今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

富士見と富士見坂(5)の6 日暮里と足利将軍の後裔―近世から近代へ(6)

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近世の和歌については、先に触れた通り、京都の宮廷を中心とした古今伝授に基づく中世以来の伝統が再建されたが、江戸においては中世的伝統から独立の体制が構築されようとしていた。

戸田茂睡 栗原信充画『肖像集』より 国立国会図書館蔵

戸田茂睡 栗原信充画『肖像集』より 国立国会図書館蔵


伝統的な詠法では、和歌に詠まれる地名が伝統的な名所に限定されており、新規の地名を詠む場合には、狂歌として詠まれることが多かったという。(註366)戸田茂睡は、これを逸脱し、江戸近郊の地名を和歌に詠み込んでいる。嶋中道則氏は、「歌そのものは平明な叙景歌であるに過ぎないが、従来の和歌ではよまれなかった谷中・日暮里という地名を織り込み、江戸の身近な風土を和歌によもうとした試みは注目されていい。茂睡はこのほかにも江戸の地名を好んでとりあげており、江戸の新しい歌枕の開拓者としても見直す必要があろう」という。(註367)
嶋中道則氏は、続けて「もっとも、こうした茂睡の試みも、わずかに「綾瀬川」が加藤千蔭(ちかげ)によって「ほの見ゆる薄紅(うすくれなゐ)のひとむらは綾瀬の岸のねむの花かも」(『うけらが花』)と詠まれた例などはあるにしても、ほとんど後の歌人に継承されることはなかったようである」とも記している。(註368)ただし「日暮里」に関しては、前述のとおり、日野資枝による和歌が詠まれている。

「東なる日くらしの里ハ花のころ貴賎群集して佳景を賞するよし歌よめと乞れしかは従一位日野大納言資枝卿
たれとなく咲添ふ花のかけとひてけに日くらしの里そにきはふ」(註369)

日野資枝は、烏丸光広、烏丸資慶の子孫で「今人丸」と呼ばれた烏丸光栄の子であり、中世から近世へ細々と連続してきた古今伝授の流れに貢献してきた家系に連なっている。日野資枝は柳沢信鴻の歌道上の師であり、その子柳沢保光に古今伝授を施している。(註370)

柳沢吉保は、北村季吟より秘伝を伝受するが、柳沢吉保の詠歌は諸種の和歌集に見ることはできない。しかるに柳沢吉保親子と正親町町子は霊元院に歌集を送り、採点(勅点)を受けている。上野洋三氏は「元禄期に盛行する武家の詠歌の営みに対して、吉保が着々と宮廷和歌にかかわっていくこれらの事件は、小さからぬ意味をもったであろう」と総括している。(註371)江戸歌壇の成立時期にあって、江戸の歌人に交わらず、柳沢吉保は天皇の権威にすり寄っているのである。
なお、柳沢吉保の伝受した秘伝であるが、古今伝授ではなかった可能性が高い。なぜなら北村季吟の師、松永貞徳は、「その身分の低さゆえに古今伝授は許されなかったという。」(註372)ということによる。「貞徳は、「古今伝授」を受けない以上は、たとえ、いくらみごとな歌をつくっても、世間からは和歌の達人とは認められないことをよく承知していた。彼は「古今伝授」の継承者、細川幽斎とは、きわめて親しい間柄にあったが、貞徳のごとき生まれのものが、社会的なエリートからエリートヘと伝達されるこの文化の伝統に割って入ろうなどというのは論外なのであった。」(註373)しかし、日記によれば、柳沢吉保は、1706(宝永3)年7月、子の柳沢吉里に秘伝を伝授している。

「吉里へ古今集の秘訣を伝授す。祝儀往来あり」(註374)

幕府の歌学方となった北村季吟は、幕府に仕える直前には、伊勢久居藩の藤堂高通に招かれて歌学の指導者となっている。師の松永貞徳は、俳諧の世界においては貞門派の祖である。貞門派俳諧は、故郷八代の地を出、改易された主君加藤正方とともに京都、大坂で活躍した西山宗因によって開かれた談林派俳諧にその座をとってかわられるまで、俳諧の主流派であり続けた。北村季吟自身も『源氏物語湖月抄』等の著作を著した権威ある歌学者、歌人であるほか、貞門派の俳人でもあり、汎階級的な文学運動である俳諧の世界に参加している。これは、京都の朝廷を中心とする和歌世界とは異なる、江戸の幕府を中心とする和歌世界を特徴づける重要な要素である。しかし、歌学の伝授に秘伝の伝授という伝統的様式を踏襲しているところには、中世以来の神秘主義的色彩が強く、いまだ近代への道筋を開いているとはいえない。

古今伝授をはじめとする中世歌学については、宮廷歌壇内部からも二條派和歌の形式主義について自己批判がされていたが(註375)、地下派のリーダーとして体系的な批判を行なったのが戸田茂睡である。1665年3月1日(寛文5年1月15日)、戸田茂睡は、「梨本の野入道かいふうたハやまとことのはなれハ人のいふことはを哥によますといふ事なし」(「梨本の野入道がいふ。歌は大和言の葉なれば、人のいふことばを歌に詠まずといふ事なし。」)という戦闘宣言を書き記している。(註376)

待乳山聖天 戸田茂睡歌碑

待乳山聖天 戸田茂睡歌碑

近代になって、佐々木信綱は「戸田茂睡」を発見する。佐々木信綱は、父佐々木弘綱とともに歌学全書を発刊、中でも1891年の『万葉集』の活字本化は、ある意味で近代短歌を切り拓くものとなった。『古今和歌集』を中心とした中世以来の古今伝授の歌界にあって、『万葉集』は必ずしも重視されているとはいえなかったが、僧契沖の『万葉代匠記』以来の近世国学の流れの中で、大きな比重を占めるところとなった。また、現在の『万葉集』の「よみ」は、それ以前の訓を改めた賀茂真淵の訓みに多くを依拠しており、名歌とよばれるいくつもの歌が賀茂真淵に依っていることが指摘されているが、「この改訓をだれにも納得させるだけの学問的な根拠があるかというと、実はないんです。」(註377)
佐々木信綱による金属活字本『万葉集』刊行の時期、『万葉集』が国民歌集であるという言説が出現、固定化していく。教科書等でおなじみの「上は万乗の貴きより、下、匹夫に至るまで」(註378)の国民歌集という観念である。近代文学なかんずく国民文学の需要から、近代の所産である「国民」概念のなかったはるか昔の時代、支配者である貴族によって編纂された歌集を「国民歌集」と言い換えることによって歴史を転倒するのである。そしてそれは、国民の統合と支配という明治国家の差し迫った要求に連結していた。

のちに佐佐木信綱(改姓後の称)自身が編集した、その名も『国民歌集』では、本編の首歌が神武天皇の「八十梟師を撃給ひし時(小長歌)」に始まり、津和野藩士で孝明天皇に近侍し、明治天皇の侍講を務めた福羽美静の短歌「国のため思ひかためしわが心玉とみがきて世を照らさばや」に終わる。戦争を賛美し、天皇を崇拝し、国威を発揚する和歌がずらりと並ぶ。戸田茂睡の歌も、妻子に朝鮮人「てるま・かくせい」を土産に「とり」「もとめ」ることを約束した大島忠泰の歌も、島原のキリシタン戦争で戦死した板倉重昌の歌も、当然の顔をして収載されている。巻頭の「御製」「御歌」及び附録を除く614首の31%以上は天皇の和歌および天皇を明示的に詠った歌である。複数の解を持つ「君」「君が代」をカウントすれば、その比率はさらに高まる。戦争を詠んだ叙事歌の多いのも特徴で、朝鮮との戦争の歌も約5%を占める。さらに黒船来航や対外関係を詠う歌、蝦夷地、沖縄の和歌、神話や「神国」をテーマにする歌も多く、「日本」、「日の本」が連呼される。まるでナショナリズムを喚起するための、ファナティックなアジテーション集の趣である。(註379)一首だけ選ばれた正岡常規(子規)の歌も

「桜咲く御国志らすと百敷の千代田の宮に神ながらいます」

という、まるでマンションのキャッチコピーのような作である。

集中には、日本の美を象徴するように、桜や富士山をうたう歌が多く混じるが、「桜は本当に美しいのか」(註380)、富士山は本当に大事にされているのか、今一度振り返ってみる必要がある。

同集に収載された賀茂真淵の歌をひとつ紹介する。

「もろこしの人に見せばやみ吉野の吉野の山の山さくら花」

ここで「もろこしの人」と呼ぶのは清朝の人とも取れるが、あるいは直接目撃することのできた朝鮮通信使を表現しているのかもしれない。『賀茂翁家集』に以下の歌がある。

「    四月枝直が家にて韓使といふことを(これは五月韓人の来べきにて此題をいだしつむかしはかく東まで来たる事無きにちかき御世にはめづらしかなればなん)
東路のふじの高ねの高しらす君が世あふぐみつのから人」(註381)

「みつのから人」は三韓人、すなわち統一朝鮮王朝の使節を指している。本歌について久保田淳氏は、「「東路の富士の高嶺の高知らす君」とは、もとより徳川将軍を意味する」と解説するが(註382)、はたしてどうか。幕臣でありながら、天皇崇拝の色の濃い賀茂真淵にとっての「君」は、もしかすると天皇であった可能性もある。

『賀茂翁家集』には、別に次のような江戸の情景を詠んだ歌も収められている。

「    雪中眺望
雪はるゝあさけに見れば不二のねのふもとなりけりむさしのゝ原」

「    谷中の柹【柿の異体字】本社にて歌よみけるに社頭花といふことを
ことのはの色香にあける神ながら猶みづかきの花やめづらん」(註383)

ただし、後者の詞書に「谷中」と書くのは誤りで、日暮里の諏訪台浄光寺の光景である。浄光寺境内にあった人丸社において、1723年、柿本人麿千年忌の歌会が開かれたことは前述のとおりだが、この歌もそれに関わるものと考えられる。詞書の「社頭花」についてであるが、「社頭花」の題で寺社の御垣に咲き散る桜を詠んだ例は多い。浄光寺の人麿社においても桜の木のあったことが、『日くらしの里名所ひとり案内』に見てとれる。「社頭花といふことを」という同じフレーズは、鎌倉期の『続古今和歌集』に収められた祝部成茂の歌に見ることができる。

「    社頭花といふ事を
桜花老い隠るやとかざしても神のいがき【斎垣】に身こそふりぬれ」(註384)

羽川藤永「朝鮮通信使来朝図」神戸市立博物館蔵『富士山百画』より

羽川藤永「朝鮮通信使来朝図」神戸市立博物館蔵『富士山百画』より

さて、実際、朝鮮通信使の使員たちは富士山を見て讃嘆していたし、富士山を題材に多くの詩を書いている。次は、1636年の朝鮮通信使副使・金世濂(김세렴)の『金東溟槎上録』(김동명사상록)に記録された「富士山」を題とする8編の詩の最後のひとつである。難解のため、語注を付す。富士山及び松原で8編の詩を書いているのは、伝統的な八景詩のスタイルに従っているからであるが、なかなかの力業といえるだろう。

「  其八
日邦佳気暁葱葱     日邦の佳気 暁に葱葱(そうそう、青々)
覇業宏基勢自雄     覇業の宏基 勢ひ自雄なり
拆地滄溟生日月     地 拆(さ)き 滄溟(そうめい、大海)に日月生じ
挿天円嶠削芙蓉     天 挿(さしはさ)む円嶠 削るは芙蓉
乗槎暫住中郎節     槎(いかだ)に乗り 暫く住(とどま)る 中郎の節
聞楽還追季子風     楽を聞き 還りて追ふ 季子の風
隆碣勒成今已遠     隆碣勒し成せるは 今已(すで)に遠し
欲尋遺躅到高峰     遺躅を尋ね 高峰に到らんと欲す」(註385)

(語注)

覇業宏基:のちに触れる通り「往昔太閤秀吉君討朝鮮而、生霊【百姓、人民】有糜爛之禍、彼不同一天之讎也、東照大権現誅伐大坂」(戦乱の災いを起した豊臣秀吉を徳川家康が誅伐した)との故事を想起しているのである

自雄:プライド。『宋書 範曄傳』「躍馬顧盼、自以為一世之雄。」が出典。明 方孝孺『贈王時中序』に「趙括以善兵自雄、一戦而喪軍殺将、犯兵法所忌。」

拆地:『淮南子』『列子』等によれば、往古、火神祝融と水神共工の争いのため、天を支えていた不周山が折れ、大地をつないでいた綱は裂けた。女媧が五色の石を精錬して補天し、鼇(大亀)の足を四方の隅に立てて補修したが、この時の傾きのため広大な東海が誕生し、天が西北に傾いたために日月星辰は東から上り、西側に落ちていくのであるという。女媧の居所は東海中の仙山の天台である。『列子』によれば、岱輿と員嶠(円嶠)の浮島が北極に漂流して転落の危険があったため、天帝の命を受けた禺彊(禺強)が巨鼇15匹に5つの島を背負わせることにした。その交替期間は60,000年である。昔は、このような大きな亀が数多く生息していたらしい。魯迅に『補天』(初題『不周山』)の作品がある

滄溟:『漢武帝内伝』に「棲太帝於扶桑之墟。於是方丈之阜、為理命之室、滄浪海島、養九老之堂。祖瀛元〔『王母授漢武帝真形図』玄〕炎、長元流生、鳳麟聚窟、各為洲名。並在滄流大海元〔『王母授漢武帝真形図』玄〕津之中、水則碧黒俱流、波則振蕩群精。諸仙玉女、聚於〔『広記』居『王母授漢武帝真形図』乎〕滄溟」とある

生日月:『楚辞』等によれば、日の出るところが「湯谷」、『山海経 海外東経』に「湯谷上有扶桑、十日所浴、在黒歯北。居水中、有大木、九日居下枝、一日居上枝。」とある。扶桑は、日の出を待つ太陽の宿る神木にして世界樹であるが、のちに日本の異称となった。『隋書 東夷伝』に「倭王以天為兄、以日為弟」「其国書曰、日出処天子、致書日没処天子、無恙、云云」とあるのも古代中国の世界観による。『新しい歴史教科書』を出版した扶桑社の社名も、中国神話に由来を持ち、中国的世界観と歴史観に基礎がある。1902年6月、魯迅が弟周作人に宛てて送った写真の裏書に「会稽山下之平民,日出国中之遊子,弘文学院院之制服,鈴木真一之撮影,二十余齢之青年,四月中旬之吉日,走五千余里之郵筒,達星杓【星杓は周作人の号】仲弟之英盼。兄樹人頓首。」と記した

円嶠:神仙の住む仙山であり浮島のひとつ。『列子』によれば、渤海の東方の大海中に五山があり「一曰岱輿、二曰員嶠、三曰方壷、四曰瀛洲、五曰蓬萊。其山高下周旋三万里、其頂平処九千里、山之中閒相去七万里」。晋 葛洪『抱朴子』『嵇中散孤館遇神』や『列仙伝』によれば、安期生は、秦 始皇帝が琅琊(山東)で出会い、三日三晩語り合ったという神仙で、東海中の蓬莱または円嶠はその居所とされる。『史記』には、始皇帝は、蓬莱山を求めて徐福を東海中に遣わすが帰還しなかったと記し、徐福は倭人の地に到達したという伝説がある。図像的には、円嶠は丸く平らな頂を持つ巨大な島として描かれることが多い。ただし『列子』の伝によれば、竜の一族である竜伯国の巨人が大亀を釣り上げてしまったために岱輿と員嶠は、北極からその外側の大海にこぼれ落ちてしまったという。また、蓬萊は後出する李白の詩「哭晁卿衡」に「蓬壷」とあるが、晋 王嘉『拾遺記 高辛』に「海中三山、一方壷、則方丈也、二蓬壷、則蓬萊也、三瀛壷、則瀛州也。」と載る

挿:中唐 李賀の楽府『巫山高』に「碧叢叢 高挿天 大江翻瀾神曳煙。」とある

削:『山海経 西山経』に「又西六十里、曰太華之山、削成而四方、其高五千仞、其広十里、鳥獣莫居。有蛇焉、名曰肥𧔥、六足四翼、見則天下大旱。」北魏 酈道元『水経注』に「山海経曰、其高五千仞、削成而四方、遠而望之、又若華狀、西南有小華山也。韓子曰、秦昭王令工施鉤梯上華山、以節柏之心為博箭、長八尺、棊長八寸、而勒之曰、昭王嘗与天神博于是。」とある。太華之山は、華山(西嶽華山)で現・陝西省にある道教の霊山「五岳」のひとつ。「黄山天下奇、青山天下幽、華山天下険」といわれる。ちなみに日本唱歌『箱根八里』の歌詞に
「箱根の山は、天下の嶮(けん)
函谷関(かんこくかん)も ものならず
万丈(ばんじょう)の山、千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え、後方(しりへ)にささふ」
というのも、中国的世界観を日本の箱根に移植したものである。下記の通り、富士山が五千仞とされているので、比率上、箱根の谷が千仞となるのである

芙蓉:『芸文類聚 山部』に「衡山有三峰極秀、一峰名芙蓉峰」とある。蓮華(芙蓉)に似ているからとも、美しい山であるからとも言われる。晋 葛洪『西京雑記』に「卓文君好眉色、如望遠山、臉際常若芙蓉、肌膚柔如脂」とあり、美人をも意味する。衡山は道教の霊山「五岳」のひとつ。芙蓉峰はピークのひとつで、最高峰は祝融峰。火神祝融の葬地である。日本では、芙蓉は富士山を指す。『日本国語大辞典 第二版』によれば、「芙蓉」が富士山を表わす日本語文献での初出は、熊本藩儒で初代時習館教授の秋山玉山の詩であるというから、金世濂による本詩は明らかに古い例である。「芙蓉の人」の語は、朝鮮通信使が来日していなければ成立しなかったかもしれない。以下は秋山玉山の詩
「  望芙蓉峰
帝掬崑崙雪     帝 崑崙の雪を掬(あつ)め
置之扶桑東     之を扶桑の東に置く
突兀五千仞     突兀たり 五千仞
芙蓉挿碧空     芙蓉 碧空に挿む」(秋山玉山『玉山先生詩集 巻之五』須原茂兵衛 1754)
ここで、「帝」は天帝を意味し、天皇ではない。「崑崙」は、西方にあり、西王母の住む仙境である。秋山玉山の詩もまた東アジアにおける神話的世界観に基づいている

乗槎:筏(槎)に乗って海に浮かび、海上の城郭で織婦と牽牛に出会い、天河に到ったとする伝説。晋 張華『博物誌』に見える。『荊楚歳時記』によれば、主人公は漢 張騫となり、皇帝の命を受けて河源(黄河の水源)の捜索に赴いた張騫は、城郭で織女と牽牛に出会い、天の川に到着したことを知る。「張騫乗槎」という故事で『今昔物語集』に逸文として残る。『東槎録』『槎上録』の書名も本故事にちなむ。張騫は、匈奴(内田吟風による推定原音:flōŋ-nah)の虜となるが脱出、十余年の後に帰国した。この含意が次の句に連結する

中郎:元 張翥『上京秋日』に「中郎節在仍帰漢、校尉城空罷護羌。」中郎は官名であるが、ここでは漢 蘇武をさす。漢使として匈奴に赴いて虜となり、帰順を強いられるが拒否を貫き、19年後に帰還した。「節」はこの態度を表現している。張騫、蘇武を取上げているのは、被虜となっても故国を忘れない在留朝鮮人の心情を意味していると見られる

季子:季札のこと。『春秋左氏伝』に呉 季札が魯を訪れた時、楽を聞き、演奏された諸国の民族音楽(風)に的確な評をしたというエピソードがある。古琴曲『孤館遇神』『広陵散』は、霊山のひとつ天台山の音楽で、魏 嵇康が安期生の石屋に宿った時、仙女により伝えられたという伝説がある。なお、呉は周 太王の長男太伯の子孫と言われ、弟の季歴に家督を譲るため自ら文身(いれずみ)して呉に赴いたという。また、倭人は呉 太伯の子孫であるとする伝承があり、『魏略』逸文『晋書 四夷伝』『梁書 諸夷伝』に載る。本詩全体として、仙境の描写と日本の印象を、東海の神話世界の中で重ね合わせる技巧が施されている。おべんちゃらなのだが、日本の再侵略への警戒と友誼の永遠ならんことを切実に祈念しているのだ

隆碣:班固『封燕然山銘』に「鑠王師兮征荒裔、剿匈奴兮截海外、封神丘兮建隆碣、熙帝載兮振万世。」後漢の代、竇憲が匈奴を敗退させた時に建立した石碑の銘。本詩全体に北方からのマンジュ民族(ᠮᠠᠨᠵᡠ、manju、満洲)の脅威を示唆している

勒成:文章を石に刻む。単に文字、書物を書く意味でも使われる

読み出しは平易であるが、先に進めば進むほど、意味は把握しづらくなる。熟読してわかるのは、すべての語に出典があり、神話的世界観と故事が付帯されており、日朝中の東アジア伝統世界を通底する共通概念に基づいているらしい、ということである。しかしながら当時の日朝知識層は、これらの一筋縄ではない漢字の集合体から、その背後にある文化的伝統を共有することができたのであり、ブンガクを感じることができたのである。
ただし、この時、幕府の要員として江戸で応接に当った林羅山は、瑣末な知識をひけらかして朝鮮使節と衝突、その非礼、非常識を将軍徳川家光にたしなめられている。松浦鎮信『武功雑記 上』によれば、「道春【林羅山】朝鮮人と筆談仕候ニ只故事来歴ナトヲ相尋穿鑿仕候段々大猶院様【徳川家光】御聞被成右ノ如ク成事ヲ筆談センヨリハ異国ニテハイカヤウノ仕置ニテ国ヲオサメ候歟仁義忠信ナトノ儀ハカヤウニ存候ナトヽアルコトキ事ヲコソ尋テ然ルヘケレト御意被成候由」という。(註386)

この時も外交団の主要な要求は拉致された朝鮮人の帰国問題であったが、幕府官僚側は通り一遍の誠意のない回答に終始し、初期の刷還に見せた意欲を失いつつあった。そして、それ以上に重要だったのは、当時の東アジアをめぐる国際情勢が緊迫する中で、幕府による日本型華夷秩序が完成しようとしていたことである。(註387)そうした背景もあって、1637年1月2日(崇禎9年、ᠳᠡᠭᠡᠳᠦ ᠡᠷᠳᠡᠮᠲᠦ(wesihun erdemungge、崇徳、degedü erdemtü)1年、仁祖14年12月7日、寛永13年12月6日)、江戸に到着した通信使一行に、徳川家光は、宗義成を通して「朝鮮為送信使。我以為莫大之慶。至於一人再見信使。自吾祖吾父莫之能也。支供豊盛。不足以表我之喜幸。接待尊敬。不足以尽我之情欵。幸為我勧留旬朔。仍請遊覧。」とのメッセージを伝える。使員一行と宗義成との質疑の中で「遊覧」の目的地が大修建を終えた日光東照宮であり、目的は日光東照宮参詣であることが判明した時、三使は国命を請けていないとして難色を示す。(註388)

この時、江戸城内では、使節団側が拒否した場合には、通信使3名の2名を殺戮しても1名を日光参詣に向かわせようという不穏な空気が流れていた。

「寛永十三年丙子信使来聘、賀大猷君殿下在位泰平也、信使到于東都之初、大猷君召【宗】義成公於殿中命之曰、汝今番伴信使登于日光山、可使渠致粛拝於東照宮大権現【徳川家康】霊廟云云、義成公拝命退、帰本館、乃遣臣告鈞命於三使焉、三使対曰、日光之粛拝、原不受国命、自古無此例、決不可従云、因是経三五日議論不決矣、此時殿中有説曰、往昔太閤秀吉君討朝鮮而、生霊有糜爛之禍、彼不同一天之讎也、東照大権現誅伐大坂、則譬如仮手而報讎也、今番日光之粛拝、渠輩豈有可辞之理乎哉、三使有強聒不従、則殺戮二使、可回一使而告事狀於朝鮮云云、倘如此説則実可寒心者也」(註389)

さらに、対馬藩の松浦霞沼が『朝鮮通交大紀』に記録するところによれば、情勢はきわめて緊迫していた。

「按裁判有田杢兵衛記録せしに、此の時信使日光参詣の事仰出しありしに、兼て朝鮮国王へ告られし事も無く、今日我等に仰ありとて前例無きの事、敢て仰の如くしかたしとて三使此れを肯ざりしゆへ、其の事を 上聞有りしに、「家康公治世有りしを以て朝鮮にいたりても安泰を得し也。此の由を以つて、此度日光へ参詣せしともふさバ、三使にありて其の咎あるべからす。此の旨伝ふべき」の 上意有り。堀田加賀守公に私せられしに、「此の事三使若し 諚意の如くせさるに至らバ、一行の人壱人も朝鮮へ帰さるまし。又彼国に御書なされ、異議に至る事あらハ 御馬出さるべし」と有りしゆへ、公其の事を私に杢兵衛に諭し、洪同知と同じく 上意を伝えしむ。又杢兵衛に諭して「参使なを肯事なくむバ、直に信使に対面あられ、是非を極らるへし」と有り」(註390)

日光参詣は、使節団の拘留と朝鮮再侵略をも射程に入れての事実上の強要であった。これに対し、通信使側は、「友好第一」を目的に柔軟な対応をはかること(庶変)が国策に合致すると判断、かつて高麗の使節鄭圃隠(정 포은)が筑紫の観世音寺に遊覧した前例もあり、国書伝達の速やかならんことを条件に招待を受諾した。(註391)加えて、その背景には、対馬の宗氏が前年に発覚した国書書換え事件で外交能力を疑われていたこと、朝鮮政府の小中華主義体制の中で、朝鮮王朝への朝貢者としての宗氏の存在がなければ通交関係が閉ざされてしまうこと、また、朝鮮政府自身も対北方軍事対策上、日本からの武器、火薬調達が緊急課題となっていたことが勘案されて、決断が下されている。

一方の将軍および幕府にとっての日光参詣は「政治体の中心を縦に貫く時間軸を神聖なる始点に向って遡る象徴的な旅」であり、「正に当時の「建国神話」の儀式的再現であり、その「国体」の正確な具象化」であった。(註392)建国の神である東照大権現への朝鮮通信使一行の参拝は、そうした儀式の完成でもあったのである。

1637年1月17日(崇禎9年、ᠳᠡᠭᠡᠳᠦ ᠡᠷᠳᠡᠮᠲᠦ(wesihun erdemungge、崇徳、degedü erdemtü)1年、仁祖14年12月22日、寛永13年12月23日)、こうして彼らが訪れた日光山、とりわけ陽明門(日暮門)はその豪華絢爛さで使節団の度肝を抜いた。

「余等就憇一寺入一門。伊豆守具公服以待。有両重銅沙門寺閣。尤極宏麗。即所謂権現影堂。竜獅挐攫。夾門左右。屋両頭作竜鳳飛騰之状。軒翥若動。尽鍍黄金。屋脊簾瓦。以至柱楣桷梲扃鐍之属。皆金也。其窮極奢侈如此。庭左右設二層金閣。中懸巨鐘。桑門観者。無慮数百人。」(註393)

金世濂の『金東溟槎上録』には「日光寺」と題された4編の詩と「霊杉 在日光寺」という詩が収められている。ここでは、後者を例解する。

「   霊杉 在日光寺
仙都衆木摠芬芳     仙都の衆木は 摠(す)べて芬芳(ふんぽう、芳香)にして
伝道霊杉自太荒     伝道の霊杉は 自ずから太荒なり
気接扶桑増黛色     気 扶桑に接し 黛色(たいしょく、木肌の青黒色)を増し
影通丹桂播清香     影 丹桂(たんけい、キンモクセイ)に通じ 清香を播く
虬鱗百丈排霄漢     虬鱗百丈 霄漢(せうかん、大空)に排(なら)び
翠葉千齢傲雪霜     翠葉千齢 雪霜を傲(あなど)る
入夜笙簫求絶頂     夜に入り 笙簫は絶頂を求め
願従高処駕鸞鳳     高処従(よ)り鸞鳳に駕(の)らんと願ふ」(註394)

(語注)

太荒:ひどく荒れ果てた、の意。日光の語源「二荒」に掛けており、荒地に祖先の墓域を増築することが、当初使節団により、葬制上問題視され、祖先への霊を失するものとされた。任絖『任叅判丙子日本日記』に「関白以一国君長。享其祖於仏寺之後荒山之中。而曽不為恥。反欲誇張於隣国三使臣。其愚無知識。有不足責矣。」とある

虬(きう):和名は「ミヅチ」。小さな竜である。伝統アジア世界では、本物の竜は中国皇帝のみのシンボルである。じっさい朝鮮国王や日本天皇が使用する竜の図像を見ると、指の数が足りないことが分かる

駕鸞鳳:漢 劉向『九嘆・遠遊』に「駕鸞鳳以上遊兮、従玄鶴与鷦明。」

朴暎美(박영미)氏によれば、林羅山は通信使に不満を抱いていた。林羅山らによれば徳川政権の霊地である「日光」に対して詠わなければならない詩は「風景ではなく、徳川家康の神徳とその教化を称史する詩でなければならなかった」のに対し、通信使は風景の美しさを遊覧する旅として詠詩するという「視覚差」が存在していたからである。林羅山にとって重要だったのは、この時点が「旧秩序の中心舞台で新しい秩序の王的権力を誇示した」徳川家光のもとで作り出された「日本型華夷観」の完成に当って、「朝鮮使臣の日光行きは徳川家光の武威を日本内に誇示する絶好の機会だったのである。」(註395)

[ 朝鮮国王孝宗親筆額字『朝鮮通信使・琉球使節の日光参り』より.jpg ]

朝鮮国王孝宗親筆額字『朝鮮通信使・琉球使節の日光参り』より

朝鮮国王孝宗親筆額字『朝鮮通信使・琉球使節の日光参り』より

帰国する通信使を待っていたのは、国際情勢の激変により変転した祖国であった。朝鮮は、明清の対立の状況下、大明国を支援していたが、豊臣秀吉の侵略の傷も癒えぬ中、この年、大清国(ᡩᠠᡳᠴᡳᠩ ᡤᡠᡵᡠᠨᡳ、Daicing gurun、5月まで後金(ᠠᡳᠰᡳᠨ ᡤᡠᡵᡠᠨ、Aisin gurun))による第二次侵略を受けて降伏、三田渡(サムジョンド 삼전도)で屈辱的講和を受諾、以後朝鮮は清朝に服属することとなった。しかし、一方では、かつて「オランケ 오랑캐」「野人야인」と呼び、蔑視していたマンジュ(満洲)民族による清朝の建国により、朝鮮国だけが東アジア世界の中で文明国の資格を持つとする小中華主義が確立していく。屈辱に耐えるための思想的武装であるが、それは、日本との再対立の要素をもはらむものであった。

日朝間に存在していたディスコミミニュケーション状況を深刻な対立へと変えかねない客観的政治状況を打開したのは、朴暎美氏によれば、日光をめぐる詩の交換であったという。1643年に徳川家綱誕生と日光東照宮落成祝賀を目的に通信使が訪れた際、日光山に仁祖が贈った扁額には「日光浄界 彰孝道場」としるされた。これにより、日光を徳川家光の孝心を発現する場と解釈する回路が開かれる。「誠信が前提となっていない交隣は相手に向き合わず、自分の事だけを主張する一種の自閉的症状を見せる。その間に間隙はさらに進み、視線の較差とこれに伴う「危機」的状況は結局互いに適切な妥結を要求するしかなかった。この瞬間が詩のAmbiguityが発揮されるときであった。」「風景を単純に風景としてだけ読み得ない時代。清算されず治癒されない文禄・慶長の役の傷口を胸に抱いていなければならなかった朝鮮の使臣と、風景を風景としてだけ読ませることのできない、江戸という新しい時代での転換を完成させなければならなかった日本。日光はまさにこのような二つの主体が出会った空間だったのである。この中で日光を詠った漢詩は朝日両国の対立と衝突という危機の瞬間を「詩」というmetaphorを通して疏通を試みようとした」(註396)、そのようなコミュニケーション手段として、詩の交換が機能したのだという。

徳川家康の近侍で短期間藤堂高虎に客仕し(註397)、のちに浪人となった石川丈山、歌人・歌学者にして俳人・松永貞徳の子で漢学塾・春秋館を主宰する松永尺五は、1636年の朝鮮通信使のメンバー読祝(製述)官権侙(권칙)と筆談により交流、詩を唱和する。石川丈山と通信使との面会は「丈山の隠者生活のそれからを詩三昧の生活へ導かせる大きな力を与えたようだ」という。彼の代表的な詩をひとつ掲げる。前章で取り上げた『戸山御庭記』にも引用されていた有名な詩である。(註398)

「  富士山
石川丈山
仙客来遊雲外巓     仙客来遊す 雲外の巓(いただき)
神龍栖老洞中淵     神龍栖み老(あら)す 洞中の淵
雪如紈素煙如柄     雪は紈素【しろぎぬ】の如く 煙は柄の如し
白扇倒懸東海天     白扇倒(さかさま)に懸る 東海の天」(註399)

原著に続けて収載されている、全く有名でない詩も掲げる。

「   同
四時雪白幾千秋     四時雪白く 幾千秋
八面陰寒数十州     八面陰(かげ)寒し 数十州
仰視層霄如削出     仰て視れば 層霄削り出すが如し
雲間一箇土饅頭     雲間 一箇の土饅頭」(註400)

また、松永尺五の門人には、のちに日朝外交に関与する木下順庵らを輩出した。(註401)1764年の通信使のメンバーは、500人以上の日本人と1,000首を超える詩文を交わしていた。さらに、池大雅が画員である金有声(김유성)と会い、富士山の描法に関し、皴法(襞の書き方)について尋ねる書簡を出しており、上田秋成は来日中の通信使の随行員崔天悰(최천종)殺害事件について、通信使と筆談を交わしている。以下に池大雅の書簡の当該部分を引用する。

「弊邦駿河州有山名富士      弊邦 駿河州に山有り 富士と名づく
方俗喜乞其図画           方俗 喜んで其の図画を乞ふ
古画家有二式             古画家に二式有り
其一則設色鉤出山容飽塗大緑  其の一は 則ち設色し山容を鉤出し大緑に飽塗し
最巓三朶単着白粉          最巓の三朶に 白粉を単着す
盖貌四時積雪也           盖し四時積雪を貌する也
其一則潑墨暈起刷成宛      其の一は 則ち潑墨暈起し宛を刷成し
似摺扇様               摺扇に似たる様
唯取軽便以為工也         唯 軽便を取り 以て工を為す也
放顰者悉拠此二式而已      顰(ひそみ)に放(なら)ふ者悉く此二式に拠る
若彼董巨之逸格           若し彼の董【董源】巨【巨然】の逸格たれば
則的当何等皺法施之乎      則ち的当【的確】たる何等の皺法を之に施すか
僕輩未知下手            僕輩未だ下手【どこから始めればよいか】を知らず
幸得賜                幸にして高諭を賜り
高諭発開愚惑欣躍当涯      愚惑を発開するを得れば 欣躍当涯なり
伏冀〻〻               伏して冀(こひねが)ふ 伏して冀ふ」(註402)

また、通信使の行列は、庶民が目にすることのできる、ほとんど唯一の外国人であり(註403)、「視覚的にも聴覚的にも異国的であり、それに出会った世人の記憶に残るものであった」。(註404)このため、民間でもブームとなり、唐人踊り、唐子踊り、唐人行列といった各地の伝統芸能に反映したほか(註405)、山王祭や神田祭の仮装行列ともなって評判を博した。1791年の『神田明神祭礼図』には、11番豊嶋町の行列は通信使を模した180人の大行列であり、旗幟、輿、楽隊、国書が揃い、一部対馬藩宗家の藩士も再現されている。(註406)独立行政法人国立文化財機構 東京国立博物館蔵の版画「朝鮮人行列図」はそれらのいずれかと考えられており(註407)、図版に掲げた同構図の羽川藤永「朝鮮通信使来朝図」も同様である。

さて、和歌の世界にあっては、宮廷歌壇は明治以後も連綿と続き、皇室行事としての歌会始は、その最も象徴的なイベントとなっている。日暮里富士見坂にとって忘れてならないのは、2007年の歌会始で佳作となった次の歌である。

「  お題「月」
                                   東京都 久保田仁
富士見坂月見坂へとうつりゆく谷中(やなか)いとほし老い深むほど」(註408)

ついでに松平定信の和歌を紹介する。松平定信は、『花月日記』の中でダイヤモンド富士をはじめて文学上に記録した人物であるが、その情景を詠んだものと推察される。

「  不二                        少将定信朝臣
不二の根は夕日の跡に猶見えて遠の林のいろぞ暮れ行く」(註409)

この歌について、松野陽一氏は次のように解説する。

「江戸の歌である。しかし都市景観としての富士ではない。といって平安朝の富士でもない。光の陰影で遠近感と時の推移を構成する京極派風に寄せた作である。伝統の眼と今の眼を重ね合わせながら、古さのままには見まいと努めつつ、新しがることも拒否したところに成り立っている。この一首を以て堂上派武家の和歌全体を代表させるわけにもゆかぬが、言語表現の伝統性を保持するために、単にレトリックの問題としてだけの擬古文体を書こうとしたわけではないということは認めてよいと思う。」(註410)

式部輝忠筆 常庵龍崇賛『富士八景図 其七』『国華』1084号より

式部輝忠筆 常庵龍崇賛『富士八景図 其七』『国華』1084号より

ただし、「黒富士」の発見は、松平定信よりはるかに以前、戦国期にさかのぼる。1536年以前、式部輝忠によって描かれた『富士八景図』(静岡県立美術館所蔵)の第7面に夕景の「黒富士」が描かれている。画賛を書した建仁寺の常庵竜崇は次のように書く。

「  其七
有人自遠州来者。指此図曰、冨士山之逐時随処容色不恒者必矣。
方其昨雪始晴映夕陽、則山色如展紅瑪瑙。或及積雪全消負淡陰、
則山容如覆黒鉢盂。白雲溶曳、横而不度、又変作何容色哉」

(訓読)
「人の遠州より来る者あり。此の図を指(ゆびさ)して曰く、冨士山の時を逐(お)ひ処に随ひて容色恒ならざるは必(ひつ)せりと。
方(まさ)に其れ昨雪ふり始めて晴れて夕陽に映ずれば、則ち山色は紅瑪瑙を展(の)ぶるが如し。或ひは積雪全て消へ淡陰を負ふるに及べば、
則ち山容は黒き鉢盂(はつう)を覆(くつがへ)せるが如し。白雲溶曳し、横(よこたは)りて度(わた)らざれば、又変じて何の容色をか作(な)さん哉(や)」(註411)

常庵竜崇は、薩摩大願寺、山城真如寺、建仁寺263世、南禅寺を歴任。俗の父は二条派歌学の伝統を嗣ぎ、古今伝授の祖となった東常縁、叔父は太田道灌の求めに応じて書かれた「寄題江戸城靜勝軒詩序」の作者で、建仁寺217世の正宗竜統であり、常庵竜崇の法上の師ともなっている。

談林派の祖、西山宗因の俳号のひとつは梅翁であるが、日暮里養福寺には、井原西鶴の100年忌を記念して、「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる「談林派歴代の句碑」が谷素外により1792(寛政4)年に建てられている。また、他に1797年に江戸座俳諧宗匠の方円庵島得器が建てた、谷素外門の俳人・姸斎津富の落歯塚もある。(註412)他に畸人として知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の碑」もあり、山崎北華による生前葬の悪ふざけの舞台ともなった。(註413)なお、談林2代の井原西鶴は、明治期以降に再評価されるまでは、同時期を除きほぼ無名の存在であり、本名や通称の情報や伝記的資料はほぼ皆無に近い。

養福寺 談林派歴代の句碑

養福寺 談林派歴代の句碑

井原西鶴を最大のライバルと目していた松尾芭蕉が『奥の細道』の旅で日光を訪れた時、

「あなたふと青葉若葉の日の光」(註414)

と詠んでいるが、旅に同行した河合曽良の『曽良随行日記』を見ると、俳聖・松尾芭蕉が日光を訪れた日の天気は「○黒髪山 ノ山すげに小雨降シキマス〱ゾ思 人丸」とあり、雨であった。(註415)嘘っこなのである。

日暮里本行寺の住職一瓢日桓と交友のあった小林一茶は、友人の秋元双樹とともに文化4年3月21日(1807年4月28日)、湯島円満寺を訪ねている。彼の日記には、次のように記されている。

「【文化4年3月】廿一日 晴 双樹と方々遊参 湯島円満寺木食寺也
補陀殿ト有 イヽ蔵横丁天満宮 牛天神 波切不動 法化山伏 小石川伝通院
藪の蜂来ん世も我にあやかるな
大慈寺
善心寺
神齢山護国寺
観音開帳山開き
桜花是も卅三所哉
たゞ頼〱とや桜咲
鉦大鼓敲止ば桜哉〔原注(朱書)ちる〕
かつしかの空と覚へて花の雲」(註416)

秋元双樹は、俗名を5代目秋元三左衛門といい、流山で醸造業を営み、味醂の開発者のひとりとされ、一茶は秋元双樹宅を数十回訪れているという。(註417)
円満寺は、当時湯島木食寺と呼ばれ、日暮里養福寺をも建立した木食義高の記憶が継承されていたことが分かる。ただし太陽暦換算で4月28日ということであるから、この時期に果たして桜が咲いていたかどうか。もしかすると、俳聖松尾芭蕉以来の俳諧史伝統のうそっこかもしれない。

湯島円満寺(おむろビル)

湯島円満寺(おむろビル)

ややさかのぼる1819年3月6日【文政2年2月11日】、木食観正は、この湯島円満寺(木食寺)に登場する。

斎藤月岑の『武江年表』によれば、

「○二月十一日、小田原より木食の沙門(名観正)湯島円満寺へ着し、加持を施し、光明真言を授く。貴賤群集夥し」(註418)

加藤玄亀『我衣』には、三河国田原藩の渡辺崋山から得た情報をもとにこの事件を記述している。当時、加藤玄亀は、渡辺崋山の父の口添えにより田原藩江戸屋敷のお抱え医師として召し抱えられていた。(註419)

「当月【文政2年2月】十三日湯嶋四丁目続木食円満寺江着任候観正僧正(中略)二月十三日着同十九日より参詣群集死亡者も有之中々難尽筆紙湯嶋辺聖堂のうしろ迄不残喰物茶ト成候。」(註420)

木食観正は、その後諸国を廻国(註421)、晩年は亀戸を本拠地にしていたが、寺社奉行に逮捕、収監され、獄死する。その間の事情は『藤岡屋日記』に詳しい。

「観正行者、文化の頃より今弘法と称し、小田原へも参詣多く、江戸江出、其外諸国を廻り、信仰之者夥敷、霊験も有之ニ、いか成事にや、文政十二丑年の夏、亀井戸不動院ニ而加持有之候砌ニ、寺社奉行土屋相模守彦直被召捕入牢致候ニ付、観正行者信仰之老若男女、毎日〱土屋の門前江御免願ニ出ル也、然ル処吟味中ニ牢死致す也」(註422)

そもそも、木食観正の犯罪容疑が不明である。『藤岡屋日記』の記事後段には、「召捕ニ相成候節之噂ニハ、女犯共又ハ狐を遣ひし共云也」との伝聞が記されているが、80歳の木食観正が女犯を致すはずもなく、弘法大師も狐を遣った例があると弁護する。結局のところ罪状については、「観正行者、諸人の信仰と云、老躰といゝ、霊験といゝ、寺社奉行ニ召捕るべき程の罪ハなきといへ共、時を得ざる不徳と言べし」と結んでいる。さらにつけ加えて、寺社奉行で土浦藩主の土屋彦直が水戸徳川家第6代の治保の3男で、当主徳川斉脩の叔父であったことを解説、老中の筆頭候補であったにもかかわらず、寺社奉行の任期中、眼科疾患により失明、「御役御免」となったと記載している。「是を又観正行者信祈【校注者注・仰カ】之者ハ、弘法の罰なりと云はやすなり、左ニも有まじけれ共、是も時を得ずして不徳と云べし」とは藤岡屋由蔵の結語である。(註423)

ちなみに、鼠小僧次郎吉が最初に捕縛されたのは、1825年3月22日(文政8年2月3日)、土屋彦直が藩主時代の土浦藩上屋敷においてであった。この時は家宅侵入の軽罪で、入墨の上、追放の刑にとどめられている。また、松浦静山の『甲子夜話』の中にも鼠小僧はたびたび登場しており、興味津々たる風情である。

「木食観正が入ってきた当時の小田原藩の世情は、実に多種多様な問題を内包していたのである。この状況下に観正が彗星のごとく出現したことは、まさに藩主はもとより一般民衆にとっても願ってもないことであったろう。」(註424)元禄地震、宝永富士山噴火、天保・天明の飢饉、小田原市内の火災等によって疲弊した小田原藩領に出現した「今弘法」は、一種の救世主であった。実際、小田原藩領内をへ訪問、通過した宗教的職能者はきわめて多くの数があり、これに対して各村民は世話役を通じて金銭を納入、宗教者に対する村方入用からの公的支出という方法が行われている。(註425)他の地方の例では、上総国埴生郡幡谷村の1828(文政11)年の例では、宗教者の勧進に対する支出が村入用の12%弱に及び、1826(文政9)年の甲斐国都留郡大月村の例では村入用の実に4分の1を占めている。これについて西海賢二氏は、「いかに民間宗教者などに農民負担が過大であったかを知るとともに、逆に公的な村内宗教者よりも、私的な村外宗教者に対する農民の期待が大であったかを如実に物語っているだろう」という。(註426)

観雪斎北川月麿「木食上人観正坐像」 個人蔵『近世遊行僧の研究』より

観雪斎北川月麿「木食上人観正坐像」 個人蔵『近世遊行僧の研究』より

1846年2月10日(弘化3年1月15日)、本郷丸山辺に発した大火が湯島円満寺に及び、堂宇が類焼したことを、当時の瓦版によって知ることができる。安否確認のためだろう。きわめて詳細な報道がなされており、地図入りのバージョンもある。

「頃ハ弘化三丙午年正月十五日、昼八ツ半時西北はげしく、本郷丸山辺ゟ菊坂丁・田町此辺ゟ出火して安部様ノ御屋しき少々焼。跡残らス此辺ノ御組屋敷残らス焼。長泉寺火之中ニ而残る。本妙寺本堂残る。地中来岳院・本立院・本霊院・本行院焼。本妙寺坂三浦又十郎様・立花様・小笠原様・古江兵左ヱ門様・高木幸次郎様・古屋金之助様、菊坂之上佐野新三郎様焼。火之中ニ而こうじや二軒残る。丸山台町木【喜】福寺裏門前地少々残り、又一ト口ハ本郷六丁目残る。五丁目賀〻【加賀】様御飛脚がい所焼。其向角松本ト申たバこ店残り、同四丁目心光寺焼。同三丁目いづくら幷ニかねやす横丁・加賀様御辻番焼。裏長屋少々焼。向角近藤岩見守様ニ而止り、夫ゟ弐丁目・壱丁目残らス。湯しま壱丁目ゟ六丁目迠焼。湯島円満寺焼。同横丁前田又五郎様・土井能登守様御中屋敷・大塚鉄次郎様・御晋請奉行村田阿波守様・小林半左衛門様・稲葉様・酒井岩見守様・前田定之丞様・佐藤捨蔵様・永井伝左ヱ門様・相原信吉様、本郷御弓丁かたかわ、元町残らス焼。竹町、同西竹丁参【三】念寺残らス。川瀬勝三郎様此近へん不残。春木町一二丁目焼。三丁目残る。大根バたけ・新町・傘谷近辺残らス焼。霊音寺残る。御茶ノ水ノ火けしやしき・酒井様焼。湯島天神門前壱丁程手前ニ而止り、同三組町残らス焼。夫ゟ妻恋稲荷本社残らス焼。嶋田弾正様・三枝佐平様残る。ごミ坂之下ニ而止り、上は残らス焼。又一ト口ハ、聖堂表通り残る。学文【問】所少々焼。夫ゟ駿河だい江とび火致シ、岡村竹十郎様・加藤駒五郎様・松下生駒様・本多主税様・吉田虎次郎様大竹庄九郎様・原田勘蔵様・松永源蔵様ニ而止。桒原孫之丞様・三川口鎌五郎様・能瀬鎌三郎様・村田林左ヱ門様・平賀三五郎様・八木津様・大野佐内様富永甚三郎様能田甲斐守様近藤平角様ニ而止。貝塚庄九郎様【後欠】」(註427)

数多くの「秘宝」がこれによって消滅する。ただし、消滅したのは秘宝だけではない。前近世的な宗教的権威、近世的な幕府と将軍の権威までもがこの後急速に消滅していくことは、御存じのとおりである。そして、近世から近代へと移行するまさにこの時期に、日暮里富士見坂は誕生し、成立しているのである。詳しくは別稿で触れるが、それは、確実な史料から天保13(1842)年9月から安政2年12月(1861年)の約19年間のあいだのある時点と推定される。

絹本著色伏生授経図 伝王維筆 唐時代 大阪市立美術館蔵 25.4×44.7 絹本着色 wikipediaによる

絹本著色伏生授経図 伝王維筆 唐時代 大阪市立美術館蔵 25.4×44.7 絹本着色 wikipediaによる

さて、新堀村の雅名に日暮里の文字が選ばれるにあたって、実は漢語における「日暮飛鳥」という飛鳥山とセットとなる名称が選択されている。「日暮飛鳥」(Rìmù Fēiniǎo)は、詩仏といわれた王維(Wáng Wéi)の詩「臨高台、黎拾遺を送る」に登場する語で、これが念頭にあったと思われる。この詩は、日本でもきわめてポピュラーであり、王維は、阿倍仲麻呂(晁衡 Cháo Héng)が日本に帰る際、送別の詩「送秘書晁監還日本国」(Sòng Mìshū Cháojiān Hái Rìběnguó)を詠じていることでも知られる。

「送秘書晁監還日本国
積水不可極     積水 極む可からず
安知滄海東     安(いづく)んぞ 滄海の東を知らん
九州何処遠     九州 何れの処か遠き
万里若乗空     万里 空に乗ずるが若(ごと)し
向国惟看日     国に向(むか)ふは 惟(ただ)日を看(み)
帰帆但信風     帰帆 但(ただ)風に信(まか)す
鰲身映天黒     鰲身 天に映じて黒く
魚眼射波紅     魚眼 波を射て紅なり
郷樹扶桑外     郷樹 扶桑の外
主人孤島中     主人 孤島の中
別離方異域     別離 方(まさ)に異域
音信若為通     音信 若為(いかん)してか通ぜん」(註428)

帰国船の船団の第1船に阿倍仲麻呂が乗船、第2船には鑑真(Jiàn zhēn)が乗船していたが、

「廿一日戊午第一第二両舟同到阿児奈波嶋、在多弥嶋西南、第三舟昨夜已泊同処、十二月六日南風起第一船著石不動、第二船発向多弥去七日至益救嶋、十八日、自益救発、十九日風雨大発不知四方、午時浪上見山頂、廿日乙酉午時第二舟著薩摩国阿多郡秋妻屋浦」(註429)

阿倍仲麻呂の乗った第1船は阿児奈波嶋(沖縄島)に到着後、奄美に向かう途中で暴風雨に遭遇、遠く南に押し流され、驩州(現・ヴェトナム社会主義共和国(Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam、𡨸儒:共和社會主義越南)ゲアン省(越:Tỉnh Nghệ An、𡨸儒:省乂安)、省都はヴィン (thành phố Vinh, 城舗榮))に漂着する。ゲアン省ナムダン(Nam Đàn、𡨸儒 南壇)県は、明治期に日本へ留学したベトナム独立革命家、ファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu、𡨸儒:潘佩珠)の出身地であり、グエン・アイ・クオク(Nguyễn Ái Quốc、𡨸儒:阮愛國)、のちのホー・チ・ミン(Hồ Chí Minh、𡨸儒:胡志明)もまた同県の出身である。(註430)16世紀の文人にして予言者であるグエン・ビン・キエム(Nguyễn Bỉnh Khiêm、𡨸儒:阮秉謙)の籤言に次のようにあり、

「籤言
庉山分界     庉山(ドゥンソン) 界分れるとき  Đụn Sơn phân giảI
蒲帯失声     蒲帯(ボーダイ) 声失ひ      Bò Đái thất thanh
南壇生聖     南壇(ナムダン) 聖生る      Nam Đàn sinh Thánh」(註431)

フランスの植民地下にあったヴェトナムでは、はじめ革命家ファン・ボイ・チャウを意味していると考えられ、続いて1920年頃からグエン・アイ・クオクを指していると信じられたという。(註432)

阿倍仲麻呂死亡との誤報が長安(Cháng’ān)に伝えられると、詩仙・李白(Lí Bái)は追悼の詩「哭晁卿衡」(Kū cháo qīng héng)を書く。

「哭晁卿衡
日本晁卿辞帝都     日本晁卿 帝都を辞し
征帆一片遶蓬壷     征帆一片 蓬壷を遶(めぐ)る
明月不帰沈碧海     明月帰らず 碧海に沈み
白雲愁色満蒼梧     白雲愁色 蒼梧に満つ」(註433)

阿倍仲麻呂は、3年後に長安に復帰するが、ついに日本への帰国はかなわず当地で客死した。なお李白は西域の非漢人の出身とされ、スヤブ(ペルシア語 سوی آب‎、砕葉城)、現キルギス共和国(キルギス語Кыргыз Республикасы)のトクマク(Tокмок、アラビア語توقموق)付近とするのが定説である。(註434)ちなみに唐王朝の李(Lí)氏は鮮卑(Särbi / Sabi, 白鳥庫吉による推定:Xiānbēi)系(註435)または高車(Terek / Telek、Peter Alexis Boodbergによる推定:Gāochē)系(註436)ともいわれる。

さて、王維の詩である。これもまた別れの詩である

「臨高台送黎拾遺
相送臨高台     相送りて高台(かうだい)に臨み
川原杳何極     川原(せんげん)杳(えう)として何ぞ極まらん
日暮飛鳥還     日暮(にちぼ)飛鳥(ひてう)還り
行人去不息     行人(かうじん)去りて息(や)まず」(註437)

臨高台 葛飾北斎画『画本唐詩選五言絶句 第1巻』嵩山房 1880 国立国会図書館蔵より

臨高台 葛飾北斎画『画本唐詩選五言絶句 第1巻』嵩山房 1880 国立国会図書館蔵より

拾遺である親友・黎昕(Lí xīn)への送別の詩である。拾遺は官名で、皇帝に直言して失政を諫める職掌をつかさどる。まあ実際に職務を遂行すれば、生命の保証はないのだが。詩聖・杜甫も左拾遺の職にあったことがある。臨高台(Língāotái、現行字の台は、臺の略字ではなく本来異訓異字)は、楽府(がふ)の題で鼓吹曲(軍楽)の歌詞として作られたことを意味している。(註438)ただし、肝心の「飛鳥」の文字は『四庫全書 集部』所収『御定佩文斎詠物詩選』では「鳥飛」(Niǎo fēi)に作る。(註439)

一見、由緒正しいヤマトコトバのように見える「日暮の里」という語さえも、東アジアにおける伝統文化世界の中に定位していることが明瞭に見てとれるだろう。こうした目で国立国会図書館蔵『諏訪浄光寺八景詩歌』(1728序)の「暮荘烟雨」の詩を見れば、「暮荘」の語が「日暮の里」の漢語への再翻訳であることも容易に理解することができるであろう。「庄(荘) zhuāng」は、村落、村を意味する語である。両詩において、視点場が「高台」にあることが共通しているほか、登場人物で行為の主体である「行人」の語が王維の詩と同一であり、「飛鳥」と「林鳩」もまた、交替可能な用語である。全体に見てとれるのは、「暮荘烟雨」の詩が王維の詩「臨高台送黎拾遺」へのトリビュートとなっていることである。

「暮荘烟雨
              貞斎
林鳩逐婦一朝啼     林鳩(りんきう)婦を逐(お)うて一朝(いってう)啼き
陰雨冥冥天欲低     陰雨冥冥として天低(た)れんと欲す
薄暮水烟罩村落     薄暮の水烟村落を罩(こ)め
行人何処弁東西     行人何(いづ)れの処か東西を弁ぜん」(註440)

(試英訳)
Dove in forest drove women and cried in a morning,
Dark cloud hung over field low and kept raining,
Twilight drizzle covered over Nippori village,
Travelers wanted to know where but had no knowledge.

暮荘烟雨『諏訪浄光寺八景詩歌』国立国会図書館蔵

暮荘烟雨『諏訪浄光寺八景詩歌』国立国会図書館蔵

東京都立中央図書館所蔵本に付せられた林信允『諏訪台八景詩古風体幷序』(1733序)の「暮荘烟雨」の詩は、ひたすらにさみしい。

「暮荘煙雨
村路空濛処     村路 空濛(くうもう)の処
霏亽烟雨多     霏亽(ひしふ) 烟雨多し
鐘声雲外湿     鐘声 雲外に湿(うるほ)ひ
日暮意如何     日暮 意は如何ぞ」(註441)

(語注)

空濛:小雨が降ってうすぐらい、霧雨がたちこめる。杜甫『渼陂西南台』に「懷新目似撃、接要心已領。仿像識鮫人、空濛辨魚艇」

霏亽烟雨:亽は集の異体字。霏は雨、雪、烟がさかんなようす。『詩経 邶風 北風』に「雨雪其霏」、『晋書 王羲之伝論』に「煙霏霧結」、『文選』に「駱駅縦横、煙霏雨散」、『芸文類聚 論楽』に「零雪霏霏集宇」とある

雲外:空の高所

ヤマトコトバの「ひぐらし」とは正反対に、漢詩の世界では寂寞感が漂っている。同じ漢字、同じ漢語を使いながら、ここには決定的に意味の違いが存在している。このことについては、別稿で論ずるであろう。

最後に、雅名ではないニッポリという地名の語源説にひとつの仮説を示す。もとより地名の起源説に正しいものを期待することは無理というものだが、次の柳田国男の記述はニッポリの起源説として魅力的であるので紹介したい。

「浦和辺では、地が低く沼勝ちで水の多い為か、丘と田畑との境には溝があつて、丘の裾から湧く清水が、直様流れこまぬやう、稍温かくなつてから、田へ落すやうにしてある。だから、さう言ふ水路は、一里も行く中には、相当な川となる訣である。足立郡一帯の川には、かういふ溝を、源にしてゐるものが多い。昨年此地方に行つたをり、此溝の名を聞いた処、ねぇぼり【4文字▵白三角傍点】だと教へられた。字は根居堀【3文字▵白三角傍点】と書くのだらう、との事であつた。相応の教育ある人の答へであつたが、牽強な考へではない。根といひ居と言ひ、よく当たつてゐる。殊に居【1文字圏点】の意義が、其古い用語例に叶うてゐると思うた事である。」(註442)

諏訪台の下部の東側の山すそは、縄文海進時の浸食により、地下水の帯水層が露頭しており、多くの滝が存在し、水のしぼれてくる地形であった。また、それらの清涼な湧水を水源にして谷中生姜が特産となったことや石神井用水の成因などが、この地名説からは次々と想像されるではないか。

本章を終えるにあたって、物理学者のリチャード・ファインマン(Richard Phillips Feynman)が、彼の講義録で名著『ファインマン物理学』の中で、日光の日暮門(陽明門)について述べているので紹介する。リチャード・ファインマンは、量子力学の発展に大きな貢献をした物理学上の巨人であるが、愉快なドラマー、冒険家でもあり、軽妙なエッセイでも知られている。(註443)第二次世界大戦中のマンハッタン計画にも参加しており、爆弾原料のプルトニウム塊を手の上に乗せたこともある。晩年には、原子物理学者の職業病ともいうべき癌と闘いながら、スペースシャトル・チャレンジャー号の爆発事故の調査委員会に参加、原因の究明に大きな役割を果たした。彼の見解書は次の言葉で結ばれている。現政権担当者はよく理解するべきである。

For a successful technology, reality must take precedence over public relations, for nature cannot be fooled.

「技術が成功するためには、世間的な体面よりも現実が優先されなければならない、なぜなら自然は騙すことはできないからだ」(註444)

Feynman (center) with Robert Oppenheimer (right) relaxing at a Los Alamos social function during the Manhattan Project wikipediaによる

Feynman (center) with Robert Oppenheimer (right) relaxing at a Los Alamos social function during the Manhattan Project wikipediaによる


それでは、日暮門(陽明門)についてのファインマン博士の講義に耳を傾けよう。

「52–9Broken symmetries

The next question is, what can we make out of laws which are nearly symmetrical? The marvelous thing about it all is that for such a wide range of important, strong phenomena—nuclear forces, electrical phenomena, and even weak ones like gravitation—over a tremendous range of physics, all the laws for these seem to be symmetrical. On the other hand, this little extra piece says, “No, the laws are not symmetrical!” How is it that nature can be almost symmetrical, but not perfectly symmetrical? What shall we make of this? 」

「We have, in our minds, a tendency to accept symmetry as some kind of perfection. In fact it is like the old idea of the Greeks that circles were perfect, and it was rather horrible to believe that the planetary orbits were not circles, but only nearly circles. The difference between being a circle and being nearly a circle is not a small difference, it is a fundamental change so far as the mind is concerned. 」

「The problem from the point of view of the circles is if they were perfect circles there would be nothing to explain, that is clearly simple. But since they are only nearly circles, there is a lot to explain, and the result turned out to be a big dynamical problem, and now our problem is to explain why they are nearly symmetrical by looking at tidal forces and so on.」

「So our problem is to explain where symmetry comes from. Why is nature so nearly symmetrical? No one has any idea why. The only thing we might suggest is something like this: There is a gate in Japan, a gate in Neiko, which is sometimes called by the Japanese the most beautiful gate in all Japan; it was built in a time when there was great influence from Chinese art. This gate is very elaborate, with lots of gables and beautiful carving and lots of columns and dragon heads and princes carved into the pillars, and so on. But when one looks closely he sees that in the elaborate and complex design along one of the pillars, one of the small design elements is carved upside down; otherwise the thing is completely symmetrical. If one asks why this is, the story is that it was carved upside down so that the gods will not be jealous of the perfection of man. So they purposely put an error in there, so that the gods would not be jealous and get angry with human beings.

We might like to turn the idea around and think that the true explanation of the near symmetry of nature is this: that God made the laws only nearly symmetrical so that we should not be jealous of His perfection!」(註445)

平易なアメリカ口語であるが、それだけに翻訳は難しい。only nearlyな和訳を提示する。物理学的な正確さは保証できないが、日常語になるように努力しよう。そして、神様がjealous and angry にならないように!

「52–9破れた対称性

次の疑問は、法則がほぼ対称的であるということから僕らに何が分かるかということです。それが全くもってすばらしいのは、核力や電気現象という重要でしかも強い現象から、重力のようないくらか弱い現象まで含む広い範囲、物理学のとてつもない範囲全体において、これらすべての法則が対称的であるように思われることです。ところが、ここにあるほんの余分のパズルのコマは言うのです。「いいえ、法則は対称的じゃないです!」どうやったら、自然はほとんど対称的なのに、完璧には対称的ではないということになるんでしょうか?ここから僕らに何が分かるというのでしょう?」

「僕らは、頭の中では、対称だということをかなりの程度に完璧だということで信じてしまいがちです。もっと言うと、ギリシア人の古い考え方みたいに円が完璧であればいいなあと思い、惑星の軌道が円だったらいいのに、円じゃないのが正解だと思うのは、かなりぞーっとすることなんだ。円であるってことと、円に近いっていうことは、ちっぽけな違いじゃない。心がかかわるところでは、根っこからひっくり返ってしまうぐらいのことなんだ。円というものに対してそういった見方を持つという立場からすると、惑星の軌道の問題は、もしそれが完璧な円だとすれば、説明することは何もない、ほんとに疑いもなくシンプルなことだ。だけど惑星の軌道は、円に近いだけなんだから、たくさんのことを説明しなくちゃいけないし、動力学上の巨大な問題を引き起こした。さあ、僕らにとっての難題は潮汐力や何やらかにやらを考察して、自然がほとんど対称的だっていうことを説明することだ。」

「だから僕らにとっての問題は、対称性がいったいどこから来るのかということを説明することなんだ。なんで自然はそんなにも対称的でありそうなのか?だれもその理由は分からないだろう。たったひとつ僕たちの頭に浮かぶことがあるとすれば、次のようなことかもしれない。日本には、よく日本中でいちばん美しいといわれてる日光(Neiko)の門といわれる門がある。そして、それは中国のアートの巨大な影響があった時代に作られたものだ。その門はとっても丹精をこめたもので、たくさんの破風やら、美しい彫刻やら、多くの円柱やら、竜の頭やお姫様たちが彫りこめられた柱やらがずらーっと並んでる。けれども、柱の1本の近くに寄って見ると、精緻で複雑なデザインの中に、デザインを構成する小さな部品の1個が逆さまに彫ってあるのが見える。実は、それさえなければ完璧に対称的なんだ。もし誰かがその理由を尋ねるとすると、決まって語られることは、人間の完璧な仕事に神々がねたまないように逆さまに彫ったんですよということです。そして、彼らはわざとその場所を間違えることで、人類に対する神々のねたみや恨みを買わないようにしているんだということです。僕らは考えを引っくり返して、自然がほぼ対称的でありそうなことの正しい説明は次のようであったらいいな、と思うんです。つまり、僕たちが神様にねたみを覚えないように、神様は法則をほぼ対称的でありそうな、たったそれだけに作り出したのですよ!」(註446)

おそらくファインマン博士の最後の一言は次のようだったでしょう。

(それでは本学期の講義を終わります。)

Richard Feynman at the Robert Treat Paine Estate in Waltham, MA, in 1984, copyright Tamiko Thiel bw, wikipediaによる

Richard Feynman at the Robert Treat Paine Estate in Waltham, MA, in 1984, copyright Tamiko Thiel bw, wikipediaによる

 


 

註366 上野洋三『芭蕉自筆「奥の細道」の謎』二見書房 1997
註367 嶋中道則「戸田茂睡」秋山虔 岩城之徳 大岡信 久保田淳 佐々木幸綱 佐竹昭広 中野三敏 藤平春雄 三好行雄編『日本名歌集成』学燈社 1988
註368 嶋中道則「戸田茂睡と歌枕」『新編日本古典文学全集82 近世随想集 月報62』小学館 2000年5月
註369 初代歌川広重『東都名所 日暮里 修性院 境内之図』、釈文は山口桂三郎「修性院と浮世絵」坂輪宣敬博士古稀記念論文集刊行会『坂輪宣敬博士古稀記念論文集 仏教文化の諸相』山喜房佛書林 2008による
註370 上野洋三「江戸時代前期の歌と文章」松井陽一 上野洋三校注『新日本古典文学大系67 近世歌文集 上』岩波書店 1996、上野洋三『元禄和歌史の基礎構築』岩波書店 2003再録
註371 上野洋三「第一章 柳沢吉保と『松蔭日記』」井上敏幸 上野洋三 西田耕三編『元禄文学を学ぶ人のために』世界思想社 2001、上野洋三『元禄和歌史の基礎構築』岩波書店 2003再録
註372 小高道子「解説 一 近世の古典研究」鈴木淳 小高道子校注・訳『新編日本古典文学全集82 近世随想集』小学館 2000
註373 ドナルド・キーン著 牟礼透訳「ドナルド・キーンの日本文学散歩 戦国時代編➄松永貞徳」『週刊朝日』1974年8月16日号 朝日新聞社 1974
註374 『楽只堂年録』米田弘義『大和郡山藩主 松平(柳沢)甲斐守保光―茶の湯と和歌を愛した文人大名 堯山』公益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会 2013による
註375 上野洋三「I 近世和歌再考 第2章 堂上と地下―江戸時代前期の和歌史」『元禄和歌史の基礎構築』岩波書店 2003、初出は『和歌史』和泉書院 1985
註376 茂妥入道藤原兼光(戸田茂睡)『寛文五年文詞』1665 駒沢大学図書館蔵よみおろし、釈文は、佐佐木信綱編『日本歌学大系 第七巻』風間書房 1957(初刷は佐佐木信綱編『日本歌学大系 第七巻』文明社 1940)による。また『梨本集』(1700)にも「歌は大和こと葉なれば、人の言ふと言ふ程の詞を歌に読まずといふことなし。」と見える、阿部秋生校注「戸田茂睡 寛文五年文詞 梨本集序 梨本書」平重道 阿部秋生校注『日本思想大系 39 近世神道論 前期国学』岩波書店 1972を参照した
註377 上野洋三 林達也 白石良夫 鈴木健一「座談会 近世和歌の伝統と革新」『国文学解釈と鑑賞』第61巻3号(特集 近世の歌人(うたびと)たち)至文堂 1996年3月における白石良夫の発言
註378 三上参次 高津鍬三郎「第二篇 奈良朝の文学 第四章 奈良朝の和歌 万葉集」『日本文学史 上巻』金港堂 1890、品田悦一『万葉集の発明 国民国家と文化装置としての古典』新曜社 2001
註379 佐佐木信綱選『国民歌集』民友社出版部 1909
註380 水原紫苑『桜は本当に美しいのか 欲望が生んだ文化装置』平凡社新書723 平凡社 2014
註381 村田春海編『賀茂翁家集 巻之二』、国学院編輯部編『賀茂真淵全集 第四』吉川弘文館 1904
註382 久保田淳『富士山の文学』文春新書404 文芸春秋 2004
註383 村田春海編『賀茂翁家集 巻之一』、国学院編輯部編『賀茂真淵全集 第四』吉川弘文館 1904
註384 松下大三郎・渡辺文雄編『五句索引 国歌大観 歌集部 第二冊』川合松平 1902
註385 金世濂『金東溟槎上録』、鄭夢周等撰『海行摠載』所収、テクストは釈尾春芿編輯『朝鮮群書大系続々 第五輯海行摠載 三』朝鮮古書刊行会 1914により、私に訓読を付した
註386 松浦鎮信『武功雑記 上』、近藤瓶城編『続史籍集覧 第七冊』近藤出版部 1930による、成島司直ら編『徳川実紀 大猶院殿御実紀附録 巻五』1849成立、『続国史大系 第十巻 徳川実紀 第二編』経済雑誌社 1902による、堀勇雄『林羅山』人物叢書118 吉川弘文館 1964、若木太一「朝鮮通信使と石川丈山―「日東の李白」考―」『語文研究』52/53号 九州大学国語国文学会 1982年6月
註387 荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会 1988
註388 任絖『任叅判丙子日本日記』、鄭夢周等撰『海行摠載』所収、テクストは釈尾春芿編輯『朝鮮群書大系続々 第四輯海行摠載 二』朝鮮古書刊行会 1914による
註389 林韑編『通航一覧 巻之八十八 朝鮮国部六十四』1853序 所引「韓録」、山田安栄 伊藤千可良校『通航一覧 第三』国書刊行会 1913、朴暎美「日・朝 知識人の日光に対する見方とその相違―朝鮮通信使と林羅山の日光詩を中心として―」『日本漢文学研究』第6号 二松学舎大学21世紀COEプログラム 2011年3月
註390 松浦霞沼『朝鮮通交大紀 巻之七』、句読点及び括弧を私に追加した
註391 任絖『任叅判丙子日本日記』、鄭夢周等撰『海行摠載』所収、テクストは釈尾春芿編輯『朝鮮群書大系続々 第四輯海行摠載 二』朝鮮古書刊行会 1914による、若木太一「朝鮮通信使と石川丈山―「日東の李白」考―」『語文研究』52/53号 九州大学国語国文学会 1982年6月
註392 渡辺浩「「御威光」と象徴―徳川政治体制の一側面―」『思想』740号 岩波書店 1986年2月
註393 金世濂『金東溟海槎録』崇禎9年12月21日条、鄭夢周等撰『海行摠載』所収、テクストは釈尾春芿編輯『朝鮮群書大系続々 第五輯海行摠載 三』朝鮮古書刊行会 1914による
註394 金世濂『金東溟槎上録』、鄭夢周等撰『海行摠載』所収、テクストは釈尾春芿編輯『朝鮮群書大系続々 第五輯海行摠載 三』朝鮮古書刊行会 1914により、私に訓読を付した
註395 朴暎美「日・朝 知識人の日光に対する見方とその相違―朝鮮通信使と林羅山の日光詩を中心として―」『日本漢文学研究』第6号 二松学舎大学21世紀COEプログラム 2011年3月
註396 朴暎美「日・朝 知識人の日光に対する見方とその相違―朝鮮通信使と林羅山の日光詩を中心として―」『日本漢文学研究』第6号 二松学舎大学21世紀COEプログラム 2011年3月
註397 人見竹洞撰「東渓石先生年譜」『新編覆醤集』所収、小川武彦「元和期の石川丈山の動向―国立国会図書館蔵『施氏七書講義』の丈山自筆の識語をてがかりとして―」『江戸詩人全集月報』7 岩波書店 1991
註398 若木太一「朝鮮通信使と石川丈山―「日東の李白」考―」『語文研究』52/53号 九州大学国語国文学会 1982年6月、吾妻重二「江戸初期における学塾の発展と中国・朝鮮―藤原惺窩、姜沆、松永尺五、堀杏庵、林羅山、林鵞峰らをめぐって」『東アジア文化交渉研究』第2号 関西大学文化交渉学教育研究拠点 2009年3月
註399 石川丈山『覆醤集 下』1671、訓読は慶応義塾図書館蔵『新編覆醤集』巻之一 刊行年不明による、上野洋三注『江戸詩人選集 第1巻 石川丈山 元政』岩波書店 1991
註400 石川丈山『新編覆醤集』巻之一 慶応義塾図書館蔵
註401 若木太一「朝鮮通信使と石川丈山―「日東の李白」考―」『語文研究』52/53号 九州大学国語国文学会 1982年6月、吾妻重二「江戸初期における学塾の発展と中国・朝鮮―藤原惺窩、姜沆、松永尺五、堀杏庵、林羅山、林鵞峰らをめぐって」
『東アジア文化交渉研究』第2号 関西大学文化交渉学教育研究拠点 2009年3月
註402 山内長三「池大雅から金有声への手紙」韓国文化院監修『月刊韓国文化』No.24 自由社 1981年9月所収写真図版より読みおこし
註403 牛嶋英俊『飴と飴売りの文化史』弦書房 2009
註404 関明子「唐人飴売り考」『東洋大学大学院紀要』49(文学(国文学)) 東洋大学大学院 2013年3月
註405 辛基秀「講演 江戸時代の通信使―アジアの中の外交―」1997年度大阪府立中央図書館府民講座―ライティ・カレッジ―『アジアの中の日本を探る~二十一世紀への課題~』第4回講座 1998年1月11日、上田正昭編『大阪府立中央図書館ライティ・カレッジシリーズ 2 アジアの中の日本を探る』文英堂 1998所収
註406 『神田明神祭礼図』独立行政法人国立文化財機構 東京国立博物館蔵 1791、『21世紀記念特別展 こころの交流 朝鮮通信使―江戸時代から21世紀へのメッセージ』図録 京都文化博物館 京都新聞社 2001
註407 辛基秀「朝鮮人浮絵」辛基秀 仲尾宏編『図説・朝鮮通信使の旅』明石書店 2000
註408 「平成十九年歌会始御製御歌及び詠進歌」宮内庁公式サイト
註409 一溪編『向南集』嘉永3(1850)一指写 国立大学法人東北大学附属図書館狩野文庫蔵、松野陽一編『向南集』古典文庫第487冊 古典文庫 1987
註410 松野陽一「近世和歌史と江戸武家歌壇」松井陽一 上野洋三校注『新日本古典文学大系67 近世歌文集 上』岩波書店 1996
註411 常庵龍崇『富士八景図賛』静岡県立美術館所蔵 1536年以前、山下裕二「129 富士八景図 解説」島田修二郎 入矢義高監修『禅林画賛 中世水墨画を読む』毎日新聞社 1988による、訓読はやや変改を加えた、井田太郎「富士筑波という型の成立と展開」『国華』第1315号 国華社 朝日新聞社 2005年5月
註412 武田季己「養福寺『妍斎落歯塚』」『壷中日月』ブログ 2007年12月15日
註413 中野三敏「近世畸人伝拾遺(一)自墮落先生」『経済往来』第17巻第2号 1965年2月、「近世畸人伝拾遺(二)自墮落先生」『経済往来』第17巻第4号 1965年4月、中野三敏『近世新畸人伝』毎日新聞社 1977
註414 松尾芭蕉『奥の細道』1694成立、上野洋三 桜井武次郎編『芭蕉自筆 奥の細道』岩波書店 1997、杉浦正一郎校註『芭蕉おくのほそ道 附曾良随行日記』岩波文庫5745‐5746 岩波書店 1973第18刷 初刷は1957では「あらたうと青葉若葉の日の光」
註415 河合曽良『曽良随行日記』1689、杉浦正一郎校註『芭蕉おくのほそ道 附曾良随行日記』岩波文庫5745‐5746 岩波書店 1973第18刷 初刷は1957
註416 信濃教育会編『一茶叢書第六篇 文化句帖』 古今書院 1928、「太鼓」の表記を小林一茶の原文通りに修正した。異本には「たゞ頼たのめと桜ちりにけり」(遺稿 中七下五)、下五「たゞ頼〱とや桜ちる」(同句帖 文化4)とある。
註417 「一茶双樹記念館設立にあたり」一茶双樹記念館公式サイト
註418 斎藤月岑『武江年表 巻之八』、今井金吾校訂『定本 武江年表 中』ちくま学芸文庫エ 1 10 筑摩書房 2003
註419 小沢耕一「曳尾菴の『我か衣』について」『田原の文化』第4号 田原町文化財調査会 1968年9月、西海賢二『近世遊行僧の研究』三一書房 1984による
註420 加藤玄亀『我衣』文久年間(1861‐1864)成立、テクストは西海賢二『近世遊行僧の研究』三一書房 1984による、初出は西海賢二「木食行者と講集団―江戸周辺の木食観正を中心にして」『地方史研究』165号 地方史研究協議会 1980年6月
註421 「行者喜作(木食観正)廻国日程」、西海賢二『近世遊行僧の研究』三一書房 1984による
註422 藤岡屋由蔵『藤岡屋日記 第四 文政三年』、鈴木棠三 小池章太郎編『近世庶民生活史料 藤岡屋日記 第一巻』三一書房 1987
註423 藤岡屋由蔵『藤岡屋日記 第四 文政三年』、鈴木棠三 小池章太郎編『近世庶民生活史料 藤岡屋日記 第一巻』三一書房 1987
註424 西海賢二「木食観正と小田原藩―酒匂川流域の民間信仰を中心にして―」『小田原地方史研究』第10号 小田原地方史研究会 1979年7月、西海賢二『近世遊行僧の研究』三一書房 1984に再録
註425 西海賢二「第三章 宗教者の歓待」『近世のアウトローと周縁社会』臨川新書26 臨川書店 2006
註426 西海賢二「民間宗教者と本末関係―小田原木食上人をめぐって―」『小田原地方史研究』第11号 小田原地方史研究会 1981年5月、西海賢二『近世遊行僧の研究』三一書房 1984に再録
註427 『江戸本郷辺大火(仮)』1846、国立大学法人東京大学情報学環図書室 貴重資料・コレクション 小野秀雄コレクション(小野文庫)写真版により新たに翻字、句読点を私に追加した
註428 彭定求等奉勅撰『全唐詩 巻一百二十七』1703、『諸子百家 中國哲學書電子化計劃』による
註429 淡海三船『唐太和上東征伝』779
註430 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)著 長岡新次郎 川本邦衛編『ヴェトナム亡国史 他』東洋文庫73 平凡社 1966、後藤均平『日本の中のベトナム』そしえて文庫42 そしえて 1979、ファム・カク・ホエ著 白石昌也訳『ベトナムのラスト・エンペラー』平凡社 1995、森達也『ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー』角川書店 2003
註431 白石昌也「王権の喪失―ヴェトナム八月革命と最後の皇帝」土屋健治編『講座現代アジア1 ナショナリズムと国民国家』東京大学出版会 1994
註432 白石昌也「王権の喪失―ヴェトナム八月革命と最後の皇帝」土屋健治編『講座現代アジア1 ナショナリズムと国民国家』東京大学出版会 1994、ファム・カク・ホエ著 白石昌也訳『ベトナムのラスト・エンペラー』平凡社 1995
註433 清 彭定求等奉勅撰『全唐詩 巻一百八十四』1703、『諸子百家 中國哲學書電子化計劃』による
註434 Arthur Waley『The Poetry and Career of Li Po』George Allen & Unwin Ltd.,London 1950、小川環樹・栗山稔訳『李白』岩波新書青847 岩波書店 1973、下定雅弘「日本における李白像―李白と科挙との関わりを糸口として―」李白与天姥国際会議杭州学会発表原稿 1998 下定雅弘の中国文学の回廊サイト
註435 宮崎市定『東洋に於ける素朴主義の民族と文明主義の社会』冨山房 1940、陳寅恪『唐代政治史述論稿』重慶商務印書館 1944は鮮卑化した漢人説をとる
註436 姚薇元 『北朝胡姓考』中華書局 1962、初出は「北朝胡姓考」清華研究院歴史門卒業論文 1936、のち「北朝帝室氏族考」『説文月刊』第4巻合刊本 1944
註437 彭定求等奉勅撰『全唐詩 巻一百二十八』1703、『中國哲學書電子化計劃』による
註438 鼓吹楽については『四部叢刊三編』本『太平御覧』鼓吹楽の条に「『楽志』曰、何承天云、鼓吹蓋短簫饒歌,軍楽也。黄帝使歧伯所作,以揚徳建武。漢曲有:「朱鷺」、「思悲」、「艾如張」、「上之回」、「擁離」、「戦城南」、「巫嵩」、「上陵」、「将進酒」、「君馬黄」、「芳樹」、「有所思」、「雉子班」、「聖人出」、「上耶」、「臨高台」、「遠如期」、「石留」、「務成玄」、「云黄鶴」、「釣竿」。魏改十二曲,為之「平戦滎陽」、「獲呂布」、「克官渡」、「旧拝定功」、「平南荊」、「平関中」、「応帝期」、「邕熙太和」。晋武改為「霊芝祥」、「宣受命」、「征遼東」、「景龍飛」、「平玉衡」、「因時運」、「惟庸蜀」、「天序」、「金霊運」、「夏苗畋」、「秋狝田」、「順天道」。至梁、周、隋,各述本朝功業,隨而改之,以自揚其勛烈。」と見える
註439 彭定求等奉勅撰『全唐詩 巻一百二十八』1703、『中國哲學書電子化計劃』による
註440 宝山『諏訪浄光寺八景詩歌』1728序、松野陽一校注『諏訪浄光寺八景詩歌』、松井陽一 上野洋三校注『新日本古典文学大系67 近世歌文集 上』岩波書店 1996、訓読も松野陽一氏による
註441 林信允『諏訪台八景詩古風体幷序』1733序 東京都立中央図書館加賀文庫蔵
註442 柳田国男「方言■丘と窪地の名」『土俗と伝説』第1巻第3号 文武堂書店 1918.10.10、『土俗と伝説(復刻版)』名著出版 1979による
註443 Richard Feynman; Ralph Leighton (contributor). Edward Hutchings. ed.『Surely You’re Joking, Mr. Feynman!”: Adventures of a Curious Character』W W Norton & Co Inc 1985、大貫昌子訳『ご冗談でしょう、ファインマンさん―ノーベル賞物理学者の自伝』I・II 岩波書店 1986、Richard Feynman; Ralph Leighton『What Do You Care What Other People Think?”: Further Adventures of a Curious Character』W W Norton & Co Inc 1988、大貫昌子訳『困ります、ファインマンさん』岩波書店 1988
註444 R. P. Feynman「Appendix F – Personal observations on the reliability of the Shuttle」Kennedy Space Center’s Science, Technology and Engineeringサイト。日本語訳は私訳
註445 Richard Phillips Feynman, Robert Benjamin Leighton, Matthew Linzee Sands『The Feynman Lectures on Physics, Volume I mainly mechanics, radiation, and heat』online edition
註446 その本当の意味は次のように解説されている。
「陽明門には12本の柱があり,総てグリ紋が施されているが,北側,西から2本目の柱は,グリ紋が他と逆向きになっている。これは「魔除けの逆柱(さかばしら)」と呼ばれ,良く知られているが,同様の柱は他にも見られる。1本は,本殿と石の境,東側の柱である。これは,幣殿側は他と同じむきであるが,柱の左右に取付けられた幣軸と幣軸の間のグリ紋だけが逆になっているのである。
1本だけグリ紋の向きが逆になっている理由は,単なる魔除けではない。『徒然草』第82段に「しのこしたるを,さて打置たるは面白,生き延ぶるわざなり。内裏造らるるにも,必ず,作り果てぬ所を残す事なり」とある。この「生き延ぶるわざ」は,命が延びる気持ちがする,というような比喩ではない。建物はやがて崩壊する運命にある。それを止めるためには,「完成させない」ことが唯一の方法なのである。それは,建物の崩壊は,完成させた瞬間から始まるからである。従って,東照宮の柱に1本だけ逆向きの地紋彫があるのは,建物を崩壊から護るための呪術なのである。」(高藤晴俊「日光東照宮の彫刻について」『日光東照宮の装飾文様 植物・鳥類『日光東照宮の装飾文様 植物・鳥類 Shogun’s Shrine: The Magnificent Nikko Tosho-Gu : Plant and Bird Carvings』グラフィック社 1994)なお、上記の『徒然草』は、『日本古典文学大系』本に依っている。『徒然草』の最古のテクスト正徹本では、「しのこしたるを、さてうちをきたるは、おもしろく、いきのふるわさなり。内裏つくらるヽにも、かならす、つくりはてぬ所をのこすこと也」となっている。(「正徹本『徒然草』語句検索」広島大学日本語史研究会サイトによる)

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