今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

魯迅と日暮里(12)貴臨館と東櫻館 失われた時を求めて

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周恩来を日本留学へと導いたのは、教育家の厳修(範孫)である。1917年、厳修の興した奨学金により、南開中学校卒業生の周恩来は日本留学を果たしている。

厳修は、自費で日本に赴いた1902年に、貴臨館という「旅人宿」「下宿」に逗留している。これは教え子の張棣生(孝栘)の勧めによるものであった。
張棣生は魯迅とともに渡日した陳衡恪(師曽)の友人で、陳衡恪はその際のメンバー中、唯一の自費留学生であった。李淑同とも交友関係をもち、オールマイティの芸術家であった陳衡恪は、弘文学院時代に魯迅のルームメートであり、帰国後も魯迅と深いかかわりを持つ。

嚴修「孟禄(Monroe, Paul)先生惠存」百年南开サイトより wikipediaによる

嚴修「孟禄(Monroe, Paul)先生惠存」百年南开サイトより wikipediaによる

「光绪二十八年由江南督练公署派遣赴日留学,初入宏文学院,虽然学习自然科学,但其心却在艺术。这时,又与鲁迅朝夕相处,关系更为密切。经常往来的还有张棣生、江翔云、黎伯、颜仲苏等,这些人能文能诗,唱和往来,对衡恪的文艺修养很有帮助。毕业后,考入东京师范博物科,继续深造。光绪三十年,与李淑同(即弘一法师)相识,李在日上野美术专科学校攻读西洋美术,在书法、篆刻、国画、诗词等方面很有造诣,两人一见如故,频频交往。
宣统元年(1909)陈衡恪在日本东京师范毕业,返回祖国。二年,任教江苏南通师范大学,讲授博物学,寓居通名道观。钦佩画家吴昌硕的书、画、刻印,遂拜其为师。不指在艺术向其请教,而且对其人品也极为敬仰。吴昌硕能严于律已,听取不同意见,不护己短,胸襟豁达,曾作印曰“二耳之听”,边款云:“一耳之听不若二耳之听也”。衡恪在题画寄怀吴昌硕亦有云:“是非二耳听,莫扰大聋翁。”衡恪因直接继承了老师的优点。为人正直谦虚,处事全面合理,得到金石书画界的好评。这年,他为鲁迅翻译的《城外小说集》及《会稽郡故事杂集》题写封面,还多次为鲁迅刻“俟堂”、“会稽周氏”等印章,鲁迅视为珍品。鲁迅编印《北平笺谱》时,曾选入衡恪作品多幅,并在序中给予极高评价。」(註1)

1915年、陳衡恪は、張棣生の北京の居宅の一部屋を借りて暮らしていた時、部屋の前に槐の木があったのにちなみ、寓居を「槐堂」と名付け、また自らの号としている。父親の陳三立は、最後の伝統的詩人。戊戌変法の失敗で父親の陳宝箴とともに下野、陳宝箴は自害を命じられて死去。陳三立は、清朝を懐かしむ(留戀清朝)文人たちと詩社を結成していたが、盧溝橋事件に抗議するハンガーストライキにより5日目に死去した。また、兄陳衡恪とともに来日した陳寅恪は、10以上の言語に精通し、オックスフォード大学で東洋史を教えた経歴を持つすぐれた歴史家であったが、文化大革命において打倒の対象となり、迫害を受けて死去している。

また、張孝栘は総検察庁首席検察官、総検察庁検察長暫定代理、国立北平大学法学院教授、国立北京大学法律系講師、河北省立法商学院法律系教授等を歴任。汪兆銘政権下で最高法院華北分院院長の職にあったが、1945年に汪兆銘政権崩壊後の消息は不明という。(註2)蒋介石政権下での漢奸裁判に関する文献中に華北関係として北平大理院長の張棣生の名が見え、服毒自殺したとあるが、あるいは張孝栘のことであろう。(註3)

張孝栘 wikipediaによる

張孝栘 wikipediaによる

陳衡恪が来日直後に作った詩を掲げる。

「  日本遊
羌余結伴來東京,   羌(ああ)余(わ)れ結伴して東京に来り
細雨濛濛昏海程。   細雨は濛濛として 海程昏(くら)む
舵樓漸遠支那樹,   舵樓漸く 支那樹遠くして
白鷗上下長風生。   白鷗は上下し 長風生ず
生平海波未寓目,   生平の海波 未だ寓目せずして
乍疑一片水蒼玉。   乍(あたか)も一片の水を蒼玉と疑ふ
雪花如山怒作堆,   雪花は山の怒れるが如く堆を作(な)し
飛輪騰踔蛟龍窟。   飛輪は騰踔す 蛟龍の窟
日本偏東三島耳,   日本は東三島に偏し
昔人咤訝神僊擬。   昔人は咤 神僊の擬するかと訝しむ
邇來鑿空通寰瀛,   邇来空を鑿ち寰瀛【大海】に通ず
兩國相望衣帶水。   両国は相望む 衣帯の水。
恠石攢空曉天碧,   恠石【奇岩怪石】空を攢(あつ)む 曉天の碧
輕煙被野晴光紫。   軽煙は野を被(おほ)ふ 晴光の紫
鷄犬田原處處新,   鷄犬田原は處處新たにして
翠柏紅櫻爛成綺。   翠柏紅櫻は爛成して綺なり
信矣天然好園囿〔日本長岡子爵謂敞園好一個大花園〕,
               信なるかな 天然の好(よ)き園囿にして
夾道連甍精結構。   夾道【道の両側】に連なる甍は精なる結構
几席移時換混茫,   几席移ろひ 時換はり混茫として
山川掛眼添雄秀。   山川掛眼し 雄秀を添ふ
發達新機若未央,   新機の發達 未だ央(つ)きざるが若(ごと)し
度歐絜米難探究。   歐に度(わた)り米に絜(はか)りても探究は難し
辛苦經營三十年,   辛苦経営すること三十年
竟以聲名淩宇宙。   竟(つ)ひに聲名を以て宇宙に淩ぐ
國民游泳如痴愚,   国民は痴愚の如く游泳し
老老躑躅少者扶。   老老たる躑躅 少者【若者】は扶く
上野淺草名勝區,   上野浅草は名勝の区にして
裠屐雜遝相嬉娱。   裙【スカート】屐【木履、下駄】雑遝【雑踏】し 相ひ嬉娯たり
櫻花鬱望千萬株,   櫻花鬱たるを望む 千萬株
風吹花落雲錦鋪。   風吹き花落つれば雲錦の鋪たり
葡萄潑醅香滿襦,   葡萄潑醅の香りは襦【ジャケット】に満ち
歡歌共坐紅氍毹。   歓歌共に坐す 紅の氍毹
循途更上凌雲閣,   途に循ひ更に凌雲閣に上り
憑欄下視他人樂。   欄に憑(よ)りて下視すれば他人楽しむ
空有羈蹤肆徃還,   空しく羈蹤【きづなを放つ】して 肆(ほしいまま)に往還し
忍使孤懷寄寥廓。   忍びて孤懐し 寥廓に寄らしむ
當街小樓無點塵,   当街の小楼には点塵も無く
烹茶作羹意態新。   茶を烹(い)れ羹を作る 意態新たなり
窻前樹掩參差緑,   窓前は樹掩ひ 緑を参差し、
座上人藏窈窕春。   座上の人は窈窕の春を蔵(かく)す
蓬壺已了前年願〔曾有句云共訪蓬壺事已空〕,
               蓬壺は已に前年の願ひを了り
愈見繁華愈愴神。   愈〻繁華を見て 愈〻神を愴(いた)む
呼鄰取醉不須省,   隣を呼びて取酔し 省るを須(もち)ひずして
電燈夜照珊瑚枕。   電燈は夜照らす 珊瑚の枕」(註4)

本詩においても、日本を古代中国の神話世界の中に位置づける作為が潜んでいるのがはっきりと分かる。詩文の修飾を通じて、蓬莱(蓬壺)島や神仙(神僊)三山の神話を媒介に日本を仙境に擬する文飾が施されている。それは、彼ら留学生の作文的知識と神話理解に基く意識の基層に位置付いていたのだろう。魯迅が「仙臺」を目指す心意の奥底にもこうした興味と期待があったと見るべきであろう。ただし、陳衡恪の赴いた「仙境」は吉原遊廓である。周樹人が洋燈(ランプ)の明かりで勉強していた夜、陳衡恪は電燈の明かりで珊瑚の枕を照らしていたのである。また、後に詳しく述べるが、東京電燈が電力供給事業を発展させる上で、吉原の遊廓街は官庁街や銀座と並ぶ一大需要地となっており、1890年11月、浅草凌雲閣のエレベータ運転用の電力供給は、日本最初の電力供給事例である。そのための集中火力発電所が浅草に建設された。採用された発電機はドイツ・アルゲマイネ(現AEGアーエーゲー)社製出力265kW三相交流式(50Hz)発電機2基と、中野初子設計、石川島造船所製作の出力200kW単相交流式(100Hz)発電機4基であった。後者は、日本初の商用発電機であり、前者は、その後の東日本における周波数50Hzを決定づけることになった。(註5)関東大震災による倒壊後は、住宅密集地を避ける目的もあって変電所として使用されることになり、南足立郡千住町に新設された千住火力発電所によって代わられることになった。千住発電所のシンボルであった4本の煙突が有名なお化け煙突である。また、中野初子はその後電気学会会長となるなど電力業界、電機業界の先駆者となった。

淺草發電所第一工事發電機(石川島製二百キロ 四臺)『東京電燈株式會社開業五十年史』より

淺草發電所第一工事發電機(石川島製二百キロ 四臺)『東京電燈株式會社開業五十年史』より

陳衡恪が、毛沢東の師である楊昌済がイギリスに出発する時に贈った詩。

「  送同學楊君留學倫敦
一樽相送去雲遙,   一樽を相ひ送り 去雲遥かにして
旅館寒燈轉寂寥。   旅館の寒燈 轉(うた)た寂寥たり
六載綢繆風更雨,   六載(6ねん)の綢繆 風し更に雨ふる
千秋俛仰子能豪。   千秋の俛仰(じかん)子能(た)だ豪たり
行看大璞研成壁,   行〻(ゆくゆく)大璞(あらたま)を研ぎ壁と成すを看て
始信真荃不化茅。   始めて真荃の茅と化さざるを信ず
吾黨孤軍豈虚發,   吾党孤軍なれども豈に虚しく発たん
海天傾聽未來潮。   海天に傾聴す 未来の潮を」(註6)

これらの詩を見るだけでも、これまでわれわれが見てきたさまざまな留学生や人物の間にきわめて親密な関係が成立していたことが分かる。どなたか人間関係図を作って見せてくれないだろうか。

長岡子爵邸庭園『日本橋區史 參考畫帖 第一册』より

長岡子爵邸庭園『日本橋區史 參考畫帖 第一册』より

陳衡恪の詩中の長岡子爵庭園は、現在の浜町公園。子爵長岡護美は熊本藩細川斉護の六男に生れ、喜連川藩喜連川煕氏の養子となるが脱走。

「公竊【ひそか】に以【おも】へらく、「喜連川氏は足利氏の後たり、足利氏は曾て皇室に不忠たりしもの、我その後を承るを悦ばず、且今や國家の形勢、將に大に變ぜむとす、いかでかゝる山村の小天地に、一生を送るに忍びむ」と、古今に俯仰し、慨然天下を以て己が任とし、一夕翻然志を決し、闇夜に乘じて本邸を脱す、公はこれより函根に到り、機を見て海外に雄飛せむとせられしなり、
かくて公は竹刀を擔ひ、鐡面甲を携へ、武藝を以て諸國を巡遊する、武者修行のごとき狀を爲し、邸を出でゝ數里なる一民家に投ぜられたり、實に安政五年二月十六日、公時に年十七歳なり、」(註7)

宿泊を要請された民家は驚いて、喜連川家に報告、長岡護美を連れ帰るために家臣たちが追うが、説得に応じず、細川家の上屋敷(龍口邸)に入る。喜連川家と細川家が協議して、長岡護美が癇症病の療養の口実で養子縁組を解消、代わりに宇土細川家から養子を出すことで決着する。脱走した長岡護美が捕獲されたのは、奥州白川口である。上記記録に函根とあるのは、磯田道史氏の説の通り、当時の開港地である函館の誤りであろう。(註8)
熊本に帰還することになった長岡護美は、その地で明治維新を迎える。幕末期に派閥抗争の激化していた熊本藩は、長岡護美を大参事に抜擢して抗争を収拾。共和制議会主義を指向し、熊本を出て松平春嶽の参与となっていた横井小楠の門下生を枢軸に藩政改革を実行する。その後、1872年からアメリカ、イギリスに留学して1879年に帰国。帰国後は外務省で各国公使、元老院議官等を歴任。1880年に興亞会会長、1898年に合併成立した東亞同文協会の副会長として、対清民間外交の重鎮となった。清国から派遣された「代〻の公使を初として留學生に至るまで、公を仰ぎ、公を慕はぬはなかりき」(註9)もちろん、これはおせいじなのだが、魯迅らを引率して渡日した兪明震、周恩来を留学させ、自らも来日した厳修らとの間に詩文の交換をしている。(註10)
多くの漢詩を残している中から、富士山を詠んだ詩と「巢鴨途上逢鴨北君」、さらに厳修に贈った詩の3詩を掲げる。

長岡護美 慶應年間撮影『長岡雲海公傳』より

長岡護美 慶應年間撮影『長岡雲海公傳』より

「  登嶽〔五首〕
海上風来散紫烟   海上 風来りて紫烟を散じ
羽人導我至崇巓   羽人 我を導きて崇巓に至る
仙遊不必騎黄鶴   仙遊 必ずしも黄鶴に騎(の)らずして
手把芙蓉嘯碧天   手は芙蓉を把り 碧天に嘯(うそぶ)く

風雲一擧宿仙壇   風雲一挙して 仙壇に宿し
孰與鯤鵬九萬搏   鯤と鵬【神話上の大魚、巨鳥】の孰(いず)れか 九万を搏(う)つ
欲渡銀河朝上帝   銀河を渡りて 上帝に朝さんと欲すれば
天雞破夢曉霜寒   天鷄は夢を破りて 曉霜寒し

五更獨步逼天宮   五更に独(ひと)り歩みて天宮に逼(せま)り
絶頂振衣万里風   絶頂に衣を振う 万里の風
六十餘州人未起   六十余州の人は未だ起きずして
燭龍遙躍大瀛中   燭龍【昼夜を主る神】遥かに躍る 大瀛【大海】の中(うち)

萬丈芙蓉挿九天   万丈の芙蓉 九天に挿(さしはさ)み
曉看海日到吟邊   曉に看る 海日の吟邊に到るを
仙童巳去雲初散   仙童已に去り 雲初めて散じ
人在金鰲背上眠   人 金鰲【おおがめ】の背上に在りて眠る

決眥東溟萬里潮   眥(まなじり)を決す 東溟万里の潮
絶巓停杖立青霄   絶巓に杖を停(とど)めて 青霄に立つ
蜻蜓洲上諸山伏   蜻蜓洲【アキツシマ、日本】上に 諸山伏(ふく)し
靺鞨國邊群嶺朝   靺鞨国辺に 群嶺朝す」(註11)

「  巢鴨途上逢鴨北君
清溪水落石文班    清溪に水落ち 石文の班(はだ)らにして
山路風寒夕照殷    山路は風寒く 夕照殷(さか)んなり
林下幾回逢醉客    林下を幾回りして 酔客に逢ひ
一肩紅葉認君還    一肩の紅葉に 君還るを認む」(註12)

鴨北は外務省の同僚であった宮本小一の号。「宮本小一は、57年(安政4 )軍艦操練所調方出役、60年(万延1)から68年(慶応4)まで神奈川奉行支配調役並出役から同組頭勤方にあり、病気療養をへて新政府に出仕し、樺太境界交渉や日朝修好条規の締結等に関わった明治初期の外交官である。この時期、大政奉還をへて旧幕府が崩壊する過程を目の当たりにした宮本は、おりしも健康を害しており、巣鴨下屋敷を譲りうけて帰農することを決意していたという。」(註13)日朝修好条規の締結に当たっては、征韓論に影響を受けた柳原前光らの対朝鮮強硬論者の影響を排し、「彼我対当の礼」に基礎を置く穏健的対応に終始した。(註14)詩は、この時のものであるかもしれない。宮本小一邸は、農園とする目的で福井藩下屋敷跡を買受けたものであったが、同邸はかつての奥医師渋谷長伯の御薬園跡である。御薬園時代には綿羊が飼育され、おそらく松平春嶽が藩主であった福井藩下屋敷時代には、20~30種のセイヨウリンゴが植えられていたといわれる。(註15)その跡には現在、駒本小学校の場所にあったやっちゃ場が、東京中央卸売市場豊島市場として移転している。青果市場の存在は、かつての縁であろうか。

巣鴨薬園、越前松平邸、宮本小一邸跡

巣鴨薬園、越前松平邸、宮本小一邸跡

「  贈清國嚴修兄
翰林待詔仰鴻名   翰林待詔 鴻名を仰げども
瀛外何期結此盟   瀛外に何んぞ此の盟を結ぶを期せんや
經史羅胸尊北斗   經史の羅胸【阿含】は北斗を尊び
文章任筆屹長城   文章は筆に任せて長城を屹(そばだ)たしむ
星霜磨錬濟時力   星霜は済時【時勢を救済する】の力を磨錬し
雲水梯航閲世情   雲水の梯航【かけはしと船、人材】は世情を閲(けみ)す
所願高軒相駐久   高軒【立派な車】相駐まること久しきを願ふ所は
得師聞道樂餘生   師を得て道を聞き余生を楽しむなり」(註16)

厳修が長岡護美に送った書簡に記載の帰国日程及び中西暦換算から推察し、厳修の日記と照合すると、1904年に渡日した際、6月27日に長岡護美による宴席が設けられ、庭園を見学、中国人による書・扇幅が披露され、自著の『雲海詩鈔』、『南清游草』をプレゼントされたほか、詩文の交換をしており、(註17)この詩もその時のものであろう。長岡護美の庭園は、関東大震災時に罹災者の避難場所となった。

「十二年九月一日昼何所ともなく伝ってくるごうごうと云う響にすさまじい地鳴りを直覚し「地震だ地震だ」と家中に叫んだ。同時に忽ち天地鳴動し立上ろうとしても、身体がゆらいで立っていられない。柱はヒシヒシと鳴り屋上からはドドドドと瓦が泥水のように庭に落ちてくる。容易ならぬ地震であると思った。妻や長男は本箱の前で抱き合ってすくんでいる。「あぶないから決して外に出るな。死ぬなら一緒だぞ」と叫んでいたが、下女は外へ飛出して落ちた瓦で足を挫いてしまった。二震三震とつづいて余震が襲い、四度地震が訪れ漸く軽微となった。折から近所の人が馳けつけ、「家の中では危険です。お邸の庭へ避難することを許されましたから彼方へ行きましょう」と誘ってくれたので二もなく欣んで其方へ行く。裏木戸の破れをこわし長岡子爵邸との境の板塀も地震でこわれているところを潜って大鵬の翼のように拡がっている八ツ手の枝の下を這って出るとそこは池の前の林の中で、二、三の人が荷物を運びながら集まっていた。林は様々の喬木が大蟹のように根を張っているので震動を避けるには屈竟の場所である。」(註18)

筆者の山岸荷葉は、日本橋通油町の丸合小間物問屋・加賀屋吉郎兵衛の次男に生れ、本名は山岸惣次郎。東京専門学校に進み、はじめ坪内逍遙に師事、のち加賀屋を継いだ兄山岸定吉の妻つるの従兄弟である尾崎紅葉の門下に入り、硯友社同人となる。1899年読売新聞社に入社、劇評を担当。関東大震災を生き延びたものの、1945年3月10日の東京大空襲で、自宅近くの明治座の地下室に避難したが、焼死する。「下町情緒」を描き、文中に「………」を多用する山岸荷葉の作品群は「日本橋文学」と呼ばれたが、この性格は、そっくりそのまま久保田万太郎に継承される。1903年の川上音二郎上演の「ハムレット」は、山岸荷葉と土肥春曙による翻案。また、讀賣新聞で春柳社関連の記事を書いた中には、山岸荷葉の記事もあったかもしれない。
山岸荷葉の実家について、子供のころアンポンタンと呼ばれていた長谷川時雨は『舊聞日本橋』に次のように書く。

「憲法發布の時、大丸では舞樂の「蘭陵王」の飾りものをした。これは日本橋油町の鉾出車(ほだし)にあつたもので、神田田町の「猿」、京橋の閑古鳥と並んで、有名な日本橋の龍神とは違うが維新の時國外へ流れ出てしまつて、その有名な蘭陵王の面は、アメリカにあるとかいつた。大丸は當時の町總代が京都までいつて織らせた、蘭陵王の着用の裂れ地の價値を知つてゐるので、それを造つて飾つた。その日何處でもしたといふ酒樽のいくつかが、大丸の前にもかがみが拔いて柄酌(しひゃく)がつけて出された。
油町側では憲法發布の由來といふやうな、通俗的な演説會といつたふうなものを催した。そんな時にこそ大丸が會場である筈なのだが、町内の關係で油町の加賀吉という大店で開かれた。そこはたしか山岸荷葉氏――紅葉門下で、少年の頃は天才書家として知られてゐた人である――の生家で、眼鏡や何かの問屋だった。年の暮のゑびす講などに忘年芝居を催したりする派手な店で北新道のあたしの家の並びの荷藏に、荷車で芝居の道具を出しに來たりしてゐた。その店が會場となり演説の卓がおかれた。
そんな事はお江戸開闢以來のことと見えて、アンポンタンの幼い頃にも忘れない不思議な光景を殘してゐる。まづ、辯者は、その近邊でも當時の新智識と目されたものと見えて洋服を着てゐることの多いあたしの父であつた。洋服が新時代の目標であつたと見える。尤も、官員さんの一人もゐない土地であつて見れば、私の父がハイカラだつたのかも知れない。明治十二年官許代言人、今から見ればとても古くさい名だが、十二人とかしかなかつた最初の仲間の一人であつたときいてゐる。」(註19)

長谷川時雨は、本名長谷川ヤス。日本橋区通油町1丁目の生れ。父深造は上にあるように日本初の免許代言人(弁護士)。母多喜は御家人の娘で、箱根塔ノ沢に温泉旅館「玉泉楼新玉」(のち新玉の湯、2002年休業、2006年取壊し)、生麦に割烹旅館「花香苑」を開業。その後、中沢彦吉に請われて芝の「紅葉館」の経営に手を染める。紅葉館には、油屋で骨董商、大地主であった青山喜八と妻・津禰の三女として牛込区納戸町で1874年に生れた青山みつが、座敷女中として行儀見習に上がっている。青山みつは、1892年2月29日にオーストリア‐ハンガリー二重帝国の駐日代理公使として赴任したハインリヒ・クーデンホーフ(Heinrich Coudenhove-Kalergi)伯爵の求愛を受け、翌月の3月16日周囲の反対を押し切って結婚する。欧州統合運動を唱えて、国際汎ヨーロッパ連合(International Paneuropean Union)を組織したリヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ‐カレルギー(Richard Nikolaus Eijiro Coudenhove-Kalergi)の母となるクーデンホーフ‐カレルギー光子(Mitsuko Coudenhove-Kalergi)の誕生の瞬間である。

震災後、長岡邸は浜町公園となる。現在でも残る清正公の祠は、ここがかつて熊本藩邸であったことの証である。小野良平氏によれば、浜町公園の公園正面に取り付けられた4列並木の公園道路によりヴィスタ景観の創出を目的にしたもので、1926年に竣工した明治神宮外苑をモデルにしたものであったという。(註20)しかし今や、モデルとなった明治神宮外苑の並木道のヴィスタも存続を危ぶまれる危機に立ち至っている。

浜町公園 清正公

濱町公園平面圖 東京都緑の図書室蔵「震災復興期に至る公園設計の史的展開について」より

恒松郁生氏によれば、西忠温が最初にアイルランドを訪問した日本人が長岡護美ではないかと思われるとする。出典不明であるが『長岡雲海公傳』ではないかとのことであるが(註21)、一読する限り当該書にはアイルランド訪問の具体的記録はない。ただし、複数の講演の中で長岡護美はアイルランド問題に言及している。

「英國にても華族は重に地方に居住し、議院且文學社會に臨む時毎に、倫敦府に寄寓するの風習あるを見る、華族にして所領の人民と交誼薄ければ、人民自ら奉戴するの意なきに至る、英國華族のアイルランドに土地を有するが如き之なり、」(註22)

「歐羅巴の方は貧富の別が酷い、中〻貧困者になると社會に這入れぬ、西洋の人は上等の人は肉食して居るが、下等者會になると愛蘭邊では馬鈴薯もない、……饑饉年には……榎本の話だが、黒い麵包に菜漬け位ださうです、尤も是は露西亞の有樣です、」(註23)

急速に社会主義、マルクス主義に接近していた部落解放運動においても「アイルランド問題」が繰り返し取り上げられ、論じられたことが知られているが、ロンドンのミドル・テンプル法曹院に学んだ長岡護美の関心領域の一端が知られる発言である。

肝腎の厳修の日記に移る。

「八月初八日【光緒二十八年壬寅1902年9月9日】 雨止
張棣生〔孝栘〕廉郷先生之孫也,來訪留飯。
杜顯閣、呉解畺來訪。
同棣生往同文学院,晤其幹事員田鍋安之助,監督水谷君。 棣生導観講堂、学舎、規模稍隘。 同棣生訪伯顔【黎伯顔】不遇。至留学生會館一觀,伯顔亦繼至。棣生勸余移居,与伯顔同寓,乃往相度,其地甚軒豁,唯室稍狹狭耳。遂与商定,余居其旅人宿,崇【嚴智崇】、怡【嚴智怡】二人居下宿。是為神田区駿河臺袋町九番地貴臨館也。
伯顔陪往清華学校一觀,晤陳樂書〔榥〕。」(註24)

旅人宿「貴臨館」は、『東京便覽』及び『最近東京名覽』に「貴臨館 駿河臺袋町九番地 中井美俊 本二四二三」とあり(註25)、「神田區駿河臺袋町九番地」は、「清国留學生會館」のあった駿河台鈴木町18番地にきわめて近い。いずれも、湯島、本郷方面からお茶の水橋を渡ってすぐを右折した通り沿いである。また、1903年6月21日、岩手県東和賀郡十二ケ村出身で神田中学校二年へ編入学した萬鉄五郎は、7月の学期末試験までの期間、貴臨館に逗留している。萬鉄五郎は日本におけるフォーヴィスムの先駆けとなった画家である。関東大震災に結核療養中の茅ケ崎で遭遇した萬鉄五郎は、年号が昭和にかわって間がない1927年5月1日に死去している。震災後の難を避けて帰郷していた長谷川利行が、日暮里に再び姿を見せるのはこの頃であり、萬鉄五郎の興した日本フォーヴィスムを継承することになる。

貴臨館跡

貴臨館跡

貴臨館の隣地もまた下宿であり、神田区駿河台袋町8の養精館には1904年11月8日から28日まで石川啄木が寄宿していた。詩「眠れる都」の詞書に次のように書く。

「京に入りて間もなく宿りける駿河臺の新居、窓を開けば、竹林の厓下、一望甍の谷ありて眼界を埋めたり。秋なれば夜毎に、甍の上は重き霧、霧の上に月照りて、永く山村僻陬の間にありし身には、いと珍らかの眺めなりしか。一夜興をえて匇々筆を染めけるもの乃ちこの短調七聯の一詩也。「枯林」より「二つの影」までの七篇は、この甍の谷にのぞめる窓の三週の假住居になれるものなりき。」(註26)

わずか3週間の寄宿に終わったのは、館主井田芳太郎の都合で養精館が閉鎖されることになったためである。石川啄木は、牛込区砂土原町3丁目22番地の井田芳太郎邸に下宿を移る。井田芳太郎の好意により格安の下宿代であったが、石川啄木は下宿代を踏み倒す。その後の借金踏み倒し生活の始まりである。養精館は現在の男坂の位置にあり、前記した眺望の向こう側に富士山を望むことができた。以下は石川啄木の書簡より。

「我窓西に向ふて遙かに富士と語るべし、黄塵の都府また此好風光ありて詩人を容るゝに似たり、呵々。」(註27)

「我駿河台の新居座して甍の谷のかなた遙かに富士山と語るべし、味甚妙也。」(註28)

「北の方平原の上に雄阿寒雌阿寒両山の白装束を眺め侯ふ心地は、駿河台の下宿の窓より富士山を見たると大に趣きを異にし居候、雪は至つて少なく候へど、吹く風の寒さは耳を落し鼻を削らずんば止まず、下宿の二階の八畳間に置火鉢一つ抱いては、怎うも恁うもならず、一昨夜行火(アンカ)(?)を買つて来て机の下に入れるまでは、いかに硯を温めて置いても、筆の穂忽ちに氷りて、何ものをも書く事が出来ず候ひし、朝起きて見れば夜具の襟真白になり居り、顔を洗はむとすれば、石鹸箱に手が喰付いて離れぬ事屢々に候、北(キタ)グルと書いて逃ぐると訓む、北へ〱と参り候ふ小生は、取も直さず生活の敗将、否、敗兵にて、青雲の上に居る人の露だに知らぬ夢を、毎夜見居る事に御座候」(註29)

1910年の大逆事件を契機に、石川啄木は急速に社会主義に接近。1911年に成稿した詩「はてしなき議論の後」において「ヴ・ナロード」を連呼する。「Хождение в народ(Hozhdenie v narod)」は1860年代から勃興したロシア社会主義運動のスローガンである。

「はてしなき議論の後
                    一九一一・六・一五・TOKYO
われらの且つ讀み、且つ議論を鬪はすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亞の靑年に劣らず。
われらは何を爲すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る、
しかして、我等の何を爲すべきかを知る。
實に五十年前の露西亞の青年よりも多く知れり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

此處にあつまれるものは皆青年なり、
常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。
われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

ああ、蠟燭はすでに三度も取り代へられ、
飲料の茶碗には小さき羽蟲の死骸浮び、
若き婦人の熱心に變りはなけれど、
その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。」(註30)

厳修の来日視察旅行の1回目は自費、2回目は直隷学校司督辨の肩書を持っての官費旅行である。しかしながら、潤沢な資金があったに違いない2回目の1904年も、また安宿の「貴臨館」に宿泊している。(註31)6月2日に東京に着いた厳修は翌日宏文学院を訪問、さらに嘉納治五郎、棚橋源太郎らの教育者、さらに政府の高官や機関、学校を訪問、面談、見学をエネルギッシュに繰り返している。さすがは中国の大人、某日本放送協会(NHK)籾井勝人会長のような莫迦な行動は取らないんである。気概の違いであろう。

精華学校跡

精華学校跡

精華学校は、小石川伝通院の傍ら、柏原文太郎の屋敷内にあり、犬養毅を校長に据え、学監には柏原文太郎と銭恂があたった。精華学校は1899年、梁啓超が中心となって牛込区東五軒町に創立した「東京高等大同学校」の後身である。さねとうけいしゅうによれば当時は校名を「精華學校」から「東亜商業學校」と改称されていたというが(註32)、『清国留學生會館第一次報告』(1902年10月5日)、『清国留學生會館第二次報告』(1903年3月29日)には「精華學校」の名が残るという。(註33)ただし、1901年の「開辦東亜商業學校記」によれば「曰く内政,曰く外交,その才ことごとく此れ頼らん。商業なるかな,商業なるかな!」とあり(註34)、下記の論考とも矛盾がある。このあたりは錯綜しており、校名変更の順序が違うのかもしれない。また、精華学校学監の銭恂は、清国留学生会館の建設の中心メンバーとなった人物である。

また、当時の柏原文太郎の住所は、「小石川区表町百〇五番地」(註35)または「小石川表町百〇九番地」(註36)とある。また、『東京中央電話局電話番號簿(昭和4年10月1日現在)』には、「小、表、一〇九」とある。(註37)東亞商業學校に関する「私立學校認可願」によればその所在地は「東京市小石川區表町百九番地」とあるから(註38)、この住所が正しいだろう。これは、伝通院から沢蔵司稲荷の脇の坂を下りたあたりになる。
柏原文太郎宅には、ヴェトナムから来た少年・黄文紀(Hoàng Văn kỷ、ホアン・ヴァンキ)とその叔父の黄興(Hoàng hưng、ホアン・フン)が寄宿し、日本の小学校に通ったという。(註39)後藤均平氏の発掘した1909年の学歴簿には「番號 三九 住所 第六天町四五、宮崎寅䒙【藏の異体字】方 保護者及其關係 黄興 父 長男 兒童氏名 黄一歐 生年月日 廿九年六月十六日」とあり(註40)、黄文紀は東京市礫川尋常小学校に通ったという。(註41)ヴェトナム人の黄興は、長沙出身の革命家で日本留学経験を持つ黄興(長沙uan陽平ɕin陰去、拼音Huáng Xīng)と同時代同名の人物であるが別人。長沙の黄興は、清国からの第1回留学生で、弘文学院で魯迅や許寿裳と同学。長男の黄一歐は1892年9月2日生れ。1904年長沙蜂起失敗の後父に従って1905年秋に来日。弘文学院に入学、1908年東斌学堂に進学して軍事を学んでいる。したがって宮崎滔天方を住所とする黄一歐は別人の偽名であったと見られる。これが確実に黄文紀であった証拠はないが、柏原文太郎と宮崎滔天により、本名不明の亡命者を匿うための偽名工作であった可能性が高く、後藤均平氏の指摘する通り黄文紀の偽名である可能性はあるが、戴国煇により中国人革命家の黄興の長男であるとの異議が提出された。(註42)しかし、生年月日の異同と当該年度の学齢、学籍に関する事実は、両者が別人であることを明確に示している。この事に関する最初の言及は『文京区教育史―学制百十年の歩み』であり、そこでは「當時フランスはベトナム人の海外渡航を禁じていたから、彼等は脱國し、清國留學生の僞名で渡日したのである」とするが、卓見である。(註43)なお、礫川小学校は日本で初めてプールを設営した小学校である。(註44)

東京市礫川尋常小学校卒業生名簿『日本のなかのベトナム』による

東京市礫川尋常小学校卒業生名簿『日本のなかのベトナム』による

長沙出身の黄興は、1904年、浪花節語りをしていた宮崎滔天を神田の寄席に訪ね、宮崎滔天はのちに黄興と孫文が出会う橋渡しをしている。蜂起に失敗した黄興は、子女を宮崎滔天宅に預け、日本の学校に通学させることになる。また、黄興には日本で知り合った旧姓不詳の「文子」という妻があり、2人の間に生れた娘の黄文華は、黄興の養子の黄文山と結婚、アメリカで生活する。しかし黄文華は、タイの富商の子で、のちマラヤ共産党に入党し、中国民主同盟マラヤ支部ジョホール分部の2代目の主任となった黄達之と駆落ちしてシンガポールに渡っている。1949年に黄達之が抗英武装闘争中に死亡後、1964年に香港の大学に赴任していた黄文山と復縁、3年間をともに過ごすが、1976年にマラヤに戻り、1979年に病没している。(註45)
ヴェトナムから来た黄文紀は、潘佩珠(Phan Bội Châu、ファン・ボイ・チャウ)の呼び掛けた東遊(ドンズー)運動(Phong trào Đông Du)に感奮した父・黄文葛(Hoàng Văn Cát、ホアン・ヴァン・カット)に携れられて渡日、柏原文太郎に託されている。その後黄文葛は正則中学に進学するが、叔父の黄興は香港での爆弾製造中に爆発事故をおこして逮捕され、香港政府によりフランス政府に引き渡される。黄文紀は文闘よりも武闘を選択、「清国留学生から中国語を学び、日本を棄てて粤(カントン)へ。改名して広東籍を仮り、燕京(ペキン)の陸軍軍官学校に入ったのである。」(註46)しかし1917年、23歳の時、流行病により死亡。(註47)記録に残る世界最初のインフルエンザ・パンデミック(スペインかぜ)によるものと見られる。以下は、鄧搏鵬(Đăng Bac Băng)による弔辞と弔詩。

「青年ほど愛しい者は無い。虚しい死ほど悲しいことは無い。悲境にあるだけでさえ悲しいことだが、まして壮志を抱きながら死ぬ者の悲しい境地はいかばかりか。吾が友、黄文紀君よ。」
「  弔詩
雨憾雲悲萬里昏   雨は憾(うら)み 雲は悲しみ 万里昏く
書來一字涙千痕   書来たりて 一字に涙千痕たり
寒風易水荊軻去   寒風の易水に荊軻は去り
孤塚燕京杜宇存   孤塚の燕京に杜宇のみ存り
北斗望時揮怨淚   北斗望めば 時に怨みの涙を揮(ふる)い
朔風吹到想忠魂   朔風吹き到れば 忠魂を想わん
越南何日重恢復   越南は 何れの日にか重ねて恢復し
應爲招君喚九原   まさに君を招きて 九原に喚(よ)ぶべし」(註48)

張澤崇氏によれば、東京高等大同学校、精華学校と東亜商業学校の来歴は次のとおりである。

「漢口之役の失敗と財政難の為、当時東京高等大同学校の幹事であった柏原文太郎が日本の政党から募金を募り、校名を「東亜商業学校」と改め再建される。しかし、再建2年後再び経営困難に陥り、清国公使に引き渡した。校名は清華学校となった。
また、「東京高等大同学校」が前身である「清華学校」とは別に、1929年東京市小石川区指ヶ矢町【指ヶ谷町、さすがやちょう】7番地に「東京華僑学校」が創立される。創立当時の生徒はわずか20余名だけであったが、当時の東京市から認可を受けており、中華民国教育部の認可も受けていた。しかし、1936年2月、日本政府に使用教科書を全て没収されるという事件が起こる。同年3月、校名を「東京華僑小学校」と改める。また1937年には日中戦争も始まり、それを受けて教師や学生が多数本国に帰国し、一時閉校を余儀なくされる。1945年米軍の空襲により校舎が全壊するが、翌年「東京中華学校」と校名を改め東京都中央区立昭和小学校の校舎の一部を借用して臨時校舎とし、再建に乗り出す。1948年には、たくさんの華僑の支援を得て、千代田区五番町14番地(現住所)に新校舎を建設し現在に至っている。」(註49)

東櫻館跡

東櫻館跡

表町から柳町仲通り商店会をこえて白山通りを渡れば、丸山福山町になる。そこから坂を上れば、魯迅の住んだ西片町、さらに空橋を渡れば、疆㭽(Cường Để、クォン・デ)侯の住んだ本郷森川町である。(註50)そして丸山福山町に「東櫻館」という下宿屋があった。さらに、道を挟んだ向かい側「小石川區柳町二十三番地」には「十三夜(とみや)」という支那西洋料理店があり、「炸子鷄 チヤチカイ(やきとり)七〇【銭】」に始まって「シウマイ(四ツ付)一三【銭】」に至る48種もの中国料理のメニューが並ぶほか、「其他御好ニ應ジ即時調理致シマス」とある。(註51)「館所蔵の「小石川西洋料理組合員名簿」(昭和9年)という資料には、組合店のなかに「十三夜」の名が記され、その脇に手書きで「とみや」と読みが付されています。メニューもほぼ同時代のものと推定されます。」(註52)それより以前の1928年発行の『番地入信用案内 大日本職業別明細圖之内 小石川區』にも「料理十三夜」とあるから、これ以前の創業である。(註53)『小石川西洋料理組合員名簿』によれば、「とみや【手書書込み】十三夜 同【柳町】二三 猪鼻要吉」とあり(註54)、オーナーは日本人と見られる。これを日本人を対象に「中華料理」が普及していく過程とも見ることも可能だが、この地域に中国系住民が多く居住していたことも意味しているだろう。
とりわけ注目すべきなのは、各料理の漢字名に付されたヨミガナが北京語を母体とした北官話ではなく広東語によっていることである。(註55)コックもしくは顧客またはそのいずれもが広東語を共通語にしていたことが分かる。また、その隣の22番地には喜楽館という映画館があった。1930年の定員は191人、支配人は福島岩吉、日活系列である。(註56)開館は横田商会系で1910年7月2日、1918年の定員は800名とある。(註57)

十三夜「支那西洋御料理目錄」『博物館で見るぶんきょう食の文化展』より

十三夜「支那西洋御料理目錄」『博物館で見るぶんきょう食の文化展』より

1903年、黄炎培が戊戌変法の失敗で日本に亡命した時、東京では丸山福山町2番地の「東櫻館」5号室に下宿している。柴志光氏は、次のように記載する。

「除出洋留学外,还有部分浦东人曾出洋访问过外国,在国外有过一段生活经历,如黄炎培、张志鹤、顾冰一于光绪二十九年(1903年)因南汇党狱案亡命日本,次年回国。当时三人乘“西伯利亚”号轮船到长崎,再转赴神户,寄宿于南汇同乡陈平斋的源昌号内,后又乘火车往东京,寓丸山福山町二丁目东樱馆五号,曾入清华学校习日文,以备留学,但因费绌,不久旋止。三人旅居日本的来去费用均由同乡杨斯盛资助。南汇坦直人胡簋铭中学毕业后,随父亲去日本经商,1912年回国后创办袜厂。上海光复后任民政总长的李平书在光绪十三年(1887年)曾游历新加坡。」(註58)

「丸山福山町二丁目」とあるが、丸山福山町に丁目はない。番地の誤りだろう。以下は龙鸿彬氏による記述である。

「六月三十日(公历8月22日)戴运寅亲至慕尔堂要人,步惠廉装聋作哑,不予理睬。戴懊丧至极,无计可施。为了不致会申公廨将四人要去,在佑尼干建议下,由杨斯盛资助费用将黄炎培、顾冰一,张志鹤三人送往日本。而戴运寅为此一案,因办理不善,先是降级,后被革职。七月下旬(公历9月中旬),黄、顾、张三人搭乘“西伯利亚”号到达日本。
到达日本后,三人先至长崎,转赴神户,而后乘火车往东京。在东京,恰与孙中山先生同住丸山福町二丁目东樱馆。三人振奋之余,欣然赋诗,其中有“兴酣起舞挥长锬”、“还我江山乐且湛”等诗句。留日期间,三人结识了不少在日本留学的中国学生,思想感情发生了很大的变化,进而更加坚定了推翻满清政府的信念。同年,《江苏》杂志于东京创刊,它由中国留学生江苏同乡会编辑出版,它宣传反清思想,是一个反映资产阶级革命政治立场、宣传民族主义和民主主义思想的革命刊物。该月刊设有社说、学说、时论、译丛、小说、记言、记事等栏目。此份刊物在留日学生和中国国内有着积极的影响。(註59)

文中に「たまたま孫中山先生と同じ「丸山福町二丁目」東櫻館に宿泊した(恰与孙中山先生同住丸山福町二丁目东樱馆)」とあるが、1903年9月26日に孫文は日本を出て、ハワイに向かっている。9月中旬から26日の間の、偶然の出来事である。ただし、『孫中山年譜長編』には東櫻館への投宿の事実は記載されておらず(註60)、根拠となった資料は不詳である。

『孫中山年譜長編』は、現在入手できる最も詳しい孫文の年譜だが、これに載らない事項も多く、孫文の日本人の妻、大月薫の存在も最近になって知られるに至った事実である。

大月薰 wikipediaによる

大月薰 wikipediaによる

「明治三一【1898】年当時、大月金次と娘薫は横浜市中区山下町一二一番地の二階建物の二階に住居していた。その建物の一階には孫文先生と同志の中国革命党の人々が住居していた。それが縁で明治三五【1902】年孫文先生からの直接の申込みで大月薫十五才の時両人は大月金次氏了承の上で結婚生活に入る事が出来た。(薫十五才)横浜高等女学校在学中。孫文先生は海外との往来が多かったが、明治三八【1905】年来日の際、薫は孫文の子女を妊娠。明治三九【1906】年に生れた。しかしその時は孫文先生は本土での活躍が急増。連絡は革命党員で側近の温炳臣氏が担当。後朱貽柳氏に引継がれる。
養育費等孫文先生からの送金は生後二~三年以内で杜絶。」(註61)

孫文との出会いに関して、大月薫の残した回想は次の通り。

「私が十一くらいの時、横浜に大火があり、その時横浜全部が焼けて、家が無いので、父が輸出をやっており、その輸出先の方が、控えの家があるからいらっしゃいと言ってくださり、行ったのが孫文の二階でした。私達が二階、孫文が一階で、今のアパートのような大きな家でした。私は子供でいたずらでしたから、二階であばれて花瓶をひっくり返し、その花瓶の水が階下に落ちたんです。それが応接間で地図をひろげてみなさんで話をしている所へパチパチ落ちたんです。すると、孫文の部下の温炳臣(その時は温炳臣さんは知らなかったですけれど)が、二階に小言を言いに来たんです。それで謝りに行こうと言うんで、私は一緒について行った。それが初めてでした。そしたら、怒られるどころか、良い子だと言って珍しいお菓子―椰子の砂糖漬だの下さって、その時初めて会ったんです。」(註62)

辛亥革命の勃発もあり、孫文との連絡のとだえた大月薫は、娘の文子を宮川家に養女に出し、足利東光寺の実方元心と再婚、元信を産む。実方元信は、1955年布教のためにブラジルに渡り、強盗事件に遭遇して一命を落とす。足利鑁阿寺住職の山越仁世氏は、次のように回想している。「元心・元信の親子はホラ貝が上手。特に元心さんは名人で遠くまで良く響いた。鑁阿寺の節分には欠かせない助っ人だった。節分の季節が近づくと、毎年のようにお二人を思いだします。」(註63)

黄炎培に関する説明文中の「丸山福町二丁目」は先に引用した一文の通り、丸山福山町二番地の誤りだろう。なぜなら、黄炎培自身の証言により、そのことが分かるからである。

「二十一日,到神戸,乍能不記那時郷先輩陳平齋先生這樣仗義,這様好客,吾們郷先輩的做人眞不錯呀!國外有先生,国内還有先生斯盛.唉!我們的郷先輩。
當時出國的伯初,連我居然到今都還健在.而東京本鄉區丸山福山町二番地的東櫻館早沒有了.先生,先生都不得再見了!」(註64)

「神戸食客不名一钱,作客太久,不好意思。流连半月,去东京,寓东樱馆。展开活动,认识了不少新旧朋友。过从最密是刘三(季平)。刘三、仲修和我三人江戸寓楼雨坐联吟,尽诗韵十三覃,得九十六韵长句。来了几句:“春雷震醒群呓啽,笔砚焚尽书饱蟫。间关杖策走趁趁,男児气节慎勿媕。君不闻黄龙之酒醰醰。”那时意兴渐豪放了。无如旅费逐渐加大,很感支持下去。杨斯盛先生说明可以续汇,但三人个性都带孤傲,不肯多求。我曾人精华学校学习日文,准略留学,不久亦废。
留东京,歳暮了,祖国父老纷函促归。说载知县早已撤职,事情过去了。我们囊中仅存归国川费,三人无奈良,相偕归国。」(註65)

この「東櫻館」は、中国人がよく使う下宿のひとつであったらしい。それを証明する手がかりは、1906年に結成された「清国留学生第一回昆虫学講習会」の記録にある。

1896年、かつての昆虫大好き少年でギフチョウ(Luehdorfia japonica)を発見した昆虫学者・名和靖は、独力で岐阜市京町に名和昆虫研究所を開設。1907年には日露戦争の勝利記念に昆虫館を建設したいと考え、浅草四区に通俗教育昆虫館を開館する。このブームの中で、清国留学生の昆虫研究グループが組織されたのである。また、この背景には上海における務農會や『農學報』の活動の中で、いわゆる害虫や益虫等の昆虫学的知見が翻訳され、重要視されていたこと、博物学的絵画表現への遭遇が日本の地においてなされたこともあるだろう。
グループの中心となったのは、東京高等師範学校の理科教育者の棚橋源太郎で、日本における「博物館」を牽引した人物である。棚橋源太郎は、美濃国方県郡木田村南柿ヶ瀬(現・岐阜市)生れで、北方小学校から華陽学校時代を通じて、名和靖に博物学や農学を学び(註66)、東京高等師範学校を卒業後、名和靖の後任として岐阜県尋常師範学校教諭兼訓導を務めている。1917年から東京教育博物館の館長となるが、関東大震災による博物館全焼の後、退任している。(註67)嘉納治五郎も指摘していたことだが、博物館への予算配分の比重が圧倒的に低かったのであり、現在の国会図書館の前身となる図書館は東京府の運営でようやく存続、各種博物館も当時、廃絶の危機にあったのであり、民間ベースの博物館が簇生しようとしていた。博物館の独法化、公立図書館運営の民間委託が進む現状の先取りのような事態である。
また、棚橋源太郎は、東京高等師範学校訓導時代の1902年11月から、弘文書院において師範科教員として教科書編纂法を教えている。(註68)なお、原著に宏文学院とあるのは、嘉納治五郎の命名した「弘文学院」の「弘」字が乾隆帝の諱に触れるため、公式文書では避諱のため、最後の1画を缺画していたが、1906年に「宏文学院」の代字に改称したものである。(註69)

通俗教育昆虫館跡(浅草木馬館)

通俗教育昆虫館跡(浅草木馬館)

弘文学院の教授陣は、高橋強氏によれば、「嘉納【治五郎】は、講師の採用については大変力を入れ、多くの著名な学者と、新進気鋭の学者を揃えた。前者には、教育学の波多野貞之助、理科教授法の棚橋源太郎等があげられ、後者には、日本語教育の江口辰太郎、松本亀次郎等があげられる。」(註70)とされ、また、邵艶氏及び船寄俊雄氏は、次のように総括する。

「第1は、宏文学院は主に師範教育や初等・中等教育現場の事情に通暁する教員を招蒋したことである。教員任用の面からみると、短期的な教育を通じてすぐに教育現場に立てるような教員の育成が求められていた速成師範科の主旨に合致していたといえる。
第2は、教育理論研究の分野で活躍していた教員が多かったという面からみれば、その教育内容は当時の日本の教育界における新しい教育思潮を含んでいた可能性があることである。もちろん実際の教授においては、留日師範生たちが来日前に受けた教育の質や、言葉などの現実問題があり、通訳を通じて行われた授業の教育水準は、大きな制限をもっていたに違いない。しかし、これだけ充実した教員たちの陣容を考えると、その教育内容は当時の中国人留学生にとって決して低い水準のものではなかったと考えられる。」(註71)

魯迅が「ラジウムを論ず」の一文を書いて投稿したり(註72)、帰国して教壇に立った魯迅が、理科の実験で水素に火をつけてフラスコを爆発させたり、野外植物採集をしていたりするのも、この時の教育成果の影響であろう。引用は、兪芳の聴取った魯迅の思い出話である。

「また、別の時間、水素についての講義の時に、水素を燃やしてみせる実験をされました。大先生はフラスコに封入した純水素等の実験器具を持って教室までやって来て、マッチを忘れたことに気付き、すぐに職員室に取りに戻られました。先生は教室を離れる時、学生たちに対して、フラスコの中に決して空気を入れないこと、さもなければ点火した時にフラスコは爆発して危険だからと口頭で注意されました。大先生は教室に戻り、水素は自然燃焼はしないが点火して燃やすことはできると説明しながら実験開始、マッチを擦ると水素の入ったフラスコへ近づけ点火しました。「ポンッ!」の音とともに、瞬く間にフラスコは爆発しました。大先生の両手は破裂の衝撃で負傷し、噴き出た血が出席簿や教壇それに衣服の上にしたたり落ちました。」(註73)

浜町公園 清正公

浜町公園 清正公

 

※ 2015年7月17日、「貴臨館」の典拠に『最近東京名覽』を追加しました。ただし、同書は『東京便覽』と同一編者の手になるもので、『東京便覽』の改訂版と見られ、「貴臨館」については同じ記述内容。

※ 2015年8月19日、引用文中、原文の固有名詞を示す右傍線が再現できていなかったのを修正しました。本文章では、アンダーラインで表現しています。

※ 2017年10月8日、「黄一歐」の名の「歐」字をを、森鷗外の「鷗」に誤記していたのを訂正しました。

※ 2018年3月6日、漢詩一編が未訓読であったのを修正しました。

 


 

註1 「陈衡恪(1876-1923)」近现代书法サイトによる
註2 維基百科「張孝栘」
註3 益井康一「十六 華北の裁判」『漢奸裁判史1946‐1948[新版]』みすず書房 2009、구수미「장개석 국민정부의 ‘한간(漢奸)’재판」、김현숙(金炫淑)「금소영당(金素影堂)」サイトによる
註4 「陳衡恪遺詩(一)」劉經富主編『義寧陳氏文獻史料叢書・第一輯 陳衡恪詩文集』江西人民出版社 2009
註5 「電気ゆかりの地を訪ねてvol.28 集中発電所からの一括送電 浅草発電所」社団法人日本電気協会関東支部 2012
註6 「陳衡恪遺詩(一)」劉經富主編『義寧陳氏文獻史料叢書・第一輯 陳衡恪詩文集』江西人民出版社 2009
註7 池部義象「第三章 喜連川時代」『長岡雲海公傳 巻一』長岡護孝私家版 1914
註8 磯田道史「この人、その言葉 長岡護美」『朝日新聞』2010年8月21日朝刊 土曜版be、磯田道史『日本人の叡知』新潮新書414 新潮社 2011所収
註9 池部義象「第十五章 雜」『長岡雲海公傳 巻四』長岡護孝私家版 1914
註10 長岡護美『雲海詩鈔 卷下』『長岡雲海公傳附錄 巻四』所収、長岡護美『雲海詩鈔續編』『長岡雲海公傳附錄 巻五』所収、『清人詩草』『長岡雲海公傳附錄 巻六』所収、『清人書簡』『長岡雲海公傳附錄 巻六』所収、いずれも長岡護孝私家版 1914
註11 長岡護美『雲海詩鈔 卷下』『長岡雲海公傳附錄 巻四』所収長岡護孝私家版 1914、訓読に当っては、富士山の文学「富士山-言葉で描かれた「富士山」」富士山高所科学研究会サイトによる釈文を参照した、また他にも「登嶽」「登岳」題の詩作がある
註12 長岡護美『雲海詩鈔續編 卷下』『長岡雲海公傳附錄 巻五』所収長岡護孝私家版 1914
註13 柳沢芙美子「福井藩巣鴨下屋敷のリンゴをめぐって」『福井県文書館研究紀要』第7号 2010年3月
註14 諸洪一(제 홍일)「明治初期の朝鮮政策と江華島条約―宮本小一を中心に―」『札幌学院大学人文学会紀要』第81号 札幌学院大学人文学会 2007年3月7日
註15 柳沢芙美子「福井藩巣鴨下屋敷のリンゴをめぐって」『福井県文書館研究紀要』第7号 2010年3月
註16 長岡護美『雲海詩鈔續編 卷上』『長岡雲海公傳附錄 巻五』所収長岡護孝私家版 1914
註17 嚴修『第二次東遊日記』甲辰五月初四日(1904年6月17日)条、甲辰五月十九日(1904年6月27日)条、严修著『严修日记』南开大学出版社 2001(影印本)、严修撰 武安隆 刘玉敏点注『严修东游日记』天津人民出版社 1995、厳修「年不記陽暦8月27日(中暦7月17日)付長岡護美宛書簡」『清人書簡』『長岡雲海公傳附錄 巻六』所収 長岡護孝私家版 1914
註18 山岸荷葉「震災体験記」窪田吾郎『浜町史 下巻』私家版 1989による
註19 時雨(長谷川時雨)「日本橋-4-」『女人藝術』女人藝術創刊一週年記念七月號 女人藝術社 1929年7月1日、「大丸呉服店」『舊聞日本橋』岡倉書房 1935収録、初出により、ルビを適宜整理した
註20 小野良平「震災復興期に至る公園設計の史的展開について」『造園雑誌』第53巻第5号(平成2年度日本造園学会研究発表論文集8) 社団法人日本造園学会 1990年3月30日
註21 恒松郁生「ロンドンからアイルランドへの旅」熊本アイルランド協会における講演、2006年04月04日熊本アイルランド協会ブログサイト、講演は2005年
註22 長岡護美「萬國公法講義」華族會館における講演筆記、1989年「發會」時の分、池部義象「第十一章 元老院議官時代」『長岡雲海公傳 巻三』長岡護孝私家版 1914所収による
註23 長岡護美談話『史談【會】速記錄 未刊の部』、池部義象「第九章 洋行時代」『長岡雲海公傳 巻三』長岡護孝私家版 1914所収による
註24 嚴修『壬寅東遊日記 七月初七日至十月二十八日』壬寅八月初八日(1902年9月9日)条、严修著『严修日记』南开大学出版社 2001(影印本)による、原文に標点なし、严修撰 武安隆 刘玉敏点注『严修东游日记』天津人民出版社 1995を参考にするとともに同書により標点を付した
註25 「第十四章 旅館 ⦿神田區」津田利八郎編『東京便覽』明治協會 1906、「第十五章 旅館及料理店 ⦿神田區」津田利八郎『最近東京名覽』博信館 1907も同一内容
註26 石川啄木「「眠れる都」詞書」『あこがれ』 小田島書房 1905
註27 石川啄木「1904年11月8日本郷より 飯塚直彦、豊巻剛宛」、『啄木全集 第七巻 書簡』筑摩書房 1968による
註28 石川啄木「1904年11月〔日不詳〕神田より 秋浜市郎宛」、『啄木全集 第七巻 書簡』筑摩書房 1968による
註29 石川啄木「1908年1月30日釧路より 金田一京助宛」、『啄木全集 第七巻 書簡』筑摩書房 1968による
註30 青空文庫及び石川啄木「呼子と口笛篇」『啄木詩集』弘文社書店 1925による、初出は『創作』第二巻第七号 1911年7月1日
註31 嚴修『第二次東遊日記』甲辰四月十九日(1904年6月2日)条、严修著『严修日记』南开大学出版社 2001(影印本)、严修撰 武安隆 刘玉敏点注『严修东游日记』天津人民出版社 1995
註32 『清議報』第78號 光緒27年6月(1901年)、さねとうけいしゅう『増補版 中国人日本留学史』くろしお出版 1981年増補版第2刷による、増補版第1刷は1970
註33 北岡正子『魯迅 日本という異文化のなかで 弘文学院入学から「退学」事件まで』関西大学出版部 2001
註34 『清議報』第78號 光緒27年6月(1901年)、さねとうけいしゅう『増補版 中国人日本留学史』くろしお出版 1981年増補版第2刷による、増補版第1刷は1970
註35 柏原文太郎宛疆㭽書簡1917年10月1日 武田龍児「畿外侯疆㭽その他」『史學』第五〇巻記念号 三田史学会 1980年11月10日による、外務省宛フランス報告書「Prince Cuong Dê」1925年頃 武田龍児「畿外侯疆㭽その他」『史學』第五〇巻記念号 三田史学会 1980年11月10日による
註36 徳富蘇峰宛梁啓超書簡1899年頃 夏晓虹「追寻历史的踪迹 关西篇」による、譚璐美「帝都・東京を中国革命で歩く 第三回 頭をふるって顧みず、われは東へ行かん──梁啓超の悲しみ ―」白水社2013年9月5日
註37 『東京中央電話局電話番號簿(昭和4年10月1日現在)』中央区立図書館アーカイブスによる
註38 東亞商業學校「私立學校認可願」、「私立学校」『東京教育史資料大系 第八巻』東京都立教育研究所 1974所収
註39 鄧搏鵬『越南義烈史』振亞社(上海)印刷 成泰戊午年(1918)鄧搏鵬著 後藤均平訳「43黄君文紀」『越南義烈史 抗仏独立運動の死の記録』刀水歴史選書33 刀水書房 1993
註40 「明治四拾貮年三月尋常科卒業兒童 男」、後藤均平『日本のなかのベトナム』そしえて文庫42 そしえて 1979所収図版
註41 後藤均平『日本のなかのベトナム』そしえて文庫42 そしえて 1979
註42 後藤均平「銷夏二題」『史苑』第55巻1号 立教大学史学会 1994年10月、同論文の基となったのは、後藤均平「ふたりの黄興」『盈虚集』別冊 立教大学東洋史同学会 1992年3月とあるが未見、戴国煇「「ふたりの黄興」から」『史苑』第54巻1号 立教大学史学会 1993年12月によれば、礫川小学校卒業生名簿と偽名工作の可能性に関する最初の言及は、「第二章 明治後期と近代教育の整備(明治一九年~同四五年)第五節 明治後期の学校教育 四、学校生活と子ども アジアからの留学生」『文京区教育史―学制百十年の歩み』東京都文京区教育委員会 1983年3月である
註43 「第二章 明治後期と近代教育の整備(明治一九年~同四五年)第五節 明治後期の学校教育 四、学校生活と子ども アジアからの留学生」『文京区教育史―学制百十年の歩み』東京都文京区教育委員会 1983年3月、戴国煇「「ふたりの黄興」から」『史苑』第54巻1号 立教大学史学会 1993年12月によれば、同コラムの著者は金沢巌で元礫川小学校校長という
註44 「沿革」文京区立礫川小学校サイト
註45 原不二夫「中国の民族主義者に嫁した日本人女性とマラヤ」『南山大学アジア・太平洋研究センター報』第3号 南山大学アジア・太平洋研究センター 2008年3月31日
註46 鄧搏鵬『越南義烈史』振亞社(上海)印刷 成泰戊午年(1918)鄧搏鵬著 後藤均平訳「43黄君文紀」『越南義烈史 抗仏独立運動の死の記録』刀水歴史選書33 刀水書房 1993、同書解説によれば当時のヴェトナムは啓定帝(Khải Ðịnh)の代であるが、フランスの傀儡であった啓定帝を認めず、当時インド洋上のレユニオン島(La Réunion)に配流中の成泰帝(Thành Thái)の年号を出版年紀に用いたのであるという
註47 「Tri Thức Việt ―Hoàng Văn Kỷ」Cồ Việtサイト
註48 鄧搏鵬著 後藤均平訳「43黄君文紀」『越南義烈史 抗仏独立運動の死の記録』刀水歴史選書33 刀水書房 1993、漢詩の訓読は肝冷斎主人「肝冷斎日録」に従った
註49 張澤崇「日本における華僑学校の現状(その1)」『教養諸學研究』第118号 早稲田大學政經學部教養諸學研究會 2005年4月27日
註50 森達也『ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー』角川書店 2003
註51 十三夜「支那西洋御料理目錄」文京ふるさと歴史館蔵、『平成13年度学習企画展 暮らしのなかの商店―文京買物事情―』図録 文京ふるさと歴史館 2002、「平成20年度特別展 食文化展に向けて―博物館は食文化資料の宝庫―」『文京ふるさと歴史館だより』第15号 文京ふるさと歴史館 2008年6月1日、文京ふるさと歴史館編『平成20年度特別展 博物館で見る―ぶんきょう食の文化展―』図録 文京区 2008年10月25日
註52 「平成20年度特別展 食文化展に向けて―博物館は食文化資料の宝庫―」『文京ふるさと歴史館だより』第15号 文京ふるさと歴史館 2008年6月1日
註53 木谷佐一『番地入信用案内 大日本職業別明細圖之内 小石川區』東京交通社 1928、『昭和前期日本商工地図集成 第1期(東京・神奈川・千葉・埼玉)』柏書房 1987による
註54 『小石川西洋料理組合員名簿』小石川西洋料理組合 1934年5月、文京ふるさと歴史館編『平成20年度特別展 博物館で見る―ぶんきょう食の文化展―』図録 文京区 2008年10月25日所収写真図版による
註55 鷄(拼音jī 紹興語ci平/1 広東語gai1)を「カイ」、肉(拼音ròu 紹興語nyoh入/4 広東語juk6)を「ヨツ(ヨッ)」、蟹(拼音xiè 紹興語ha上/2 広東語haai5)を「ハイ」「ハー」と読むなど、メニューの全ての発音は広東語とみて問題はない、音価は漢典データベース及び吴音小字典データベースによる、また福冨奈津子『中国料理小辞典 ピンインからも画数からも引ける』柴田書店 2011を参照した
註56 内外映畫事業調査硏究所市川彩『第四囘日本映畫事業總覽 昭和5年版』國際映畫通信社發行 東京堂發賣 1930
註57 「第IV章 近代娯楽の殿堂―今はなき映画館・寄席・劇場 1文京区にあった映画館」文京ふるさと歴史館編集『平成8年度特別展図録 本郷座の時代―記憶のなかの劇場・映画館―』文京区教育委員会 1996
註58 柴志光「辛亥革命前的浦东」唐国良编『辛亥革命中的浦东人』上海社会科学院出版社 2011、浦东史志サイトによる
註59 龙鸿彬「致力于社会改良的顾冰一」唐国良编『辛亥革命中的浦东人』上海社会科学院出版社 2011、浦东史志サイトによる
註60 陳錫祺主編『孫中山年譜長編 上册』中華書局 1991
註61 宮川東一「訂正」『孫文の日本に残された娘と孫』商業界 2008
註62 実方薫談・三国浄心録音 松本武彦復元「孫文に関する回顧談」1960年代初め頃、久保田文次「第四部 孫文の日本人同志 第九章 孫文と大月薫・宮川冨美子」『孫文・辛亥革命と日本人』汲古書院 2011による、初出は『孫文研究』47号 2007
註63 三浦千里「ある女性の過去II:薫さんと開教師元信さん」『足利文林』15号 1984、久保田文次「第四部 孫文の日本人同志 第九章 孫文と大月薫・宮川冨美子」『孫文・辛亥革命と日本人』汲古書院 2011による、初出は『孫文研究』47号 2007
註64 黄炎培「【十六】」『黄海環遊記』生活書店 1932,初出は『申報』1931年5月2日‐6月10日連載
註65 黄炎培『八十年来――黄炎培自述』文汇出版社 2000
註66 矢島國雄「棚橋源太郎とその博物館学(1)」『Museum study 明治大学学芸員養成課程紀要』第20号 明治大学学芸員養成課程 2009年3月26日
註67 福田珠己「棚橋源太郎の博物館論と郷土の具体化」科学研究費基盤研究(B)編集「公共性とガバナンスからみた近・現代社会の空間編成に関する研究」『空間・社会・地理思想』第 14 号 九州大学大学院人文科学研究院地理学講座 2011 年3 月25 日
註68 邵艶 船寄俊雄「清朝末期における留日師範生の教育実態に関する研究―宏文学院と東京高等師範学校を中心に― A Study on the Education Condition of Chinese Nomal School Students in Japan in 1890’S~1900」『神戸大学発達科学部研究紀要』第10巻第2号 神戸大学発達科学部2003
註69 1906年1月15日付東京府知事宛關順一郎「御届」、東京府知事宛牛込區長進達「第二八號」1906年1月16日、文部大臣宛東京府知事報告「二乙一一一號」1906年1月17日受出、北岡正子『魯迅 日本という異文化のなかで 弘文学院入学から「退学」事件まで』関西大学出版部 2001による
註70 高橋強「孫中山と中国留日学生―弘文学院を通して―」『創大中国論集』第4号 創価大学 2001年3月
註71 邵艶 船寄俊雄「清朝末期における留日師範生の教育実態に関する研究―宏文学院と東京高等師範学校を中心に― A Study on the Education Condition of Chinese Nomal School Students in Japan in 1890’S~1900」『神戸大学発達科学部研究紀要』第10巻第2号 神戸大学発達科学部2003
註72 自樹(魯迅)「説鈤」『浙江潮』月刊第8期 1903年10月1日
註73 兪芳「我记忆中的鲁迅先生」『我记忆中的鲁迅先生』浙江人民出版社 1981、秋吉收訳「(翻訳)兪芳著『我記憶中的魯迅先生』」『言語科学』第42号 九州大学大学院言語文化研究所言語研究会 2007年3月31日

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