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魯迅と日暮里(17)帝国のフロンティアの拡大(3)蛍の光が歌えない

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帝国の伸張を如実に示す1つの歌がある。卒業式の定番だった「蛍の光」である。
「蛍の光」は、最初に小学唱歌として発表された時には、現在では歌われなくなった3、4番があり、その内容が変更されていったことを、その昔に母から教わった。調べると、その歌詞は次のようなものである。タイトルも当初は「螢」であった。原文の変体仮名は原字で起し、釈文をつける。

『小學唱歌集 初編』第二十 蛍 国立国会図書館蔵による

『小學唱歌集 初編』第二十 蛍 国立国会図書館蔵による

「第二十 螢
一 ほ多る能ひ可り。ま登゛のゆき      蛍の光 窓の雪
  書(ふミ)よむつき日。かさねつゝ。    ふみ読む月日 重ねつつ
  い津し可年も。寿起゛のとを。       いつしか年も すぎの戸を
  あけてぞけさは。わ可連ゆく。       あけてぞ今朝は 別れゆく
二 とまるもゆくも。かぎりとて。        止まるもゆくも 限りとて
  か多み耳お茂ふ。ちよろづの。      かたみに思ふ ちよろづの
  こゝろのはしを。ひ登古と耳。       心のはしを 一言に
  さきく登者゛可り。うたふなり。       幸きくとばかり 歌ふなり
三 津くし能きはみ。ミち能おく。       筑紫の極み 道の奥
  うみやまと不く。へ多゛つとも。      海山遠く 隔つとも
  そのまごゝろ者。へ多゛てなく。      その真心は 隔てなく
  ひとつ耳徒くせ。く尓の多免。      一つに尽せ 国のため
四 千島(ちしま)のおくも。おきな者も。  千島の奥も 沖縄も
  やしまのうちの。まもりなり。        八島の内の 守りなり
  い多らんくに耳。いさをしく。       至らん国に 勲しく
  徒と免よわ可゛せ。徒つ可゛なく。    務めよ我がせ 恙なく」(註1)

九州から東北まで、江戸期以来の伝統的な「日本」の領域を3番で歌い、4番では、近代以降に日本の植民地となった北海道、千島と沖縄を「やしまのうち」として理解するものである。中西光雄氏はこの構造を「第四曲(四番)の歌い出し「千島のおくも 沖縄も」は、第三曲(三番)の歌い出し「筑紫のきわみ みちのおく」と明らかに対照させた表現であるが、この構成には、三番で旧来の日本の版図を、四番で最近植民地化した地域を含む帝国日本の版図を遠近法で示そうという意図が見える」と的確に解説している。(註2)

ヤシマ(八島、八洲)とは日本古代神話の観念による「日本」の領域である。『日本書紀』『古事記』に示された諸説によって、数えられている島の種類は異なる。

代表的な説話として『古事記』及び『日本書紀』本文によるクニウミの様相を確認しよう。『日本書紀』は正格の漢文、『古事記』は破格の漢文である。ただし訓読しても読みにくさには変わりはないので、そのまま引用する。『古事記』は最古の写本である真福寺本が原本、『日本書紀』の原本は寛文九年版本である。
まずは『古事記』の記述。

「如此之期、乃詔、汝者自右廻逢。我者自左廻逢。約竟以廻時、伊耶那美命先言阿那迩夜志、愛〔上〕袁登古袁。〔此十字以音。下效此。〕後伊耶那岐命言阿那迩夜志、愛〔上〕袁登売袁。各言竟之後、告其妹曰、女人先言、不良。雖然、久美度迩〔此四字以音。〕興而生子、水蛭子。此子者入葦船而流去。次生淡嶋。是亦不入子之例。
於是、二柱神議云、今吾所生之子、不良。猶宜白天神之御所、即共参上、請天神之命、尒、天神之命以、布斗麻迩尒〔上〕〔此五字以音。〕ト相而詔之、因女先言而不良。亦還降改言。故尒、返降、更往廻其天之御柱如先。
於是、伊耶那岐命、先言阿那迩夜志、愛袁登賣袁。後妹伊耶那美命、言阿那迩夜志愛袁登古袁。如此言竟而、御合生子、淡道之穂之狭別嶋【淡路島】。〔訓別云和気、下效此。〕次生伊予之二名嶋【四国】。此嶋者、身一而有面四。毎面有名。故、伊予国謂愛〔上〕比売、〔此三字以音。下效此也。〕讚岐国謂飯依比古、粟国謂大宜都比売、〔此四字以音。〕土左国謂建依別。次、生隠岐之三子嶋【隠岐の島】。亦名天之忍許呂別。〔許呂二字以音。〕次、生筑紫嶋【九州】。此嶋亦、身一而有面四。毎面有名。故、筑紫国謂白日別、豊国謂豊日別、肥国謂建日向日豊久士比泥別、〔自久至泥以音。〕熊曾国謂建日別。〔曾字以音。〕次、生伊岐嶋【壱岐】。亦名謂天比登都柱。〔自比至都以音。訓天如天。〕次、生津嶋【対馬】。亦名謂天之狭手依比売。次、生佐度嶋【佐渡】。次、生大倭豊秋津嶋【ヤマト】、亦名謂天御虚空豊秋津根別。故、因此八嶋先所生、謂大八嶋国。
然後、還坐之時、生吉備児嶋。亦名謂建日方別。次、生小豆嶋。亦名謂大野手〔上〕比売。次、生大嶋。亦名謂大多麻〔上〕流別。〔自多至流以音。〕次、生女嶋。亦名謂天一根。〔訓天如天。〕次、生知訶嶋。亦名謂天之忍男。次、生両児嶋。亦名謂天両屋。〔自吉備兒嶋至天両屋嶋、幷六嶋。〕」(註3)

続いて『日本書紀』本文の記述。

「伊弉諾尊・伊弉冉尊、立於天浮橋之上、共計曰、底下、豈無国歟、廼以天之瓊〔瓊、玉也。此云努。〕矛、指下而探之、是獲滄溟。其矛鋒滴瀝之潮、凝成一嶋、名之曰磤馭慮嶋。二神於是降居彼嶋、因欲共為夫婦、産生洲国。便以磤馭慮嶋爲國中之柱、〔柱、此云美簸旨邏〕而陽神左旋、陰神右旋、分巡国柱、同会一面。時陰神先唱曰、憙哉、遇可美少男焉。〔少男、此云烏等孤。〕陽神不悅曰、吾是男子、理当先唱。如何婦人反先言乎。事既不祥、宜以改旋。於是、二神却更相遇。是行也陽神先唱曰、憙哉、遇可美少女焉。〔少女、此云烏等咩。〕因問陰神曰、汝身有何成耶。対曰、吾身有一雌元之処。陽神曰、吾身亦有雄元之処。思欲以吾身元処、合汝身之元処。於是陰陽始遘合為夫婦。
及至産時、先以淡路洲為胞。意所不快、故名之曰淡路洲。廼生大日本〔日本此云耶麻騰。下皆効此〕豊秋津洲。次生伊予二名洲。次生筑紫洲。次双生億岐洲与佐度洲、世人或有双生者、象此也。次生越洲。次生大洲。次生吉備子洲。由是始起大八洲国之号焉。即対馬嶋・壱岐嶋及処処小嶋、皆是潮沫凝成者矣。亦曰水沫凝而成也。」(註4)

森浩一によれば、『日本書紀』を見ると、北陸地方を指す「コシノシマ(越洲)」を別のシマと見ており、オホヤマトトヨアキヅシマ(大倭豊秋津嶋、大日本豊秋津洲)を現在の本州島と同一視することはできないため、ヤシマ及び付属島嶼は、明らかに西日本に偏倚しているという。この領域感覚は、神話世界のそれというよりは、律令体制における国土感に規定されたものである。それを証明するのは、『延喜式 陰陽寮』に収載された疫鬼払い=エクソシスムの咒詞に現われた境界感覚である。(註5)

「千里之外。四方之堺。東方陸奧。西方遠値嘉。南方土佐。北方佐渡與里」(註6)

さて、「蛍の光」の原歌詞は別のものであった。この時点ではタイトルはない。

「第十二図 唱歌
  文部省音楽取調掛
  明治十三(一八八〇)年十二月二十日提出
第一曲
蛍のあかり 雪のまど
ふみよむ日数 かさねつゝ
いつしかとしも すぎのとを
あけてぞ今朝は わかれゆく

第二曲
とまるもゆくも かぎりとて
かたみにくだく ちよろづの
こころのはしを ひとことに
さきくとばかり うたふなり

第三曲
つくしのきはみ みちのおく
わかるゝみちは かはるとも
かはらぬこゝろ ゆきかよひ
ひとつにつくせ くにのため

第四曲
千島のおくも おきなわも
やしまのそとの まもりなり
いたらんくにに いさをしく
つとめよわがせ つつみなく」(註7)

『唱歌掛圖 初編』表紙『音楽教育成立への軌跡』より

『唱歌掛圖 初編』表紙『音楽教育成立への軌跡』より

「八島の内の守り」のフレーズが、原詞「八島の外の守り」から変更されたものであるのが分かる。これは、国家的検閲の最終段階で文部省普通学務局からクレームがついたことによる。それは、「千島も琉球も日本ノ外藩ナリといふ意ならん果して然らば事実上甚穏当ならず」というものだった。(註8)

中西光雄氏によれば、「高圧的に修正を要求して成立」させたのは、文部省普通学務局長の辻新次である。(註9)また、この歌詞変更については、国境防衛における「ウチ」と「ソト」をめぐる議論があるのだが、それについては山住正己、中西光雄両氏の著書に当られたい。結論だけ述べると、新しく境界に設定された沖縄が、日本の「ソト」からの防衛最前線でもあり、日本の「ウチ」を守るための捨て駒であったことは、第2次世界大戦末期の地上戦の舞台となったこと、戦後米軍の支配に引き渡されたこと、そして現在の地位を見れば明らかだろう。
また、日清戦争及び日露戦争に基づく国境の拡張によって、原歌詞は以下のように変更される。

「第十二 螢の光
【(一)、(二)略】
(三)つくしのきはみ陸の奥  海山遠くへだつとも
   その眞心はへだてなく  ひとつにつくせ國のため

(四)台灣の果も樺太も    やしまのうちのまもりなり
   いたらん國にいさをしく つとめよわがせ恙なく」(註10)

新政府は、明治初期に西洋音楽の性急な移植を試みているのだが、その原因は、日本における音楽と音楽家に対する差別観とその社会的地位によるものであった。1887年2月15日、「上野公園内文部省總務局所屬音樂取調掛尓於て卒業證書授與式幷尓音樂演習會」が催された。「管弦樂」「洋琴」「唱歌」と続くが、唱歌の最初は「君が代」、そして「音樂演習會」の掉尾を飾ったのが「ほたる」である。現在につながる卒業式の原型がこの時に完成している。(註11)問題は、このあとに行なわれた「音樂取調掛主幹神津專三郎君の報告」である。

「本日卒業の生徒尓關する學事の一斑ハ先つ上述する可如し是より當尓卒業生諸氏尓望む所を一言すへし蓋し諸氏ハ今日を以て此處を去り社會尓立て音樂者と稱する尓至ては宜しく先つ我邦の社會と我邦の音樂者との關係を詳尓せさるへからす即ち我邦從來の社會ハ音樂を以て酒宴遊興を相くるの具と爲し音樂を以て貴重奈る光陰を徒消し貴重奈る財寶を徒費するの具と爲す尓すきす甚たしきに至てハ淫欲を培養するの具と爲す尓至れりまた樂師が其音樂を勤むるの目的とする所も音樂をして此數件の用具と爲すの利用を長せしむる尓すきす是を以て樂曲の製作益〻猥褻尓流れ律呂の施行益〻淫聲を成す尓至りしハ勢の自然奈り故尓樂師ハ社會最下の位地を占め社會最賤の待遇を享くる者尓して其情恰も社會ハ樂師の集合主人尓して樂師ハ社會の共同奴隷の如し」(註12)

原文はまだまだ続くのだが、凄まじいまでの音楽家としての自己規定が開陳されている。しかもこの式典にはオーストリア公使、フランス公使も招かれているのに、である。明治も20年を過ぎているにもかかわらず、この有様なのである。また、文中に「淫欲」「猥褻」と決めつけられたエンタテインメント、あるいはもっと簡単に「楽しみ」というものが、いかに学校教育の敵であったかをまざまざと見せつけている。また、前近代的な卑賤感も開示されているが、天皇や貴族という「貴」の存在する社会にあっては、「賤」の本質的解決が指向されていなかったことも明らかにする。

今日いうところの文科系官僚によって統制された官僚的教育社会にあって、体育や音楽、美術といった課目がどのように成立していったのだろうか。自身がアスリートであった嘉納治五郎の体育教育観とスポーツ観については、いずれ触れる機会がある。ただし、体育教育については強健な身体を形成するという個人的契機を通じて、国民体位の向上、国民的健康状態の改善という大義名分を早期から発見することができた。しかし、本質的に楽しみを主要な内容とする音楽についてはどうだっただろう。

それについては、山住正己が具体的言説を取り上げて紹介している。歌うことの目的に、まず、愛国心の醸成というテーマが語られている。原典を引く。

「人ノ幼稚ニシテ父母ノ家ヲ愛慕シ生國ヲ懷思スルハ其家國ノ習慣ヨリ發スル自然ノ情ナリト雖愛國心ハ亦自ラ別物ニシテ全ク想像ノ感覚ヨリ起ル此感情ヲ發セシメント欲セハ兒童ノ時ニ於テセサルヘカラス其コレヲ教フルハ學校ニ若クモノナシ何トナレハ學校ハ人ノ設立シタル一會社ナルヲ以テ社中ノ人ハ必同一ノ性質同一ノ品行ヲ發成スルニ因ル殊ニ區内ノ學校ハ夫ノ父母ノ家ト本國トノ中間ニ在リテ人ノ爲ニ一ノ緊要ナル社中ナレハ則チ夫ノ同一ノ性質同一ノ品行ハ其小學校ニ於テ之ヲ育成シ退校ノ後ハ更ニ開明ナル人民世界ニ進入シテ其性質品行ヲシテ益高尚ナラシムヘシ」(註13)

「何レノ國ニ於テモ豪傑ノ士ト稱ス可キモノ有ラサルハナシ有レハ則其人ヲ稱讚スルノ詩歌アルヘシ是等ノ歌ハ志氣ヲ作興シ心思ヲ振起スルモノニシテ兒童ノ好ヲ學ハント欲スル所ナリ又此歌ノ作ル所以ノ記傳ヲ説話スレハ更ニ一層ノ感覺心ヲ起サシム故ニ其歴史上ニ關スルノ日ニ至リテハ必是等ノ歌ヲ謠ハシム可シ」(註14)

続いては、女子教育における効用である。

「【唱歌は】女子ノ言語ヲ正クシ且其風教ヲ増進ス元来女子ノ性質ハ軽浮ナル者ニシテ専ラ華飾ヲ好ムヨリ或ハ漸ク其心性ヲ蘯逸シテ怠惰淫癖ニ陥ラシムルノ僻アリ幼ヨリ之ヲ教ヘテ軽浮ノ気象ニ克タシムベシ」(註15)

「軽浮」「華飾」「蘯逸」「怠惰」「淫癖」と、なんだかよく分らなくとも、破壊力のある蔑みのコトバが並んでいる。こわいなあ。自民党の武藤貴也氏のツィート「SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。」に匹敵するパワーがあるように思う。(註16)でも、だって戦争は憲法で禁じられてるじゃん。

当時の官僚たちも、子どもたちや女子が、歌を歌うことが「好」という、エンタテインメントとしての本質的部分は理解しているようだし、アメリカに留学した伊沢修二、目賀田種太郎が音楽教育を学んで帰国。2人の留学は1875年7月18日、横浜を出帆して渡米、8月26日にアメリカに到着。翌年、音楽教育家で、日本の音楽教育の父となったルーサー・ホワイティング・メーソン(Luther Whiting Mason)に出会っている。(註17)帰国した伊沢修二は教育現場で唱歌学習を開始している。それでもなお、言語を正しくするとか、愛国心を外部注入するとか、リズムやメロディ等の音楽の主要な要素を捨象したところで論じているのだから、本質的な議論ではありえず、反則である。そして当時の文部官僚には、音楽方面の素養はなく、唱歌策定の初期の議論は歌詞のみを巡って争われている。しかも当時、唱歌教育が導入されたのはアメリカからであり、「蛍の光」のメロディも、アメリカのポピュラー・ミュージックの起源の1つであるスコットランド(ゲール語Alba、スコットランド語Scotland)民謡である。原曲「Auld Lang Syne」はスコットランドの非公式な国歌(unofficial Scottish anthems)の1つであり、1972年までモルディブ共和国(ދިވެހިރާއްޖޭގެ ޖުމްހޫރިއްޔާ)の国歌でもあった。また、「Auld Lang Syne」はスコットランド語で、直訳は「old long since」、イディオムとしては「long long ago」、「days gone by」あるいは「old times」を意味している。(註18)日本の昔話の冒頭の定型句「むかしむかし」に相当する語である。
2014年9月18日、スコットランドの独立をめぐって実施された住民投票では、賛成44.7%、反対55.3%(投票率84.59%、有効投票99.91%)で惜敗に終わったが、沖縄の今後の運命にかんして、1つのありかたを示唆している。

「君が代」は、本来は「酒宴遊興」の席で、目前にする貴人「キミ」にたいする「コトホギ」の呪術的効果を期待した歌謡(賀歌)であったのが、「オホキミ」個人を対象にして、地質学的年代を超えて天皇制が存在しつづけるように祈念する和歌に変質していく。その変質した歌詞を明治政府にもたらしたのは薩摩藩士であったらしい。大山巌であったとする説もある。(註19)

『小學唱歌集 初編』第二十三 君可゛代 国立国会図書館蔵による

『小學唱歌集 初編』第二十三 君可゛代 国立国会図書館蔵による

現在は法律によってその歌詞が固定されている「君が代」であるが、最初期の歌詞は、現在の歌詞とは異なっていた。楽譜を見ていただければ、現在とは別のウタであったことも分かるだろう。

「   第二十三 君可゛代
一 君可゛代者。ちよにやちよに。        君が代は 千代に八千代に
  さゞれいしの。巖(い者不)となりて。     さざれ石の 巌となりて
  古けのむ須までうご起なく。          苔のむすまで 動きなく
  常磐(ときハ)かきは尓。かぎりもあらじ。   常磐堅磐(ときはかきは)に 限りもあらじ

二 きみ可゛代ハ。千尋(ちひろ)の底能    君が代は 千尋の底の
  さゞ連いし能鵜(う)のゐる礒(いそ)と。   さざれ石の鵜のいる磯と
  あらハるゝまで。かぎりなき。          現はるるまで 限りなき
  みよの栄(さ可え)を。ほぎ堂てまつ累。   御代の栄えを 祝ぎたてまつる」(註20)

その歌詞はわれわれの知るものではなく、2番があったのも驚きである。数多く出版された『唱歌集』において現在の歌詞に落ち着くのは、市川八十吉の編集した『幼稚園唱歌』においてである。『小学唱歌集』が実際は1884年の出版であるので、その2年後のことである。ただし、タイトルは「君が代」ではなく「さヽれ石」というものであった。中西光雄氏によれば、唱歌のタイトルには、歌題(テーマ)によるものと、歌い出しの一節を用いたものの2つの命名機序が存在しており、この歌を「君が代」とネーミングする後者の方法は、キリスト教の讃美歌のタイトルにおける命名法によっていることになる。(註21)訳が分からないのである。

「 さヽれ石
君かよハ。ちよにやちよに。さヾれいしの。いハほとなりてこけのむすまで。」(註22)

ただし、小学唱歌集出版の4年後には、3番まで増殖したヴァージョンも発生した。

「   第六 君(きみ)可代(よ)
一 君(きみ)可゛代(よ)者。         君が代は
  千代(ちよ)尓八千代(やちよ)耳。  千代に八千代に
  佐ゞ連石の。                さざれ石の
  巖(い者不)とな里て。          巌となりて
  古け能む壽まで。             苔のむすまで

二 君可゛代者。               君が代は
  ち飛ろの底(そこ)の。         千尋の底の
  佐ゞれいし能               さざれ石の
  鵜(う)の居(ゐ)る磯(いそ)と。    鵜のいる磯と
  現(あら)者るゝまで。          現はるるまで

三 きみ可゛代ハ。             君が代は
  千代ともさゝじ。             千代とも指さじ
  天(あま)の戸(と)や。         天の戸や
  いづる月日(つきひ)の。       出づる月日の
  可ぎ里な介連ば。           限りなければ」(註23)

3番は『古今和歌集』の和歌から採られている。『倭漢朗詠集』の1写本に起源があり、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」から直接に採集された1番の歌詞より起源が古いのである。薩摩琵琶歌の歌詞古本によれば、次の通り。

「  蓬萊山
目出度やな君がめぐみは久方の、光り長閑(ノド)けき春の日に不老門を立出で四方(ヨモ)の氣色を詠むれバ峯の小松に雛鶴住みて谷の小川に龜遊ぶ千代に八千代にさゞれ石のい者不【いはほ】と成りて苔のむすまで命ながらへ雨土ぐれを破らじ風枝を鳴らさじといへば又堯舜の御代も斯くあらん、か不ど治まる御代なれバ千草萬木五穀成就して上には金殿樓閣のいらかを並べ下には民のかまどを厚くして仁義正しき御代のなれバ蓬萊山とは是とかや君が代の千歳の松も常磐色替らぬ御代の例(タメ)しには天長(テンチヨウ)地久と國も豐に治まりて弓は袋に劔は箱に納めおく諫鼓(カンコ)苔深うして鳥も中々おどろく樣ぞなし」(註24)

元が俗謡(フォーク・ソング)なので、めでたい感はあるが荘重感は皆無である。それでもこれが国歌になったのであれば2階級特進といってよいだろう。ただし原曲は、のちに支配的になる国粋主義的思想が顕著というわけでなく、日本の伝統的思想において、古代東アジアの文化を引き継ぐものとして「蓬萊山」とか「堯舜」とかの中国神話による修飾をもってコトホギの詞としているのには注意すべきである。また「雛鶴」の語で思い出されるのが、『宴遊日記』に記載されている、柳沢信鴻が六義園でツルの雛が巣立ちした際にお祝いを上屋敷に贈った記事のことである。(註25)じつは、東アジア的紐帯をうかがわせる日本の伝統は明治期に切断され、新たに創作された「神道」と国家主義によって置換されているのである。

そして、「君が代」には、別々に作曲された3つのメロディがあり、単一のメロディやリズムと結合していたわけでなく、2番目のリメーク・ソングであった。最初に1869年、アイルランド(Éire)生れの少年鼓手兵で軍楽隊長にまで昇進したジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton)による作曲。次いで1880年、海軍省が宮内省に依頼、宮内省式部寮雅楽課で作成された現行曲。3曲目は、先に見た文部省音楽取調掛による作曲である。(註26)
雅楽は西洋音楽に対抗する日本古来の音楽「國樂」として位置付けられたのであるが、それ自体が古代中国の音楽であることは敢えて顧みられてはいない。細々と保存されてきた雅楽であるが、その主要な楽器の1つ篳篥(ひちりき)のリード「蘆舌(ろぜつ)」の素材であるヨシの特異的産地、鵜殿のヨシ原を横断する新名神高速道路の建設が計画されており、伝統的音楽の継承にとって深刻な危機を迎えている。(註27)これは2012年、民主党の野田佳彦政権下に、前田武志国土交通大臣が高速道路建設凍結解除を表明し、事業許可が下りたことによるものである。
「君が代」は元来は海軍の式典に天皇を迎える際の演奏曲として用いられ(陸軍では別曲が演奏された)、ついで祝日大祭日儀式の歌となったが、国歌になったのは1999年8月13日のことであり、たかだか16年にしかならないこと。最後に「君が代」の歌詞が、国民主権を根幹に据える日本国憲法の精神に合致しないこと。これらのことは忘れてはならないだろう。

もう1つ、意識からそれてしまっているが、実際に蛍が光を放って飛ぶのは夏である。実は、「蛍の光」が作られたころ、学年の終りは、欧米諸国と同様に夏の季節であった。学年の終りと卒業式が春に変更されたために、「桜」がもうひとつの自然的な修飾要素として急速に浮上し、人々の学校式典のイメージは「サクラ」に完全に囚われてしまうことになる。一方「蛍の光」に関して形成されたイメージは、日本放送協会による紅白歌合戦のフィナーレ、そして東京オリンピックの閉会式で演奏されたことによる名残を惜しみつつ終りを迎えるイメージである。「君が代」が大相撲の千秋楽の全取組終了後に演奏される音楽として、名残をおしむ「お相撲の歌」であったのと好一対である。

中西光雄氏の著書のオープニングで印象的に取り扱われているのが、『日刊スポーツ』に掲載された北杜夫による東京オリンピック閉会式の印象を書いた一文である。(註28)

「いっせいにともった炬火の美しい動きの中で、「蛍の光」がながれる。すべては終わった。日本としてはずいぶん背のびしたオリンピックにはちがいなかったが、ちょっと恥ずかしくなるくらい見事に終った。」(註29)

しかし、実は『日刊スポーツ』の当該紙には2人の「作家」が並んで寄稿している。
1人は、上に引用した斎藤茂吉の2男で精神科医の北杜夫。いま1人は、三島由紀夫のようになろうとしてなれなくて、作家ですらなくなった石原慎太郎氏である。
石原慎太郎氏の寄稿には、次のような感動的な語句がある。

「予期していた別離の感傷はなかった。これほど美しい別れがあったろうか。闘い終えた人間たちの表情はみな底ぬけに明るかった。
この別離は、そのまま再会につながるのだ。人間が魔につかれて愚かな戦争を起さぬ限り、人間の美と力と尊厳の祭典は所を変え、きり無くくり返されていく筈なのだ。
聖火は消えず、ただ移りいくのみである。この祭典は我々に、人間がかくもそれぞれ異り、またかくも、それぞれが同じかと言うことを教えてくれた。
この真理が何故に政治などと言う愚かしいエネルギーの前に押し切られるのであろうか。」(註30)

強引に戦争への道を開こうとし、オリンピックをアスリートの祭典ではなく、政治と金儲けの道具としている「魔につかれ」た自民党議員を含む全国会議員、そしてひょっとしたら忘れてしまっているであろうご本人にも読んでほしい名文である。

「神宮第二球場側から見た解体状況 後方に新宿副都心が見える」2015年6月13日江戸村のとくぞう氏撮影 wikipediaによる

「神宮第二球場側から見た解体状況 後方に新宿副都心が見える」2015年6月13日江戸村のとくぞう氏撮影 wikipediaによる

魯迅の物語とはいささか逸れるのを思いながら、亡母の昔語りを思いだしたので、終戦記念日でもあり、この一文を挿入した。

 


 

註1 「第二十 螢」文部省音樂取調掛編纂『小學唱歌集 初編』文部省藏版 1881出版届、1884年出版
註2 中西光雄『「蛍の光」と稲垣千頴―国民的唱歌の作詞者の数奇な運命―』ぎょうせい 2012
註3 『古事記 上巻』712序、石母田正 岡田精司 佐伯有清 小林芳規校注「上巻」青木和夫 石母田正 小林芳規 佐伯有清『古事記』日本古典思想大系1 岩波書店 1982による
註4 『日本書紀 巻第一 神代 上』720成立、小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守校注・訳『日本書紀➀巻第一神代[上]~巻第十 応神天皇』新編日本古典文学全集2 小学館 1994による
註5 森浩一「第1章 国生み物語と海上交通」『日本神話の考古学』朝日文庫も10‐1 朝日新聞社 1999、初出は『月刊Asahi』4巻1号 朝日新聞社 1992年1月1日と思われるが未見
註6 「延喜式 卷十六 陰陽寮 儺祭祈」延長5年12月26日(ユリウス暦928年1月21日)後書、正宗敦夫編纂『延喜式 第三』日本古典全集第一回 日本古典全集刊行會 1928再版、初刷も同年による
註7 中西光雄『「蛍の光」と稲垣千頴―国民的唱歌の作詞者の数奇な運命―』ぎょうせい 2012による、出典は『音楽取調掛文書綴 巻62 掛図原稿』(1881~1885)東京芸術大学附属図書館蔵、『音楽取調掛文書綴 巻7 回議書類 上』(明治13年2月~明治14年6月)東京芸術大学附属図書館蔵
註8 普通学務局による意見、山住正己「『小学唱歌集』初編の成立」『文学』33巻4号 岩波書店 1965年4月10日、山住正己「第四章 最初の唱歌教材の作成」『唱歌教育成立過程の研究』東京大学出版会 1979復刊第1刷による、初版は1967に改編収録、引用文は論文による
註9 中西光雄『「蛍の光」と稲垣千頴―国民的唱歌の作詞者の数奇な運命―』ぎょうせい 2012
註10 「第十二 螢の光」大西捨吉編『儀式唱歌』十字屋樂器部 1908、傍訓は省略
註11 「○音樂取調掛生徒卒業式」『大日本教育會雜誌』第五拾號 大日本教育會 1987年2月28日
註12 「○音樂取調掛生徒卒業式 音樂取調掛主幹神津專三郎君の報告」『大日本教育會雜誌』第五拾號 大日本教育會 1987年2月28日
註13 「獨乙教育論摘譯 愛國心ノ教育 第二 愛國心ノ教育」『文部省雜誌』第三號 1875年2月14日 文部省
註14 「獨乙教育論摘譯 愛國心ノ教育 第二 愛國心ノ教育 丙 愛國ノ唱歌ヲ選ヒテ之ヲ教授シ且之ヲ謠ハシム可キヿ」『文部省雑誌』第三號 1875年2月14日 文部省
註15 「獨乙教育書抄・女学校」『教育雑誌』第三号 1876年5月8日 文部省、山住正己「明治初期における音楽改良のこころみ―唱歌教育を中心として」『文学』34巻6号 岩波書店 1966年6月10日、山住正己「第一章 学制頒布直後の唱歌教育のこころみ」『唱歌教育成立過程の研究』東京大学出版会 1979復刊第1刷、初版は1967に再収、引用は『文学』論文による
註16 武藤貴也氏のツィート
註17 浜野政雄 服部幸三監修 東京芸術大学音楽取調掛研究班編『音楽教育成立への軌跡 音楽取調掛資料研究』音楽之友社 1976
註18 en.wikipedia「Auld Lang Syne」
註19 「国歌ニ関シ大山元帥閣下ノ談話」和田信二郎『君が代と萬歳』光風館書店 1932、初出は『日本及日本人』らしいが巻号不明にして未見、山住正己「2 唱歌、君が代、軍歌」園部三郎 山住正己『日本の唱歌―歴史と展望―』岩波新書青版468 岩波書店 1962
註20 「第二十三 君可゛代」文部省音樂取調掛編纂『小學唱歌集 初編』文部省藏版 1881出版届1881出版届、1884年出版
註21 中西光雄『「蛍の光」と稲垣千頴―国民的唱歌の作詞者の数奇な運命―』ぎょうせい 2012
註22 「さヽれ石」市川八十吉編輯『幼稚園唱歌』鴻盟社 1886、なお同書には「君か代」の題で同じ歌が重複収録されている
註23 「第六 君(きみ)可代(よ)」恒川鐐之助校閲并撰曲 佐藤維親編輯『普通唱歌集』東壁堂梓 1888
註24 川崎宗太郎編輯『壮士必讀薩摩琵琶歌 全 附朝鮮𧆞【U+2719E、虎の異体字】狩』薩摩堂 1886
註25 柳沢信鴻『宴遊日記』藝能史研究會編『日本庶民文化史料集成 第十三巻 芸能記録(二)』 三一書房 1977
註26 山住正己「2 唱歌、君が代、軍歌」園部三郎 山住正己『日本の唱歌―歴史と展望―』岩波新書青版468 岩波書店 1962、山住正己「II 「君が代」・祝祭日の歌・軍歌」『子どもの歌を語る―唱歌と童謡―』岩波新書新赤版 352 岩波書店 1994、内藤孝敏『三つの君が代 日本人の音と心の深層』中央公論社 1997
註27 「鵜殿のヨシ原は 世界無形文化遺産を支えています」鵜殿ヨシ原研究所 2013年10月3日
註28 中西光雄『「蛍の光」と稲垣千頴―国民的唱歌の作詞者の数奇な運命―』ぎょうせい 2012
註29 北杜夫「どの顔も晴々 つくづく“参加する”意義」『日刊スポーツ』1964年10月25日2面
註30 石原慎太郎「心暖まる光景 聖火消えず移りゆくのみ」『日刊スポーツ』1964年10月25日2面

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