今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

魯迅と日暮里(1)プロローグ

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魯迅(本人による翻字はルーシン(註1)、Lǔsin(註2)、紹興Lu(上/2)Shin(去/3または上/2)、拼音 Lǔ Xùn)は、本名を周樹人(本人のフリガナは「シウジユジン」(註3)、紹興Tseu(平/1)Zhiu(去/3)Zen(平/1、文読)またはNyin(平/1、白読)(註4)、拼音Zhōu Shù rén)という。魯迅は、日本人にとってポピュラーな作家であり、日本に留学したこともよく知られている。その作品「故郷」は、中学校教科書では教育出版(1956)、光村図書(1966)、三省堂(1969)、筑摩書房(1969)、学校図書(1972)、東京書籍(1972)に採用されており、現在、中学校の国語教科書は5社による独占状態にあるため、40年以上、すべての日本の義務教育卒業者が魯迅の作品に触れたことになる。(註5)その人口を日本国民総人口と比較すると、50%を優に超える数字である。(註6)

以下に掲げるのは、魯迅「藤野先生」の原文の冒頭部である。

 

魯迅「藤野先生」手稿 吴东「关于《藤野先生》的陈列品」教育档客サイトによる

魯迅「藤野先生」手稿 吴东「关于《藤野先生》的陈列品」教育档客サイトによる

 

「藤野先生 魯迅

     ―舊事重提之九―

東京也無非是這樣。上野的櫻花爛熳的時節,望去確也像緋紅的輕雲,但花下也缺不了成羣結隊的「清國留學生」的速成班,頭頂上盤著大辮子,頂得學生制帽的頂上高高聳起,形成一坐富士山。也有解散辮子,盤得平的,除下帽來,油光可鑑,宛如小姑娘的髮髻一般,還要將𩓐子扭幾扭,實在標致極了。
中國留學生會館的門房裏有幾本書買,有時還值得去一轉;倘在上午,裏面的幾間洋房裏倒也還可以坐坐的。但到傍晚,有一間的地板便不免要咚咚咚地響得震天,兼以滿房煙塵斗亂,問問精通時事的人,答道,「那是在學跳舞。」
到別的地方去看看,如何呢?
我就往仙台醫學專門學校去。從東京出發,不久便到一處驛站,寫道:日暮里。不知怎地,我到現在還記得這名目;其次却只記得水戸了,這是明的遺民朱舜水先生客死的地方。仙台是一個市鎮,並不大,冬天冷得利害,還沒有中國的學生。」(註7)

 

(私訳)
「東京も、こんなようでしかなかった。上野の桜花爛漫の時節、遠く望めば確かに緋紅の軽雲のようだったが、花の下には決まって成群結隊した「清国留学生」の速成班が、頭のてっぺんに巨大なポニーテールを巻きつけ、かぶった学生制帽の頂上は高々と聳え立ち、一座の富士山を形成していた。また、ポニーテールをほどき、平らに巻いて、帽子を取れば、油の光が照り映えて、まるで少女のフリンジそっくり、それでも首をくねらせれば、実にいかしてて最高というものだ。
中国留学生会館の門房では幾冊かの書籍を売っており、時にはのぞきにいく値打はあるようだった;もしお昼前だったら、中に入って幾間かの洋房に座っていることはできた。ただし夕方になると、一間の床板はトントントンと天を震わせるのを免れない、兼ねて以て満房に煙塵もうもう、時事に精通した人に問うと、答えて言った、「あれはダンスを学んでいるんだ。」
 別の土地に行ってみたら、どうなんだろう?
 僕はこのようにして仙台の医学専門学校に行った。東京を出発して、間もなく一つの停車場に着くと、日暮里と書いてあった。どういうわけか、僕は現在なおこの名前を覚えている;其の次にはただ水戸を覚えているだけだが、ここは明の遺民朱舜水先生が客死した土地だ。仙台は一個の小都市で、決して大きくなく、冬の日の寒さは厳しく、まだ中国の学生はいなかった。」

清国留学生会館跡

清国留学生会館跡

 

(語注)
藤野先生:手稿によれば「吾師藤野」を抹消して「藤野」としている(後述)

舊事重提:『莽原』発表時のタイトル。のちに一冊にまとめられた時に『朝花夕拾』と改題された。松枝茂夫によれば「旧事重提」は、「昔がたり」とか「思い出ばなし」といったほどの意味という。(註8)

東京:魯迅が翻訳した小説『月界旅行』の「辨言」に「癸卯【1903年】新秋、譯者識于日本古江戸之旅舎」とある。(註9)。1904年10月4日蒋抑卮宛の手紙でも「拜啓者:前嘗由江戶奉一書,想經詧入。尓來索居仙台,又複匝月,形不吊影,弥覺無聊。昨忽由任君克任寄至「黒奴籲天錄」一部及所手錄之「釋人」一篇,乃大歡喜,窮日讀之,竟畢。拳ゝ盛意,感莫可言。樹人到仙台後,離中國主人翁頗遙,所恨尚有怪事奇聞由新聞紙以觸我目。曼思故國,來日方長,載悲黒奴前車如是,弥益感喟。聞素民已東渡,此外浙人頗多,相隔非遙,竟不得會。惟日本同學來訪者頗不寡,此阿利安人亦殊懶與酬対,所聊慰情者,厪我舊友之筆音耳。近数日間,深入彼學生社会間,略一相度,敢決言其思想行為決不居我震旦青年上,惟社交活潑,則彼輩為長。以楽観的思之,黃帝之靈或当不餒歟。」(註10)と書く。本文中、アンダーラインで表現したのは、原文では縦組文字の右傍線。固有名詞に付されている。第1次東京時代の魯迅については、北岡正子『魯迅 日本という異文化のなかで 弘文学院入学から「退学」事件まで』関西大学出版部 2001に詳しい

也:副詞。「1 副 同類の動作・状態が並列していることを述べる.➀(〔主語+述語,主語+‘也’+述語〕〔主語+‘也’+述語,主語+‘也’+述語〕の並列複文に用い,主語は異なるが述語が同じか同じ意味を示す場合;…は…する・であるし)…も同様に(…する・である),(…も…する・であるし)…も(…する・である).」「➇(前節が出現せず,対比すべき同種の動作・状態が述べられていない場合,多くその前の主語を取り立てて言う;時には目的語を取り立てて言い,取り立てて言うべき事物が複数個ある場合には,どの事物を取り立てているのか明白でなく多義性を示す.)」(註11)藤田梨那氏によれば「「也」は日本語の助詞「も」と同様、二つの事柄の並列を表す。「東京也」は「東京が他の地方と同様に」という意味である。」(註12)

無非:藤田梨那氏によれば「「無非」は「ただ~にすぎない」、「所詮~にすぎない」という意味で、相手あるいは自分を卑下した表現である。場合によって軽蔑のニュアンスを帯びる」(註13)

也無非是這樣:駒田信二によれば「こんなふうでしかなかった」(註14)葛谷登氏によれば、「魯迅の原文は「東京」という語の後に累加の助詞「也」が用いられており、「是」の前には二重否定を示す語「無非」が冠せられている。また、「是」の後ろには先行する文がないままいきなり「このようだ」という意味の指示形容詞「這様」が来ている。これらは自らの意識の中での了解事項をめぐって思考の往還運動が際限なく繰り返されていることを感じさせる極めて難解な措辞である。劈頭に何を置くか、作家が考えに考え抜いた結果、搾り出された表現がここにはあるようだ。」(註15)したがって、直接前章(「瑣記―舊事重提―」『莽原』第二十二期 半月刊 中華民國十五年十一月十五日出版 未名社)に連接するとする説(註16)、それと同時に、のちの仙台での体験に重ね合わせているという解釈(註17)、また、弘文学院在学中の1903年の夏休みに一度帰省した直後の感慨という読解もある(註18)葛谷登氏の解釈は、「前提となっている場所は、南京のことではないか」という。(註19)

上野:1902年4月27日(辛丑後242年、光緒(満ᠪᠠᠳᠠᠷᠠᠭᠤᠯᠲᠤ ᠲᠦᠷᠦ Badarangga doro、蒙Badaragultu Törö)28年3月20日)、章炳麟(太炎)らが発起人となって結成された「支那亡國二百四十二年紀念會」の紀念会が上野精養軒で開催を予定されていたが、事前に情報が洩れたため、清国公使の要請で禁止処分となり、当日事情を知らずに集まった留学生たちは精養軒前から不忍池付近まで配置された警官隊によって追い払われた。横浜から駆け付けた孫文は、発起人たちを横浜の永楽楼に招き、紀念式を開催する。(註20)また、周作人『魯迅的故家』には次の通りある。「一九〇六年東京上野で博覧会が開催された時、ぶらりと散歩がてら出掛けたが、宝の山に入つたようで、空手で帰るに忍びずこれ【七宝焼きの花瓶】を一つ買つて、伏見館の小机に置いた。(中略)この骨董は紹興、北京と持ち廻つて、たしか十年前にも見たことがあつた。もしなくしていなければ、今でもきつとまだ存在しているだろう。」(註21)

櫻花:駒田信二によれば、漢語における「櫻」はユスラウメ(バラ科サクラ属ニワウメ亜属)の意。サクラ(バラ科サクラ属サクラ亜属)の意味で用いられるのは1904年に曾樸が発表した『孽海花』に「二人且看中國各花,則揚州的大紅牡丹最為出色,花瓣約有十餘種,余外不過蘭蕙、薔薇、玫瑰等花罷了。尚有日本的櫻花,倒在酣艷風流,獨占一部。」とあるのが早い例という。(註22)なお、曾樸『孽海花』は、宮崎滔天『三十三年之夢』の大きな影響を受けているという。(註23)サクラの意味でのこの語の使用例としては、『孽海花』よりも『近世博物教科書』(日本・藤井健次郎編 清・樊炳淸訳)の方が早い(後述)

爛熳:駒田信二によれば、「爛漫」をこのように書くのは六朝以降の誤謬という。(註24)南朝 謝朓『秋夜講解』詩に「琴瑟徒爛熳、姱容空滿堂。」南朝梁 沈約『奉華陽王外兵』詩に「爛熳蜃雲舒、嶔崟山海出。」とある

但:「‘但’は‘但是’と異なり,主として書き言葉に用いる」(註25)

花下:手稿によれば追記された文字である。

成羣結隊的:追記である。『三國演義』第九五回に「忽然山中居民,成羣結隊,飛奔而來,報説魏兵已到。」、『水滸傳』第一○四回に「更有那村姑農婦,丟了鋤麥,撇了灌菜,也是三三兩兩,成羣作隊,仰著黑泥般臉,露著黃金般齒,呆呆地立著,等那粉頭出來。」とある。

清國留學生」:括弧が付されていることに注意。魯迅は清帝国の存在と中国がその支配下にある事実を認めていないからである。(註26)

速成班:日本に留学した魯迅は、弘文学院速成普通科の学生となった。はじめ江南班、のちに浙江班に所属した。弘文学院は嘉納治五郎の開いた私立学校であり、開校は魯迅らの来日直後である。(註27)

盤:「8 動(蛇などが体を渦巻きのように)巻く,(縄などを輪のように)巻く.」(註28)「纏繞。如:盤辮子;蟒蛇盤樹。(註 29)

辮子:日本語では「弁髪」。「老兄,你可知道頭髮是我們中國人的寶貝和冤家,古今來多少人在這上頭吃些毫無價值的苦呵!(ねぇ、君、髪の毛ってやつは、われわれ中国人の宝物でもあるし、仇敵でもあるんだ。昔から今日まで、どれだけ多くの人が、そのために一文の値打ちもない苦しみを嘗めさせられたものか。)」(註30)「對我最初提醒了滿漢的界限的不是書,是辮子。這辮子,是砍了我們古人的許多頭,這才种定了的,到得我有知識的時候,大家早忘卻了血史,反以為全留乃是長毛,全剃好像和尚,必須剃一點,留一點,才可以算是一個正經人了。而且還要從辮子上玩出花樣來:小丑挽一個結,插上一朵紙花打諢;開口跳將小辮子挂在鐵杆上,慢慢的吸煙獻本領;變把戲的不必動手,只消將頭一搖,劈拍一聲,辮子便自會跳起來盤在頭頂上,他于是要起關王刀來了。」(註31)英語ではbraided hair、アナ雪でブームになっている

學生制帽:『私立弘文學院規則』第二十四條に「學生ハ寮費敎育費書籍費被服費薪炭油費小遣其他ノ費用トシテ一ヶ年金三百圓ヲ前納スベキモノトス」とあり、支給された制服は神田鍛冶町39番地の尾張屋から納められた。夏服としては霜降小倉立襟背広 上下(3円30銭)、白葛城ズボン(1円35銭)、白縮シャツ ズボン下 上下(1円30銭)、麻脚半(55銭)、靴下(7銭)、帽子(1円50銭)、冬服としては、紺軍絨外套(8円75銭)、紺セル立襟背広 上下(6円50銭)、縞綿フランネルシャツ ズボン下 上下(1円30銭)などがあった。『學生取締規則』第九條で「學生ハ授業及外出ノ際ニハ制服ヲ着用スベシ其他ニ於テハ便宜ノ服ヲ着用スルコトヲ得」とされていた。(註32)写真を見ると、夏は日覆(白カバー)を被せている

富士山:『鲁迅全集 第十六巻(附集)』「全集注释索引・国家、民族、地名类」に載る唯一の事例であり、魯迅が「富士山」の文字を書いた数少ない例の1つ。(註33)固有名詞を示す傍線がないのに注意。周作人『魯迅小説裏的人物』によれば、「魯迅が日本へ留学したのは江南の官費生としてであって、そのころはまだ辮髪を切る自由がなかった。それでみなはやむなく頭のてっぺんに小さくまとめるか、あるいは髪を解きほぐして平たく束ね、その上に帽子を被ってごまかすしかなかった。速成組の学生のなかには、少しでも辮髪を剃り落すにしのびなかったのか、全部頭のてっぺんをぐるぐる巻きにしたので、帽子がはっきりと盛り上がっていた。そのようすがまことに見苦しいもので、「富士山」というここでは侮蔑的なあだ名を冠(かむ)せられた。また中には帽子の下から短い髪をいくすじも垂らして、それが頬のあたりにゆらめいたりして、いよいよ男だか女だか分からないというのもいた。」と解説される。(註34)また、「その形が富士山に似ているというのだが、当時の留学生の回顧談によれば、そのフケが両肩にまっ白く積んでいるところが一層よく富士山に似ていたという。」(註35)当時の留学生の回顧談とは、孫伯醇によるもの。そこでは
「その速成の留学生は、実際はみんな子どもじゃないんです。三十、四十――五十のはいないでしょうけど、四十位です。
それでね、辮髪を切らないんだ。すぐ帰るんだから。切れば大変なことになる。辮髪はですね、こういうね、日本人の女のするカンザシ、これをそうそう(結いあげてぼうしの中にしまう仕種)ね、学生服、ぼうしをかぶってですね、こういうふうに、ね、それできたない!フケがいっぱいです。だからね、フースーサン(富士山)というんです。」と語られる。(註36)魯迅は、生涯この1回しか使っていないが、周作人や許寿裳らは、くりかえし「富士山」の語をこの意味で使用している。

髪髻:「髪」は訂正された文字、元の文字は読めない。英語ではwispy bun というヘアスタイルである。確かに可愛い

還:副詞「7(反語文に用い,時に不満・非難の気持ちを示し)それでも.」(註37)

要將:未来形をつくる副詞。「將要」は、「[be going to;will;shall] 用在动词前面,表示行为或情况在不久以后发生」(註38)「要將」の例も、『中文標準譯本聖經 馬太福音 1:21』に「瑪麗亞將要生一個兒子,你要給他起名叫耶穌,因為他將要把自己的子民從他們的罪孽中拯救出來。」と見える。

𩓐子:「𩓐」(U+294D0)は『莽原』初出時のテクストによる。手稿でも同じ。通行本では異体字の「脖」となっている。「脖子」は頸項部の俗称といい、元代以降の白話文に見える。(註39)清 趙吉士『寄園寄所寄』卷二·鏡中寄 湧幢小品に「孫繼先孟縣人,以御史憂居,嘗乘馬之里社,逢路人,指公前有緋衣婦人,卻行去曰:「孫御史來,吾不敢過孟縣界。」公馳馬即之,入於牛群,迄不見。明年民病𩓐瘴,自山以西,死者數十萬,獨孟不被疫,人以此甚奇之。」、清 陳儀『直隸河渠志』に「居西澱之中舊有石橋八座白洋諸澱之水皆由橋下東流實西澱之咽喉也而石橋卑隘礙流雍正三年怡賢親王奏請易之以木升高加闊又増建三橋俾積澱之水暢然東注但白溝濁水自北而下出河門而横截清流至藥王行宮前河形拗折土人謂之鵝𩓐所謂咽喉已通而胸膈未利也」(註40)

扭幾扭:扭は「4動(歩く時に)体をくねらせる,体をくねくねさせる.」(註41)「一扭一扭」「扭一扭」「扭扭」と同義。「師父啊,真個是難,真個是難。這條河若論老孫去時,只消把腰兒扭一扭,就過去了;若師父,誠千分難渡,萬載難行。」は、『西遊記』における猪八戒の言葉。「扭一扭,舔一舔,泡一泡」は、クッキーのオレオ(Oreo、奧利奧)の宣伝惹句。原語は「Twist, Lick, Dunk」

實在標致極了:「標致」は優美、秀麗の意。反意語で用いられている。褒義を含んだ語を貶義詞に代えて用いることにより、より深刻な否定的で皮肉な感情的意味合いを持たせている。(註42)葛谷登氏によれば、「「標致」は女性だけではなく男性にも用いられる形容詞であり、瑞瑞しい若さに基づく容姿の麗しさを表わすもののように感ぜられる」といい、葛谷登氏の引く李小勤氏によれば、「簡単なことばで誰にでもわかることばです。但しいろいろな状況につかうから、日本語や英語にぴったりアタルことばは無いように思います。prettyとかhandsomeの意味、主に若い女性の外観―傍線、李氏注―に使いますが、若い男性や物に使ってもおかしくありません」という(註43)

中國留學生會館:1902年3月30日、神田区駿河台鈴木町18番地に開設された留学生センターの「清国留學生會館」。二階建て洋館1棟とその西側に日本式家屋2棟があり、食堂、音楽室、図書室があり、朝7時から夜10時まで開館していた。(註44)魯迅が中国留学生会館と書いているのは、もちろん清国の名称を忌避してのものである。

門房:「清国留學生會館」には、門番1人と「小使い」1人が置かれた(註45)

有幾本書買:周作人『魯迅小説裏的人物』によれば、「この会館は神田の駿河台にあり、本郷の魯迅の下宿からは外濠(そとぼり)という川を隔てて、お茶の水橋を渡り、そこから右に曲がって坂を上ったところにあった。会館の玄関部屋には中国語の書籍や新聞を売っている人がいて、時には立ち寄ることもあったが、神田の神保町に郡益書社と中国書林ができると、もう留学生会館へは行かなくなった。」という。(註46)魯迅の第2次東京時代の記述である

有時:副詞「1 時おり,時には,たまには.≒有时候.」(註47)

還值:正字は「還直」。「償還價值」の意。『後漢書 光武帝紀下』に「詔益涼二州奴婢,自八年以來自訟在所官,一切免為庶人,賣者無還直。」、『宋書 顏延之傳』に「坐啓買人田,不肯還直。」『古今小說 張道陵七試趙昇』に「又一日,真人分付趙昇往市上買絹十匹。 趙昇還值已畢,取絹而歸。』清 石鈞『刈麥行』に「向人稱貸過殘年,許到春收倍還直。」とある。(註48)元来、「值」は「直」の異体字

一轉:「轉」は、「2 動(周囲を)回る,(一定の範囲を)ぶらつく,見て回る.」(註49)「回る(立寄る).顔を出す.のぞく.」(註50)

倘:「儻」と同義で、文語文の表現。「⦅書⦆(多く主語の後に用い)もしも…であれば.」(註51)

在:訂正。訂正前の文字は読めず。张代敏によれば、「是」である(註52)

裏面的幾間洋房:二階建て洋館には、事務室、応接室、閲覧室、食堂が1室ずつ、あとは談話室にあてられていた。(註53)

倒:副詞「6 (断言を避けて躊躇しながら言う場合)まあ(…だ),別段(…ではない).」(註54)

傍晚:「名(〜儿)日暮れ時,夕方,夕暮れ.」(註55)

洋房:現在では「洋館」の意味で用いられることが多い。

不免:「副 1 (因果文の後節に用い,好ましくない結果が生じる場合)…するのを免れない,どうしても…することになる.」「もとは旧白話に用いられ,現在ではほとんど使われない.」(註56)

要:「7 助動 (多く前に‘会’‘总’‘一定’‘必然’を,文末に‘的’を伴い,ある事が必然的に起こることを示し)…する,…するはずである,…するものである,…することになっている.」(註57)

咚咚咚:咚の1文字を追記している。紹興地方の発音ではton(平/1)(註58)、普通話の拼音はdōngである。紹興音に従い、「トントントン」とした。普通話においても濁音ではなく、[toŋ]である。文字表記としては、初字は「冬」。「咚」字は、白話文学において出現する。

兼以:文語的表現だが、「加以」の方が普通の表現。「加以」は「2 接続 (多く書き言葉に用い;まずある原因を提示し,更に別の原因を追加する場合)それに,その上,加うるに.」(註59)

滿房:「滿」は形容詞〔非述語〕。「3 形 〔非述語〕(名詞の前に用いて,多く4字句を作り)全体の,すべての,…いっぱい,…じゅう,…一面.」(註60)部屋いっぱいの意味では、普通話では「满屋」が多く用いられ、「滿房」は、旅館などが満室の意味となる。『太平廣記 異僧十 僧伽大師』に「而其頂有一穴,恒以絮塞之,夜則去絮。香從頂穴中出,煙氣滿房,非常芬馥。及曉,香還入頂穴中,又以絮塞之。」

斗亂:飛騰雑乱の意。鬥亂、鬭亂、鬪亂にも作る。宋王之道『桃源憶故人 追和東坡韻呈曾倅子修』詞之二に「庭巷落花如雨、鬭亂穿窗戶。」 張相『詩詞曲語辭匯釋』卷二に「鬭亂,猶云紛亂也。」とある。(註61)

精通:訂正。元の文字は読めない。张代敏によれば、「熟识」(熟識)。(註62)

學跳舞:「跳舞」は、『西遊記』第九一回に「有那跳舞的、躧蹺的、裝鬼的、騎象的,東一攢,西一簇,看之不盡。」ダンスの意味での早い用例は、巴金『利娜 第十四封信』(1940)に「我昨天把他拉去赴跳舞會,我逼著他跳舞。」(註63)ダンスの例での使用は魯迅の使用例の方が先行する。巴金はアナキストで、魯迅とともに「文芸工作者宣言」を発表、中国共産党の統一戦線政策に反旗をひるがえした。葛谷登氏によれば、先行する「時事」とは政治運動を指し、「「ダンスの勉強」とは進むべき道について議論が昂じて留学生同士、組んず解れつのつかみ合いの喧嘩になっていることを指していよう」という(註64)

到別的地方去看看,如何呢?:猪俣庄八は、「いかにも感情をおさえて述べているのであるが、しかし、これは、俗悪な環境からの脱出を示す際に彼が好んで用いる表現法に外ならない。」とし、『瑣記』中の「好。那麼,走罷!」を例示する(註65)

看:助詞。「13 助 (動詞の重畳形式や動詞句の後に用い)…してみる,試しに…する.」(註66)

就:副詞「12 (他の状況は考えられず)ほかならぬこのようにして.」(註67)

往:訂正。元の文字は2文字、読めず。张代敏によれば、「到了」。(註68)

仙台:1905年の仙台の人口は99,150人。仙台での魯迅の事蹟については、仙台における魯迅の記録を調べる会編『仙台における魯迅の記録』平凡社 1978が最も詳しい。魯迅による「仙台」の「台」字の表記は、1904年6月1日付の魯迅自筆の「入學願」では「臺」字と書いているが(註69)、離仙後は常に簡体字で書いていることに注意

醫學專門學校去:訂正された文字。抹消された文字は「□地方□□□,冷得利害,還沒有中國的留學生」であり、中國に固有名詞を示す右傍線はない。张代敏によれば、「,这地方在北边,冷得利害,还没有中国的留学生」(,這地方在北邊,冷得利害,還沒有中國的留學生)と読めるという(註70)

醫學專門學校:仙台医学専門学校は、1902年4月、第二高等学校医学部が分離独立して発足した(註71)

不久:久は訂正された文字。元の文字は「遠」と読める

便:「2 副 (時間を示す語句の後に用い;一定の時点から)すぐに,間もなく.」(註72)

驛站:「名 〔‘个・处 chù ’+〕昔の宿場,駅站.」(註73)驛は「付 駅站.(古代に役所の文書を逓送する官吏が駅馬の乗り換えや休息・宿泊するために設けた宿場で,現在は四川省の龍泉駅など多くの地名に残っている.)」(註74)現在は「车站」という

不知怎地:何だか、どういうわけか。谷行博氏によれば、「「なぜだか」という言葉は,魯迅自身にあっては自明であり,しかもそれはわざわざ説明する必要がないと魯迅によって判断されたものの存在を暗示している。」(註75)上野恵司氏によれば、「“怎麽”“怎麽様”(“怎様”)の意味で“怎的”(“怎地”)を用いるのは明清白話語彙の中では普通であるが,今日では方言と見なされているようである。」(註76)

還記得這名目;:読点の「;」は、『莽原』本では空白、手稿により補った

朱舜水:魯迅と同じ浙江省出身。明朝滅亡後、復明運動に参加するが日本に亡命。1665年、徳川光圀の招聘を受け江戸に来る。水戸学思想の成立に多大な影響を与えた。終焉の地は現・国立大学法人東京大学農学部の地であるが、墓所は常陸太田にある水戸徳川家歴代の墓地である瑞龍山の一角にある。在仙中の魯迅は、毎休みごとに東京に行っており、許寿裳によれば、途中、朱舜水の墓所を訪れたことがあり、泊まった宿の帳簿に「清国」と書かず、わざわざ「支那」と書いたという。(註77)「有一次,從仙台回東京,為的要去瞻仰明末大儒朱舜水的遺蹟,忽然中途在水戶下車了。朱舜水反抗滿清,百折不撓,「自誓非中國恢復不歸」,以致終老異域,魯迅一向崇拜他的人格,所以亟亟乎憑弔,下車在夜裏,當然要投旅店,他進去時,店主看作他是日本學生,便領到一間極平常的房間。照例要寫履歷,他寫道:「周樹人……支那。」――那時,日本稱中國人曰清國人,我們卻不願自稱清國,又不便稱中國,因為日本也稱山陽為中國,所以寫作支那――哪知道這麽一來,店主和主婦都大起忙頭了。以為有眼不識泰山,太簡慢了貴客,趕緊來謝罪,請他陞到大房間裏去。他心裏並不願更換,只因為店主的盛意慇勤,不好意思卻,也就同就著去。那是一間陳設很講究的房子,華貴的寢具都是綢的新製。」(註78)水戸―太田間は、水戸鉄道線で55分、1日5往復(1903年1月)から6往復(1906年4月、臨時列車1便含む)の運行だった(註79)

一個市鎮,:「,」は追加されたもの。「市鎮」は「名 (非農業人口を主とし,商業人口が比較的多いが,‘城市’よりは小さい)小都市,町.」(註80)

並:副詞。「3 副 (否定の副詞‘不’‘没[有]’‘未’‘无’‘非’などの前に用い,「事実は予想されたり一般に考えられるようなものではなく,実際はこうなんだよ」という意味を示し,また時には弁解したり反駁を加える意味を帯び)決して,全く,別に,それほど.」(註81)

冬天冷得利害:「利害」は形容詞。「2 形 (風雨など自然界の現象が)猛烈である,激しい,ひどい.」(註82)1905年、「日本の東北地方の天候が不順で、凶作の年になりました。日露の凱旋兵士を迎える東北地方は大凶作で、宮城県が最もひどく、平年作の12,4%の見込みで、県知事は10月20日に内務大臣に深刻な上申報告を出していました。その後豪雪に見舞われるなど、事態は深刻だったのです。県では外米輸入と貧民救済を二大方針とし、たとえばその凶作救済県民大会は38年11月18日に開かれ、当日は近郷から二千人が参加、……政党、地主、実業家が歩調をそろえて対策を講じようとしました。また在仙外人宣教師、各宗教団体代表者、新聞社、学校などが義捐金と救済物資を募り、アメリカやカナダからも同情が寄せられました。/ 翌年はさらにひどくなりましたが、その三月に魯迅は仙台を離れました。」(註83)

沒有中國的學生:魯迅の記録を調べる会の調べによれば、同省人の施霖が第二高等学校入学のため来仙しており、同じ下宿で生活した。(註84)

長すぎる前置きとはなったが、この一文を海図及び羅針盤とし、魯迅と「日暮里」をめぐる長い長い物語に皆さんをご案内する。

※ 日本における魯迅に関しては、既に相当量の研究蓄積がある。したがって新知見に関する事項に関しては、できるだけ原資料を紹介する形で文章を進めていく。このため、本文においては、日本語の旧字体と新字体、漢語の繁体字と簡体字を、原文にそくして意識的に使い分けるようにした。各種手稿に見える略字も可能な限り適合的な活字体に復元している。当時における日本語と漢語の関係を明瞭にすることと、清末から民国、新中国そして現在にいたる中国語の言語改革の進行状況を明らかにしておく意味もあってのことなので、煩雑で読みにくくはあるが、ご了解いただきたい。また、暦日の表記はグレゴリオ暦を優先し、旧暦については「和西中暦変換システム(The Interactive Conversion System Between The Japanese Calendar, The Chinese Calendar and The Christian Era)」(中央硏究院主催PNC(Pacific Neighborhood Consortium、太平洋鄰里協會)、カリフォルニア州立大学バークレイ校主催ECAI(Electronic Atlas Cultural Initiative)共同作成)を用い、太陽暦に変換した。

※ 2015年8月19日、引用文中、原文の固有名詞を示す右傍線が再現できていなかったのを修正しました。本文章では、アンダーラインで表現しています。

 


 

註1 魯迅書簡「320427致内山完造」、鲁迅手稿全集编辑委员会编『鲁迅手稿全集 书信 第八册』文物出版社 1980による
註2 魯迅書簡「310303致山上正義」、鲁迅手稿全集编辑委员会编『鲁迅手稿全集 书信 第八册』文物出版社 1980による
註3 1904年6月1日付魯迅自筆「學業履歴書」、仙台における魯迅の記録を調べる会編『仙台における魯迅の記録』平凡社 1978所収写真図版による
註4 「呉音小字典データベース」による
註5 藤井省三『魯迅事典』三省堂 2002
註6 「年齢各歳別人口」『日本の統計 2014年版』総務省統計局により計算
註7 『莽原』第二十三期 半月刊 中華民國十五年十二月十日出版 未名社 1926年12月10日により翻字、繁体字、簡体字の別及び標点(句読点)は手稿によった。
註8 松枝茂夫訳『朝花夕拾』岩波文庫32-025-3 岩波書店 1976第4刷、初刷は1955
註9 培倫著 中國教育普及社譯印(魯迅)『月界旅行』進化社 1903
註10 「041008致蔣抑卮」鲁迅手稿全集编辑委员会编『鲁迅手稿全集 书信 第一册』文物出版社1979により、郭娟责任编辑『鲁迅全集 第十一巻 两地书・书信(1904‐1926)』人民文学出版社 2005、志村良治「「魯迅仙台書簡」について 仙台における魯迅の記録を調べる会」『野草』第19号 中国文芸研究会 1976年3月31日を参照、繁体字、簡体字は可能な限り再現した
註11 「也yě」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註12 林叢「第二部 魯迅文学と日本の受容 第一章 増田渉の魯迅受容 第二節 増田渉訳「藤野先生」」『漱石と魯迅の比較文学研究』新典社研究叢書66 新典社 1993
註13 林叢「第二部 魯迅文学と日本の受容 第一章 増田渉の魯迅受容 第二節 増田渉訳「藤野先生」」『漱石と魯迅の比較文学研究』新典社研究叢書66 新典社 1993
註14 駒田信二「桜と幻燈」『早稲田大学中国文学会集報』第6輯 早稲田大学中国文学会 1981年3月1日
註15 葛谷登「『藤野先生』と藤野厳九郎(三)」『文學論叢』第149輯 愛知大學文學會 2014年3月21日
註16 松枝茂夫訳『阿Q正伝・狂人日記 他六編』注釈 旺文社文庫B110 旺文社 1970
註17 駒田信二「桜と幻燈」『早稲田大学中国文学会集報』第6輯 早稲田大学中国文学会 1981年3月1日
註18 上野恵司「日本語と中国語(386)「藤野先生」は回想録か 魯迅小説言語拾零(3)」一般財団法人 日本中国語検定協会サイト 2014年1月8日
註19 葛谷登「『藤野先生』と藤野厳九郎(三)」『文學論叢』第149輯 愛知大學文學會 2014年3月21日
註20 北岡正子『魯迅 日本という異文化のなかで 弘文学院入学から「退学」事件まで』関西大学出版部 2001
註21 周遐壽(周作人)「魯迅在東京 二七 花瓶」『魯迅硏究資料 魯迅的故家』上海出版公司 1952、 日本語訳は、松枝茂夫 今村与志雄譯「第三部 東京における魯迅 二七 花瓶」『魯迅の故家』筑摩書房 1955による
註22 駒田信二「桜と幻燈」『早稲田大学中国文学会集報』第6輯 早稲田大学中国文学会 1981年3月1日、「孽海花 清. 曾樸」時尚書屋サイト
註23 寇振鋒「『孽海花』における『三十三年の夢』の受容」『言語文化論集』第XXXI巻 第2号 名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科 2010年3月16日
註24 駒田信二「桜と幻燈」『早稲田大学中国文学会集報』第6輯 早稲田大学中国文学会 1981年3月1日
註25 「但dàn」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註26 松枝茂夫訳『阿Q正伝・狂人日記 他六編』注釈 旺文社文庫B110 旺文社 1970
註27 北岡正子『魯迅 日本という異文化のなかで 弘文学院入学から「退学」事件まで』関西大学出版部 2001
註28 「盘(盤)pán」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002、「纏繞。如:盤辮子;蟒蛇盤樹。」(『漢典』データベースによる)
註 29 『漢典』データベースによる
註30 魯迅『頭髮的故事(髪の話)』
註31 魯迅「病後雜談之餘 ——關於「舒憤懣」」『文學』第四卷第三號 中國左翼作家聯盟 1935年3月、発表時の題は「病後餘談」
註32 北岡正子『魯迅 日本という異文化のなかで 弘文学院入学から「退学」事件まで』関西大学出版部 2001
註33 「全集注释索引・国家、民族、地名类」『鲁迅全集 第十六巻(附集)』人民文学出版社 1993
註34 周遐壽(周作人)「第一分 吶喊衍義 二〇 剪髮」『魯迅研究資料 魯迅小説裏的人物』上海出版公司 1954、水野正大訳「第一部 吶喊衍義 二〇 辮髪を切る」『魯迅小説のなかの人物』新風舎 2002
註35 松枝茂夫訳『阿Q正伝・狂人日記 他六編』注釈 旺文社文庫B110 旺文社 1970
註36 孫伯醇述「留学生・学校教育・辮髪のこと――日本に生きる一中国人の回想(つづき)」『中国』31号 中国の会 1966年6月1日
註37 「还(還)hái」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註38 『漢典』データベースによる
註39 『漢典』データベースによる
註40 『諸子百家中國哲學書電子化計劃』データベースによる
註41 「扭niǔ」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註42 稲賀聡「反意語の使い方」中国語気になる表現サイト
註43 葛谷登「『藤野先生』と藤野厳九郎(三)」『文學論叢』第149輯 愛知大學文學會 2014年3月21日
註44 北岡正子『魯迅 日本という異文化のなかで 弘文学院入学から「退学」事件まで』関西大学出版部 2001
註45 北岡正子『魯迅 日本という異文化のなかで 弘文学院入学から「退学」事件まで』関西大学出版部 2001
註46 周遐壽(周作人)「第二分 彷徨衍義 四一 留學生會館」『魯迅研究資料 魯迅小説裏的人物』上海出版公司 1954、「第二部 彷徨衍義 四十一 留学生会館」水野正大訳『魯迅小説のなかの人物』新風舎 2002
註47 「有时yǒushí」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註48 『漢典』データベース
註49 「转(轉)zhuǎn」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註50 「转(轉)zhuǎn」愛知大学中日大辞典編纂処編『中日大辞典』第4版 中日大辞典刊行会発行 燎原発売 1976
註51 「倘(儻)tǎng ⇨ chǎng」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註52 张代敏「鲁迅对《藤野先生》的修改」河北民族师范学院学报杂志编辑部『承徳师专学报』1985年第4期河北民族师范学院
註53 北岡正子『魯迅 日本という異文化のなかで 弘文学院入学から「退学」事件まで』関西大学出版部 2001
註54 「倒2 dào ⇨ dǎo」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註55 「傍晚bàngwǎn」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註56 「不免bùmiǎn」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註57 「要yào ⇨ yāo」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註58 「呉音小辞典データベース」による
註59 「加以Jiāyǐ」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註60 「满1(滿)Mǎn」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註61 『漢典』データベースによる
註62 张代敏「鲁迅对《藤野先生》的修改」河北民族师范学院学报杂志编辑部『承徳师专学报』1985年第4期河北民族师范学院
註63 汉语大词典编辑委员会 汉语大词典编纂处编纂『汉语大词典(第十巻)』汉语大词典出版社 1992、簡体字を繁字体に変換
註64 葛谷登「『藤野先生』と藤野厳九郎(三)」『文學論叢』第149輯 愛知大學文學會 2014年3月21日
註65 猪俣庄八「魯迅傳覺書」『北海道大學文學部紀要』6 北海道大學文學部 1957年3月40日
註66 「看kàn」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註67 「就jiù」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註68 张代敏「鲁迅对《藤野先生》的修改」河北民族师范学院学报杂志编辑部『承徳师专学报』1985年第4期河北民族师范学院
註69 1904年6月1日付魯迅自筆「入學願」、仙台における魯迅の記録を調べる会編『仙台における魯迅の記録』平凡社 1978所収写真図版による
註70 张代敏「鲁迅对《藤野先生》的修改」河北民族师范学院学报杂志编辑部『承徳师专学报』1985年第4期河北民族师范学院
註71 魯迅の記録を調べる会編『仙台における魯迅の記録』平凡社 1978
註72 「便biàn ⇨ pián」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註73 「驿站yìzhàn」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註74 「驿(驛)yì」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註75 谷行博「「藤野先生」と日暮里(上)―慙光景之誠信兮 身幽隠而備之―」『大阪経大論集』第158号 大阪経済大学 1984年3月30日
註76 上野恵司「魯迅小説の語法と語彙」上野恵司編『魯迅小説語彙索引《吶喊》《彷徨》《故事新編》』中国語研究 別巻1 龍溪書舎 1979年4月30日
註77 孫長虹「魯迅の日本観―日本留学を通しての日本認識―」『多元文化』第3号 名古屋大学大学院 国際言語文化研究科国際多元文化専攻 2003年3月
註78 許壽裳「民元前的魯迅先生 序」黃英哲主編『許壽裳臺灣時代文集』臺灣文學與文化研究叢書 文獻篇2國立臺灣大學出版中心 2010による
註79 『汽車汽舩旅行案内』第壹百號 1903年1月 庚寅新誌社、『汽車汽舩旅行案内』第百貮拾號 1904年9月 庚寅新誌社、『明治大正時刻表 復刻版』新人物往来社 1998による
註80 「市镇shìzhèn」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註81 「并2(並、竝)bìng」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註82 「利害lìhài」伊地智善継『白水社中国語辞典』白水社 2002
註83 阿部兼也「魯迅、仙台時代の転換―社会ダーヴィニズムとの訣別」日本科学者会議第18回総合学術集会 特別セッション1「魯迅と仙台」、「魯迅と仙台―作品『藤野先生』にも触れて」2010 年11 月21 日講演
註84 魯迅の記録を調べる会編『仙台における魯迅の記録』平凡社 1978

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