今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

富士見と富士見坂(5)の2 日暮里と足利将軍の後裔―近世から近代へ(2)

1件のコメント

井原西鶴によれば、日暮長者と比べることはできないだろうが、関東にも東長者と呼ばれる日暮家があったという。

朝の塩籠夕の油桶『日本永代蔵』角川文庫より

朝の塩籠夕の油桶『日本永代蔵』角川文庫より

『日本永代蔵』に「爰に常陸の国に、其身一代のうちの分限、十万両の鏐(こがね)が原と云ふ所に、日暮の何がしとて、棟高く屋作りして人馬あまた抱へ、田畑百町にあまり家栄えて不足なし。末々の里人を憐み慈悲ふかく、此人所の宝と村の草木もなびきける。始めは纔(わづか)なる笹葺に住みて、夕の煙細く朝の米櫃もなく、着類(きるゐ)も春夏のわかちなく、只律儀千万に身をはたらき、夫婦諸共にうき時を過(すぐ)しぬ。朝は酢醤油を売り、昼は塩籠を荷ひ、夕ぐれは油の桶に替り、夜は沓を作りて馬かたに商ひ、若き時より一刻も徒居(たゞゐ)をせず、毎年内証よろしくなりて、五十余迄に銭三十七貫延ばしける。此男商売に取付きて此かた、一銭も損をしたる例(ためし)なく、年々に利得を求めたれども、元すこしの事なれば、金子百両になること中々むつかしく、漸々(やうやう)百両に積りて、それより次第に東長者となりぬ。」と書かれている。(註53)

井原西鶴は、「鏐(こがね)が原」すなわち小金町を常陸国とするが、実は下総国葛飾郡であり、同郡がのちに千葉県と茨城県に分割された際に千葉県の所属となっている。小金町は江戸期には幕領で、下記文献によれば、水戸藩の旅所となっている。

『千葉県東葛飾郡誌』に、
「小金御殿の旧址と称するは小金町小金中宿にて今の郵便局裏一帯の地なり、御殿とは水戸家の旅館にして、此処に家臣格なる日暮玄蕃なるもの住し、明治維新後同家より拝領せしも、長者屋敷の菜畑とやら、桑田と変ずるぞ是非もなき」(註54)
とあり、井原西鶴の作品の裏打ちをするものとなっており、同書には続けて、
「伝へ云ふ、日暮玄蕃氏は旧高城氏の重臣にて侍大将又は郡令等として、代々又左衛門を称し、先陣の功多大なりしが、同氏歿落後は一時浪々の身となれり、其頃の事にや有りけん、無間山の無間の鐘を撞きて長者たらんと、態々東海道を無間山に登り、其由頼み入りたるに、和尚は「一人の長者を作りて多くの人に難儀を懸くる鐘なれば撞かしむるを得ず」と断れり、玄蕃は如何にも残念の思入にて「斯くまで願ふも許し給はぬこそ恨めしけれ」と持ち来りし握飯を釣鐘目掛けて投げ付くれば「ごーん」と鳴れり。せめてもの心いせなりと山を降りて古郷なる小金の里に皈りたるに、其後は運星目出度遂に名高き長者となれりと」と書く。(註55)
まるで日本昔ばなしである。
なお、同家には、徳川光圀(水戸黄門)の直筆の書が伝えられ、少なくとも1881‐1882年までは存在したとのことで、その書面には
「東

沼北春天桜         行く末母か波良てめ伝無旅路には
江東日暮雲          こゝ存なにおふ日暮のやと
西山書                    花   押」
とあったとのことである。(註56)

また、前節で見た井原西鶴のテクスト中に登場する「日暮し」すなわち「日暮太夫(ひぐらしだゆう)」と呼ばれる芸能者が、当時の関西を席巻している。井原西鶴の作品『好色一代男』には、「世之介、勘当の身と成て。よるべもなき浪の声。諷(うたい)うたひと成(なつ)て。交野、枚方。葛葉にさし懸り。橋本に。泊れば。大和の猿引。西のみやの。戎まはし。日ぐらしの。歌念仏。かやうの類の宿とて。同し穴の。狐川。身は様〻に。化(ばかす)るぞかし。」(註57)とあり、被差別の芸能民と並列で書かれているが、日暮太夫が被差別民であったとする明証はない。(註58)
なお、『好色一代男』でにおいて、勘当された主人公・世之介が出家した場所は、「十九才の四月七日に。出家になして。谷中の東。七面(なゝおもて)の明神の辺(ほとり)。こころもすむべき。武蔵野の。月より外に友もなき。呉竹の奥ふかく。すいかづら。昼顔の。花踏そめて、道を付。草葺の假屋。やう〱身の置所も爰に。水さへ希に。はるかなる岡野辺より。筧の雫、手して結び、おのづから世を見かきりて、」(註59)とあり、現・西日暮里3丁目である。

出家にならねばならす『好色一代男』岩波文庫より

出家にならねばならす『好色一代男』岩波文庫より

日暮太夫については、1つの側面だけを取り上げて、その実像を全面的に把握することは不可能であり、少なくとも3つのフェーズで理解する必要がある。

ひとつは、井原西鶴が記述する通り、ささら、または鉦をリズムセッションにして、歌念仏をもって勧進する下級宗教者・芸能者としての「日暮」である。後述する『諸国因果物語』によれば、晩期には「人形つかひ」などもしていたように記載されている。(註60)
「伊勢国の説教者が地域社会の中では「ささら」と呼ばれ、賤視されていた」とされ(註61)、ジョアン・「ツズ(通事)」・ロドリゲス(João “Tçuzu” Rodrigues、漢名・陸若漢)も『日本大文典』の中で「Xichicojiqui(七乞食)。日本人が物貰ひと言ってゐるもの,又は,日本で最も下賤な者共として軽蔑されてゐるものの七種類,即ち,Sarugacu,Dengacu,Sasara xecquiǒ, Auoya,Cauarano mono,Cauaya,Fachicocuri.(猿楽,田楽,ささら説経,青屋,河原の者,革屋,鉢こくり.)これらは,劇をするもの,“舞”(Mais)を語り,人形を踊らせるものなどである.」と説明し、「3. Sasara xecqiǒ(ささら説経)。喜捨を乞ふために,感動させることをうたふものの一種。」と記している。(註62)

つぎに、賑やかな歌舞音曲、芝居の演者としてのイメージである。阪口弘之氏は日暮を「いっとき、花洛の人気を大いに集めて、斯界の頂点をきわめた人であった。とりわけ寛文前後の日暮小太夫のめざましい活躍は、説教を操浄瑠璃と並ぶ都市芸能へと一挙に押し上げた感すらあった。」と書く。(註63)

ハーバード大学フォッグ美術館蔵の『京四条河原芝居図巻』(乙本)の詞書によると、
「抑四条河原と申事、をよそ三百六十年にあまれり、むかしはすまふあるひはほうかあるひはのふあるひはおんなのふをつくし、みやこの老若男女のらふきをわかやかし、はんせうのていとに申しつたえしとなり、いまゝたむかしにひときはさかんなるにや、我も〱としよけいをはけみ、かふきあるひはひやうほう、あるひはせうるり、あるひはせつきやう、またはみせもの、かす〱にきわしき事むかしもかくやとおもひいてられて候
とりわきておゝきなかにも、先天下一上総、天下一若佐をはしめ、河内、大和、日くらし、そのほかまほういろ〱なり、中にもきたゆふはせうるりひときはすくれて、いにしいまをかん和のこと葉に花をさかせ、けふけんなともおもしろきなり、そのほかもめん〱にわれおとらしとしよけいをはけみ、みやこのらうにやくなん女、そてをつらねてくんしゆしあえり、まこと四条川原のはんせう、申もなか〱おろかなり、とうさいなんほくなとよりいて入ひとそのかすをしらす、あるひはいりあるひはかわり、おもひおもひのいてたち、中〱申もおろかなり、せうるりには、さかたのきんひらしこくめくりみうらの大すけたけちかせんきそいくされうつまもんとうしゆ天とうし日れんきみたれやしまほんてんこくきよはらのうたひせう、その外かす〱にいろをかへてそはけみける、さてまたけうけんには、かさの下花かたみつちくもかよひおとこかわちにかよふためくるひひとりおとこ、その外是もかす〱なり、さてせつきやうにはほふ【原注・おカ】くりはんくわんしんとく丸かるかやあひこのわか、これもしな〱の事共なりとそ申ける、申てもつきなきはいまの川原のしよけいなりけり」(註64)

四条河原風俗図(部分)黒川古文化研究所蔵『飛香館清賞 黒川古文化研究所所蔵品図録 1 日本絵画』より

四条河原風俗図(部分)黒川古文化研究所蔵『飛香館清賞 黒川古文化研究所所蔵品図録 1 日本絵画』より

黒川古文化研究所蔵『四条河原風俗図』の「もっとも東にある人形座は櫓幕に日暮小太夫と記す。説経の太夫で紋はここにある抱き柏である。」(註65)本図は芝居小屋の内部が描かれている、特徴ある作品である。
ここに見える日暮の芝居小屋の盛況と見比べても、往時の栄華がしのばれる一文である。昔流行ったのは、すまふ(相撲)、ほうか(放下)、のふ(能)、おんなのふ(女能)である。そして、今のブームは、きたゆふ(義太夫)、せうるり(浄瑠璃)、けふけん(狂言)であるという。興味を引くのは、しよけい(諸芸)に、かふき(歌舞伎)、せうるり(浄瑠璃)、せつきやう(説経・説教)、みせもの(見世物)に並んでひやうほう(兵法)が記載されていることである。兵法といえば、柳生宗矩や宮本武蔵をつい思いがちであるが、蝦蟇の油売りのような末端の兵法者ということも考える必要があるのであろう。今一つ気になるのが「まほう」の語である。これは「魔法」だろうか。柳沢信鴻の『宴遊日記』の「魔法つかひ」に関する記述が思い起こされる。
四条河原町は今に至るまで京都一の繁華街であり、明治期には、日本初の映画上映が行なわれた。
「近代化が進む明治時代の京都に、フランスで発明されたシネマトグラフ(カメラ付き映写機)を持ち込んだのは地元出身の実業家・稲畑勝太郎でした。稲畑は、1897(明治30)年、四条河原町にほど近い京都電燈株式会社の庭で、日本初の活動写真(無声映画)の試写実験に成功。1901(明治34)年には、後に“日本映画の父”と呼ばれる牧野省三が経営していた演芸小屋「千本座」が京都初の映画上映館として運営されるようになり、映画は次第に人々の娯楽として定着していきました。」(註66)
芝居町そのものは火事による焼失、再建を繰返し、「元和年間(1615~1623年)京都四條河原に公許された7つの櫓の伝統を今に伝える唯一の劇場」京都四條南座が「明治39年(1906年)白井松次郎、大谷竹次郎兄弟の松竹合名社」の経営下に入り、日本最古の劇場として現存する。(註67)

Minamiza theatre, Kyoto, evening MichaelMaggs撮影 wikipediaによる

Minamiza theatre, Kyoto, evening MichaelMaggs撮影 wikipediaによる

最後は、興行主としての日暮太夫という存在である。京都町奉行所の公的文書に次のように載る。
「                            説   経
一、                               日暮小太夫
右小太夫と申名代古来より蒙御免所持仕来候処、三拾六年以前、親より譲り請、相続仕罷在候、
説   経
一、                               日暮八太夫
右八太夫と申名代古来より蒙御免所持仕来候処、三拾六年以前、親より譲り請、相続仕罷在候、」(註68)

四条通『京すゝめ 六』稀書複製会 米山堂刊より

四条通『京すゝめ 六』稀書複製会 米山堂刊より

「名代」とは、上方特有の興行権のあり方で、興行師であり俳優でもある「座本」から独立した権利となっていた。名代は株として売買され、その所有者は転々と移動した。(註69)上の文書は、日暮小太夫と八太夫の「名代」を相続により継承したことを示している。興行したのは、主には子供芝居であったようだが(註70)、これは「おおむね十代前半の子供一座で演じた歌舞伎芝居」で、「京坂が盛んで、宝暦六(一七五六)、七年には竹田・石井・亀谷の子供三座で道頓堀大芝居の顔見世をするほどの盛況をみせた。」(註71)興行主としての日暮太夫は興行を説経に限定する必要はなく、浄瑠璃、歌舞伎等の興行も可能であったからである。
一方、諸国説教者の集団組織化をはかる関蝉丸神社と近松寺と日暮太夫の間には軋轢があった。1733年頃、関蝉丸神社からは「山城国惣説教者中」の代表として廻状を受け取っており、1812年の近松寺による「口上書」には「京都ニて日暮八太夫と申す者、平名代と申し、正徳年中ヨリ諸芝居一件差し免しニ置き候」(註72)と記録されている。しかし、祭礼奉仕にも参ぜず、たびたびの不参を咎める書状に対して返事もせず、サボり続けていたという。(註73)また、日暮太夫の出身が、警刑吏役の役目や乞食を職掌とする京都の非人身分の被差別部落である悲田院にある可能性も指摘されているが(註74)、村上紀夫氏によれば否定的である。(註75)

こうして見てくると、日本語における「日暮」の2文字が表象するのは、「夕暮れ時はさびしそう」(註76)という日没のイメージではなく、豪壮豪華で、かつ賑やかな歌舞音曲のイメージがこめられていたことが想像される。しかしながら、日暮太夫の全盛はきわめて短い期間で終焉する。以下は文芸作品に見る晩期の日暮太夫である。

「寛文のころまて世にもてはやされける説教太夫に、日暮といひし者ハ、たくひなき誉を残して、今も片田舎のものハ、折ふしことの物忘れくさに、しんとく丸さんせう太夫などといひて、愚なる祖(うは)母口鼻(かゝ)を泣せ、頽廃(すたれ)たる音曲に頑なる耳を驚かす事にそありける。されは元禄十一年の比迄日暮小太夫といふ者ありて、美濃尾張因幡筑紫なと、いたらぬ所もなく、秋入の時節を窺(うかゝひ)、雨(あま)こひの悦ひを手つたいて、行脚のことく国々にめくりて、説経をかたり、辻打の芝居に傀儡(てく)を舞(まハ)して御世(とせい)としけるか、それも世くたり、人さかしく成て、如何なる国のはて、鄙の長路の口すさひにも、あいこの若なといふ古ひたる事をいはす、只わつさりと時行歌(はやりうた)、角太夫ふしこそよけれとも、行(ゆく)も帰るも耳をとらへ、顔をかたふけて、七小町杉山兵衛なとゝいふものをしほりあけ、又ハ上かたへのほりて、纔に読売歌ひくになとの口まねをはし〱覚えて、日待の家、祝言の酒に長して、今ハ都にてもかゝる歌をこそ諷(うた)へと、我しりかほに頭(かしら)をふり、声をはりてとよめくに、一座の人ハ何をいかにと聞わけたる方もなけれと、よう〱とほめ、やいやとわめきて、説経を聞て、なくさまんといふもなく、是にうつりて、たまさか年よりし者の噂するもあれと、「昔の小太夫は上手にて聞に袂をぬらさぬハなかりき。今の世の若き者とものたま〱にかたるハ、説教でハなく、居さりの物貰ひか節つけて、袖こひするに似たり。」なとゝいやかるに付て、渡世おのつから、うとく市かけの芝居にやとはれて、せめて人形つかひになりとも行はやとかせけとも、それも今時の人形つかひハ、おやま五郎右【衛】門か風そ、手つま善左【衛】門か流(りう)なとゝさま〱の身ふりを移し、中々に生きたる人の如く、細やかに気をつくして遣ふのミか、衣紋といひ、髪形其まゝの、人形と見えぬを手からに、我一とたしなむほとに、それも望たへて次第につまり行、身過(ミすき)のたね今は何喰(くふ)へき便(たより)もなく、衰(おとろへ)ゆくに任せて、恥をすて、顔を隠して、袖こひを仕ありき。」(註77)

人形を火に焼てむくひし事『諸国因果物語』国文学研究資料文庫34『青木鷺水集 第四巻』より

人形を火に焼てむくひし事『諸国因果物語』国文学研究資料文庫34『青木鷺水集 第四巻』より

フィクションであるものの、彼ら芸能者の末路を暗示するとの説もあるが(註78)、事実は、はたしてどうであったか。

1798(寛永10)年10月に三井寺近松寺が大坂奉行所に提出した『口上書』に「依願京都日暮八太夫幷弟子宮古路哥内等ニ右説経讃語座組差免候所、正徳三年より京都寺社於境内芝居興行仕候義ニ御座候而、追々連綿仕芝居興行仕来り候儀ニ御座候、右与四郎七十有余ニ罷成、当時京都河原町四条下ル弐丁目津国屋七兵衛方ニ存命罷有候、」とあり、「与四郎」については、同文書の添付文書に「当時日暮八太夫座譲り請居候鮫屋与四郎」とある。(註79)
老日暮八太夫の居住した「京都河原町四条下ル弐丁目津国屋七兵衛方」と同名の書林が東本願寺の寺内町にあったことが、『教行信証』及びその注釈書の『六要鈔』の版木をめぐる折衝の中で1776(安永4)年閏12月、東本願寺の町役所に提出した覚書の連署中に「東寺内本屋 津国屋 七兵衛」と見え、一連の折衝を記録した『本典六要板木買上始末記』に収録されているが(註80)、同一人物または縁者の可能性がある。大坂に津国屋の屋号を持つ多くの書肆が見えるが、七兵衛については他に見えない。(註81)

大坂城落城により、徹底的に破壊された大坂に出版業が復興するのは、寛永末から慶安・明暦の頃と推定されている。(註82)本来、出版業は寺院に関連した仏書のマスプロダクションを主な業務にしていたが(註83)、大坂では、節用集、往来物、四書五経などの実用書が多く出版された。こうした基盤の上に、井原西鶴、近松門左衛門などのベストセラー作家が登場することになる。(註84)

また、「宮古路哥内」については、1733年9月16日(享保18年8月9日・推定)付回状写に
「山城国愛宕郡京
□ 【2文字欠字】新橋筋
宮古路嘉内事 日暮八太夫」とある。(註85)
「宮古路哥内」を「みやこじかない」と読み、「宮古路嘉内」が音通で同名とみれば、「宮古路哥内」である日暮八太夫からその「弟子宮古路哥内」へと襲名されたと見ることができ、その可能性はきわめて高い。

『筆顔見世鸚鵡硯』竹内道敬「正伝節研究ノート」より

『筆顔見世鸚鵡硯』竹内道敬「正伝節研究ノート」より

上記回状と同年の1733年発刊の『筆顔見世鸚鵡硯』に、「宮古路哥内」は
「広い宮地におおきな芝ゐをたてゝ.やくらには錦の幕.始り太鼓を打切て.蒔絵のひやうし木゛ちよん【1字校訂者による翻字】〱と.打と引幕ざら〱〱.繁【1字校訂者による翻字】太哥内宮薗八和哥なんとかいふ門弟.長袴ざは〱としやちばりかへつて出きたる.跡からちいさい若衆が.女すがたや立すがたや立髪で.三方(ばう)に神酒どくり.つゞいて見台三味せん持て出ると.社だんの扉くはらりとひらけ.弁才天の三味せんに大黒天は槌をたゝいてそれ我国は神の御末と.魚づくしを語らせ給ふ其おもしろさ.」
と見えるほか、同書「若女形太夫之部」の筆頭に
「上上吉」「根生(ねをひ)の名人女がたのかいさん.ことさら女中の気(き)に扇(あふぎ)」
として宮古路哥内の名が見え、女形であったことも判明する。(註86)また、1740年、京四条通南角東側大芝居での嵐小六の興行「双紋浪花絵草紙」に「浄るり太夫」として出演したことが同興行の『役割番付』に記載されており(註87)、年代不詳の宮古路哥内正本『恋路濡草鞋』が残存する。(註88)

宮古路哥内正本『恋路濡草鞋 下之巻』竹内道敬「正伝節研究ノート」より

宮古路哥内正本『恋路濡草鞋 下之巻』竹内道敬「正伝節研究ノート」より

のちに宮古路哥内は、春富士正伝と改名する。改名の時期は、出版年が1758年以前と推定される唄本『高麗橋浮名花□□【散鐘カ】』「道行睦月春雨」に、「太夫春富士正伝、ワキ宮古路□□□□、さみせん竹沢弁蔵」とあるのが初見である。(註89)さらに1759年末頃に正伝から出雲、1761年末頃、掾号を得て出雲掾となり、1768年頃、二代宮古路薗八が宮薗鸞鳳軒と改名したあとに三代宮古路薗八となったという。(註90)

宮古路姓は、初世都太夫一中の弟子で豊後節創始者の宮古路豊後掾(初名・都国太夫半中)の始めた姓で、その一門を表わしている。竹内道敬氏によれば、1819年出版の「『音曲三元起』(文政二年・富中軒丸転作)をみると、宮古路薗八の門弟に、世代太夫、可内弁中、磐太夫、仲太夫、美濃太夫、文字太夫、家太夫の名が記されている。ついで、「二代目薗八と成家太夫事宮薗豊前」とあり、さらに改後鸞鳳軒ト号」とあり、さらに「可内弁中改春富士弁仲」とあり、その横に「松屋伝兵衛事」と「松伝(しやうでん)フシ」と書いてあるという。(註91)即ち、宮古路可内(哥内)は、正伝節の流祖である三代宮古路薗八(春富士正伝)の初名であると分析されている。

堺町葺屋町戯塲『江戸名所図会 天枢之部』による

堺町葺屋町戯塲『江戸名所図会 天枢之部』による

江戸での活動は、1768年刊の平賀源内著『男色細見 三の朝』「堺町葺屋町子供名寄 芸者之部」に「宮古路園八〔松伝ぶし〕」と見える。(註92)

また、劇場記録に
○ 1771年4月17日(明和8年3月3日)より 中村座『堺町曽我年代記』
道行「朧月対染衣(おぼろづきついのそめぎぬ)」(辻番付では「仕立荘三褄紅粉(したてばえみつのつまべに)」)
宮古路薗八、同秀太夫、同和国太夫(辻番付では時太夫)
三弦 豊沢宮蔵、三津木富(友)蔵
○ 1773年3月25日(安永2年3月3日)より 森田座『色蒔絵曽我羽觴(いろまきえそがのさかづき)』
「小いな半兵衛の道行」(題名未詳)
宮古路薗八、ワキ宮薗多見太夫、宮薗森太夫
三弦 三津木周助、三津木富蔵
とあるのが、藤根道雄、町田嘉章らによって、三代宮古路薗八(春富士正伝)の出演と分析されている。(註93)

また、『声曲類纂』の
「京 春富士正伝
寛延・宝暦【1748‐1764年】の頃京都より江戸へ下り、吉原に居す。正伝節とて一時世上に行れぬ。豊後節の一類也。〔京都にて醤油を商ひし伝兵衛と云ものなり。此人醤伝とよびしかば、文字をあらためて正伝と号すると。今京師に残れど、下品の類ひとていやしむるとかや。〕」(註94)
との記事を考え合わせると、この人物を、1798年当時の宮古路哥内すなわち日暮八太夫の弟子の宮古路哥内と見るのは厳しく、1720年代に生まれたと考えられる1733年の「宮古路嘉内事 日暮八太夫」その人が春富士正伝(三代宮古路薗八)である可能性は十分にある。難点は、『音曲三元起』に見える通称「松屋伝兵衛」あるいは『声曲類纂』の「伝兵衛」と、『関蟬丸神社文書』に見える通称「与四郎」「鮫屋与四郎」に相違があることであるが、「正伝」号が師の音曲を「正しく伝える」ことを意味しているのであれば、「松屋伝兵衛」または醤油屋の「伝兵衛」は、後の時代にできた語源説と考えることは可能である。また、『関蟬丸神社文書』をはじめ、上記文献から宮古路哥内名が弟子へと襲名されているのは確実であり、そのタイミングも含め、なお検討の必要があろう。
「宮古路哥内」は、1784(天明4)年、京都錦天神境内における伊勢松佐右衛門の興行(伊勢松座)に太夫として出演したことが『役者蓼喰虫』に(註95)、また、1786(天明6)年には、京都寺社内四条道場境内における藤本正三の興行(藤本座)に太夫として出演したことが『役者大極図』に見える(註96)。これが、1798年の日暮八太夫関係の文書に見える「弟子宮古路哥内」に該当すると思われる。

役者太極図『役者評判記』より

役者太極図『役者評判記』より

春富士正伝(三代宮古路薗八、宮古路哥内、日暮八太夫)の祖師である宮古路豊後掾は、恋愛至上主義をうたう豊後節で江戸に大ブームを引き起こした。
「豊後掾は京都の人で、一中節の始祖、初代都太夫一中(1650~1724)の門人で、はじめ都国太夫半中といい、上方の歌舞伎に出演しておりましたが、師の没後、宮古路豊後掾となり、やがて江戸に下って(享保19年・1734)、江戸で爆発的に流行しました。
心中道行物を題材としたその曲調は、艶があり官能的で、煽情的なものであったようですが、当時の江戸では心中事件が頻繁に起こっていたため、風紀を乱すという理由で、元文4年(1739)豊後節は禁止されました。その後、豊後掾は何人かの弟子たちを残して、江戸を去って京都へ帰り、元文5年(1740)にこの世を去りました。」(註97)
1731(享保16年11月23日)、町年寄喜多村役所へ中村座の勘三郎ら芝居町の座主が呼び出され、豊後節を名指しでの禁止令が伝達される。
「○十一月廿三日、町年寄喜多村御役所へ勘三郎外二座、小芝居源太郎外三人召呼れ申渡し。
一、此頃より市中に於て宮古路節浄瑠璃又ハ豊後等と唱へ、指南所等を構ひ、男女相つとひ候義、風儀にも拘り不宜敷に付令停止候、右に付其方共芝居幷小芝居等に至るまで、右浄瑠璃業之者共出候義、以来不相成旨奉行所より御沙汰に付、此旨可相心得。」(註98)

宮古路豊後掾供養塔 浅草寺本堂裏

宮古路豊後掾供養塔 浅草寺本堂裏

しかし、笠谷和比古氏によれば、豊後節の禁止、解禁の繰返しをめぐる状況は極めて複雑な状況を呈しており、一筋縄では解けない内容を含んでいる。(註99)禁令の一方では、1734(享保19)年9月から葺屋町河岸播磨(註100)、1735年9月1日(享保20年7月15日)には江戸三座の筆頭・中村座の大芝居で宮古路豊後掾の作品「睦月連理𢢫(むつまじづきれんりのたまつばき)」が上演されている。(註102)「睦月連理𢢫」は、宮古路豊後掾が名古屋滞在時におこった心中未遂事件を題材にしたラブストーリーで、「この心中者が法度通りに非人の支配下に置かれず、しかも、この事件を「睦月連理𢢫」という心中浄瑠璃に仕立てゝ、豊後掾が名古屋で興行出来たのは、全く尾州藩の政治方針が幕府の法度を無視することにあったが為である」(註102)というなみなみならぬ政治事情がその背景にあった。
1736年5月7日(享保21年3月27日)、市村座で興行していた宮古路文字太夫出演の「小夜中山浅間嶽」(後に「契情小夏中山」と解題)が北町奉行稲生正武の命により中途で差し止められるが(註103)、同年(改元のため元文元年)9月、「宮古路浄瑠璃太夫共芝居興行の儀ハ苦しからず、宅にて稽古不相成」と差支えなしとして決着。(註104)稲生正武は、江島生島事件と天一坊事件に関与した、綱紀粛正を目指す武断派であるが、あろうことか彼の娘も駆落ち者リストに載っていたという。(註105)
1739(元文4)年、大岡忠相が去ったあとの新任の南町奉行水野勝彦により、再度豊後節の禁止令が通達される。(註106)

祇園社絵馬所に掲く祇園社幷旅所之図(部分)『扁額軌範』国立国会図書館蔵より

祇園社絵馬所に掲く祇園社幷旅所之図(部分)『扁額軌範』国立国会図書館蔵より

禁令の中で問題視されている問題は、1739(元文4)年の申渡しと申合せから推測できる。
「未十月七日
奈良屋ニ而年番名主江被申渡
一近キ頃、上方ふし浄留理はやり、人之風俗も悪敷候間、為相止候様、町御奉行所より被仰渡候旨被申渡候
同月十日
奈良屋ニ而年番名主江被申渡
一上方ふし浄留理之儀、宮地等ニ而家業ニかたり候分ハ不苦候段被申渡候
同日
右ニ付年番名主寄合、左之通申合
一浄留理かたり太夫名無用、勿論太夫名張置申間敷候、幷浄るり稽古所と申札、張置申間敷候、上方ふし近来夥敷はやり、風俗悪敷罷成候ニ付、若キ者子供手代召仕等迄、向後一切上方ふし浄留理稽古ハ不及申、あた口ニも語申間敷旨、急度可被申付候
一宮地広小路等ニ而渡世ニ語り候者ハ格別ニ候
一上方ふし師匠、其外盲女座頭踊り子抔住所【原注・居(ケ)】ニ不構、其所江上方ふし稽古ニ不参候様ニ、若キもの子供手代召仕等迄、急度可被申付候
一稽古浄留理会一切無用、惣而不断雑談【原注・等(ウ)】ニも、上方ふし一切申間敷候
一髪之風俗目立不申候様、惣而異風ニ致不申、風俗直り候様可仕候
一会式十夜等、町宅之出家に不限、俗家ニも夥敷飾物之儀無用ニ致し、志斗ニ可致候事
右之通、町内寄合之上ニ而得と申合、店之者ハ勿論、召仕等迄急度申渡、尤湯屋髪結床江此旨急度申渡可然候
未十月十日」(註107)

享保19年令と元文4年令では質的違いが認められ、前者は豊後節の全面禁止であったが、後者では一般庶民の豊後節稽古や口ずさみさえ禁圧されるものの、職業演奏家による上演は、芝居町における大芝居、小芝居をはじめ、従来禁令下にあった宮地芝居や広小路における大道芸さえ許容されている。笠谷和比古氏は、ここに、後述の元文改鋳の持っていた改革路線の転換と対応する、幕府の豊後節に対する基本施策の変更を見ており、その政策転換を促したキーパーソンは大岡忠相(大岡越前)であると分析する。(註108)

風俗面では、宮古路豊後掾の弟子の宮古路文字太夫(のちの常磐津文字太夫)は文金髷を結っていて、権力から忌避されたとされる。(註109)「文金風とは,上方浄瑠璃の名人宮古路豊後掾の考案と伝えられる.流行したのは元文年間(1736‐41)で,幕府によって文金を鋳造した時期にあたったところからこの名が生まれ,根の高い急こう配の髷は辰松風と似ているが,二つ折れ方からは趣が少し異なり,髷尻が出ず,垂直に頭上に立ち,髷の芯には竹の串を用いたといわれる.」と(註110)、元文期に宮古路豊後掾が創始したとの記述があり、羽織についても「元文(1736‐41)には着物と同寸ほどの長さとなり,長い羽織ひもを垂らして先端を小さく結び,文金風,宮古路風と呼ばれて流行した」という。(註111)

当時の俗文学『当世下手談義』に、
「先(まづ)そちが語る豊後ぶしといふもの、世間人民の大毒。砒霜斑猫百双倍。第一風俗をみだり、昨日迄律義如法の男子(むすこ)も、一度此門に入ば、忽鬢の毛逆だつて、髪のまげが頂上に上り、眉毛ぬけて業平に似たり。羽織ながふして地を掃ひ、見る者驚歎せずといふことなし。されば浄瑠璃といふものは、仮染の遊戯なれど、是もいわば楽の一端。」

「さる程に我も〱と、まねよき儘に、うなり初(そめ)て、あまねくいたらぬ隈(くま)もなく、浄留理より、身ぶりを第一とまなび、小したゝるい風俗して、飛あるく輩もおほく、あまつさへ女があられもなひ、羽織着て脇指迄さした奴も、折節見ゆるぞかし。昔は、堀の舟宿の女房斗ぞ羽織を着ける。今は大体(てい)小家の壱軒も、持たる者の子も、女のあるまじき風俗させて、羽織きせたる親の心、おしはかりぬ。皆是愚人のするわざぞや。」とある。(註112)

主人公は「都路無字太夫」で、彼に語りかける言葉は、神がかりした堂守りの口を通じての神託である。なお、本書の出版経緯であるが、新日本古典文学大系の校注者中野三敏によれば、「本書は一旦は差戻され、二度目に許可され、それを更に又解題して三度も願い出るという始末である。問題視されたことは疑い様もない。そしてその差戻しから一転して許可された、まさにその間に改革政治の当事者吉宗と大岡忠相が没している。ここに何等かの相関を見てとる事は無理ではあるまい」と解説されており、「本書の刊行は、いわば江戸出版界の雪解けに比すべく、敢えていえばベルリンの壁の崩壊にも似ていた」という。(註113)この解題が書かれた前年、戦後冷戦体制を象徴していたベルリンの壁は崩壊、今日につながる現代史の新局面が開始されたことを思い出してほしい。また、上記の「神託」によってありありと語られるのは、宮古路一門が当代一流のミュージシャンでありつつ、最先端を行くファッションリーダーでもあったことだ。ロック界におけるパンク、ヘビーメタルあるいはニューウェーブ、最近であればレディーガガなどを想起していただければよいだろう。

右・宮古路風または文金風『我衣』『燕石十種』より 左・文金風『賤のをた巻』『燕石十種』より

右・宮古路風または文金風『我衣』『燕石十種』より 左・文金風『賤のをた巻』『燕石十種』より

また、上記の文金とは改鋳された元文金のことであり、時代を象徴するものとしてネーミングされている。徳川吉宗政権の享保改革の初期、幕府は慶長古金銀の品位に復する改鋳を実行する。同時に冗費削減による緊縮財政を実施するが、貨幣量の収縮に対して、米価は下落を続けていた。幕府財政支出と武士消費の減少は、そのまま経済全体の需要減に直結し、町人層、農民層の消費も減退させた。総需要曲線の下方シフトと総供給曲線の上方シフトがあいまって、デフレ・ギャップが拡大し、経済が極度の不振に追い込まれたためである。「こうして、一七三六(元文元)年八代将軍吉宗は二〇年前かれ自身が行ったものと一八〇度異なる貨幣政策を断行した。元文改鋳である。」(註114)鉱山資源の枯渇、流通貴金属貨幣の損耗、さらに貴金属の対外輸出による貨幣量の絶対的減少への対策は、この後も幕府の経済政策の基調となっていく。

元文小判(文字小判)(文金)As6673氏撮影 wikipediaによる

元文小判(文字小判)(文金)As6673氏撮影 wikipediaによる

宮古路豊後掾の江戸の門弟からは、上にのべた宮薗鸞鳳軒(二代宮古路薗八)、常磐津文字太夫(初名・宮古路文字太夫)のほか、富本豊前掾(初名・宮古路品太夫)、富士松薩摩掾(初名・宮古路加賀太夫)が出て、それぞれ宮薗節、常磐津節、富本節、富士松節の流祖となった。さらに富本節からは、清元延寿太夫による清元節が分流、薩摩掾門下の鶴賀若狭掾が鶴賀節をおこすが、この系統の浄瑠璃がのちに新内節となる。(註115)柳沢信鴻は、1779年5月6日、道灌山で2代目常磐津文字太夫一行とすれ違っている。また、宮古路豊後掾の師である都太夫一中は、京都の西本願寺派明福寺3代目住職周意の次男。住職であったが、1670年に還俗、京都の歌舞伎芝居小屋都万太夫座の座本であった万太夫こと都越後掾の弟子となり、初名は須賀千朴、後に都太夫一中と名乗り、一中節の創始者となった人物である。

 


 

註53 井原西鶴「朝(あした)の塩籠夕(ゆふべ)の油桶」『日本永代蔵 巻五』大坂森田庄太郎 京金屋長兵衛 江戸西村梅風軒 1688、暉峻康隆訳注『日本永代蔵』角川文庫2499 角川書店 1974 10版、初版は1967、による
註54 千葉県東葛飾郡教育会「第十六章 名所旧蹟 第三節旧蹟城址墳墓」『千葉県東葛飾郡誌 前巻』1923、千葉県立図書館菜の花ライブラリーによる
註55 千葉県東葛飾郡教育会「第十六章 名所旧蹟 第三節旧蹟城址墳墓」『千葉県東葛飾郡誌 前巻』1923、千葉県立図書館菜の花ライブラリーによる
註56 千葉県東葛飾郡教育会「第十六章 名所旧蹟 第三節旧蹟城址墳墓」『千葉県東葛飾郡誌 前巻』1923所収写真図版より読みおこし、千葉県立図書館菜の花ライブラリーによる
註57 井原西鶴(無署名)「恋のすて銀」『好色一代男 巻三』荒砥屋孫兵衛可心 1682、横山重校訂『好色一代男』岩波書店 30-204-1 岩波書店 1980 第27刷、初版は1955
註58 村上紀夫「まちかどの芸能史15 日暮太夫と近松寺」『部落解放』660号 解放出版社 2012年4月号
註59 井原西鶴(無署名)「出家にならねばならす」『好色一代男 巻二』荒砥屋孫兵衛可心 1682、横山重校訂『好色一代男』岩波書店 30-204-1 岩波書店 1980 第27刷、初版は1955
註60 青木鷺水『諸国因果物語』1707 江戸出雲寺四郎兵衛 京菱屋治兵衛板行、小川武彦『青木鷺水全集 第四巻』国文学研究資料文庫34 ゆまに書房 1985
註61 塚田孝「第十四章 芸能者の社会的位置」阪口弘之編『浄瑠璃の世界』世界思想ゼミナール 世界思想社 1992
註62  João Rodrigues『Arte da Lingua de Iapam』イエズス会 1604‐1608、ジョアン・ロドリゲス原著 土井忠生訳註『ロドリゲス日本大文典』三省堂 1955
註63 阪口弘之「第II部芸能興業 I章 蝉丸宮と説教日暮」塚田孝 吉田信之編『近世大坂の都市空間と社会構造』山川出版社 2001
註64 阪口弘之「延宝期四条河原の芝居景観 四条河原図巻詞書をめぐって」歌舞伎学会『歌舞伎 研究と批評』9 リブロポート 1992年6月、阪口弘之「第II部芸能興業 I章 蝉丸宮と説教日暮」塚田孝 吉田信之編『近世大坂の都市空間と社会構造』山川出版社 2001
註65 「作品解説 10 四条河原風俗図巻」京都府京都文化博物館 学芸第一課 塩見嘉久 大塚活美 田島達也編『京都府京都文化博物館開館3周年記念特別展 京の歌舞伎展―四条河原芝居から南座まで―』図録 京都府京都文化博物館 1991
註66 「京都ツウのススメ 第四十三回 京都と映画」京阪電気鉄道株式会社おけいはん.ねっと
註67 「京都四條 南座について:歴史」松竹株式会社公式サイト
註68 『京四条河原諸名代改帳 附浄瑠璃太夫口宣之写・諸名代所附』芸能史研究会編『日本庶民文化資料集成 第六巻 歌舞伎』三一書房 1973
註69 服部幸雄「かぶき 歌舞伎」『世界大百科事典 改訂新版』5 平凡社 2007
註70 『公方方壁書』寛延2年7月条、斉藤利彦「近世中期京都興行界と日暮太夫」『鷹陵史学』第39号 鷹陵史学会 2013
註71 青木繁「こどもしばい 子供芝居」服部幸雄 富田鉄之助 広末保『新版歌舞伎事典』平凡社 2011
註72 『関蝉丸神社文書』、村上紀夫「まちかどの芸能史15 日暮太夫と近松寺」『部落解放』660号 解放出版社 2012年4月号
註73 村上紀夫「まちかどの芸能史15 日暮太夫と近松寺」『部落解放』660号 解放出版社 2012年4月号
註74 塚田孝「芸能者の社会的地位」阪口弘之編『浄瑠璃の世界』世界思想ゼミナール 世界思想社 1992、阪口弘之「第II部芸能興業 I章 蝉丸宮と説教日暮」塚田孝 吉田信之編『近世大坂の都市空間と社会構造』山川出版社 2001
註75 村上紀夫「まちかどの芸能史15 日暮太夫と近松寺」『部落解放』660号 解放出版社 2012年4月号
註76 ニュー・サディスティック・ピンク「夕暮れ時はさびしそう」(作詞・作曲:天野滋)AARDVARK/キャニオン AV-34 1974年7月10日発売。NSPは、国立一関工業高等専門学校の同級生であった三人が在学中の1972年に結成。リーダーの天野滋は、2005年、大腸癌の療養中の病院において脳内出血で死亡した
註77 青木鷺水『諸国因果物語』1707 江戸出雲寺四郎兵衛 京菱屋治兵衛板行、小川武彦『青木鷺水全集 第四巻』国文学研究資料文庫34 ゆまに書房 1985、句読点及び括弧を私に追加した
註78 阪口弘之「第II部芸能興業 I章 蝉丸宮と説教日暮」塚田孝 吉田信之編『近世大坂の都市空間と社会構造』山川出版社 2001
註79 室木弥太郎 阪口弘之「関蟬丸神社文書(二)」『金沢大学教養部論集 人文科学篇』18 金沢大学教養学部 1981年3月に初掲、室木弥太郎 阪口弘之編『関蟬丸神社文書』研究叢書46 和泉書院 1987による、斉藤利彦「近世中期における日暮太夫に関する一考察」『歴史学部論集』04 仏教大学 2014年3月
註80 山本世右衛門『本典六要板木買上始末記』1777、妻木直良編纂『真宗全書 続ニ六』蔵経書院 1916、万波寿子「西本願寺の寺内書林」『古典文芸論叢』1号 文芸談話会2009年3月
註81 井上隆明『近世書林板元総覧』日本書誌学大系14 青裳堂書店 1981、井上隆明『改訂増補近世書林板元総覧』日本書誌学大系76 青裳堂書店 1998に、伊三郎、嘉兵衛、吉兵衛、重(十)兵衛、宗三郎、宗七、太兵衛、藤蔵、弥三郎、安兵衛の名が見える。他に清五郎(亀山市歴史博物館所蔵加藤家文書)、宇兵衛(方美英「近世大坂書林「河内屋新次郎」について(研究)」『お茶の水史学』45号 2001年10月)などの名が知られる
註82 弥吉光長『未刊資料による日本出版文化 第二巻 大坂の本屋と唐本の輸入』書誌書目シリーズ26 ゆまに書房 1988
註83 万波寿子「西本願寺の寺内書林」『古典文芸論叢』1号 文芸談話会2009年3月
註84 弥吉光長『未刊資料による日本出版文化 第二巻 大坂の本屋と唐本の輸入』書誌書目シリーズ26 ゆまに書房 1988
註85 室木弥太郎 阪口弘之編『関蟬丸神社文書』研究叢書46 和泉書院 1987、斉藤利彦「近世中期における日暮太夫に関する一考察」『歴史学部論集』04 仏教大学 2014年3月
註86 浮世庵心笑『筆顔見世鸚鵡硯』四條通東洞院亀岡堂板行 1733年2月15日(享保18年1月2日)序、歌舞伎評判記研究会編『歌舞伎評判記集成 第十巻 自享保十五年至享保二十一年』岩波書店 1976所収、竹内道敬「正伝節研究ノート」芸能史研究会編『日本の古典芸能 6 舞踊 近世の歌と踊り』平凡社 1970、伊坂正海「宮古路節演奏者年表」『宮古路節の基礎研究』1998日本大学博士(芸術学)論文、のち根岸正海『宮古路節の研究』南窓社 2002に所収
註87 1740年7月1日(元文5年6月8日)『役割番付』、早稲田大学演劇博物館蔵、早稲田大学演劇博物館デジタルアーカイブ・コレクション 近世芝居番付データベース(試験公開)による
註88 竹内道敬「正伝節研究ノート」芸能史研究会編『日本の古典芸能 6 舞踊 近世の歌と踊り』平凡社 1970
註89 竹内道敬「正伝節研究ノート」芸能史研究会編『日本の古典芸能 6 舞踊 近世の歌と踊り』平凡社 1970
註90 竹内道敬「正伝節研究ノート」芸能史研究会編『日本の古典芸能 6 舞踊 近世の歌と踊り』平凡社 1970
註91 竹内道敬「正伝節研究ノート」芸能史研究会編『日本の古典芸能 6 舞踊 近世の歌と踊り』平凡社 1970
註92 平賀源内『男色細見 三の朝』1768年2月18日(明和5年子元日)序、松田修 柴田美都枝解題・校注「男色細見 三の朝」芸能史研究会『日本庶民文化史料集成 第九巻 遊び』三一書房 1974による、竹内道敬「正伝節研究ノート」芸能史研究会編『日本の古典芸能 6 舞踊 近世の歌と踊り』平凡社 1970
註93 竹内道敬「正伝節研究ノート」芸能史研究会編『日本の古典芸能 6 舞踊 近世の歌と踊り』平凡社 1970、伊坂正海「宮古路節演奏者年表」『宮古路節の基礎研究』1998日本大学博士(芸術学)論文、のち根岸正海『宮古路節の研究』南窓社 2002に所収
註94 藤田徳太郎校訂『声曲類纂』岩波文庫2677‐2681 岩波書店 1941。文中の「醤油屋」語源説について、竹内道敬氏は、宮古路豊後掾の芸風を守り、正しく伝える意味で「正伝」を名乗ったと見ている。
註95 三世八文舎自笑『役者蓼喰虫』1784(天明4年辰5月吉日)序、『歌舞伎評判記 リールNo.70』雄松堂 1997、立命館大学アート・リサーチセンター第3期役者評判記による役者移動データベース
註96 三世八文舎自笑『役者大極図』八文字屋八左衛門 1786、立命館大学アート・リサーチセンター第3期役者評判記による役者移動データベースによる
註97 「清元資料館 清元の歴史・概要」清元協会公式サイト
註98 伊原敏郎著 河竹繁俊 吉田暎二編集校訂『歌舞伎年表 第二巻 享保六年―延享四年』岩波書店 1957
註99 この項の論旨は、笠谷和比古「徳川吉宗の享保改革と豊後節取締り問題をめぐる一考察」『日本研究―国際日本文化研究センター』第33集 大学共同利用機関法人人間文化研究機構国際日本文化研究センター 2006年3月によっている
註100 伊原敏郎著 河竹繁俊 吉田暎二編集校訂『歌舞伎年表 第二巻 享保六年―延享四年』岩波書店 1957
註101 Ryo Akama「江戸時代 江戸歌舞伎興行年表」立命館大学アート・リサーチセンター歌舞伎・浄瑠璃データベース
註102 岩沙慎一『江戸豊後浄瑠璃史』くろしお出版 1967
註103 伊原敏郎著 河竹繁俊 吉田暎二編集校訂『歌舞伎年表 第二巻 享保六年―延享四年』岩波書店 1957
註104 伊原敏郎著 河竹繁俊 吉田暎二編集校訂『歌舞伎年表 第二巻 享保六年―延享四年』岩波書店 1957
註105 笠谷和比古「徳川吉宗の享保改革と豊後節取締り問題をめぐる一考察」『日本研究―国際日本文化研究センター』第33集 大学共同利用機関法人人間文化研究機構国際日本文化研究センター 2006年3月
註106 笠谷和比古「徳川吉宗の享保改革と豊後節取締り問題をめぐる一考察」『日本研究―国際日本文化研究センター』第33集 大学共同利用機関法人人間文化研究機構国際日本文化研究センター 2006年3月
註107 近世史料研究会編『近世町触集成 第五巻 自元文三年至宝暦五年』塙書房 1996
註108 笠谷和比古「徳川吉宗の享保改革と豊後節取締り問題をめぐる一考察」『日本研究―国際日本文化研究センター』第33集 大学共同利用機関法人人間文化研究機構国際日本文化研究センター 2006年3月
註109 竹内道敬「正伝節研究ノート」芸能史研究会編『日本の古典芸能 6 舞踊 近世の歌と踊り』平凡社 1970
註110 橋本澄子「かみがた 髪形」『世界大百科事典 改訂新版』6 平凡社 2007
註111 山下悦子「はおり 羽織」『世界大百科事典 改訂新版』22 平凡社 2007
註112 静観坊好阿「都路無字太夫、江の島参詣の事」『当世下手談義』(いまやうへただんぎ)大和田安兵衛 大坂屋平三郎 1752、中野三敏校注『新日本古典文学大系 81 田舎荘子 当世下手談義 当世穴さがし』岩波書店 1990
註113 中野三敏(解題)『新日本古典文学大系 81 田舎荘子 当世下手談義 当世穴さがし』岩波書店 1990
註114 速水融 宮本又郎「1 概説 17‐18世紀」速水融 宮本又郎編集『日本経済史 1 経済社会の成立17‐18世紀』岩波書店 1988
註115 野川美穂子「日本音楽への招待 第9回 三味線楽➁豊後系浄瑠璃」アルテスパブリッシングサイト

富士見と富士見坂(5)の2 日暮里と足利将軍の後裔―近世から近代へ(2)」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 風魔の家紋と姓(苗字)って何だ? – バリ島の貿易会社 社長のブログ

コメントを残す