマヤ)四方□無之」とあり、虫食いの文字の「へん」は土偏である(京都大学国語学国文学研究室『元亀二年京大本 運歩色葉集』臨川書店 1969)
註48 月村斎宗碩『藻塩草 巻6 』居所 屋 1513頃成立、「あづまや」『時代別国語大辞典 室町時代編一』三省堂 1985による
註49 『文京区史』巻1 文京区役所 1967
註50 菊池山哉『五百年前の東京』東京史談会 1956
註51 テクストは希世霊彦『村庵稿 下』玉村武二編『五山文学新集 第2巻』東京大学出版会 1968
註52 テクストは横川景三『補庵京華前集』玉村武二編『五山文学新集 第1巻』東京大学出版会 1967
註53 テクストは正宗竜統「寄題江戸静勝軒詩序」『禿尾長柄箒 第四』、玉村武二編『五山文学新集 第4巻』東京大学出版会 1970
註54 テクストは正宗竜統「寄題江戸静勝軒詩序」『禿尾長柄箒 第四』、玉村武二編『五山文学新集 第4巻』東京大学出版会 1970
註55 テクストは横川景三『補庵京華前集』玉村武二編『五山文学新集 第1巻』東京大学出版会 1967
註56 テクストは蘭波景茝『黙雲藁』玉村武二編『五山文学新集 第5巻』東京大学出版会 1971
註57 テクストは希世霊彦『村庵稿 下』玉村武二編『五山文学新集 第2巻』東京大学出版会 1968
註58 テクストは『板橋区史』を底本に『埼玉県史』『北区史』によった
註59 テクストは『東京市史稿 皇城篇 壱』東京市役所 1911所収写真図版による
註60 柘植信行「開かれた東国の海上交通と品川湊」網野善彦 石井進編『中世の風景を読む―2 都市鎌倉と坂東の海に暮らす』新人物往来社 1994、市村高男「中世東国における内海水運と品川湊」『品川歴史館紀要』第10号 1995、品川区立品川歴史館編集、『平成20年度特別展 東京湾と品川―よみがえる中世の港町―』図録 品川区教育委員会 2008
註61 銚子市外川ミニ郷土資料館での聴取り
註62 大庭柯公「見える山々」『其日の話』春陽堂 1918
註63 wikipedia「大庭柯公」
註64 加藤哲郎作成「旧ソ連日本人粛清犠牲者・候補者一覧(2014・1・1現在)」加藤哲郎のネチズン・カレッジ情報収集センター
註65 万里集九『梅花無尽蔵 六』玉村武二編『五山文学新集 第6巻』東京大学出版会 1972
註66 底本は『梅花無尽蔵 六』玉村武二編『五山文学新集 第6巻』東京大学出版会 1972、鑿:底本は[鹽の「あし」を金に作る]。畫:[尺+𦘕の「あし」に作る]。訓読は市来武雄『梅花無尽蔵注釈 第4巻』続群書類従完成会 1994による
註67 門扉のような形をしたもの 汉语大字典编纂委员会『漢語大字典 第三巻』四川辞书出版社 湖北辞书出版社 1988
註68 宮本常一『日本文化の形成(遺稿)』そしえて 1981 では「中世の宮殿や神社などには内外の障壁を蔀戸にしたものが多く、古い寺院が扉を用いているのと対照的である」とし、蔀戸は漁家に多く、船の構造を地上の住居型式に持ち込んだものと見る

 

※ 2014年9月6日、白川静による甲骨文解釈について、落合淳思『漢字の成り立ち『説文解字』から最先端の研究まで』により訂正、註記の文を追加しました。
2014年11月20日、註29の解説部分誤記のため「即」を「則」と訂正しました。

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