今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day

「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.

魯迅と日暮里(9)富士山と呼ばれた男 櫻花,箱根和富士山

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魯迅の辮髪についてのエピソードも、そう単純に片付く話ではない。自分たちの頭の上にとぐろをまかせて、富士山を形成しているのは、たんに毛髪だけではないはずだからである。魯迅が発見し、生涯を通じて戦い抜こうとしたのは、民族を貫いて存在する精神的奴隷性である。それに対して魯迅が全力を込めて射抜こうとした射程の内には、自らの精神の内面もまた含まれているはずだからである。

许寿裳 中国绍兴政府サイトによる

许寿裳 中国绍兴政府サイトによる


魯迅の辮髪については、許寿裳の『兦友魯迅印象記』に詳しい事実が述べられている。魯迅と同郷で浙江班に所属した許寿裳と韓永康は、魯迅の日本到着に遅れて、初秋に留学をはたす。そして、彼ら2人は東京へ到着した日、ばっさりと辮髪を切り落している。

「留學生初到,大抵留着辮子,把它散盤在顖門上,以便戴帽。尤其是那些速成班有大辮子的人,盤在頭頂,使得制帽的頂上高高聳起,形成一座富士山,口裏説着怪聲怪氣的日本話。小孩們見了,呼作『鏘鏘波子【紹興chian(平/1)chian(平/1)po(平/1)tsy(上/2)、拼音qiāng qiāng bō zi、ちゃんちゃんぼーず】』。我不耐煩盤髮,和同班韓強士,兩個人就在到東京的頭一天,把煩惱絲翦掉了。那時江南班還沒有一個人翦辮的。原因之一,或許是監督――官費生毎省有監督一人,名爲率領學生出國,其實在東毫無事情,連言語也不通,習俗也不曉,眞是官樣文章――不允許吧。可笑的是江南班監督姚某,因爲和一位姓錢的女子有姦私,被鄒容等五個人闖入寓中,先批他的嘴巴,後用快翦刀截去他的辮子,挂在留學生會館裏示衆,我也興奮地跑去看過的。姚某【姚文甫、南京監督】便只得狼狽地偸偸地囘國去了。魯迅翦辮是江南班中第一個,大約還在姚某偸偸囘國之先,這天,他翦之後,來到我的自修室,瞼上微微現着喜悦的表情。我説:『阿,壁壘一新!』他便用手摩一下自己的頭頂,相對一笑。」(註1)

さらに、沈瓞民の回想には、本稿の冒頭に載せた魯迅の一文を引用したあと、次のような感慨を述べ、ほかならぬ魯迅が「富士山」のニックネームで呼ばれていたことを明らかにする。

「尤其讀到“形成富士山”一語,大家讀了不忍噴飯。我有一位同学王立才,为人风趣,先进金澤医学专門学校読书,他到常弘文来,就因此叫魯迅为“富士山”,“富士山”的渾名,在同学中传得相当广。当时这渾名传开的原因,还因富士山原蘊藏着火山很能象征魯迅革命斗爭的精神。后来魯迅決定学医,走进一个沒有中国留学生的医专,王立才告訴魯迅、仙台医学专門学校地处偏僻,无一中国留学生,魯迅便决定去仙台。」(註2)

時代柄を反映して、魯迅が富士山と呼ばれたのは、爆発寸前の革命的闘争精神のエネルギーを宿していたからだと説明されているが、恐らくはそうではあるまい。なにしろ魯迅の文章を読んでいる内、ちゃんちゃらおかしくって「飯を噴き出しちゃった(不忍噴飯)」のである。「富士山」の「渾名」に、侮蔑のニュアンスがこめられていたであろうことは、魯迅が作品中で書いていることであるし、のちのちに至っても「富士山」が侮蔑的なニックネームであったことについては、前述した通り、孫伯醇による証言がある。
こうした文脈で改めて許寿裳の記述を見ると、「阿,壁壘一新!(あっ、きっぱりしたな)」という言葉の意味が、さらに明瞭に理解できる。魯迅は他の「清國留學生」に先駆けて自らの辮髪を切り落したのではない。むしろ周囲の留学生に先行されている。そして留学生仲間で「富士山」のニックネームで呼ばれていたのは、ほかならぬ魯迅であったわけなのだ。

ここで尾崎秀樹の指摘を再度思い起こそう。一人称単数の主人公によって物語られる作品「藤野先生」に「我(わたし)」として登場する人物は、作者魯迅本人からは独立した人物であり、かつ魯迅の体験が投影されている。そしてまた、魯迅その人が侮蔑する「清國留學生」にも魯迅その人が体現されているという、きわめて複雑な構造になっていることが、辮髪と「富士山」の事実からも明らかとなる。従来『藤野先生』の中で語られる事柄について「虚構」あるいは「神話」として議論されもし、解釈されてもきた背景には、作者からの作品の独立性が無視されていること、さらには作品世界の構造がきわめてナイーブにしか理解してこなかったことを考えなければならない。井上ひさしが作家としての直感で理解したとおり、魯迅は自らの日記すら清書改作していたと思われる節があり(註3)、魯迅が生涯をつらぬいての文学者であったという事実は、きわめて重い意味を持つ。

なお、桜や富士山が作品中の中に登場するのも、それらの現実の姿としてだけの目的ではなく、それらが、ほかならぬ日本の象徴という概念上の意味においてであろう。とくに富士山の語が本作品以外には、魯迅の著作内に一度も登場しないことは注意しておく必要があるだろう。

魯迅が「櫻花」をこよなく愛していたことは、厲綏之の回想中に見える。もっともバラ科植物の生殖器官としての「桜花」ではなく、彼が1日に50本は吸っていたというタバコの「櫻花」であるのだが。

「先生的生活很朴素,这3元另用錢,他只买些香烟和另食。买不起高貴的“敷島”牌,他就抽“櫻花”牌,那是一种劳动人民普遍吸用廉价香烟,譯音叫“杀苦辣”。他喜欢吃鸡蛋方糕及落花生,常放在抽屜里,随时取食充飢。」(註4)

山桜(20本)明37.7.1~明40.3.31『日本のたばこデザイン』より

山桜(20本)明37.7.1~明40.3.31『日本のたばこデザイン』より

政府は1904年7月1日、タバコ製造を専売とし(註5)、これに伴い専売局を煙草専売局に改組している。敷島については、寺田寅彦が「官製煙草が出來るやうになつたときの記憶は全く空白である。併し西洋で二年半暮して歸りに、シヤトルで日本郵船丹波丸に乗つて久し振りに吸つた敷島が恐ろしく紙臭くて、どうしてもこれが煙草とは思はれなかったその時の不思議な氣持だけは忘れることが出來ない。併しそれも一日經つたらすぐ馴れてしまつて日本人の吸ふ敷島の味を完全に取り戻すことが出來た。」と書いている。(註6)
「櫻花」(杀苦辣)というのは、1904年6月29日発売の最初の官製タバコである敷島、大和、朝日、山桜(以上口付)、スター、チェリー、リリー(以上両切)のうちの「山桜」もしくは「チェリー」である。
「明治37年4月1日に「煙草専売法」が公布されました。直ちに煙草専売人20万人を指定し、7月1日から煙草の専売が実施されました。官製の口付紙巻き煙草の値段は「敷島」8錢、「大和」7錢、「朝日」6錢、「山桜」5錢と、従来の民間煙草よりも高く設定されました。専売品はそれまで販売されていた民間煙草よりも値段が高い上に味が悪いと不評でした。
 これら煙草の名称は江戸時代の国学者・本居宣長の和歌「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」からとられました。」(註7)

タバコの専売は、日露戦争の戦費を調達する必要に迫られていたための財政措置である。
なお、上の記事にないタバコの価格は、スター7銭、チェリー6銭、リリー5銭となっており、口付は1箱20本入、両切は1箱10本入だった。魯迅の愛飲していたタバコは、「劳动人民普遍吸用廉价香烟」ということから口付たばこの「山桜」であった可能性がある。また、やや遅れて口付タバコ「カメリヤ」が発売されるが、これも20本入5銭だった。
口付たばこの「4種の中では一番高価な製品だった「敷島」には、千葉商店から発売され評判の高かった「菊世界」の包装である10本を1列に並べ、2段に積み上げたパッケージが採用され、意匠には和歌山県の“和歌の浦”の風景とともに、民営時代にも人気の高かった松の木が描かれました。また「大和」、「朝日」、「山桜」には、5本4段積みの角型包装を採用。すべての意匠において民営時代に一番人気の高かった“桜”がモチーフになっています。」(註8)

なお、口付タバコであるが、「通称「ロシア」巻きと言われるこのスタイルは、19世紀半ばから続く紙巻きの形で、ロシアを中心にドイツ、北欧で製造されていた。ロシア式はたばこより吸い口の長さが長く、ドイツ式はその逆。ロシア式の吸い口が長いのは一説によると、寒い冬に厚手の手袋をしたままでもその手袋を焦がさずに喫煙するためと言われている。」(註9)日本での口付タバコは、1976年12月に生産中止された「朝日」が最後の製品で、覚えている人も少なくないだろう。

チェリー(10本)明40.10.1~大4.3.31『日本のたばこデザイン』より

チェリー(10本)明40.10.1~大4.3.31『日本のたばこデザイン』より

これら日本における専売事業最初の製品であった「チェリー」は、東日本大震災でたばこ製造工場が被害を受けた時に生産が中止され、以後廃番となった。宮崎駿の『風立ちぬ』では、主人公の堀越次郎に「チェリー」を喫わせているのだが(註10)、これは、宮崎駿の愛飲していたタバコの銘柄が「チェリー」だったという事情があるという。「朝日」と「チェリー」の廃番により、最初期の官製タバコの銘柄は全滅したことになる。これもまた、東日本大震災によって引き起こされた事象である。宮崎駿もやむなく「メビウス」というタバコを吸っているとも聞く。

ただし、周作人によれば、

「他早上起得很遲,特別是在中越館的時期,那時最是自由無拘束。大抵在十時以後,醒後伏在枕上先吸一兩枝香煙,那是名叫『敷島』的,只有半段,所以兩枝也只是抵一枝罷了。」(註11)
(日本語訳)
「彼は朝起きるのが非常に遲く、特に中越館に下宿していた時期は、一番自由で無拘束だつた。大抵、十時過ぎに眼を醒ましてから腹ばいのままで、先ず煙草を一、二本吸つた。煙草は「敷島」といつて、口附きだつたから、二本が兩切の一本分にしか相當しなかつた。」(註12)

とあり、東竹町にあった中越館にいた頃の魯迅は、「高貴的」なタバコである「敷島」を吸っていたらしい。

敷島(20本)明40.10.1~大7.10.20『日本のたばこデザイン』より

敷島(20本)明40.10.1~大7.10.20『日本のたばこデザイン』より

さらに遡る仙台時代には、「リリー」を吸っていたことが証言されている。

「彼は煙草が非常に嗜きらしく両切りのリリーを暇さへあればスパ〱と喫つてゐた。「いかがですか」とよくポケツトから出してくれたものでした。」(註13)

「●タバコ
――先生はタバコは。
「いやみな吸いましたよ。あの時分は。ほとんど吸わない人はなかったですね」
――魯迅はリリイというのを吸っていたそうですが。
「そうですな、リリイ、バットってのがたくさんありまして、バットは今でもあるんじゃないですかね」
――ええ、あります。
「あれは昔からあったことを覚えてるね」
――学生でもキセルで吸う人もいたのでは。
「ええ、ありました。坂下(明治三八年に出征した同級生。年を取っているのでお父さんと言われた)、あのお父さんは始終キセル出してやっておったけど。しかし、ほとんどがバットだったな、あの時は」
――敷島は。
「ええ、敷島はもうでてましたな、あのあたりは」」(註14)

魯迅のタバコの変遷は、その当時当時の魯迅の懐具合のよく分かるバロメータのように思えると同時に、いつの時代にも、大学などには「お父さん」と呼ばれるクラスメートがいるものだなあとつくづく思う。

リリー明37.1.1~明38.4.15『日本のたばこデザイン』より

リリー明37.1.1~明38.4.15『日本のたばこデザイン』より

中国で魯迅の吸っていたタバコは、北京時代に「紅錫包(Ruby Queen)」。上海で一番好きだったのは、やや高価な「黒猫牌(Craven”A”)」だが、節約して「品海牌(Pin Head)」を吸っていたといい(註15)、郁達夫によれば、北京時代に「哈徳門(HATAMEN)」なども吸っていたという。(註16)上海時代に魯迅に面会した小川環樹によれば「老刀牌(Pirate)」ともいう。(註17)、妻朱安も銀の水タバコで喫煙していたといい(註18)、周兄弟の母魯瑞も愛煙家で、「僕【周豊一】はよく十本入の大前門(ダアチエンメン)というタバコを十箱詰なのを買って祖母に上げた。そして「お前またタバコかい」と祖母はいう。「大媽(ドーモと紹興語では発音するが伯母の意味で朱安をいう)に二箱持って行きな」とか。」(註19)という記録も残っている。さらに魯迅の祖母も愛煙家であったらしく、先祖伝来、家族ぐるみのヘビースモーカーなのである。

また、1905年の春休み、魯迅が仙台在学時代に一時東京に戻っていた時、許寿裳に誘われて箱根の温泉に行く。

「一九〇五年春,我在高等師範學校讀完了豫科,趁這櫻花假期,便和錢均夫二人同往箱根溫泉,打算小住十天,做點譯書的工作。路上偏遇到大雨,瀑布高高地飛着,雲被忽然來裹住了,景色實在出奇。所以我住下旅館,就寫了好幾張明信片,寄給東京的友人何燮侯、許緘夫、陳公孟、魯迅等――魯迅在春假中,也來東京,和我同住,不過他學校的假期短,須早囘仙臺去――報告寓址和冒雨旅行的所見。隔了一、二日,收到友人的囘片,或稱我們韵人韵事,或羨我們飽享眼福,我看了不以爲意。後來,公孟忽然到了,魯迅也跟着來了。我自然不以爲奇。大家忻然圍坐談天,直到夜半。第二天結班登山,游『蘆之湖』,路上還有冰雪的殘塊,終於爬到山頂。這個湖是有名的囱口湖――我譯火山爲地囱口――眞是天開圖畫,風景清麗絶了。一排的旅館臨湖建築着,我們坐在陽臺上,只見四山環抱這個大湖,正面形成一個缺口,恰好有『白扇倒懸東海天』的『富士山』遠遠地來補滿。各人既了,坐對『富士』,喝啤酒,吃西餐,其中炸魚的味道最鮮美,各人都吃了份。眞的,一直到現在,我實在再沒有吃到這里似的好魚。興盡下山,大家認爲滿意,不虚此行。」(註20)
(私訳)
「1905年の春、私は高等師範学校の予科を終えたので、せっかくのこの桜の花の咲くお休みなので、すぐさま銭均夫と2人で箱根温泉に出かけ、10日ほど滞在し、ちょっと翻訳の仕事をすることにした。行きがけは折あしく大雨に出っくわし、滝川は高々と飛び、雲に忽然とおしつつまれつくし、風景はまことに特別なものであった。私は旅館に入って、すぐに幾枚ものはがきを書き、東京の友人である何燮侯、許緘夫、陳公孟、魯迅等に送り、(魯迅は春休み中で、東京に来ており、私といっしょの部屋で過ごしているのだが、ただ彼の学校の休暇は短いため、早く仙台に帰る必要があった)居所と雨をついた旅行で見たことを報告した。1、2日たって、友人の返事を受けとったが、1人はわれわれのことを粋人の酔狂といい、1人はわれわれが眼福を心ゆくまで受けたことを羨むものの、私には気に留めていないように思われた。その後で、公孟が忽然とやって来て、魯迅もまた引き続いて来た。私は当然のこととして不思議には思わなかった。みんな喜んで坐を囲んで閑談し、夜中に及んだ。2日目にはグループを作って登山、「芦ノ湖」に遊ぶこととし、道にはまだ氷雪が残っていたが、ついに山頂に到達。この湖は有名な窓口湖(カルデラ湖)で、(私は火山が地表に作った窓口と訳した)まさに天然の絵画であり、風景の美しいことこの上ない。湖畔には一列に並んだ旅館が建っており、われわれはベランダ(陽臺)の上で、四方を山に取り囲まれた大きな湖を見るばかりであったが、正面に一箇所の切欠けがあり、ちょうどうまく「白扇倒懸東海天」の「富士山」が遠くに完璧に見えた。みんな同時に「富士」に対座し、ビールを飲み、西洋料理を食べたが、中でも魚のフライがとても新鮮でおいしかったので、各自みなそれぞれの分を食べつくした。ほんとうに、今に至るまで私はあのようなおいしい魚を食べたことがない。興を尽して下山、みんな満足し、無駄足でなかったことを感じた。」

箱根芦の湖ヨリ松坂ホテルヲ望ム

箱根芦の湖ヨリ松坂ホテルヲ望ム

彼らが芦ノ湖に到着、投宿した旅館から見たものは、芦ノ湖の向こう側、正面に鎮座した富士山である。彼らは、富士山を眺めながらビールを飲み、「白扇倒懸東海天」という石川丈山の詩の一節を思い出している。江戸期日本のローカルな詩人である石川丈山の詩が、当時の清国留学生にどのように受け止められていたのか。明確な答えはないが、明末の文化潮流に大きな影響を受けた幕初の詩人に対し、救国の志に燃える留学生の思いが感じられるようにも思う。許寿裳は、この時に食べた魚のフライが今までで一番おいしかったという。芦ノ湖といえば、ニジマスが有名であるが、芦ノ湖には1900年に初めて放流されたものである。なお、田中阿歌麿によれば、サケ、マスの養殖事業は次のようなものであった。

「明治十三年に内務省勸農局が、箱根町の澤入と言ふ處に、鮭鱒人工孵化場を作られまして、孵化放流の事業を行ふたのが初めて、二十年に御料地に組込れたので、御料局でも、日光山中宮祠湖や、琵琶湖より、卵子を取り寄せて、孵化放流したことがあります。それから二十九年前より、漁業組合で、經營することになつたが、充分な結果は見なかつたのである。然るに、二三年前から、帝室林野管理局の事業として、稍〻完全なる方法で、比較的大規模に經營せらることゝなつたのである。今では鱒類の産卵期たる九・十・十一ノ三ヶ月は、水面の一部を限り禁漁せられたるも、一般に鱒類の釣獲を許され、遊漁者は釣魚料を納め、舟艇釣具さへも借用して一日の清遊を試みることが出來る樣になつたのである。」(註21)

また、芦ノ湖のブラックバスは、赤星鉄馬によって1925年に日本で初めて放流されている。(註22)許寿裳や魯迅が食べたのは、このニジマスであっただろうか。富士箱根は、今日でも中国からの観光旅行者にとって鉄板ルートである。

さらに、この一文を読むと、当時の「交通手段(Verkehrsweise)」のことがよく分かる。まず郵便事情であるが、箱根から東京へ出した手紙への返信の葉書が2、3日後には到着している。現在の郵便事情に比べても異常に早い返着である。ほぼ電子メールの交換に等しいといってよい。1901年には、火事に強いという理由で鉄製の赤色丸型ポストが考案され、「赤くて丸い」ポストの時代が始まっており(註23)、また、「明治5年に新橋・横浜間に鉄道が通じると郵便物をこれに乗せ,以後各地における鉄道の開通に伴い逐次郵便の鉄道輸送が拡大されていった。25年【1992年】には列車の中で郵便物の区分けも行われるようになった。」(註24)したがって、鉄道路線の便のよい地域では、格段のスピードで配達されていたのである。

箱根山總地圖

箱根山總地圖

交通機関については、官有鉄道線(現・東海道本線)は、国府津駅から御殿場を経由して沼津へ向かうルート(現・御殿場線)を通っていたが、国府津駅から小田原までは豆相人車鉄道が運行していたし、また、国府津駅から湯本駅(箱根湯本)までは、馬車鉄道から転換した小田原電気鉄道が1900年に開通しており、日中はほぼ毎時の運転であった。現在のローカル線と比較したとき、この運行ダイヤは驚愕すべきものである。動力源が石炭の燃焼から、電気に変わった影響とみてよいだろう。
電源に用いられた水力発電の特性から、安定的な発電と送電が続けられるかぎり、頻時の運行は、むしろ利益をもたらすものであったに違いない。日本における電車の始まりは、1890年5月4日、第3回内国勧業博覧会において、東京電燈株式会社が上野公園両大師前から摺鉢山の間に、藤岡市助がアメリカから持ち帰ったスプレーグ・システムによる路面電車2両によるデモ運転であり、公共交通における商用運転としては、1895年2月1日に日本で初めて京都電気鉄道が開業したのが最初である。小田原電気鉄道は、京都電気鉄道、名古屋電気鉄道、大師電気鉄道に続く日本で4番目の電気鉄道路線である。小田原電気鉄道の国府津-小田原間はほぼ平坦な路線であるが、小田原-湯本間の直線の最大斜度は40‰、これをループで回避しながらの運行となっていた。しかし、その後に建設された湯本-強羅間は平均斜度35‰、最急勾配は80‰であり、粘着方式による鉄道路線としては世界2位、国内では最も急勾配の登山鉄道となっている。主にスイスの技術に学んで、1919年に開通する。(註25)

登山線の開通していなかった1905年、許寿裳、魯迅らは、文中に見る通り、箱根(おそらく湯本、あるいは塔ノ沢)から芦ノ湖までは徒歩で登っている。

「東海道鉄道建設以前には,地元住民福住正兄らは,明治8年に,小田原(板橋)-湯本(山崎)問(約4キロ)に人力車,馬車の通行可能な有料道を開鑿し,東京,横浜から外国人をふくむ観光客の来箱を促進した。さらに明始10年に,湯本三枚橋一塔之沢間の車道が整備された。こうした道路整備は,従来の徒歩,駕篭,馬背に代わって,駕雛(チェアーと呼ばれた),人力車、馬車による箱根山へのアクセスを可能にし,高い運賃を支払う外国人,金持ち日本人を箱根に呼び寄せる人きな役割を果たした。
明治19【1886】年に,地元住民の出資により早川沿の湯本-塔之沢間の新道建設がおこなわれた。さらに明治20【1887】年に、塔之沢-宮ノ下間の新道の開通,同じく湯本-塔之沢間の新道の拡幅が完了した。こうした箱根の道路開発は,東海道線の国府津駅開設以前に,東京,横浜の外国人観光客を誘致する地元民の開発努力として注目に値する。明治22【1889】年に山口仙之助による宮ノ下-宮城野間の車道整備,明治24【1891】年に東京の酒問屋山脇善助による宮城野-強羅-早雲山の道路開鑿がなされた。山脇は,強羅一帯の土地を買収し,明治45【1912】年から別荘地を分譲販売している。 明治31【1898】年には,地元住民による宮ノ下-芦之湯-芦ノ湖畔間の道路の建設がはじめられ,この道路建設は,明治33年に,神奈川県知事周布公平により推進され,苦節の末,明治37【1904】年に完成した」(註26)

第百三十二国立銀行と平松銀行を個人所有していた平松甚四郎は、ハイリスクの観光開発を選好、箱根塔の沢の地所を買得して平松別荘を建設する。さらに奥地の秘境・強羅のリゾート開発をめざし、当時としては破天荒な大規模不動産投資を敢行している。1888年3月1日、強羅一帯の宮城野村の所有地約88町を底倉温泉梅屋の鈴木牧太郎が買収、さらに土地は平松銀行に転売される。平松甚四郎は早雲山噴煙口から上強羅の早雲館まで自然湧泉を引湯するが、これが最初の強羅温泉開発といわれている。この背景には、1886年の東京でのコレラの流行がある。コレラの蔓延する都会を避けて、山上への避難が提案されたという。明治版『デカメロン』構想である。第百三十二国立銀行と平松銀行の破綻後、当該土地は、1891 年末京橋で酒問屋を営んでいた山脇善助、1894年旅館早雲館を開業した指ヶ谷町の不動産業香川泰一を経て、建築家の清水仁三郎が香川の銀行借入を肩代わり、1907年1月31日約20万円で合計22名の投資家集団が共同で購入、最後に1911年、小田原電気鉄道が用地を買収している。(註27)

このようにして箱根の観光開発が着々と進む中、芦ノ湖畔に外国人向けに西洋式のホテルが開業する。まずは、「箱根ホテル」。商号は「はふや」、三景楼と称した。『富士屋ホテル八十年史』によれば、「箱根ホテルは古い歷史をもち、明治初年の外人旅行記にも常にその名の出るホテルである。」(註28)

次に紹介するのは、1894年の広告である。松井鐙三郎の『函山誌 一名箱根土産』というガイドブックに収載されているものである。

「箱根 三景樓 はふや 勝又哲三
弊家儀富嶽芦湖の勝景は勿論雪月花の眺望絶美故に三景樓と稱す實に日本第一の風景なり殊に三伏の夏も炎熱を知らす啻に避暑の便のみならす先年洋人某地候の善良なるを發見してより遠近の病客來りて治を得る者數ふるに遑あらす就中脚氣の如きは其功恰も神の如し爲に患者の登山は日に増月に加はり内外の來客は年々群集せり隨て拙家も益繁昌仕候に付尚一層勉強し百事御便利を旨とし精々注意仕候間御來遊の諸彦不相變御來駕被成下度伏而奉懇願候尚御滯在の諸君は前以て郵便にて御報知を乞ふ
○和洋料理御好次第調進仕候也
              三景樓 主人敬白」(註29)

同年のガイドブック『箱根温泉案内』によれば、箱根町の様子は次のようなものであった。

「箱根町は元箱根村より凡八町。離宮の前を過ぎ古關の跡を經て此地に至る。昔時は人馬絡繹として織るが如く、東海道中繁昌を極めたる宿驛なりしが、今は大に衰へて唯古杉森々時を得顔にはびこるものヽ如し。されど風色は猶ほ昔時に異ならず、峰巒(ほうらん)を負(おふ)ひ、湖水を控へ、三伏の極暑と雖も凉氣肌を透し、曾て蚊帳を垂るヽことなし。故に内外人暑を此地に避け、或は月下に舟を泛べ、或は緑陰に釣を垂れ、或は權現に詣で、或は山野を跋渉し、日夕優遊するもの多し。唯天然の温泉なきを憾とするのみ。蓋し箱根山中の好避暑地なり。此地は往昔よりの宿驛なれば客舎甚だ多し。其中最も壯大清潔にして眺望に富むを土生屋哲三(はに【ふ】やてつざう)といふ。此家は湖涯に層樓を築き、幾多の風光を雙眸の中に蒐羅するを以て三景樓と號す。外人の出入あるゆえに西洋料理も調進せり。又湖水遊船及び姥子温泉への渡船あり。且諸古跡などの案内も望に應すれば、萬事に最も便なりとす」(註30)

1909年の様子も当時のガイドブック『大筥根山』から分かる。

「箱根町の旅館は箱根ホテル(はふや)、石内旅館(舊本陣)、遠州屋などである箱根ホテルの主人宍戸吉之輔氏は六年程前に前所有主から、今の所を買収して室内を改造し、食堂を設け、二階立の洋室をも増築したとのことで、洋室日本室を合せて三十五六室あるやうである、宍戸氏は湖畔に温泉のないのを遺憾とし浴湯を新陳代謝せしむる一種の風呂を設備して、恰も温泉に入るの想ひあらしめて居るが、尚一層完全ならしめんとて工風中といふことであつた、このホテルの裏は直ぐ湖水に臨んで居るので舟着場が設けられて至極便利であるそれにボートも二三隻設備してあるさうだ、眺望は湖水を隔てゝ三國峠の上方に富士山が聳えて居る、又た東北には塔ヶ島離宮を仰き望むことが出來る、僕の投宿した時は佛蘭西料理を硏究したコツクが居るといふので主人公大分御自慢であつた、」
「遠州屋な其の初め遠州から移住した人の家(うち)で、維新前(いつしんぜん)には此家の妻女は關所にて婦人の通行人を檢査する役を勤めたさうだ、近年は夏期上海から來る外人を客(かく)として居る、今の主人ば【は】箱根町外二ヶ村組合長を務めて居る松井鐙三郎氏であるが、氏は今より十五年前に『凾山誌』といふ本を出版した、」
「湖畔の箱根町と元箱根村に避暑客(ひしよかく)の來るのは七月中旬から九月中旬まで【ゞ】あるが上海香港邊から來る外人は箱根町の湖岸(こうがん)に沿ふて居る民家の建物を借りて自炊をやるものが多い、その借料は建物に依つて區別があるが、夏季中上等は二百五十圓位から下等五六十圓位まであるさうだ、」(註31)

次は、翌1910年のガイドブック『箱根』の記述。

「はふやは箱根ホテルといつて湖涯に層樓を築きて湖水の風景を雙眸の中に集めるやうに出來てをる。西洋人のこゝに避暑する者が多く、西洋風の設備も行届いてをるやうである。」(註32)

いま1つは「松坂ホテル」。商号を辻屋といい、嶽影楼と号した。現在も嶽影楼松坂屋旅館として存続している。以下はその公式サイトによる解説である。

「箱根・芦の湯 松坂屋本店主人、松坂万右衛門の次男である安藤好之輔が明治中期に開業した旅館です。
当初は洋館で、西洋式の「松坂ホテル」として営業、当館に残る外国人宿泊帳が示すように、ドイツやロシア、イギリスなどから外国人客が多く宿泊しました。
その後大正12年の関東大震災で被災したため、和風の「嶽影楼松坂屋旅館」として再建再開し、現在に至っています。」(註33)

また、松坂屋ホテルは、通称「富士見ホテル」と呼ばれており、「年ごとに増える外人客に力を得た萬右衛門は、明治三十三年芦ノ湖畔に進出、松坂屋支店、通称富士見ホテルと呼んだ洋風旅館を元箱根の西のはずれの逆さ富士の名所に開業、次男好之輔に経営を任せた。元箱根松坂屋の前身である。」という。(註34)他にも松坂屋ホテルを富士見ホテルと呼んだことを証明する新聞記事や絵葉書の実例が存在し、絵葉書によれば、「富士見ホテル別館」と呼ばれる建物もあったらしいが、これは関東大震災被災後の仮住まいの場所らしい。

上記記事には、1900年に開業とあるが、その前身は「辻屋」と呼ばれ、「嶽影樓」の雅号を持った旅館であったと思われる。松坂萬右衛門は、それを購入して西洋館を増設あるいは改築したものと思われる。「明治20年頃松坂ホテル」と題された大判の古写真によれば、母屋が萱葺の日本家屋であり、別館として西洋館が付属しているように見えるが、これは、芦之湯にあった鶴鳴館松坂屋本店の別館であるかもしれない。1894年の広告を掲げる。

「嶽影樓 つじや
   元箱根湖邊旅館廣告
弊樓より芙蓉の全峯を眺み芦湖の稍全面を望む諸嶽屛列し細波湲々たり離宮と相對し眸を放つて斜に森林の中を見れば遙に箱根神社々頭を看る眞に函山第一の風景なり且西洋料理及湖水魚料理等御好に依り調進仕候間不相替御愛顧奉冀候也
        元箱根村湖邊御休泊所
          辻 屋 生源寺かな 敬白」(註35)

これもまた同年のガイドブックを参照しよう。

「元箱根村 東海道より少しく西北に離れ蘆の湖の東岸にある一村なり。戸數凡そ四拾戸許。北に權現の森を控へ、西に湖水を隔てゝ塔ヶ島の離宮を望む。村中に數戸の旅店あり。皆茅檐陋屋なれども天然の美景甚だ愛玩すべし。且箱根の山上にあるが故に、暑中と雖も極めて涼しく、脚気(きやつけ)患者の避暑療養するもの許多なれども、未だ一の商家あらざるゆゑ、日用品に不便多し。權現の手前に橋本屋といふ客舎あり。温泉場より此地に遊ぶとき、休憩するによろし。又、辻屋は、此村の西外れにあり、湖水に臨みて樓を構へ、嶽獄樓(がくけいろう)と號す。樓上より不二の高峯湖上の鏡面に反映するの奇景を觀るを以て此樓名あり。」(註36)

箱根芦の湖畔松坂ホテル食堂ヨリ富士ヲ望ム

箱根芦の湖畔松坂ホテル食堂ヨリ富士ヲ望ム

「嶽獄樓」は「嶽影楼」の誤りである。

「脚気(かっけ)」は肺結核症と並ぶ国民病であったが、箱根町には私立脚気病院があった。時代を写す鑑として、その広告文も紹介する。

「○箱根町脚氣病院廣告
當病院は土地の高燥に基き設立し新鮮乾燥の空氣をして殊更に室内を流通し呼吸をして盛ならしめ自然患者を平癒せしむるは言を俟ず加ふるに療病の新法あり予明治廿一年度以來茲に七年【以上12文字圏点】其實効を察するに脚氣病【以上3文字圏点】而己【已】ならず呼吸器【以上3文字圏点】及血行器の疾病【以上6文字圏点】をして全癒【以上2文字圏点】せしめ結果の快樂なる毎歳貳期の衛生報告の虛しからざるは土地高燥の徳たりと信す該病患者諸君誤らず迅速來山【以上13文字圏点】治療を乞はれよ
              神奈川縣足柄下郡箱根町
               私立 脚氣病院
 入院料一日甲乙の二種あり
   甲金四拾錢
   乙金參拾五錢」(註37)

未だ脚気の本体がビタミン欠乏症と知られていない時代にあって、医師と患者による懸命の治療実践である。結核もまた化学療法の出現を前にしては、このような転地療法しか存在しなかった時代が長く続いた。しかし40年間にわたって新抗結核薬の登場のなかった現在においては、多剤耐性結核菌の出現という深刻な問題が生じており、かつ、今日でも結核患者数は決して減ったとはいえないというのが厳しい現状である。『デルティバ錠 50 mg に関する資料』による厚生労働省『平成22年結核登録者情報調査年報集計結果(概況)』のまとめによれば、「かつて「国民病」といわれた結核は戦後激減したが,1985 年以降その減少率は鈍化し,1997年に新規登録患者数,罹患率等が増加に転じ,1999 年には厚生大臣による「結核緊急事態宣言」が出された。現在,年間2 万人以上の新規結核患者の発病が報告されている。また,国内での結核による死亡者数は,年間2,000 人を超えている。」(註38)新薬開発の停滞には、土井教生氏の解説する通り、次のような事情があった。とりわけ日本における結核予防法の存在が却って創薬の阻害要因としても機能したことは記憶してよい。

「➀特定の抗菌薬が抗結核薬として指定を受けると薬価が切り下げられるため,製薬会社にとって抗結核薬の開発が大幅な収益向上に結びつき難い。また➁新抗結核薬は開発から認可まで最低10~15 年を要し,特に臨床治験は抗感染症薬としては長い年月を要するため,製薬会社にとって膨大な経費負担となる。➂結核の新薬の臨床治験では単剤による治験が人道上の理由で実施不可能なために「準単用の臨床治験」を組む以外に方法がなく,治験薬の評価が難しい。➃抗結核薬の長期間の治療投与で惹起され顕在化する諸種の副作用を回避する難しさ。これらの背景要因が重なり合い,結果として結核の新薬開発を低迷させている。」(註39)

細菌学者の冨岡治明氏によれば、現在の抗結核薬の開発状況は以下のとおりである。

「近年,結核菌に対する抗菌活性を有する数多くの新規抗菌薬が報告されてきているが,このうちで実際に臨床試験に供されているのは,diarylquinoline TMC207, nitroimidazopyran PA-824, nitroimidazooxazole OPC-67683, pyrrole LL3858,ethylene diamine SQ-109,oxazolidinone(linezolid, PNU-100480)などと依然として少数にすぎず,その前途は決して明るいものとは言えない。」(註40)

こうした中で、2014年、40年ぶりの新抗結核薬デラマニド(OPC-67683)が大塚製薬により創薬されている。(註41)朗報というべきであろう。

話は戻り、1909年のガイドブック『大筥根山』に書かれている松坂ホテルの記述を引用する。漢詩は試みに訓読した。

「元箱根村から湖邊に沿ふて西に行くこと四五町にして、湖岸に蘆の湯松坂屋の支店がある。この支店は洋館十三室日本館十二室を有し、外人も日本人も宿泊(しくはく)することが出來る。茲に誇るべき特色は樓上に坐して湖面に映出する倒富士(さかさふじ)を眺むることの出來る點である、」
「蘆の湖の倒富士は、之れ【天の橋立】に反し、日本第一の名山と云はるヽ富士山が頭を倒まにして湖中(こうちう)に落ち來るといふのであるからその日本第一の美觀たるはいふまでもない、唯それ日本第一の美觀であるから天公も流石に安賣りをせず、雨師風伯を役して、容易に此美觀の天幕を卸さしめぬのであらう、駄作あり、左に錄す、
      觀富嶽倒影
何來雲霧湧蓬蓬。   何んぞ雲霧来り 蓬蓬として湧き
旬日難看一碧空。   旬日 一碧空を看ること難し
天爲詞人拂雲霧。   天は人に詞を為し 雲霧を払ひ
芙蓉倒影落湖中。   芙蓉の倒影 湖中に落つ」(註42)

著者の井土経重は、明治初期の自由民権運動家でジャーナリスト。相馬中村藩士の子として生れ、秋月藩士井土家に養子となった。本書出版時の住所は「東京市下谷區中根岸町十二番地」であり(註43)、装画は中村不折が担当している。なお、『大筥根山』に付載されている「箱根國園論」で、塔ケ島離宮の開放と箱根の国立公園(國園)化を論じている中で次のように指摘する。

「湖畔何れの處にか、富士の美觀を望むに塔ケ島半島より善き處ある、この半島に裁斷されたる一方の湖岸即ち箱根町の裏手例へば箱根ホテルの如き、觀望可ならざるにあらず、然れども惜い哉、三國山の爲に遮ぎられて富士の半腹を奪はるるの恨みがある、是れ恰かも沼津邊から愛鷹山を隔てヽ富士を望むの憾なきを得ぬ、又他の一方の湖岸即ち松坂屋支店のある處は、倒富士を望むの適地としてあるが、茲地は箱根の舊道と水岸との間に於ける狭隘なる處、之を彼の塔ケ島半島にしてはいふにも足らぬ。」(註44)

1910年のガイドブック『箱根』の記述も掲げる。

「夏は避暑の客が來るので箱根町へ行く道には西洋造の松坂屋ホテル【6文字傍点】〔電話箱根二番〕あり村には橋本屋【3文字傍点】を始め、二三の旅舎がある。」(註45)

1911年の宿泊ガイド『増補改訂七版四四年度後期 旅館要録』によると、箱根ホテルの格付は「A」、宿料は4円以上、松坂ホテルの格付は「B」、宿料は1円以上となっている。(註46)
温泉宿組合は明治三十九年の宿泊料金等を「箱根温泉宿組合規程(明治三十九年一月)」第一八条に詳細に定めている。これを見ると、松坂屋ホテルは、最低ランクではないが、最高に高い宿というわけでもなかったらしい。

「第十八 物価席料及入浴料等ハ左ノ範囲ニ依ルモノトス但軍人行軍ノ節学校生徒運動会等ノ場合ニ於テ此範囲外ニテ宿泊セシメントスルトキハ其都度行事ニ届出ツルモノトス
一 宿 泊 料

特等  金弐円五拾銭以上  一等  金弐  円以上
二等  金壱円弐拾銭以上  三等  金八拾五銭以上
等外  金五 拾 銭以上

一 昼 食 料

特等  金壱   円以上  一等  金七拾五銭以上
二等  金五 拾 銭以上  三等  金参拾五銭以上
等外  金弐拾五銭以上

一 学校生徒多数ニ来リタルトキノ賄料ハ一日金四拾銭ヨリ金五拾五銭迄

食物ノ標準ハ夕飯魚及豆腐つゆノ類、朝飯汁及煑豆ノ類、昼ノ弁当ハ握飯ヘ煑しめノ類ヲ添へ竹ノ皮包トスル事
 但シ先方ノ求メナキトキハ茶菓子及ヒ浴衣ヲ差出サヽル事

一 料   理

壱品ニ付  金拾   銭以上
 但汁、煑豆、豆腐類ニ限リ本項ニ依ラサルコトヲ得

一 入 浴 料

普通壱人
 金五銭以上拾銭迄  別室貸切  金五拾銭以上弐円迄
   壱日ニ付

一 席   料

席ノ構造及大小ニ依ル

一 夜具料

木綿更紗ノ類
金拾銭以上弐拾銭迄 絹布壱組ニ付金参拾銭以上(但壱日分)
   壱組ニ付

一 飲料

内国製ビール(大金参拾銭ヨリ 金卅五銭マデ
         小金拾八銭ヨリ 金二拾銭マデ)
鉱泉類    (大金参拾銭ヨリ 金四拾銭マデ
         小金拾五銭ヨリ 金弐拾銭マデ)
日本酒    凡弐合入壱本 金拾八銭以上(但瓶詰酒ハ此限ニアラス)
牛乳      壱合 金六銭
ラムネ    (並製 壱本 金六 銭ヨリ
         特製 壱本 金拾五銭ヨリ)

一 近郷農家浴客ニシテ一室ニ数人同宿スルモノニ限リ左ノ規定ニ依ルコトヲ得

温泉料、席料、炭油料、焚出料共壱日壱人金拾五銭ヨリ弐拾銭迄
夜具壱組金四銭以上 蒲団壱枚ニ付金弐銭以上
食物壱品ニ付金弐銭以上
駿東郡地方ノ浴客ニ対シテハ玄米壱升以上ヲ以テ温泉料、席料、炭油料、焚出料(巳上壱日分)ニ代用スルコトヲ得
 但駿東郡ノ外ハ米ヲ代用セシムルコトヲ得ス
夜具料壱組ニ付金四銭以上蒲団壱枚弐銭以上」(註47)

さて、許寿裳、魯迅の一行が食事をした旅館とはどこだったのか。当時、芦ノ湖畔にあり、西洋式の食事を提供する洋式ホテルとしては、前述の箱根ホテル(はふや)と松坂ホテル(嶽影楼)が知られるだけである。許寿裳の文中にベランダとあるが、当時の松坂ホテルの写真を見ると、レストランの少なくとも2方向がガラス窓で開放可能になっており、室内であるもののベランダ環境といえる。また、松坂ホテルが旧街道出口に立地しているのも推測を有利にする。そして、芦ノ湖を取り囲む連山の切欠け部分から富士山が見えるロケーションとしては、松坂ホテルの食堂以外にはないだろうと思われる。現・松坂屋旅館には、当時の外国人宿帳が保管されているが、残念ながら現物に当ることはできなかった。しかし、許寿裳の記録からすると、投宿の可能性は薄いように思われる。

康有為「行書七言絶句二首『再遊箱根山頂芦之湖望富士山』」嶽影楼松坂屋旅館蔵『箱根を訪れた文人墨客展』図録より転載

康有為「行書七言絶句二首『再遊箱根山頂芦之湖望富士山』」嶽影楼松坂屋旅館蔵『箱根を訪れた文人墨客展』図録より転載

嶽影楼松坂屋旅館には、投宿した康有為の詩軸が残されている。無題であるが、『康南海詩集補遺』(註48)に付された題を付して掲げる。翻字に当っては、田中東竹氏の釈文(註49)、平野和彦氏の読解(註50)を参照し、私に訓読文を付した。

「(再遊箱根山頂蘆之湖望富士山)
湖水澄清似舊時   湖水は澄清にして 旧時に似
碧山廻合碧漣漪   碧き山は廻(めぐ)り 碧き漣漪に合す
萬松塔島離宮路   万松 塔島離宮の路
嶽影樓頭又酒巵   嶽影楼頭に 又た酒の巵(さかづき)

富士雲開見碧鬟   富士 雲開き 碧鬟は見え
昔年白首倒波間   昔年の白首は 波間に倒(さか)しまにす
而今富士翻年少   而して今 富士は翻(かへ)って年少(わか)く
舊客重来白髪斑   旧客は重ねて来るも 白髪は斑らなり

光緒戊戌九月以政變東遊日本十月遊蘆之湖飲于嶽影樓富士雪頂倒影波間光景奇絶把酒不忍去今十四年再到三周地球五居瑞士又複重飲嶽影樓則辛亥八月也富士未雪雲冥祝開之感賦二詩 康有為。

光緒戊戌九月【1898年】、政変を以て日本に東遊す。十月芦之湖に遊び、嶽影樓に飲む。富士の雪頂、倒しまの影は波間にあり、光景奇絶にして、酒を把り去るに忍びず。今十四年再び到り、三たび地球を周り、五たび瑞士【スイス】に居し、又た復(かへ)り重ねて嶽影樓に飲む、則ち辛亥八月【1911年】也。富士未だ雪せず雲は冥(かす)かなり。之れ開くを祝ひ感じて二詩を賦す。康有為」(註51)

1898年の戊戌政変で政権を追われ、宮崎滔天の援助で清国を脱出した康有為は、有力者たちとの交わりを結び、箱根を訪れ、芦ノ湖に遊んでいる。翌年、康有為は日本を追放され、出国。シンガポールを皮切りにペナン、インド、ヨーロッパ諸国を放浪し、1911年再度日本に来訪。再び箱根芦ノ湖からの富士山に出会った時の詩作である。孫文による国民革命は清朝打倒に突き進む中、康有為は儒教精神による君臣関係の維持と皇帝復権の合体である立憲君主制を目指していた。詩を詠んだのは旧暦の8月、武昌において辛亥革命ののろしが上がった、まさにその月である。自分は年を取り、白髪混じりになり、社会の動きに取り残されていく中、富士山は年々若くなっているとの感慨である。中国版浦島太郎のつぶやきと言ってはいいすぎだろうか。康有為は、1917年、第一次世界大戦への参戦を巡る政治的混乱の中、張勲により廃帝愛新覚羅溥儀(ᠠᡳᠰᡳᠨ ᡤᡳᠣᡵ ᡦᡠ ᡳ)を担ぎ出して清朝を復活させた復辟事件の時にイデオローグとなるが、わずか12日で政権は瓦解。以後、政治の表舞台に出ることはなかった。なお、康有為の4番目の妻は日本人の市岡鶴子である。

魯迅も合流し、箱根に10日間の日程で逗留していた許寿裳は、ここで翻訳のしごと(「譯書的工作」)を行なっている。留学生たちは魯迅も含め、旺盛な翻訳活動を行ない、雑誌や書籍を通して故国に新情報を伝える役割を担っていたし、留学体験を通じて蓄積された知見は、留学指南のノウハウ本や啓蒙書等にまとめられている。

同じように旅館にカンヅメになって執筆活動をした中国人は他にも例がある。後述する梁啓超と羅普のコンビもそうであるし、春柳社に参加した李文権(濤痕)は、先に登場した底倉温泉の梅屋に逗留している。李文権の伝記的事実は既に見たところだが、最近、李文権の滞在の折に梅屋主人に与えたと見られる戯詩が現存していることが分かった。『中國實業雜誌』の原稿用紙に書かれているので、1912年から帰国する1917年までの間であり、内容から、おそらく1914年から翌年はじめにかけての冬のことである。

李濤痕七言絶句

李濤痕七言絶句

「(題名なし、口占)
底事人間厭太平       底事(なにごと)ぞ 人間の太平を厭ひ
倉皇戎馬又成行       倉皇(あわただ)しく 戎馬 又た成行す
梅花落後江城暖       梅花落ちて後 江城暖かく
屋角疑聞寒角聲       屋角に疑ひ聞く 寒の角聲
 歐釁開矣余重來      歐の釁(ちまつり)は開き 余 重ねて来たる
 底倉梅屋口占以贈     底倉の梅屋に 口占【草稿】を以て贈る
老主人
      李文權」(註52)

「梅花落後江城暖」 梅の花が落ちれば、東京もまた暖かくなるだろう、という意味。
「歐釁」「釁」は『説文解字』に「血祭也」とあり、欧州における「釁」が開いたということで、第一次世界大戦の開始を意味している。秋瑾の詩に「狡俄陰鷙大無信,盟約未寒莽尋釁。」(狡俄は陰鷙(いんし)大(はなは)だ信無し、盟約未だ寒(さ)めずして莽(みだ)りに釁(ちまつり)を尋(たず)ぬ)云々とある。(註53)「俄」はロシアである。
「戎馬」「角聲」は戦争にかんする表現。
「成行」は、行列を作る意。
「老主人」は尊称で、必ずしも年寄りということではなかろう。

雑誌の原稿でもあるのか、全体として戦争のことを描写して殺伐としている。プレゼントにしては血腥いこと、この上ない。しかしながら1文字目をたどると、贈呈者に向けた素敵な贈りものになっていることが分かるだろう。中国の文人ってのはすごいなあ、というのが率直な感想である。

さらに1920年、著名な教育者の黄炎培が箱根を訪問している。黄炎培は、のちに中国民主同盟および中国民主建国会を組織、新中国政府の要職を歴任することになる。この訪問記には、やや時代が下がるものの、東京から箱根への行程が詳細に記載されている。同時に、この間の交通機関の進歩がよく分かる。箱根フリーパスのモデルコースがこの時点でほぼ完成、東京からの日帰り旅行を達成している。漢詩のみ訓読を付す。

「四月十二日,結伴六人遊箱根.早起從神田水道橋坐電車,至東京驛,換坐火車.同車大羣男女,化裝,帶酒載歌歡舞笑謔,過他們浪漫的生活,這就是工人旅行團.
車行一時半,至小田原驛,換坐上山電車,至湯本.到山脚了,從碧緑的樹陰裏,換車上山,穿過山洞八九個・峯廻路轉,纔前行,忽又折回,有時攀山㘭而上,有時摩山腹而過,車窗左右,濃緑蔽虧.到小涌谷,天微雨,換坐公共汽車,二十人爲一車,賣票女報告遊程,語音清脆柔和,如枝頭好鳥,絶可愛.車從可愛的聲浪中,達于湖濱箱根町.飯後,下汽船,雖沒有雨,而四山雲氣,籠𦋐【U+262D0】全湖,近處山容還看不見,何況富士山.渡至湖的那一頭,名湖之尻.山岸,得一村落.内子糾思原擬坐轎,不料沒有;乃一齊鼓勇步行上山.山徑還不很難走,大都穿森林而過.計行一時三刻,到大涌谷,俗称大地獄.很大的火山口在旁邊,發聲像煮粥作沸,投鷄卵下去,數分鐘即熟可食.食畢,再前行,路很滑,又陡又窄.很深的火山口就在脚下,途徑又幾不可辨,天陰欲雨,四山盡作暮色,在窮谷的中間,四顧無人,前走者前走了,只剰我倆夫婦,相依爲命.人到緊急的當兒,用不着勉勵,自會盡他平生的力量,一齊發揮出來:吾倆夫婦,居然鼓吾們最後的勇氣,一口氣跑到早雲山.一進旅館,纔慶出險阻,實亦沒有味道呀.
早雲山下來,就是強羅公園.有上下山電車道,和香港同式,而這裏較平.乃入原路,回東京已夜九時了.
    箱根謡:
   東京之西小田原,      東京の西 小田原
   飛車直上路百盤,      飛車 直ちに上り 路百盤にして
   出谷入谷白日昏,      谷を出で 谷に入り 白日昏く
   云是世界之箱根.      是を云ふ 世界の箱根と
   我來清明七日後,      我来る 清明七日の後
   微雨潤花復霑柳,      微雨 花潤ひ 復た柳霑ひ
   雲氣四合若覆缶,      雲気四合 若し缶覆へば
   車行班班徑絶陡.      車行 班班として 径は絶陡なり
   彼婦之口吾出走,      彼の婦の口を 吾 出走すれば
   吾與富士倶堂堂,      吾と富士 倶に堂堂として
   相對兩不辨誰某,      相対す 両に 誰某を弁ぜず、
   山靈毋乃呼負負?      山靈 乃ち負負【慚愧】と呼(さけ)ぶ毋(な)きや
   湯有本・湖有尻,       湯に本有り 湖に尻有り
   有光熊熊夜燭霄,      光有り 熊熊として夜霄(そら)を燭(て)らし
   如釜方沸魚慘炰.      釜の如く 方に魚は沸き慘(むご)く炰(や)かる
   吁嗟!西蠡雙携樂一舠,  吁嗟(ああ) 西蠡【ひさご】雙び携へ 一舠を樂しみ
   河山一統亦自豪,      河山一統 亦た自豪なり
   可憐劫火千年不可逃,   劫火憐む可し 千年逃ぐる可からず
   吾羨至主人不溺不焦!   吾羨み 主人に至る 溺れず焦げず」(註54)

汽車に乗ると「大羣男女」が「化裝,帶酒載歌歡舞笑謔」していた。前に見た美術学校生だけでなく、大人も大騒ぎしているのである。汽車に乗った嬉しさが見えるようではないか。

箱根町箱根ホテルの慘狀『大正震災志寫真帖』より

箱根町箱根ホテルの慘狀『大正震災志寫真帖』より

なお、李文権の滞在した梅屋は底倉温泉を代表する温泉宿であり、明治の大火、関東大震災による焼失、倒壊を乗り越えてきたが、1962年に閉館した。

また、箱根ホテルと松坂ホテルは、富士屋ホテルとタイアップ、箱根観光のホテル・ネットワークが形成されはじめている。

「從來滯在客の箱根廻遊に、晝食又は休憩の爲め立寄る場所は、箱根町の箱根ホテルと元箱根の松阪【坂】ホテルの兩者で、食事は切符制度とし、隔日に指定したのであつた。」
「然るに是等のホテルは依然舊態の儘で、近い將來大いに開發さるべき芦ノ湖畔の宿泊施設としては當然改善を加へなければならない。此の儘に放置すれば、遠からず何人か此の事業に手を下すべき事は火を見るよりも明かで、延ては之れが富士屋ホテルの有力な競爭者となることを察知した山口正造氏は、之れが捨石の意味で一大計畫を目論見たのである。即ち箱根、熱海、湯河原の旅館業者を勸説し、岩崎小彌太、團琢磨、池田成彬等の諸氏を始め、財界有力な名士を株主に網羅し、大正十一年野村洋三氏所有の箱根ホテル(はふや)を現狀の儘買收し、外に隣地を合せ資本金五拾萬圓の箱根ホテル株式會社を設立して、大正壱拾壱年六月十五日創立總會を開催した。」
「山口正造氏が社長に就任し、同年直ちに改築を策し、小田原町豊田爲次郎氏に請負はした。基礎コンクリート、木造四階建和洋兩樣の客室並に大食堂等總延坪五百三十坪の建築に著手し、十二月一日上棟式を行ひ、九ヶ月の日子を費し、總工費、備品費共金貳拾壹萬參千圓を投じて完成し、同時に舊館一棟壹百六坪を改築し、大正十二年六月十五日開業した。營業の成績は實に順調で八月中滯在内外客一五七一名、食事客數、内外合せて一五五八名を得、東伏見宮妃殿下及び久邇宮朝融王殿下には、前後數回御來館になつた。八月だけの收入でも金貳萬參千餘圓に達し、前途大いに光明を認めたのであるが、」(註55)

しかし、前途洋々とした新生箱根ホテルが直面したのは、関東大震災であった。1923年9月1日11時58分32秒、箱根を襲ったのは、当時の震度設定の上限を超える震度7(推定)の激震である。(註56)これにより建物の殆どが全倒壊。来客のうち、死者4名、重傷者1名という犠牲者が出る。開業後わずかに2ヶ月半後の出来事であった。(註57)

また、松坂ホテルについては、「本凾根は約六割の倒壞で、富士見ホテルは全壞して半ば湖水中に沈沒し、觀光亭も全潰した」と記録にある。(註58)そして「大正12年の関東大震災で被災したため、和風の「嶽影楼松坂屋旅館」として再建再開し、現在に至ってい」るという。(註59)立地も以前の場所から箱根神社側に移動している。元の松坂ホテル跡地には、2006年までユニマットの箱根芦ノ湖美術館が存在していたが、現在では廃屋となっている。また、関東大震災後に内務省社会局の編纂した『大正震災志寫眞帖』に収載された箱根町箱根ホテルの写真は、背景の山並みを見ると箱根ホテルではなく、がれきに残る倒壊した建物の形状を考えあわせると、元箱根村松坂ホテル(嶽影楼)であることは疑いない。(註60)大震災の余波で内務省の業務も混乱したのだろう。そして、この時、魯迅や許寿裳が望んだ松坂ホテルのレストランからの富士山の眺望も失われてしまったのだ。富士山そのものは泰然として存在しつづけたとしても。

2015年4月29日松坂ホテル旧地からの富士山

2015年4月29日松坂ホテル旧地からの富士山

※ 本稿作成にあたり、嶽影楼松坂屋旅館の大女将の安藤萬喜様ほか皆さまに、資料の提供をはじめ、多大なご協力をいただくとともに、写真図版転載のご許可をいただきました。記して御礼を申し述べます。

※ 2015年6月29日、許寿裳の証言の中、「何燮侯」の文字の入力誤りを訂正しました。

※ 2015年8月19日、引用文中、原文の固有名詞を示す右傍線が再現できていなかったのを修正しました。本文章では、アンダーラインで表現しています。

 


 

註1 許壽裳「一 翦髮」『兦友魯迅印象記』人民文學出版社 1953
註2 沈瓞民「回亿魯迅早年在弘文学院的片断」『文匯報』1961年9月23日3面、簡体字、繁体字の別は可能な限り原文に従った
註3 井上ひさし「魯迅と日本人」1991年9月23日魯迅生誕110周年仙台記念祭での講演 『すばる』特大号 集英社 1992年1月
註4 厉绥之「五十年前的学友―鲁迅先生」『文匯報』1961年9月15日4面、簡体字、繁体字の別は可能な限り原文に従った
註5 煙草専売法(明治37年4月1日法律第14号)
註6 吉村冬彦(寺田寅彦の筆名)「喫煙四十年」『中央公論』第四拾九年八月號 中央公論社 1934年8月
註7 小田泰子「煙草の値段と紀元二千六百年」『小田眼科ニュース医心伝信』第243号 小田眼科医院 2010年4月
註8 「口付・両切たばこ」『たばこジャーナル』2009年10月 たばこワールドサイト
註9 「カズベック チューブ」解説
註10 宮崎駿 監督脚本『風立ちぬ』スタジオジブリ製作 東宝 2013
註11 周遐壽『魯迅的故家』上海出版公司 1953第2版、初版は1952
註12 周遐壽著 松枝茂夫 今村与志雄訳『魯迅の故家』筑摩書房 1955による
註13 飯野太郎「仙台医学専門学校時代の魯迅について」『艮陵』39号 東北帝国大学医学部艮陵会 1937年2月31日、仙台における魯迅の記録を調べる会編『仙台における魯迅の記録』平凡社 1978による
註14 「鈴木逸太氏訪問速記録 一、昭和四九年六月三〇日訪問」仙台における魯迅の記録を調べる会編『仙台における魯迅の記録』平凡社 1978
註15 許廣平「魯迅先生的香煙」『欣慰的紀念』人民文學出版社 1951、『魯迅研究資料叢書 欣慰的紀念』爾雅社 1978リプリント版による
註16 郁达夫『回忆鲁迅』
註17 小川環樹「留学の追憶―魯迅の印象その他」『颷風』第十八号 颷風の会 1985年2月28日
註18 周之迪(豊人)「朱安のこと」1983年7月28日『颷風』第十八号 颷風の会 1985年2月28日
註19 周之迪(豊一)「祖母のこと」1983年6月19日『颷風』第十八号 颷風の会 1985年2月28日
註20 許壽裳「五 仙臺學醫」『兦友魯迅印象記』人民文學出版社 1953、なお、『中央氣象臺月報 明治三十八年第三號 三月 全國氣象表』中央氣象臺 1906年3月28日、『中央氣象臺月報 明治三十八年第四號 四月 全國氣象表』中央氣象臺 1906年4月28日により、魯迅の在籍した仙台医学専門学校の春期休暇(4月1日からから4月7日)の前後を対照に、文中の天候に関する記述と当時の箱根の天候の推定結果を照合すると、許寿裳らが箱根に赴いたのは当該期間中唯一大雨の降った1905年4月1日、魯迅たちが箱根に来たのは4月3日、芦ノ湖に遊んだのは日中に晴れ間の見えた4月4日と考えられる。ただし、当時箱根に観測ポイントはなく、『中央氣象臺年報』からは近隣の測候所(横浜、沼津)の情報のみしかないため、推定にとどまらざるをえない
註21 田中阿歌麿「箱根の研究 二 蘆ノ湖」日本歷史地理學會編輯『箱根』三省堂書店 1910
註22 「芦ノ湖の魚たち」Bow’s Worldサイト、赤星鉄馬著 福原毅編『ブラックバッス』イーハトーヴ出版 1996
註23 「郵便ポストの移り変わり〜日本最初のポストから現在のポストまで〜」郵政博物館サイト
註24 「第一章 我が国における通信の歩み」『昭和48年版 通信白書』郵政省 1974
註25 青田孝『箱根の山に挑んだ鉄路 『天下の険』を越えた技』交通新聞社新書032 交通新聞社 2011
註26 村串仁三郎「富士箱根国立公園の形成(上)―自然保護と開発利用の確執を中心に―」『経済志林』第79巻第4号 法政大学 2003年3月5日
註27 「強羅の歴史強羅の夜明け」箱根強羅観光協会公式サイト、小川功「地勢難克服手段としての遊園・旅館による観光鉄道兼営―箱根松ケ岡遊園対星館の資料紹介を中心に―」『Atomi観光マネジメント学科紀要』創刊号 跡見学園女子大学 2011年3月、小川功「リゾート開発に狂奔した“投資銀行”のリスク増幅的行動 平松銀行頭取平松甚四郎のリスク選好を中心に」『彦根論叢』第390号 国立大学法人滋賀大学経済経営研究所 2011年12月28日、「“観光デザイナー”論─観光資本家における構想と妄想の峻別─」『跡見学園女子大学マネジメント学部紀要』第14 号 跡見学園女子大学2012 年9 月30 日
註28 『富士屋ホテル八十年史』富士屋ホテル株式会社山口堅吉 1958
註29 「広告」松井鐙三郎纂著『函山誌 一名箱根土産』遠州屋 1894、変体仮名は現行文字に変えた
註30 森田富太郎『箱根温泉案内』森田商店 1894、変体仮名は通行字体に変、ルビは整理し、句読点を私に追加した
註31 靈山仙史(井土經重)「箱根游記」『大筥根山』 丸山舎書籍部 1909、ルビは適宜整理
註32 佐々井信太郎「遊覽案内 六 箱根町外二ケ村組合」日本歷史地理學會編輯『箱根』三省堂書店 1910
註33 「嶽影楼 松坂屋の歴史」嶽影楼松坂屋旅館サイト
註34 箱根温泉旅館協同組合編『箱根温泉史 七湯から十九湯へ』ぎょうせい 1986
註35 「広告」松井鐙三郎纂著『函山誌 一名箱根土産』遠州屋 1894
註36 森田富太郎『箱根温泉案内』森田商店 1894、ルビは整理し、句読点を私に追加した
註37 「広告」松井鐙三郎纂著『函山誌 一名箱根土産』遠州屋 1894
註38 『デルティバ錠 50 mg に関する資料』大塚製薬株式会社
註39 土井教生「新しい抗結核薬開発の現状」『日本化学療法学会雑誌』vol. 50, No. 11 日本化学療法学会 2002年11月
註40 Tomioka H.(冨岡治明)「Current status of some antituberculosis drugs and the development of new antituberculous agents with special reference to their in vitro and in vivo antimicrobial activities.」『Current Pharmaceutical Design』2006年12号 Bentham Science、冨岡治明「第85 回総会教育講演 Ⅲ. 抗結核薬開発の現況と展望 ─新しいdrug target の探索─」『結核』 Vol. 85, No. 11 一般社団法人日本結核学会 2010年11月による
註41 デルティバ®錠50mg大塚薬品開発製造
註42 靈山仙史(井土經重)「箱根游記」『大筥根山』 丸山舎書籍部 1909、ルビは適宜整理し、漢詩は私に訓読した
註43 「奥付」靈山仙史(井土經重)『大筥根山』 丸山舎書籍部 1909
註44 靈山仙史(井土經重)「箱根國園論」『大筥根山』 丸山舎書籍部 1909
註45 佐々井信太郎「遊覽案内 六 箱根町外二ケ村組合」日本歷史地理學會編輯『箱根』三省堂書店 1910
註46 東京人事興信所調査『増補改訂七版四四年度後期 旅館要録』1911
註47 「箱根温泉宿組合規程(明治三十九年一月)」、箱根温泉旅館協同組合編『箱根温泉史 七湯から十九湯へ』ぎょうせい 1986による
註48 「康南海詩集補遺」『康南海先生詩集(下)』蔣貴麟主編『康南海先生遺著彙刊(二十一)』 宏業書局 民國65年(1976)
註49 田中東竹「釈文」成田山書道美術館企画委員会監修『箱根を訪れた文人墨客展』図録 成田山書道美術館 1996
註50 平野和彦「箱根嶽影楼松坂屋蔵康有為詩軸」『山梨県立女子短期大学紀要』第34号 山梨県立女子短期大学 2001年3月
註51 康有為「行書七言絶句二首『再遊箱根山頂芦之湖望富士山』」嶽影楼松坂屋旅館蔵、成田山書道美術館企画委員会監修『箱根を訪れた文人墨客展』図録 成田山書道美術館 1996所収写真図版により読みおこし
註52 現物写真による。Yahoo! オークションで発見、落札したと思ったのだが、既売品の重複出品だったとのことで、出品は取り下げ。残念なことをした。幸いに落札された方にこの釈文と解題をプレゼントする代わりに、写真の掲載をお許しいただければと願う
註53 秋瑾「日本服部夫人屬作日本海軍凱歌」1904、訓読は武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す』筑摩書房 1971再版第8刷、初版は1968による
註54 黄炎培「【十四】」『黄海環遊記』生活書店 1932,初出は『申報』1931年5月2日‐6月10日連載
註55 『富士屋ホテル八十年史』富士屋ホテル株式会社山口堅吉 1958
註56 『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923 関東大震災―第1編―』中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 2006年7月註51 『富士屋ホテル八十年史』富士屋ホテル株式会社山口堅吉 1958
註57 『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923 関東大震災―第1編―』中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 2006年7月
註58 「○本箱根富士見ホテルの□【ゲタ字、慘】狀」日本聯合通信社編『關東大震災寫眞帖』日本聯合通信社出版部 1923
註59 「嶽影楼 松坂屋の歴史」嶽影楼松坂屋旅館サイト
註60 内務省社會局編纂『大正震災志寫眞帖』岩波書店 1926、編纂委員の藤澤衞彦は日本民俗学者である

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