今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

魯迅と日暮里(2)周樹人の来日 东京也无非是这样

1件のコメント

魯迅の「藤野先生」は、1926年、魯迅が辛亥革命後の争乱状態の難を逃れ、北京から厦門にやってきていた時に発表された自伝的作品である。よく知られたことであるが、本作品が岩波文庫『魯迅選集』に収録されたいきさつについては、訳者にして魯迅の弟子・増田渉が次のように書いている。

『魯迅選集』岩波文庫

『魯迅選集』岩波文庫

「附記。「魯迅選集」を出すに際して、如何なる作品を選ぶがよいかと、一応魯迅氏の意見をきゝ合せたところ、適宜に選んでもらつてよい、だが「藤野先生」だけは是非入れてもらひ度いといふ返事であつた」(註1)

後に魯迅として知られる周樹人は、1902年、満20歳の時に官費で日本に留学する。当時はマンジュ(ᠮᠠᠨᠵᡠ、manju、満洲)人によって建国された大清帝国(ᡩᠠᡳᠴᡳᠩ ᡤᡠᡵᡠᠨ、Daicing gurun)の時代であった。周樹人は、江南陸師学堂附設の礦務鉄路学堂(礦路学堂)を3番の成績で卒業。礦路学堂卒業生のうち、官費留学生5名及び私費留学生1名は、江南陸師学堂の20名とともに、総辦の兪明震に率いられ、南京から上海まで日本船「大貞丸」、上海から横浜までは、日本郵船の「神戸丸」に乗って来日した。(註2)横浜への到着は1902年4月4日(光緖28年2月6日、明治35年4月4日)である。

周樹人 礦路學堂畢業執照 維基百科による

周樹人 礦路學堂畢業執照 維基百科による

周作人によれば、周樹人はこの旅行中、日記『扶桑記行』を著し、1902年4月13日、手紙に添えて、東京から周作人に送り、周作人はこの手紙を10日後に受け取っている。周作人によれば、

「『【壬寅三年三月】十六日:晴。下午後大哥初六日自日本來函,内有扶桑記行【原文は右波線】一卷,係其路上日記,頗可觀覽,抄入別册中,記甚長,至晩九下鐘方抄竟。』」(註3)
(日本語訳)
「十六日、晴。大哥の六日日本出の手紙を受けとる。中に渡日日記『扶桑記行』一巻あり。すこぶる注目すべきもので別のノートにぬき書きする。記載がすこぶる長く、九時にやっと録し終える。」(註4)

日記には次の通りある。

「十六日:晴。晨漢文,上午作論一首,看物競論。午後同韵仙去打靶,予不鎗中,毛瑟鎗甚好,重不過五、六斤機鐄亦灵【靈の異体字】,放出聲不響,肩上亦不覺,初學最便。下午看紀評蘇集二本,出舘後學撡【操の異体字】,効課如舊。瞄靶似少純熟,惟手顫耳。學歩驟轉首,予所立磚青苔如罽屢,欲傾跌,頗窘。接大哥初六〔日四月十三發二十二到南京〕自日本來函,内有扶桑記行一卷,係其路上日記,頗可【有の1字抹消】覌【觀の異体字】覽,韵仙来索抄一通,余亦抄入別本,記甚長,九下鐘方竟。十下鐘睡。小雨。」(註5)

しかしながら、残念なことに原本、抜書きノートともに伝存していない。

ただし、周樹人が日本から送った手紙の内容が、周作人によって書きとめられている。

「『【壬寅】三月初九日:晴。傍晩接大哥二月底【二十九日、1902年4月7日】自東京來信云,已二十六日【1902年4月4日】抵横濱,現在東京市麹町區平河町四丁目三橋旅館,不日進成城學校,又言其俗皆席地而座云。』」(註6)
(日本語訳)
「三月九日【1902年4月16日】、晴。夕方、大哥【長兄、魯迅のこと】の東京出の手紙を受けとる。いわく、二十六日に横浜に着き、いまは東京市麹町区平河町四丁目三橋旅館にいる。近いうちに成城学校にはいるつもり、さらにここではだれもが畳に坐る習慣がある、と。」(註7)

日記には次の通りある。

「初九日 礼拜三晴漢文上午作史論看日本史一卷〔明治天皇〕午搬房間住二十三号下午看俟實課文二本傍晩接大哥二月卅日自東京自東京來信云,于二十六日抵横濱現在東京市麹町平河町四丁目三橋旅館不日進成城學校又言其俗皆席地而座云堂中發号衣褲及靴子晩飯後同胡韵仙至桅上凭眺春風尖利砭人肌骨急下座号中日記夜十午鐘睡數醒甚不安枕上聞雨聲蕭蕭徹夜」(註8)

ただし、当年の太陰暦(時憲暦)に2月30日はないので、日記の内容を書き換えた時に「二月底」としている。恐らくは2月29日である。

平河町 三橋旅館跡 現在はイコモスの勧告を無視した住友不動産のビル

平河町 三橋旅館跡 現在はイコモスの勧告を無視した住友不動産のビル

三橋旅館は、『新撰東京名所圖會』の麹町區の部に記載がある。現在、その場所には、イコモス勧告に答えず、無視をきめこんだ住友不動産のビルが建っている。また、同書によれば、同じブロックの近接地に善隣書院があった。善隣書院は、1895年5月、勝海舟の門で清国保定府に留学、張廉卿に入門した宮島大八(詠士)の自宅内に私塾詠帰舎として設立したのが起源で、1905年に平河町から紀尾井町、さらに1976年には代々木に移転。現在も中国語学校として続いている。(註9)

「三橋旅人宿 四丁目三番地に在り。三橋常吉の設置なり。電話の番號を本局千三百四番とす。」
「善隣書院 四丁目五番地に在り。明治三十一年六月の設立にて支那文學及び支那語學を。教授するところなり。院長を松平康国といふ。講師には數名の支那人あり。」(註10)

この旅館は、戊戌政変で下野し、北京を脱出した梁啓超及び康有為が東京に来た当初、宿泊した旅館である。田村紀雄、陳立新両氏によれば、「永井算巳によれば,梁啓超,王照一行が明治31年(1898)10月20日深更ようやく東京に到着したのだ。初日は麴町区平河町三橋常吉方に寄寓した」といい(註11)、遅れてきた康有為については、永井算巳氏によれば「北京脱出の後24日呉淞入港の際から英国側の保護をうけつつ29日一旦香港に逃れた康有為が滞在すること20日にして遂に日本亡命を決意し10月19日(9月5日)宮崎寅蔵【滔天】に同行して東渡し麹町平河町4丁目30番地の旅館三橋常吉方に止宿するに至つたのは10月25日深更(或は26日早朝)のことと思われ」るという。(註12)

梁啓超『東華新報』1901年4月17日 維基百科による

梁啓超『東華新報』1901年4月17日 維基百科による

田村紀雄、陳立新両氏によれば、こうした事態に対して情報収集がされており、諜報記録として警察の上部及び外務省に申報されている。

「清国人梁啓超王韶【照】及従僕張順ハ麴町区平川町三橋常吉方ヨリ牛込区市ヶ谷加賀町壱丁目二番地柏原文太郎方へ移轉スヘキ處該家屋狭隘ナルヨリ同區早稲田隺卷町四十番地高橋琢也所有家屋エ一昨廿二日中西正樹同道ニテ移轉シタリ移轉後同所ヘ訪問面會シタルモノ如し【左】
徐 勤 林北泉 羅孝高 鄭晟禮
畢永年
目下梁啓超、王韶【照】ハ病氣ナルヲ以テ當分ノ内外出セス且ツ左記ノモノヽ外一切面會ヲ謝絶スルコトヽセリト
中西正樹 大内暢三 犬養毅 高田早苗
鳩山和夫 高橋橘三郎 吉田俊雄 西郷吉義
小林某 平山某【○囲み】
右及申報候也
明治三十一年十月廿四日
警視總監西山志澄
大隈外務大臣殿」(註13)

亡命した梁啓超一行に真っ先に面会したメンバーの中に、羅普(孝高)の名前があがる。羅普については、梁啓超の著作の共同作業者として、後ほど再びその名を見ることになる。また、康有為については、次のとおり申報される。

「清国亡命者康有爲ノ一行昨二十五日午後十一時三十分着麴町区平河町四丁目三番地旅舎三𣘺常吉方ヘ投宿滞在ハ凡ソ両三日間ノ由ニテ外出ハナサヾルヤニ聞ク其人名
 康有爲 梁鐵君 康同照 何易一
 桒湖南 李 唐 梁 煒
右及申報候也
 明治三十一年十月廿六日
        警視總監西山志澄
    大隈外務大臣殿」(註14)

康有為 1920年 維基百科による

康有為 1920年 維基百科による

三橋常吉は、孫文(本人の表記はSun Yat Sen(孫逸仙)、粤語Syun1 Man4(またはMan6)(註15)、客語Sûn Vùn(註16)、拼音Sūn Wén)にも関係があったらしい。(註17)ただし、三橋旅館は、1922年には東京旅館組合に加入していない。(註18)

平河町には、1895年の広州起義に失敗して亡命を余儀なくされた孫文が、一時期投宿したことがある。それは「麹町區平河町五丁目三十番地」である。(註19)横浜に到着した孫文は、出迎えた平山周、宮崎滔天、可児長一(長鋏)とともに犬養毅に会い、その後、銀座の対鶴館に宿泊、その後三橋旅館に宿泊する。

「平山周は左の如く語つで居る。
            「中山」命名の由来
「孫文が初めて犬養さんに會つての歸り途、今晩は東京へ泊つて悠つくり話をしようといふので、京橋の對鶴館─今の對鶴ビルデングに泊つた譯です。日本人のやうな風をして。
ところが番頭が宿帳を持つて來た。後で書いて置くから下へ行け、と番頭を階下(した)へやつて「サテ何と名前を記(つ)けやうかナ」と言ふと、孫は「お前の名前で宜い」と言ふ。「同じ名前ぢや變だ」「何とでも書いて置け」、何とでも書いていゝ譯だけれども、さてちよつと困る。その時分に中山さん(註、侯爵忠能)の邸が日比谷にあつた。先刻その前を通つで對鶴館に泊つたのだから、それを思ひ出して中山ときめた。姓は中山でいゝが、名前は何とするかと考へてゐると、孫が筆を執つで中山の下へ「樵」と書いた。日本人の名としてはちよっと可笑しいと言ふと、孫は、「俺は中國の山樵だといふ意味で、樵といふ名前にした」といふ。そんな譚で、初めて中山を名乘つたのです。
其晩は其處へ泊つて、翌朝横濱に歸り、それから吾々は、孫を東京に置く許可を得なければならないので、犬養さんに相談すると、「小村の處へ往って相談して見ろ」と云はれた。それから外務省に報告傍〻小村次官に會つて「實は孫が來てゐる、これを東京に置くつもりだから」といふと「それは、やめて呉れ、いかぬ」と云ふ」(註20)

「ところが役人が面倒なことを言つて急に許可せぬ。その頃尾崎さんが丁度外務省の勅任參事官をして居られたから、尾崎さんに會つて、大隈さんも承知の事だが府廳に手續きをしても、なか〱許可をせぬからと頼んで、尾崎さんから電話をかけて貰つて漸く許可を得た。其時の府知事は久我通久侯であつた。
孫と私とは、麹町區平河町五丁目三十番地に住み、許可を其處で受けた譯です。ところが其時分、孫も用心をして居るし、此方も用心をして居るが、どうも支那公使館が餘りに近いから、何處かへ移らうぢやないかといふので家を探がした。丁度早稲田鶴巻町に高橋琢也君の家がある、高橋君は山林局長をして居つたのを、松隈内閣で罷めさせられたので、自分の住まつて居つた家を貸家にして、自分は後ろの方に引込んだ譯だ、その家が空いてゐる。七百坪位の大きな屋敷だ。そこで犬養さんの家から借りにやつたが「犬養には貸さぬ」と云ふ。松隈内閣で罷めさせられたから怒つてゐるのだ。ところが犬養さんはあゝいふ人だから、貸さんといふなら、何とかして借らうぢやないかといふので、犬養さんの家に居つた島村と云ふ書生を關博直(舊岡山新見藩主子爵)さんの家令といふことにして借りにやり、話がきまつたので早速引越した。さうすると犬養さんが「宜し〱、這入り込んだら大丈夫」と、直ぐ奥さんと二人で見えた、高橋の住まつて居る家と、こちらと垣根も何も無いから能く見える、さうすると犬養さんがわざと高橋の方を向くんだ。「モウ借りて這入つてしまつたら心配ない」と言つて其處に住むことになつた。宮崎は郷里(くに)に用事があると言つて歸つたので、私と後から來た可兒君とが一緒に住まつて居た。」(註21)

話としてはおもしろいが、高橋琢也はかつて梁啓超を保護したこともあり、単純に犬養毅がダマしたわけではないだろう。

高橋琢也(ベルリン1928)Takuja Takahasschi Bundesarchiv Bild 102-06437

高橋琢也(ベルリン1928)Takuja Takahasschi Bundesarchiv Bild 102-06437

高橋琢也は、安芸国牛田村生れ。12 歳になった安政5 年(1858‐1859)、広島の薬種屋の若狭屋に奉公し、地元の医師から『傷寒論』の初歩的指導を受け、医術に興味を持つ。万延元年(1860‐1861)、高橋琢也は学問のため大坂へ出、薬問屋の平弥(平野屋弥兵衛)に奉公しながら、夜間には漢方医・古谷氏を手伝う。16 歳の時、古谷の紹介により、福山出身で大阪油掛町に開業していた外科医・大川大学の学僕となった。一方では北川柳介について、按摩の技術を習得。のち、1885 年11 月、陸軍省における師の西周が顔面神経麻痺を起した時、高橋琢也が按摩で治療したことが、「15 日日、休暇、高橋琢也來、今朝口傍ノ拘牽ヲ覺フ、摩按シテ之ヲ醫ス、今午後三時ヨリ學士會院、九時歸宅、亦口傍ノ拘牽ヲ覺フ、摩按ノ後就牀、十一時前俄然拘攣急ナリ、鳴金二次、諸人來リ集ル、呼醒スト云フ」と西周の日記に記録される。(註22)ただし、この顔面神経麻痺は脳梗塞によるものだったとされている。(註23)
高橋琢也は、開成学校を経て、1885年、農商務省に入局、東京農林学校教授、林務官等を経て1895年山林局長に就任、日本初の森林法制である森林法の制定に尽力。農商務大臣が榎本武揚から大隈重信に代わると、大隈重信と折り合わず、1897年免官となる。

高橋琢也は、森林法の制定に当たり、『森林杞憂』(1888)を著し、「森林の利益」、「森林の損失」、「資用権」、「森林の性質」、「森林の保護」を説いた。

「我森林荒廢ノ形跡ノ如キハ 内國人ノ獨リ之ヲ嘆スルニ止ラズ 地方ヲ遊歷セシ外客亦徃々之ヲ痛惜スルト聞ク 今ヤ其荒廢ハ延ヒテ减水流砂ノ弊ヲ生シ 到ル處河床堆砂シテ堤外ノ平地ヨリモ高ク 其間微々トシテ細流糸の如キモノアルヲ見ル 航路ノ擁塞、固ヨリ其當ナリ 而乄【シテの合字】霖雨ノ候、暴風雨ノ時ニ逢へは 低床高キ爲メ 滿水忽チ氾濫シテ堤防ヲ壓迫シ 果テハ洪水决河ノ慘况ヲ演出スルヿ 年トシテ之ナキハ無シ 見ル可シ 我カ統計年鑑ニ就キテ年々水害ノ無算ナルヲ 特ニ明治十七八兩年ノ如キハ 其殘酷ヲ極メタリ 十七年八九兩月ノ暴風雨水害而已ニテモ 人ノ死亡二千百八十九名。負傷九百十名。家屋の破潰六十一万二千四百四十七軒。船舶ノ損失一万零七百六十三隻。田畑ノ流作六万九千町弱 其損地一万五千町步 其他牛馬𪉩【U+2A269、鹽の異体字】田塀墻ノ損傷又甚タ多ク 就中道路橋梁等ノ被害無慮六万餘個所アリ」(註24)

「彼ノアダムスミス氏出テヽ以來 天下ノ經濟全ク一新シテ 工業殖産ノ理其ノ蘊奥ヲ極メ 竟ニ後世ノ經濟家ヲシテ スミス以前スミスナシ スミス以後スミスナシト迄贊評セシムルニ至リタリ
然レㇳも【トモの合字】林業ハ別ニ社會ニ對スル一大責任ヲ負フカ故ニ 未タ自由營業ヲ專行スル能ハズ 何ソヤ國家ノ安寧ヲ維持シ 社會ノ福利ヲ増進スルヿ是ナリ 故ニ地勢ニ應シテ 施業ノ種類ヲ撰定セザル可カラズ」(註25)

また、文中では、清国を含むアジアの現状に鋭い危機感と同情に近い感慨を綴っている。

「嗟呼 我ガ亞細亞ハ 土地ノ廣キ人口ノ多キ 世界第一ト稱スル大洲ナルニ 恨クハ其一半擧ケテ泰西人ノ蚕食スル所トナル 支那尚ホ廣大ノ地ヲ有シ 四億餘萬ノ人口アリト雖ㇳも佛露聯盟スレバ 孤力之ニ當ルヿ蓋シ難カル可シ」(註26)

高橋琢也はその後、北炭、三井物産、北海道庁の顧問を務めた後、第1次山本内閣の内務大臣原敬に認められ1913年、沖縄県知事に抜擢される。当時すでに67歳で、新聞はこの人事を酷評したという。しかし高橋琢也は、「沖縄男子」にエールを送る。その中では、沖縄の置かれた歴史的位置に触れ、日本人が関心を寄せるべきことを次のように述べる。

「古來制度文物ヲ異ニスル絶海ノ小王國タリシダケニ、其社會現象モ甚ダ異ナルモノ多ク殆ンド事々物々人ノ注意ヲ惹キ硏究ヲ促ガサズンバアラズ」
「予ガ沖縄縣ニ在リテ最モ同情ニ堪ヘザリシモノハ民間ノ疲弊ナリ、資力ノ缺乏ナリ。」
「予ハ茲ニ同胞諸君ト共ニ大ニ注意ヲ拂ハザルヲ得ザルコトアリ、邦人ガ斯ク沖縄ヲ誤解シ忘却スル間ニ在テ、歐米人ハ全ク沖縄ヲ誤解セズ忘却セザルノミナラズ常ニ之ガ硏究ヲ怠ラザルノ一事之ナリ。」(註27)

県知事時代は耕地整理、水産振興等を推進、退職後も「沖縄産業十年計畫評」(註28)などの論評を発表するが、経済恐慌の影響もあり、沖縄からの海外移民は止まることはなかった。戦前期の国別では、明治以来のハワイを筆頭にフィリピン、ブラジルがこれに続く。(註29)現在オール沖縄体制が構築され、政府の対沖縄政策の変更を求めているが、安倍政権は、巨大なコンクリートブロックによって世界の宝であるサンゴ礁を押しつぶし、「粛々と」新たな軍事基地建設にいそしんでいる。

1914年、第2次大隈内閣が成立すると、高橋琢也は大隈に辞表を提出し休職。東京医学専門学校(現・東京医科大学)の設立に尽力する。

「大正5年(1916)5月、日本医学専門学校(現 日本医科大学)の学生が学校側と対立し、約450名が同盟退学したことをきっかけに、理想とする学問の場を自分たちの手で実現させようと新校設立運動を開始しました。幾多の困難を乗り越え、同年9月、東京物理学校(現 東京理科大学)の教室を借りて東京医学講習所が設立されました。
大正7年(1918)には、長く官界にあった高橋琢也先生が全私財を投じ、全国を奔走して佐藤進氏、森林太郎(鴎外)氏、原敬氏、犬養毅氏、高橋是清氏、大隈重信氏、渋沢栄一氏など医学界、政界、財界の有志から多大な支援を受け、東京医学専門学校が設立されました。昭和21年(1946)、東京医科大学に昇格し、現在に至っています。
本学では、学校の設立と運営に心血を注いだ高橋琢也先生を「学祖」として、今も尊敬の念と親愛の情をもって語られています。」(註30)

次は、佐藤達次郎の述懐。本文は、『順天堂史』の記述による。出典は自伝であるというが、原資料は見当たらない。

「現在の東京医科大学は、もと東京医学専門学校で、現在の日本医科大学の前身の日本医学専門学校の学生が、大正七、八年ごろに(実際は大正五年の出来事)ストライキをして学校にわずか二、三人しかのこらなかったとき、このストライキをした学生の保護者で高橋琢也という人がこのほとんどの学生のために創立したのがこの前身東京医専である。高橋氏は山林局長、沖縄県知事、代議士(原三郎氏によると衆議員議員をしたことはないという)などをし、最後に貴族院議員にもなった人であった。かれが自分の持ち物を全部売りはらい、書画などすべて手放し、他からも寄付をあおいで設立するということになった。これについては自分は学校の経営をするから教育のほうを担当してほしいといわれた。私はいったん断ったが先代の佐藤進のもとに(学生たちが)承諾を求めに行った。当時先代は霞ヶ浦の麻生の別荘におり、高橋氏他二、三人の説得でとうとう承知した。先代にすすめられて私も決心し、教育面のみを担当することを受諾し、ここにいよいよ発足のはこびとなった。」(註31)

また、高橋琢也は、議会史上初めて論議された「婦人参政権」に賛成意見を述べている。これは、1930年のいわゆる「婦人公民権法案」をめぐる議論で、法案は衆議院を通過したものの、貴族院の婦人公民権案特別委員会は次回の日程を決めずに解散、法案は審議未了となり葬られる。(註32)以下はその時の高橋琢也の演説。また、「五箇条ノ御誓文」は、西周譲りの法学、憲法学における、当時における伝家の宝刀であったのである。以下は速記録に見る高橋琢也の発言。

「濱口総理大臣ハ土佐ノ御出身デアル、日本ノ自由民權ト云フモノハ何處カラ起ッテ來タカ、土佐カラ起ッテ來タト言フテモ宜カラウ、是ハ土佐御出身ノ首相ガ御自慢ニナッテモ差支ナイモノデアル、殊ニ明治元年三月十四日ノ五箇条ノ御誓文中、舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシト宣セラレタ、之ガ始メテ日本デ定マッタ國是ノ中ノ一箇條デアルト存ジテ居リマス、舊來ノ陋習ヲ破ルト云フ…大キナモノモ小サナモノモ澤山ゴザイマスルガ、殊ニ明治四年ニハ女子ガ御齒黒ヲ附ケルコトナドハ廃セラレタ。是モ陋習トシテ廢セラレタノデアラウト思ヒマス。然ルニ七千万國民ノ半分ハ女子デアルガ、此半分ノ女子ハ矢張リ今日ニ至ルマデ權利自由、教育上カラ公ノコトハ申スニ及バズ、一家庭ニ於テ迄モ女子ハ差別待遇ヲ受ケテ居ルノデス。此差別ハ除カナケレバナラヌノデアラウト思ヒマス。」(註33)

これは参議院での片山哲の演説に呼応するものであった。御存じの通り、片山哲は戦後社会党による政権を樹立、自邸は日暮里にあった。

片山哲 国立国会図書館「近代日本人の肖像」による

片山哲 国立国会図書館「近代日本人の肖像」による

「私ハ無産政黨ノ立場カラ婦人公民權問題ニ付キマシテ、提案者及ビ政府ニ極メテ簡単ナ質問ヲ致シタイト思フノデアリマス、提案者タル末松君及ビ若宮君ヨリ極メテ熱心ニ、且又本案ノ最モ必要ナル所以ヲ説明サレタノヲ聽キマシタ、併ナガラ兩君ノ説明ニ依リマシテハ、今日日本ノ政界ヲ革新スル爲ニ、或ハ又經濟上、或ハ社會上、各種ノ問題ニ關聯シテ、特ニ婦人公民權ニ限ッテ、茲ニ提案スルト云フ理由ヲ吾々ハ発見スルコトガ出來ナカッタノデアリマス、今日吾々ノ立場カラ申スト、婦人ノ政治的、社會的、經濟的、法律的、各種ノ不當ナル差別待遇ヲ撤廃シナケレバナラナイ、之ヲ排斥シナケレバナラナイト云フコトガ、最モ重大ナル問題デアルト思フノデアリマス。此法律的、經濟的、即チ婦人ガ男子ト同樣ニ働イテモ、男子ト同樣ナ或ハソレニ近イ賃金ヲ得ラレナイトカ、或ハ又法律的ニ家族制度ノ下ニ於テ、各種ノ束縛ヲ受ケテ居ルト云フヤウナ問題ハ總テ國政ニ關スル問題デナケレバナラヌノデアリマス、即チ國政ニ參與セシメルト云フコトニ依リマシテ、今日婦人ガ受ケテ居ル各種ノ不合理ト不平等ヲ排斥スルコトガ出來ルト思フノデアリマス、何故ニ今日公民權ニ限ッテ之ヲ提案シ、婦人参政権ト云フ所マデ徹底シナカッタカト云フコトヲ、吾々ハ質問シナケレバナラナイノデアリマス」(註34)

さて、1900年再度訪日した孫文は、外務省資料によれば、「旅人宿三橋常吉方」に内田甲(翌年、内田良平と改名)とともに宿泊している。

Sun Yat Sen in Japan 1898 維基百科による

孫文 Sun Yat Sen in Japan 1898 維基百科による

「 内田甲及孫逸仙ノ着京
内田甲ハ本日午前一時着京麹町區平河町四丁目旅人宿三𣘺方ニ投宿セリ(兵庫縣ヨリ電報ヲ受ク)孫逸仙ハ本日午前十一時三十分横濵ヨリ上京内田甲ノ宿所ニ入レリ(神奈川縣ヨリ電報及引繼ヲ受ク)
右及申報候也
明治三十三年九月七日
             警視總監大浦兼武
      青木外務大臣殿」(註35)

また、1902年、戊戌変法に失敗して下野した厳修が初来日した際には、三橋旅館の三橋常吉が新橋ステーションに迎えに来ている。

「【壬寅】八月初三日【1902年9月4日】
六时由旅館出
遇清水君於門外,遂同赴【大阪】停車場。中川君父子、廣瀬君、西嶋君、鍠子皆送行。六时五十分車開行 大野鈴子同赴東京。
【翻刻書注:停車場有】荷物配達所 汽車内有食堂〔一、二等客皆可入,計所食付價,多少隨意,毎案上有價目〕。過隧道時電燈卽燃 賣茶者碗壺倶精緻 焼【津】停車場之最名者有洗面處,乘客隨意下車就而洗面
至静岡時發電報(驛長可以代發)致三橋旅館,告以今晩到着
十时三十分到新橋,小村俊三郎在焉,面談數語。旅館主人三橋常吉來迎,十一时後至旅館。小山先候於此,談片刻別去」(註36)

厳修 維基百科による

厳修 維基百科による

厳修(範孫)は、清末民国初の教育者で、最初期の私立大学である南開学校(現・南海大学)を創始した人物である。厳修は、天津の塩商の家に生れ、「清末民族ブルジョア」の「ローカル・エリート(Local elite)」であり(註37)、日清戦争後、光緒帝(ᠠᡳᠰᡳᠨ ᡤᡳᠣᡵ ᡯᠠᡳ ᡨᡳᠶᠠᠨ、Aisin-Gioro Dzai-Tiyan、愛新覺羅載湉)によって行なわれた「上からの改革」である戊戌変法に康有為、梁啓超らとともに参加、科挙の廃止と教育改革を訴えたが、失敗して下野。1902年と1904年、2回にわたり日本に赴き、教育実態を視察している。これについては周樹人の周囲と接点がある。

その周樹人は、故郷にあてて次々と手紙を書いている。

「『【壬寅三月】廿三日:晴。晩接大哥日本來信,云已進弘文學院,在牛入區【牛込區、「込」は日本独自の「国字」】西五軒町三十四番地,掌院嘉納治五郎先生,學監大久保高明先生,教習江口【辰太郎】先生善華文而不能語言。』」(註38)
(日本語訳)
「二十三日、晴。晩、大哥の日本からの手紙を受けとる。いわく、弘文学院にはいった。住所は牛込区(現在の新宿区)西五軒町三十四番地、院長は嘉納治五郎先生、学監は大久保高明先生、教習の江口先生は漢文はできるが会話はできない、と。」(註39)

同日の日記にも次の通りある。

「【壬寅三月】廾三日【1902年4月30日】
晴。晨打靶中兩槍,漢文作論。上午伯撝、小琹兩尗【叔の異体字】自紹來,祖父託帶信,藏貝箱内,為胠筐者取去,衹収到衣服數件。下午看萬國公報,出館後,撡【操の異体字】夜又操。接大哥自日本信云,已進弘文學院,在牛込区西五軒町三十四番地,掌院嘉納先生〔治五郎〕,學監大久保先生〔高明〕,教習江口先生,〔善華文而不能語言〕拟【擬の異体字】作畣【答の異体字】不果,至韵仙処坐許久,大雨忽至,淑ヽ有声,聞之旅愁四起。既雨,晴,亦佳,恰有此情。十下鐘睡。」(註40)

礦路学堂卒業生は、陸師学堂からの留学生とともに、成城学校(現 成城中学校・高等学校)への留学の予定であったが、認められず、急遽設立された弘文学院普通速成科の第1期生となった。成城学校は、陸軍士官学校入学のための予備校であったが、弘文学院は、嘉納治五郎が留学生の受入れのために、急遽設立した私塾である。(註41)周作人への書簡によると、4月21日ごろには弘文学院に入学している。(註42)
嘉納治五郎による中国人教育の始まりは、1896年、神田三崎町における亦楽学院の創設にさかのぼる。それまで留学生の日本語教育を在日清国公使館で行なっていたのを、日本人に依頼され、嘉納治五郎が開塾、高等師範学校教授の本田増次郎に家を持たせ、ホーム・ステイで教育した。当時はまだ名前すらなかったが、卒業式までには亦楽学院の校名が決まった。

本田増次郎 1924年『英語青年』54巻9号より

本田増次郎 1924年『英語青年』54巻9号より

この時期のことを本田増次郎は、のちに次のように回想している。原文が英語であり、そのまま引く。難解の語、固有名詞には語釈を付したが、日本語訳については、本田増次郎Web記念館サイト「本田増次郎自叙伝「ある日本人コスモポリタンの物語」(“The Story of a Japanese Cosmopolite” As told by himself )の紹介」を見られたい。

「The year 1896 saw the coming to Japan of the first group of Chinese students appointed by the Peking authorities. This was one of the early results of their awakening through the war that came to an end in the previous year. Some youngmen were sent to Europe and America at the same time, but it was not an easy thing to find aspirants courageous enough to study in a country that humiliated theirs but a short while before. A dozen sons of China, mostly of central and local officials, arrived in the Chinese Legation【公使館】 at Tokyo. Through the Foreign Office【外務省】 and the Department of Education【文部省】, their training was put under the general supervision of Director Kano【嘉納治五郎】, and through him I was entrusted with the duty of their direct care. For three years, we lived in the same house, ate the rice boiled in the same pot, and shared the trials and triumphs peculiar to our novel situation. As they did not understand a word of Japanese at first, while I knew nothing of their spoken language, the “Gouin” method【グアン・メソッド】 of teaching foreign languages, then in vogue though quite out-of-date now, was used side by side with the hitsudan【筆談】 or “pen conversation,” which has long been in practice between the Chinese and Japanese versed in Confucian【儒教の】 classics. When the Chinese ideographs【漢字】 were brought over to Japan more than a thousand years ago, our scholars first borrowed them to represent Japanese sounds as they had no letters of their own. Then, parts of them were used to invent an independent, phonetic syllabary【仮名】. But the original pronunciation and syntax have gradually changed in China, so that the present difference is something like that between ancient and modern Greek. And in the meantime, in Japan, the standard pronunciation was corrupted and fossilised, while the Chinese book was translated at sight instead of being read, which became our written language widely divergent from the pure Japanese speech. It is thus that Confucian students of both countries can exchange their thoughts in classical composition, though deaf-mutes to each other as far as articulate sounds are concerned.」(註43)

学生たちも官僚たちの子弟ということで、ある程度の官話(標準語)は話せたのであろうが、各地からの混成チームであったため、はたして音声言語で意思疎通ができたかどうか。広東出身の孫文と上海出身の妻の宋慶齢は、2人とも英語圏で育っており、日常会話には英語を使っていたという。また、日本側の教師陣は筆談しかできないし、さらにいえば、日本語標準語としての「東京語」もまだ形成途上の時代である。こうした困難な事業を行う背景には、嘉納治五郎の教育者としての使命感、寄宿生教育の経験があった自信の他に、清国で実際を見た際に感じた思いがあったと推察される。1889年、訪欧の途中で実見した広東の感想は、次のとおり日記にしるされているという。ただし、原文は英語であり、以下は『嘉納治五郎先生』からの引用である。

「【1889年】九月二十五日 広東省。私が起床したのは二十五日の六時頃であった。」
「五層楼に登った。目測によると長さ十八間、巾八間、高さ二十四間である。この建物の頂上から広東市のほとんど全部が見える。この五層楼には、広東人は入れない。満州人と外人だけが入れるとのことである。何と不思議なことであろう。明らかにそれは満州人に占領されているのだ。刑場へ行く。刑場は二等辺三角形で、月に二、三回、この場所で死刑が行なわれる。」(註44)

嘉納治五郎は、ファナティックな国粋主義とは縁遠く、国語改革についてもローマ字化が合理的だという信念を持っていた。

「最も有効に國語を教へるには,便利な國字を有することが必要である。しかるに,今日の我が國字は漢字と假名とであるが,これを學ぶにも多くの苦勞を要し,これを使ふには不便がある。」(註45)

「その時に(原注―ローマ字が普及した際:筆者注)は特殊な書物の外は皆ローマ字に書直されてしまふので,特殊な書物を讀む特殊な人丈が漢字・假名を學べばよいことになる。」(註46)

嘉納治五郎の日記は現在未公開とのことであるが、近代史における巨人の記録から多くの事実が明らかになるだろうと思う。可能であれば、ぜひ公開してほしいと思う。

本田増次郎によれば、実際のところ、清国留学生の教育に関しては、教育以前の問題が山積していた。これらの経験があって、その上で弘文学院があのように短時間で設立されたのである。

「Aside from this philosophical question I had been in charge of the Japanese education of a number of Chinese students in Tokyo, for three years soon after the Sino-Japanese war【日清戦争】. Their government was truly magnanimous【度量が広い】, I often thought, to send young men to learn modern sciences and methods from a nation who had copied almost everything worth copying from hoary【いにしえの】 Chinese patterns. It was such a trial for my foreign pupils, not to mention all inconveniences and discomforts of a material nature, to live among the people who were yet too conscious of their recent enmity to extend their sympathies to the defeated. My Chinese boys brought all their troubles, little or big, to me as to a parent. Some of them would weep before me some times. How could I help respecting those who were born in the country of the great sage【賢人】 Confucius【孔子】—-who were better trained than I in Confucian【儒教の】 ethics and classical literature! How could I help sympathizing with a people, foreigners though they were to me politically, whose hearts best in union with mine as if we were true brothers! This experience has made me a devoted friend of the hundreds of millions of Japan’s nearest neighbours.」(註47)

本田増次郎は、1866年、美作国の農家の家に生まれ、新政府により開始された小学校に通学、学生時に助教となるなど、学業には優れていたが、師範学校への就学年齢に満たず、地元の蘭方医院に弟子入り、医師への道を目指す。

「The only course left for me was to be apprenticed to a medical practitioner and later go to the House Office【内務省】 examinations for a physicians’ certificate【医師資格試験】. My mother was specially enthusiastic over this proposition, for she had been seriously ill almost every year and also thought of the fragile physique【虚弱な体格】 of her youngest boy. Off I went to a Dr. Yoshioka’s【吉岡寛斎】 one spring day. He lived ten miles away from our village and was reputed to have the largest practice in the province【郡】. My father promised to pay him three bales【俵】 of rice a year toward my board, while I mixed drugs and prepared pills, powders and so forth and studied medical works in moments of leisure. There were half a dozen boys and young men in this doctor’s office, some of whom had been there long enough to be allowed to visit village patients as assistants. In feudal times【封建時代】 this was the only way of supplying the country districts with anything like medical practitioners.」(註48)

本田増次郎は修行1年で吉岡医院をrun away(逃亡)し、東京へ出る。海軍軍医総監の高木兼寛の紹介により、松岡勇記の医院で修行する。

「This latter materialized in three weeks when, through the courteous introduction of Baron Dr. Takaki【高木兼寛男爵】, then Surgeon General of the Imperial Navy【海軍軍医総監】, I was engaged by a Dr. Matsuoka【松岡勇記】 to prepare medicine for his patients for board and one yen a month as pocket money. Had I any better chance of becoming a doctor of medicine in this new household?」(註49)

海軍軍医学校への入学を希望していた本田増次郎だったが、入学試験に英語が必須科目であったので、無償で英語を勉強できる私塾があることを友人から教えられる。ただし、条件があり、それは柔道を同時に学ぶことだった。(註50)すなわち嘉納治五郎の開いた弘文館である。
2年後の弘文館の卒業は、嘉納治五郎の欧州訪問のタイミングで行なわれた。留守中の道場と寄宿舎の面倒は、西郷四郎(姿三四郎のモデル)、岩波静弥と本田増次郎がみることになった。この時期、本田増次郎は、英語に対する学習意欲に燃え、のちに嘉納治五郎に見込まれ、第5 高等中学校、高等師範学校附属中学校等を歴任、次は清国留学生の面倒を見ることになる。なお、この間、バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain、自身の表記はチャンブレン、号は王堂)、パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn、自身の表記はヘルン、日本名は小泉八雲)、エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Bälz)、イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird)らと面識を持ち、また、自らは日本聖公会で受洗している。
のち、本田増次郎は1904年頃、北豊島郡巣鴨村上駒込字殿中の山縣悌三郎邸に書生とともに住み込み、動物虐待防止会の機関誌『あはれみ』の編集に参画している。(註51)

動物虐待防止会は、「文明開化に伴い明治2年(1869年)に馬車が日本に伝来し交通手段として発展したことから、それによる馭者の馬の取り扱い、すなわち虐待行為が問題となり、大規模な運動が巻き起こることになるのです。馬の残酷な取り扱いを問題視した、キリスト教牧師の広井辰太郎は、明治32年(1899年)、雑誌『太陽』及び『中央公論』にその問題に対する論文を掲載しました。そして、明治35年(1902年)に同じ志をもつ仲間とともに、日本で初めての動物愛護団体「動物虐待防止会」を設立しました。」(註52)という設立経緯を持ち、黒岩周六(涙香)、内村鑑三や堺利彦も動物虐待防止会に参加している

山縣悌三郎『山縣悌三郎自伝 児孫の為めに余の生涯を語る』より

山縣悌三郎『山縣悌三郎自伝 児孫の為めに余の生涯を語る』より

山縣悌三郎は、1858 年、近江の水口藩家臣の3子として生れ、1873年に上京、東京遊学のため、駅逓司に出仕した叔父のもとへ寄宿する。この時、横浜から新橋まで汽車に乗っており、のちにその感想を「余等は始めて汽車に乗りて、其の走ることの快速なるが故に、電信柱の飛んで来るやうに見え、線路に沿へる砂利や草原の、縞(しま)に見えるのに狂喜雀躍した」と記している。(註53)東京高等師範学校に学び、愛媛師範学校校長となり、文部省御用掛として博物学教育とその教授法を研究。1886年に文部省検定教科書制度が実施されるにあたり、山縣悌三郎が編纂した『讀書入門』は、小学校入学最初の半年間に使用された教科書であり、その評価は高い。井上赳によれば「實に空前の編著であり、爾来約四十年、讀本編纂の基礎を固めたものであつた。」と称賛されている。(註54)井上赳は、文部省図書監修官として20年間国定教科書の編集に関わり、「陸軍が軍隊行進の絵を教科書にのせよなどと強く要求し、しかもその要求は数十項目に及んでいた。その当時最大の権力であった陸軍の要求を井上は日本語と日本の文章を読み書きする能力をそだてるのには、それなりの系統・方法があるといって、はねのけたのであるから、みごとな編集姿勢の持主であった。」(註55)という人物である。

山縣悌三郎は、1886年文部省を辞職、多くの教科書や啓蒙書を執筆したほか、1888年雑誌『少年園』を創刊。投稿も取り入れた近代少年雑誌の源流と評価されている。『少年園』の投稿部門を『少年文庫』とし、1895年に『文庫』と改題して『少年園』を廃刊、『青年文』を創刊した機会を得て、内外出版協会と称することになった。
『文庫』からは、河井酔茗(青嵐)、滝沢秋暁(残星)、横瀬夜雨、伊良子清白ら多くの文学者が育ち、文庫派と称された。『青年文』は、山縣悌三郎の弟で『萬朝報』記者の山縣五十雄と、その友人で明治期の社会主義者である田岡嶺雲が編集する文芸評論雑誌であり、佐々醒雪、笹川臨風らと果敢な文芸批評を展開、投書欄では若き日の徳田秋声も激しい社会批評を展開している。1898年には、内村鑑三の『東京獨立雜誌』発刊に助力、大韓帝国からの留学生や、福建省からの渡来者とフィリピン人の混血の家系に生れ、医師にして革命家のホセ・リサール(José Rizal、José Protasio Rizal Mercado y Alonso Realonda)がスペイン政府に捕縛され、1896年12月30日、マニラで銃殺刑されたことに端を発するフィリピン独立革命(Revolución filipina)を支援した。また、涙香黒岩周六の組織した社会改良団体理想団に、山縣五十雄とともに参加、動物虐待防止協会の実務を担当するなどした。家庭改良、言文一致、社会主義に関する出版が目立つようになっていったが、1911年に経営悪化、1914年、ついに内外出版協会は倒産。同年に妻も病没、東京富士見町教会で、植村正久より受洗する。1916年、京城(ソウル)で『The Seoul Press(セウル・プレス、서울 프레스)』の主筆を勤めていた山縣五十雄の勧めもあり、植民地朝鮮に渡り好寿敦女塾【호수돈여숙、Holston Institute】、延禧専門学校【연희전문학교、Chosun Christian College】、培材高等普通学校【배재고등보통학교】、梨花女子専門学校【이화여자전문학교】で教鞭をとる。すべてキリスト教系の学校である。1929年70歳を期に職を辞し、帰国。

José Rizal wikipediaによる

José Rizal wikipediaによる

『The Seoul Press』は、1897年に『The Japan Times(ジャパン・タイムズ)』創刊時の社長であり、伊藤博文の広報秘書であった頭本元貞を初代社長に、統監府の対韓侵略の広報誌として創刊された。1909年、山縣五十雄は、ニューヨークで『Oriental Information Bureau』を発行する頭本の後を受け継いだ。ただし、「併合以後の朝鮮に英字新聞が一紙もない中で発行された『セウル・プレス』は,日本の植民地政策広報の役割だけではなく,英字新聞の購読を通して西洋文化への関心を喚起させることにも繋がった。そのため,朝鮮人の購読者は少なかったものの,『セウル・プレス』は,民衆に国際社会における朝鮮を意識させた新聞という評価も排除することはできない。」という評価も存在する。(註56)山縣五十雄は、1923年に三好重彦(社長)、富永品吉(主筆兼理事)に後を譲り、『The Herald of Asia』の主筆を務め、のち外務省の嘱託として公文書の英訳にかかわったという。

ホセ・リサールについては、山田美妙の『血の涙』(註57)に感銘を受けた魯迅が翻訳を試みたということを、周作人が書き残している。

「他又得到日本山田美妙所譯的,菲律宾【フィリピン】革命家列札尔【リサール】(后被西班牙【スペイン】軍所杀害)的一本小説,原名似是“社会的瘡”,也很珍重,想找英譯来対照翻譯,可是終于未能成功。」(註58)

ホセ・リサールの処刑 (1896)wikipediaによる

ホセ・リサールの処刑 (1896)wikipediaによる

以下は、1902年の動物虐待防止会と本田増次郎に関する、山縣悌三郎の述懐である。

「余は親友本田増次郎(東京高等師範学校教授)及び其の書生徳方信を邸内に寄宿せしめて『あはれみ』の編輯を担当せしめた。長男文夫も亦、少年動物愛護会を起し、桜井忠温、岸辺福雄、入江某(獣医)と与に、力を動物の愛護に尽され、内外出版協会も亦之に呼応して頻りに動物愛護の思想を養成すべき図書を発行した。黒馬物語、フランダースの犬、我が家の犬猫、犬の世界等が是れである。」(註59)

本田増次郎自身は、キリスト者の信念に基づき、動物虐待防止運動の先に反戦平和運動を見据えていた。

「戰争殺戮殘虐犯罪を根絶して人道を發揮し、相助け相愛し和氣靄々たる樂國を此世に實現するの策如何。各兒童を敎へ導きて慈悲仁愛の心を養はしめ、あらゆる機會を利用して親切なる言を出し親切なる行を為し、以て他人或は無告の動物に幸福を與へる事を勉めしむるに在り。家庭幼稚園日曜學校に始まり小中大學校を通じて此入【人】道教育に重きを置き、或は兒守歌に或は遊戯に、或は敎科書中に或は自由談話中に、仁慈博愛の主義を孜々淳々として説く時は、兒女を通じて父母にまで良感化を及ぼすべく、又別に方法を設けて犯罪者が子女を保育するの權を沒収し、無辜の子女を導きて不良の感化を受くる事なき境遇に在らしむる時は、一二代にして能く憎むべき罪惡を滅するを得べきなり。」(註60)

しかし、日露戦争から第1次世界大戦に続く戦争の時代へと突入、戦争への昂奮と熱狂の中で、夢は閉じられてしまったと回想する。

「And these 18 years were a period in my life since 1866 in which I tried to live not only for myself and my country but also my fellow beings in general, in a more or less conscious, direct, tangible way. As a pacifist, as a faithful follower of a heart-stirring campaign against war that redoubled its energy in America and Europe after the Russo-Japanese conflict【日露戦争】; therefore, my zeal as a new convert could not but be gradually cooled down by what I witnessed or heard or encountered in the West and in the East for those 18 years.」(註61)

さて、周樹人ら一行が東京に到着早々の1902年4月27日(辛丑後242年、光緒28年3月20日)の日曜日、清国政府の弾圧を受け、政治亡命してきた章炳麟(太炎)らが発起人となって結成された「支那亡國二百四十二年紀念會」の結成式が、上野精養軒で開催を予定されていた。しかし、事前に情報が洩れ、清国公使の要請で禁止処分となり、当日事情を知らずに集まった留学生たちは精養軒前から不忍池付近まで配置された警官隊によって追い払われた。横浜から駆け付けた孫文は、精養軒に入ることはできたものの、式典の開催は困難であったため、発起人たちを横浜の永楽楼に招き、ここで紀念式を開催する。この年の秋に来日した許寿裳の回想には「魯迅那時已在東京,當然受到這位革命前輩的莫大的影響。(魯迅はその時すでに東京にいた。当然この革命の先輩【章炳麟】の莫大な影響を受けた。)」とあり(註62)、情報をキャッチしていた可能性はあるが、来日後間もない周樹人がこの紀念会に参加したかは知られていない。

兪明震 維基百科による

兪明震 維基百科による

また、周樹人ら礦務鉄路学堂の留学生、および江南陸師学堂からの留学生を率いて来日した兪明震は、浙江新昌五峰兪氏の出身で、明の初めに紹興に移っている。兪明震自身は、順天府宛平県(現・北京直轄市)の生れで、1894年12月、台湾巡撫であった唐景崧の要請で渡台、翌1895年、日清戦争終戦後に成立した台湾民主国の内務督辨を務めた人物で、日本軍の占領作戦にたいする抵抗戦に参加、実際に戦戈を交わしている。(註63)戦争記録『臺灣八日記』の著がある。魯迅は恩師の姿を「藤野先生」の前に連接する作品「瑣記」に書いたほか、1915年に3回恩師を訪れ、3回目にようやく会えたたことを『日記』に記録している。(註64)兪明震の死亡を聞いた時、魯迅は『己未日記』1919年1月20日条に「二十日晴。得兪恪士先生訃,下午送幛子一。」と、挽幛1つを贈ったことを書いている。(註65)日本占領軍に敗北、政府首脳が脱出することにより、台湾民主国は短命に終わった。榎本武揚によって独立宣言された蝦夷政権はあるが、共和政体(「民主」)を国名に冠し、統治の実態を持つ国家としては、台湾民主国は近代東アジアにおける最初の共和国であり、その歴史的意義は今も失われることはない。

獨虎票 台灣民主國郵票 維基百科による

獨虎票 台灣民主國郵票 維基百科による

 

※ 2015年8月19日、引用文中、原文の固有名詞を示す右傍線が再現できていなかったのを修正しました。本文章では、アンダーラインで表現しています。

 


 

註1 佐藤春夫 増田渉訳『魯迅選集』岩波文庫1179-1180 岩波書店 1935
註2 北岡正子『魯迅 日本という異文化のなかで 弘文学院入学から「退学」事件まで』関西大学出版部 2001
註3 周遐壽(周作人)「舊日記裏的魯迅(附錄一) 二〇 壬寅三」『魯迅研究資料 魯迅小説裏的人物』上海出版公司 1954
註4 水野正大訳『魯迅小説のなかの人物』新風舎 2002
註5 周作人『壬寅日記』壬寅3月16日条、鲁迅博物馆藏 常春责任编辑『周作人日记(影印本)』上册 大象出版社 1998第2次印刷により翻字、第1版は1996、原文は無標点、北京鲁迅博物馆鲁迅研究室编『鲁迅研究资料(11)』天津人民出版社 1983を参考にし、標点を付した
註6 周遐壽(周作人)「舊日記裏的魯迅(附錄一) 二〇 壬寅三」『魯迅研究資料 魯迅小説裏的人物』上海出版公司 1954
註7 水野正大訳『魯迅小説のなかの人物』新風舎 2002
註8 周作人『壬寅日記』壬寅3月初9日条、原文は無標点、北京鲁迅博物馆鲁迅研究室编『鲁迅研究资料(11)』天津人民出版社 1983を参考にし、標点を付した
註9 「歴史・概要」善隣書院中国語学校サイト
註10 『風俗畫報臨時増刊 新撰東京名所圖會 第十八編 麹町區之部下之壹』1899年5月28日
註11 田村紀雄 陳立新「梁啓超の日本亡命直後の「受け皿」」『東京経済大学人文自然科学論集』第118号 東京経済大学人文自然科学論集編集委員会 2004年12月20日
註12 永井算巳「清末における在日康梁派の政治動静(その一)―康有為梁啓超の日本亡命とその後の動静―」『信州大学人文学部紀要』第1号別冊 信州大学人文学部1966年12月30日
註13 「日本外交文書各国内政関係雑纂支那の部革命党関係(亡命者を含む)第一巻甲秘第一五五號」レファレンスコードB03050063900、田村紀雄 陳立新「梁啓超の日本亡命直後の「受け皿」」『東京経済大学人文自然科学論集』第118号 東京経済大学人文自然科学論集編集委員会 2004年12月20日を参照し、国立公文書館アジア歴史資料センター資料により読みおこし、誤読は訂正した
註14 「日本外交文書各国内政関係雑纂支那の部光緒二十四年政変,光緒帝及西太后ノ崩御,袁世凱ノ免官第三巻甲秘第一五七號」レファレンスコードB03050092200、田村紀雄 陳立新「梁啓超の日本亡命直後の「受け皿」」『東京経済大学人文自然科学論集』第118号 東京経済大学人文自然科学論集編集委員会 2004年12月20日を参照し、国立公文書館アジア歴史資料センター資料により読みおこし、誤読は訂正した
註15 黃錫凌《粵音韻彙》電子版による
註16 客語字典查尋による
註17 孫文記念館編『孫文・日本関係人名録』財団法人孫中山記念会 2011
註18 東京旅館組合本部編『大正十一年三月調 東京旅館下宿名簿』東京旅館組合本部 1922
註19 木堂先生傳記刊行會編纂『犬養木堂伝(中巻)』東洋經濟新報社 1939、陈锡祺主编『孙中山年谱长编』中华书局 1991
註20 「第廿八章 東亞關係(上) 五、孫文の來朝」木堂先生傳記刊行會編纂『犬養木堂伝(中巻)』東洋經濟新報社 1939
註21 「第廿八章 東亞關係(上) 六、孫文の假寓」木堂先生傳記刊行會編纂『犬養木堂伝(中巻)』東洋經濟新報社 1939
註22 西周「日記」1885年11月15日条、大久保利謙編『西周全集 第三巻』宗高書房 1966
註23 友田燁夫「医学史 高橋琢也と学生達(疾風怒濤の物語)(5)―文化人としての高橋琢也―」『東京医科大学雑誌』第70巻第2号 東京医科大学医学会 2012年4月30日
註24 高橋琢也「第三章 森林ノ損失」『森林杞憂』高𣘺氏藏版1888、原文の句読点のほかに適宜分ち書きとし、読分の便をはかった
註25 高橋琢也「第五章 森林ノ性質」『森林杞憂』高𣘺氏藏版1888、原文の句読点のほかに適宜分ち書きとし、読分の便をはかった
註26 高橋琢也「第六章 森林ノ保護」『森林杞憂』高𣘺氏藏版1888、原文の句読点のほかに適宜分ち書きとし、読分の便をはかった
註27 高橋琢也「第一章 緒言」『起テ沖縄男子』金刺芳流堂發賣 1915
註28 高橋琢也『沖縄産業十年計畫評』金刺芳流堂發賣 1916
註29 「世界のウチナーンチュ 海外移住者(戦前)」琉球新報サイト
註30 「建学の精神」東京医科大学サイト
註31 『順天堂史 上巻』学校法人順天堂 1980
註32 楢崎茂彌「立川陸軍飛行場と日本・アジア №91石川島飛行機製作所工場立川に全面移転、「婦人公民権法案」衆議院を通過」知の木々舎サイト
註33 『官報號外 昭和五年五月十二日 貴族院議事速記錄第十二號』1930年5月12日
註34 『官報號外 昭和五年五月九日 衆議院議事速記錄第十一號』1930年5月9日
註35 「各国内政関係雑纂/支那ノ部/革命党関係(亡命者ヲ含ム) 第一巻甲秘第一五五號」 レファレンスコードB03050064500、国立公文書館アジア歴史資料センター、孫文記念館編『孫文・日本関係人名録(増訂版)』公益財団法人孫中山記念会 2012
註36 嚴修『壬寅東遊日記七月初七日至十月二十八日』壬寅八月初三日(1902年9月4日)条、『严修日记 第二册』南开大学出版社 2001による、原文は無標点、句点に相当する箇所は1字分空白、武安隆、劉玉敏点注『严修东游日记』南开日本研究丛书 天津人民出版社 1995を参照して読下し、頓号(、)および読号(,)を追加した
註37 朱鵬「厳修の新学受容過程と日本―其の二・天津の紳商と近代初等学堂をめぐって―」『天理大学学報』第51号 1999年10月
註38 周遐壽(周作人)「舊日記裏的魯迅(附錄一) 二〇 壬寅三」『魯迅研究資料 魯迅小説裏的人物』上海出版公司 1954
註39 水野正大訳『魯迅小説のなかの人物』新風舎 2002
註40 周作人『壬寅日記』壬寅3月23日条、鲁迅博物馆藏 常春责任编辑『周作人日记(影印本)』上册 大象出版社 1998第2次印刷により翻字、第1版は1996、原文は無標点、北京鲁迅博物馆鲁迅研究室编『鲁迅研究资料(11)』天津人民出版社 1983を参考にし、標点を付した
註41 北岡正子『魯迅 日本という異文化のなかで 弘文学院入学から「退学」事件まで』関西大学出版部 2001
註42 周作人『魯迅研究資料 魯迅小説裏的人物』上海出版公司 1954、水野正大訳『魯迅小説のなかの人物』新風舎 2002
註43 本田増次郎「TWO MEANINGS OF “A ROLLING STONE” “The Story of a Japanese Cosmopolite” As told by himself」『The Herald of Asia』Vol.1-No.12, 1916年6月10日、本田増次郎Web記念館サイトによる
註44 「第二章 教育家としての嘉納治五郎 二 教育精神につちかったもの」嘉納先生伝記編纂会編纂『嘉納治五郎』講道館 1977、嘉納治五郎の渡欧日記より、原文は英文
註45 嘉納治五郎「序」天野景康 藤岡勝二 嘉納治五郎『Shôgaku rômaji sin-tokuhon 小學ローマ字新讀本』Bunrindô 淺見文林堂 1924、田中洋平 石川美久「嘉納治五郎の言説に関する史料目録(2)―『嘉納治五郎大系』未収録史料(大正期)を中心に―」『武道学研究』Vol. 43No. 2 2011による
註46 「國字問題に就いて―ローマ字採用の急―」國語硏究會編『國語教育』7巻6号育英書院 1922年6月、田中洋平 石川美久「嘉納治五郎の言説に関する史料目録(2)―『嘉納治五郎大系』未収録史料(大正期)を中心に―」『武道学研究』Vol. 43No. 2 2011による
註47  MASUJIRO HONDA「AM I REALLY A JAPANESE? “The Story of a Japanese Cosmopolite” As told by himself」『The Herald of Asia』Vol.1-No.1, 1916年3月25日、本田増次郎Web記念館サイトによる
註48  MASUJIRO HONDA「TWO YEARS OF MEDICAL STUDY “The Story of a Japanese Cosmopolite” As told by himself」『The Herald of Asia』Vol.1-No.4, 1916年4月15日、本田増次郎Web記念館サイトによる
註49  MASUJIRO HONDA「TWO YEARS OF MEDICAL STUDY “The Story of a Japanese Cosmopolite” As told by himself」『The Herald of Asia』Vol.1-No.4, 1916年4月15日、本田増次郎Web記念館サイトによる
註50  MASUJIRO HONDA「JUDO AND ENGLISH TOGETHER STUDY “The Story of a Japanese Cosmopolite” As told by himself」『The Herald of Asia』Vol.1-No.6, 1916年4月29日、本田増次郎Web記念館サイトによる
註51 「本田増次郎年譜」本田増次郎Web記念館サイトによる、山縣悌三郎『児孫の為めに余の生涯を語る 山縣悌三郎自伝』弘隆社 1987では1902年の項に記事が載る
註52 「動物愛護とは?」公益財団法人神奈川県動物愛護協会サイト
註53 山縣悌三郎『児孫の為めに余の生涯を語る 山縣悌三郎自伝』弘隆社 1987
註54 井上赳『小學讀本編纂史』岩波講座國語教育〔國語教育の實際的機構〕第5囘配本2 岩波書店 1937、なお同書によれば、『讀書入門』のよみは「ヨミカキニフモン」である
註55 山住正己「さわやかで鋭利な編集者」安江良介追悼集刊行委員会編『追悼集 安江良介 その人と思想』「安江良介追悼集」刊行委員会 1999、山住正己『點鬼簿 先達を偲び、先達に学ぶ』国土社 2001による
註56 李修京 朴仁植「『セウル・プレス』(The Seoul Press)と朝鮮植民地統治政策の一考察」『東京学芸大学紀要. 人文社会科学系I』第59号 東京学芸大学紀要出版委員会 2008年1月
註57 非律賓りさある博士序 山田美妙譯『小説血の涙』内外出版協會 1903
註58 周啓明「魯迅的青年时代 一二再是東京」『魯迅的青年时代』中国青年出版社 1957
註59 山縣悌三郎『児孫の為めに余の生涯を語る 山縣悌三郎自伝』弘隆社 1987
註60 本田増次郎「紹介 人道敎育會」『兒童硏究』第六卷第二號 日本兒童學會1903年2 月、長谷川勝政「本田増次郎とキリスト教児童文学:訳書『黒馬物語 一名驪語』の持つ意味」『英学史研究』第45号、日本英学史学会、2012年10月1日、本田増次郎Web記念館サイトによる
註61 MASUJIRO HONDA「MY SHATTERED DREAMS: From A Japanese Pacifist’s Dairy 1905-1923」『The Japan Advertiser』1925年1月11日号 ジヤパン・アドバータイザー社、長谷川勝政「本田増次郎とキリスト教児童文学:訳書『黒馬物語 一名驪語』の持つ意味」『英学史研究』第45号、日本英学史学会、2012年10月1日、本田増次郎Web記念館サイトによる
註62 許壽裳「四 『浙江潮』撰文」『兦友魯迅印象記』人民文學出版社 1953、訳文は北岡正子『魯迅 日本という異文化のなかで 弘文学院入学から「退学」事件まで』関西大学出版部 2001によった
註63 黄昭堂『台湾民主国の研究』東京大学出版会 1975第2版、初版は1970
註64 魯迅『乙卯日記』1915年2月17日、4月10日、4月11日の各条
註65 魯迅『己未日記』1919年1月20日条、原文には句読点なし。全集本を参考に標点を付した

魯迅と日暮里(2)周樹人の来日 东京也无非是这样」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 魯迅と日暮里(25)辻潤の見たダイヤモンド富士 1902年11月の日暮里富士見坂 | 今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

コメントを残す