今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

魯迅と日暮里(43)南波登発の「亞細亞」への視線(18)須戸橋藤三郎 見沼代用水と内水交通、あわせて上武のキリスト者たち(中の5) The Outlaws in Northeast Asia, Chapter 11

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大内青巒の証言の中、ただ1人教導職補任の事実が確認されないのが初代三遊亭円朝である。1877年、『東京さ起可゛け』に掲載された次の記事からは、初代三遊亭円朝をはじめとする噺家にとって教導師たらんとする意思や羨望があったことが読み取れる。しかし、バレ噺や音曲に乗せての芝居噺、さらには「咄シ終ニ高坐脊ヨリ幽㚑【U+3691、靈】ノ木偶䓁ヲ出ス」(註1)怪談咄の多かった当時の芸の実態は、「教導」という崇高な目標からはきわめて遠いところにあった。記事でいう「教導師」は、官職の「教導職」とは異なる普通名詞として用いられているのだろう。

鏑木清方「三遊亭円朝像」1930年 138.5×76.0『愛蔵版日本の名画9』より

鏑木清方「三遊亭円朝像」1930年 138.5×76.0『愛蔵版日本の名画9』より

「○落語家(は奈しか)の風流人柳亭燕枝ハ黒船町の古巢を捨て彌(いよ)昨日西鳥越町元忍藩邸內の新宅へ引移りしが同人兼て發起せしハ落語家ハ賤業(せんけふ)なれど教導師とも呼るヽ事なれば是までの惡獘を一洗して五音(いん)の清濁や重言片言を正し聞苦しい下掛り抔を高坐で弁じるを嚴しく禁じ來客へ失敬の奈い樣になし必らず一席の內尓婦女子への教訓に奈る話を雜(まじ)へる樣尓したいとて今度同志の圓朝柳橋文治の三人と申し合せ其社中ハ勿論有志の者を集め落語勸善義會と名付て毎月兩度ヅヽ燕枝の新宅むつみやにて集會を催ふすといひますが流石ハ落語家の四隊長至極善(よひ)お催ふしでござる」(註2)

そして確かに教部省は落語も調査対象にあげていた。教部省用箋に書かれた「落語大意」という報告書である。原文の翻字にあたっては、右ルビを括弧()内に、左ルビを鉤括弧「」内に示した。明治初期の文体においては、振仮名のうち右側に付くのが主として読み、左側に付くのが主として意味という分析による。(註3)また【】は翻字者による語注であり、原文の右傍線はアンダーラインで表現した。

「落語大意(オトシハナシノオホムネ)
世尓落語とて人情世態ノ上(ウヘ)那類【なる】猥雜瑣碎(ワイザツサスイ)の限を尽クし談話(ダンワ)して聴者(キクヒト)をして觧頥絶倒(カイイゼツタウ)「ヒドクワラフ」せしめ以て遣闷破欝(ケンモンハウツ)「コヽロヲナグサム」の資(シ)「モノ」登【と】为(セ)り落語(ラクゴ)能落ハ叚落(ダンラク)「キリメ」の落尓て其終(ハテ)「トヂメ」尓者必ズ可笑(ヲカシ)く面白く戯(シヤレ)多る文(アヤ)「アヤドリ」越成して結局(ケツキヨク)「コトヲヽフ」する故能称(ナ)ナリ抑(ソモ〻〻)是事(コノワザ)の行者るゝハ故阿る事尓て天照大御神の岩屋(イハヤ)尓左し𨼆【U+28F06、隠】(コモ)り㘴(マシ)し時尓八百萬ノ神憂歎(ユウタン)「ウレヒナゲク」し給ひて神樂(カグラ)越奏(ソウ)して大御神を出御(シツギヨ)「イデマス」奈らしめ奉らむ登謀(ハカ)リ給ヒて其ノ事執行(トリオコナ)ひ多まふ是尓於て琴笛太皷笏(サク)拍子(ヒヤウシ)䓁(ナド)の物起源(キゲン)「ハジマル」せり時尓宮風【几+ミ】(ミヤビノ)神々遊(カムアソビ)能長(ヲサ)となり神懸(カムガヽリ)とて物の憑(ツキ)多る如く王左゛と【わざと】可笑(ヲカシ)く舞躍(マヒオド)り給ふ故尓者八百萬ノ神䓁(タチ)其ノ𠩄【U+20A44】作(シワザ)の面白さおかしさに堪(タヘ)か祢て諸声(モロゴエ)「ミナコエヲアグ」ニ賞罵(ホメノヽシ)り給ふ時尓天照大御神果(ハタ)して怪(アヤ)しミゆ可しみ給ハ御怒(ミイカリ)も自然(ヲノヅカラ)尓和(ヤワラ)ぎ給ヒ多り介む岩戸越細目(ホソメ)尓明(ア)介て透見(スキミ)し給ふ尓依りて遂(ツヒ)に出御(イデマ)左せ奉リし可ば世间(ヨノナカ)再(フタヽ)び照リ明リ尓介り爰(コヽ)尓八百萬ノ神䓁大尓悦(ヨロコビ)給ひて覚(オボ)へ須゛手越伸(ノシ)て歌舞(カブ)し諸声尓阿者れ あ那面白 あ奈楽し 阿な清け 於けと唱(トナ)牙給ふ阿者れと者天(アメ)能晴渡(ハレワタ)連る意(コヽロ)尓て今阿つ者゜れと云語(コトバ)面白ハこの時始メて面(オモテ)「カホ」乃白々(シロ〻゛)と見へ多りし故の語多能し者常闇【门+音】の時尓者心躰(シンタイ)共尓縮(シヾ)まり多る様(ヤウ)なりし可゛今始メて手足を伸(ノバ)して舞多る由於け者老猿(オイザル)を云(イフ)名尓て其能く舞躍(マヒオド)りて戯(シヤレ)和左゛越为寿【わざを爲す】物故尓如此(カク)賞(ホメ)介るなり既尓して大御神越新宮(ニヒミヤ)尓遷座【广+㘴、U+2B776】(センザ)なり奉りて宮風【几+ミ】ノ神御前(ミマエ)尓侍(ジ)「サモラフ」して御心を取慰(トリナグサ)め御伽(オトギ)申多まひし故尓大宮姬ノ命【𠇭(U+201ED)+丶】とも申て是内侍「ウチツミサムラヒ」の始なり内侍ハ進退動作(ドウサ)「タチフルマヒ」尓優美(ユウビ)「ヤサシク」尓して親疎【足+束】貴賎と無く咎過(トガアヤマチ)有ル時ハよく執成(トリナシ)申し恨【畏】ミまつる時ハ諭(サト)し慰(ナグサ)め上(カミ)尓御心配(ミモノオモヒ)阿る時なとハ事物尓凖擬(ジユンキ)「ヨソフ」し又綺語(キゴ)「クチアヒ」を雜(マシ)へて慰免奉り時としてハ彼ノ岩屋戸尓て为(セ)し如く狂言(タハコト)狂態(タハワザ)越以て人をして𩁿【虐、U+2907F】楽(ヱラギノ)中尓和睦(クワボク)「ムツビアフ」せしめ䓁(ナド)する是其大畧(オホカタ)那りされハ𠩄【U+20A44】謂(イハユル)一口咄(ヒトクチバナシ)より根(ネザ)して一席一段【叚の旁+殳】の世話(モノガタリ)となり又数席を重ねて結局「トヂム」寿る尓及へるも故ある事尓て遂尓賢愚能差別無く聴者の伽(トギ)越为(ナ)して倦(ウマ)さらしむる尓至連り故尓種々(クサ〻)鳴物越以てその曲莭(フシ)越助くる様尓成リ来タ連るも自然(オノヅカラ)能㔟(イキホヒ)那りされバ此ノ神を奉齊(ホウサイ)「イツキマツル」し以て其御恩頼(オメグミ)越乞ひ其業(ワザ)乃練熟および其繁栄を願ふべき事なり」(註4)

また、同じ筆者によると思われる「觀相ノ大意」というレポートがある。全く同じ用箋に、同一筆致で書かれているので間違いないだろう。落語といい人相見といい、本来の宗教行政からは遠いところにあるのだが、人相見については後に宗教として認めているのだし、しょうのないことなのだろう。はっきり言えば、当時のお役人には宗教とは何かということすら分かっていなかったのだ。そして、政策に見合うような宗教もまた、なかったのだろう。

「觀相ノ大意(オホムネ)
世尓觀相とて将来(シヤウライ)「ユクスヱ」能得失禍福(トクシツカフク)「コトノヨシアシ」を察視(サツシ)「ミワク」寿る事専(モハラ)行(オコナハ)連し天下人民(ヨノヒトヾモノ)の心尓安ん寿る者那連バ其職業能者ハ必ス本縁「ソノイハレ」を知ル古と肝要奈り此術ハ掛(カケ)満くも恐(カシコ)起天津日高彦火々出見尊(アマツヒタカヒコホヽデミノミコト)の海宮(ワタツミヤ)尓出(イデ)ま志ヽ時尓豊玉姫(トヨタマヒメ)見奉りて父(チヽ)豊玉彦(トヨタマヒコノ)命【𠇭(U+201ED)+丶】尓门外(カドノト)尓最貴(イトタフト)紀神居(ヲ)り天より来(キタ)ル那らは天ノ垢(ケ)「アメノスカタ」阿るべく地(クニ)より来(キタ)ル那ら者゛地ノ垢あるべき尓実是妙美(アヤニマクハシ)「イフベキヤウモナクウツクシ」可るも虚空彦(ソラツヒコ)といふ者尓や有らむと申シ給ヒ左連者゛【されば】豊玉彦(トヨタマヒコノ)命【𠇭(U+201ED)+丶】然ラハ試(コヽロ)むべしとて乃(スナハチ)床(トコ)三(ミツ)を設(マヲ)けて請(マネギ)入レ申シ介れハ彦火々出見(ヒコホヽデミノ)尊邉床(ヘツトコ)尓て者まづ両御脚(フタミアシ)を拭ひ中ツ床尓て者其御手(ミテ)を拠(ヲ)し内床(ウチツトコ)尓て者真床(マトコ)覆(オホ)ふ衾(フスマ)の上(ウヘ)尓寛座【广+㘴、U+2B776】(クワンザ)「ウチアクミヰ」し給ふ爰(コヽ)尓海(アマツ)神乃チ天神の孫(ミコ)なりと知リ給ふと見へ多るが觀相能起源(オコリ)尓て即チ占術(ウラワザ)の一端(ヒトツ)なれバ其ノ祖神(オヤカミ)多る櫛真智(クシマチノ)命を奉祭(ホウサイ)「イツキマツル」して其ノ恩頼(ミメグミ)「ミタマノフユ」を乞ヒ奉るべし此神ハ八意思兼【脚が灬】(ヤコヽロオモヒカネ)神と申シて天照ス大御神能石窟尓左し𨼆【U+28F06、隠】(コモ)りり㘴(マシ)し時尓鹿乃肩骨(カタホネ)を焼(ヤ)きて占(ウラ)へ給ふ神尓て神事(カムワサ)能宗源(モト)越知る神と神典(ミフミ)尓見へ多る可゛如く櫛真智(クシマチノ)ハ奇町尓て鹿能肩骨(カタホネ)尓町形(マチカタ)越畵(カ)き其を焼(ヤ)きて奇(クス)しく占(ウラ)へ給ふ由能御称號(タヽヘミナ)尓て神事の宗源とハ即チ占術(ウラワザ)なりさて言(コトバ)の信(シルヲ)を誤(アヤマ)るまじき業(ワザ)な連バ天言代主(アメノコトシロヌシノ)神の霊(ミタマ)尓祈誓(キセイ)「ノミマヲス」して其御幸福(ミサイハヒ)を乞ヒ奉るべし此亦タ思兼【脚が灬】(オモヒカネノ)神の一名(マタノミナ)尓て信乎立テ給ふ霊(ミタマ)能御称號(タヽヘミナ)なり」(註5)

「講釋師見て來たやうな啌(うそ)を突き」(柳樽)(註6)を地で行くような作文である。ただし、執筆者はもちろん講釈師ではなく、教部省のお役人様である。

南泉寺

南泉寺

2代松林伯円の墓所のあるのは、日暮里富士見坂の下にある南泉寺。初代三遊亭円朝の異父兄・徳太郎の修業した寺でもある。そしてここには、9代市川団十郎にちなむ団十郎不動が祀られている。以下は、朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』の伝えるもの。朗月散史は三友舎の編集者・水沢敬次郎の筆名である。(註7)まずは『讀賣新聞』の初出「◎三遊亭圓朝の履歷(續き)」からの引用。

「茲に圓朝可゛異父兄(いふけい)にして谷中なる臨濟𣲖の禪寺、隨應山南泉寺の役僧を勤め居れるものに玄正といへるあり此の人圓朝可゛藝人と奈りしを殊の外に憂へつつ我今にも寺持の身と奈らば與力なり名主なり相應の株を求めやらんに。」(註8)

続いて『三遊亭圓朝子の傳』。微妙に本文に異同がある。

「茲に圓朝が異父兄(おやちがひのあに)にして谷中日暮里なる臨濟派の禪寺隨應山南泉寺(美濃國南泉寺の末寺にて日暮里妙隆寺の隣なり)の役僧を勤め居れるもの尓。玄正といへるあり。此人圓朝が藝人となりしを殊の外に憂ひ。我今にも寺持の身とならば。與力なり名主なり。相應の株を求めやらんに。」(註9)

すべて句点であるものの句読点が追加されたほか、「谷中」と書かれていた所在地を訂正し、南泉寺に関する注釈情報が加えられている。次も『三遊亭圓朝子の傳』からの引用。

「圓朝が母は圓太郎が未だ落語家(はなしか)とならざりし時。緣付たるものなるが。こは再緣にてありしなり。其以前に緣付しは。深川富吉町なる糸商人藤屋七兵衛といひし人にて。是玄正が父なりけり。此の七兵衛始めハ可成の家なりしが。一度火災に罹りしより。左り前なる身代となり。商業(あきない)さへも夫より次第〱尓衰へて。遂には主人(あるじ)七兵衛も。そを苦に病で亡人となりしにぞ。是非なく我が生の子なる。徳太郎といへるを引連。谷中三崎の片邊(かたほとり)に借家して。寺多き土地の事なれば。寺々の爲に賃仕事。あるひは洗濯などをして。幽かに其日を送りながら。徳太郎を養育せしが。日毎に寺へ出入る事故。徳太郎も共に往ことありしに。未だ五六歲の總角(あげまき)奈れば。見習ふま〻に我が前垂れを袈裟の如くになし。僧侶の姿を真似つ〻も。我は御寺の住持なりとて。戯れ遊ぶ有樣を。母ハ見るより淚ながら。如何に寺多き土地抦とハいふながら。事もあらうにこの樣な眞似をするハ何事ぞ。これといふも零落(おちぶれ)たりし故なれど。昔の樣でありしならば。か〻る眞似はさせまじきに。儘ならぬハ浮世奈りとの。女の愚痴に引かへて。各寺の僧侶は却てこれを奇となし。子供の事故行末は知らざれども。今よりか〻る心あれば。僧侶になすぞ宜しからん。我引取つて內典外典教えし上にて。天晴の僧侶となしたけ連と。母に迫れるものあるにぞ。母も分別に差支えしが。心定むる所ありしか。僧侶の望にまかせつ〻。徳太郎をば南泉寺の小僧となし。玄正とぞ名をつけぬ。これぞ玄正が僧侶となりし生立なるが。母ハ夫より同所の住居をた〻し上。青戸村の實家に歸り。其後圓太郎には緣付し奈り。斯くて玄正は十六歲となりし頃。行脚の志を起し。諸國に杖を曳きし末京都東福寺に杖を留め。修行に數年を送りしが。稍々悟道を得てしかば。南泉寺に立歸りて役僧とぞ奈りたりける。」(註10)

ここでも初出時の「谷中三崎へ借家して」を「谷中三崎の片邊(かたほとり)に借家して」と訂正している。このことから、当時の借家は「谷中三崎」ではなく、南泉寺のあった日暮里(新堀)村分にあった可能性がある。江戸期には、南泉寺付近に町屋がなかったことから、もしかすると南泉寺の所有地内に居住したのかもしれない。あくまでも作品世界内の語りではあるが、あとで引用する「○名人競」の最終回でそのように言っているのも根拠の1つとしてよいだろう。
北京の中国戏曲学院の客員教授をつとめた永井啓夫の調査によれば、「従来〈玄正〉として紹介されていたが、大本山妙心寺や是照院の記録には〈玄昌〉の文字が用いられている。」(註11)『小石川の寺院』への是照院の寄稿でも「⑮永泉玄昌」と歴代に載る。(註12)
深川富吉町は、霊岸島の対岸で深川猟師町を構成する8か町の1つ。永泉玄昌の没年(文久2年11月21日)と享年から換算すると、生家の没落のもとになった火事は甲午火事(1834年)の頃と思われる。曲亭馬琴の日記の1834年3月16日(天保5年2月7日)条には神田、日本橋の下町大火の様子を記すほか、「一、夜中も彌大風に付火鎭らず、今夜終宵延燒、深川へ飛火のよし風聞、何方迄やけ込候哉未詳。」と書くが(註13)、同大火での延焼地域は、深川方面では「新大橋半分焼落」で焼け止まっている。(註14)また、深川で藤屋の屋号を持つ人物としては、文久3年8月(1863年)及び嘉永4年(1851‐52年)、深川海辺大工町に竹木炭薪問屋の藤屋嘉助の名が見えるが、関係は不明である。(註15)

「寛永6年(1629)に深川猟師町ができると、周辺に仲買などの人たちが転住し、猟師町の漁師が獲った魚介類を取り扱うと同時に残りを日本橋へ送って販売しました。後には上総・下総(現在の千葉県)の浜からも魚介類を買い集め、日本橋の問屋に送るようになりました。安政5年(1858)には、日本橋本船町組に加入し、幕府へ魚介類の納品をしたり販売を行なうようになりました。」(註16)
江戸時代、深川猟師町で取り扱われた魚の種類としては、書付に、「き須【鱚】石鰈不う〱【魴鮄、ほうぼう】鯔小鯛さよりあゆ奈免【鮎魚女、あいなめ】あち【鰺】」と名があがる。(註17)「また、手長えび(芝えび)、牡蠣も有名でした。」(註18)
ここで考慮しておかなければならない点がある。深川猟師町は、幕府によって下谷山崎町に強制集住される前、乞胸の一部の人々が居住していた町である。さらに三遊亭円朝が「泥工(さくわん)」長藏の子として生れたのは、「湯島の切通(きりとほし)にありし根性院(こんしやうゐん)といへる寺の横町」という一画である。(註19)根性院、実は根生院は将軍家の祈願寺の1つで、新義真言宗の触頭4ヶ寺の1角となる。新義真言宗の本山は根来寺であるが、1585年、豊臣秀吉のジェノサイド的攻撃により全山焼失、壊滅的な打撃を受ける。根来寺の行人は鉄砲術に優れていたため、関ヶ原の戦では徳川方について参戦。結局、これが新義真言宗の運命を分ける。

根生院『江戸名所圖會 巻之五』国立国会図書館蔵より

根生院『江戸名所圖會 巻之五』国立国会図書館蔵より

徳川家康による江戸開府後、やつぎばやに宗教政策が打ち出される。自ら東照大権現として仏神の1座を占めることになる徳川家康による支配政策の根幹に、仏法が採用されたためである。慶長18年5月21日、修験道法度とともに関東新義真言宗法度が発せられる。
修験道は、山岳修行によって悟達を目指す宗教であり、密教系仏教との関係が深い。本来、仏教には「苦行」(梵dhuta、斗藪)の概念こそあるものの、山岳宗教の要素はない。木食行と同じく、道教と習合する中で成立したと見られる。当時の修験には、天台宗系の聖護院門跡を棟梁とする「本山派」と、興福寺東西両金堂を拠点にした先達衆の自治組織として形成され、やがて真言宗系に移行する「当山派」の2大潮流があり、抗争を繰り返していた。
関東においては、聖護院門跡との関係を重視する後北条氏により、本山派の優位を認めた法度が敷かれており、本山派による注連祓役銭の徴収は、当山派修験者をも対象としていた。徳川家康の入国にあたり、上記の権利は引き継がれていたが、当山派からの訴訟により徳川家康の御前評議を経て当山派の独立が裁定される。(註20)注連祓とは、聞きなれないコトバだが、辻善之助らによって著された徳川初期の宗教政策史にはしばしば登場する。(註21)内容については、和歌森太郎が「七五三張り渡した上で祓ひ立てする神明奉仕の作法」としたが根拠は明らかではない。(註22)新城常三氏は「寛文七年(一六六七)閏二月四日、岩城三春藩法令『巡礼之者諸社参詣之者之覚』の一条に「山伏禰宜共に注連祓之礼銭、如前々旦那可為相対、雖然不可過三百文事」とある。これは山伏・禰宜が民衆の伊勢参宮・熊野詣・西国巡礼等の出発に対し、祈禱や注連祓をして礼銭を取ることを規定したもので、このうち山伏については、中世の先達の導引・道案内の権利がそのままかかる形態で継承されたとみられる。」とした。(註23)その後の多くの資料の集積と分析から、より具体的な内容が久保康顕氏によって明らかにされている。それは注連縄で結界された精進屋での潔斎生活を開始するにあたって祓い清めを行なうことであり、何らかの神霊をヨリマシ(憑坐)に勧請したらしいという。それが寺社参詣に向けての精進時というシチュエーションにのみ残ったと見る。(註24)
当時の関東地域では、高野山金剛峰寺を本山とする古義真言宗と根来寺を本山とする真義真言宗が、相互浸透して関東真言宗を形成していた。徳川家康による新義僧・日誉への信頼関係から、新義真言宗の位置が高まることにより、「関東新義真言宗」というカテゴリーが定着することになった。日暮里の諸寺院としては、木食義高によって引寺された養福寺が古義真言宗(御室派)、諏方明神の別当寺の浄光寺が新義真言宗に属している。養福寺の山号が「補陀落山」であることや、新堀(日暮里)が中世期に熊野領であったこと(註25)も改めて想起しよう。また、日暮里と木食僧の関係も新しい視角からとらえかえす必要もあろう。
真言宗の行人である修験僧は、山岳信仰の先達として活動したほか、祭道と呼ばれる行為を担っていた。坂本正仁氏による諸資料の分析から、「祭道とは葬儀に当り、引導とは別に遺骸・遺骨を葬むる墓所の地取または地鎮を中心に、葬儀執行日や出棺時刻を決める日取や時取などを含むもので、死者成仏のための引導とは截然と区別され、天台・真言・修験の僧が当っており、執行者は遺族の索衣やこれに使用の諸道具を取る権限を有していた。」とされる。(註26)祭道と引導の分離は、徳川家康の代に断行されたものの(註27)、その後も争論が続いていたことから、祭道は少なくとも江戸中期まで存在したと見られている。(註28)また、修験僧により、葬儀において灰寄、「火清メ」等の行為も行われていた。(註29)「火清メ」は「跡清め」と解されているが(註30)、本来は、魔除けの咒術として用いられる鏑矢の「蟇目」、「引目」と同語である可能性がある。(註31)ただし、本文書が作成された時点では「清め」、「清目」と混同されていると想像される。
行人僧としては、鞍馬寺を本山とする願人の集団が存在した。遠山左衛門尉、鳥居甲斐守による老中水野忠邦宛の書上によれば、願人の稼業は「願ン人与唱候もの橋本町芝新網町下谷山崎町四谷天龍寺門前ニ住居致し判し物之札を配又ハ群を立歌を唄ひ町〻を踊り歩行或ハ裸ニ而町家見世先江立銭を乞ひ候躰」というもので(註32)、その妻女によって勧進も行われ、のちに住吉踊と呼ばれるようなある種の芸能を行うものであったが、乞胸や非人の稼業と抵触する局面があり、非人頭の車善吉によってたびたび訴訟が起こされている。なお、上記書付の筆者の遠山左衛門尉は北町奉行の遠山の金さん・遠山金四郎景元、鳥居甲斐守は南町奉行の妖怪・鳥居耀蔵忠耀である。
願人の一部には、幕末期に乞胸に所属した者も存在する。(註33)また「寮」である居住地は、橋本町においては「正安寺空地に住居して、日々托鉢して願望成就を祈り」という通り(註34)寺院との関係を持っていたが、次第に居住地を拡大、鮫河橋北町、下谷豊住町にも集住する。それらは「木賃宿」、「俗ニぐ連宿」(ぐれ宿)と呼ばれており(註35)、そのまま近代に移行してスラムを形成することになる。
さらに事態を複雑にしているのは、1700年という早い時代ではあるが、禅宗系の下級宗教者が願人と競合的関係にあり、禅僧の一部が非人小屋に居住したという事実である。

「  乍恐訴訟申上候
一鞍馬寺組惣願人共妨ニ罷成候町々ニ禪門ト申坊主夲寺モ無之借宅仕町々ニ徘徊仕罷在候鞍馬組願人仲間之儀者
寺社御奉行様ヨリ諸寺御渡度之趣願人頭方江被為 仰付 承知仕組下迄申渡シ相背候儀無之𣖙【旁は𦍌(U+2634C)+𡗜(U+215DC)】申付然處右之通夲寺無之禪門坊主共我儘ニ宫寺建立仕候㫖其𠩄ヲ僞リ奉加帳先達而御屋敷様方并町々迄モ偽リ申儀ニ御座候就夫國々𠩄々ヨリ御當地寺方ニ而開帳有之節者町々端々ニ開帳札御打被成候ニ者此方ヨリ諸勧進出シ不申ト御断書御座候是皆禪門坊主之先達而偽申故ニ而御座候
一在々𠩄々迄僞之奉加帳持出勸進仕候儀數度ニ御座候御當地ニ而御法度ニ被為 仰付候修行仕殊ニ御屋敷様方町々ニ而モ様【U+2ABB2】々ノ僞事申者モ禪門之内ニ御座候就夫先様ヨリ願人一同之𣖙【旁は𦍌(U+2634C)+𡗜(U+215DC)】ニ思𠮥願人共方江御付断被成候由之方モ御座候故此方願人下々迄吟味仕候得共仲間ニ者無之候ニ付禪門坊主之内ニ而先𣖙ヨリ御頼之上詮議仕著類取返シ進申儀モ御座候个𣖙【旁は𦍌(U+2634C)+𡗜(U+215DC)】成儀ニモ御座候故營之妨ニ罷成惣願人迷惑至極ニ奉存候事
一夲寺無之禪門坊主共非人之小屋ニ住居仕三衣ヲ著シ營仕候段願人一𠩄ニ申ナシ是亦迷惑ニ奉存候右之通禪門坊主共不残鞍馬寺組願人觸下ニ被為 仰付被下置候ハヽ惣願人難有仕合可奉存候

                          鞍馬寺大蔵院末 
                            觸頭
 元禄十三年〔庚辰〕十月十一日               一入坊印
                            一入名代
                                一翁
                         同寺圓光院末
                            觸頭 
                              西月坊印
                              年寄
                                衆春
  寺社
   御奉行𠩄
  御月番
   永井伊賀守様
   松平日向守様
   阿部飛驒守様
   青山播磨守様」(註36)

これらから見えることは、宗教、芸能、文学、被差別民、これらが複雑にからまり、宗派・教派間に激しい競争と影響を及ぼし合いながら事態が進行していたことである。

さて、修験僧にとっての最大のトラブルは天保改革のさいに訪れる。1842年3月29日(天保13年2月18日)、江戸町内の年番年寄は、本町1丁目の町年寄館市右衛門役宅に招集され、申渡しを受ける。

「(朱書)天保十三寅年二月十八日
 半紙竪帳
一出家山伏行人願人町屋ニ店借候儀、本寺之証文を取、請人を立店貸候哉
一仏壇等構候儀有無之事
 右之段書訳名不洩様取調、組々帳面ニいたし、来廿一日中可差出候
 右之通被仰渡奉畏候、以上
               組々年番
   二月十八日          壱人宛印
  右館市右衛門殿ニ而被申渡」(註37)

各町内に居住する下級宗教者のリストアップが命じられたのである。さらに同年8月2日(天保13年6月26日)には本町3丁目の町年寄・喜多村彦右衛門役宅において町名主に申渡しがあった。原編者による校注については、括弧[]で示した

「出家社人等町屋鋪借[2字、布告留に「住」]宅之儀ニ付而は、寛文元禄之度相触候趣有之候処、年暦相立ニ付不取締之趣相聞候間、此度左之通改革被仰出候
一出家社人山伏修験神職之類は町居住令停止候、早々本寺本社又は同宗同派之[3字諸事留により補う]寺社内江為引取可申候
一町内ニ而[1字御触被仰渡により補う]事諸宗[2字天保御改革録により補う]之出家共法談説候儀無用可仕事
一町内ニ而念仏講題目講と名付、出家幷同行共寄合仕間敷、幷[諸事留に「候」]町内ニ而鐘太鼓をたゝき念仏題目を唱、大勢人集致候儀、弥可為停止事
一陰陽師普化僧道心者尼僧行人願人神事舞太夫之類、本寺或は師匠[御触被仰渡に「家」]等ゟ弟子ニ紛無候段証文ヲ取、其上請人を立裏店ニ差置可申候、尤裏店ニ差置[2字諸事留により補う]候共、寺構幷神前仏壇を構候儀は仕間敷、且同[諸事留に「道」]心者尼僧之類本寺師家等無之[1字諸事留により補う]自侭ニ剃髪致候者は、以来急度本寺師家江随身致、証文等差支無之様仕可申候、勿論尼僧は去ル亥年中[1字諸事留により補う]申渡候通、弟子取一切仕間敷事
一諸旦那ゟ祈念願[諸事留に「頼」]候ハヽ、其節斗絵像を懸ケ祈念可仕候、宿札斗は[1字諸事留により補う]不苦事
右之趣向後急度可相守候、尤是迄本寺本社ゟ証文取置不申、其外彼是不埒之儀も有之候得共、此度は御宥恕を[1字諸事留により補う]以不及吟味候間、来ル十二月迄ニ急度相改可申候、其後等閑ニ致置候者有之ニ於は、家主名主地主共[1字、布告留に「迄」]厳科ニ可被処者也
右之通可被相触候
  六月廿六日
右之通御書付出候間、町中不洩様入念早々可相触候
  六月廿六日         町年寄役所[5字諸事留により補う]」(註38)

こうして町人地の裏店に居住していた修験山伏等の民間宗教者が追い立てられ、あるいは本寺へ、あるいは町奉行支配地の外へ転居を強いられたと見られる。そして、その空隙に住みついた一家に三遊亭円朝が生れたことになる。江戸の外へ移住した宗教者としては、足立梅田村における禊教創教の例を見た。

水野年方画 南泉寺での絵の模写「◎名人競 第卅二席」『やまと新聞』1891年9月1日

水野年方画 南泉寺での絵の模写「◎名人競 第卅二席」『やまと新聞』1891年9月1日

さて、ヴィクトリアン・サルドゥ(Victorien Sardou)の戯曲『ラ・トスカ La Tosca』を原作に初代三遊亭円朝が翻案した『名人競』では、南泉寺の名前がたびたび登場する。『名人競』の発表から10年後、同戯曲を基にした、ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini)によるオペラの名作『トスカ Tosca』が上演されている。毬信狩野俊次ことマリオ・カヴァラドッシ(Mario Cavaradossi)と坂東お須賀ことフローリア・トスカ(Floria Tosca)の2人の、運命に翻弄される悲恋の物語である。まずは画家・俊次毬信が南泉寺の欄間の天人の模写を依頼されて描く場面。天人は、原作ではマグダラのマリア(Santa Maria Maddalena)である。

歌川国峰画 南泉寺の襖絵「●錦の舞衣(名人競の內)第三十二回」『大阪毎日新聞』1900年6月22日

歌川国峰画 南泉寺の襖絵「●錦の舞衣(名人競の內)第三十二回」『大阪毎日新聞』1900年6月22日

「越前樣可゛毬信を大層御【草字】贔屓で御【草字】坐います、金無地の屏風へ上方で見て參りました楓の描分けを致しましたが大した宜い出來だと云ふので、御【草字】菩提寺(ぶだいじ)の欄間の天人を描けと云ふ殿樣からのお頼みで御【草字】坐います、毬信が仰せ附けられて見ますと大層なもので、お寺は谷中日暮(ひぐらし)の瑞應山南泉寺と云ふ美濃の南泉寺の末で立派なお寺で、現今(たヾいま)は本堂を毀して賣つて仕舞ひ、佛体(ほとけ)さんまでも狹い處ろ尓ゴチヤ〱して窮屈さう奈顔付をして居るか何うだ可知りません可゛、大きな寺院(てら)で御【草字】坐います、市橋樣遠山樣越前樣の御【草字】位牌所で御【草字】坐います、其の中で華美尓建て御【草字】坐いますのハ遠山樣で、越前樣ハ高尚尓出來て居ました、圓朝(わたくし)の兄が彼寺(あれ)尓居まして其頃圓朝(わたくし)ハ油屋の久松抔と云者れましたが、目下(いま)は子返り可゛志て臺なし尓成りました毬信も通つて書て居る譯尓ハ參りません寺ハ靜かで宜しいから泊り切尓致して極彩色尓欄間の天人を畵きました、スルと其年ハ天保の八年で御【草字】案內の通り二月の十九日大坂天滿の組屋敷の町與力大𪉩【U+2A269、鹽】平八郎父子が謀反を起したと云ふので御【草字】坐います、」(註39)

坂東お須賀(フローリア・トスカ)に横恋慕する敵役の与力金谷東太郎こと警視総監スカルピア(Il barone Scarpia)の姦計により、坂東お須賀は毒手にかかり、毬信狩野俊次(マリオ・カヴァラドッシ)が獄死する。

「金谷の方でも急度(きつと)出牢させるからと申ますから早晩出ることと思ひ差入物も充分致したが、如何にも責苦が強いので、情けないかな毬信は遂に牢死致しました、なれ共罪は免れません事で全く宮脇志摩等の企てに同意したと云ふ廉で之れを鹽漬にして大坂へ送ると云ふ、お須賀は何うも心配な事で、何うにか其事丈は免させ度(たい)と云ふので色〻に手を廻したので先づ死骸の處は養子の倉橋梅之進方へお下(さげ)に成つて、谷中の南泉寺へ葬る樣な事になりました」(註40)

そして大団円は、坂東お須賀(トスカ)が敵役の与力金谷東太郎(警視総監スカルピア)を謀殺して頸部を切断、生首を毬信狩野俊次(マリオ・カヴァラドッシ)の墓前に供えるという凄まじい場面である。いかに時代物とはいえ、現在ではこの形のまま高座にかけることはできまい。

「須「チヨイとお爺さん〱。と平然と呼んで居つたといふ大膽な女でござります 爺「ハイ、ハイ、何尓可御【草字】用で、今少し者゛可り寐ました 須「イエ寐て居ても宜いンだよ、アノ誠にお氣の毒だ可゛ネ、チヨイと駕籠を一挺谷中の日暮(ひぐらし)まで 爺「ヘエ〱畏まりました、宜敷う御【草字】坐います、行て參りませう、ナニ寐ちやア居ます可゛、起します可ら、媼さん 須「旦那ハ能く熟睡(およつ)て居る可ら、そつくり寐可しといてお吳れ、側へ行てゴタ〱するのを極く忌(いや)可゛る可ら、誠尓色〻御【草字】厄介尓成たネ。と多分に老人夫婦尓お金を遣る可ら驚きました、此方(こちら)ハ到底(どうせ)死ぬのだ可ら金も何尓も要りません、スツカリ身支度を致しし居(をり)ます內尓舁夫(かごや)可゛來て支度可゛出來たと言ひます可らブツ〱斬尓志た生首を風呂敷包み尓して血(のり)の漏らんやう尓幾重にも卷いて、之をかヽえて駕籠に乘りました、舁夫ハ目方を知て居る可ら、お客さん重たう御【草字】坐い升ナ、重い筈で首可゛這入て居(をり)ます可らと言乍ら南泉寺の上迄來ると 須「若衆(わかいしゆ)さん此處(こヽ)で宜(い)い。と舁夫を歸し、七面坂を下りて下へ參り谷中南泉寺の門を叩きました可ら、門番ハ驚きました 須「少し旦那尓お目尓掛り度(たく)ツて參りました、毬信の女房須賀と云ふものです 門番「夜中尓何んで…… 須「お前さんハ寐て居てお吳ン奈さい、妾(わたし)ハ知て居ます可ら。と門內へ這入り、門番尓手當を遣り 須「寐て居てお吳れ、毎度出てお勝手ハ能知て居ます妾の來る事ハお納所(なつしよ)さんへもチヤンと手紙で知らして有るンです可ら。と搆者ず山を上(あが)つて參りました、南泉寺の墓塲ハ二段尓成て居て正面尓越前樣のお墓所(はか)可゛有て、此方ハ遠山樣、此方ハ市橋樣、其坂を上(あが)つて來ると亭主毬信の墓所(はか)で、まだ生〻しい墓塲でございます、澤山(どつさり)花が献(あが)つて居(をり)ます、誰可゛來るともなく絕間なし尓、新しい手桶尓柄杓可゛添て有ます、お須賀ハ毬信の墓塲の前尓坐つて金谷東太郎の生首を墓前に供へ、恭しく一禮して 須「旦那、貴公(あなた)に申【草字】譯のない事を爲(し)ました、此金谷東太郎に騙されて妾ハ貞操(みさを)を破りました、貴公嘸(さ)ぞ口惜しう御【草字】坐いませう、實尓妾ハ貴公の前へ來られた義理では御【草字】坐いません可゛、貴公を責殺した金谷東太郎の首を取て參りました可ら、何卒(どうぞ)堪忍して下さい、貴公へ申【草字】譯の爲尓ハ决して生長らへてハ居(をり)ません、お目の前で自害を致します、申【草字】譯ハ此通り。と東太郎を殺した合口の鞘を拂つて前へ置き、シゴキを取て幾重尓も膝のほくれん樣尓身体へ卷付け、首尓もチヤンと綾を取り、思ひ切て喉を突き相果てましたハ中〻藝人の女尓ハ立𣲖【U+23C96、派】な事で御【草字】坐います。」(註41)

自殺を演じることも今日では厳しい。「啓発されたメディアによって、適切で、正確で、援助するような方法で自殺が報道されるならば、自殺によって生命が失われるという悲劇的な死を予防することに役立つだろう。」(註42)という世界保健機構(WHO)の見解にしたがうべきだろう。

「川口町と毬信の養子の方へお咎めハ有た可゛、贔屓の旦那方可ら手を廻はして頼んだので、罪ハ免れるやう尓相成り、谷中南泉寺尓坂東お須賀と毬信と夫婦墓碑(ふうふばか)を幷べて有ます、戒名の方ハ南泉寺尓居つた時分能う調べて書いて置きました可ら、一寸申【草字】上げませう、義山信操居士(毬信)貞山美操信女(須賀)と云ふ戒名で大きな墓碑(はか)でハ御【草字】坐いませんが、二基(ふたつ)並んで居ります、現今(たヾいま)ハ何處から付届を致します可、丁度山を上つて左の方尓駒寄の有る大きな墓所(はか)の後ろの處尓御【草字】坐います名人競の內、毬信、坂東お須賀の傳、此傳記丈ハ是尓て終局(をはり)尓相成ます       (畢り)」(註43)

水野年方画 南泉寺の墓前「◎名人競 第六十四席」『やまと新聞』1891年12月16日

水野年方画 南泉寺の墓前「◎名人競 第六十四席」『やまと新聞』1891年12月16日

2人の墓地について、初代三遊亭円朝を「お師匠さん〱と呼んで居りました」(註44)鏑木清方は、次のような思い出を語る。

「西洋物の種 鏑木清方氏は曰ふ、名人競は無論櫻痴居士の種ですが、名人長二も私は矢張り櫻痴のやうに思ひます、福地さんのは大抵父が福地さんから聞いて來て圓朝に傳へたものゝやうです。
圓朝に笑はれる (同上)「名人競」はトスカの飜案ですが、あれが出た當時私は十六七でしたが作り物と思へないので學友と南泉寺へ出かけて往つて墓を探した事があります。あれにある通り小高い所も駒寄のある墓もあるのですが、いくら探しても毬信とお須賀の墓がないので、あぐねて歸つて來ましたが、あとでお師匠さんに其話をすると、腹を抱へて大笑をされました。」(註45)

南泉寺 松林伯円墓所 背後に駒寄のある墓

南泉寺 松林伯円墓所 背後に駒寄のある墓

この逸話は、現代に至るまで笑い話としてしか捉えられていない。しかし、徳利旅氏は実際に南泉寺を訪れ、「円朝の言うとおり、近江仁正寺藩主市橋家や浦賀奉行を勤めた遠山景高の墓が見つかった。最上段には円朝と同時代に活躍した泥棒伯円こと、講談師二代目松林伯円の墓所もある。」ことを確認している。(註46)このことから、初代三遊亭円朝が同地を取材に訪れたことが判明する。
もう少し詳しく解説すると、『名人競』で語られるところの「二段尓成て居」る「南泉寺の墓塲」の「山を上つて左の方尓駒寄の有る大きな墓所」(註47)が遠山家の墓所である。現在は、駒寄(外柵)の基礎部のみ残り、門扉以外の構作物は取り外されている。そして、その後ろにある墓が初代松林伯円の墓である。隣りには、後に2世松林伯円の「若林義行累世之墓」の墓碑が建てられている。2世松林伯円は1905年2月5日まで長生きしているので、初代三遊亭円朝が取材に訪れた時には、この墓を見てはいない可能性が高い。一番左にあるのが「二𠦔【U+20994、世】松林伯圓/兒女墓/明治九年十二月十日」と墓碑銘がある2世松林伯円の娘の墓である。年代に異同があるが、「明治十三年に其の愛娘のこまと云へるがジフテリヤに罹つて、哀れ八歳の短い命で死んだ、其の時死骸を大學病院へ送つて之れを解剖に附した、是がそも〱我が國で解剖の刃(とう)を下した嚆矢ださうな」(註48)という女児に合致するのかもしれない。

南泉寺 遠山景高墓所 駒寄の土台が見える

南泉寺 遠山景高墓所 駒寄の土台が見える

ただし、良く知られる通り、篤志解剖の最初は駒込追分生れの姓不詳、美幾女である。お茶の水女子大学名誉教授で、103歳になる立花太郎氏の「お茶の水女子大学附近の科学史散歩」にも記述がある。(註49)なお、同論文は、文京区立千石図書館報『Hippo』に掲載された。その時、立花太郎氏のご希望により口絵として選ばれたのが、2013年1月23日、多田高宏氏によって撮影された日暮里富士見坂からの富士山の写真であり、日暮里富士見坂を守る会が撮影者の許可をいただいて画像提供している。(註50)立花太郎先生がこの写真を選ばれた根拠は、科学の進歩によって失われてしまうもの、そして失われてはならないものの象徴である、とお聞きしたように覚えている。文中には「富士山の全容が見えていた最後の坂であった西日暮里三丁目の富士見坂からも、2013年になって富士山はその姿を消しました。/これは単なる景観だけの問題ではなく、漱石が指摘した現代日本の開化の外発的な力(それは科学技術の発展をも意味する)の前で、日本人好みの文化遺産が一つ消滅したということではないでしょうか。」と結ぶ。(註51)以下に、小野友道氏によって翻字された美幾女の墓誌を掲げる。

「駒込追分販夫彦四郎女名美幾患徽症属不治遂入病院乞治已而病革遺言解視其体以阪医理因鳴之官得充焉寛死年三十四乃如其言則於其内景果有大所発明突是為本邦剖検病屍之始官乃嘉其志賜資葬之礫川念速寺為誌以伝焉明治已已秋八月医学枝教官同主簿記」(註52)

さて、南泉寺の墓所の配置を見ると、松林伯円の墓と遠山家墓所の駒寄との位置関係は水野年方の描く挿画にほぼ同じため、水野年方も現場でスケッチをしたことが想像される。日暮里富士見坂そのものではないにしても、明治中期の貴重な絵画資料として取扱って宜しかろう。

歌川国峰画 南泉寺の藪蔭「●錦の舞衣(名人競の內)第卅三回」『大阪毎日新聞』1900年6月23日

歌川国峰画 南泉寺の藪蔭「●錦の舞衣(名人競の內)第卅三回」『大阪毎日新聞』1900年6月23日

いったい、谷中町あるいは谷中村と日暮里村とは隣接するが別の村である。上記の口演では「谷中日暮」と谷中の中に日暮里が含まれるとする例や、南泉寺を谷中の寺と誤認する例が見える。他の作品「菊模樣皿山奇談」でも、「拙者ハ根岸の日暮(ひぐれ)ケ岡に居るアノ芋坂を下(おり)た處尓」(註53)「根岸の日暮(ひぐれ)ケ岡の脇の乞食坂を下(お)りまして左りに折れた」(註54)として根岸を日暮里を含む大地名とする例や、「此者ハ舊(もと)白山の駒込片町尓居り」(註55)、「白山の駒込の市塲へ參(めへ)つて」(註56)と、白山を駒込も含む大地名としている例が散見する。なおかつ前2者においては、「日暮」のルビが「ひぐらし」ではなく「ひぐれ」となっている。誤植かもしれないが、実在の地名を架空化するための作為があるのかもしれない。そもそも「日暮ケ岡」なんて聞いたことがない。どこぞの「緑が丘」や「文京」のようなキラキラネームである。(註57)「谷中」はかつての居住地であり、「白山」は兄が住職として勤める寺院の所在地である。作品のモデルと取材源の隠匿を目的にしたとも考えられるが、都鄙の境界、区分を操作する意図が見られることに加え、自身及び兄・玄昌の居住地もしくは居住した場所を、無意識に大地名に考える心意が感じられる。
さらに最後の「白山の駒込の市塲へ參(めへ)つて」の発言者は、「大きな駕籠を脊負(しよ)つてお芋だの、大根(だいこ)だノ、菜や何かを賣尓來る老婆(ばヾア)で御【草字】坐います 秋月「ア、田畠邊可ら參る老婆(ろうば)可」との掛け合いがあり、田端村から担ぎ屋として行商に来る農婦であると知れる。農婦の名はお繩といい、「妾(わたくし)の村の鎭守さまハ八幡樣で御【草字】坐います、其別當ハ眞言宗で東覺寺【3字白丸圏点】と申【草字】ます、其脇尓不動のお堂可゛御【草字】坐へまして、妾の兩親可゛子可゛無(ね)へつて其不動さまへ心願を掛けました處可゛、不動さま可゛出て來て左の手で妾(おら)ア慈母(おふくろ)の腹ア緊縛(しつち者゛)つて、苦痛(せつない)と思つて眼へ醒めた、禀(まう)し子でヾも有ります可へ、夫可ら慈母可゛懷妊(おつ者゜ら)んで、漸〻(だん〱)腹可゛膨脹(でか)く成つて、當る十日に妾(わし)可゛生れたてヱ話しで御【草字】坐へます」という。この例でも訛りが強調されるが、「今日貴公(おめへ)さま子、白山へ參(めへ)りますと、白山さまの門の坂の途中の處尓小金屋と云ふ饀屋が御【草字】坐(ごぜ)へまして、彼(あ)の饀屋の處(とこ)を通ると、何日(いつ)も虫を取り尓來る人が居たヾヨ、」と、ここでも訛りを強調する。(註58)岩波書店版『円朝全集』の語注によると「餡屋」は「老婆の訛りを強調するためにアメヤをアンヤと発音し、速記者が「餡屋」を当てたものか。」という。(註59)

月岡芳年画 田畠村へ向かう道「○菊模樣皿山奇談 第九十四席」『やまと新聞』1890年10月26日

月岡芳年画 田畠村へ向かう道「○菊模樣皿山奇談 第九十四席」『やまと新聞』1890年10月26日

ところで、「小金屋と云ふ餡屋」源兵衛が集めていた虫とは、信州上田の川端にいたのと同じハンミョウ(Cicindela japonica)である。成虫を乾燥したものはカンタリス(Cantharis、薬用成分はCantharidin)と呼ばれ、発泡剤として外用されたほか、薬用、毒薬、また伝説的には媚薬として用いられたとされる。(註60)秋月(望月)喜一郎は、毒虫を集める飴屋に不審を抱き、「翌日野掛の姿(なり)尓なり弁当を持たせ家來を一人召連れて婆アの宅(うち)を尋ねて參りました、彼の田畠村可ら西の方へ深く切れて參ると、丁度東覺寺の裏手尓當ります處で」と田端村に老婆を尋ねる。道灌山の西北に接続する場所で、両者の間には、のちに東京脳病院となる敷地を含む大伽藍の与楽寺がある。さて、秋月(望月)喜一郎は、老婆の家で飴屋の源兵衛を待ち受ける。老婆は「宅で拵えた新茶で可゛んす、嘉八や能くお禮を申【草字】上げろ」ともてなしている。(註61)
元来、「圓朝は高座に於て使ふ言葉も「なか【2字傍点】と申して」「でがす」「でげす」などと云ふやうな下卑た言葉は、噺の中に出て來る下等な人物の他は一切用ひなかつた。」(註62)「下等」はムチャクチャだが、老婆の住む田端村を江戸の外の農村部と位置付けていたことが分かる。
別のところで、「大藏可゛手紙を認め神原四郎次方へ持たして遣りました是ハ兼て密會を致す處可゛別尓出來て居まして道灌山の少し手前の青雲寺の地內尓俳諧を致す者可゛住んで居つた明家可゛有ります其明家を買て留守居を置き之へ神原松蔭等可゛折〻來て評定を致します事で則ち此處へ届ける密書で御【草字】坐います、」(註63)といい、かつての花見寺の1つ、青雲寺を都市辺縁のアジトとして設定し、道灌山を都市部と農村部を分ける森として設定している。そのアジトは「豫(かね)ての道灌山」と称されている。(註64)怪人二十面相の戸山ヶ原、パリにとってのブローニュの森(Le bois de Boulogne)のような位置付けである。その外側にあって、純農村地域として描き出される田端の地名を、あまり目にしない「田畠」の文字で書くのもいわくありげである。おそらく、谷中に対する日暮里、根岸に対する日暮里、白山に対する駒込の地名の混乱は、いずれも江戸の都鄙の境界にある地域を、古典落語の舞台となる朱引線内の町奉行支配地に取り込むための作為であったと見ることが正しいだろう。

月岡芳年画 田畠村「○菊模樣皿山奇談 第九十五席」『やまと新聞』1890年10月28日

月岡芳年画 田畠村「○菊模樣皿山奇談 第九十五席」『やまと新聞』1890年10月28日

かつては郊外にあるがゆえに景勝地として知られた場所が、江戸市内に取り込まれつつあるマージナルな空間へ変容するありさまを、これら一連の噺では、現在進行形で見ることができる。都市と郊外の境界領域について、市村弘正氏が『世事見聞錄』を引用しながら指摘している。

「支配秩序の側からする『見聞録』の筆者の危機感は、地域的=身分的な周縁部が膨れざるをえない都市の構成そのものにかかわり、またそれを問題化する「都会」の発展という時代の状況にかかわっていた。」
「そこ【路地】において、「粥を啜っても芝翫」というように、それはまた都市の周縁部に隔離された「悪所」空間へと通じていた。そこには幕藩秩序の要請する世界像とは異なる、虚実ないまぜの重層的な構成の空間をもつことが可能であった。」(註65)

そしてこのような都市民と都市の構造こそが、天保改革を牽引した幕閣の脳裏にあり、改革を推進していったに違いない。江戸の町人が、幕府によって把握しきれない宗教的、精神的あるいは思想的「悪所」に引き込まれようとしているという危機感がこの時期に顕在化したのである。禊教への徹底的な弾圧も、この時期に行なわれたことにも注意しなければならないだろう。つまりは、こうした都市構造こそが、明治新政権を迎え入れることになる江戸の姿であったわけである。

「菊模樣皿山奇談」連載時、モデルとなった勝山藩「三浦家の馬場某の苦情を受け、六十九席以降は架空の人名に変えている。」(註66)実際、第69席のマクラで次のように語られている。

「引續きまして皿山奇談の御【草字】話しで古゛ざいます可゛是ハ三浦家の騷動でも何でも無く圓朝(王たくし)可゛若年の頃綴りましたお話で皿山と申【草字】す地名可゛美作の國にござりますので三浦家のお名前を拜借致したまでの事でございます」(註67)

歌川芳虎画 王子実は日暮里見晴しの図『菊文様皿山竒談初編』早稲田大学図書館柳田文庫蔵(特別使用許可済)

歌川芳虎画 王子実は日暮里見晴しの図『菊文様皿山竒談初編』早稲田大学図書館柳田文庫蔵(特別使用許可済)

その「若年の頃綴りましたお話」としては、「菊模樣皿山奇談」の初期の草双紙『菊文様皿山竒談』(1871)が早稲田大学図書館に所蔵されている。(註68)基になった噺は、おそらく正本芝居噺であり、8代林家正蔵(林家彦六)により「菊模様皿山奇談(楼門の場)」が演じられており、1970年、岩波ホールでの口演については、日本大学芸術学部映画学科によって制作された映画が現存する。書割は伊藤晴雨によるものである。(註69)そして、『菊文様皿山竒談』では、後年の完成版と比べて異なる次のような特徴が見られる。(註70)
冒頭の「よみ初」は、「きのふのさ可り介ふハま多うつる尓者やきよの中ハな尓可゛つねなるあ寿可山」(昨日の盛り今日はまた移るに速き世の中は何が常なる飛鳥山)ということで、噺の発端が飛鳥山での花見にあることは不変なのだが、双紙の挿画に描かれているのは柳沢信鴻の愛した日暮里の見晴しであり、「日莫里繫舟松之碑」が描かれている。挿画では、小篆体は正確に表現されるものの碑文は適当に文字様の記号を描いている。かつて諏訪台の最高部「見晴し」にあった石碑は、明治以後寺域の縮小する中、現在では本堂のある最下部に移築されている。その碑文は次の通りである。

「(表面)日𦶛【暮、莫】里繋舟梥之碑
其始也苦於雉兎中而厄於絓繋終歷千載而不改者唯松獨也日莫里青雲夺【寺】林有號【号+乕】曰繋舟枀葢古者從阜東匯皆𤀎囙澤為隍倚舟于門或其然乎滄桑屢變不可謂毋也初太田持資用俶儻之節振威於東諸州信當丗徤壯傑士也晩入道稱道灌志尚風雅則繋舟扵斯𨸏者邪山曰衜灌里曰日莫日𦱤即訓消日也可以徴焉逸民初麻吕逰觀扵斯適有㮣然於心而出涕惡夫涕之無識也謁余為辭刻之于石銘曰日莫之里遺𢜤之虗楚𠄠者松感茲居諸厥□□□□□□鋤䰟如不朽消揺斯閭
       北海入江貞撰并書
(裏面)
江都鋸匠街平田初麻吕建之」(註71)

青雲寺 日𦶛里繋舟梥之碑

青雲寺 日𦶛里繋舟梥之碑

ただし、噺の筋の中ではわが日暮里も堂々と登場している。飛鳥山から田端高台通りを抜けて道灌山から日暮里のコースである。われらが主人公・松蔭大蔵は、道灌山からは雌雄の蝶ちょに導かれ、諏方明神社の杉の根元へ到着する。
(次の1段落、2017年1月20日追加)
これが日暮里村の鎮守・お諏方様の実景を根拠にしたものであることの証明については、下記の通り、数千の胡蝶が御神木の「うろ」から飛び出したとする記述と画像が参考になる。というのは、次のような日暮里の古老の証言があるからである。まず、田戸亀太郎によれば、諏方神社の「往時は社前に五抱もある樹齢五六百年と思われる老杉、大椎、樅の大木もあって荘厳な神域でした。」(註72)という。また、1913年度に第一日暮里尋常高等小学校を卒業した(註73)平塚春造によれば、「暗夜になると,子供達が社殿を一廻りする肝だめしをしたが,社殿の東側に直径1メートル以上もある欅の巨木が落雷のため根元まで空洞になっていて大きな口をポッカリあけているので,みんな胸をどきどきさせて廻って来たものである。」(註74)という。これが「うろ」のある御神木のモデルになったと考えてよいだろう。この木がどうなったかというと、「しかし汽車が通り、工場が並びだした大正時代以後今でいう公害のはしりでしょうか、今では大樹は銀杏と椎の古木が二本残っているのみとなってしまいました。」(註75)初代三遊亭円朝の時代から大正期にまで残っていた巨木も、近代化の中で枯死したのである。

歌川芳虎画 諏方神社鳥居と胡蝶出現の図『菊文様皿山竒談初編』早稲田大学図書館柳田文庫蔵(特別使用許可済)

歌川芳虎画 諏方神社鳥居と胡蝶出現の図『菊文様皿山竒談初編』早稲田大学図書館柳田文庫蔵(特別使用許可済)

「者る【春】の日ハな可゛しといへど山の者尓可多むきをつる尓をり江【織江、若竹織江】ハおどろ起ま多のめんく王い【面会】やくしてたもと王可ちてゆく可げを大藏【松蔭大蔵】見おくりにつことゑミ「ハテよ起もの尓めぐりあひ世尓なりいづるときこそきた連りうち江もどりてまへい者ゐさけでもか者んとあミ可゛さを可多尓ひき可けぶら〱と○ともなひ可多らふひとびと尓みきを寿ヽめてさ可づきをとり〱な連やあづさゆみトうたひ小ごへ尓者つしつゝ多゛うく王ん山【道灌山】のあな多までき多りしころ尓めをのてふ可の大藏可゛ゆくて尓まひくんづ不ぐ連つた者むるゝをきやうあること尓おもひなしこしなるあふぎ【扇】さとひら起【開き】をへバ手の志多まひぬけて者多のなの者な【畑の菜の花】めも可け寿゛なのまつ可げ【名の松蔭】をやどりしあな多とこな多と大藏尓まつ王りまふてとぶさまを志きり尓きやう尓【興に】いりあひの可年【入相の鐘】さへつげて日ぐらしや諏訪〔寿王【すわ】〕のしやない尓い多りし尓く多゛んのてふハ可多へなる寿ぎのね可゛【杉の根方】へとびされバつ連尓者ぐ連し【連れにはぐれし】こゝちしてく多゛んの寿ぎ尓ち可よりたゝ寿゛ミ【近寄り佇み】ね可゛多のうろをさしのぞけバ寿せんの【数千の】小てふとつぜんととびあら者れて大藏可゛身尓まつ王れバうるさしとをへど者らえどあま多の小てふ可不【顔】うであしのきらひなくまつ王りたる尓さしもの大藏可うじ者てつゝ【困じ果てつつ】ミ尓をびしちいさ可゛なのさやを者らひ十王うむじん尓きりま王連ど【縦横無尽に斬り回れど】もとよりてふのこと【合字】尓しあれバさらにおそるゝさ満もなく身尓まつ王ること者じめのごと【合字】し」(註76)

歌川芳虎画 諏方神社御神木より女神出現の図『菊文様皿山竒談初編』早稲田大学図書館柳田文庫蔵(特別使用許可済)

歌川芳虎画 諏方神社御神木より女神出現の図『菊文様皿山竒談初編』早稲田大学図書館柳田文庫蔵(特別使用許可済)

無数の蝶に囲まれて気絶した松蔭大蔵の前に現れた怪しの女神は、実は「おん身可゛あ年なりし小てふ可゛なれる者てなるぞや」(御身が姉なりし小蝶がなれる果てなるぞや)と名乗り、松蔭大蔵が実は「者りまのく尓皿山〔さらやま〕のじやうしゆ赤松〔あ可まつ〕彈正忠〔だんじやうのちう〕よしまさぬし可゛王寿れ可゛多ミ」(播磨の国皿山の城主赤松弾正忠義正ぬしが忘れ形見)であることを告げる。(註77)原文は基本ひらがなで、漢語の難読字によみがなを付けるのだが、変体がな交じりで読みにくいことこの上ない。また、噺の展開やエピソードから見て、道具噺であったことは間違いない。挿画の一部は実在の書割に従ったものであって、「日莫里繫舟松之碑」や「うろ」のある御神木を高座に登場させたのは、三遊亭円朝その人の発意であった可能性が高い。それは次のような幕末期の記述があることによる。

「幼名次らう𠮷と云し頃國よし【歌川国芳】の门 尓入てう起よ絵【浮世絵】を学べり父ハ橘屋圓太らうとて落語家なれバ其身も終尓業をつ起゛初名小圓太と号し近来圓朝と改名せり此人う起多る【浮きたる】業(ぎやう)に似寿゛父母兄尓仕へて孝順飛と可多奈ら須゛【ひとかたならず】殊に風雅尓たづさ者りて専ら有名の輩(と)に交り因縁つゞ起物語を自作志て自ら道具の書割(可き王り)尓工夫をこら須尓其王ざ【技】大尓行(おこなハ)連て毎度諸所に大入をなし飛いき【贔屓】の常連飛きもきら須゛父の師圓生長病(ちやうひよう)のミぎり介抱奈不ざり奈ら須゛圓生没して家族を引とり扶助の親切その志ざす処藝人の𠩄為尓あら須゛」(註78)

三遊亭圓朝『粋興竒人傳』国立国会図書館蔵より

三遊亭圓朝『粋興竒人傳』国立国会図書館蔵より

また、8代林家正蔵(林家彦六)による次のような証言も、貴重な情報を伝えてくれる。

「舞台用に特別に【衣裳を】誂えたってえのは、圓朝師匠くらいでしょう。圓朝師は、その時分、大丸へちりめんの浴衣を誂えて、それを着て水ン中へとび込んで見せたんですってね。これァ寄席は宮松だったそうですがね、おそらく『皿山奇談』の松陰大蔵かなんかでしょう。川通りで大蔵があたりを取り巻かれて、絶体絶命になって逃がれる時に、川に見立てた前の水槽へとび込むわけです。圓朝師匠も泳ぎはできなかったそうですけれども、泳ぎが出来ない者が水ン中へはいるってえと、方向音痴になっちゃうんですよね。それで師匠が手さぐりでじゃぶじゃぶやってるのを弟子がとッつかまえて、水槽の閉めてある出口からひっぱり出して、あとを締めるってわけです。
これァ本水ですからね。今なら設備も楽にできるけど、昔ァ畳敷きの客席へ張り出して水槽をこしらえるってのは大変です。それに毎日水を汲み替えるってわけにもいかないから、三日や四日は置くでしょう? すると夏なんぞは水がくさってくるから、その臭いを消すのにまた苦労したなんて、おじいさんがそう言ってましたよ。そのころは十五日興行で、続き噺ですから初日から楽(ラク)まで毎日とび込むってわけじゃァないでしょうが、三日か四日は続けてとび込むところを演ったんでしょう。」
「のちには大八車に三ばいぐらい道具を運んだってことも聞きました。これァひとつには宣伝で、
「圓朝の芝居噺は大変な道具だね」
 って、寄席の隣近所かを驚かせる。大丸のちりめんの衣裳で水ン中へとび込んだってえのもそうですね。おじいさんがよく言いましたけども、圓朝師匠が風邪でもひいて二日も寝てえると、その時分だから月代が伸びる。それで、おじいさんの肩へつかまったら手は上がりぎみになる。と、袖口ンとこから緋ぢりめんの襦袢がこぼれて見える……
「圓朝は病人だのに寄席を勤めて、えれえもんだ。あしたの晩行ってみようか」
 なんてことになるという……ま、そういうふうに、圓朝師匠ってかたは宣伝はうまかったらしいんですねぇ。」(註79)

さて噺の方は、実親の「赤松彈正忠よしまさ」が「あしかゞどの」の不興を買い、「さぬきのこくしゆあとぢ多ゞふゆ」(讃岐の国守阿閉唯冬)に攻め滅ぼされ憤死。その背景には魔法のお皿を我がものにしようとする「むろまちどの」の邪悪な意図があった。皿は「なん者゛んなるあやのく尓より者くらいせししんへんふしぎのさら」(南蛮なる漢(あや)の国より舶来せし神変不思議の皿)であり、その超常力で仇を取るよう遺言を残す。親と死別した「小てふ」は、「おんミ可゛う者゛く連竹王ら者可゛めのと者まざ起」(御身が乳母呉竹、妾が乳母浜崎)とともに、軍功により「みちのおくのこくしゆ」(陸奥の国守)となった「あとぢ」を追って東下する。
しかしながら、「むさしなる寿可゛ものさと【巣鴨の里】尓てこと【合字】あら王れ【顕われ】ちかよるて起【敵】をなやませし可゛若竹〔王可多け〕をり江【若竹織江】といふもの尓う者゛【乳母】もろとも尓可゛い【害】されてあやのさらさへう者゛王れし【奪われし】ハむねん【無念】といふもおろ可なり王可゛志可者゛年【我が屍】ハこゝよりち可起【近き】せん多゛ぎむら尓【千駄木村に】うめら連し可゛む年んのいちねん【無念の一念】小てふとへんじ【変じ】あとぢ尓【阿閉に】あ多゛【仇】をなさんと寿れどいま多゛尓【未だに】時のい多らざりし可゛おんミち可ごろ【近頃】不どち可起【ほど近き】ね起゛しのさと尓【根岸の里に】あるをしりなのりあひつゝ王可゛つうり起【我が通力】ゆづらんものとおもひし尓介ふ【今日】者可ら寿゛も【図らずも】王可゛あ多゛多る【我が仇たる】をりへ尓【織江に】をんをきせ多れバ【恩を着せたれば】これくつきやうのと起【究竟の時】なりとつうり起【通力】をもてま年起゛し【招ぎし】なり」(註80)と物語り、魔法のパワーを譲るかわりに親の仇を取ることを依頼する。その究極の目標は、ダークサイドの敵に奪われた魔法のアイテムをゲットすることにある。さあ、松蔭大蔵の全3編にわたる冒険RPGのスタートである。

ここでは、「寿可゛ものさと」(巣鴨の里)にはじまって、「せん多゛ぎむら」(千駄木村)、「ね起゛しのさと」(根岸の里)、「多゛うく王ん山」(道灌山)、「日ぐらし」(日暮里)と、「諏訪のしや」(諏方神社)を中心とする地名が正確に語られている。したがって、1870年代初頭の時点では、初代三遊亭円朝の意図においては、日暮里の景勝地としての意味が当然のように理解されていることが前提となっており、それは地理感覚も含めて聴衆にとっても理解可能なことだった。しかし、『やまと新聞』に口演を連載する時点では景勝地としての日暮里も、諏方明神社も登場しない。これは、聴衆にとって日暮里が景勝地であるというリアリティが、1890年には既に失われていたからと解される。
また、姉の「小てふ」の魔法の通力であるが、松蔭大蔵の住居の根岸には届かず、諏方社を中心にして道灌山、日暮里という極めて狭い範囲にしか通用しなかったことが分かる。おそらく距離の2乗に反比例して減衰する、物理学的法則の支配を受ける種類のパワーであり、無限遠に到達する神秘的なフォースではなかったのだろう。さらに、私怨による敵討ちは刑法上の量刑によらない私刑(リンチ)であり、当然のことに許されるものでないが、1873年2月7日、太政官布告第37号によって禁止されるまでは合法であった。

『圓朝人情噺』に収録された『心中時雨傘』という噺には、日暮里花見寺も登場する。これは既に道具立ても音曲もない、素噺である。

「エヽ此のお噺は御維新前、慶應元年の十一月二十一日に、日暮里は花見寺の前、お諏訪樣の境內にございました心中のお噂で、お年を召した方はお聞及びに成つてゐらツしやいませうから、嘘ツ八の戯作ものでないだけが、幾干(いくら)かお土産に成らうかでございます。」(註81)

言っておくが、この噺はもちろん「嘘ツ八の戯作もの」である、念のため。「根津權現」の「門前にどツこい〱の店を出してゐました緣日商人(あきんど)のうちではどツこい屋のお初と名の通つた二十三四の女」と「同じ稻荷待ちの裏長屋に住む形金〱と云つて、形付職の金三郎」(註82)が主人公の運命のドラマ。元治元年の冬、長屋の火事で母を救出するために負った打撲傷により、右手の自由を失った金三郎は、あくる年には母を失い、からだの具合もままならぬ。

親切者の差配の「勘兵衛さんの旦那寺は日暮里の花見寺でございますから、此處に極めたら宜らうと是れも勘兵衛さんがテク〱日暮里まで懸合に往つてくれ、何が何でも最う是れが親子のお別れだからと、翌日は一日佛を家におきまして其の夜は長屋の人も四五人來てくれ、金三郎の友達も集つて賑かに夜伽をいたし、明る朝早く差擔ひも餘りだと、勘兵衛さんの指圖で粗末ではございますが駕で送り出しまして、日暮里の花見寺へ葬り、七日〱の法要も心ばかりに執行(とりおこな)ひ、夫婦差向ひで寂しく暮して居りました。」(註83)

金三郎の腕の具合もよくならず、お初の商いも夫婦2人で食うや食わず。

「番傘一本を買ひ相合傘で、トボ〱と淺草を出ましたは最う火點ぼし頃でございました、明日とも云ず今宵を限りこの娑婆を暇乞して、果しなき旅の鹿島立いたす身には、見馴れた町々も物珍しく、これが見納めと夫婦は振り來る時雨を、一つの傘に除けながら豫て定めた死處、日暮里へと志しまして淺草御門跡樣の裏通りを松葉町へぬけ、半年餘り住み馴れました山伏町も、心に殘る氣はしながら知る人に逢ふも便り惡しと傘を横にして通り過ぎ、下寺について根岸を御院殿下に出ますると、最う火影のさす家とてもございません田圃道で誰れ憚ることもない相合傘、霜月二十一日の宵闇を漸うと日暮里へ辿り着きました。此處から諏訪の臺にあがりますと晝も小暗きお諏訪樣の森で、その前が花見寺の裏門でございますから、垣根の破れからお墓塲へ入り、亡お袋の墓に詣でまして墓前を二人の死處と互に名殘を惜んで居りますと、カチ〱カチ〱と寺の夜廻りが來る樣子でございます。見附られては一大事とそこ〱に墓塲を逃れ出で、お諏訪樣の森の中に潜んで窺ひますると、夜廻りも遠く去り拍子木の音も聞えなくなりましたので、手を取り合て見晴の腰掛茶屋の跡で心を落付けます折柄、金三郎の足にあたつた物があるのを拾つて見ますと矢立でございます。
 金『こんな物が………丁度好(いヽ)、是れも一筆書き殘せとお諏訪樣のお告だらう、己は書度(かきたく)も手が利かねえ、お前(めへ)、書てくんねえ。』
 初『何も書置くことツて無いが………斯うして死ぬのも一所(いつしよ)に死ぬのだから、埋るのも一所(ひとつところ)に埋て貰へるやうに………。』
 金『あゝ、夫れはお互ひにな………。』
と夫れからお初は矢立の筆を出しましたが、鼻紙などに書て置いても雨に濡れたり、飛び散つては何にも成らぬから傘の裏に書いて置けで【ば】大丈夫と、闇を探り書きの假名文字で、
 わたくしどもはふうふもの、どうぞいつしよにうめてください
   十一月二十一日                 金 三 郎
                           は   つ
 金『さア是れで何も思ひ殘すことア無(ね)い、最後の覺悟。』
と雨の當らぬ森の芝生に坐りました。
 初『ちよいとお待よ、最期の際に水が無くてはお藥を呑むにも都合が惡い、今御手洗のお水を戴いて來るから………。』
とお諏訪樣の御手洗の水を柄杓に一杯汲んでまゐりまして、お初は女のことでございますから死んでも醜い態度(さま)は見せまいと、腰紐を解いて膝と膝を確(しつか)り縛り、鼠取藥を一服グヒと水と共に呑みました、金三郎も後れはせぬと同くグヒと一服お初が呑殘した水を呑みこみ。夫婦は此世の名殘りににつこりと笑つて抱き合て心中を遂げました。
翌朝になりますと、心中があつたと大騷ぎでございましたが、遺書(かきおき)が雨傘の裏にありましたので、お初金三郎と直きに知れ、花見寺からの知らせに勘兵衛も飛んでまゐり、寺の和尚樣と勘兵衛の情で御役人の手前を取繕ひまして、死骸は勘兵衛が引取り夫婦の望み通り一ツ所に埋(うづ)め、花見寺の夫婦塚(めうとづか)と云つて卵塔塲の南寄りの片隅に小な墓標が殘つて居りました。心中時雨傘のお話はこれでお了ひでございます。」(註84)

落合芳麿畵 心中時雨傘口繪『圓朝人情噺』国立国会図書館蔵より

落合芳麿畵 心中時雨傘口繪『圓朝人情噺』国立国会図書館蔵より

ここでいう花見寺は、修性院または『三遊亭圓朝子の傳』にその名が見えた妙隆寺であろう。(註85)「小な墓標が殘つて居りました」と過去形で叙述するのも架空化の戦略であろうから、廃寺寸前のところにあった妙隆寺が最も可能性が高い。『東京近郊名所圖會』(1910年)には、「當寺は目下修行中にて門を閉ぢ。通拔けを禁するよしの標示あれば。親しく之を探るを得ず。外部より窺へば庭園は荒廃し居れども。尚ほ舊趣を存すれば。修理を加へなは遊覽の地たるを得べし。三四の碑は確かに存在するを認む。」とルポルタージュ記事が掲載されている。(註86)そして妙隆寺地内の東南に「共同墓地」があったことが敷地図から分かる。(註87)現在の富士見坂マンションのところに該当するが、同マンション建設の際にはお骨がたくさん出てきたそうである。また、平塚春造による明治期の富士見坂の話として「この坂はもと寺の庭の道で山の上へ通じていたのを、村の人達が諏訪神社の方へ行くのに便利な爲、いつか村の通路となり、始めは久保田【万太郎】さんの南の塀隣りにあったと言います。それが崖を切り崩す為に現在の富士見坂の所に新規に造られたもので、その工事の時、多くの人骨が出たので、古老のうちには「骸骨坂」と呼ぶ人もありました。」ともいう。(註88)ただし以前にも触れた通り、日暮里富士見坂ができたのは江戸期にさかのぼる。このことについては、幕末期の諸図面に明記されているため動かない。

心中についてであるが、噺の設定年代にあっては心中は法により禁じられており、しかるべき量刑があった。それは以下のようなものである。

「享保七年極

一 不義にて相對死いたし候もの        死骸取捨爲弔申間敷候
   但一方存命に候ハゝ下手人

あ                   三日晒
一 雙方存命ニ候ハゝ             非人手下


一 主人と下女相對死致損主人存命ニ候ハゝ   非人手下」(註89)

そして、それらを芸能作品にすることも禁じられている。豊後節が声高らかに歌った純愛作品が幕府の忌避に触れた話も先に述べた通りである。

「廿四日、雨、當番〔松井三河・山田隼人・藪澤彈正、宮內卿病キ、采女上詰、〕
一、雜色觸、
 一、男女申合候而相果候者之儀、自今死骸取捨ニ申付候間、親類緣者有之候とも、右死骸、寺方江賴取候事停止ニ申付候
 一、男女申合候而相果候者之儀、先達而相觸候通、彌かふき・あやつり(操)の狂言ニいたし候儀ハ勿論之ヿ、繪草紙又ハ壹枚繪等之かるき板行ニいたし候儀も可爲無用候、若相違之族有之者可及吟味候、右之通可相心得者也、」(註90)

2代松林伯円は、初代三遊亭円朝が尊敬していた講談師である。興津要氏によれば、2人の共通点は、明治以降打ち出された政府当局の意向に沿って、芸風を転向したことにある。それはまた戯作者の仮名垣魯文にも共通した時勢順応主義であり(註91)、9代目市川団十郎も演劇改良を掲げ、政権にすりよっていた。こうしたこともあって、初代三遊亭円朝は『鹽原太助一代記』のような勧善懲悪、立身出世的な人情噺を創作したものの、聴衆のニーズに合わず、須田務氏によれば、「「教導師」円朝は、寄席・落語改良運動にやぶれ、東京を後にして大阪へと向かうのである。」とする。(註92)ただし、『鹽原太助一代記』のたどったコースは、近世末期から近代初期にかけて、生産・流通・金融のメインルートとなった中山道筋であり、文化人、芸能者、アウトローそして自由民権運動家のネットワークが作られた基礎になるものであった。

中込重明は、「明治二十年代の言文一致成立にあたって、その苦心、その試行錯誤している当時の知識人らが、落語の速記などを読んでも、さして、それに触発されることはなかったはずである。三馬の『浮世風呂』や『浮世床』などは、その代表的なもので、事実、これは言文一致の参考書になっており、今でも江戸時代の会話を知る資料として引用される。言文一致運動の悩みの的は、会話ではなく、地の文を如何に処理するかであったはずである。このことは何も、ここで強く主張する必要のないいわば確認事項である。というのも、他でもないこれは言文一致を論じた文章の中に幾らでも出てきている自明周知の学説だからである。」という。(註93)

ここで再び橋本治氏に登場してもらうと、講談とは次のような文芸だった。

「まず第一に、文章にリズムがある。あって当たり前である。これは口から出てきて語られる言葉だからであるからして、耳に心地よいのが当然という前提があるからである。早い話がこの当時、講談の速記録ほどにリズムを持った文章というものはなかったのである。あったかもしれないが、トントントンと、情報を叩き込んでしまうような文体は、講談以外にはなかったのである。」(註94)

講談や浪花節は、系譜的に読経や声明など仏教行為に起源を持っている。そればかりでなく、音声学的にもその原型を残している。
村山英司氏によれば、整数次倍音は人工的に音作りされた楽器音や歌声であり、非整数次倍音を多く含むのは、自然に存在する音に多いという。(註95)中村明一氏は、高次の整数次倍音を出す楽器は「チャルメラ、バグパイプ、日本の雅楽の篳篥など」、「声では、ブルガリアンボイスなど」、日本の伝統的発声法、「民謡、謡曲、声明、「歌いもの」と呼ばれるジャンルに属する長唄や地歌などの声」に多く見出されるという。(註96)村山英司氏は、「基音より倍音を主に聞かせる声ではモンゴルのホーミーがあげられる.」としてわれわれが既に見たホーミーを取り上げる。一方、非整数次倍音を多く含むものとして、「アフリカ系、ジプシーの人たちの声」、「ハスキー・ボイスやウィスパー・ボイス」「楽器の音では、ケーナ、パンパイプなど」をあげ、「日本伝統音楽の発声の中では、「語りもの」と呼ばれるジャンルに属する義太夫節、説教節、浪曲など」、また、「日本の人たちは、尺八、三味線、琵琶、能管など、海外から入ってきた楽器をすべて、この[非整数次倍音]が出るように改良したのです。」という。(註97)、村山英司氏は「かすれた響きのものや打楽器の多く」と総括し、「語り物では,整数次倍音・非整数次倍音・倍音の少ない音を激しく変化させている.」と述べる。(註98)
これと似たものに「だみ声」がある。中山一郎氏らによれば、「日本において「だみ声」は、これらの芸能、演芸だけでなく、市場の「競り(セリ)」の声や、鮮魚店、青果店などの売り声、やくざが用いる脅し声など、幅広い場面で日常的に用いられている。」(註99)これらについて、大阪芸術大学を含む研究者の音響学的実験結果が示されている。ただし、「やくざが用いる脅し声」が「日常的に用いられている」のは、大阪ならではの事例であろうか。実験方法と結果については、能力的に要約困難であるので、はなはだ申し訳ないのだが、引用を多用させていただきたい。

「24対の両極尺度(例えば「非常に澄んだ」-「非常に濁った」)を用いて、それぞれの尺度上で呈示された音声の知覚印象を7段階で評価」、「24 対の尺度を直行させて 24 次元のユークリッド空間を構成する。次に、各音声試料(発話者)をこの空間上に布置」させ、それぞれの音色試料の距離を「分析の結果、24次元の空間は、3次元空間に縮退され(S-Stress=0.00033)、各軸は、「美的因子」、「迫力因子」、「金属因子」と解釈できることが分かった。」さらに「各音色試料の「だみ声度」と、この3次元空間の各軸上での値との関係を重回帰分析によって調べた結果、重相関係数0.8という非常に高い相関の重回帰式が得られた。この重回帰式から、音声試料の「だみ声度」は、ほぼ「美的因子」のみで決定されることが明らかになった。」という。
さらに「搬送周波数と変調周波数との関係が臨界帯域幅の3/4程度であるとき、最も粗さの程度が高く、両者の関係がこれから離れるほど、粗さの程度が低減する」ことから、「音声の基本周波数、すなわち搬送周波数は100~200Hzであるため、この搬送周波数に対して最も粗さの程度が高くなると推定できる変調周波数は約35Hzとなる。したがって、変調周波数35Hz付近で大きなゆらぎを持つ音声は「濁った、汚い」音声、すなわち「だみ声度」の高い音声に聞こえるのである。」と推定、「日本人の「だみ声」は、声帯の開閉に3~4回に1度の割合で不完全な開閉が起こるというメカニズムで生じていることを示唆する。」という。
モンゴルのホーミー、トゥバのホーメイでのドローン音にも「日本人の「だみ声」と同様に、30~40Hzの変調周波数で大きな変調指数の周波数ゆらぎが含まれて」おり、「ホーミー歌手達が、ホーミー歌唱の場合において、意図的に声帯付近の筋肉を制御して、このような3~4回に一回の不完全な開閉を生じさせていることを意味する。」と結論する。(註100)

日本における特殊な発声法と、内陸アジアにおける特殊な歌唱法の間に共通のメカニズムが見られることはいったい何を意味するのか。ホーミーについては、北ユーラシアと北東アジアに活動する諸民族を比較しながら書いたことがある。

以上、諸芸能と宗教の間に抜き差しならない関係があったこと、明治期にそれらが分解されることによって新たな局面が生み出されたことを念頭におこう。そして、今日のわれわれにとって容易に理解しがたいこれらの様相が存在したのは、たかが150年ほど前までの日本の出来事であったことにも留意しよう。それは、セシウム137(Cs-137)がようやく32分の1になろうかという時間の長さにすぎない。

さて、本章を閉じるにあたっても橋本治氏にご登場いただく。

「日本史が土地制度と百姓一揆の話になってしまったのは戦後のことで、従って今の日本史に人物にまつわるエピソードというのは一つもない。だから歴史は退屈なのだが、かつてそうしたエピソードというものは全部、日本人は講談から獲得したのである。講談は、だから手に汗握る歴史物語と偉人伝の宝庫だったのである。」(註101)

そして最後に、8代林家正蔵の回想文中に「おじいさん」とあったのは、初代三遊亭円朝の最後期の直弟子・3代三遊一朝。のちに林家正蔵を襲名することになる5代蝶花楼馬楽に、正本芝居噺を伝授した師匠である。1930年、世話を受けていた5代蝶花楼馬楽宅で死去。数えでいうと、85歳という長命であった。その亡骸は弟子たちに守られ、日暮里の火葬場で荼毘に付された。その辞世の句は、次の通り。

「あの世にも粋な年増がいるかしら」(註102)

南泉寺最高部からの眺望

南泉寺最高部からの眺望

※ 初代三遊亭円朝の正本芝居噺の挿画掲載にあたりましては、早稲田大学図書館の特段のご配慮で、同館柳田文庫に所蔵する貴重本(柳田泉旧蔵本)の画像転載のご許可をいただきました。心よりの御礼を申し上げます。

※ 2017年1月20日、諏方神社の御神木の「うろ」について追記しました。

※ 2019年12月30日「仮名垣魯文」の誤記を訂正しました。

 


 

註1 喜田川季壯尾張部守貞『守貞謾稿 巻之 (後集 巻2)』嘉永六年癸丑冬(1853‐1854年)序 国立国会図書館蔵、翻字にあたっては喜田川守貞著 宇佐美英樹校訂『近世風俗志(守貞謾稿)(五)』岩波文庫30‐267‐5 岩波書店 2002を参照した
註2 『東京さ起可゛け』第九十四號 1877年8月17日2面
註3 木村秀次「『西国立志編』白話語彙 考(二)」『千葉大学教育学部研究紀要』第51巻 千葉大学教育学部 2003年2月28日
註4 「落語大意」教部省用箋に墨書、『社寺取調類纂 雜録明治五年至九年』国立国会図書館蔵
註5 「觀相ノ大意」教部省用箋に墨書、『社寺取調類纂 奈良縣明治四年』国立国会図書館蔵
註6 下中彌三郎編輯「コーシャクシ 講釋師」『大辭典 第十卷 ケンチ‐コサン』平凡社 1935、ただし本用例は岩波文庫活字本の『誹風柳多留』および三省堂版『誹風柳多留全集』では確認できない、『日本国語大辞典 第二版』は式亭三馬『一盃綺言』(1813年)にある「べら不゛やい。講釈师(可うしやくし)见て来多やう尓うそ越つきッ。講釈(可うしやく)のうそッつきやい。てめへその時(とき)ハ棧旉(さじき)て见てゐ多可い。おらア乐【樂】屋(可゛くや)可ら见多ッ。」を初出とする、『日本国語大辞典 第二版 第五巻 けんえ‐さこい』小学館 2001による
註7 永井啓夫『新版三遊亭円朝』青蛙房 1998、『第122回貴重書展 明治の話芸―三遊亭円朝と速記本―』鶴見大学図書館 2009、ヨミダス歴史館データベース
註8 朗月散史「◎三遊亭圓朝の履歷(續き)」『讀賣新聞』1890年9月29日別刷1面
註9 朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』鈴木金輔 1891
註10 朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』鈴木金輔 1891、初出は朗月散史「◎三遊亭圓朝の履歷(續き)」『讀賣新聞』1890年9月29日別刷1面、本文に異同がある
註11 永井啓夫「一、出生」『新版三遊亭円朝』青蛙房 1998
註12 「第二章 小石川寺院名鑑 天長山是照院」小石川仏教会編『小石川の寺院 上巻 小石川寺院名鑑』西田書店 2002、また、恕軒信夫粲文則の「三遊亭圓朝傳」に「余聞圓朝兄某為僧。稱永泉。住小石川是照院。圓朝寓居數年。讀書習字。一日永泉謂曰。凡學術技藝。皆發之性情。苟性之不鍊。何望其技之長乎。抑笑話雖小技。使萬客忽而笑。忽而怒。忽而悲。忽而喜者。故當陞其座。非有壓萬人之膽。則不能也。圓朝大悟。自此其技益進云。豈其有所得於禪理乎。」とある、因幡 信夫粲文則著『恕軒文鈔巻下』信夫粲出板 松崎半造𤼲賣 1877による
註13 饗庭篁村編輯『馬琴日記鈔』1834年3月16日(天保5年2月7日)条 文會堂書店 1911、『東京市史稿 變災篇第五』東京市役所 1917所収
註14 「方角場所付」天保5年(1834年)小野秀雄コレクション火事 N013 国立大学法人東京大学大学院情報学環・学際情報学府図書室蔵
註15 田中康雄編『江戸商家・商人データベース 第5巻 な(名哥屋)~ま(饅頭屋)』柊風舎 2010
註16 「江戸の名物・名産と江東地域➁深川猟師町と漁業」『資料館ノート』第76号 江東区深川江戸資料館 2008年7月16日
註17 半左衛門様(伊那忠達)宛 深川猟師町之内大嶋町 黒江町名主助之丞 佐賀町名主藤右衛門 熊井町名主理左衛門 相川町名主新兵衛 冨吉町月行事佐左衛門「乍恐以書付申上候」安永八亥年九月(1779年)『江東区資料 寛永録 三』東京都江東区教育委員会社会教育課 1987写真図版より読みおこし、同書では「不う〱」を「ほら〱」と翻字するが、「江戸の名物・名産と江東地域➁深川猟師町と漁業」『資料館ノート』第76号 江東区深川江戸資料館 2008年7月16日の読むとおり、「ほうほう」であり「ほうぼう」の意であろう
註18 「江戸の名物・名産と江東地域➁深川猟師町と漁業」『資料館ノート』第76号 江東区深川江戸資料館 2008年7月16日
註19 朗月散史「◎三遊亭圓朝の履歷」『讀賣新聞』1890年9月27日別刷2面、朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』鈴木金輔 1891には「切通(きりどほし)」「根性院(こんじやういん)」とルビを振る、なお「根性院横丁」「根性院横町」と書かれた文献も存在するが、そのような地名はない
註20 和歌森太郎「第四章 中世修驗道の近世的變質 第一節 修驗道に對する政治的規制の優越化 二 江戸幕政下の修驗道」『修驗道史硏究』河出書房 1943、宇高良哲「第一章 江戸幕府創設以前の関東仏教教団 第四節 徳川家康と関東修験 三 注連祓役」『近世関東仏教教団史の研究―特に浄土宗・真言宗・天台宗を中心に―』1998年大正大学博士(文学)論文乙第43号 1997、関口真規子「第III部 「当山」派独立と修験道法度制定 第二章 「関東真言宗」と修験道 第三節 修験道法度制定と「関東真言宗」 一 幕府の転換」『修験道教団成立史―当山派を通して』勉誠出版 2009
註21 辻善之助「一三 黒衣の宰相金地院崇傳 六 寺院法度の制定 ニ 修驗道法度」『日本佛教史之硏究 續編』金港堂書籍 1931
註22 和歌森太郎「第四章 中世修驗道の近世的變質 第一節 室町時代山臥の定着化」『修驗道史硏究』河出書房 1943、和歌森太郎『修験道史研究』東洋文庫211 平凡社 1972として再刊、引用は初出による
註23 新城常三「第七章 近世参詣の諸相I 諸社寺参詣 第一節 中世的参詣の衰頽―熊野詣」『新稿社寺参詣の社会経済史的研究』塙書房 1982
註24 久保康顕「参詣の注連祓―山伏の活動の解明―」時枝務 由谷裕哉 久保康顕 佐藤喜久一郎『近世修験道の諸相』岩田書院ブックレット 歴史考古学系H‐14 岩田書院 2014
註25 『熊野神領豊嶋年貢目録』文安五年十一月(1448年)、杉並区史編纂委員会編『西郊文化』第九輯 杉並区史編纂委員会 1954年9月、荒川区役所編纂「第二編 沿革 第三章 中世 第六節 室町期の本区近郊 八 熊野信仰と本区地方」『新修荒川区史 上巻』荒川区役所 1955、荒川区教育委員会編『あらかわ 図録荒川区史』荒川区教育委員会 1961、永島福太郎 小田基彦校訂『熊野那智大社文書 第一 米良文書一』続群書類従完成会 1971、『新編埼玉県史 資料編5 中世1 古文書1』埼玉県 1982、北区史編纂調査会編「第1章 鎌倉時代の豊島郡 第2節 平安後期の豊島氏・江戸氏 豊島庄と若一王子」『北区史 通史編 中世』北区企画部広報課 1996
註26 坂本正仁「真言宗と祭道」『豊山教学大会紀要』第12号 豊山教学振興会 1984年10月9日
註27 宇高良哲「全阿弥考」『大正大学研究紀要』第64輯 大正大学出版部 1978年11月30日、萩原龍夫「道興准后の生涯と信仰―中世修験道の輝ける星―」『駿台史学』第49号 駿台史学会 1980年3月25日、小沢正弘「江戸初期関東における祭道公事」『埼玉県史研究』第9号 埼玉県 1982年3月31日、坂本正仁「真言宗と祭道」『豊山教学大会紀要』第12号 豊山教学振興会 1984年10月9日、宇高良哲「第六章 宗教と文化 第一節 江戸幕府の宗教政策 四 祭道公事」埼玉県編『新編埼玉県史 通史編 3 近世 1』埼玉県 1988、宇高良哲「第一章 江戸幕府創設以前の官等仏教教団 第四節 徳川家康と関東修験」『近世関東仏教教団史―特に浄土宗・真言宗・天台宗を中心に―』大正大学博士(文学)論文(1998年乙第43号) 1997
註28 宇高良哲「第六章 宗教と文化 第一節 江戸幕府の宗教政策 四 祭道公事」埼玉県編『新編埼玉県史 通史編 3 近世 1』埼玉県 1988、宇高良哲「第一章 江戸幕府創設以前の官等仏教教団 第四節 徳川家康と関東修験」『近世関東仏教教団史―特に浄土宗・真言宗・天台宗を中心に―』大正大学博士(文学)論文(1998年乙第43号) 1997、宇高良哲『近世関東仏教教団史―特に浄土宗・真言宗・天台宗を中心に―』文化書院 1999
註29 「差上申一札之事」延享元年八月二十七日(1744年10月3日) 長島喜平編『鎌形八幡宮并大行院文書集』武州郷土史料第1集 武蔵野郷土史研究会 1973、小沢正弘「江戸初期関東における祭道公事」『埼玉県史研究』第9号 埼玉県 1982年3月31日、坂本正仁「真言宗と祭道」『豊山教学大会紀要』第12号 豊山教学振興会 1984年10月9日、宇高良哲「第一章 江戸幕府創設以前の官等仏教教団 第四節 徳川家康と関東修験」『近世関東仏教教団史―特に浄土宗・真言宗・天台宗を中心に―』大正大学博士(文学)論文(1998年乙第43号) 1997
註30 坂本正仁「真言宗と祭道」『豊山教学大会紀要』第12号 豊山教学振興会 1984年10月9日
註31 茂木栄「蟇目神事 ひきめしんじ」國學院大學日本文化研究所編『神道事典』弘文堂 1996
註32 遠山左衛門尉 鳥居甲斐守「人別改方之儀ニ付御書取之趣評議仕仕申上候書付」天保十三寅年十月廿六日『市中取締類集 人別出稼之部』国立国会図書館蔵、中尾健次「補論二 「願人」の存在形態をめぐって 第三節 居住地の拡大と生業の多様化」『江戸社会と弾左衛門』解放出版社 1992、東京大学史料編纂所編纂『大日本近世史料 市中取締類集 二十六』東京大学史料編纂所発行 財団法人東京大学出版会発売 2004
註33 隠密廻「住吉踊風聞【门+夕】書」(弘化4年)七月十一日『市中取締類集 香具手踊之部 四』国立国会図書館蔵、中尾健次「補論二 「願人」の存在形態をめぐって 第四節 天保改革における幕府の願人対策」『江戸社会と弾左衛門』解放出版社 1992
註34 齋藤月岑「○願人坊主、」『百戯術略第二集』1877‐1879頃成稿、早川純三郎編輯『新燕石十種 第三卷』國書刊行會 1913
註35 「下谷山崎町弐丁目外五ヶ所木賃宿致候者共凢名前其外取調左ニ申上候俗ニぐ連宿共申候」卯正月(1843年)『市中取締類集 乞胸取締之部』国立国会図書館蔵、神宮司廳古事類苑出版事務所編『古事類苑 政治部六十八 下編 賤民下』『古事類苑 政治部 二十』神宮司廳藏版 東京築地活版製造所製本頒布 1911、南和男「第2章 幕政改革と無宿・野非人対策 3 天保改革と無宿・野非人対策」『江戸の社会構造』塙選書67 塙書房 1969、中尾健次「補論二 「願人」の存在形態をめぐって」『江戸社会と弾左衛門』解放出版社 1992、吉田伸之「第一章 集団と関係 江戸の願人と都市社会」塚田孝 吉田伸之 脇田修編『身分的周縁』部落問題研究所出版部 1994
註36 「鞍馬ノ触頭訴状」元禄十三年庚辰十月十一日『祠曹雜識』巻四十一 内閣文庫蔵、福井保解題『內閣文庫所藏史籍叢刊 第8卷 祠曹雜識(二)』史籍硏究會出版 汲古書院發行 1981、吉田伸之「第一章 集団と関係 江戸の願人と都市社会」塚田孝 吉田伸之 脇田修編『身分的周縁』部落問題研究所出版部 1994
註37 「一三四七三」天保十三寅年二月十八日、底本は『諸事留』、近世史料研究会編『江戸町触集成 第十四巻 自天保十三年 至天保十四年』塙書房 2000による
註38 「一三六六三」天保十三年六月廿六日、底本は「一六八五」石井良助 服藤弘司編『幕末御触書集成 第五巻』岩波書店 1994、近世史料研究会編『江戸町触集成 第十四巻 自天保十三年 至天保十四年』塙書房 2000による
註39 三遊亭圓朝口演 酒井昇造速記「○名人競 第卅二席」『やまと新聞』1891年9月1日3面
註40 三遊亭圓朝口演 酒井昇造速記「○名人競 第五十八席」『やまと新聞』1891年12月9日3面
註41 三遊亭圓朝口演 酒井昇造速記「○名人競 第六十四席」『やまと新聞』1891年12月16日3面
註42 「WHO による自殺予防の手引き」平成14年度厚生労働科学研究費補助金(こころの健康科学研究事業)自殺と防止対策の実態に関する研究研究協力報告書 内閣府共生社会政策統括官自殺対策サイトによる
註43 三遊亭圓朝口演 酒井昇造速記「○名人競 第六十四席」『やまと新聞』1891年12月16日3面
註44 鈴木古鶴「名士の觀た圓朝」『圓朝異聞』圓朝會代表者鈴木行三校訂編纂『圓朝全集 卷の十三』春陽堂 1928所収
註45 鈴木古鶴「逸話」『圓朝異聞』圓朝會代表者鈴木行三校訂編纂『圓朝全集 卷の十三』春陽堂 1928所収
註46 徳利旅「【円朝を歩く 第十回】宮脇志摩と四人の死―名人競」『円朝全集 月報 10』岩波書店 2014年8月
註47 三遊亭圓朝口演 酒井昇造速記「○名人競 第六十四席」『やまと新聞』1891年12月16日3面
註48 曉紅「どろぼう伯圓」『文藝倶樂部』第拾七卷第六號定期増刊 博文館 1911年4月15日
註49 立花太郎「お茶の水女子大学附近の科学史散歩」2010年11月、桜花会サイトに一部訂正版が載る
註50 『千石図書館だより Hippo』Vol. 5 特別号 文京区千石図書館(指定管理者 ヴィアックス・紀伊國屋書店共同事業体) 2015年12月20日
註51 立花太郎「「お茶の水女子大学附近の科学史散歩」について」2015年12月12日、『千石図書館だより Hippo』Vol. 5 特別号 文京区千石図書館(指定管理者 ヴィアックス・紀伊國屋書店共同事業体) 2015年12月20日
註52 美幾女墓誌、小野友道「いれずみ物語―28―梅のいれずみ―篤志解剖第一号 遊女美幾―」『大塚薬報』第639号 大塚製薬工場 2008年10月10日による
註53 「菊模樣皿山奇談」第二十二席『やまと新聞』1890年8月1日3面
註54 三遊亭圓朝口演 酒井昇造速記「○菊模樣皿山奇談 第二十八席」『やまと新聞』1890年8月8日3面
註55 三遊亭圓朝口演 酒井昇造速記「○菊模樣皿山奇談 第三十五席」『やまと新聞』1890年8月16日3面
註56 三遊亭圓朝口演 酒井昇造速記「○菊模樣皿山奇談 第九十二席」『やまと新聞』1890年10月24日3面
註57 鈴木冨志郎「都市地域の地名に関する事例的考察―その改変・新設・保存をめぐって―」『立命館地理学』第2号 立命館地理学会 1990年11月23日
註58 三遊亭圓朝口演 酒井昇造速記「○菊模樣皿山奇談 第九十二席」『やまと新聞』1890年10月24日3面
註59 「小金屋と云ふ餡屋」語注「菊模樣皿山奇談」延広真治 佐藤至子校注『円朝全集 第九巻』岩波書店 2014
註60 Deirdre A. Prischmann「Insects as Aphrodisiacs」John L. Capinera『Encyclopedia of Entomology, Volume 4』Springer Science & Business Media, 2008
註61 三遊亭圓朝口演 酒井昇造速記「○菊模樣皿山奇談 第九十四席」『やまと新聞』1890年10月26日3面
註62 鈴木古鶴「逸話 高座の言葉遣ひ」『圓朝異聞』圓朝會代表者鈴木行三校訂編纂『圓朝全集 卷の十三』春陽堂 1928所収
註63 三遊亭圓朝口演 酒井昇造速記「○菊模樣皿山奇談 第四十八席」『やまと新聞』1890年8月31日3面
註64 三遊亭圓朝口演 酒井昇造速記「○菊模樣皿山奇談 第四十九席」『やまと新聞』1890年9月2日3面
註65 市村弘正「都市の周縁」『「名づけ」の精神史』みすず書房 1987、初出は『伝統と現代』第55号(総特集 現代ふるさと考) 伝統と現代社 1978年11月、未見
註66 佐藤至子「後記 菊模様皿山奇談」延広真治 佐藤至子校注『円朝全集 第九巻』岩波書店 2014
註67 「○菊模樣皿山奇談 第六十九席」『やまと新聞』1890年9月26日3面
註68 三遊亭圓朝作話 山々亭有人補綴 錦朝楼芳乕画圖『菊文様皿山竒談 初編上』若榮堂(若狹屋甚五郎)蔵板 明治三庚午袺□[衤+髙]【結稿】仝四辛未孟春(1871年)發兌、早稲田大学図書館柳田文庫蔵(柳田泉旧蔵)、早稲田大学古典籍総合データベースによる、題名のうち「様」字は原文では[扌+羡](U+2ABB2)であるが、Internet Explorerでは、unicode のCJK統合漢字拡張C面の文字を使用できないため「様」字におこす、以下同じ
註69 伊藤清『音と画像と活字による 八代目林家正蔵 正本芝居噺考』三一書房 1993
註70 三遊亭圓朝作話 山々亭有人補綴 錦朝楼芳乕画圖『菊文様皿山竒談 初編上』若榮堂蔵板 明治三庚午袺稿 仝四辛未孟春(1871年)發兌、早稲田大学図書館柳田文庫蔵、早稲田大学古典籍総合データベースによる
註71 「日𦶛里繋舟梥之碑」、翻字にあたっては山下重民編「○東京近郊名所圖會 其一 ⦿北郊の部第一 ◎北豐島郡 ◎日暮里村 ●青雲寺」『大日本名所圖會』第七十六號 東陽堂 1910年2月25日、「第十二章 史蹟名勝」『荒川區史』東京市荒川區役所 1936、『漢文石碑を読み歩く』サイトを参照した、「𦶛」は「暮」の小篆体であるが「莫」とも同字であり、碑文で「日莫里」と用いられているため、字形優先に起こした
註72 田戸亀太郎「谷田田圃をはさんで➅」『荒川史談』No. 122 荒川史談会 1978年3月1日、初出は田戸亀太郎『谷田田圃を狭【挟】んで』私家版 1961とのことだが未見
註73 『創立百周年記念誌 ひぐらしの里』東京都荒川区立第一日暮里小学校 東京都荒川区立第一日暮里小学校PTA 東京都荒川区立第一日暮里小学校創立百周年記念事業協賛会 1985
註74 平塚春造「我が町を探る」西日暮里3丁目町会創立30周年記念誌編集委員会編『日暮の里 町会30年の歩み』西日暮里3丁目町会 1982
註75 田戸亀太郎「谷田田圃をはさんで➅」『荒川史談』No. 122 荒川史談会 1978年3月1日、初出は田戸亀太郎『谷田田圃を狭【挟】んで』私家版 1961とのことだが未見
註76 三遊亭圓朝作話 山〻亭有人補綴 錦朝楼芳乕画圖『菊文様皿山竒談 初編上』若榮堂蔵板 明治三庚午袺稿 仝四辛未孟春(1871年)發兌、早稲田大学図書館柳田文庫蔵、早稲田大学古典籍総合データベースによる
註77 三遊亭圓朝作話 山〻亭有人補綴 錦朝楼芳乕画圖『菊文様皿山竒談 初編上』若榮堂蔵板 明治三庚午袺稿 仝四辛未孟春(1871年)發兌、早稲田大学図書館柳田文庫蔵、早稲田大学古典籍総合データベースによる
註78 「三遊亭圓朝」假名垣魯文 山〻𠅘有人合輯 春廼屋幾久校合 一惠斎芳幾画 宮城楓阿彌 竹田交來淨書『粋興竒人傳』丸屋徳藏 文久三癸𠅆季春𠮷辰(1863年)序 国立国会図書館蔵、読解にあたり、伊東清「正本芝居噺考」『八代目林家正蔵 正本芝居噺考』三一書房 1993を参照した
註79 八代目林家正蔵「怪談噺・芝居噺 圓朝の芝居噺」『正藏一代 林家正蔵集 別巻』青蛙房 1974、カタカナの「ン」は原文では小書き、unicodeに登録がないため大文字を使用した
註80 三遊亭圓朝作話 山〻亭有人補綴 錦朝楼芳乕画圖『菊文様皿山竒談 初編上』若榮堂蔵板 明治三庚午袺稿 仝四辛未孟春(1871年)發兌、早稲田大学図書館柳田文庫蔵、早稲田大学古典籍総合データベースによる
註81 故三遊亭圓朝口演「心中時雨傘 第一席」『圓朝人情噺』日本書院 1913
註82 故三遊亭圓朝口演「心中時雨傘 第一席」『圓朝人情噺』日本書院 1913
註83 故三遊亭圓朝口演「心中時雨傘 第四席」『圓朝人情噺』日本書院 1913
註84 故三遊亭圓朝口演「心中時雨傘 第五席」『圓朝人情噺』日本書院 1913
註85 朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』鈴木金輔 1891
註86 山下重民編「○東京近郊名所圖會 其一 ⦿北郊の部第一 ◎北豐島郡 ◎日暮里村 ●妙隆寺」『大日本名所圖會』第七十六號 東陽堂 1910年2月25日、復刻本では1字読めず、原書で確認
註87 「東京女子体操音楽学校移転地図」『第1種 文書類纂・社寺・第3類・寺院仏堂・第6巻〈(内務部社寺兵務課)〉』628. B4. 01「本堂移転許可 北豊島郡 妙隆寺」の内 1907 東京都公文書館蔵、『平成20年度荒川ふるさと文化館第2回企画展 日暮里・舎人ライナー開通1周年記念 日暮里SAIKO(最高・再考) 1868‐2009』荒川区教育委員会 荒川区立荒川ふるさと文化館 2009写真図版
註88 平塚春造「諏訪台山人懷古録(二)日暮里時代の久保田万太郎」木村芳雨研究俳句雑誌『東駒形』第参巻第拾参号 通巻34號 浦野栄一 1977年12月10日、平塚春造「諏訪台山人懷古録(二)」『荒川史談』No.131 1978年11月1日として再掲、引用は初出による
註89 司法省庶務課「卷二十二 行刑條例 ○五十【○中に漢数字】男女申合相果候者之事」『徳川禁令考後聚第三帙』司法省藏版 共益社發賣 朙治二十二(1889)年
註90 妙法院史研究会(村山修一 今中寛司 杣田善雄 三崎義泉)校訂『史料纂集古記録編 第86回配本 妙法院日次記 第五』享保九年七月廿四日(1724年9月11日)条 八木書店 1988
註91 興津要「仮名垣魯文(二)―その時勢順応主義―」『文学』第52巻第7号 岩波書店 1984年7月10日
註92 須田務「三遊亭円朝の時代―大衆芸能に見る、一九世紀民衆の日常心性―」『歴史評論』No.694 校倉書房 2008年2月1日
註93 中込重明「日本の近代化における大衆演芸の検討と諸問題」『明治文芸と薔薇―話芸への通路』右文書院 2004、初出は『法政大学教養部紀要 人文科学編』第120号 法政大学教養部 2002年2月で字句に異同がある、ここでは2004年の改訂版を引用した
註94 橋本治 本のレストラン メニュー2・メインディッシュ「乞うご期待!!語り口のおもしろさを消した“歴史講談”」『週刊宝石』大躍進178号 第5巻第23号 光文社 1985年6月14日、「講談とはなにか」と改題して『橋本治雜文集成 パンセIII 文學たちよ!』河出書房新社 1990所収、引用は初出による
註95 村山英司「バッハを合唱するということ(その3・上)倍音から日本語演奏を考える―中村明一著『倍音』に触発されて― 上」『東京バッハ合唱団月報』第608号 東京バッハ合唱団 2013年2月
註96 中村明一「第2章 倍音とは何か 3 整数次倍音を含む音の特徴」『倍音 音・ことば・身体の文化誌』春秋社 2010
註97 中村明一「第2章 倍音とは何か 4 非整数次倍音を含む音の特徴」『倍音 音・ことば・身体の文化誌』春秋社 2010
註98 村山英司「バッハを合唱するということ(その3・上)倍音から日本語演奏を考える―中村明一著『倍音』に触発されて― 上」『東京バッハ合唱団月報』第608号 東京バッハ合唱団 2013年2月
註99 山田真司 秋浜悟史 奥原光(共同研究)トラン・カン・ハイ(Trần Quang Hải) 岩官眞一郎 足立整治(研究助言)中山一郎(研究ディレクター)「アジアにおける“だみ声”歌唱の発声メカニズム―日本の芸能と中央アジアのホーミーとの比較―」『藝術研究所研究調査報告書 3』大阪芸術大学藝術研究所 2004年3月31日
註100 山田真司 秋浜悟史 奥原光(共同研究)トラン・カン・ハイ(Trần Quang Hải) 岩官眞一郎 足立整治(研究助言)中山一郎(研究ディレクター)「アジアにおける“だみ声”歌唱の発声メカニズム―日本の芸能と中央アジアのホーミーとの比較―」『藝術研究所研究調査報告書 3』大阪芸術大学藝術研究所 2004年3月31日
註101 橋本治 「本のレストラン メニュー2・メインディッシュ 乞うご期待!!語り口のおもしろさを消した“歴史講談”」『週刊宝石』大躍進178号 第5巻第23号 光文社 1985年6月14日、「講談とはなにか」と改題して『橋本治雜文集成 パンセIII 文學たちよ!』河出書房新社 1990所収、引用は初出による
註102 倉片寛一『三遊一朝老人』私家版 1930、八代目林家正蔵『正藏一代 林家正蔵集 別巻』青蛙房 1974による

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