今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

魯迅と日暮里(19)簇生する新宗教 小山内薫の果てしない宗教の旅

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徳田秋声は、関東大震災のあとの青木堂の様子を次のように書いている。

「青木堂は本鄉名物の一つで、たばこや食料品や飲料をあきなふハイカラな店として、高級なものである。その汚い、だゝつぴろい二階で濃いコーヒやチョコレートやフラウンケイキなどを食べさせることは今も昔と變りはない。何とか奇麗にしさうなものだが、店飾りは世間並に進步しても、こゝは順良な一高生などを定連としてゐるだけに、昔しながらの素朴さで、白いヅボンをはいたボオイなどはゐない。勿論ほんの小僧達の片手間で、格別盛つてもゐない。學生もこんな處へはいつてゐれば間違ひはないのである。(中略)青木堂の薄暗い二階へあがると、堅氣な大學生や一高生の姿が見られる。」(註1)

添えられた木下孝則による挿画は、文中で取扱われている比率の大きさから青木堂の可能性が高いが、確かな証拠はない。もし青木堂であるとすれば、現在容易に見ることのできる唯一の画像資料である。

木下孝則「喫茶店今昔」挿画『大東京繁昌記 山手篇』より 著作権継承者のご承認をいただきました

木下孝則「喫茶店今昔」挿画『大東京繁昌記 山手篇』より 著作権継承者のご承認をいただきました

一方、「チヨコレート」を切なくうたったラブリー・ポエムの沼波瓊音は、昭和の初めの一時期、「神経衰弱」のため、巣鴨至誠殿という新宗教の下で修行生活を送っている。次は、露伴幸田成行の日記に載るエピソード。

「【1916年4月】十七日 漆山又四郎來る。放翁詩集持參。八代外出。實業之日本社橋本文吉來る。夜沼彼武雄【沼波武夫】栗原元吉來る。二人降神術の如き事を語る。所謂御筆さきによつて古今の事を知るといふ。御筆さきは蓋し許氏の書に見えたる𠭥【U+20B65】なるべし。論語の如きも御筆さき即神示によりて新解を得、これを新脩養社に寄せたりといふ。」(註2)

巣鴨至誠殿は、山田つるの創教した新宗教である。ドイツ・イエナ大学に留学した精神科医で医史学者の富士川游およびゲッティンゲン大学に留学した医師・生理学者永井潜の2人の主宰による『人性』、民俗学会『民俗』の編集者であった石橋臥波(註3)によれば「大正四年頃のことでありました。東京の西北郊巢鴨の、もとの明治女學校の跡に、山田鶴子といふ女性があらはれて、巢鴨の神樣として可なり多くの信仰者を得たことがありました。信者のいふところを聞くと、醫師が手を離した如何なる難病でも治す、また雷(らい)を起したり雨を降らせたりすることも、念力で自由にできるといふのでありました。」(註4)また、「周圍に四五人の使徒のやうな高弟があつて、其下ツ葉の弟子連の中には小山内薫、生田長江、沼波瓊音、栗原古城、廣瀬哲士、山田耕作、諸口十九などの人々がある、いづれも神樣を禮拜する時は感極まつて踊り出す、其の姿の珍妙な事は話にならない、岡田三郎助君も此程小山内君に勸められて神樣を拜みに行き聾を癒(なほ)して貰つたといふ」(註5)とのことである。

沼波瓊音『文章講習録』大日本文学会による

沼波瓊音『文章講習録』大日本文学会による

明治女学校は、ユニテリアン派の牧師・木村熊二が九段下牛ヶ渕に開校。1892年、巌本善治が校長を引き継ぎ、1898年に巣鴨庚申塚に6,000坪の土地を得て移転するが、1909年に閉校。(註6)これに先立つ1907年、ブラジル移民を扱う明治殖民会社を興し、カフェーパウリスタの取締役にもなっている。(註7)
1926年の電話帳を見ると、

「山田勝太郎 〔小石川85‐0150〕北豐、西巢鴨、六六〇、巖平方」
「山田ツル 小石川85‐2249 北豐、瀧野川田端、一七一野々村方」(註8)

とあるが、ここで「巖平」とあるのが「巖本」の誤植で、巌本善治と考えられる。なぜなら、先に引いた記事のほか、明治女学校の住所「府下巣鴨村六百五十六番地通称庚申塚」(註9)「巣鴨・庚申塚六六〇」(註10)に近似ないし合致、『日本紳士錄』にある住所と一致するからである。

「巖本善治 雜誌社員●六、〇〇〇 府下北豐島郡巢鴨村大字巢鴨六六〇」(註11)

したがって、巣鴨至誠殿は、キリスト教徒の巌本善治方に創教された新宗教ということになる。

「神樣は鑛山師山田勝太郎の妻鶴子(四十二)と云ふ一寸垢拔けのした女當人は口を緘して前身の秘密を語らないが、何れは水商賣をして來たそれしやの果らしい」(註12)という。『婦人世界』記事によると、「神樣たる山田つる女は如何なる素性の女であるかと、よく調べてみると、この婦人は名古屋市末廣町の生れで、幼少の頃は幸福な生活をしてゐたのであるが、十七歳の時に他に嫁して花嫁になると間もなく、良人(をつと)の放蕩のために家産を失つて、つる女は生家(さと)へ歸つて來ました。すると、生家も次いで破産してしまつたので、つる女は遂に自ら花柳界に投じて、左褄をとる身となりました。現在の良人山田勝太郎氏と關係ができたのも、この頃のことでありました。」(註13)
山田つるは教祖であったが、宗務を仕切ったのは夫の勝太郎らしい。(註14)大本(おおもと)の出口なおと出口王仁三郎の関係、あるいは魏志倭人伝にいう卑弥呼と男弟の関係に似ている。山田つるは大病の後に突如として神がかり、新宗教を興す。大戦間のこの時期は、さまざまな新宗教が勃興している。巣鴨至誠殿の山田つるの専門分野は、「千里眼」と、新宗教に共通する「病なおし」である。

至誠殿については、讀賣新聞の記者による訪問記事が残されている。まずは概観からみてみよう。

「大教主と仰がる〻此婦人は如何なる人で如何なる事を説くのであろうかと巢鴨庚申塚に訪れました。至誠殿は?と聞くと「あ〻あの神樣の家(うち)ですか」と教へて吳れる、廣い野原を前にした洋館の主人、山田勝太郎氏夫人鶴子(三六)さんがその人です。洋館に續いた日本造の建物が加持さする處である。正面には天照皇大神を恭(うや〱)しく祭り人々はその前の廣間に正座し、婦人に姿勢などを直して貰つてゐるが、丁度岡田式静座【坐】と同樣に、軀を震動させて居りました。」(註15)

同記事には、神がかりの経緯が示されている

「夫人は名古屋生れであるが人生の悲しみといふ悲しみは夥しく甞め盡したといふ、たま〱九死に一生といふ大病に犯され醫者にも全く見はなされたが、どうしても生きねばならぬと心身を凝らして居ると病はだん〲癒えて仕舞つた。それから以後四年間程精神上に激動を來し、他人が見ると
△氣が狂つた かと思ふやうな狀態になつたのでありました。然るにある日女中の一人が他家から預つて來た手紙をかくして懷を肥やしてゐた事がありました。家の人々は手紙が來ねばならぬがどうした事かと不審をうつてゐると夫人が奥から出て來てその手紙は臺所の揚板の下にあるとあてたのです。それから後は近所の人の病氣を癒(なほ)す、精神上の疑問を解く、恐ろしき迄偉大な力の潛んでゐるのを見て夫勝太郎氏は世の人々のため何人の願にも應ずる事を許されたのでした。資産のあるを幸ひ、病氣に罹つても貧のため來られぬ者の爲には此方から車にのつて出向くといふ迄にして居られます。」(註16)

これについても『婦人世界』の記事によれば次の通りである。

「つる女は山田家に來ると間もなく病氣になつて、三四年も藥を飲みつづけてゐたが、だんだん重くなるばかりで、果は醫師も見放してしまひました。つる女は、どうせ死ぬなら身體を清めて死にたいといつて、水垢離をとりました。長い病で衰へた身體で冷水を浴びたからたまりません。忽ちその場に卒倒しました。しかし、ぢきに正氣づきました。かうして三年の間、毎晩夜になると水垢離を續けてゐるうちに、だんだん病氣が快(よ)くなつて來ました。
この頃から、つる女の精神狀態に異常の作用があらはれて、豫言をしたり、透視のやうな作用があらはれたり、他人の病氣を治してやつたりするやうになりました。」(註17)

至誠殿創教の伝説は、粟根竹斎により、山田勝太郎からの聞き書きとして次のように記されている。

「女史は元來人の妻なりしも久しき難病の床に臥し醫師は何れも不治の病なりとして見離なしたのである、そこで女史は久しく病臥中種々(いろ〱)と精神の統一を工夫し修練(しゆれん)しつゝある間腑(ふ)と神靈の御告げに依り其病の治すべき方法を諒得せられたのである、死人に夫ある筈なし故に妾(わたし)は最早和君の妻にあらず故に今より永の暇を與よと説き其許しを得て或深山の神靈に祈願するの旅立を決行したのであるが時恰も嚴寒の候にて白雪皚々山門の先達(せんだち)及び社掌は此處より一步も通行することを許さない、去れども一旦死を決し其身體を神靈に捧げたる女史何條之に從はんや強て之を拒否すれば足(し)かず暫く彼れを欺むき詐はり服從を擬して夜陰窃(ひそ)かに彼の宮守の神主の寢(い)ぬるを待て急ぎ山門を破りて深く山癲に攀ぢ上りたり、傳へ云ふ此の靈山は斯かる季節に於て此山門を超へたるもの誰れ一人として生きて歸りたるものなしと故に女史も同じく疲足跟々として斷崖絶壁に積もれる深雪の中を只だ一條の竹杖を倚(たよ)りに步一步する瞬間如何なる不覺か終に其片足を踏み誤まると思ふや身は早や千仭の谿間に陥ゐりタリ此谷底には雪解けの汚水鞺々(だう〲)として四五寸位此處に溜がある
身に着ける一枚の袷せと白のさらし木綿の下着は此水の爲に浸み濡れ鼠の如き姿となれり去れども深き覺悟を以て結昌せる彼の女史の胸中は吹雪も身に感ぜず泰然自若たる折から不思議や何れともなく聲の響きあり曰く左方の小路をたどりて再攀せば安全なる道を發見すべしと茲に於て女史は始めて夢より醒めたる心地となり顧みれば慥(たし)かに道ありて坦然たり故に此不思議なる道しるべを得て終に絶頂に上ぼり數日の祈念を込め下山せりその時曩(さ)きの先達及び宮守等は皆其不思議なる冒險の成功に驚きを以て接せざるなしとの話しを聞きたり。」(註18)

これには別伝がある。讀賣新聞の別の記事である。

「新劇壇の指南役小山内薫君や俳人の沼波瓊音君が隨喜の淚を流してゐるとやらで頓に有名になつた巢鴨庚申塚、至誠殿では八日臨時大祭とあつて堺隈迄時ならず賑つた、そもこの至誠殿についてはこの前にもチヨイと書いたが、指折り數ふれば今から三年前開祖山田夫人が神託を受けて手に持つ御幣の動くがま〻になびくがま〻に、同行五人甲駿の國境に大國主命をお迎ひに上り、御幣の動かなくなつた宮山の麓に孫子三代曾て開扉したこと【合字】のない茅屋内に古ボケた大黒樣の尊體を發見したのが新宗教のそも〱で、さても八日は朝のほど、山田夫人以下當時の隨行者五人がそのときの旅裝束其のま〻苦辛艱難の狀態(さま)から神力いやちこなりし奇蹟をあり〱と示し、玉串を捧げ神酒を頂いて式を終り、あとは飲めや歌への大陽氣、餘興とあつて、小山内君が眞個の役者を連れて來てお手のもの〻ドーグラス、ハイドの「失踪商人」やチエホフの「犬」をやつて見せる、夜に入ると、さすが敬虔な信徒達もお祝酒(みき)の功徳アラタカにして蹌踉蹣跚と酔ひつぶれ、鳴物入りの大二輪加となり、小山内君が稽古着一枚に竹刀を擔いで「箱根の山は天下の險」を胴間聲を張り上げる、鞭聲肅々をやる、沼波夫人や栗原(古城)(くらばらこじやう)夫人以下二十餘名が白衣赤袴で「すみ――よしの――」と三味入りで踊り廻るさては開祖山田夫人の御亭主まで「めーでーたーやーなー」とかしこみかしこみ法悦の秋の一夜ぞ更けにける、ランチキ〱」(註19)

さて、この至誠殿がその後どうなったかというと、「しかし、このつる女は後に巢鴨から他へ移つたために、大した發展をせずに終りました。」とのことである。(註20)

小山内薫『小山内薫全集第1巻』より wikipediaによる

小山内薫『小山内薫全集第1巻』より wikipediaによる

小山内薫については、これもまた至誠殿の信者といわれた水上瀧太郎により弁護論が書かれている。

「小山內さんは詩人でありながら常に實行を尊び、實行に對する憧憬に熱情をそゝぐ人である。書齋裡の學者として閉籠つてはゐられないのだ。自由劇塲、土曜劇塲、俳優學校、映畵制作とその俳優の養成、築地小劇塲などに力を盡し、犧牲を惜まないのはその精神のあらはれである。仕事をするといふ事に對して、ひとつの宗敎的熱情が燃え立つのである。同時に又浪漫派詩人の憧憬が伴ふのである。曾て基督教を信じて内村鑑三氏に從ひ、戰時の昻奮に國民の熱狂してゐる時、軍港に赴いて非戰論を說く師に一身を捧げたのも同じ精神である。巢鴨の至誠殿とかに屢々步を運んだのも、大本教に凝つて正に綾部に立籠らうとしたのも、身を以て描かんとする詩と見て差支へない。一事に熱中して之を行ふ爲めには、冷靜なる判斷と堅固なる意志を必要とするが、小山內さんの塲合には何よりも詩的情熱が湧き立つのである。この上潮(あげしほ)に乘つた時は、一切他の事を顧みない。先年映畵に熱中した頃は、極端に之を讚美して戯曲をおとしめるやうな口吻さへもらした。」(註21)

大本(当時は皇道大本)は、1892年、出口なおに「うしとらのこんじん」と名乗る神が憑って創教され、希代のオーガナイザー出口王仁三郎によって教線が拡張する。しかし、「うしとらのこんじん」を『日本書紀』の巻頭に登場し、中世神道界で根元神とされた国常立尊に比定したことにより、天照皇太神を中軸にすえた国家神道と対立、また、教義の中に「よのたてかへ」を主張する反権力思想が組み込まれ、しかも、浅野和三郎により日本海海戦の英雄・秋山真之を教線上にキャッチするなど信徒が軍部内へも浸透しつつあったことから国家権力の憎悪の対象となり、2度にわたる徹底的な宗教弾圧を受けている。罪状は、のちに創価教育学会の牧口常三郎が投獄され、獄死に至ったのと同じ、不敬罪と治安維持法違反である。

1922年の第1次大本事件を期に、早稲田大学を中退して大本の幹部候補生だった谷口雅春は、翌年3月に心霊科学研究会を創設する浅野和三郎に従って大本から脱退、1930年3月1日に、徹底的な現世利益を目指す生長の家を創教する。当然、巣鴨至誠殿の信者もオルグ・ターゲットとなった。以下は信者獲得についての谷口雅春の記録から。

「安藤【しづ】――私の此の病氣の始まりは何から話したら好いでせうか。良人が軍人でございましたが精神病になりまして九年間患ひまして到頭なくなりました。發作のたび毎に實に心痛いたしまして、胸の中に塊が出來る思ひがいたしました。時には自分も一緒に氣狂ひになつて了つた方が好いと思ふことがあつた位でごさんした。その頃私は東京にゐまして池袋の至誠殿へ出入りしていました。至誠殿の教祖と云ふのは女の方で、信者から『お母さん』と呼ばれてゐらした方でしたが、平常はポカンとした常識のない、何を話されても返事の出來ない人でしたが、神様の話しになると滔々として別人のやうに雄辯にお話しなさいました。毎日、至誠殴へ通つてゐましたが、しまひに飽きて、良人の亡くなる頃には滅多に行かないやうになつてゐました。」(註22)

一方、大本2代教主出口すみは、1935年、第2次大本事件により逮捕され、その後6年以上を獄中で過ごす。出口すみに、獄中で読んだ短歌がある。

「よせとせを なれなじんざる ほっかぶり
つまわまめなか こらはふえたか」(註23)

入獄4年(よそとせ)後の作であることがわかる。獄房に馴れなじんだ「ごきぶり(ぼっかぶり)」を発見、この小さな生き物への愛情がこめられた歌である。
大本は、国家権力を振りかざした大弾圧により、教会施設は破却、土地、財産は没収となり、1,000名に及ぶ幹部、信者が逮捕され、拷問により16名の生命が奪われた。死者の中には岩田久太郎(琥珀洞鳴球)がいる。正岡子規の門人である。本来の教義の中に社会変革への指向があるにもかかわらず、特高警察はフレームアップによってしか事件化することができず、しかも、その後の裁判で治安維持法違反は無罪との判決が下され、被告は保釈されている。
しかし、その後、大本は国家賠償を拒否する。出口すみの夫である聖師出口王仁三郎は、小山昇弁護士に次のように語ったという。

「あのなア、今度の大本事件は、この大本という神樣の團體は、今度の戰爭には全然關係がなかつたという證據を、神樣がお殘しになつたことだ。戰爭の時には戰爭に協力し、平和の時には平和を説くというような矛盾した宗教團體では、世界平和の礎にはならん。しかし、日本という國は特殊な國で、日本が戰爭している時に、日本の土地に生れた者で戰爭に協力せぬなどゝいうことは日本の國家も社會も承知せぬ。然しそれでは世界恒久平和という神樣のご目的が潰れるから、神樣がわし等を、戰爭に協力出來ぬところへお引き上げになつたのが、今度の大本事件の一番大きな意義だ。これは大事ことだよ。」(註24)

出口王仁三郎は、シャマニスティックな大本の思想に、アンドリュー・ジャクソン・デービス(Andrew Jackson Davis)らの西洋的スピリチュアリズムを導入したことにより、独自の霊界観を構築する。スピリチュアリズムを大本に持ち込んだのは浅野和三郎といわれており、小山内薫は浅野和三郎に導かれて大本に入信する。(註25)

「文壇の耆宿小山内薫氏は、最近芝紅葉館にて淺野和三郎氏が大本教の宣傳をやつた時、深く其教義に共鳴し、多年蒐集愛藏した演劇文學に關する書籍は全部之を俳優組合附屬の演劇圖書館に寄附し、從來關係してゐた市村座の顧問をも辭し、熱心なる大本教の信者となつたといふ事も、之と相前後して新聞紙に報ぜられてゐた。」(註26)

笹山敬輔氏は、小山内薫の演技論の分析から「心」と霊魂をキーに、スピリチュアリズムを介した小山内薫の入信契機を重視するが、竹内瑞穂氏はさらなる迂回路を想定する。すなわち、小山内薫の芸術論においては、「現前する「肉体」と潜在する「霊魂」という対立図式が描かれ、後者こそが芸術を芸術たらしめる〈本質/真理〉として措定される。」「ここで重要なのは、彼が思い描く「霊」、すなわち〈本質/真理〉とは、「知識」や「肉体」といった媒介を飛び越え、直接に到達される――〈直覚〉される――ものであるということだ。」「「知識」や「議論」にとらわれることなく、一足飛びに〈本質/真理〉へと到達すること。小山内にとって、「神」という裏付けを有する「神諭」の断定的で力強い語りは、この図式をまさしく体現し、彼の〈直覚〉を保証してくれるものだった」という。(註27)難解な議論だが、要するに「神キター」の論理的解説である。

小山内薫は、水上瀧太郎の書く通り、一時期映画に転向している。その時に小山内薫監督による『丹波の綾部』(松竹キネマ蒲田撮影所、1920年11月24日東京明治座公開)(註28)が製作されている。大阪で『謎の綾部』(1921年1月10日大阪弁天座公開)が上映されたという情報があるが(註29)、両者が同一の作品であるかどうかは、フィルムが現存していないため不明である。のちに『丹波の綾部』が東京の複数の館にかかっており(註30)、大阪向けにタイトルを変更したものかもしれない。『謎の綾部』については、シノプシスとスチル写真が残されている。

既に竹内瑞穂氏によって紹介されているが、貴重な資料なのでシノプシスを載録しておく。

「映畵は先づ列車の綾部到着に始まり入信する人々の驛前を溢れ出でし光景、驛前の大本書籍販賣店、綾部の縱貫せる整つた町構へ、和知川の清流、趣のある釣橋や並松から見た山紫水明の境が展開される、次いで愈よ黄金閣の偉觀、教祖殿の淨域が表はれ、金龍殿と出口教主輔が机に倚つて執筆中の光景から、五六七殿の祭儀神饌奉献の有樣、鳥居形の大太鼓、信徒の風俗、天王平から本宮山を臨んだ風景、出口家累代の墓地、開拓地と成つた神前川の蔬菜畑、同畑に於ける信者の献勞振り、本宮神社造營作業、至誠殿の神々しさ、神前に於ける装束姿の出口教主輔、金龍池を隔てた大八洲神社の島影、同出版部の活動狀態、宿舎の光景等が順次映寫され、參拜團の退綾と綾部驛出發の列車運行を以て終結を告げてゐる。」(註31)

『謎の綾部』松竹キネマ撮影ヒルムの一節『大正日日新聞』による

『謎の綾部』松竹キネマ撮影ヒルムの一節『大正日日新聞』による

また、当時、小山内薫自身が大本について書いた文章が残っている。

「近頃、大本教のことが、大分世間の問題になつてゐる。私はまだその信徒でもないし、綾部へ參籠し、鎭魂を受けたこともないからさういふ方面のことはまるで知らないが「お筆先」一卷天の卷)は今春以來私の靈的生活を可なりに好い方へ導いて吳れた。
大本教の問題は、それを要するに人間靈魂の問題でなければならない――私もさう思つてゐる――政治の問題でもなければ、外交の問題でもない、勿論社會政策の問題でもない。
靈魂の問題は靈魂のみが知る。靈を以てしなければ大本教の問題は解决がつくまい。議論や智識で結論が得られるなら、大本教は詰らないものである。大本教が邪教であるか淫祠であるか、それも靈の指道に依らなければ分らない筈である。學者先生よ。他宗の信者諸君よ。私が好いことを教へよう、若し大本教を亡ぼそうと思ふなら靈を以て向つて行くが好い。其他の何者を以て行つても大本教を破却することは出來ない。(【1920年】九月廿三日)」(註32)

次は、同時期に書かれた小山内薫の心象風景。

「私は暗い道に行き暮れてゐる旅人である。
暗さも暗い。
道も分からない。
足も疲れてゐる。
もう一步も前へ進む事は出來ない。

ふと、遠くに明かりが一つぽつりと見えた。
私は躍り上がつて喜んだが、私の疲勞は餘りひどくて、もう一足もその明かりの方へ近づく事が出來ない。
どうも、其明かりは自分を迎へて吳れてゐるやうな氣がする。
そこまで行けば、きつと一夜の宿りが得られさうな氣がする。
併し、自分の擔いでゐる荷物の重さと、長い間道を迷つて來た心身の夥しい疲勞とは、もう一步も自分を前の方へ進ませては呉れない。

私は遠くから、その明かりを見詰めてゐる。
その明かりを見詰めてゐると、段々肩の荷が輕くなつて來るやうな氣がする。疲れた足が段々力を得て來るやうな氣がする。

私と皇道大本との唯今の關係は、やつとこの邊のところである。」(註33)

竹内瑞穂氏は、映画の「まなざし」と断片的に残された小山内薫の言説から、「小山内が、大本教の信仰のなかに、芸術家と民衆との価値観の差異を乗り越えるためのモデルを感知していった」と結論する。(註34)島薗進氏によれば、「大本の活動は非常に包括的なので、宗教というものを狭く宗教の領域には閉じ込めませんでした。ですから、芸術とか技術や科学といったものを包含して、それらと宗教が自然に混じりあっていることを示した代表的な団体です。」という。(註35)理想的に構想、構築されたコミュニティの存在は、宗教団体のみならず、先に見た「新しい村」もその1つである。この時期における「下からの」新たな共同体の実践は、「共産主義」とはいえなくとも「コミュニズム」と呼ぶにふさわしい社会的オルタナティブの思想であり、実践であり、組織であっただろう。それはまた、自由民権運動を経て成立した思想運動であり、アジアの連帯を運動の観点に取り込んでいた。このため、国民の一体性と均一性を指向し、排外主義を昂揚させる「上からの」画一的な組織化としてのファシズムとの激突は不可避であった。また、日本が「皇国」であるとするイデオロギーは、他の新旧の宗教にたいする敵意を隠すこともなかった。

中村彜「自画像」(1909)キャンバス、油彩 806 × 610 mm wikipediaによる

中村彜「自画像」(1909)キャンバス、油彩 806 × 610 mm wikipediaによる

最後に、落合道人氏の研究成果を利用させて頂き、日暮里の住人である中村彜の事例を掲げる。(註36)彼もまた本行寺の静坐会のメンバーであり、そのために日暮里に居を定めたのであった。しかし、以下の文は、巣鴨の神様といわれた山田つると、池袋の神様といわれた岸本可賀美を混同しているように見え、その原因は小熊虎之助の書いた次の一文にあると思われる。

「しかし、七八年前つひに六年の刑に處せられた、所謂巢鴨の神樣、岸本可賀美の有名な事件などもある。讀賣新聞の調査によると、岸本はもとは天理教の教師あがりで、或る稲荷神社の神主の所にをつた時に、その神主が臨終に豫言めいたことを發言したので、早速それを速記して、それを「お口先」と稱して、信者に崇拜せしめだしたのださうである。この岸本の天然社、その至誠殿には金紐に金無垢の金具のついた桐の三重箱に納められた御寶石なるものがあつた。それは治療的な靈力を有するものとして吹聴されてをつた。岸本の拘引後、帝大の地質學教室で硏究してみたらそれはラムネの玉であることが發見せられたもので、總體が曇つて、傷などの爲めに色も變化し、岸本自身もそれがラムネの玉であることを自覺してゐなかつたさうである。また同社には「金山彦六神」なるものが祠られてあつて、その神は岸本の夢枕に毎夜立つて、鑛山や金塊の所在を知らせると稱されてをつた。深川の或る大米問屋の主人がこの詐欺にかゝつて、茨城県茨城の町端れに結城治朝の城趾があつて、その地下には治朝が死ぬ時に子孫の爲めに殘した數億の金塊があるから、これを掘れといふ命を受けた。その主人は大なる希望を以て結城に赴き、掘初めの祝ひとして紅白の餅を町中に配り、人夫を總狩りにして掘りだしたさうである。勿論それは失敗に終つた。」(註37)

この記事に影響されたのだろう。後の中村彜にかんする記述においてはすべて巣鴨の神様と池袋の神様が混同されている。まずは美術評論家の米倉守の一文。

「「巣鴨の神様」という巫女もきた。坐った彝の前に御神体と称してガラス玉を置き、呪文を唱え、彝に拝礼を繰り返させた。
周囲の画家たちは笑ったが彝は別に気にしなかった。「巣鴨の神様」などはのちに警察につかまり、東京帝大地質学研究室の鑑定で、御神体は地中に埋れていたラムネ玉と判明したりもした。」(註38)

どんどん記述に尾ひれがつく。次は日本史を専攻し、津田左右吉を「おじさん」と呼んだ鈴木秀枝の記述。

「また一時、「巣鴨の神様」と称せられた「至誠殿」を頼った。老女の巫女が落合にまで出張し、端座した彝の前に御神体と称するガラス玉を置き、なにやら大声で呪文を唱えた。そしてそれに倣って彝は恭々しくその霊玉に拝礼をくり返した。後年その「至誠殿」は警察の手が入り、その御神体の霊玉は東大地質学教室の鑑定の結果、ラムネの玉が地中に埋まって変色したものと判り、教祖は獄舎に繋がれた。」(註39)

岸本可賀美は、先に引用したとおり、天理教麹町教会の教師をしていた男性であり、そのことは、天理教の歴史に書かれた記載によって証明できる。
岸本可賀美の本名は岸本唯之助といい、1892年に兵庫県豊岡市結村から東京に来て、麹町区三番町11番地に居を定めて天理教の布教を開始。1894年には天地組2番分講を開講、その副講元となっている。同年3月には、タバコ製造販売で質屋を兼業していた久保治三郎一家がインフルエンザで一家感染していたところを訪問、「においがけ」によって淘宮術から改宗させることに成功。(註40)

「その年3月久保家の信仰が始まり、可賀美に教理を問わんとしたが、逆に可賀美が指3本を交互に動かしながら、「この理が悟れますか」とじっと清次郎の顔を見つめながら質問を浴びせてきた。清次郎は返答に詰り、約1時間位思案した後、「僅か指1本であっても、いつでも自分の意のままに動くものとは限らない。その蔭に、自分の考えのもう一つ奥に偉大な力が潜在している。智慧や工夫を超えた世界があるんだ。この力にもたれて通ることが最大の生き方かも知れない」と悟れてきた。このことを答えると、「それが天理なんだ」と切り出され、天の理について深く諭され、自らも入信を誓ったのである。」(註41)

東竹町辺地図『大日本職業別明細圖之内本鄉區』(部分)

東竹町辺地図『大日本職業別明細圖之内本鄉區』(部分)

教会は、本郷区西竹町、本郷区本郷6丁目と移り、1903年には本郷区東竹町6番地に移転。1920年、府下北豊島郡滝野川町大字滝野川西大原708番地に1077.31坪の土地を購入、翌年に神殿が竣工して移転するまで、魯迅の住んだ東竹町に教会を有していた。

岸本可賀美が天然社を創教したのは、それ以前の1898年とみられる。岸本可賀美の事蹟からは、ビジネス臭がぷんぷんと匂う。

「池袋豐島師範學校傍に昨年來天然社と云ふ大きな神社が一個人の手で經營されて居る、神苑の幽邃拜殿の宏壯なるとは普通の神社でさへも見られぬ、而も此の輪奐の美が敢て信者の喜捨によらず悉く一個人の淨財から支出されたと云ふに至つては信仰の力の大なるに驚かされる、殊に昨今此神社のあらたかな効驗が知れ渡ると共に參詣者が次第に殖江日曜日などには自動車人力車が絡繹として相次ぎ殊に
  其參詣者の中に
  は波多野宮相や
床次代議士なども交り其他兜町蠣殻町邊の紳商が續々として來ると云ふので益々世間の注意を惹いて居る、抑此天然社の造營者は深川區佐賀町二の九米穀商熊倉良助氏で深川區内でも指折りの富豪であつたが數年前初めて此の教理を聞き豁然として之に歸依した、天然社の由來は去明治卅二年中野州庚申山岳祭神佐田彦大宮(さるたひこおほみや)の神勅に基いて天の御中主神、高神産靈神の三神を祭つてるのである」(註42)

祭神は「羽田稲荷」であるとする説もあるが(註43)、同時代の資料では「佐田彦大神」で、「神殿」、「神苑の神水如意寶珠」という装置立てがなされていたともいう。(註44)池袋は巣鴨村(のち西巣鴨村と改称)の一部であったこと、庚申塚には、明治初期に千葉県銚子市にある猿田神社から分祀した猿田彦大神が祀られていたこと、などから混同が促進されたと思われる。もしかすると、岸本可賀美の狙いによるものかもしれない。なお、大本の出口王仁三郎も「月見里神社に付属する駿河の稲荷講社総本部」を訪れ、長沢雄楯から霊学と鎮魂帰神法を学んでいる。(註45)

巣鴨庚申塚猿田彦大神

巣鴨庚申塚猿田彦大神

天然社の有力な信者には、先の記事中にあった深川の熊倉良助のほか(註46)、岸一太医学博士、秋山真之海軍少将(註47)、さらに旧紀伊新宮藩藩主・水野忠幹の5男で、旧下総結城藩藩主家の水野忠愛の養子となった貴族院議員の水野直がいる。

「◇水野【2字圏点、直】は結局三島【2字圏点、弥太郎】排斥の目的は達したが、三島【2字圏点】から遠ざけられだ當時は餘程神經を惱まして居たもので、煩悶の結果信仰に依つて慰安を求めんとする決心を迄するに至った、仍つて例の天然教社に歸依し其の教主岸本可賀美【5字圏点】なるものの處へ日參したものだ、此の天然教なるものは今日の大本教なぞと同巧異曲の一般世間からは一種の邪教視されて居たもので、其の教理はどんなものであつたか知らぬが、当時我が帝都に外國から飛行機の襲来する事を予言し盛んに国民の愛國的精神を説いて居たものである。水野【2字圏点】はすつかり之に魔入(まい)つて了つて、當時の内閣總理大臣大隈重信【4字圏点】や陸海軍大臣などの處へ出掛けて眞面目になって天然教社の御先棒を勤めたものである。
◇之れが爲め水野【2字圏点】は氣が狂(ふ)れたのではないかと親友等が心配し出し、結局天然数の如何なるものかを確かめに、時の宮内大臣波多野敬直【5字圏点】が態々天然教社を見に行つた始末、其の結果天然教は一邪教に過ぎぬと云ふ結論に達し以後斷然水野【2字圏点】に近寄らせぬ事にした、斯くて水野【2字圏点】は慰安を求めた宗教にも失敗したので其の後學習院長との衝突を表向きの理由として遂に議員をも辭職し、鎌倉の別邸に隠遁するに至つた。」(註48)

「水野君が池袋の神樣に凝つて、猿田彦を信仰して其猿田彦の顔を形まで話したには驚きました。水野君に言はせると猿田彦に會つて色々話をしたといふのですから僕達は本當に不思議に思つて、僕は猿田彦の顔は知らないが、お神樂に出て來るあの面のやうかいなどと言つた事もあつたが、其の頃私と青木君も一緒だつたと思ふが、どうも敵の飛行機が飛んで來るやうだと今の宮城の位置ではいけないから戸隠山にお移ししなければならぬ、で時の宮内大臣の波多野さんに是非申し上げなければならぬといふので二人を波多野君の處に引張つて行つたこともあり、又御自分の結城の城に金が埋めてあると言つたりした。是等は池袋の例の井戸の水、其冷水を飲むと氣分がさつぱりして非常に精神が澄んで神樣と話をすると非常に愉快だと言つて居ましたが、その水を飲んで猿田彦の宣託かなんかゞ浮んでこんなことを言ひ出したのぢやないかと思ひます。」(註49)

「一時は池袋の神樣を非常に信仰されて、結城の城跡を掘つたのです。いつか其の城跡から出た物を拜見しました。燒き米だとか……」
「それから今度は水野さんがそれを池袋のあれで掘つたのですが、是も掘つた所が、何んでも城の下がすつかり縦に道が附いて居つたさうです。それで神樣見たやうなものが祭つてあつたり、土器があつたり、燒き米が大分出て來た、それでも黄金は出なかつた。それで池袋の行者の信仰者に熊倉と云ふ相場師がありますが、これが池袋の行者の云ふことで相場をやつて相當の財産を拵へたと云ふので、是が、池袋の行者が結城の城跡に黄金があると云ふので、水野さんから無理に地面を讓つて貰つて、其處に稲荷さんを建てた、さうして白い混凝土の橋を拵へたのです。それで掘つたのです、掘つた所が何か箱みたやうなものにぶつ突かつた。愈々是は神樣のお告げの通り黄金の箱にぶつ突かつたのだ、と云ふので勇んで掘つた、所が水がどん〱出て來て、いくらポンプでやつても汲み切れないから、是は神樣が黄金の出る時期ではないと仰つしやるのだと云ふやうな譯で、其儘埋めてしまつたのです。水野さんのは城の下に穴が色々あつた、兩方とも黄金は出なかつた、それから何んでも一昨年頃でせう、熊倉が神のお告げだと云ふので、自分の買つた地面を水野さんに歸した、それで水野さんは只貰ふ譯にいかぬからと云ふので、何かやつて、水野さんのものになつたのです。」(註50)

學生時代の水野子『水野直子を語る』より

學生時代の水野子『水野直子を語る』より

1916年12月12日、教祖の岸本可賀美は「巨額の金を騙取したる」疑いで東京監獄に収監され(註51)、やがて懲役6年の有罪判決が下されたらしい。(註52)

東京府豊島師範学校は、国立大学法人東京学芸大学教育学部の起源の1つであり、現在の西口公園を中心とした区画にあった。そこに岸本可賀美は広い道路を作ったのだという。

「先日漸く化の皮をむかれた池袋の大詐欺師天然社の岸本可賀美が金の入るのにまかせて豐島師範の傍から自動車の通れる廣い路を造つてまだ間もないのに彼(あ)の始末だ自動車も押收され立派に出來上つた道だけが村のものに功徳を施してゐるのは面白い」(註53)

やがて純然農村であった低湿地に新興住宅が建設されはじめ、熊谷守一、寺田正明をはじめとする多くの芸術家たちが集まり、居酒屋「でいご」がオープンして宮城与徳や長谷川利行がやってくる。小熊秀雄によってこの地が池袋モンパルナスと呼ばれるには、もう少しの時間的経過が必要である。

冒頭に登場した石橋臥波について、のちに周作人は次のように回想する。

「一九一三年三月柳田氏與高木敏雄共任編輯,發行鄉土硏究月刊,這個運動於是正式開始。其時有石橋臥波聯絡許多名流學者,組織民俗學會,發行季刊,可是内容似乎不大充實,石橋所著有關於曆,鏡,厄年,夢,鬼等書,我也都買得,不過終覺得不很得要領,或者這是偏重文獻之故也説不定罷。」(註54) (注意 赤色アンダーライン:原文は左波線、他は左傍線)
(日本語訳)
「一九一三年三月柳田氏は高木敏雄と共同編輯の下にで月刊雜誌『鄉土硏究』を發行し、この運動はこゝに正式に開始された。當時石橋臥波といふ人が幾多の名流學者を聯絡して民俗學會を組織し、季刊雜誌を發行してゐたが、内容はあまり充實してゐなかつたやうだ。石橋氏の著述には曆・鏡・厄年・夢・鬼等に關した本があり、私も全部買つたのであるが、結局どうもあまり要領を得ないやうな氣がした、或はこれは文獻を偏重したせゐかも知れない。」(註55)

「當遠野物語出版的時候,我正寄寓在本鄉,跑到發行所去了要一册,共總刊行三百五十部,我所有的是第二九一號。因爲書面上略有墨痕,想要另換一本,書店的人説這是編號的,只能順序出售,」(註56)
(日本語訳)
「『遠野物語』が出版された頃、私は本郷辺りで下宿していた。すぐ発行所に駆け付けて一冊を入手した。合計350部が刊行された中、私が持っているのは291番であった。表紙には少々墨痕があったので取り替えてほしかったが、番号付きなので順番で売るしかないと店の人に言われた」(註57)

1909年から翌年にかけて、柳田国男は日本民俗学の発祥となる著書『後狩詞記』、『石神問答』、『遠野物語』の3部作を私家版で刊行する。王京氏によれば、周作人は、『石神問答』と『遠野物語』の1910年の初版本を購入している。「その後、周はさらに『後狩詞記』も探し求めていたが、初版50部しかないこの本をついに入手することはできなかった。」という。(註58)

「我當覺得中國人民的感情與思想集中於鬼,日本則集中於神,故欲了解日本須得硏究宗教。」(註59)
(日本語訳)
「中国の民衆の感情と思想は鬼に集中するのに対して日本は神様に集中する。中国を知ろうと思えば中国の礼儀、風俗から研究すべきで、日本を知ろうと思えば日本の宗教を研究すべきである。」(註60)

当時の周作人の目に映っていた日本の宗教状況は、現在のそれとは異なった様相であった可能性がある。続々と生まれ出る新宗教は、明治政府によって弾圧された仏教でもなく、国家によって創作された国家神道でもなく、民衆の心性の基層にある宗教観念が体系化されたものだった。明治初年からは、欧米やロシアからはキリスト教諸教団の布教が開始されている。仏教も再生を指向していた。日本美術学校を卒業して春柳社を結成した李叔同が、天理教に帰依していたことは既に述べた。急速な近代化と社会の変化の中で、日本民衆の心的世界は激しく動揺していたのであり、それは、中国においても同じことだった。とりわけ異郷における中国人留学生や亡命者たちの心性の動揺も深刻なものだったのである。

弘文学院で地理学を教えていた牧口常三郎は、賃雇の船乗りを父に柏崎県刈羽郡荒浜村で生れる。誕生名は渡辺長七、父が北海道に出稼ぎに行き消息を絶ったのち、姉の嫁ぎ先、牧口家の養子となる。1885年に荒浜小学校下等小学科を修了後、単身北海道へ渡り、小樽警察署の給仕をしながら、1891年、札幌の北海道尋常師範学校第一学部3学年に編入。志賀重昴の教えを乞いながら、1903年、『人生地理學』を出版。同書の「生存競爭」について述べた章の中に以下のような言葉もある。

「其同侶間に行はるゝ個人間の競爭は、人類の生存に於て次第に其重要の度を减じ、廣き世界に於ては國家競爭の勝敗が益々重要となるに至れり【27字圏点】。されば此間に於ては支那人の如きが如何に個人間の競爭塲裏に於て優勝の資質を備ふるとも、國際間に於ける競爭に於て劣敗するときは、安全なる生存を遂ぐる能はざるは止むを得ざることゝ云ふべし。」(註61)

現代語に直せば、いくら中国人の個人個人が優秀であっても、国が弱いから負けちゃうのだ、ということであり、当時彼の接した留学生に共通の思いを代弁したものだろう。

また、同書の自序には「本鄉駒込の僑居に於て」とあるが(註62)、それは「本郷区追分町三〇」であったという。(註63)北海道での教職を退職し、東京に来たときに「出版社でアルバイトをしながら、母と妻、子供3人と6人で三畳の部屋で耐え抜」いたという3畳の下宿(註64)の所在地である。その時代のエピソードを『人生地理學』の冒頭に書いている。

「余が一兒、生れて母乳を缺く、乃ち牛酪をを以て之に代ふ。ときに屢次邦製の粗品に懲り、醫師に請うて漸く瑞西牛酪を選定し得たり。是に於てか最早ユラ山麓の牧童に感謝を拂ふべきを知る。轉じて其が一襲の綿衣を見る、忽ち黎黒なる印度人が炎天の下で流汗を拭きつゝ栽培せる綿花を想起せしむ。野人微賤の一子女【8字傍点】、呱々一聲【4字圏点】、旣に々々【4字圏点】、命【1字圏点】、世界に懸るにあらずや【10字圏点】。」(註65)

同番地はまた、1891年12月に子規正岡昇が下宿した場所である。

「【明治】二十四【1891】年十二月中旬、【正岡子規】居士は常盤會寄宿舎を出て駒込追分町三十番地なる奧井屋敷の離屋に下宿したのである。當時を知つてゐる菊池謙二郎氏が嘗て自分に語り聞かせしところに依れば、其の奧井といふは一高(今の農学部)の寄宿舎から路を隔てゝ稍〻北方にあり、昔は小大名の邸宅でもあつたかと思はるゝほど廣壯な屋敷であつて、立派な庭園があり、本屋の外に三棟ほどの離屋があつた。子規は其の一棟に住んでゐた。賄は多分本屋から運んでゐたのであらう。奧井の主人は何をしてゐた人か知るを得ないが、其の家としては下宿を營業としてゐたのであると。」(註66)

さらに「本郷区駒込追分町三〇」は、1922年には今岡信一良の住所でもあった。(註67)同年3月現在の東京旅館組合本部『東京旅館下宿名簿』によれば、同番地に3軒の下宿が存在する。

「同【追分町】三〇 榮林館 (下) 今岡うたよ  小 一九二一
            奧井館 (下) 里見九郎三郎 小 一八七二
            千代田館(下) 中内彦次郎  小 一七三七」(註68)

さらに、さらに、同番地には1876年、駒本小学校が開校されており、1889年に肴町16番地に移転。(註69)1917年には「本郷神の教会が建設され、武蔵境より本郷区追分町30番地に木造、洋館2階建ての家を購入し、その2階を会堂とした。」という。(註70)なかなかに賑やかな土地柄である。

牧口常三郎の『人生地理學』は、1903年10月15日の発行である。同年刊行の『浙江潮』9期(11月8日発行)及び10期(12月8日発行)に「植物與人生之關係」が翻訳される。(註71)きわめて速い反応である。同誌9期には自樹(魯迅)の「斯巴達之魂(スパルタの魂)」(註72)、10期には索子(魯迅)譯の「地底旅行」が載る。(註73)当然、魯迅は『人生地理學』の内容に触れたことだろう。

「植物與人生之關係」『浙江潮』第九期による

「植物與人生之關係」『浙江潮』第九期による

なお、『浙江潮』4期、5期、7期及び10期には「地人學」が訳載されている。(註74)、これも『人生地理學』からの翻訳を含んでいる。高橋勉氏によれば、この連載は、最初の時期には内村鑑三の『地人論』、最後の1回が『人生地理學』という複雑な構成となっているという。

「実は、壮夫という人は「地人学」というタイトルでこの「漸江潮」の4期、5期、7期、8期において、すでに4回にわたって、内村鑑三の『地人学』をずっと訳してきておりました。
ところが、第5回目の内容になりますと、内村鑑三の『地人学』ではなくて、急に『人生地理学』の「海洋」を翻訳をして、この「地人学」の中に入れているのです。内村鑑三の『地人学』をその後、見てみましたら、ちょうど、タイトルとして「海国」というタイトルの章がありました。ですから、恐らく、壮夫という人は、第5回目の翻訳として、内村鑑三の『地人学』の「海国」を翻訳するつもりでいたのでしょう。ところが『人生地理学』に出会ったものですから、この「海洋」の内容を翻訳したのですね。どうしてなのかな、と私も考えたのですが、やはり、注目した理由は、先程、「植物と人生の関係」を翻訳した黄孫が注目したのと同じ視点であったと思っています。」(註75)

高橋勉氏によれば、黄孫の注目した視点とは、原著の(1)「人生・生活と地理、人生・生活と環境の関係」に興味をもったこと、(2)「産業を振興する」視点に注目したこと、(3)「帝国主義を批判した」内容に深い印象を受けたことであるという。(註76)

また、塩原将行氏によれば、弘文学院で地理学を担当したのはその直後の1904年から1906年を含む時期のことであり、時期は前後に延長する可能性があり、その詳細については研究の余地があるという。(註77)また同時期に、孫文らと交流を持っていた田中弘之(舎身居士)を校長とし、清国の女子留学生を受け入れていた東亜女学校に在職していたらしい。これも塩原将行氏によれば、「明治36年12月東亜女学校地理科講師嘱託とある。東亜女学校は,明治37年5月創立,大正はじめごろまで下谷区(現台東区)北稲荷町にあった。しかし,わずかに残る同校の資料から牧口の在職を確認できる資料は発見されていない。」という。(註78)

「牧口先生にとって中国は格別の存在です。宏文学院の教え子の顔が浮かぶからです。しかし、その多くは、祖国の独立を願いながら辛亥革命で倒れていきました。なぜなら、孫文を支えた黄興は宏文学院出身であり、宏文学院は、辛亥革命の有力な震源地となったからです。」(註79)

牧口常三郎 wikipediaによる

牧口常三郎 wikipediaによる

牧口常三郎は1928年6月頃、日蓮仏法に入信。1930年、『創價教育學體系 第一卷』を発刊(註80)、仏教と教育を結合した創価教育学会を組織する。次に掲げるのは、その書のに柳田国男が寄せた一文の抜粋である。

「明治四十二【1909】年の春、牧口君が文部屬として小學地理編纂に從事して居た頃、卽ち私が法制局參事官の時代、同行して甲州南部都留郡道志村を踏査したことがあつた。 東京を距たる直徑僅か二十里に足らぬ位置に於て、電報が三日もかゝるといふ狀態の山村を視察する序に、農村調査の方法を硏究し指導する目的であつた。 道志川の深谿五里に亙る幽邃なる風光は今尚ほ眼底に鮮かなるものがある。」
「創價教育學の内容とその價値に關しては、遠からず世評の自ら定まるものがあるであらう。 唯だ君の此の大著が單なる學究的教育學者の机上の空論若くは歐米學者の飜譯紹介ではなく、數十年の貴重なる體驗の結果である事とそして又た一般教育實際家の有つ經驗のみではなく、一県學校内の教育には直接關係のない樣な、其の實大切なる前陳の如き實際社會の實地踏査、並に之に基づいた獨特の硏究法などの頗る廣汎なる基礎的知識によつて成立つたもので、從つて他には容易に得難き獨創の價値は、或は此の行詰つた現代教育界を打開するに足ると信じ、改めて之を推奬するに躊躇しないものである。」(註81)

1943年7月6日、創価教育学会のメンバーが伊勢神宮の大麻や神札を撤去、焼却したことにより、牧口常三郎ら幹部が治安維持法違反並びに不敬罪の容疑で下田警察署に連行される。この時の牧口常三郎の主張が『特高月報』に載る。

「日蓮正宗は始めから、此の硬派の旗頭で『神天上』とは各神社に祭られた神々は天へ上つて社殿は空になつて、其の代を惡鬼が後に入つて居るから、參詣する必要はなしと謂つて神社參拜を拒否して居たのであります。
伊勢の皇大神宮に對しましても、同樣の意味で天照皇太神は天へ上つて後は空虚で惡鬼が入代つて居るから、そんな處へ參拜する必要なしと云ふのであります。」(註82)

日蓮宗系諸宗派は、中世以来門流の独立性が強く、井上日召らにより井上準之助、団琢磨が暗殺される「血盟団事件」などが勃発、国家的統制の標的として激しくマークされており(註83)、創価教育学会もこの延長線上で弾圧されることになったと想像される。獄中の牧口常三郎は、1944年11月18日、巣鴨拘置所内の病監で、非転向のまま衰弱死する。

強大な権力を振り回し、歴史の針を戦前に揺り戻そうとする、「惡鬼」のごとき安倍晋三に加担する公明党の姿を牧口常三郎が見たなら、果して何を私たちに語るだろうか。

 

※ 木下孝則画伯のご作品を掲載するにあたり、著作権者代表の伊藤美弓様のご了解をいただきました。また、更級晨子様、更級元様、ご遺族の方々にはお手数をお掛け致しました。ご協力とご理解を賜りましたことに心より感謝申し上げます。

 

※ 西暦、中暦、和暦の換算にあたっては、臺灣大學 數位典藏與自動推論實驗室 數位典藏研究發展中心「中西曆對照查詢系統(明代以降)Chinse and Western Dates Mapping System (Later than Ming Dynasty)」を利用した。記して御礼を申し述べます。

 


 

註1 徳田秋聲「大東京繁昌記(142) 大學界隈(六) 喫茶店今昔」東京日日新聞1927年9月1日夕刊1面、東京日日新聞社編『大東京繁昌記 山手篇』春秋社 1928に収載
註2 幸田露伴「露伴日記」1916年4月17日条蝸牛會編纂『露伴全集 第三十八卷』岩波書店 1954
註3 大藤時彦『日本民俗学史話』三一書房 1990
註4 石橋臥波「女神樣列傳 (四)至誠殿の山田つる」『婦人世界』第16卷第1號 實業之日本社 1921年1月1日
註5 「●文士連巢鴨の神樣信心 神樣と云ふのは鑛山師の女房で 御神體は金と緣のない大黒樣」『東京朝日新聞』1916年9月27日朝刊5面
註6 藤田美実『明治女学校の世界』青英舎 1984
註7 櫛田公造「しは拾遺のシ2 大学教授はコーヒー店で」東京人形倶楽部あかさたな漫筆サイト
註8 『東亰電話番號簿 大正十五年五月一日現在』東京中央郵便局 1926
註9 「義捐者諸君に敬告す」(広告)『女学雑誌』第四百三十六号 女学雑誌社 1896年2月25日、青山なを「第二章 木村熊二と明治女学校 一 明治女学校の創立者 (二)校地に関する資料」『明治女学校の研究』慶応通信 1970所引
註10 磯崎嘉治『巣鴨と明治女学校』コインブックス〈14〉 クオリ 1985
註11 日本紳士錄編纂事務所編纂『日本紳士錄 訂正増補第四版』交詢社文庫 1897
註12 「●文士連巢鴨の神樣信心 神樣と云ふのは鑛山師の女房で 御神體は金と緣のない大黒樣」『東京朝日新聞』1916年9月27日朝刊5面
註13 石橋臥波「女神樣列傳 (四)至誠殿の山田つる」『婦人世界』第16卷第1號 實業之日本社 1921年1月1日
註14 「爆弾事件中の富田大尉」『東京朝日新聞』1916年1月26日朝刊5面
註15 「●奇蹟を行ふ婦人 巢鴨至誠殿の神樣として知らる」『讀賣新聞』1916年6月10日朝刊4面よみうり婦人附録
註16 「●奇蹟を行ふ婦人 巢鴨至誠殿の神樣として知らる」『讀賣新聞』1916年6月10日朝刊4面よみうり婦人附録
註17 石橋臥波「女神樣列傳 (四)至誠殿の山田つる」『婦人世界』第16卷第1號 實業之日本社 1921年1月1日
註18 竹齋山人(粟根竹齋)「二三 巢鴨至誠殿の山田女史の話し」『仙傳神授魔法神通力』太卜館 1918
註19 「至誠殿法悦の一夜 ▽臨時大祭の亂痴氣」『讀賣新聞』1916年9月10日朝刊5面
註20 石橋臥波「女神樣列傳 (四)至誠殿の山田つる」『婦人世界』第16卷第1號 實業之日本社 1921年1月1日
註21 「貝殻追放 感謝(三)」『都新聞』1927年10月20日1面、「感謝」『水上瀧太郎全集 十卷』岩波書店 1941所収、引用は初出による
註22 谷口雅春「第十二章 死線を超えた實話」『久遠の實在』生長の家出版部 1928、のち、やや文を変改して『生命の実相 第四巻 生命篇 下』 日本教文社 1962に収載
註23 谷川徹三「すみ子刀自の書」大本本部 二代教主お作品集刊行委員会編『でぐちすみこ作品集』天声社 1992による
註24 小山昇「事件を通して見た 聖師さまの言動(一)」『神の国』第二卷第十号 瑞光社 1950年10月1日、小山昇「大本事件の眞相」からの抄録というが、原書は未見、早瀬圭一『大本襲撃 出口すみとその時代』毎日新聞社 2007収載のものとはやや文言が異なる。典拠は「小山昇の手記」とあり、あるいは独自のソースによるか
註25 笹山敬輔「第四章 何が「心」を演じるか―小山内薫におけるスタニスラフスキーと心霊主義」『演技術の日本近代』森話社 2012、初出は笹山敬輔「日本近代演劇における演技術の歴史」2011年度筑波大学博士(文学) 学位論文
註26 服部靜夫「第二章 大本教は如何に智識階級を風靡しつゝありや ▼智識階級の熱狂的信仰」『大本教の批判 問題の新宗教』新光社 1920
註27 竹内瑞穂「共同体への憧憬―小山内薫の芸術観と大本教信仰」『Juncture 超域的日本文化研究』02号 名古屋大学大学院文学研究科附属日本近現代文化研究センター 2011年3月、のち竹内瑞穂「第5章 共同体へのへの憧憬―小山内薫の芸術観と大本教信仰―」『「変態」という文化 近代日本の小さな〈革命〉』ひつじ書房 2014。引用は初出による
註28 「特別番外 今廿四日より追加映寫 松竹キネマ合名會社特作品 撮影監督小山内薫氏 丹波の綾部 大本教本山及び綾部町の實況を紹介す(広告)」『東京朝日新聞』1920年11月24日朝刊4面、日本映画データベースJMDb
註29 「映画となつた『謎の綾部』」『大正日日新聞』1920年11月27日
註30 「本日より特別番外 松竹キネマ獨占撮影 大本教本山全部實寫 丹波の綾部 松竹キネマ直營 淺草帝國館 赤坂松竹館 麻布松竹館 麻布南座(広告)」『東京朝日新聞』1921年5月12日3面
註31 「映畵となつた『謎の綾部』十日から辨天座に於いて公開す」『大正日日新聞』1922年1月11日朝刊7面
註32 小山内薫「西洋のお筆先」『神靈界』第一二八號 大日本修齋會 1920年10月1日
註33 小山内薫「序」服部靜夫『大本教の批判 問題の新宗教』新光社 1920
註34 竹内瑞穂「共同体への憧憬―小山内薫の芸術観と大本教信仰」『Juncture 超域的日本文化研究』02号 名古屋大学大学院文学研究科附属日本近現代文化研究センター 2011年3月、のち竹内瑞穂「第5章 共同体へのへの憧憬―小山内薫の芸術観と大本教信仰―」『「変態」という文化 近代日本の小さな〈革命〉』ひつじ書房 2014
註35 島薗進「過去から未来へ―インタビュー(聞き手 早瀬圭一) 宗教学から見た大本」早瀬圭一『大本襲撃 出口すみとその時代』毎日新聞社 2007
註36 「アトリエには“生き神様”もやってきた。[気になる下落合]」2007年5月10日、「御嶽の行者はアトリエで九字を切る。[気になる下落合]」2013年12月9日 落合道人サイト
註37 小熊虎之助「第一章 心靈現象の一般性質とそれに對する硏究態度 第二節 事實調査の問題 二 事實の詭妄」『心靈現象の科學』新光社 1924
註38 米倉守「内なる美」『中村彝~運命の図像~』日動出版 1983年
註39 鈴木秀枝『中村彝』木耳社 1989
註40 天理大学おやさと研究所編「麴町大教会」『改訂天理教事典 教会史篇』天理教道友社 1989
註41 天理大学おやさと研究所編「麴町大教会」『改訂天理教事典 教会史篇』天理教道友社 1989
註42 「○新しい神道(しんだう)が出來た(上)池袋に新たに興された天然社 十四年前世界大戰亂を上奏した」『中央新聞』1916年8月31日朝刊 3面
註43 出口和明「天下の秋7章 大正維新」『大地の母 実録・出口王仁三郎伝』11巻 あいぜん出版 1994
註44 「●池袋の神さま大いに辯ず◇騙取にあらず◇喜捨でござる」『讀賣新聞』1917年7月17日朝刊5面
註45 出口京太郎『巨人 出口王仁三郎』講談社文庫39|1 C56 講談社 1975、原書は講談社1967刊
註46 「●神樣収監さる【6字圏点】▽池袋伏魔殿の主」『讀賣新聞』1916年12月13日朝刊5面
註47 「●池袋の神さま大いに辯ず◇騙取にあらず◇喜捨でござる」『讀賣新聞』1917年7月17日朝刊5面
註48 「改造に面した貴院物語(六)硏究會の變遷」『東京朝日新聞』1923年12月7日3面
註49 牧野忠篤「ひと頃凝つた池袋の神樣 餘り出掛けなかつた旅行の思出」結城温故會編『水野直子を語る』良書刊行會 1930
註50 白川資長「かくして結城の城跡を掘つた 親切な人だが人の嫌がることと皮肉を云ふ」結城温故會編『水野直子を語る』良書刊行會 1930
註51 「●神樣収監さる【6字圏点】▽池袋伏魔殿の主」『讀賣新聞』1916年12月13日朝刊5面
註52 小熊虎之助「第一章 心靈現象の一般性質とそれに對する硏究態度 第二節 事實調査の問題 二 事實の詭妄」『心靈現象の科學』新光社 1924
註53 「青鉛筆」『東京朝日新聞」1916年11月24日朝刊 3面
註54 豈明(周作人)「苦茶隨筆(二) 三 遠野物語」『東方雑誌』第二十九卷第二號 商務印書館 民國二十一(1923)年一月十六日、のち周作人「遠野物語」『夜讀抄』北新書局 民國二十三(1934)年所収、『王雲五主持 重印東方雜誌全部舊刊五十巻 第二九巻 第一期至第四期 民國二十一年一月至十月(1932)』臺灣商務印書館 1976 リプリント版による
註55 松枝茂夫譯『周作人文藝隨筆抄』冨山房百科文庫110 冨山房 1940
註56 周作人「我的雜學(十四)鄉土硏究與民藝」『古今 文史半月刊』第五十二期 古今出版社 中華民國三十三(1944)年八月一日、のち周作人『苦口甘口』太平書局 中華民國三十三(1944)年所収、引用は『古今 文史半月刊 第四九期至五四期 合訂本第九册』龍門書店1966リプリント版による、前引「遠野物語」にも「我所有的係二九一號。(私の有するものは二九一號である。)」と書く
註57 王京「戦前期における日中民俗学の関わり」『神奈川大学国際常民文化研究機構年報』2 神奈川大学国際常民文化研究機構 2010年8月31日
註58 王京「戦前期における日中民俗学の関わり」『神奈川大学国際常民文化研究機構年報』2 神奈川大学国際常民文化研究機構 2010年8月31日、周作人「我的雜學(十四)鄉土硏究與民藝」に「這與石神問答都是一九一〇年出版,在鄉土硏究創刊前三年,是柳田氏最早的著作,以前只有一册後狩詞記,終於沒有能够蒐得」とある。なお、钟叔河编订『周作人散文全集9(1944-1949)』广西师范大学出版社 2009に、書名を「后狩祠记」と校訂しているが、もちろん原文が正しい
註59 周作人「我的雜學(十四)鄉土硏究與民藝」『古今 文史半月刊』第五十二期 古今出版社 中華民國三十三(1944)年八月一日、のち周作人『苦口甘口』太平書局 中華民國三十三(1944)年所収、引用は『古今 文史半月刊 第四九期至五四期 合訂本第九册』龍門書店1966リプリント版による
註60 湯麗敏「周作人の「私の雑学」に関する考察」『富山国際大学現代社会学部紀要』第3 巻 2011年3月
註61 牧口常三郎「第三十章 生存競爭地論 第二節 生存競爭形式の變遷」志賀重昻閲兼評 牧口常三郎著『人生地理學』文會堂發行 冨山房發賣 1903
註62 「例言」志賀重昻閲兼評 牧口常三郎著『人生地理學』文會堂發行 冨山房發賣 1903
註63 『同窓会雜誌』第27号 北海道師範学校同窓会 1902年2月17日、『同窓会雜誌』号数不明 北海道師範学校同窓会 1902年12月、塩原将行「『人生地理学』と牧口先生」『大白蓮華』第636号 2003年6月所引、号数は三浦周次「日蓮大聖人 / 三代会長 年譜」Da Vinciサイトにより計算
註64 塩原将行「創価教育の80年―その言葉の誕生と学校設立の構想―」『創価教育』第4号 創価大学創価教育究所 2011年3月
註65 牧口常三郎「緒論 第一章 地と人との關係の概觀」志賀重昻閲兼評 牧口常三郎著『人生地理學』文會堂發行 冨山房發賣 1903
註66 柳原極堂「子規の「下宿がへ」に就て 十一」『同人』号数不明 同人社 1937年5月1日、「參考資料 1 子規の「下宿がへ」に就て」正岡忠三郎編集代表『子規全集』第十卷 講談社 1975による
註67 原田登編輯『帝國大學出身錄』帝國大學出身錄編輯所 1922
註68 東京旅館組合本部編『東京旅館下宿名簿』東京旅館組合本部 1922
註69 「●市立駒本〔尋常高等〕小學校」『風俗畵報増刊』第三百七十五輯『新撰東京名所圖會 第五十編』東陽堂 1907年11月25日
註70 「第2編 宣教100年の歩み(1908年~2008年) 第2章 戦前の神の教会の開拓(1924年~1945年)」『日本神の教会宣教100年の歩み 日本神の教会連盟100周年記念誌』日本神の教会連盟事務所 2008年8月2日
註71 黄孫(譯)「植物與人生之關係」(未完)『浙江潮』第九期 浙江同鄉會 癸卯九月二十日(1903年11月8日)、「植物與人生之關係(續第九期)」(完)『浙江潮』第十期 (浙江同鄉會) 癸卯十月二十日(1903年12月8日)
註72 自樹(魯迅)「斯巴達之魂」『浙江潮』第九期 浙江同鄉會 癸卯九月二十日(1903年11月8日)
註73 英國 威男(フランス・ジュール・ベルヌ)著 之江 索子(魯迅)譯「地底旅行」『浙江潮』第十期 (浙江同鄉會) 癸卯十月二十日(1903年12月8日)
註74 壯夫(訳)「地人學」(未完)『浙江潮』第四期 浙江同鄉會幹事 光緒二十九年四月二十日(1903年5月16)、「地人學(續第四期)」(本節未完)『浙江潮』第五期 浙江同鄉會幹事 癸卯五月二十日(1903年6月15日)、「地人學(續第七期)」(此章已完)『浙江潮』第七期 浙江同鄉會 癸卯七月貳十日 明治三十七年十月十一日(1903年10月11日)、「地人學(續第七期)」(此章已完)『浙江潮』第十期 (浙江同鄉會) 癸卯十月二十日(1903年12月8日)、なお途中から発行日の表記の清の元号を削除していることに注意
註75 高橋強「『人生地理学』と中国」『創価教育研究』第3号 創価大学創価教育研究センター 2004年3月、なお、文中に「4期、5期、7期、8期において、すでに4回にわたって」とあるのは4期、5期、7期において、すでに3回にわたって、の誤りであるが、論旨を損なうものではない
註76 高橋強「『人生地理学』と中国」『創価教育研究』第3号 創価大学創価教育研究センター 2004年3月
註77 塩原将行「牧口常三郎と通信教育―民衆のための教育を目指して―」『通信教育部論集』第3号 創価大学通信教育部学会 2000年8月
註78 塩原将行「牧口常三郎と通信教育―民衆のための教育を目指して―」『通信教育部論集』第3号 創価大学通信教育部学会 2000年8月
註79 塩原将行「創価教育の80年―その言葉の誕生と学校設立の構想―」『創価教育』第4号 2011年5月
註80 牧口常三郎『創價教育學體系 第一卷』創價教育學會發行 冨山房發賣 1930
註81 柳田國男「序」牧口常三郎『創價教育學體系 第一卷』創價教育學會發行 冨山房發賣 1930
註82 「牧口訊問調書拔粹」『特高月報』昭和十八年八月分 内務省警保局 1943年9月20日
註83 島薗進「過去から未来へ―インタビュー(聞き手 早瀬圭一) 宗教学から見た大本」早瀬圭一『大本襲撃 出口すみとその時代』毎日新聞社 2007

魯迅と日暮里(19)簇生する新宗教 小山内薫の果てしない宗教の旅」への1件のフィードバック

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