今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

魯迅と日暮里(29)南波登発の「亞細亞」への視線(4)古いものと新しいもの Something old, something new(下)

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神州会は、1890年9月22日、麴町区飯田町2丁目25番地の新事務所で総会を開き、委員メンバーに、「後藤周佐(福島)藤野富之助(埼玉)松浦武三郎(東京)新井野章三郎(埼玉)林萬田(埼玉)」が選出されている。(註1)

「●神州會組織(そしよく) 後藤周佐、藤野富之助其他の諸氏ハ今度神州會といふを設立しその假事務所を麴町區飯田町二丁目廿六番に設けたり右ハ國權の回復を圖り對等條約を結ばんが爲左の方法を以て亰濱間に着々運動を始むるの目論見に出たるものなとぞ
(一)本會ハ神州會と稱し事務所を東亰府麴町區飯田町二丁目廿六番に設く(二)本會ハ國權の回復を圖り對等條約を結ぶを以て任とす(三)本會ハ對等條約をなさんが爲めにハ身命を犠牲としてこれに當るものとす(四)本會に加盟せんとするにハ會員の紹介を要す(五)本會ハ總て役員を置かず各會員に於て責任を負ふものとす但幹事に限り官衙に對するの責任を負ふものとす(六)本會ハ對等條約の成りたる時を以て解散するものとす」(註2)

神州会の公的手続きとしては「同會設立のこと【合字】ハ曩に發起人藤野富之助松浦武三郎の兩氏より麴町警察署へ届出でしが其後同署にてハ藤野氏召喚の上政社届を出すか或ハ純然たる交際會と爲すか何れに致せ判然たる規約書を届出る樣にとの注意ありし由にて規約書十ヶ條を定め非政社組織として届出たりと」と面倒な手続きを踏んだ。(註3)

なお、飯田町の事務所は「從來(これまで)の事務所狹隘なるを以て」移転したものであるというから(註4)、政治グループとしては総会開催以前に存在していたのであろう。前年の『讀賣新聞』には、1889年10月24日、来島恒喜の初七日の際、「神州青年會」が他団体と共同行動をとったことが報じられている。

「○來島の初七日墓參り 昨日ハ兇行者來島恒喜の一週日なりとて谷中共同墓地へ午後一時より參詣せしハ平民同盟會員、青年義會、神州青年會其他の有志者百余名なりし」(註5)

また、「神州青年會」の結成は、それ以前に報じられている。組織の幹部を見ると、新場小安の葬儀に参列した山田寅次郎がメンバー的に重なっており、「神州會」の前身が「神州青年會」であった可能性がある。

「●神州青年政談大演説會  改正條約に反對の意見を有する府下青年有志諸氏が一致結合の上明後十日【1889年9月10日】淺草鷗遊館に於て政談演説會を開くよしハ前號に記せしが該結合ハ神州青年會と稱し同演説會の如きも神州青年政談大演説會と稱するよしにて其出席の辨士ハ柏葉五郎、高安龜次郎、小林千太郎、太田友次、加藤慶夫(けいふ)、本多市太郎、今井藤次郎、佐久間傳、野美國造、松澤雄夫(ゆうふ)、山田寅次郎、相澤芳造の諸氏なりと」(註6)

青年時代の山田寅次郎氏(左)『新月-山田寅次郎』より

青年時代の山田寅次郎氏(左)『新月 山田寅次郎』より

演者のうち、山田寅次郎は、茶道宗徧流の第8世家元・山田宗有である。「山田寅次郎氏は慶応二年八月二十三日、江戸芝江戸見坂(今の葺手町)なる上州沼田藩主土岐家の上屋敷に生る、」(註7)「父中村雄左衛門は沼田藩老中村官兵衛嗣同苗雄左衛門莞爾の二男なり、」(註8)「母志摩は有馬藩士の女也、」「明治元年官軍江戸に入るや、東北諸侯藩士の家族はいづれも藩の領地に難を避く、氏も亦母並びに其他の家族に赴きしが、沼田城は旣に会津征討の官兵に包圍せられ、抗戦か帰順かと詰問せらる、」交渉の結果、ようやく難を逃れ、「氏八才の時、父母に隨つて東京に出で寺子屋式の学問所に入り、後ち文部省令により小学校の制定せらるゝやこれに移り、年十六才にして茶道宗徧流家元」(註9)「山田氏の嗣となり、茶法を宗壽尼に受く、」(註10)沼田から東京に来る時、「川には筏がある。僕は筏で下る」と利根川を筏で下ったという。(註11)ただし、そのエピソードは「青年期の話」といい、8歳の時の話ではないかもしれない。(註12)

「青年期に入りてより漢学、英語、独逸語、中国語を学び、四方の志あり、更に横浜の英和学校に入り、併せて同地の佛人經営にかゝるサラベル学校にて佛蘭西語を修め、学成りて東京に帰る。」東海散士柴四郎、尾崎紅葉、幸田露伴、高橋太華、饗庭篁村、幸堂得知、淡島寒月等の文人、陸羯南、福本日南、朝比奈知泉らのジャーナリストと交友を結ぶ。(註13)サラベル学校については『君子と淑女』第壱號の書くところによれば次のような学校である。

「●サラベル學校 横濱山手尓於て夙尓洋人社會より華族學校の名稱を得たる。同校は。佛人「サラベル」氏の手尓よりて組織せられたる者尓して。專ら英學佛學の完全なる教育を授くる所なり。而して一切の法則悉く其本國の風を寫せり。方今寄宿生徒十餘名。多くは扶養の顔。黄金の髮。學識才知凡ならざる令孃なり。加ふる尓。「ミセスサラベル」の世才尓長けたる。良く其生徒を愛する巳【己】の子尓於けるが如し。現尓同校尓十一歳なる小女あり。當尓左右に纏ひ戯れり。「ミセスサラベル」の語る尓因れば。其父母事の爲め尓清國尓遊び。爾來三年妾が膝下尓養へりと。蓋し巳【己】の子を見る尓異なるなし。故尓又一般生徒も「ミセスサラベル」を見る慈母の如し。故尓其徳育の善良なるを見る尓足る。生徒尓男女あり而して其教育は皆な佛英の婦人のみ。又生徒中尓日本人三名あり。若し同校尓入る者は眞尓巴里城頭の校舎尓ある尓異なるなし。而して衣服寢食より帽靴尓至る迄。總て學校より給與し。少しも其塵垢の班点たも見る時なし。嗚呼又故尓萬里の波濤を破り。遠く校舎を海外尓尋ぬるの迂を要せざるなり。而して其一ヶ月間の諸費を問はゞ金五十二圓。若し通學者は唯僅尓十五圓のみ。(註14)

ただし、長場紘氏によれば、「明治10年代から20年代にかけて横浜にはアメリカから派遣された宣教師たちが開いた英語学校が20以上あったが,山田が学んだ学校を特定することはできない,また,サラベール学校という名前も見当たらない。」という。(註15)しかし、出口智之氏は「横浜山手居留地の住所録『BLUFF DIRECTORY』によれば、明治十五年~二十五年の間、241番地のMons. X. Salabelle氏の敷地内にBay View House Academyが存在した事が確認できる。」ことを発見。(註16)他資料によっても、次のような記述を目にすることができる。

「1880年 Mons. X. Salabelle氏 Bay View House Academy 設立」(註17)

「Salabelle, Mme., Bay View House academy, Yokohama
 Salabelle, Miss A., Bay View House academy, Yokohama」(註18)

直訳すれば「港の見える家アカデミー」。現在でも通用する名称だろう。なお、同地は旧イギリス領事館の敷地を分譲したものであり、241番地には、1895年、2軒の西洋式住宅が建てられる。
ブラフ(Bluff、山手)の 241‐Aには、フランス・エルザス(Elsàss、仏Alsaceアルザス)出身のユダヤ人ヘンリ(仏 アンリ)・ブルム(Henri Blum)が住む。(註19)彼は、ドイツ人で(註20)1847年にロシア領ポーランド(Polska)ヴウォツワヴェク(Włocławek)に生れた(註21)ユダヤ人ユリウス・ヴィトコヴスキー(Julius Witkowski、読みは推定でドイツ語読み)とともに「ウイトコフスキー商会(J. Witkowki & Co.)」の共同経営者となる。(註22)子息のポール・ブルム(Paul Charles Blum、碔瑠夢)は、この家に生れ、第1次世界大戦勃発後はアメリカ軍に志願、衛生兵として活動。戦後はパリ(Paris)に住み、アーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway)やジャン・コクトー(Clément Eugène Jean Maurice Cocteau)らと親交を結ぶ。ナチ・ドイツのフランス侵攻後にニューヨーク(New York)へ移住、ここでドナルド・キーン(Donald Lawrence Keene、日本帰化名キーン ドナルド、鬼怒鳴門)に出合い、フランス文学専攻を志望していたドナルド・キーンに対し、日本文学研究者になるよう助言を与えている。日米開戦後はOSS(情報戦略局)の要員となり、終戦後、CIA(中央情報局)の初代日本支局長に赴任している。1948年夏、横須賀走水海岸で出会った青年・成松孝安と出会い、住込みの執事に雇う。朝鮮戦争の激化の中、ポール・ブルムがCIAをリタイアした時、成松孝安に退職金、融資、人脈とアイディアを与え、スパゲティ屋を開かせる。その屋号は、ポール・ブルム自身が考案した「壁の穴」である。(註23)また、ウイトコフスキー商会は、ロシア10月革命後の1923年、ヴラディヴォストク(Владивосток)にソヴェト(Совет)政府が成立した際、同地のAnglo-Danish Trading Companyに保管していた貨物を没収されたことについて外務省に善後策を依頼している。(註24)
隣地の241‐Bには、ヤコブ・ウインクレル(Jacob Winckler)が洋館を建てて入居。(註25)モスクワ(Москва)のドイツ系銀行に勤務していたフェルディナント・ダンクヴェルツ(Ferdinand Danckwerts)らと共同経営でWINCKLER&CO.,LTD(ウインクレル株式会社)の創業者で(註26)、ナチのユダヤ人従業員追放要求に抵抗し、また、ナチの命令によって解雇させられたユダヤ人従業員に対して、きわめて遅い時期まで月々の手当を支払い続けている。(註27)

山田寅次郎については、伝記には書かれていない経歴も多く知られるようになってきている。出口智之氏は、後述する露伴幸田成行『書生商人』を出発点に多くの事実を発掘している。(註28)
まず、山田寅次郎は東京薬学校で学んでいる。1884年11月23日、「東京藥學校開校式」と同時に行われた「卒業証書授與式」における卒業生7人の中に山田寅次郎の名が見える。(註29)また、1888年10月1日には雑誌『君子と淑女』を創刊する。同誌は同年中に第3号まで発行されたと見られ、第6号まで刊行されたらしい。『女學雜誌』によれば、1888年12月中に発行された部数は、東京府下510部、他府県で350部の計860部で、同時期に刊行届出された女性雑誌11誌のうち7位とまずまずの健闘である。(註30)

翌1889年8月、保守党中正派の機関誌『保守新論』に条約改正反対の論陣を張る。その最初と最後を引用する。

「今我三千九百餘萬人衆の中唯僅に改進黨一派の輩を除くの外は悉く怒髮冠をつき切齒扼腕斯の國家の爲めに身命を投うち斯の國家の爲めに筆舌を爛らし敢て現任大臣大隈伯の取る所の外交政畧に反對し連聲大呼以て其新條約の中止を望む余輩豈に生れなからにして大隈伯と仇敵たらんや唯其執る所の主義彼の如くならんには我國家に不利不幸なるの故を以てなり何を以て不利不幸なる主義と云ふ請ふ之を述べん」

「今や現任外務大臣大隈伯ハ外交政策の方針を誤り我三千九百餘萬の衆をして心を安からざらしむるの域に沈淪せしめんとす慷慨悲憤國を憂ふるの士豈に手を袖にして落花を見るが如き觀をなす可き時ならんや即ち祖宗の神烈ハ力を余輩三千九百餘萬の臣民に藉し余輩臣民をして血淚を振ひ切齒扼腕以て此條約改正の中止を朝府に請ふに至らしむ故に余輩臣民此擧をして中止せしめるとハ一に余輩臣民の誠忠誠美の如何にあり余輩臣民たる者誰か力を一にし心を恊へ團結以て我朝府に請ひ此新條約の中止を促さヾる若し不幸にして萬一此新條約の行なハるゝありとせんか我祖宗の經營せし神州ハ終に如何に爲るべきや知る可からざるなり然らバ則ち余輩臣民の奮ふと奮ハざるは終に神州の興亡如何に在り余輩臣民豈に奮はざるを得んや
今更に一言せんに首を上て彼の富岳を見よ富岳ハ雪を帶ひて千歲白し首を俯して彼の東海を見よ大海波徐にして萬年碧なり嗚呼斯山斯水千秋萬歲絕て異なるなし唯我國のみハ如何に變り往くやを知らず誰か忠義の心を奮ひ誰か忠義の身を起し斯國をして富岳と東海の美に置くか他なし望み我同志にあるのみ望み我同志にあるのみ」(註31)

大隈外交と条約改正に対して反対して蹶起せよとの大アジテーションである。しかし彼の所属する保守党中正派は文字通り「保守」と「中正」を党の主張として掲げており、自由党のような激しい運動は望むべくもなかったろう。
1889年8月25日から3日間、久松町千歳座で開かれた「全國同志聯合大演説會」には、植木枝盛、河野広中らに交り、初日「國民之元氣」の演題で演説をしている。(註32)同演説の速記記録は、『新演説』に残されている。これについても最初と最後を引用しておく。

「滿堂の諸君 彼の 亢乎たる青山の千古に亘りて變ぜざるハ其の基礎の強大なるが故にあらずや、國家も亦斯くの如し、其の基礎強且大ならざれバ、一國ハ隆盛なるを得ずして却つて覆滅するハ、古今の史乘ハ余輩に代ツて之れを諸君に証明するなり、嗚呼諸君 彼のエヂプト、彼のアンナン豈眞に然るにあらずや、而して亦未だ全く覆滅せざれども漸く將に覆滅に垂んたる彼のハワイ、彼の朝鮮豈危うからずや、吁彼等が曾て國を祖宗に承くるや未だ之れを覆滅せよ之を破壞せよとの遺訓ハ聞かざりしならんに、而して今や斯く淺間しき体を生出したるハ何ぞや、空飛ぶ鳥さへも梢に咲く花さへも、昨日までハ我ものよと思ひしに、今日ハ他人のものぞかし、思ふて是に至れバ胸塞りて語るに忍びざるなり、」

「若し國民奮ハず、此の不面目千萬なる條約を此のま〻斷行するあらバ、我が神州の前途ハ果して泰平なるべきや否や亦未だ知る可きにあらず、今や輿論大に起り、反對の説四方に生ず、而して未だ當局者を動かすに至らざるハ何ぞや盖し國民の元氣に足らざる所あるが故にあらずや國家の存亡に關するの大問題にして國民の大に奮ふなきハ何ぞや、嗚呼國民奮へよ、奮ツて以て不都合なる條約を中止せしめ國民の元氣薄弱にして、斯る條約を成立たしむるに至ツてハ、余輩何の面目あツてか上祖宗に見へ下子孫に對すべき、國家を思ふもの豈晏然袖手すべきの秋ならんや滿堂の諸君、願ハくハ汝の元氣を振作して國家の爲めに努力せよ、神州の爲めに努力せよ、余輩も亦微力を振ツて國家の爲めに斃れんことを望むのみ」(註33)

いずれも大アジテーションの中で「神州」のタームが連呼されていることが注目される。これが「神州青年會」の名称に結実するのであろう。

幸田露伴-明治二十年頃『露伴全集-第七巻』より

幸田露伴 明治二十年頃『露伴全集 第七巻』より

文学作品で取扱いは難しいが、郡司成忠の弟で余市の電信技士の幸田成行が、「露伴」名で友人である山田寅次郎をモデルに三人称単視点小説『書生商人』を書いている。山田寅次郎がモデルと見られる旧友「吉田實」が、豚鍋を肴に酒を酌み交わしつつ、露伴幸田成行自身がモデルと見られる「山口某」と語り合っている。

「そも〱君に初めて會つたは彼(かの)の【「の」は衍字】貴女雜誌を僕が起した當時であつたが彼(あの)雜誌で今實際を白狀すれば收支何分(なにぶん)償(つくな)はぬと君等に云ふて居つたけれど最初は七圓半ほど儲(もふか)り二號には五圓ほどの利を見た、ところで三號めは發行期日を後(おく)らしたゝめといふでもあるまいが三圓ばかり損となつたで四號五號と出しは仕たが紙屋の方に拂ひをせず、それから愚圖々々廢刊の結果は雜誌に經驗のあるといふのを名として彼(かの)頑固政黨が機關雜誌を出(いだ)す塲合に潜り込み最初は可なりに運動の費用も取つたが事理(じり)の解(わか)らぬ奴等(やつら)が多い黨の事ゆゑ折角獻ずる僕の奇策をいつでも危ぶみ疑つて用て吳れぬが癪に觸り、喧嘩はするだけ後日の損と奇麗に黨からそれとなく脱しは仕たが夫からは二月三月何事もせぬ内早くも今日限きりで今年を終る事となつたが、見玉へ僕も政黨なんどの馬鹿々々しいのも見破つたし兎や狸の毛を咬んで世を渡るのも小さい事と悟つたしす上からにはもう政治にも文學にも當分喙(くち)は出さぬつもりだ、ムヽ此豚も中々美味(うま)い、豚といへば養豚會社を立てるといつて學問上は君に大槪調べて貰ひ、實際上は僕が見るといふので千葉縣へ行つたのは政黨へ入る直(す)ぐ前(まへ)の事であつたが彼樣(あのやう)な詰らぬことは無かつたな、散々臭い思ひをして、結果は遂に豚牧(ぶたかひ)は我が邦にては利を見難しと僕が斷定して仕舞ふて事業の自殺は可笑しかつた、」(註34)

「吉田實」について、「山口某」は、交友の途絶えた頃に「自己が友なる笹沼何某といふ藏書家」からその消息を聞く

「どうも中々感心な人で、なんでも最初は墨光社といふ活版所の事業の暇(ひま)なのに切り込んで、何と亭主を説伏したか二千五六百頁の書を賣上げの上印刷代紙代製本代精算しての利益等分といふ約束を結び尚何程かの金員を引出して著述にかゝつたは即ち東京通鑑と名を打つた重寶便利なもので、大凡東京にありとあらゆる各官衙各會社銀行より初め茶屋遊船宿まで悉皆列記しそれに關係あるものまで一〻名を擧げ屋號を記し各〻(おのおの)其道々(みち々)の利益になる事を記載しました、假令ば書家の部を見れば一六居士三洲居士の宿所も瞭然たるのみならず何といふ者より手蔓を求めて一字何程で揮毫して貰ふことが出來るといふまで書てある又代言人の部を見ても其如くなり、角力俳優の部を見ても其の如く精詳なり、鐡器は何屋〱陶器は何屋〱下駄傘は何屋々々何でも彼でも東京中のこと洩さず記載してある故其便利さは云ふまでも無い、旣に紳士錄なんといふものさへ重寶がられるに况して此は百般に涉つて明細なものなれば實に重寶には相違ない、してまた何樣(どう)して其程(それほど)のものを作り上げたかといふに其處が彼男の鋭いところで、書生上りのごろつきは目下非常に多いのみか孰(いずれ)
も食へず飲めずで居るを極めて低い日當で澤山引込み分擔法(ぶんたんほふ)で一々實際調べさしたが、其處(そこ)にもまた我々の氣のつかぬことがあるは他でも無い、其書編纂の趣意書を振りまはして何(なに)か彼(か)か辯を振つて居ると中には其書に載(の)せられること【合字】を切(しきり)に望む者かあるより自然何程か收入になる道理なので、前〻より出來て居る東京買物案内などいふ書或は商家番附花柳一見などいふ類なんぞは、實は一軒一軒に、今度かういふものを作るについては其御店の廣告にもなる故書物の上で其御店の塲席を取るところだけの費用に相當の補助をして吳れと云ひこんだものゝよし、然(さ)すれば多數の同業の顔も並ぶ中に自分の家ばかり惡く出されても暖簾に障ることゆゑ宜敷御願ひしますと五十錢なり壹圓なり内は迷惑ながら包んで出す慣例(ならひ)だといふ話し、まあ其樣な含みもありあれやこれやにて小金も廻つたか首尾よく忽ち出來上り、印刷にかゝる、製本にかゝる、電光石火と書物が出來たや否や例の書生共に、今度は何部賣りつけて來れば何分とか何朱とかを與へる約束で其書の中に載(の)つた者中へ遺失(おち)なく其書を持ち廻(ま)はらせた、隨分いりませぬと退けたもあろうが餘分な錢嵩でも無し辭退るも面倒と取(と)つて置いたもあろう、紙包みを破つて明け見た上は買はずに戾(もど)されもせねば不承知でも買ふやうになる譯で自然其書も十の七八は賣れたとの事、其處(そこ)にまた一つ鋭いことには、もう見切り時と見てとつて其餘りを或る小山氣のある男に悉皆賣りつけて金にして仕舞つたのだ、さうして今は流行に乘じ古書翻刻を盛んにやる片手間に、例の編纂中花柳の事客商賣藝人の事を載するより自然知り合ひとなつた各區の顔役といふ輩と交際をはじめそれらの輩の文字も無く理屈も了(わか)らぬ中に自己(おの)が文才辯才を貸す返報としては其等(それら)が威勢人望を借り、自然藝人共を頥使して何の會彼の會の發起人ともなれば世話人幹事ともなり早くも自己の名聲を兎に角或る部分に作つたとは實に感伏驚き入つた素早さで此後どのやうなことをして行くか知れぬそれに無益(むだ)な酒一つ飲まうでは無し居ながら交際は中々表面(おもて)を張つて行くから信用は隨分無い方では無し、おもふに何か事あらば出版物ぐらゐな小さな商買(しやうばい)は取つて捨てゝ一ト働(はたら)き働(はたら)かうとおもふて居るに相違無(さうゐな)いと面白半分に笹沼は知つたゞけを語りぬ、」(註35)

文中、『東京通鑑』とあるのは『東京百事便』(註36)のことである。(註37)また、「書家の部を見れば一六居士三洲居士の宿所も瞭然たるのみならず何といふ者より手蔓を求めて一字何程で揮毫して貰ふことが出來るといふまで書てある」というのも事実とは異なり、細部の記載はフィクションに属する。ただし、文学作品であるという限定付きではあるが、壮士のアルバイトを作りだして商売を成立させたことや、俠客と見られる「各區の顔役」を「會の發起人ともなれば世話人幹事とも」していると書いていることに注意されたい。作品の記載内容の真正性とは別に、壮士の「勞働」、俠客と自由民権運動が関わった時代の様相をこの作品の中に読み取ることができると思う。

山田寅次郎は、演説「國民の元氣」の中で「彼のエヂプト」と叫んでいる。実際、山田寅次郎は、この直後にエジプトに渡ることになる。事の発端になったのは、以下の事件である。

Osman-Nuri-Paşa『Ertuğrul-Fırkateyninin-Japonya'ya-Yolculuğu』1858-1890-wikipediaによる

Osman Nuri Paşa『Ertuğrul Fırkateyninin Japonya’ya Yolculuğu』1858-1890 wikipediaによる

ここからは、できる限り、山田寅次郎自身の言葉を使って語らせてみよう。

1890年9月16日夜半、オスマン帝国(دولتِ عليۀ عثمانيه‎、ラテン文字転写Devlet-i ʿAliyye-i ʿOs̠māniyye)から遠路日本を訪れたエルトゥールル号(Ertuğrul Fırkateyni)が、日本訪問を果しての帰途、紀州灘において「圖らずも非情な暴風に遭ひ其上機關を損じたのであります。初めは海岸から二十浬の邊を航行して居つたのでありますが、だん〲大波に打寄せられて十浬の邊迄來たのであります。が、肝腎な機關を損じてをるから自由が利きません。仕方なく錨を入れようとした際に、又非常な怒濤が來まして、艦を陸の近くの巖石に打上げました。その樫野崎といふ所は常は風光明媚な所でありますが幾千年となく太平洋の波と鬪つてをる所ですから、陸地の土は無くなつて岩ばかり殘つて居るといふ風ですが、そこへ艦は打つけられてしまつたのであります。だから此艦は沈沒したのではなく、岩に打つかつて壞れたのであります。乘込員六百五十人の大槪はみな波に浚はれ唯僅か六十一人だけが漸く助かつたのであります。」「そのうちに夜が明けたので見ますと、此の人々の外に海岸に澤山の人が倒れてをる。それを救けねばならぬと云ふので、島民總動員で救け上げた者が六十一人でありました。そして村に於て二日ばかりいろ〱と救護しましたが、何しろそこは大島といふ一島なので物資の供給が十分に出來ない。又醫者が三人居つたが、うち一人だけが大阪の醫學校を卒業したばかりの若い醫者、他は漢法の老先生でした。村民達は自分らの浴衣を裂いて繃帶の代用としたり種々盡力しましたが、到底充分の治療が出來ないといふので一行を神戸へ移して病院に入れました。」(註38)

事故が起きたのは、ノルマントン事件の発生したのと同じ現場である。現地では官民による救援活動が展開されたが、山田寅次郎もいち早く行動を起こす。その動機は「亞細亞洲中國を立つるもの少なからずと雖、儼然獨立國の體面を保ち、世界列強と比肩し得べきものは、我が帝國の外、唯土耳古と清國とあるのみ。近者土國の國勢振はずといふも、歐洲の各國に大使を派し、兵馬數十万を備ふるが如き、决して他の貧弱國の比すべきに非ず。我が邦人地を同洲に占めて、而して未た土國の情勢に通ぜざるは、殊に遺憾といふべし。况や彼遠く軍艦を派して我に修好を求めたるをや。不幸にして其艦は歸途沈沒の厄に遭ひ、使命を全うすること能わざりしと雖、其情義は永く沒するべからず。」(註39)と、壮士時代の主張そのものである。新聞では次のように報道される。

「紀州灘の藻屑となりたる土耳古軍艦の乘組員を吊(てう)し且その生存者を救助する爲め山田寅次郎、指原安三、山崎太吉等の諸氏發起者となりて義捐金を募集し應募金額は外務省へ願出でそれ〱配金賑恤すること【2字合字】なさんとて昨今奔走中なるが右の諸氏ハ尚一昨廿一日より府下十五區各所に於て遭難者追吊演説會を開くこと【2字合字】になせり」(註40)

「熱血の山田寅次郎氏は、この報に接するや奮起、先づ日本新聞社の先輩陸羯南、福本日南の両氏に面会、土耳古は遠く軍艦を派して我皇室に敬意を表し、将来修好の誼を求めんとせしも使節以下この災厄に逢ひしこと同情に堪へざるものあり、義心に強き日本人は此際速に朝野に義捐金を募り、遭難生存者と死亡者遺族を慰むべき事を力説せり、陸、福本両氏等この言に動かされ、氏の主催せる演説会、演芸会等を扶け義捐金募集に協力せられたり。」(註41)

義援金総額は5,000円に達し(註42)、「一意出發の凖備に力むる折しも、比叡艦長田中【綱常】大佐の同國から歸朝せらるゝあり、予が企圖を讃し、訓誨示導せらるゝこと深く、且つ土帝の日本人を待つことの切なる由を説かる。偶々新造軍艦松島囘航の爲め、同委員長鮫島大佐〔故海軍大將〕の士官以下水兵百七十餘名を以て、英國パサン號に搭じ佛國ツーロンに向ふあり。予即ち請ふて、便乘の榮を得、廿五年一月卅日を以て横濱港を出發す。」(註43)なお、これについては「氏は外務省に至り、外相青木周蔵氏に面会し、今度の一切を述べて携える処の義捐金を土耳古政府へ送附手続を請ひたり、外相熟考の末云へらく、之は君の義心に出でしものなれば君自ら携へ土耳古に赴きては如何、」(註44)と言われたとの説もある。
なお、「松島」(4,217t、主砲32cm砲1門)の新造は、清国の戦艦「定遠」(7,144t、主砲30.5cm連装砲 2基4門)、「鎭遠」(7,220 t、主砲30.5cm連装砲 2基4門)の威力に戦慄したためといわれる。なお、日清戦争における海戦後、艦隊司令官でおしかさんの思い人・丁汝昌は服毒自死する。
エジプト(مصر、Miṣr)のカイロ(القاهرة‎, al-Qāhira)に到着した山田寅次郎はアブドゥルカディル・パシャ首相(Abdülkadir Paşa)に面会、午餐を共にする。「予其厚意を謝し、歸寓の後古代の日本刀及び東京出發の際諸友と與に撮影したる寫眞一葉を贈呈せり。」(註45)
数日後、アレクサンドリア(اسكندريه)から便船を得てイスタンブル(İstanbul)に到着。サイド・パシャ外相(Mehmed Sait Paşa)に面会、来意を告げると夕刻の晩餐に招かれる。「越えて一日、海軍大臣ハサンパシヤより義捐金贈與に對する禮使あり。此日予は携へ來れる傳家の甲冑明珍作一具及び金造の太刀一口を皇帝陛下に献上せしに、太刀は御手元に、甲冑はセラグリオ宮の寶庫内に陳列の榮を負へり。」(註46)

しかし、実際のところは、山田寅次郎はフランス語しか話せないため、サイド・パシャは使者を派遣、トルコ(Türkiye)在住の日本人・野田正太郎(金角江漁)を通訳として迎えに行く。

「今朝一人の日本人パシヤの邸に來り種々紹介狀樣のもの取出し用ありげに話せども邸の者英語に通ぜず佛語のみにて、ふつごう千萬、最早一二時間に相成れども未だ何事とも分らず御近所と申し兎角此方へ伺ひたり乍御足勞早速御出を待つ」(註47)

会ってみると「東京三々文房主山田寅次郎氏にして今度日土貿易の端緒(たんちよ)を開(ひら)かん爲め若干の商品並に彼の頃より殘(のこ)りしエルドグロー號の義捐金携へ此地に到りしものと事早くも分りければ」外相との会談を無事に終え、意気投合。(註48)「日本一の總理大臣にならうの支那四百餘州を席卷(せきけん)せんとの氣位のみ高くして心衛拙(つたな)き少年子弟が」汁粉を作ったりして楽しい時間を過ごしている。(註49)ただ、アレクサンドリア港から発送を依頼した荷物が届かず、2週間に及ぶ不安の日々が訪れるのだが。(註50)

さらにアブドゥル・ハミトII世(II. Abdülhamid)に謁見、スルタンから「是非殘つてくれといふ皇帝の思召しでありました。しかし私は殘つてもやることがないが、どうすれば好いか、といふと、日本と土耳古は將來條約を結ばなければならんが、言葉がお互いに分らないから、お前はトルコ語を覺えよ、又その代りとして土耳古の士官に日本語を教へよ、といふことになつて陸軍大學に二室を與へられ、其處に居つたのであります。それから三年程經つて向ふの人も日本語が分るやうになり、私もトルコ語が分るやうになつた。それで歸らうとしたら、もう少し殘つて貿易の途を開けといふことであります。」(註51)しかし、野田正太郎によれば、日本‐トルコ貿易は最初から山田寅次郎の計算に入っていた。

土国在留中山田氏服裝の一部『新月-山田寅次郎』より

土国在留中山田氏服裝の一部『新月 山田寅次郎』より

いずれにせよ、こうして30年にわたる山田寅次郎のトルコにおける生活が開始される。
1893年8月4日付の『毎日新聞』(今の『毎日新聞』は、当時は『東京日日新聞』で別)に1人の日本人ムスリムの消息が報道される。原情報は外紙に掲載されたらしいが、その探索は困難である。

「●回々教日本に入らんとす  最近の或る西字新聞に回々教日本に行はれんとすとの奇異なる一記事あり今譯出して讀者の瀏覽に供すべし
同新聞は記して曰く從來東洋に於て毫も回々教旨に侵染せざりしものは實に日本の一國ありしのみ第九世紀及び第十世紀の頃に於て亞剌比亞の宣教師が支那の各地方に進入せし時にも日本は依然として是等外國の感化を受けざりし然るに日本人は其特質として極めて新奇のものを好むの風あれば其宗教に關してもまた其從來の神道主義佛教主義孔子主義若くは道學主義等を倦厭し來り遂に日本現時の年少者等は彼の外種の宗教を注意するに至れり而して曩きに耶蘇教を以て其國教となさんとの議ありしも是は已に全く消滅に歸して止みたるとなれば今や實に回々教が其勢力を日本に振はんと試むるの順番に當りたるものと謂ふべきなり是より先き二年以前に於て日本貴人の年若きもの一人特に苛蘭(コーラン)を硏究せんとて土京コンスタンチノープルに來りたるに土耳古皇帝陛下は非常に之を優待し日本人の此擧は其將來宗教上に於て土耳古が主宰の位地を保ち得べき機會を與ふるものなりとし頗る之を賛成し特に一人の回々教師を指定し以て其硏究の師範たらしめたり幾(いくば)くもなくして此貴人はアブダルハリルと名乘りし後二年間は頗る其硏究に刻苦せり而して今や此アブダルハリルは已に學成り本國に歸りたれば其結果として右アブダルハリルは果して能く其回々教を日本に擴め得るや否やを注意するは最も面白きことなるべし云々」(註52)

長場紘氏によれば、この「アブダルハリル」こそがスルタンのアブドゥル・ハミトII世からアブドゥル・ハリル(Abdülhalil)の名を与えられた山田寅次郎であり、近代以降の日本人初のムスリムであることが推測されるとする。(註53)

日清戦争及びそれに引き続く台湾民主国との戦争の結果、日本が台湾を占領すると、後藤新平民政長官の元でアヘン漸禁政策が取られ、アヘンが専売化される。

「臺灣民政長官をして居られた後藤新平閣下から、土耳古の阿片調査を命ぜられたのでありますが、その後幸ひ臺灣の方で土耳古阿片をお用ひ下さいました。」「當時臺灣は日本の領土になりまして、其喫用を止めさせやうといふ事でしたが、從來から阿片を喫んでゐた者は之を一時に止めると熱が出て非常に苦しむから、それで當時喫んで居る者だけに鑑札を渡して引續いて喫ませることになつたのであります。」(註54)

しかし、黄昭堂によれば「驚くべきことに阿片製造は昭和十九年九月にようやく中止された。阿片専売の終止は、第二次大戦終戦二か月前の昭和二十年六月十七日、日本の台湾支配五〇周年記念日になってからである」という。黄昭堂は、アヘン漸禁策は「不健全な台湾総督府財政の穴を埋めるため」であったと推測する。(註55)ヨーロッパ世界によるアジアへの侵略に反発した山田寅次郎にあっても、自国の植民地の人々への想像力は欠如していたのである。

さて、魯迅の末弟の周建人によれば、魯迅は2振りの短刀を所持していたという。

「魯迅有兩把短刀,一把短些,兩邊有刃,作短劍形,裝有黄漆的木頭短柄,有黄漆木套,是在日本留學未久,因爲覺得樣子有趣買來的。曾經送我玩,一直放在我這里。直到遷居北京後,我又放在他那里了。一把長些,作刀形,式子很舊,兩面平的,沒有血槽,裝一個白木頭的柄與套,套兩半合攏,用白皮紙條卷轉粘住,是一轉也不堅固的。魯迅説:這一把刀是日本一個老武士送給他的。他怎麽與那武士認識,我沒有問他,聽他所講的情形猜想起來也許是他的房東或近鄰,所以常遇見的吧?老武士告訴他:那刀曾經殺過人的。刀面除却略有鏽斑之外,別的地方很光滑而亮,但鋼質我疑心並不怎樣好,因爲我把它戳在板壁上,拔下來時彷彿刀頭有點歪了(當然也因爲拔的方法不好)。不過殺人還是可以的,因爲人的皮肉究竟沒有那麽硬。
那個送刀給魯迅的老武士還講些故事給他聽,其中有日本人殺戮美國教士的故事。老武士説日本維新以前,有一回慘殺了幾個美國教士,不久美國就起兵問罪,兵船開進東京灣。日本無法抵抗,就叫鬧事的人都跪在下面,一一切腹。其中一個,切到中途,腸子流出來了。這樣死了,一切事情也就此結束了。
老武士又説:闖出來的亂子是樣結束了,但日本認爲是件恥辱,許多人覺得謀自強急不可緩。這是給日本維新的一個極大的刺激!
不管那老武士所講的故事的眞實性有幾分之幾,那時候美國艦隊開進東京灣的事是有的。他相信有過這樣一回事,而且相信受辱必須圖報復的。内山書店有兩個姓鎌田的人,年紀較輕的一個,人家叫他小鎌田,原係隊伍軍人,對人也看不出有什麽各異,倒像很有禮貌的。『一・二八』上海戰爭發生時,他曾參加在軍隊裏幇過忙,後來因病回到日本去了。經過一個時期遂死了。後來知道,他病重之時,聽到一個學歷史的日本人講了很早的時候,中國也曾被元兵侵略時,忽然嘆息道:『天呀,給我好起來呵,我要回到上海去重新做人啦。』聽説因爲傳説他的祖先之一曾爲元兵侵日先鋒隊所殺,他便乘『一・二八』戰事,慘殺了些江灣等處的農民以事報復,直到聽了那硏究歷史的人的話,才知上海人和元兵的關係並不如他以前所相信的那樣。實際上,元兵的先鋒隊雖曾到過日本,小鎌田有無祖先被殺是很可疑的,一個普通人家的家族,罕有四五百年前的祖先如何死去還明白記得的。十分可能的倒是他受了日本統治者侵略教育的仇恨人類的思想教育的毒,要是不然,卽使先前確有一個遠祖爲元兵所殺,也決不至于今日遠要這樣尋仇報復的。
上面的事是『一・二八』以後相隔相當久遠,魯迅打聽了來對我講的。魯迅也以爲要是不知道這些事情,想不到表面上很有禮貌的小鎌田,心裏却正相反,却處處在想待機報復呢。」(註56)

事実関係については、誤りが多い。ただし記述の中心点は、日本留学中に日本刀を「老武士」から入手しているということである。黄乔生氏は「佐藤喜东治原是幕府时代的藩士,家藏许多剑刀。鲁迅在他家住宿时,他年已六十岁,身体魁梧,灰白色胡须直垂胸前,热心公益事业,乐于照顾中国留学生。鲁迅离开时,佐藤赠给鲁迅一把“白壳短刀”作纪念。」ということで、仙台での魯迅の下宿の主人である佐藤喜東治から与えられたものと推定する。(註57)しかし、黄乔生説において出典とされる竹内実「仙台と短刀」では、それほど断定的なことは書いていない。魯迅の仙台における最初の下宿の家主であった佐藤喜東治の孫にあたる竹中正雄氏の証言「佐藤喜東治氏は仙台藩の藩士だから刀剣をいっぱいもっていて、それを売って生計の足しにしたり、人にあげたこともある」(註58)をもとにした竹内実の想像である。証言の原文は「喜東治氏は旧藩士だったので、刀や槍の類を数多く持っていた。これらは質入れして生活の足しにする事もあったが、親しい人々にはただでくれてやったりしていた。」である。(註59)竹内実の仮説について、菅野俊作もその可能性が強いとし、旧版『魯迅全集』の編集に携わった唐弢も「很可能。」という。(註60)

佐藤喜東治『仙台における魯迅の記録』より

佐藤喜東治『仙台における魯迅の記録』より

竹内実はさらに、秋瑾の持っていた短刀が魯迅によって貸し与えられたものと推測し、その思念は生涯続いた。(註61)増田渉もかつて同じ疑問を持ち、周建人に尋ねたことがあるというが、唐弢自身が周海婴を通して周建人から得た回答は「不可能!」であったという。(註62)

鈴木信太郎は、北京滞在中、1903 年4 月に秋瑾に日本語と英語を教えており、永田圭介氏及びマルクス経済学者の内田弘氏によれば、その際に一振りの日本刀を贈った可能性が高いという。(註63)鈴木信太郎は、同姓同名のフランス文学者とも画家とも別人。1874 年生れ、東京帝国大学を卒業したのち京師大学堂師範館(北京大学)に在職。その後、1906年から翌年にかけて、統監府の下部組織として編成された間島督務庁の総務課長・篠田治策の下で史料調査と研究に従事、報告書『清韓国境問題沿革』を作成している。国境不明瞭で多くの朝鮮人が移住した「間島(간도)」は、この後も日中朝間の紛争地域となる。高句麗(고구려)や渤海(발해)の問題は、中国・韓国間の歴史認識問題としても現在進行形であるが、間島の存在は、マス・メディアでの報道(註64)を通じて宋教仁にキャッチされ、反満復明の革命拠点として認識される契機ともなった。のちに間島は、河南省のムスリム出身の(註65)共産主義者・楊靖宇(馬尚徳)将軍率いる東北抗日聯軍の活動舞台の1つとなった。聯軍の組織内で、第一路軍第二軍第六師長となったのが金成柱(김성주)、すなわち金日成(김일성)である。(註66)楊靖宇は、1940年2月23日、間島に隣接する通化省の山間で部隊を失って単独行動中、日本軍と遭遇、銃撃戦の末に射殺される。(註67)

鈴木信太郎とその所持する日本刀については、秋瑾に一篇の詩がある。

「日本鈴木學士寶刀謌
   
鈴木學士東方傑    鈴木学士は東方の傑にして
磊落襟懷肝膽裂    磊落たる襟懐に肝胆は裂く
一寸常縈愛國心    一寸常に愛国心を縈(まと)ひ
雙臂能將萬人敵    双臂は能く万人を将ゐて敵(あた)る
平生意氣淩雲霄    平生の意気は雲霄を淩(つ)き
文驚坐容翻波濤    文は坐容を驚かし 波濤を翻へす
睥睨一世何慷慨    一世を睥睨して何の慷慨ぞ
不握纖毫握寶刀寶刀  纖毫を握らずして宝刀を握る【寶刀2字衍字】
寶刀如雪光如電    宝刀は雪の如く 光は電(いかづち)の如く
精鐵鎔成經百煉    精鉄は百煉を経て鎔成さる
出匣鏗然怒欲飛    匣(はこ)を出せば 鏗然とし怒りて飛ばんと欲し
夜深疑共蛟龍戰    夜の深みに 蛟龍と共に戦ふかと疑ふ
入手風雷繞腕生    手に入れば 風雷の腕を繞りて生じ
眩睛射面色營營    睛を眩まして面を射 色は営営【熒熒】たり
山中猛虎聞應遯    山中の猛虎 聞かば応に遯(のが)れ
海上長鯨見亦驚    海上の長鯨 見れば亦た驚かん
君言出自安綱冶    君は言ふ 安綱の冶自(よ)り出で
于載成川造成者    于載【千載カ】 成川の造り成す者
神物流傳七百年    神物は七百年を流伝し
於今直等連城價    今に於て直(あたひ)は連城の価(あたひ)に等し
昔聞我國名昆吾    昔 我国に聞く 昆吾【宝剣の名】と名(い)ひ
叱咤軍前建壯圖    軍前に叱咤して壮図を建つ
摩挲肘後有呂氏    肘後を摩挲すれば呂氏有り
佩之須作王肱股    之れを佩けば須らく王の肱股と作(な)るべし
古人之物余未見    古人之物なれば 余 未だ見ざりて
未免今生有遺憾    未だ今生に遺憾有るを免れず
何幸獲見此寶刀    何の幸ひか 此の宝刀を見るを獲て
頓使庸庸起壯胆    頓に庸庸【じぶん】を使(し)て 壮胆の起こる
萬里乘風事壯遊    万里風に乗りて 壮遊を事とし
如君奇節誰與儔    君が如き奇節 誰ぞ与(とも)に儔(たぐ)へむ
更欲爲君進祝語    更に君が為に祝語を進ぜんと欲す
他年執此取封侯    他年此れを執(と)りて 封侯を取るべし」(註68)

服部繁子画く秋瑾像「秋瑾女士の思い出」『季刊東西交渉』より

服部繁子画く秋瑾像「秋瑾女士の思い出」『季刊東西交渉』より

「磊落」、「意気」、「慷慨」、「壮胆」、「壮遊」。いずれも「壮士」的な独特のタームである。文闘よりも武闘を選択した秋瑾の決意表示であると同時に、自由民権運動の歴史の流れの中に秋瑾が存在することも分かる。日本の風俗に中国の古俗を重ね合わせて賞揚する周作人といい(註69)、日本刀に魅了された秋瑾といい、たんに日本の先進的な部面にのみ注目しているのではない。新時代をキャッチアップする意向は持ちつつも、むしろ、日本社会の旧い要素に惹かれているのだ。そして、それは自らの勉強する学校を神僊の異郷を意味する「仙臺」に決定し、枕元に日本刀を置いた魯迅にあっても同様であろう。
一方、日本人の側においても、自由や民権の主張にあたっては、なげきかなしむ「悲憤慷慨」、また、エクセサイズ、ムーブメント両様の意味を持つ「運動」というコトバが盛んに用いられる。(註70)形容詞的な情念のコトバ、あるいは動詞的な動きを意味するコトバが、漢語化されたがゆえに概念化して結晶し、自らの行動の立脚点に据えうるモノないしはコトとして対象化されたのである。古代漢語が持つ「意味を収斂する機能」は、「労働」、「哲学」、「進化」、「民族」、「民権」その他の新規なコトバを作りだし、新時代における多くの概念を、海や海峡を超え、あたかも世界通貨のごとくに汎東アジア的に通用する記号として創出したのである。

 


 

註1 「○神州會」『讀賣新聞』1890年9月25日朝刊2面、ほぼ同文の記事が「●神州會の運動」『東京朝日新聞』1890年9月25日朝刊2面として載る
註2 「●神州會組織」『東京朝日新聞』1890年9月17日朝刊2面
註3 「●神州會の届出」『東京朝日新聞』1890年10月2日朝刊1面
註4 「○神州會」『讀賣新聞』1890年9月25日朝刊2面、ほぼ同文の記事が「●神州會の運動」『東京朝日新聞』1890年9月25日朝刊2面として載る
註5 『讀賣新聞』1889年10月25日朝刊1面
註6 「●神州青年政談大演説會」『讀賣新聞』1889年9月8日2面
註7 山樵亭主人「幼時と沼田城」『新月山田寅次郎』岩崎輝彦私家版 1952
註8 山田宗有「代々の宗家」『山田宗徧傳』知音發行所 1928
註9 山樵亭主人「幼時と沼田城」『新月山田寅次郎』岩崎輝彦私家版 1952
註10 山田宗有「代々の宗家」『山田宗徧傳』知音發行所 1928
註11 生方たつゑ「山田宗有氏覚え書き」『知音』号数不明 財団法人茶道宗徧流不審庵 1975年1月、出口智之「幸田露伴と山田寅次郎―「書生商人」と「酔興記」をつなぐもの―」『日本近代文学』第74集 日本近代文学会 2006年5月15日所引、発行年月は出口智之「幸田露伴と山田寅次郎―「書生商人」と「酔興記」をつなぐもの―」『日本近代文学』第74集 日本近代文学会 2006年5月15日、発行所名は山田邦紀 坂本俊夫『明治の快男児トルコへ跳ぶ』現代書館 2009による
註12 生方たつゑ「山田宗有氏覚書」『知音』号数不明 財団法人茶道宗徧流不審庵 1975年1月、坂本俊夫「第五章 エルトゥールル事件までの寅次郎」山田邦紀 坂本俊夫『明治の快男児トルコへ跳ぶ』現代書館 2009所引、発行年月は出口智之「幸田露伴と山田寅次郎―「書生商人」と「酔興記」をつなぐもの―」『日本近代文学』第74集 日本近代文学会 2006年5月15日、題名および発行所名は山田邦紀 坂本俊夫『明治の快男児トルコへ跳ぶ』現代書館 2009による
註13 山樵亭主人「幼時と沼田城」『新月山田寅次郎』岩崎輝彦私家版 1952
註14 「●サラベル學校」『君子と淑女』第壱號 呦々社 紀元二千五百四十八年十月一日(1888年10月1日)
註15 長場紘「山田寅次郎の軌跡:日本・トルコ関係史の一側面」『上智アジア学』第14号 上智大学アジア文化研究所 1996年12月26日
註16 出口智之「幸田露伴と山田寅次郎―「書生商人」と「酔興記」をつなぐもの―」『日本近代文学』第74集 日本近代文学会 2006年5月15日
註17 「メモワール・オブ・ロイストンMemoir of Royston ブラフ・ナンバー241 ヒストリー」 ロイストン教会 – 山手ロイストン教会サイト
註18 『The Chronicle and Directory for China, Corea, Japan, the Philippines Cochin-China, Annam, Tonquin, Siam, Borneo, Straits Settlements, Malay States,&C., (With Whitch is Incorporated “The China Directory.”) For The Year 1889, Corrected at the Different Banks and Offices, and Institutions』Daily Press Office 1889
註19 「メモワール・オブ・ロイストンMemoir of Royston ブラフ・ナンバー241 ヒストリー」ロイストン教会 – 山手ロイストン教会サイト、Bernd Lepach「Meiji-Portraits 明治人物 お雇い外国人」サイト
註20  『New York, Index to Petitions for Naturalization filed in New York City, 1792-1989, Immigration & Travel』に「Name: Julius Witkowski, Birth Date: 21 Dec 1847, Age: 34, Naturalization Date: 07 Dec 1882, Former Nationality: German, Arrival Date: Aug 1864, Title and Location of Court: Common Pleas Court, New York County, Volume: 530, Record Number: 201」とある、Ancestryサイトによる
註21 『U.S. Passport Applications, 1795-1925, Immigration & Travel』 に「Name: Julius Witkowski, Birth Date: 21 Dec 1847, Birth Place: Wloclawek, Russia, Age: 34, Passport Issue Date: 8 Dec 1882」、Ancestryサイトによる
註22 Bernd Lepach「WITKOWSKI, Julius, – 1902」「LICHTENSTEIN, Levy, 1835 – 1896」及び「Witkowski & Co.」の各項目「Meiji-Portraits 明治人物 お雇い外国人」サイト、 Julius Witkowski墓碑に「1847-1902」、Find A Graveサイトによる、ただし墓碑銘の主文は恐らくヘブライ文字で書かれており読めない、「メモワール・オブ・ロイストンMemoir of Royston ブラフ・ナンバー241 ヒストリー」 ロイストン教会 – 山手ロイストン教会サイト
註23 春名幹男「第三章 CIA対日工作の源流」『秘密のファイル CIAの対日工作 上』共同通信社 2000、「What is Kabenoana 壁の穴とは」壁の穴サイト
註24 「メモワール・オブ・ロイストンMemoir of Royston ブラフ・ナンバー241 ヒストリー」 ロイストン教会 – 山手ロイストン教会サイト、Bernd Lepach「Meiji-Portraits 明治人物 お雇い外国人」サイト
註25 「英国商会ウイトコフスキーノ滞貨国有ニ関スル件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03051385700、露国革命一件/出兵関係/露国派遣軍撤退後ノ労農政府対極東事件雑件 第三巻(1-6-3-24_13_75_003)(外務省外交史料館)
註26 「メモワール・オブ・ロイストンMemoir of Royston ブラフ・ナンバー241 ヒストリー」 ロイストン教会 – 山手ロイストン教会サイト、「Always Change: A tale of a german trading house in Japan」ウインクレル株式会社旧サイト、Bernd Lepach「Meiji-Portraits 明治人物 お雇い外国人」サイト
註27 Christian W. Spang「Recollections of a Jewish-German Businessman in Early Shōwa Japan」『Outside the Box: A Multi-Lingual Forum』Volume 7, Issue 1; OTB Forum; 2015年4月、オンライン版による
註28 出口智之「幸田露伴と山田寅次郎―「書生商人」と「酔興記」をつなぐもの―」『日本近代文学』第74集 日本近代文学会 2006年5月15日
註29 「東京藥學校開校式」『藥學雜誌』第三十三號 東京藥學社 1884年11月26日、出口智之「幸田露伴と山田寅次郎―「書生商人」と「酔興記」をつなぐもの―」『日本近代文学』第74集 日本近代文学会 2006年5月15日
註30 「○女學雜誌の發兌高」『女學雜誌』第百五拾號 女學雜誌社 1889年2月23日、桜井保子「明治前期の洋裁書とその周辺」『中国短期大学紀要』第15号 中国短期大学 1984年3月20日
註31 山田寅次郎「望みは我が同志にあるのみ」『保守新論』第八號 中正社 1889年8月20日
註32 「●全國有志聯合大演説」『東京朝日新聞』1889年8月22日1面
註33 山田寅次郎演説大意 有耶無耶生筆記「國民の元氣(八月二十五日久松座に於ける聯合政談演説會に於て)」『新演説』第十一號 大成舘 1889年、『新演説第三集 自第十號至第十三號幷號外二合本』大成舘 1889年12月21日による
註34 露伴「○書生商人」『庚寅新誌』第六十八號 庚寅新誌社 1892年12月16日、『露伴集』第一卷 春陽堂 1910及び初出によったという『露伴全集』第一卷 岩波書店 1930のテクストとは文面が異なる、引用は初出による
註35 露伴「○書生商人(承前)」『庚寅新誌』第七拾號 庚寅新誌社 1893年1月16日、『露伴集』第一卷 春陽堂 1910及び初出によったという『露伴全集』第一卷 岩波書店 1930のテクストとは文面が異なる、引用は初出による
註36 永井良知編輯『明治廿三年 東京百事便』三三文房 1890
註37 柳田泉「天才露伴子・その二期 二、廿五年の作品」『幸田露伴』中央公論社 1942、出口智之「幸田露伴と山田寅次郎―「書生商人」と「酔興記」をつなぐもの―」『日本近代文学』第74集 日本近代文学会 2006年5月15日
註38 山田寅次郎「帝政の土耳古と現代の土耳古」『愛知商工』第一九八號 愛知縣商品陳列所 1935年10月15日
註39 山田寅次郎「追憶錄 予の土耳古行」『土耳古畫觀』博文館 1910
註40 「●遭難者救助の計畫」『東京朝日新聞』1890年9月23日1面
註41 山樵亭主人「義捐金を朝野に募る」『新月山田寅次郎』岩崎輝彦私家版 1952
註42 Selçuk Esenbel「İstanbul’da bir Japon :Yamada Torajiro」『İstanbul』 第9号, Nisan 1994、長場紘「山田寅次郎の軌跡:日本・トルコ関係史の一側面」『上智アジア学』第14号 上智大学アジア文化研究所 1996年12月26日による
註43 山田寅次郎「追憶錄 予の土耳古行」『土耳古畫觀』博文館 1910
註44 山樵亭主人「土耳古に赴く」『新月山田寅次郎』岩崎輝彦私家版 1952
註45 山田寅次郎「追憶錄 埃及首相を訪ふ」『土耳古畫觀』博文館 1910
註46 山田寅次郎「土京に入る」『土耳古畫觀』博文館 1910
註47 金角江漁「◎金角江の船待ち(一)土京君子但丁堡に於て」『時事新報』1892年6月21日2面
註48 金角江漁「◎金角江の船待ち(一)土京君子但丁堡に於て」『時事新報』1892年6月21日2面
註49 土京 金角江漁「◎汁粉に醉ふの記」『時事新報』1892年7月13日3面
註50 金角江漁「◎金角江の船待ち(一)土京君子但丁堡に於て」『時事新報』1892年6月21日2面、金角江漁「◎金角江の船待ち(二)土京君子但丁堡に於て」『時事新報』1892年6月22日2面、金角江漁「◎金角江の船待ち(三)土京君子但丁堡に於て」『時事新報』1892年6月23日1面、金角江漁「◎金角江の船待ち(四)土京君子但丁堡に於て」『時事新報』1892年6月24日1面、金角江漁「◎金角江の船待ち(五)土京君子但丁堡に於て」『時事新報』1892年6月26日1面
註51 山田寅次郎「帝政の土耳古と現代の土耳古」『愛知商工』第一九八號 愛知縣商品陳列所 1935年10月15日
註52 「●回々教日本に入らんとす」『毎日新聞』1893年8月4日3面、長場紘「山田寅次郎の軌跡:日本・トルコ関係史の一側面」『上智アジア学』第14号 上智大学アジア文化研究所 1996年12月26日に『東京日日新聞』とあるのは誤記
註53 長場紘「山田寅次郎の軌跡:日本・トルコ関係史の一側面」『上智アジア学』第14号 上智大学アジア文化研究所 1996年12月26日
註54 山田寅次郎「帝政の土耳古と現代の土耳古」『愛知商工』第一九八號 愛知縣商品陳列所 1935年10月15日
註55 黄昭堂「2 初期武官総督時代 阿片漸禁政策」『台湾総督府』教育社歴史新書〈日本史〉147 教育社 1981
註56 喬峯(周建人)「關魯迅的斷片回憶 一把白殻短刀的來歷」『略講關于魯迅的事情』人民文學出版社 1954
註57 黄乔生「一 日本时期 胡须照」『鲁迅像传』贵州人民出版社 2013
註58 竹中正雄氏証言、竹内実「細道の中国 魯迅・仙台・短刀」『伝統と現代』第19号 伝統と現代社 1973年1月1日、竹内実「仙台と短刀―広瀬川畔の魯迅」『紀行 日本のなかの中国』朝日選書72 朝日新聞社 1976として加筆収載、引用部は同文
註59 1973年11月30日竹中正雄氏(佐藤喜東治氏令孫)談、仙台における魯迅の記録を調べる会編『仙台における魯迅の記録』平凡社 1978所収
註60 唐弢「短刀的故事」『仙台之旅―日本纪行』1980年1月14日、唐弢『生命册上』浙江文艺出版社 1984所収
註61 竹内実「魯迅の短刀について」京都大學文學部中國語學中國文學硏究室 吉川教授退官記念事業會編『吉川博士退休記念中國文學論集』筑摩書房 1968、竹内実「中華点点(第6回) こおろぎの話(6) 秋瑾というひと(1)」『電子礫・蒼蒼』第6号 蒼蒼社 2005年3月15日
註62 唐弢「仙台之旅―日本纪行 短刀的故事」1980年1月14日、唐弢『生命册上』浙江文艺出版社 1984所収
註63 永田圭介『競雄女侠伝―中国女性革命詩人秋瑾(チョウ・チェン)の生涯―』編集工房ノア 2004、内田弘「光州で石川啄木を語る」『専修大学社会科学研究所月報』No.553・554(韓国実態調査特集号) 専修大学社会科学研究所 2009年8月20日
註64 「●滿洲歸客談」『讀賣新聞』1906年9月4日朝刊2面
註65 邓力群等主编『当代中国的民族工作(上)』当代中国出版社 1993、抚顺战犯管理所编『日本战犯的再生之地 中国抚顺战犯管理所』五洲传播出版社 2005、(日文版)撫順戦犯管理所編『日本戦犯再生の地 中国撫順戦犯管理所』五洲传播出版社 2005、「杨靖宇是不是回回?说说抗日英雄杨靖宇将军的祖籍和民族成分!」中穆网2muslimサイト
註66 佐々木春隆「第七章 東満のパルチザン」『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』国書刊行会 1985
註67 澤地久枝『もうひとつの満洲』文藝春秋 1982
註68 「秋女士遺詩」『秋瑾詩詞』王芷馥刊 中暦丁未年 西暦一千九百〇七年による
註69 周作人「六六 最初的印象」「六七 日本的衣食住(上)」「六八 日本的衣食住(中)」「六九 日本的衣食住(下)」『知堂囘想錄(上下兩册)』三育圖書文具公司 1970等
註70 木村直恵「II 「壮士」的実践の展開―運動会、悲憤慷慨、腕力―」『〈青年〉の誕生 明治日本における政治的実践の転換』新曜社 1998

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