今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

富士見と富士見坂(4)の8 日暮里花見寺と文化11年のダイヤモンド富士(8)

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天明飢饉を受けて登場した松平定信は、倹約の徹底や農業生産の保護拡大を目指す重農主義と緊縮財政を強調する、朱子学に基づくイデオロギッシュな政策(寛政改革)を敢行するとともに、囲米や七分金制により、最低限の社会保障の底支えとなる貨幣と備蓄食糧の社会フォンドを創出し、これを窮民の救済にあてる政策を取った。これは、明治になって新政府になって取り崩されてしまうが、「封建的社会政策」として特徴付けられ(註299)、その政策と基金の一部は、近代の渋沢栄一の社会事業へと継承されている。松平定信も学問と芸術を愛好した人物であり、『花月日記』と題した日記を書き続けている。井田太郎氏は、松平定信の作品の中に日没後にシルエットで現れる「黒富士」が描かれていることを発見、前近代の写実的なものを見ている。(註300)

浴恩園之図 海上保安庁海洋情報部海図アーカイブより引用

浴恩園之図 海上保安庁海洋情報部海図アーカイブより引用

松平定信は、1801(享和1年)年、白河に日本最古の公園である南湖公園を造園して一般に開放し、自らの隠居後の生活は築地の下屋敷とその庭園である浴恩園で過ごす。柳沢信鴻のような享楽的生活は送らず、ストイックな毎日を過ごしていたが、実に久しぶりに飛鳥山を訪れる。以下は、その日の記録である。松平定信の日記は、当時擡頭していた国学の影響を受けたものか、はなはだ読みにくい擬古文で書かれているが、貴重な記録なのでお許しいただきたい。

1814年11月17日(文化11年10月6日)
「六日 大塚のなりどころへ行。北のかたも行給ふ。げに小春の空うらゝかなり。庭のもミぢ盛にて、木の下にやすらふ人のおもてにも、うつる斗なり。木かげハ菊の花の、いとさゝやかなるを、しげくうへたれバ、いろ〱の氈しきたらんやうなり。例の野原ハ冬がれて、道のいく筋もミえたる、おかし。ひるいひくひて王子のあたりへ行んと定栄と共に行。もとより馬ハ五ツ六ツ斗ひかせ、こしつらせおのれは、かちもて行。こゝらの川ハ、はや山川おぼえて心ちすむ斗なり。滝の川といふところへ行。もミぢ、水にうつれる、おかし。王子の権現は、いとかミさびたり。いなりへ行てミる。こゝハ、いしなどたゝミみたるさま、つくりかかざりしなり。こゝらに、あつき帋にて人かたきり、それにほそき竹を二筋つけ、その一ツの竹をうごかせバ、人がたの、あるハ手をうごかし、あしはたらくさます。昔は狐のすがた斗おろそかに、つくりなしたるが、今ハ狐のハなくて、さま〲人のかたち、つくりなせり。こゝを過て、あすか山へ行ぬ。げに、春の花ゆかしけれど紅ぢもところ〲にありて、桜さへ、そめぬ。松の緑の一しほにミゆるに、芝ふハたゞに、くちばの氈しきたらんやう也。かの茶てんなどにハ、やすらハぬ翁の掟なれバ、こゝにこそとて、その芝ふのうへに座して、まづたばこ、すひぬ。下総のあたりまでも、くまなうミえて、つくば山のちりもくもらぬさまなるに、左のかたハ、ふじのときあけたらんやうに、そらにそびゑたるにぞある、とのミいふ。

  ふじつくばこのもかのものそらはれて
   いづれをあかぬ姿とハみず
  花のかげにミれバふじのねつくば山
   ゆかしき春の色もおもハず
げに、このあすか山へ、むかし馬なべて行たりしハ、はや四十ちかくもへたりなんと思へバ、そのゆかしくて
  ミしよをバきのふと思へどあすか山
   四十余りもへだてきにけり
かへる道にもふじをミる。入日の、ふじにいたゞきより少し下りたるあたりへ入る。いとかゞやきて、その姿もミえず。日に遠きかたハ、れいの墨ぬりたらんやうにミゆ。
  入日かげかゞやくかたハミえわかで
   半消行ふじのしら雪
日くるゝころ、かへりてけり。是よりつき地へは二里の余もあれバ、こゝにこよひハやどらんとて、少し酒くミかハし、こしにしきたるものなど、取出いて、ぬる。いとしづかにて、狐などなくも、おかし。つく〲と思ふに、かゝる閑楽も御恵のうちなりと、まづ思ふ。
  つくば山つきぬ恵を思ふかな
   このもかのもの事につけても
思ひ出るぞかし。」(註301)

これは、知りうる限り、はじめてダイヤモンド富士が、それとして記述された記録である。グレゴリオ暦1814年11月17日なので、飛鳥山を出てすぐのところで見たのではないかと思われる。飛鳥山から自邸までどのルートを通ったかは定かではないが、御成道を通ったとすれば、柳沢家下屋敷六義園の脇を通ったであろうし、尾根伝いに歩いたとすれば、道灌山から日暮里へのルートである。下図は、田代博氏の作成した同日の飛鳥山からのダイヤモンド富士のシミュレーション図。日付が2014年となっているが、地球の公転周期と平均回帰年の関係から、1814年は2014年のパターンにほぼ近似するようだ。(詳しい解説はシミュレーション図の作者である田代博先生のサイトをご覧くださいhttp://yamao.lolipop.jp/fuji/daiya/2014/rekishi.htm

田代博氏作成 2014年11月17日飛鳥山からのダイヤモンド富士 カシミール使用

田代博氏作成 2014年11月17日飛鳥山からのダイヤモンド富士 カシミール使用

松平定信の寛政改革の時代、ヨーロッパでは、1789年フランス革命が勃発、ハプスブルク家の干渉が開始されると、これに抗して1792年4月20日にフランスがオーストリアに宣戦布告、フランス革命戦争が勃発する。フランスの北方のハプスブルク領ネーデルラント(オランダ)も戦場となり、1795年にはネーデルラント連邦共和国は滅亡する。

蝦夷地 (*Aynu mosir、北海道)、クリル (*Kuri、千島)諸島、カラフト (*Karapto、サハリン)の諸地域は、アイヌ民族をはじめとする北方諸民族の居住地であったが、非先住民で最初にクリル諸島を探検したのは、オランダのメルテン・ゲリッツセン・フリース(Maarten Gerritszoon de Vries)で、マルコポーロ(Marco Polo)の『東方見聞録』に記載された、日本東方の北緯37度付近の「金銀島」を見つけるため、太平洋岸を北上、1643年6月20日、「四六度〇九分で、コンパニース・ラントが発見された。」(註302)

「De Compagnies Landt(東インド会社の土地)」とは(註303)、ウルップ (*Urup)島である。同23日、乗組員たちは「陸上に柱を立て、底に、アムステルダムの市章を刻んだ。こうしてコンパニース・ラントの領有は、東インド協会、すなわち同会社の所有となったのである。その時、大砲とすべてのマスケット銃が発射され、その土地は、われら全員はいうにおよばず、どこからもコンパニース・ラントすなわち、オランダ東インド会社州と呼ばれるようになったのである。」(註304)当時はロシアもまだ南下しておらず、松前藩も未調査状態だったため、国際法上はオランダ領となっていたが(註305)、その後本国は消失する。約半世紀後の1688年、徳川光圀の命により建造された快風丸でイシカリ川 (*Iskar、石狩川)の探検を行なっているが(註306)、航海調査能力の格段の差があったことが分かる。

フリース「エゾ探検図」1643-パリ国立図書館蔵-ダンヴィユ・コレクション『一六四三年アイヌ社会探訪記―フリース船隊航海記録―』より

フリース「エゾ探検図」1643 パリ国立図書館蔵 ダンヴィユ・コレクション『一六四三年アイヌ社会探訪記―フリース船隊航海記録―』より

さらに時代は下り、祖国の分割、植民地化に抵抗するポーランドで反ロシア政治組織のバール連盟(Konfederacja barska)に参加したことにより、シベリアに流刑になった、ハンガリー、ポーランド、スロバキアの血を引くベニョフスキー・モーリツ(洪Benyovszky Móric)が、1771年、流刑地から船を奪って阿波藩に来航。上陸は認められなかったが、水と食料、燃料と交換に、長崎出島オランダ商館長宛の手紙を徳島藩に渡した。手紙の内容は、ロシア帝国が松前近辺を占拠するためにクリル諸島に要塞を築いているという内容であったが、当時は現実の脅威としては捉えられていなかった。彼はのちに奄美大島、、台湾を経てマカオに到達。アメリカ独立戦争に関与したり、マダガスカル皇帝になるなど波乱の生涯を送った。(註307)

「ベンヨスキーの台湾探検」『台湾慣習記事』第3巻第11号より wikipediaによる

「ベンヨスキーの台湾探検」『台湾慣習記事』第3巻第11号より wikipediaによる

当時、極東地域の制海権はオランダが握っていたが、ジェームズ・クック(James Cook)により南米大陸を周回しての太平洋への航路が開かれ、かつオランダ海軍力が消失したことにより、極東海域は、インドから虎視眈々と清帝国をねらうイギリスの制海権に入ることになる。1796年には、イギリス人のウィリアム・ロバート・ブロートン(William Robert Broughton)が黄海、朝鮮半島沿岸を経由、樺太、北海道沿岸と千島列島の測量調査を行い、モルラン (*moruran、室蘭)に渡来する。また、船長をハワイでの戦闘で失ったジェームズ・クック隊は、北太平洋で捕獲したラッコの毛皮を清帝国へ持ち込み、アジア伝統世界での商品価値の高さと巨大な需要を見出している。また、17世紀以降、太平洋全域は鯨油採取のための捕鯨場となり、欧米諸国の捕鯨船が盛んに活動した。鯨油は、灯火用の燃料油、ろうそくの原料、機械用潤滑油、皮革用洗剤として用いられ、捕鯨航海の重要な寄港場となったハワイでは、交易により銃器や火薬を大量に入手し、欧米の先端テクノロジーを導入したカメハメハI世(Kamehameha I)により、1810年、軍事力にものをいわせて王国の統一が成し遂げられていく。(註308)

ロシアは、デンマーク人のベーリング(Vitus Jonassen Bering、露Витус Ионассен Беринг)の調査派遣によってアラスカに到達、極東では、清帝国との軋轢を経て、カムチャツカ半島から南下を開始、1792年9月3日、ロシアの軍人、アダム・ラクスマン(Adam Laxman、露Адам Кириллович (Эрикович) Лаксман)が日本人漂流民である大黒屋光太夫らの返還と交換に日本との通商を求め、ネモロ (*Nimuoro、根室)に来航する。アダム・ラクスマンの父は、スウェーデン系フィンランド人、エリク・ラクスマン(Erik Laxman、露Эрик (Кирилл) Густавович Лаксман)で、大黒屋光太夫の庇護者であった。エリク・ラクスマンは、大学者カール・フォン・リンネ(Carl von Linné)の孫弟子にあたるロシア帝国科学アカデミー会員の博物学者で、師カール・トゥーンベリ(Carl Peter Thunberg)は、1775年(安永4年)8月にオランダ商館付医師として出島に赴任している。松平定信は、光太夫とラクスマン一行を松前に招き、幕府として交渉に応ずるよう指示。さらに、ロシアの貿易の要求に対しては、アッケシ (*Atkeusi、厚岸)における交易開始を予定する。しかし、ラクスマンは交渉地として指示された長崎へは行かずに帰露する。

今や対外政策は緊迫した状況にあったが、この交渉の中で松平定信がラクスマンに示したのが、「兼ねて通信なき異国の船、日本の地に来る時は、或いは召し捕らえ、又は海上にて打ち払う事いにしえより国法にして」という内容を含む文書で、徳川政権史上初めて「鎖国」が「祖法」であるという言説を述べ、以後の歴史に決定的な影響を与えることになる。また、幕府の外交文書行政を担当していた林家の血統が絶えたあとの後継者に松平熊蔵(林述斎)を付け、朝鮮通信使の江戸への受入れを拒絶、朝鮮に対する侮蔑的、高圧的外交姿勢を示し、これを断行した。(註309)そうしたさなか、幕内クーデターにより、松平定信は辞職を命じられ、老中首座並びに将軍補佐の職を追われる。林述斎は、諏訪台の崖下に別荘を構えた。彼は、「歴代林家当主の中では異色の人物で、趣味として造園・音楽を好み、谷中村の別荘の庭園には賜春園、小石川には錫秋園と名付けた別荘を営み、友人子弟を集めて管絃の合奏を楽しんだという。」(註310)

『妙めを奇談』東京商工会議所荒川支部設立30周年『あらかわ回想散歩』より

『妙めを奇談』東京商工会議所荒川支部設立30周年『あらかわ回想散歩』より

松平定信失脚後、江戸の蘭学者たちは寛政6年閏11月11日(1795年1月1日)、大槻玄沢の自宅「芝蘭堂」で「新元会」を祝い、処刑を免れて江戸城で将軍家斉に謁見した大黒屋光太夫も招かれた。この行事は、カール・トゥーンベリの弟子、吉雄耕牛の自邸で行なわれていた「おらんだ正月」にならって、江戸で開催したものである。

なお、市川岳山画「芝蘭堂新元会図」の中の掛軸に描かれているのは、柳沢信鴻の常備薬であった「一角」である。おらんだ正月の18日後の1月19日、フランスの傀儡政権「バターフ共和国」(Bataafse Republiek、仏République batave)の建国が宣言され、ネーデルラント連邦共和国(Republiek der Verenigde Nederlanden)は滅亡する。亡命政権状態になったオランダ東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie、VOC)は、フランスによる海外資産接収の企図に抵抗、1797年には、戦争中立国のアメリカ合衆国(United Statse of America)・デンマーク王国(Kongeriget Danmark)・スウェーデン王国(Konungariket Sverige)船籍の船と傭船契約を結ぶ方針を決め、滅亡したオランダの国旗を掲揚させて長崎貿易を継続することになった。

しかし、1799年になるとオランダ東インド会社も解散、本社まで失ったオランダ商館は孤立無援の状態となるが、オランダ国旗を掲げるアメリカ船により貿易を続けることになる。1806年、オランダ本国はルイ・ボナパルト(Louis Bonaparte)を国王とするホラント王国(Koninkrijk Holland、仏Royaume de Hollande)となるが、1813年にナポレオン帝国が崩壊。イギリスに亡命していたオラニエ・ナッサウ家(Huis Oranje-Nassau)の一族が帰国、ウィレム1世(Willem I、Willem Frederik)が即位してネーデルラント連合王国(Verenigd Koninkrijk der Nederlanden)を樹立した。

この間亡命政権として長崎出島のオランダ商館長(葡Capitão、カピタン)の地位にあったヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff)は、国の名誉を守ったとして、オランダより最高勲章「オランダ獅子士勲章」(de Orde van de Nederlandse Leeuw)を受け、17年ぶりに故国オランダへ帰国する。ドゥーフの日本滞在時、遊女瓜生野との間に息子道富丈吉が誕生、道富丈吉は、父の帰国後、長崎会所の役人となっている。

知里真志保は、「辺要分界図考という本に、ラッコ島の夷人(たぶんアレウトかと思いますが)キモヘイという者がウルップ島へきて、その本国の舟を作った。その作り方は「舟をトドの皮にて張り、袋の如くこしらえ、中には木の骨を入れ、夷人一人乗って、袋の口をしめきり、水のはいらぬようにし、かいにて左右へかき走り、陸へ上れば骨を去り、皮は畳みおく」というのであります。それをウルップ島のアイヌがトンドチプといったとあります。またクナシリ島の酋長ツキノイが「クルムセの舟は皮袋のようで、鳥の浮かぶのに同じだ」といったとも書いてあります」と書いている。(註311)アレウト(Aleut)は、アリューシャン列島の先住民族、自称はウナンガン(Unangax̂, Unangan, Unanga)である。

蠣崎波響「夷酋列像」よりTsukinoe, Chef de Kunashiri ブサンソン市立美術館蔵 フランス文化省Jocondeデータベースによる

蠣崎波響「夷酋列像」よりTsukinoe, Chef de Kunashiri ブサンソン市立美術館蔵 フランス文化省 Jocondeデータベースによる

北方アジアには、山丹交易と呼ばれる北方アジア貿易路があり、極東に到着したロシア人もこの交易路を利用して商業開発を行なっている。

また、17世紀のアンジェリス一行による本国への報告でも、次のように記載されている。

「毎年東部の方にあるミナシ(Minaxi)の国から松前(Matçumai マツマイ)へ百艘の船(funes フネ)が、乾燥した鮭とエスパーニャのアレンカにあたる鰊(nixin ニシン)という魚を積んで来ます。多量の貂の皮をももって来ますが、彼等はそれを猟虎皮(raccono cava ラッコノカワ)といい、わが〔ヨーロッパの〕貂に似ています。頗る高価に売ります。蝦夷(Yezo イェゾ)ではなくて猟虎(Racco ラッコ)と称する一島におるので、蝦夷(イェゾ)人はそこへ買いに行きます。その猟虎島は他の六つの島々の近くにあります。」(註312)

「北方から、もっと正しくいえば北東方から来る松前に来る別の蝦夷(イェゾ)人は、礼(rei レイ)として松前殿(Matçumaidono マツマイドノ)へ、前にも触れた如く猟虎という島から出るので猟虎皮(ラッコノカワ)と申している柔らかい毛皮を将来します。また生きた鷹や鶴、日本人が箭に付けて飾る鷹の羽をも齎します。」(註313)

「猟虎皮(racconocava ラッコノカワ)〔をも将来し〕、その一枚ずつを二百匁(nifiacume ニフィヤクメ)で売るから高価であります。」「また松前殿(Matçumaydonoマツマイドノ)の乙名(votona ヴォトナ)が小生に語ったところでは、猟虎皮(ラッコノカワ)は蝦夷(イェゾ)には産せず、蝦夷(イェゾ)人(yezojins)達がその国土附近の或る島々へ行って買い求めるが、その島は三つの島であり、その島々の土人は鬚を生やさず、蝦夷とはすっかり異なる言葉をもっているとのことであります。然し、乙名(ヴォトナ)でも前記の島々が南(minami ミナミ)の方にあるか北(qita キタ)の方にあるかを蝦夷人(yezojins イェゾジン)からは聞き出すことが到底できません。あの島々へ猟虎皮(ラッコノカワ)を買いに行く蝦夷人は東(figaxi フィガシ)の部にすんでいる人達であります。」(註314)

クナシリ島のツキノエ (*Tsukinoe)は、甥でアッケシのイコトイ (*Ikotoy)とともに、1789年のクナシリ・メナシの民族蜂起を収拾した中心人物である。とりわけイコトイは、アッケシ・カムイ (*Atkeusi Kamuy)と呼ばれる家柄にあり、当時のアイヌ民族の中心にいた政治的有力者であった。

松前家の庶子蠣崎波響の描いた「夷酋列像」では、ツキノエは蝦夷錦と呼ばれた清帝国の官服、イコトイは真紅のロシア製外套を着用しているが、当時の画像資料に照らせば、これは恐らくロシア軍の将校用の軍服である。イトコイは、作品制作時はエトロフ (*etuorop)に逃避しており、実写による肖像ではないと想定されている。そうとすれば、対露交渉のない松前藩がどのようにしてロシア帝国の軍服を入手できたのか、かえって大きな疑問が生じる。

蠣崎波響「夷酋列像」よりIkotoi, Chef d'Akkeshi ブサンソン市立美術館蔵 フランス文化省Jocondeデータベースによる

蠣崎波響「夷酋列像」よりIkotoi, Chef d’Akkeshi ブサンソン市立美術館蔵 フランス文化省 Jocondeデータベースによる

「1711年、コサックの探検隊は、カムチャッカ半島を南下し、ロパトカ岬に到り、小船でシュムチュ(占守島)に上陸しました。翌々年、第二島プルムシル(幌筵島)に上陸した同隊は、エトロフ島から交易に来ていたクリル人(千島アイヌ)からの情報をもとに、第一島のシュムチュから第15島のマトマイ(松前島=北海道本島)までの島々の詳細な情報を本国に報告しました。

 それは、ウルップ島やエトロフ島のクリル人がクナシリ島から木綿や絹織物、鍋、刀、漆器などを入手し、シュムチュ島やプルムシル島、さらにカムチャッカにまで交易に訪れ、ラッコ、キツネ、鷲の羽と交換している実態を伝えるものでした。

 ロシアは、1750年から千島諸島でのヤサーク徴収を開始し、1768年にはウルップ島、エトロフ島でも徴収が行われました。1770‐1771年には、ロシア人の強圧的なヤサーク徴収や暴力行為におこったクナシリ島とラショワ島のアイヌが、ウルップ島とマカンル島に滞在していたロシア人数十人を殺害するという事件が起きました。その後、ロシア人はエトロフ島のアイヌに友好的に接するようになり、ヤサーク徴収もなくなったようです。

 北東アジア一帯に進出することになったロシアは、物資の補給路と捕れた毛皮の販路を求めて、カムチャッカ半島から千島、あるいはオホーツク海から樺太を経て、北海道、本州、中国への道を探っていました。」(註315)

ロシアが徴収しようとしたヤサーク(Ясак、毛皮税)であるが、「元々「iasak」「yasak」は「整える」「統制する」といった語義を持つトルコ・モンゴル系統の言葉で、元来はモンゴル帝国がユーラシア北部一帯において毛皮の取り立てを組織的・強権的に統制するために考案された制度であった。」(註316)モンゴルの創出した徴税制度と毛皮という世界商品、さらに毛皮流通の世界市場を継承したロシア帝国によるヤサーク制度は、アジアの諸民族にとって「一方ではロシア帝国に対する地方の臣従の、また他方では土地の安堵と地方住民の自由・自治を保証する証しであると彼らによってみなされていた。」(註317)また、世界商品としての毛皮は、ロシア帝国にとって1644年には「国庫の収入の10%をシベリアの毛皮税が占めていた」(註318)ほど十分な財政価値を有していた。

しかし、1779年、エカテリーナII世は、「すでに支配下に置いた千島列島の島民からのヤサークを徴収することを中止し、今後彼らに強制をせずに、むしろお互いの物々交換や狩猟の利益のために友好的な関係を維持するように命じた。」(註319)ヤサーク徴収がなくなったことは、欧米における毛皮需要の低減による市場の縮小に一因があるが(註320)、それだけでなく、ロシアにとって看過できない事情をアイヌ民族の中に見出していたことを示している。1780年頃からウルップ島を舞台にアイヌとロシアの間に戦争が勃発、その後も度々戦闘が行なわれ、双方に多大の死傷者が出ていた。(註321)こののち、アイヌとロシアの平和的交易が始まるが、その様子は、ニコライ・ネフスキーによって採集された次の口承文芸に描かれたようなものであっただろう。

「     orowa-neshi                そしてそれから
      a-upshor-orǒ-ke              私の懐の中に
      usa-tsihoki                 色々な交易品で
      eshik-te-pa                 一杯にしました。
75.    orowa-no                  それから
      i-sapte-ki-wa                私を水に下して,
      i-j-eujmam-pa-wa             ウイマムに連れて行きました。
      paje-an ajne                 どんどん行って
      tono-kotan-ta                殿様の街へ
80.    paje-aŋ-ki-wa.                到着しました。
      orowa-no                   その後
      usa-ikori                    色々な宝物や
      amam ne-jakka               お米やらを
85.    poron-no                   沢山
      hok-pa-wa                   買い入れて
      orowa-no sui                 それからまた
      arki-na ajne                  帰途に着きました。
      ja-w-un-kur-atui               陸の人の海と
90.   rep-un-kur-atui                沖の人の海の
     uko-uturǔ-ta                  間を
     arki-aŋ-koro                  通ったとき
     a-ikkew-tumu                 私の腰が
     hushko-sampa                折れそうになりました。
95.   orowa-no                   その後も
     arki-an ajne                  どんどん進んで
     a-kon ruwesan                船着場に
     oro-ta arki-an.                着きました。
     orowa-no                   そして
100.  usa-sake-he                  色々な酒やら
     usa-amam-hi                 色々な穀物を
     ja’p-te-pa                    荷卸ししました。」(註322)

近藤重蔵は、イコトイのことを「アツケシ悪党蝦夷」と呼び、「搦捕」り「江戸の御威光」を示すべきだとの見解を示し、幕府の役人たちも、イコトイが独自にロシアとの間に交易と外交を行なっていたことに気付いている。(註323)ツキノエは、ロシア人の対日交易に貢献することで、独自の地位を固めようとし、イコトイは、エトロフ、ウルップ方面へ移ることで、この交易に関与しようとした。

さらにツキノエの息子のイコリカヤニ (*Ikorikayani)がクナシリの総乙名として、多量の日本商品を取扱うようになると、状況はイコトイにとって有利に変化する。「この時期は、イコトイがウルップ島でロシア人と関係を持ちつつ、交易関係などで独自の位置をつくりあげていく条件がありそうなのであった。」(註324)ツキノエやイコトイらはアイヌ社会において絶大な権威を持っており、ロシア帝国と徳川政権が直接交渉を持たない間、その狭間にあったアイヌ民族が、徳川政権をカードに日本・ロシア間で外交的イニシアティブを取った瞬間がありえたことは記憶されるべきであろう。

日暮里惣図2

日暮里惣図2

松平定信は、「日本」の防衛線を津軽海峡以南と考えており、積極的な蝦夷地開拓を望んでいなかった。幕府主流派の直轄開発論にたいして委任非開発論を固持、消極的、現状維持的政策をとった。その上で、将来構想として「南部・津軽・仙台、その他の東北諸大名に蝦夷地を分割して預け、新田開発や鉱山開発を行なわせ、その開発が進んだ頃合を見計らって取り上げ、そのあと三千石以上の寄合や小大名に加増した上で所替する、という構想を披瀝している」という。(註325)

彼の失脚後、幕府は蝦夷地の直轄化を決定、探検と統治をすすめていく。伊能忠敬による蝦夷地測量と、彼に付き従った間宮林蔵倫宗によるカラフトとアムール川(満 ᠰ᠊ᠠᡴᡥᠠᠯᡳᡟᠠ᠊ᠠ ᡠ᠊ᠯᠠ sahaliyan ula、黒竜江)下流の調査、近藤重蔵によるエトロフ島への「大日本恵土呂府」の標柱の建立などが続く。間宮林蔵は、測量を支えたアイヌ人女性アシメノコ (*asmenoko)との間に女児が誕生、その子孫は現在でも北海道に在住している。(註326)また、近藤重蔵は、のちに富士見亭文庫の書物奉行、「文政2年(1819)2月、大坂弓奉行に転じるが、不遜の行為ありとして、同4年4月小普請入差控を命じられ」(註327)、飛鳥山のほど近く滝野川村に建築し、滝野川文庫と命名した別荘に閑居する。

歌川広重 目黒新富士『江戸名所百景』より Brooklyn Museum蔵 wikipediaによる

歌川広重 目黒新富士『江戸名所百景』より Brooklyn Museum蔵 wikioediaによる

近藤重蔵はまた、三田村鎗ヶ崎に広大な遊地を所有しており、文政2年(1819年)に邸内に富士塚を造築した。この目黒新富士は、参詣客で賑い、隣家は手打蕎麦と酒肴で繁盛したという。 1826(文政9)年、隣家との敷地境界トラブルから、長男の近藤富蔵が隣家の家族7名を殺害する事件が生じ、近藤富蔵は八丈島に流罪となり、近藤重蔵も近江大溝藩分部家に預けられ、3年後に死去する。近藤富蔵は配流先で『八丈実記』を著すが、これは現在でも貴重な民俗記録となっている。

近藤重蔵は、白山富士を眼前に見る御先手組屋敷に生れたが、目黒新富士が原因でその生涯を終った。目黒新富士は、厚生省所管地を経て、1959年、国際電信電話株式会社目黒研究所建設の際に取り崩されたとされる。(註328)さらにその後、KDDIによる売却後に富士塚跡は最終的に破壊され、トヨタホーム株式会社、野村不動産株式会社により「テラス恵比寿の丘」という共同住宅が建てられた。

また、隣接地の全国小売酒販組合中央会の福利厚生施設建設に伴う緊急調査で地下遺構が発見され、石の祠と大日如来座像が祀られていたことが分った。風穴を模したものと考えられているが、『藤岡屋日記』に記録された目黒新富士に関する同時代史料と、文字資料を含む発掘された多くの遺物にもかかわらず、いったい誰が、何のために、そしていかなる祭儀を行なっていたのか、詳しいことは分っていない。(註329)なお、近藤重蔵の墓所のひとつは、駒込追分町の西善寺にある。

 


 

註299 山口啓二「寛政改革と『宇下人言』」松平定光校訂『宇下人言・修行録』第3刷 解説 岩波文庫2990-2991 岩波書店 1969、藤田覚『松平定信』中公新書1142 中央公論社 1993
註300 井田太郎「定信の富士―前近代の写実的なもの」『文学』7巻1号 岩波書店 2006。なお、日没後のシルエットの富士山を、佐々木幹郎氏は「影富士」と呼んでいるが、「影富士」は、日の出や日没時に富士山頂側から見て、雲海や大地に写る富士山の影をいうことが多く、湖などに写る逆さ富士のこともいうらしい。日暮里富士見坂でのダイヤモンド富士観測の際に天空に黒く伸びる影を見ることがあるが、日没後、富士山の向こう側から照射される太陽光によって天空側に投影された富士山の影であるという
註301 松平定信自筆『花月日記』文化11年10月6日条 天理図書館蔵、テクストは岡嶌偉久子 山根陸宏「翻刻『花月日記 松平定信自筆』(三)文化十一年八月~十月」天理図書館『ビブリア』第113号 天理大学出版部 2000による
註302 「IIニコラス・リッセンが、カストリカム号下級舵手フィリップ・ジャコブ・ド・ベッカァより聴取した記録(ジャコブ・ド・ベッカァ―ウィッセン記事)」、北構保男『一六四三年アイヌ社会探訪記―フリース船隊航海記録―』雄山閣ブックス13 雄山閣 1983所収
註303 オランダ語表記はフリース「エゾ探検図」パリ国立図書館蔵、北構保男『一六四三年アイヌ社会探訪記―フリース船隊航海記録―』雄山閣ブックス13 雄山閣 1983所収写真図版による。「landt」は古いオランダ語の綴りで、現代の正書法では「land」となるが語尾の「d」は清音で発音する
註304 「IIニコラス・リッセンが、カストリカム号下級舵手フィリップ・ジャコブ・ド・ベッカァより聴取した記録(ジャコブ・ド・ベッカァ―ウィッセン記事)」、北構保男『一六四三年アイヌ社会探訪記―フリース船隊航海記録―』雄山閣ブックス13 雄山閣 1983所収
註305 川上淳「最初の千島探検」『広報ねむろ』2003年2月号
註306 石井謙治『ものと人間の文化史 76‐II 和船II』法政大学出版局 1995、吉沢義一「大日本史諸蕃伝と北島志」平成5年度水戸学講座講録『義公修史の開いた道』常磐神社社務所 1994、水戸黄門ホームページ(常磐神社社務所公式サイト)による
註307 Vilmos Voigt「Maurice Benyovszky and his “Madagascar protocolle ” (1772-1776)」『Hungarian Journal of English and American Studies』21 2007年1‐2月、「Benyovszky Móric (utazó)」hu.wikipedia、「Maurice Benyovszky」en.wikipedia
註308 木村和男『毛皮交易が創る世界 ハドソン湾からユーラシアへ』世界歴史選書 岩波書店 2004
註309 藤田覚『松平定信』中公新書1142 中央公論社 1993
註310 山本武夫「林述斎」国史大辞典編集委員会『国史大辞典第11巻』吉川弘文館 1990
註311 知里真志保「言語と文化史―アイヌ文化の探究にあたりて―」原書は『北海道先史学十二講』北方書院 1949、テクストは青空文庫による、近藤重蔵守重『辺要分界図考 第四』『近藤正斎全集 第一』国書刊行会 1905所収
註312 Jeronimo de Angelis「Carta de algumas novas de Japam アンジェリスの第一蝦夷報告」1618年10月1日、聖心女子大学カトリック文化研究所 H・チースリク編『北方探検記―元和年間における外国人の蝦夷報告書―』吉川弘文館 1962、ルビの全角カタカナの一部を拗音化、原注の括弧の位置を調整した、川上淳「イエズス会宣教師のラッコ皮報告」『広報ねむろ』2003年4月号
註313 Diago Calvalho「Copia de huma 〔carta〕 que o Padre Diago Calvalho me escreveo acerca da missam que fez a Yezo e outras partes. カルワーリョの旅行記」1620年10月21日、聖心女子大学カトリック文化研究所 H・チースリク編『北方探検記―元和年間における外国人の蝦夷報告書―』吉川弘文館 1962、ルビの全角カタカナの一部を拗音化、川上淳「イエズス会宣教師のラッコ皮報告」『広報ねむろ』2003年4月号
註314 Jeronimo de Angelis「Relação de rerino de Yezo que o Padre Francisco Pacheco me pedio por ordem dos Superiores アンジェリスの第二蝦夷報告」1621年、聖心女子大学カトリック文化研究所 H・チースリク編『北方探検記―元和年間における外国人の蝦夷報告書―』吉川弘文館 1962、ルビの全角カタカナの一部を拗音化、原書「百匁(フィヤクメ)」)を原文により訂正、川上淳「イエズス会宣教師のラッコ皮報告」『広報ねむろ』2003年4月号
註315 江別市総務部「新江別市史 本編」江別市 2005、「コサック探検隊」江別創造舎サイトによる
註316 下山晃『毛皮と皮革の文明史―世界フロンティアと掠奪のシステム―』ミネルヴァ書房 2005
註317 豊川浩一「帝政ロシアの民族政策―18世紀のヴォルガ流域とウラル―」『スラヴ研究 Slavic Studies』39号 北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター 1991
註318 高倉廣樹「東北アジア海域史のなかのアイヌ民族とシベリア先住民の交易」『平成19年度普及啓発セミナー報告集』アイヌ文化振興・研究推進機構 2008
註319 С. Знаменский 『В поискахЯпонии из истории русских географических открытий и мореходства в Тихом океане』Благовещенск、Книжное дело 1929、S.ズナメンスキー著 秋月俊幸訳『ロシア人の日本発見 北太平洋における航海と地図の歴史 新装版』北海道大学図書刊行会 1986、ザヨンツ・マウゴジャータ(Małgorzata Zając『千島アイヌの軌跡』草風館 2009、引用注Polonskii. A「Krilly」Sankt Peterburg 1871(Полонский А.С.「Курилы」)、Golovnin「Obzor russkikh kolonii v Sebernoi Amerike」『Moskoi Sbornik』Sankt Peterburg 1861(Головнин Обзор русских「колониях в Северной Америке」『Морской сборник』)
註320 高倉廣樹「東北アジア海域史のなかのアイヌ民族とシベリア先住民の交易」『平成19年度普及啓発セミナー報告集』アイヌ文化振興・研究推進機構 2008
註321 田端宏「近世のアイヌ民族史」『平成13年度普及啓発セミナー報告』アイヌ文化振興・研究推進機構 2002
註322 「Sutū kaerannā kaeranna」(舟神の最後の仕事)Николай Невский『Айнский фольклор』、ニコライ・ネフスキー著 エリ・グロムコフスカヤ編 魚井一由訳『アイヌ・フォークロア』北海道出版企画センター 1991、タイトルは遠藤徹夫氏によるもの
註323 田端宏「近世のアイヌ社会 イコトイ「豪強」、「悪党」そして「カムイ」―」『平成16年度普及啓発セミナー報告集』アイヌ文化振興・研究推進機構 2005
註324 田端宏「近世のアイヌ民族史」『平成13年度普及啓発セミナー報告』アイヌ文化振興・研究推進機構 2002
註325 藤田覚『松平定信』中公新書1142 中央公論社 1993、朝倉有子「寛政改革期における蝦夷地政策とアイヌ認識」『平成13年度普及啓発セミナー報告』財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構 2002
註326 髙橋大輔『間宮林蔵・探検家一代 海峡発見と北方民族』中公新書ラクレ297 中央公論新社 2008、「間宮林蔵の子孫が一堂に 茨城県・伊奈町」共同通信配信 2003年10月25日
註327 「旗本御家人II幕臣たちの実像 異才の幕臣たち 近藤重蔵(1778‐1829)」国立公文書館サイト
註328 平野英次「富士塚と胎内洞穴―目黒新富士遺跡をめぐって―」『平成三年度企画展写真集 新富士遺跡と富士講』目黒区守屋教育会館郷土資料室1992、きたろう「広重・名所江戸百景第8回「目黒新富士(春24景)」を訪ねる」きたろう散歩(名所江戸百景を歩く)サイト、「研究所あゆみ」株式会社KDDI研究所サイト
註329 『平成三年度企画展写真集 新富士遺跡と富士講』目黒区守屋教育会館郷土資料室1992、平野栄次「富士塚と胎内洞穴―目黒富士遺跡をめぐって―」坂本要 岸本昌良 高達奈緒美編集『平野栄次著作集1 富士信仰と富士講』岩田書院 2004

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